koewokiku(HPへ)

« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »

2016年10月

2016年10月22日 (土)

現況あれこれ

 今日は三次市立図書館に行った。河村昭一氏の『安芸武田氏』の内容を確認するためである。ネット上で確認してもすべて在庫切れ。2010年に新版が発行されたが、出版社が2012年の時点で在庫が残り少ないことを知らせていた。県内の図書館で検索すると、邑南町立図書館に旧版(広島市の公民館が発行)が所蔵されていることがわかった。通学の利便性から瑞穂中学には広島県の小学生が入学してくるとのこと。久しぶりに行こうかとも思ったが、三次なら高速が開通しており、もっと早く行けることに気づいて、図書館の蔵書を検索した。こちらには新版が所蔵されていた。松江-尾道線の三刀屋・木次インター以南は初めて利用した。三次まで70分かかった。市立図書館は中心部から少し離れており、ややわかりにくかった。
 本の内容は旧版に最小限の修正が加えられていたが、『広島県史』に準じたもので、「このような解釈と年代比定にはならないはず」と思わされた点がいくつかみられた。以前、「空想から科学へ」との文章をアップして、その後削除したことを述べたが、再びこの言葉が浮かんでは消えた。研究では自分勝手な解釈や空想は通用しないのだが(失礼ながら「えん罪」と同じで無数の矛盾にぶつかり、気づかされる)、現実は以上のようである。自分の論文の最後には大学時代の石井進氏の「論文は数多く発表されているが、本当の論文は少ない」との言葉を引用するが、本当にそうだ。研究者が互いに先行研究を徹底的に批判して高めていけばよいか、それも全くなされておらず、一言でいえば書き手、読み手とも人材が枯渇している。根本的には無年号文書など、史料の残り方が複雑で、「当てずっぽうの歴史学」で述べたように勝手な思い込みでは真理に接近することすらできず、逆走することもあるのである。
 歴史には直接関係ないが、現在は論文を執筆するにはコンピュータとインターネットが不可欠である。編纂所のデータベースや各所蔵機関の史料のデジタル公開がなければ、とっくにこのブロクもネタ切れとなったであろう。
 現在は広い画面と良いキーボードとのことで、ほとんどデスクトップ=DellのOptiplex9020のi4790版を利用している。新品同様のものを2年前に5万円余で入手(おそらくはリファビッシュと呼ばれる、初期不良で返品されたものを修理したものであろう)した。問題は以前も書いたが、電源が独自で、290Wと余裕がない上に市販のものに交換できない点であった。それがたまたまAmazonで検索したら、汎用の24ピンの電源をDell用の8ピンに変換するアダプター(送料込で490円)があり、中国から送られ時間がかかりそうであったが、ダメ元で注文した。3010(i4590搭載)もあるので、2つ購入して980円であった。到着には予定通り2週間近くかかったが、1つを使って9020の電源を汎用のものと交換した。今のところまったく問題なく、動いている。電源は静音のものを購入するが、値段が安価なためかあたりはずれがあるようだ。今回はすでに持っていた500Wものと交換したが、大変静かである。dellの電源交換についてはネットでも調べたことがあったが、成功例の報告はなく、無理とのことであったが、そうではなかった。現在は補助電源が不要なAMDR7-360Eを使用しているが、これで普通のビデオカードへの交換(今のところ必要性は感じないが)が可能となった。そして交換してわかったが、これまでは一太郎での表示に難があり、三台つないだモニターの一台の表示にも不具合があったが、解消した。電源の余裕がなかったためであろうか。

2016年10月10日 (月)

大内弘世と九州5

 これをうけて翌2年2月には幕府が大内弘世と郷保地頭等の押領停止を守護今川了俊に命じている。これが静謐の具体的内容で、幕府と守護は大内弘世と安芸国衙領を押領する国人を排除することを決め、九州にいる今川了俊は安芸国静謐の大将として関口の派遣を決定した。
 当然そうした情報は弘世方にも伝わったはずで、弘世側も軍勢を集めてこれに対抗しようとした。その際に高齢の弘世に替わってその中心となったのが義弘の弟満弘であり、安芸国大将讃井氏であった。当然、両派の最初の衝突は安芸国内が予想されたが、それに先立ち、5月10日には満弘派が長門国栄山城を奪取し、守護である義弘派の家臣を殺害した。これに対して5月28日に安芸国内郡で行われた合戦では、満弘派の家臣多数が殺害された。藤井崇氏はいわゆる「康暦の内戦」の直前まで、大内義弘が側近である陶山弘高や石見国守護代美作守が満弘方として離脱することを察知できなかったとしたが、両派の対立は康暦元年7月頃の大内義弘の石見国守護補任以来強まっており、成り立たない考え方である。なお、藤井氏は『花営三代記』では「石見国守護代内美作守」と記される人物は「同=鷲頭美作守」の誤記であるとされたが、松岡久人氏の論文集の中で、岸田裕之氏が注記で指摘した点を踏まえたものであった。その当否は不明だが、とりあえずの問題は美作守と美作権守が別人であるということである。
 以上、康暦内戦開始時までみてきたが、東寺は周防国美和庄兼行方と安芸国衙領問題で幕府に要求を繰り返し、九州平定には大内弘世の軍事力が必要不可欠なこともあって弘世や安芸国郷保地頭などによる押領問題には手を付けなかった幕府側も、これを放置しては置けないと思い、先ずは弘世の嫡子義弘を幕府方に取り込み、次いで義弘とともに弘世・満弘を鎮圧しようとした。この問題を生んだ九州平定は、南朝に優位に立つところまではいったが、九州の有力守護をまとめるにはなお多くの時間が要した。

大内弘世と九州4

 一方、弘世の花押に注目すると2つのタイプに分かれる。応安3年(1370)11月22日まで確認できるのがAタイプであるのに対して、永和3年(1377)6月21日以降に確認できるのはBタイプで、かなり感じが異なっている。この間の花押は史料がなくどの時点で変更したのかは不明だが、変化する契機としては永和2年4月の石見国守護解任の可能性が高い。
 永和4年6月1日には宝菩提院律師清俊なる人物が安芸国衙所務職について請文を提出しており、これも国衙領支配の復活への期待を示すものである。東寺は同年10月には周防国美和庄兼行方の東寺への返し付けを大内弘世に求め、翌永和5年3月には今川了俊が弘世に安芸国吏務職を東寺に沙汰付け、請取を進めるよう命じている。
 こうして康暦政変の年を迎えた(永和5=康暦元年)。4月に幕府ではそれまで幕政を主導してきた管領細川頼之が失脚し、頼之派守護が多数更迭された。石見国でも7月までに荒川詮頼が更迭されたが、その後任は弘世ではなく、嫡子義弘であった。まもなく防長両国守護も弘世から義弘に交替させたと思われる。義弘が石見国守護になっても荒川氏の時代と同様、弘世に近かった旧反幕府派の国人は抑圧され、その所領が幕府派の国人に預けられたり、与えられたりした。そのため、弘世に近い国人と幕府・守護方の国人の間の対立が安芸国と石見国では高まっていった。
 そこでまたもや東寺雑掌が提案を行う。康暦元年6月には大内氏のお膝元である周防国美和庄兼行方は応安2年以降、守護大内弘世が兵粮料所と号して家人に預置いていると名指して批判した上でその沙汰付けを求め、12月には安芸国衙領の沙汰付けを求めた。東寺雑掌は、永和5年3月に命令を受けた弘世が、安芸国衙領の自分拝領分(地頭職であろう)は御方の軍勢に預置いているので、東寺雑掌への当該所領の沙汰付けはできないと返答した請文を批判し、もはや静謐しかないと述べている。

大内弘世と九州3

 九州に在陣中の毛利元春は所領問題で父宝乗と対立していたが、応安7年7月以降は弘世が宝乗を支援し、元春方は劣勢に追い込まれていた。そうした中、永和2年4月には幕府が大内弘世を石見国守護から解任した。松岡久人氏以来、弘世が解任されたのは南朝への内通を疑われたからとの説が通説となっているが、南朝への内通を考えていたのは毛利宝乗であり、領国における所領支配の問題を解決するためである。弘世は周防国では九州出兵を理由に国人による所領の押領を黙認し、観応の擾乱以来の安芸国人による所領の押領停止に対しても消極的であった。家臣としての組織化を優先したためである。
 貞治5年以降発向した石見国と安芸国でも同様のことが考えられるが、石見国では幕府派と反幕府派の対立が激しく、とりわけ大内弘世の幕府復帰までは反幕府方が優位に立っていた。安芸国では東西条を与えられたことがよく知られている。弘世の解任と荒川詮頼の石見国守護復帰は旧反幕府方国人が自らの支配のよりどころとした梯子を外した形となったが、個々の所領の状況(旧幕府派と旧反幕府派の国人のどちらが支配するか)は様々で、且つ弘世は国人による押領を黙認していたと思われる。
 弘世の石見国守護解任には以上のような背景があり、且つ防長と比べれば基盤が弱い石見国の守護職を弘世から奪ったと思われる。石見国から弘世の影響力を排除するため、幕府は新守護荒川詮頼に先行して高房を派遣し、その指揮を執らせた。周布氏は石見国人で九州渡海が確認できる数少ない御家人であるが、その背景には三隅氏庶子井村氏との間で周布郷と小石見郷の堺をめぐる対立があり、それを有利にしようとした。その過程では応安6年に嫡子氏連を合戦で失っていたが、弘世のもとでは井村氏の主張が認められた。そのため、周布兼氏は父と仲違いをする形で九州に渡った義弘に接近することになる。それは安芸国と石見国の両方に所領を持った石見吉川氏の経見も同様であった。永和2年9月に渡海した経見はその後の軍功について州探題今河氏から承判を得たが、それをさらには大内義弘からも承判を得ている。経見の父経兼の妻の一人は周布兼氏の娘であった。
永和2年5月にも東寺雑掌が安芸国衙領について重申状を提出しているが、そこには「郷保地頭等」と「先守護被官人」が国衙領押領の主体であると述べられている。先守護とは武田氏であり、その被官が押領の中心であったが、諸郷保地頭等を含めた押領者の中には大内弘世の家臣も含まれていた可能性が高い。

大内弘世と九州2

 東寺雑掌による東寺領安芸国衙領に関する同様の訴えは、永和2年5月に出されているが、それが初めてではなく、応安元年6月に半済令が出された直後の9月に出されていた。幕府は11月7日には守護ではない大内介入道に実行を命じた。それは押領者の中に守護人武田氏が含まれていたからであった。翌2年6月には無沙汰なのはなぜかとして、弘世に再度の実行命令が出されているが、やはり行われなかったようで、応安3年11月には近隣の有力国人2名=両使(厳島下野四郎と阿曽沼下野次郎)に命じている。周防国と同様、大内氏の家臣も押領に関わっていたものがあったからだろうが、両使による命令の実行は不可能であった。この間、応安2年8月には幸夜叉丸という童名を使う人物が東寺修造料足安芸国国衙所務職を請け負うっており、東寺側にも国衙領支配が改善するとの期待があったことがうかがわれるが、実際には有名無実であった。
 そうした中、安芸国守護は応安4年には備後国守護と九州探題を兼ねる今川了俊が就任した。周防国で大内氏が家臣による所領押領を幕府は黙認すべきとしたのは九州平定があったからであった。了俊や弘世に従う形で応安4年12月には安芸国人毛利元春と石見国人周布因幡入道兼氏が渡海して九州に渡った。翌5年8月12日には今川了俊率いる幕府軍は九州の政治的中心である大宰府を陥落させたが、その直後に大内弘世は関係者とともに帰国してしまい、以後、幕府軍は反幕府方の前に苦戦を強いられることになる。
 これに対して幕府と了俊は弘世とその関係者に不信感を抱くとともに、逆に九州にとどまり軍忠を積む国人を優遇することとなる。応安6年2月には今川了俊が熊谷氏に三入庄内庶子跡と勾村地頭職(金子孫太郎入道跡)・武田九郎跡を預置き、9月には熊谷氏の九州での忠節に対して感状を与えるとともに、安芸国内の可部庄城を退治すれば可部庄の内・名原両村を兵粮料所として預け置くことを約束している。「可部庄城」とは大内弘世に与同する安芸国人を示すと思われる。
 このような安芸国守護と大内弘世の対立を見た東寺は、同年9月には幕府に安芸国衙領の押領停止の命令を守護今川了俊に出すことを求め、幕府も10月24日に幕府御教書と引付頭人奉書で了俊に命じて弘世方の行動に歯止めをかけた。その一方で幕府は永和元年末には大内氏に再度の九州渡海を命じたが、弘世と仲違いする形で嫡子義弘が300余人の一族と家臣を率いて渡海した。

大内弘世と九州1

 大内弘世が幕府に復帰した貞治2年の翌年、東寺雑掌が周防国美和庄兼行方について、兵粮料所と号して押妨されていることを幕府に訴え、幕府は貞治3年(1364)7月4日に大内介弘世に下地を寺家雑掌に沙汰付けて請取状を進めるよう命じている。押妨の主体は不明だが、沙汰付けに従わない場合は当事者の起請文とともに注進することとした。しかし事は行われず、12月4日には2度目の命令が出された。それに対して押妨の主体は弘世の守護代で、九州の静謐が行われている間は所領問題で将軍が介入しないとの約束があり、訴訟そのものを閣し置くべきだとの回答があり、東寺は別の形で料足を幕府が渡すことを求めた。
 弘世が幕府に復帰した際に、幕府による九州平定に協力するみかえりとして、その間は防長国内の所領を自由にすることを認められたのだろう。これに対して東寺側は康暦元年6月には九州平定が一段落したとの判断からか、応安2年以来は弘世による押領の状態にあるとして、貞治3年の命令を実行を幕府に求めている。兼行方からの弘世の排除を主張している。
 弘世の時期の九州関係史料はあまり残っていないが、反幕府派であった観応3年(1352)8月7日には弘世が「又三郎」に対して豊前国到津庄内郡領分宗助名内田地2町を与えている。復帰後の貞治3年(1364)3月の門司下総左近将監親尚軍忠状によると、貞治元年に豊前国規矩郡に南朝の菊池氏が城郭を構えて楯籠もったため、これを攻め落とそうとした時に南朝方の大内氏が後巻をしたため退却を余儀なくさせられている。それが貞治2年12月には大内弘世が豊前国凶徒退治の命令を受けて、小野氏などの家臣を率いて豊前国柳城を攻撃したことがわかる。その後赤坂に陣して猿喰城を貞治3年2月2日までに攻め落としたが、同日に弘世が帰国してしまうと幕府方は苦戦に陥ったことが、貞治4年4月の門司下総左近将監親尚軍忠状からわかる。豊前国のうち周防の対岸にあたる地域に弘世は何度となく家臣を率いて出兵しており、その見返りとして家臣による国内の所領支配が黙認されていた。

2016年10月 9日 (日)

尼子氏の宍道氏乗っ取り2

 秀慶の兄とされる禅僧景杲は永享3年(1431)ないし5年の生まれとされ、長禄2年(1458)以降、中央での活躍が確認できる。これに対して秀慶は文明13年(1481)に「兵部少輔」に任官したことが確認でき、この当時30才程度と、景杲や宍道九郎清益よりかなり年少であった。慶高には嫡子「弥九郎」がいたが、これが早世したことにより、晩年の子「八郎」が継承して「兵部少輔秀慶」となったのだろう。
 秀慶は文明17年まで確認できるが、偶然、文明17年6月28日伊勢貞宗書状(蜷川家文書三四六)に、九代将軍で子である足利義尚と対立し、この年には出家した足利義政(東山殿)の走衆に「宍道兵部少輔」がいることを確認した。全く無関係な「東西条」(安芸国で大内氏がその支配の拠点とした場所)で検索していて偶然遭遇した史料であった。長享2年の足利義尚の江州御動座当時在陣衆着到に佐々木延福氏や塩冶氏はみえても、宍道氏惣領秀慶がみえなかったのはそのためであろう。
 明応5年(1496)には出雲国の御料所朝山郷をめぐり、前代官塩冶氏が国造家や古志氏と結んで新代官飯尾氏に抵抗する動きがあり、その排除が命じられた一人に「佐々木宍道兵部少輔」がみえる。秀慶とすれば50才前となるが、その後継者である可能性もある。ただし宍道氏系図では後継者は「兵部少輔某」とのみ記す。永正13年(1517)の「宍道兵部少輔」も秀慶の子ないしは孫であろう。この時期、京極氏の守護代であった尼子経久はその地位を追放され、隠然たる実力は有していたが、幕府からは非公認の存在であった。そうした中、在京することが多い宍道氏惣領が在国していたのであろうか。
 明応8年には守護京極政経が出雲国に在国しており、翌9年には尼子経久が復権したことが確認できる。そして永正2年には朝山郷の押領を行っていた塩冶氏に対して、国人を動員して攻撃が行われ、塩冶氏は屈服されられることになる。尼子経久はそれ以前に宍道氏庶子に娘を嫁がせており、宍道氏も塩冶氏攻撃に参加したと思われる。永正十三年までは在京する「宍道兵部少輔」の存在が確認できるが、その後に宍道氏惣領となるのは高慶の庶子慶景の子孫で、慶景の孫慶勝が永正15年には出雲郡下庄原(宍道郷の西にあり)の佐支多神社の造営を行っている。その子久慶が尼子経久女子と結婚し、その間に生まれた経慶が経久次男尼子国久女子と結婚し、生まれたのが、一旦、出雲国から追放されるが、毛利氏のもとで宍道氏当主の座に返り咲く隆慶である。

尼子氏の宍道氏乗っ取り1

宍道氏についてはこのブログでも「宍道氏再々論」まで何度も採り上げたが、その後、2016年3月刊行の松江市史の中でまとめた。ただし、その後、ブログでも触れた新たな史料を確認したので、尼子氏が宍道氏を乗っ取る16世紀初頭までを整理してみる。
 宍道氏は京極高詮の子秀益が早くから出雲国に入部して「宍道」を苗字とするとともに、京極氏の一門として中央政界との関係も有していた。出雲尼子氏が京極氏一門尼子氏の庶子であったのは対照的であった。
 正長2年(1429)に将軍足利義教の参内始の際の御太刀帯御番について、京極氏一門の黒田氏と順番の先後が問題となっている「兵部少輔」が秀益の子高益であろう。ところが高益は翌永享2年には死亡した可能性が高い。同年の三月会の頭役負担に関して「加賀庄内宍道殿さた」と「延福寺内遠江守さた」とあるのが、惣領宍道高益と庶子遠江守高慶であろう。ところが同年の足利義教大将拝賀式には「佐々木遠江守高慶」しかみえず、これ以降は高慶の系統が宍道氏惣領を継承していく。
 文安年中(1444~49)結番帳には「佐々木宍道」としかみえないが、康正2年(1456)の足利義政大将拝賀式には帯刀として「佐々木宍道兵部少輔」とみえ、高慶の子慶高である可能性が高い。
 応仁の乱の初期にあたる応仁2年には京極持清が宍道九郎に出雲国の成敗をゆだねるのではないかとの風聞が流れた。宍道九郎とは宍道氏惣領秀慶の兄弟九郎清益で、持清の猶子になっていた人物であった。文明5年に朝山郷牛蔵寺領が返還された際に寺家雑掌に沙汰付けよと命じられた中に「宍道八郎」がみえるが、秀慶であろう。

OSのアップグレード

 マックOSに続いてウィンドウズも10以降は無償でアップグレードとなり、便利ではあるが、頻繁に行われると要する時間などのへの対応が負担となる。対応する機種やソフトの問題などがあり、しばらくは様子を見た方がよいが、面倒だとしてついつい一気にしてしまいがち。
 マックの方は2台のみなのでよいが、対応機種のみならずブートキャンプとの関係もある。MacBook Air2013とPro2011early版で前者は問題はないが、後者はブートキャンプの最新版には対応していない。とりあえず2台ともその前のCapitanを飛ばして(この頃もウィンドウズばかり使用していた)Sirraに更新。メールの設定方法はまだ確認していない有様である。
 10の2回目のメジャーアップグレードをすでに何台も行っているが、機種によってはアップグレード後起動するとすぐにエラーが起こり、一旦元に戻して再度やった。継続的に使っている機種は問題がないが、最近使っていなかった機種をマイクロソフトから更新ファイルをダウンロードして一気にアップグレードしたケースで2台問題が発生した一台(2012年のもの)についてはすでに述べたが、もう一台(2008年のもの)はインストールが終了せず。PC上で設定からアップグレードを順々に行った場合は問題がなかった。
 2009年の機種でもハイブリッドHDDにすればよく(通常HDDでは8.1まではよかったが10にしたら急に動きが重たくなった)、2006(FMVH8230、こちらは10にはしていない)年のものでもSDDにすれば、起動も速いし普通の作業は快適にできる。そうでなければ廃棄していたはずの機種が生き残っている。現在入力しているのもFMV H8260である。液晶を含めコンディションは良かったが、不注意から落下させたところ、液晶の表示がおかしくなったので、液晶を取り外し、外部ディスプレイで使用している。キータッチはやや柔らかくストロークが深いがなかなか良い。これも最近はロジクールの無線キーボードK810に慣れたので、柔らかく感じるようになった。

2016年10月 1日 (土)

安芸国人一揆成立後の状況4

 6月24日には常煕が、昨年問題となった三吉氏の振舞(これが年次比定の根拠となる)についてはとんでもないが、野心や別心がないとして三吉氏から詫状が提出されたことにより処罰しなかった。ところが三吉が現在でも問題行動(籠城と所領押領)をしており、その処罰などについて光房の意見を求めている。
 最後の関連史料となるのが、応永17年に比定できる2通の常煕書状である(光房宛)。8月12日には、最近連絡がなく不安に思っていたが、連絡を受け、安芸国も平和であると聞いて悦んでいることを伝えている。去年申し定めた旨趣はこのことであるとしている。旨趣については応永13年に定めたものである可能性もあるが、応永14年の他の史料の状況と異なっており、応永16年4月に金子氏問題で再確認した旨趣であろう。光房から弓10張が送られたことに感謝するとともに、光房の今後の役割が大切であるとして、常煕からは太刀一振と籠手一具を送っている。これに対する返書の中で、光房側から「具足の下地」として馬を所望したのであろう。9月28日書状では、常煕が将軍から拝領した馬を送っている。
  以上、関係史料、とりわけ山名常煕書状の年次比定に基づき述べてきた。岸田氏や飯分氏が述べられたように、応永13年の和解で対立が解消したわけではなく、少なくとも、応永16年の金子氏の事例までは対立が続いていたことがわかる。応永14年の2通の武田信之預状も、守護と武田氏惣領信在の関係が悪化していたことを示すものである。そして、応永19年12月19日武田信守が吉川経見に大朝本新庄と平田庄志知原・石中原を安堵している事で、一揆問題が一応の解決を見たことが確認できる。武田氏も惣領信在に代わってその子ないしは弟である信守が武田氏当主としての地位を認められている。こうした点からみても一揆が決着する過程では守護・幕府方がより譲歩を迫られ、応永11年6月の御教書で示した方針は徹底できなかった。その点では岸田氏の説を再検討された飯分氏の結論と共通する。飯分氏はこの一揆の結果、山名氏による安芸国支配の深化は実現しなかったとされ、近年、安芸国の研究者が岸田氏の見解を継承してその後の守護支配を述べている論を批判されたが、それにも同意する。ただし、守護山名氏による国人領押領が一揆の原因ではなく、14世紀半ば以来の国人による安芸国衙領の押領を今度こそ幕府が解決しようとしたしたことが一揆の原因であった。そしてその方針は阻止された。

安芸国人一揆成立後の状況3

 応永14年1月20日と2月27日に、武田氏に比定される信之なる人物が安南郡矢賀村と可部西庄之内品河跡を熊谷(在直ヵ)に預け置いている。応永14年に比定できる5月3日常煕書状は光房から4月19日に連絡があったことへの返事である。常煕は佐々井・二山城・熊谷が御方へ参ったことを目出度いとし、守護が光房の毎度の粉骨を喜んでいることを伝えている。ところが平賀入道からは近頃連絡がなくその是非は不明だとしている。その上に、武田の振舞は悪く将軍に報告され厳しい沙汰が下るであろうと述べている。岸田氏はなぜ信之が預けるのかについて疑問を持たれないが、惣領信在(岸田氏はすでに信守が継承していると理解されているが誤りである)との関係が良くないからこそ、守護方となっている一族の信之が預けたのである。
 これに続くのが岸田氏が応永11年に比定された9月11日の常煕から毛利広世に宛てた書状である。この比定に根拠がないことはすでに述べたとおりである。ここでは武田氏のみならず平賀入道の振舞にも問題があり、すぐにも対処すべきだが、将軍に伺ったところ、使者を下され、なおも難渋するなら退治すべしとの命令が出たことを、目出度いと伝えるとともに詳細は大田垣通泰が申すとしている。通泰は応永13年6月26日と7月晦日の2回にわたって常煕の書状をサポートする形で平賀・毛利両氏に書状を送っていた。
  そして9月26日付けの書状でも常煕が広世に、今回の決定は是非なき事としながら喜び、目出度いと伝えている(福原家文書)。これに関連するのが、岸田氏が9月11日書状とともに引用された某書状(常煕から光房宛ヵ)である。そこでは「彼嗷訴之仁」についてはすでに治罰の御教書が下されたとして、静謐が実現するよう、これまでと同様の忠節を求めている(毛利家文書)。岸田氏は応永11年に治罰の御教書が出されたとするが誤りである。
 翌応永15年の時点でも毛利光房は常煕と連絡を取りつつ、守護方国人の要望も伝えていた。4月9日の常煕書状(光房宛)では備後国三吉氏の事とともに毛利氏一族の麻原氏と広世の事が話題となっており、常煕は現在行事続き(天皇の行幸や伊勢参宮)で返事も遅れ気味であるが、対応することを述べ、今回も大田垣も書状を送っている。
 ところが5月6日には足利義満が急死し、幕府や常煕は葬儀に忙殺される事になるが、その直前の5月1日頃に安芸国で合戦があり、その報告を受けた常煕が5月18日に毛利光房に返事を出している。尚々書の部分では先日の合戦が守護方にとって理であったことは目出度く、葬儀が一段落した時点で御教書の沙汰をし、無沙汰にはしないと述べている。
 これに続くのが翌応永16年に比定できる4月25日の常煕書状で、国人一揆に参加していた金子が心変わりしたのに対して早々これを退治したことは返々目出度いとしている。ただし、金子の情報は光房以外の人物(守護時久であろう)から常煕に伝えられ、そこには光房が金子氏退治に参陣しなかったことが記されていた。常煕は事実であるかを確認するとともに、あってはならないことで、以前に光房が約束した旨趣とも相違し、将軍の覚えも悪くなると警告するとともに、今後毎事等閑がなければ悦ぶことを伝えている。

安芸国人一揆成立後の状況2

 そして、平賀氏方が5名の戦死者を出していることからすると、攻撃した側にも相当程度の戦死者があったはずである。その一人が石見国守護氏利であった。この事態を受けて幕府が行った処置についてはすでに述べたとおりで、石見国邇摩郡分郡守護山名右京亮時久を石見国から発向させ、その補佐役である守護代も中央から下向させた。そして石見国と備後国の国人に対して軍勢催促を行ったのである。山名時氏は安芸国人にも軍勢催促を行っており、その事について触れたのが3月2日時久書状であった。この前まで熊谷在直は催促に応じていなかったことになる。在直の父直会は国人一揆に参加していた。
 ただし、安芸国と石見国の状況は流動的で、2月末の石見国では桜井宗直が邇摩郡を押領している状況であり、安芸国では守護方であった大朝本庄惣領吉川弾正少弼がその弟により討ち取られる事件が発生している。また、前年12月の合戦で双方に多大な被害が出たことで、合戦を回避する動きも出てきた。3月15日の満氏書状の最後には武田治部少輔(信在)が歎き申したことが記され、満氏も幕府とともに対処の検討を迫られている。硬軟両用の対応が必要であった。そのためにも、山名氏惣領常煕の関与が必要であった。
 一揆側では武田氏(惣領信在は契状には署判していないが、反幕府方であったことは確実)に続いて中心メンバーであった毛利光房と平賀妙賀が常煕との交渉の窓口となった。両者がそれぞれ譲歩して、合戦が回避された。一揆側は主たるメンバーば幕府に罰文を出し、幕府は守護を満氏から時久に交替させるとともに、石見国・備後国人の動員を中止するというものであった。時久の系図上の位置については確定できないが、以前には応永25・26年時の安芸国守護とされていた「教孝」と同一人物である可能性がある。そうすると、満氏・氏利の弟ということになり、石見国が氏利と時久の間で分割された事の理解も容易になる。
 そして応永13年閏6月26日の朝に満氏から時久への守護交替も決まり、7月20日に実行された。一揆勢も7名の罰文提出で守護に対する矛を収めたはずであった。ところが、これ以降、一揆の中心であった毛利光房・平賀妙章・武田信在の対応は分かれていく。そうした中で応永15年5月1日頃に再び守護方と反守護方の間で合戦が行われている。

安芸国人一揆成立後の状況1

 すでに述べたように、応永11年9月23日に安芸国人一揆が結ばれるまでの状況については飯分氏の研究で明らかになったが、その後の状況については飯分氏も岸田氏の説に従っており、無年号文書の年次比定が大きな課題として残っている。この問題について、ようやく一つの成案を得たので以下に述べたい。見逃している大切な点があるかもしれないが、まずまずのものとなったと考える。
 一揆結成直後の10月2日に守護代小林が吉川経見に寺原参河守が押領している山県郡内宮庄福光名を安堵しているのはまさに一揆対策であろう。経見も8月27日の合戦では守護代小林方であった。それは11月9日幕府御教書で経見が守護代の手に属していることを賞せられていることからわかる。ただし、毛利広世が9月11日付で賞せられた時点の2ヶ月後であることの理由は不明である。経見が賞せられたのは8月27日以後の忠節である可能性も残されている。
 次の課題は、平賀氏系図にみえた守護方による平賀氏攻撃の時期である。飯分氏の指摘したように年次こそ誤っていたが、その事実があったのは確実であり、且つ山名満氏が3年で引き上げたとの系図の記述も事実と適合する。ということで、応永11年か12年のいずれかの12月11日に守護方が平賀氏を攻撃したことになる。それは関係史料をみれば応永12年12月11日に特定できる。
 平賀氏系図を確認すると平賀氏で戦死したのは3名ではなく5名である。前回妙章の子が4名確認できるとしたが、その外に妙章の従兄弟の頼泰もこの合戦で討死したことが記されている。その根拠の一つは応永12年12月11日に山名満氏が前年10月に守護代が行った吉川経見への仮の安堵に対して正式な安堵を行っていることである。合戦に参加していた満氏は経見の功に応える形でこの安堵を行ったのであろう(正式には幕府の安堵が必要)。
 応永13年3月時点で満氏が安芸国に入部していたことについては岸田氏の指摘があるが、12月11日の合戦の時点で満氏はすでに安芸国に入っていた。それは応永12年11月24日に幕府が益田兼家が石見国守護代入沢四郎の手に属して芸州に発向したことを賞せられていることと(益田家文書)、応永13年正月28日に石見国守護山名氏利が合力の為安芸国に差し下され、不慮の死を遂げたことを述べた山名常煕書状からわかる(萩閥周布)。幕府は一揆を抑える最初の一手として満氏の兄弟である石見国守護氏利を安芸国に動員し、それには守護代と石見国最大の勢力を持つ益田兼家も従っていたのである。そうした中行われた平賀氏攻撃に安芸国守護満氏が立ち会わなかったはずはないであろう。

「山名時久について」の補足

 年未詳正月28日山名常煕書状についての岸田氏の解釈に触れたが、『広島県史』を併せて読むと岸田氏説の理解が十分ではないところがあったので、再度触れる。
 「右京亮発向候」の部分について論文でも岸田氏は「煕重が石見国から出陣している」と述べられている。実際は煕重ではなく時久であったが、石見国から出陣したという点は正しい。問題は「守護代入沢八郎左衛門入道同下向候」の部分で、「下向」ではなく「発向」なら問題ないが「下向」とあるので、こちらは石見国ではなく、都からと解釈した。一方、岸田氏の解釈は、最初石見国から守護山名氏利が安芸国へ発向していたが、死亡したので、これに代わって山名煕重と氏利の守護代入沢八郎左衛門入道が派遣されたというものである。この常煕書状が応永12年正月で、同年11月には守護代入沢四郎と益田兼家が出兵していると述べられている。
 ということで「2」の原稿で入沢四郎=八郎左衛門入道というのが岸田氏の解釈だとしたのは誤解であった。ただし、問題の常煕書状は応永13年のもので、益田兼家はその前年の11月24日に山名氏利とその守護代入沢四郎とともに安芸国に発向したことを幕府から賞されているのである。となると、入沢八郎左衛門入道は氏利の守護代ではない。邇摩郡分郡守護であった時久の守護代で、この当時何らかの理由で都にいたため、氏利の死という緊急事態に対応するため、都から安芸国へ「下向」して、時久に合流したのではないか。石見国から安芸国へ「下向」したとは使われない表現としか思えないが、どうであろうか。いずれにしても入沢四郎が氏利の守護代で、八郎左衛門入道は時久の守護代というのが正しい。

« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ