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2016年11月

2016年11月23日 (水)

出雲大社領の成立

 出雲国司と大社造営の検討を踏まえ、再度この点について確認する。すでに指摘したのは、一度は崇徳院領として立券された大社領が平治の乱直後に藤原信頼への連座による藤原光隆の失脚(12月)でリセットされ、光隆が翌年4月に復帰し、8月には従三位=公卿となったことで後白河院領として再度立券されたことであった。
 以上の点について国造側は、忠光が讃岐院宣により社務を押領したことと、これを国造兼忠が上洛して訴えたことにより検非違使奉(法ヵ)博士判官兼重が部下を伴い忠光の身柄を拘束しようとしたところ、神殿に放火して逃げ、その子孫は永く停止すべしとの命令たとする。あくまでも国造側の主張であり、すべてをそのまま信用するわけにはいかないが、坂上兼成(重)が下向してきたのは事実であろう。兼成は法律の専門家の家に生まれたが、保元2年4月に検非違使尉(判官)に補任されている。保元の乱後には明法博士として崇徳上皇側の人々の処分について明法勘文を提出している。判官就任後の平治元年(1159)には平治の乱の最初のクーデターで藤原信頼により逮捕された藤原信西の子成憲の身柄を預かっている。そして応保2年(1162)6月に49才で死亡している。
 以上のことから、保元の乱による崇徳院の失脚ではなく、平治の乱における藤原光隆の解官を契機として、出雲大社領(崇徳の失脚後の本家は不明)が公領に戻され、藤原光隆の復帰を契機に後白河院領として再立券されたとみてよかろう。
 それでは最初の立券の時期であるが、仁平2年に飯石郡飯石社が成勝寺に寄進されており、この前後の時期であった可能性が高い。この時点で光隆は26才になっていたが、まだ公卿ではないため、領家は父清隆であろう。清隆は法安4年には崇徳天皇即位にともない殿上人となり、天治2年には崇徳・後白河院の母である待賢門院別当に就任するなど、待賢門院―崇徳院との関係が深かったが、鳥羽天皇の乳母となった女性を妻にしたことで、鳥羽院との関係も深めていた。翌3年には源義憲の方人である久木新大夫と鰐淵寺唯乗房との間で万田庄相論があり、11月27日には両者の間で伊之谷合戦が行われ、鰐淵山が焼き払われている。同年12月には常陸国で源義憲が平忠盛―宗子(池禅尼)との間に生まれた平忠盛を領家として志田庄が立券されている。池禅尼の実家も待賢門院の近臣であり、池禅尼と忠盛は崇徳上皇の子重仁親王の乳母と乳母夫となっている。
 以上の点から最初の出雲大社領の立券は崇徳院―藤原清隆―内蔵忠光のラインで仁平年間になされた可能性が大きい。一方で、内蔵忠光―資忠父子の名は藤原実光―藤原資憲(崇徳の近臣で揖屋社領家、その子は俊光・基光・親光と光の字を付けている。また後醍醐の側近日野俊基はその子孫。以前の記事で資憲の母が出雲国司高階重仲女子としたが、それは資長のみで、資憲の母は祖父有信の兄弟有定女子であった)父子の名とも対応している。資憲・資長の「資」の字は有信の祖父「資業」にちなむものであろう。また、忠光と資憲とのつながりを考えるヒントは、忠光の子資忠が隠岐国在庁官人で、資憲が隠岐守となったことで関係が生まれたと考えられる。

(訂正)最初の立券は崇徳院ー藤原資憲ー内蔵忠光のラインで仁平年間になされた可能性が大きい。忠光と光隆にとらわれすぎていたため。忠光の光は資憲の父実光から。それがリセットされて後白河ー藤原光隆ー国造兼忠ラインで再立券。

2016年11月20日 (日)

出雲国守護と土屋氏

 山名氏の守護代として大葦氏がいたことは、佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』により認識していたが、古代氏族研究会公認HP「古樹紀之房間」の「垣屋氏の先祖と一族系譜」から、大葦氏が島根郡大葦(大芦)を苗字とする土屋氏一族であることを知ったので、紹介する。
  山名氏が幕府に復帰し、守護京極氏による出雲国支配が安定したが、そうした中、出雲国内の反幕府方国人の中には、塩冶氏・布志名氏・古志氏などのように、山名氏領国へ移動し、守護代や側近として活躍するものがあったが、その中に土屋氏一族大葦氏が加わったことになる。土屋氏は加賀庄地頭であったが、大葦は加賀庄に先行して北野天満宮領北野末社が成立し、文永8年の地頭は土屋氏とは独立した御家人である「香木三郎入道」であった。それが南北朝の動乱の中で、山名氏と結ぶ土屋氏がこれを確保したことになる。そして貞治3年に山名氏が幕府に復帰すると、加賀庄は京極氏の被官(土屋氏一族が分裂していた可能性もある)が支配し、大葦氏は山名氏領国に移ったと思われる。貞治4年10月までは京極氏が出雲国守護であったが、その後、中央政界における斯波高経との対立で、京極氏は摂津国多田庄とともに出雲国守護を没収された。そして翌年8月には興福寺との対立をきっかけに幕府内の反高経派が高経の排除を訴え、高経は失脚して討伐された。それとともに京極氏の支配が復活した。
 応安5年12月に山名時氏の嫡子師義が但馬国守護に新補されると、大葦入道が守護代として下向している(祇園執行日記)。次いで、応安7年2月には師義の被官としての土屋大葦入道が確認できる(洞院公定公記)。師義の死後、その領国丹後は嫡子義幸が継承するが、その守護代として大葦遠江守信貞がみえ、次いで土屋土佐守が遵行を命ぜられているとともに、一族の大葦次郎左衛門尉が国依氏に命じている。至徳3年3月には前遠江守信貞が備後国三津庄領家職を小早川又四郎に打ち渡している。 義幸の病気によりその領国は弟満幸に譲られ、明徳の乱で満幸は没落するが、その後も因幡国守護山名氏冬や但馬国守護山名時煕の守護代として土屋次郎と土屋遠江入道がみえる。ただし、山名氏家臣団の主流派は明徳の乱で没落し、非主流派が生き残ったという。
 出雲国守護は康暦の政変で山名義幸と満幸の支配が復活したが、満幸が明徳の乱で敗北すると、以後は京極氏が支配し、加賀庄は一族の宍道氏が支配した。

2016年11月12日 (土)

平安末期の出雲大社仮殿造営

 出雲国司であった藤原能盛について、3年前に引き続き同じ方からご意見をいただいたので表題のことについて再検討した。能盛とは大学の卒論で弓削島庄を扱った際にその存在と出会ったが、通説では両者は別人とされていた。
 表題に関する確実なことは、養和元年(1181)に藤原朝定が正殿造営のため出雲守に重任しており、これ以前に仮殿造営・遷宮をへて正殿造営が開始されていたことである。問題は仮殿造営と遷宮の時期であるが、弘安4年の国造義孝申状で、過去の遷宮は神主を兼任する国造により行われてきたことを述べ、神主職についてライバルである出雲実政を退けて、自らを神主に補任することを領家に求めている。そこで承安2年(1172)10月に出雲大社本殿が顛倒し、安元元年(1175)10月に国司能盛のもとで国造兼神主である出雲宗孝が仮殿造営にあたったとする。顛倒と仮殿造営の間が3年と長いのが気になるところ。この関連史料が安元2年10月の国司庁宣で、平治の比に宗孝が国造となったが、留守所に触れて私儀をもって一族の兼経に国造職を申し付けたが、おそらくは兼経の死により、宗孝を国造職に復帰させている。
 ただし、この文書は形式と内容にそれぞれ大きな問題があり、建久5年の在庁官人等解とともに後に作成されたものである。国造の地位をめぐっては一族で争いがあった。兼経の祖父宗房が国造職を継承したが一年で死亡し、その子兼家が幼少であったため、宗房の弟兼宗が国造となり、その子兼忠が継承した。当然、惣領宗房の子兼宗側が不満を持ち、庶子兼宗の子兼忠に対して国造職を返すよう迫っていたと思われるが、兼家は国造となることなく、孫の兼経の代にようやく国造となった。その兼経が8年で死亡したため、国造の地位をめぐる対立が発生し、結果として勝利したのが宗孝であった。国司庁宣で述べられた平治の頃に宗孝が神主兼国造に補任されたというのは全くの嘘であった。また、安元2年に国造に復帰したとしながら申状で同元年に宗孝が遷宮を行ったという点も矛盾する。※訂正:兼経は兼忠の孫である可能性が高い。それに対して兼忠女子の婿が宗孝である。
 能盛が出雲守となったのが承安4年正月であるので、4年後の治承2年正月には藤原朝定が出雲守に復帰し、養和元年(1181)に事業が終わらないので重任したことになる。一方、承久2年の「出雲大社遷宮年限注進」によると、仮殿遷宮が行われたのは久安元年(1145)から34年目の承安元年(1171)と記す。ただし34年目なら承安元年ではなく、治承2年(1178)ないしは翌3年である。これに対して北島家譜には承安元年に国造兼経が仮殿遷宮を行ったとする。どれをとるべきかということになるが、朝定が重任していることや、承安元年・2年・安元元年では朝定が重任した治承2年や正殿遷宮が完了した建久元年(1190)と離れすぎていることを勘案すると、正殿遷宮から34年目の治承2年に仮殿遷宮が行われたとするのが正解であろう。後に正殿遷宮が行われなくなると正殿の代わりとなる仮殿(規模が正殿より小さいのでこう呼んだ)の造営にも時間がかかるが、正殿造営のための本来の仮殿は短期間で造営できており、その意味でも治承2年で問題はない。
 以上、質問があったおかげで従来どれが正しいのかわからなかった問題を解くことができた。仮殿遷宮は能盛ではなくその後任の朝定のもとで行われた、と。なぜ義孝が間違えたのかといえば、建久の正殿造営は文治2年に国造孝房に替わって神主となった内蔵資忠によってなされたため、国造側としてはその関係史料を残したくなかった。そして史料が残っていなかったため間違えた。そしてこれまた後に作成した建久5年の解状との関係で、能盛が出雲守の時期にしたのだろう。国造側が建久元年の遷宮の史料を残したくなかったのは、いわゆる「治暦・永久(実際には天永)旧記」の最後の部分をみればわかる。それは唐突に尻切れトンボで終わっている。
 

2016年11月 7日 (月)

山名時久の花押

 花押をみることで、山名右京亮時久と山名遠江守が同一人物であることが分かったことについてはすでに述べた通りであるが、今度は山名満氏・氏利兄弟と比較してみる。似ていないことはないが、やや違いがみられると思ったが、満氏と氏利の父である山名氏清の花押を見たら、山名時久の花押とそっくりではないか。山名時久もまた氏清の子ではないかと推測したが、まさにその通りであった。
 これに対して氏利は父氏清よりも山名氏惣領常煕(時煕)の花押と似ている。山名氏惣領常煕の花押は時氏の嫡子師義の死後山名氏惣領となった父時義のものに似ている。満氏はやや独特であるが、氏利と似ていることは確かである。さらに言えば師義の花押に似ている。
 一方、至徳2年にのみ石見国で発給文書が『萩閥』周布に十数通残っている「大内新介」の花押は、吉川家文書に1点のみ残っている。周布のものは全て写しであり、花押を確認できない。それに対し、「大内新介」に比定されてきた大内弘茂の花押は「大内新介」のものとはかなり違っている。大内氏の中でも独特の形をしている。すでに述べたように、系図の上では弘茂の兄とされる盛見が永和3年(1377)の生まれで、その弟弘茂が康暦元年(1379)年段階で成人となっているはずはないのであるが。
 以上、花押をみることで、山名右京亮時久が山名氏清の子である可能性はかなり高くなったのではないか。『花押かがみ』の刊行が南北朝時代末までにとどまり、花押カードデータベースは鎌倉末で止まっている中、大日本史料第7編人名カードデータベースの役割は貴重である。

2016年11月 5日 (土)

安芸国志芳庄について

 ここのところ論文作成に時間をとられて、ブログの更新をする余裕がなかったが、「根拠なき説」で述べた安芸国志芳庄について確認する。
  志芳庄は現在の東広島市志和町に所在した庄園で、平安末期には後白河の姉上西門院領として成立し、領家は源頼朝とともに上西門院に仕えていた吉田経房であった。その後、領家職は経房の関係者に譲られていくが、庄園として実態は史料が残っておらず不明である。
 獲得の時期は不明であるが、建長年間には伊豆国御家人天野氏が地頭であり、天野政景からその子に分割して譲られ西村と東村に分かれ、正和3年には一方地頭肥後五郎左衛門尉政行と同安芸三郎太郎遠政が東寺領新勅旨田に狼藉を働き訴えられている。
  建武3年には足利尊氏が当庄地頭職を本国寺造営料に寄進し、文和元年には足利義詮が園城寺造営料に寄進している。その一方で地頭天野氏の支配は続いており、正平20年には天野左衛門大夫遠藤が志芳八幡宮に大般若経を施入している。東西いずれの地頭かは不明であるが、遠藤は南朝方であった。
 永德元年7月1日には大内義弘が志芳庄二分を厳島社造営料として寄進している。これも地頭職であったと思われ、天野氏は義弘や幕府とは対立していたのであろう。一方、厳島社神主も造果保をめぐり小早川氏と対立しているが、その背景には大内弘世の協力があったとされている。それが、大内義弘と弟満弘の間の和解が成立した年にそれまで対立する立場にあった義弘から寄進されている。義弘側が厳島社神主との関係改善を図ったものであろう。明徳元年10月には大内義弘が志芳庄東村二分を天野蔵人に元の如く返しているが、応永4年6月の厳島社領目録には志芳庄二分方吉和村がみえ、同年8月6日には幕府御教書により大内義弘寄進状に任せ、志芳庄内二分方が厳島神主に安堵されている。明徳元年から応永4年迄の間に再び天野氏が志芳庄を没収されたのであろう。
 これに続くのが以前採り上げた応永7年正月26日将軍義満御判御教書で、天野一族等跡である志芳庄が伯父円順譲状に任せて、小早川美作入道宗順(春平)に安堵されている。岸田氏が説いたように天野氏が大内義弘方であったため没収されたのではなく、天野氏が応永の乱以前に反幕府・守護方であったため、その跡を円順が与えられ、春平に譲ったのである。その時期が前述の明徳元年から応永4年の間で、一部は厳島社に、一部は小早川氏が得たのであろう。しかし、永享4年8月4日には将軍義教が志芳庄内東村地頭職を天野顕房に安堵し、寛正元年11月18日には天野家氏が東村を幕府から安堵されているように天野氏の支配が続いている。

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