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2016年9月25日 (日)

安芸国人一揆後の安芸国守護2

 2月5日常煕書状では、安芸国に合力のため備後と石見の軍勢に出陣を命じる時だとして、伊達入道にその後の状況を注進するよう命じている。そして2月28日には安芸国へ出陣した山名時久が、周布兼宗に対して、由緒に基づき安堵の申請があった井尻村は、現在邇摩郡が桜井庄地頭桜井次郎宗直による押領状態が続いているため、当座の替地として福光上村を預けることを伝えている。さらに、3月2日には時久が安芸国人熊谷四郎入道在直に対して、安芸国の援護が備後国と石見国の軍勢に命じられたことは目出度いとして、熊谷氏も出陣に奔走すべき時期であるが。伊達の注進によるとしっかり奔走しており喜んでいると伝えている。この書状の時久には「山名右京」との押紙が貼られているのである。そして閏6月には安芸国を右京亮に仰せ付け、民部少輔満氏は召し上げるとの方針が決定され、7月20日には右京亮が守護に補任され、守護代が7月晦日に下向した。
 新守護右京亮の在職を示す文書は3通の将軍家御教書ですべて「山名右京亮」宛である。そして、応永25年と26年には山名遠江守が安芸国守護であったことが確認できる。この人物は以前は「教孝」とされていたが、『大日本古文書』7編の34では「時久」と訂正された。確かに応永13年3月2日山名時久書状と応永26年2月21日安芸国守護遠江守遵行状の花押は同一人物のものといってよい(大日本史料7年人名カードデータベースで確認できる)。
 以上をまとめると、応永13年7月に山名満氏に代わって安芸国守護に補任されたのは石見国邇摩郡分郡守護であった山名右京亮時久であった。時久はその後、遠江守に任官し、応永26年9月26日まで安芸国守護であったことが確認できる。次いで山名氏惣領常煕が安芸国守護であることが確認されるように、山名氏の支配が続いた。
 なぜ、このような作業がこれまでなされなかったのか、不思議でしょうがないが、‥‥あきれはれてて疲れた。安芸国人一揆を再検討した飯分氏もなぜか、3月2日時久書状を、応永26年の遠江守と結び付けて、その時期に比定している(島根県中世史料集成:熊谷家文書)。国人一揆関係史料をみていれば、容易に気づくことであるのに。ちなみに飯分氏の論文でも満氏の後任については、山名氏とのみ記している。
 氏利・時久の両守護に代えて応永13年に石見国守護となったのは、あの大内弘世の前に短期間石見国守護となった経験のあった山名義理(道弘)であった。建武4年(1337)の生まれとされるので、70才のベテランである。その跡を継承したのは孫とされる山名教清(常勝)であった。確実なのは応永17年(1410)だが、益田家文書の編者久留島氏が応永15年頃かとする5月18日沙弥色貞書状があり、そこには大夫殿(教清)がみえる。道弘の発給文書が確認できるのは応永14年12月のものであるためであろう。そうすると問題となるのが、応永15年8月28日石見国守護沙弥某書下(豊田右馬助入道宛)である。近刊の中世益田市・益田氏関係史料では花押影から道弘のものとしているが、確認は十分なのであろうか。というのはこれを最初に紹介した国守氏の論文では比定がされていないのである。応永17年8月4日には守護は常勝に交替したことが確認できるが、前述の色貞書状の段階では大夫(教清)と出家前であった。豊田氏側が豊田郷と貞松名の安堵を支証とともに提出していることからすると、この時点では新守護教清(常勝)に交替している可能性が高いと思う。両者の花押は一目でわかるほど違っている。一方義理から教清の交替に際しては守護代入沢慶明は代わっていない。
付記:内田家文書の花押影につき、史料集の編者(中司氏)から写真を提供いただいた結果、花押影は道弘のものであることが確認できた。

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