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2016年9月

2016年9月25日 (日)

安芸国人一揆後の安芸国守護2

 2月5日常煕書状では、安芸国に合力のため備後と石見の軍勢に出陣を命じる時だとして、伊達入道にその後の状況を注進するよう命じている。そして2月28日には安芸国へ出陣した山名時久が、周布兼宗に対して、由緒に基づき安堵の申請があった井尻村は、現在邇摩郡が桜井庄地頭桜井次郎宗直による押領状態が続いているため、当座の替地として福光上村を預けることを伝えている。さらに、3月2日には時久が安芸国人熊谷四郎入道在直に対して、安芸国の援護が備後国と石見国の軍勢に命じられたことは目出度いとして、熊谷氏も出陣に奔走すべき時期であるが。伊達の注進によるとしっかり奔走しており喜んでいると伝えている。この書状の時久には「山名右京」との押紙が貼られているのである。そして閏6月には安芸国を右京亮に仰せ付け、民部少輔満氏は召し上げるとの方針が決定され、7月20日には右京亮が守護に補任され、守護代が7月晦日に下向した。
 新守護右京亮の在職を示す文書は3通の将軍家御教書ですべて「山名右京亮」宛である。そして、応永25年と26年には山名遠江守が安芸国守護であったことが確認できる。この人物は以前は「教孝」とされていたが、『大日本古文書』7編の34では「時久」と訂正された。確かに応永13年3月2日山名時久書状と応永26年2月21日安芸国守護遠江守遵行状の花押は同一人物のものといってよい(大日本史料7年人名カードデータベースで確認できる)。
 以上をまとめると、応永13年7月に山名満氏に代わって安芸国守護に補任されたのは石見国邇摩郡分郡守護であった山名右京亮時久であった。時久はその後、遠江守に任官し、応永26年9月26日まで安芸国守護であったことが確認できる。次いで山名氏惣領常煕が安芸国守護であることが確認されるように、山名氏の支配が続いた。
 なぜ、このような作業がこれまでなされなかったのか、不思議でしょうがないが、‥‥あきれはれてて疲れた。安芸国人一揆を再検討した飯分氏もなぜか、3月2日時久書状を、応永26年の遠江守と結び付けて、その時期に比定している(島根県中世史料集成:熊谷家文書)。国人一揆関係史料をみていれば、容易に気づくことであるのに。ちなみに飯分氏の論文でも満氏の後任については、山名氏とのみ記している。
 氏利・時久の両守護に代えて応永13年に石見国守護となったのは、あの大内弘世の前に短期間石見国守護となった経験のあった山名義理(道弘)であった。建武4年(1337)の生まれとされるので、70才のベテランである。その跡を継承したのは孫とされる山名教清(常勝)であった。確実なのは応永17年(1410)だが、益田家文書の編者久留島氏が応永15年頃かとする5月18日沙弥色貞書状があり、そこには大夫殿(教清)がみえる。道弘の発給文書が確認できるのは応永14年12月のものであるためであろう。そうすると問題となるのが、応永15年8月28日石見国守護沙弥某書下(豊田右馬助入道宛)である。近刊の中世益田市・益田氏関係史料では花押影から道弘のものとしているが、確認は十分なのであろうか。というのはこれを最初に紹介した国守氏の論文では比定がされていないのである。応永17年8月4日には守護は常勝に交替したことが確認できるが、前述の色貞書状の段階では大夫(教清)と出家前であった。豊田氏側が豊田郷と貞松名の安堵を支証とともに提出していることからすると、この時点では新守護教清(常勝)に交替している可能性が高いと思う。両者の花押は一目でわかるほど違っている。一方義理から教清の交替に際しては守護代入沢慶明は代わっていない。
付記:内田家文書の花押影につき、史料集の編者(中司氏)から写真を提供いただいた結果、花押影は道弘のものであることが確認できた。

安芸国人一揆後の安芸国守護1

 応永の安芸国人一揆の後、山名満氏の後をうけて安芸国守護となったとされる人物が「山名煕重」であるが、その存在に関する疑問が大きくなるばかりなので、以下に述べてみる。はっきりしているのは、満氏の後任は「右京亮」であることのみである。煕重と記した史料は今のところ確認できないが、これと山名氏系図に惣領時煕の弟時長の子としてみえる煕重を結びつけたものである。系図そのものを見ていないが、おそらくは煕重の官職として右京亮という注記があるのだろう。
 これに対する疑問が大きくなったのは、時煕が貞治6年(1367)の生まれで、応永13年(1406)には40才であるためである。その弟時長の子ならば、煕重は何才であったかという事が気になってしょうがないのである。物理的には20才ぐらいになっていてもおかしくはないが、それでこの難局を乗り切ることができるであろうか。ちなみに、時煕の長子満時は応永3年(1396)の生まれで、応永21年に19才で侍所頭人に就任したが、応永27年に25才で早世している。
 安芸国守護満氏と石見国守護氏利は、いずれも山名氏清の子であるが、氏清は康永3年(1344)の生まれと、時煕の父時義の2才上で、氏清の女子が時煕と結婚しているように、満氏と氏利は時煕と同世代であり、守護に起用されても何ら不思議がない年齢である。その後任が満氏の子と同世代かあるいは若年な煕重という可能性はゼロではないか。なぜ、これまで研究してきた人々が疑問に思わなかったのか、不思議でしょうがないというのが実感である。
 それでは、「右京亮」とは誰かということになるが、大変有力な候補者はいるのである。それは、氏利と並んで石見国両守護、実際には邇摩郡分郡守護に起用された時久である。この人物の系図上の位置づけにも疑問があるが、現実に古文書に登場している。応永13年(岸田氏は12年とされるが誤りである)正月28日山名常煕(時煕)書状では、安芸国へ派遣されていた左京亮(氏利)が死亡したため、右京亮が安芸国に発向し、守護代入沢八郎左衛門入道が同じく下向したことと周布氏も出陣すべしというのが上意であることが周布兼宗に伝えられている。相手が石見国人であることからすると、右京亮が石見国から発向し、石見国守護代入沢は京都から下向したと解釈した方が自然である。

2016年9月19日 (月)

室町期の佐々木氏と京極氏3

 木下聡「室町幕府外様衆の基礎的研究」(『東京大学日本史研究室紀要』第15号)をネット上で閲覧したので、そこでの情報を付け加える。
 この論文から検索をする中で、「足利義政飯尾亭御成記」(宮内庁書陵部、寛正七年二月二十七日)に内衆進上分として、佐波民部少輔元連がみえることを確認した。元連は宝徳元年には出雲国赤穴八幡宮領を押領したとして所領を没収されるとともに、出雲国守護京極氏が派遣した軍に攻撃を受け、降伏した。その後、押領の犯人が佐波氏庶子の明都賀や井本らの策謀であったことが判明し、佐波氏惣領は所領を回復し、康正二年の造内裏段銭注文にも佐波郷の段銭を佐波民部大輔が納入している。
 出雲国については満済准后日記正長2年3月21日と22日条で、23日の将軍義教の御参内始めの際の御太刀帯御番について、京極六郎と同佐渡守子孫九郎、京極氏庶子黒田と兵部少輔の順番が問題となった。満済は今回、六郎と黒田がそれぞれ孫九郎と兵部少輔の下﨟との管領からの命令に対して不満を漏らしている。この兵部少輔が宍道氏であろうとの木下氏の説は従うべきであろう。兵部少輔は宍道氏2代目の高益であったが、間もなく死亡したようで、弟の遠江守高慶が3代目の惣領となる。 康正2年の「宍道兵部少輔」は高慶とその子慶高の両方の可能性があろう。
 次いで、今谷明氏が紹介して知られるようになった「東山殿時代大名外様附」(15世紀末)には、外様衆として「佐々木能登守」「同遠江守」「同隠岐守」がみえる。能登守は京極氏一族井尻氏、遠江守は宍道氏である(木下氏は遠江守はどの系譜につながるか不明だとしている)。宍道氏惣領は高慶以降は「遠江守」→「兵部少輔」の順に昇進するようになる。これに対して初めて登場したのが隠岐氏である。隠岐国守護代であり、木下氏はこの頃特別に幕臣扱いされて外様に列したのかもしれないとされるが、具体的理由は述べられない。この当時、出雲国守護代であった尼子経久は追放されており、これに代わるものとして隠岐氏が組み込まれたのであろうか。
 以下、一番衆には「佐々木吉田弥三郎」、二番衆には宍道氏庶子「佐々木延福寺五郎左衛門尉」と「佐波兵部少輔」が、三衆番には「佐々木塩冶三河守」「同五郎左衛門尉」が、五番衆には「佐々木岩山」「朝山次郎」がみえている。以上、補足をした。

布志名判官の一族

 山名時煕の備後国守護代佐々木筑前入道は高岡氏ではなく羽田井氏であると述べたが、今回、布志名判官について検討する機会があり、これに関連して再度述べてみたい。
布志名判官雅清は建武3年正月に関東から攻め上ってきた足利尊氏軍との戦争で死亡したとされ、同年4月の武者所結番には子の布志那二郎光清がみえる。この光清もこれ以降の史料には登場せず、九州から再度上洛してきた尊氏軍との戦闘で死亡した可能性が高い。この時には、楠木正成と名和長年が死亡している。雅清が41才とされるので光清はせいぜい20才前後で、まだ子は無かった可能性が高い。
 その後、永和元年8月15日に山名時義の但馬国守護代布志名が注進状を、翌16日には打渡状を発している。次いで至徳2年3月11日には布志名宗清が山名時義の意向を妙徳院に伝えている。同人物が出家して沙弥善勝と名乗った後の書状には「山名与州官領布志名殿状、備後国守護代石原方へ」とあり、但馬国守護代から、時義の意向を備後国守護代に伝える管領に就任したことがわかる。康応元年7月10日には時義の死に対する使者の派遣に対する礼状を高野山側に送っている。
 宗清(善勝)の書状はこの外にも残っているが、応永8年3月11日には備後国守護となった時義の嫡子時煕が佐々木筑前入道と太田垣入道を派遣することを山内氏に伝え、応永10年3月23日には守護代佐々木筑前入道善圓が所領の打渡を行っている。この筑前入道について、高岡氏ではなく羽田井氏であるとしたのは「筑前(守)」との官職名であった。ただ、その花押と「善圓」との法名からすると、布志名宗清(善勝)の後継者である可能性が高い。あるいは母方が羽田井氏関係者であった可能性は否定できないが、とりあえず布志名氏であるとする。
 この宗清(善勝)ー善圓の名前は、布志名判官雅清とは異なる。雅清の法名は「覚信」その父宗清は「良信」、弟具清は「民覚」である。これに対して雅清の兄二郎貞宗の法名が「明圓」で、その子が宗信・宗具と「宗」の字を付けている。これに雅清の子光清が若くして死亡したことを合わせると、宗清(善勝)ー善圓は雅清の兄貞宗の系統の人々であろう。以上、以前の見解の一部を修正した。

2016年9月13日 (火)

根拠を欠く説5

 ①の関連史料と思われるのが③年未詳5月3日山名常煕書状(毛利備中守光房宛)である。毛利光房が守護山名煕重方であり、山名氏惣領常煕と連絡を取り合っている点からすると、応永14年以降のものとなる。そこでは平賀入道の事は情報が無くわからないが、武田の国での振る舞いは、いずれ将軍に伝わり、厳しい沙汰が出るであろうことを述べており、9月11日書状に先行するものである。
 以上のように応永13年7月の時点で一旦解決したにみえた国人一揆の問題はその後も継続していた。③と①は義満の死により確実な年次比定ができる応永15年の状況との違いから応永14年に比定できる。応永15年5月18日常煕書状では、義満の死を伝えるとともに、5月1日頃合戦があり、毛利光房のこの間の粉骨は察していると述べており、不安定な状況は続いていた。
 また、④年未詳4月25日常煕書状では金子氏が心変わりしたのに対して、幕府・守護方から退治がなされており、その際に幕府・守護方であった毛利光房が金子の退治に出陣せず、その事を常煕が批判している。これも応永15年の状況とは異なっており、応永16年以降のものとなろう。6月24日常煕書状は昨年の三吉氏の振る舞いについて言及しており、大日本古文書は「応永13年ヵ」と注記するが、応永15年に推定される4月9日常煕書状に三吉入道阿須那方のことがみえており、応永16年のものであろう。

根拠を欠く説4

 また、大日本古文書はこの伊豆入道を「信守」に比定し、岸田氏もそれに疑問を呈せられていないが、この前後の史料で「伊豆入道」と呼ばれているのは信在(乗光)である。康応元年に東寺領安芸国衙領を押領したと訴えられた「武田治部少輔」は信在であったが、明徳3年8月23日の相国寺供養には「武田伊豆守」とみえ、幕府による山名氏圧迫がなされる中、幕府との関係も修復して「伊豆守」に補任されたのであろう。
 これに対して信守の初見史料は応永13年に比定できる3月15日山名満氏書状であり、「武田治部少輔」が子細を歎き申したことを吉川経見に伝えている。国人一揆と守護山名氏が対立する中、武田信守が事態の打開のため「歎き申した」のであろう。そして7月までには一揆側の中心である毛利光房・平賀妙章との交渉を経て、守護の交替と一揆の解散という形で決着が図られた。
 ただし、武田氏については応永14年には「武田信之」なる人物が熊谷氏に所領を安堵しており(関係文書はこの年の2通のみ)、惣領信守の復権には至っていない。信守の復権が確認できるのは応永19年12月19日で、この日に「前伊豆守信守」が吉川経見に所領を安堵している。岸田氏は信之の発給文書について、この地域の守護的地位にあった武田信之が一揆に際して幕府・守護方であった熊谷在信に一揆方であった品川氏跡を預け置いたものとされるのみで、信之と信守との関係には言及されない。「信之」は武田氏一族で幕府方となった人物であろう。これを踏まえて①の文書を分析したい。
 ①は山名常煕が関与している点からすると応永13年以降のものである。「今度守護方御随遂事」とは満氏ではなく、応永13年7月に守護となった山名煕重であろう。7月晦日には守護代が安芸国へ出発している。こうして一旦、一揆は収束しかけたに見えたが、なお問題が残っていた。ここでは武田と平賀入道等の振る舞いが問題となった。なお難渋するならば退治すべしとの将軍の意向が示された。これと関連する9月26日書状(福原家文書)では、常煕が今度の儀は是非無しと述べる一方で、悦び目出ている。

根拠を欠く説3

 岸田氏は①の関連文書として年月日未詳断簡をあげられる。そこでは彼嗷訴の仁について治罰の御教書が下されたことが記されているが、幕府は応永11年に満氏を守護に補任するとともに、6月26日には安芸国地頭御家人に対して8月5日までに所領の支証を持たせて代官を派遣することを命じた。そのため、守護代小林が安芸国に入ったのであるが、反幕府方の国人には近年中に幕府から得た安堵状を所持するものは少ない。6月26日の幕府の命令は反幕府方との対決姿勢を明確にしたものであるが、この時点では治罰の命令は出ていない。
 8月27日の合戦は幕府方が優勢であり、これに対抗するため反幕府方の国人を中心に9月23日には国人一揆が結ばれた。ここには武田氏当主はみえないが、平賀氏当主妙章はみえ、毛利氏惣領光房とともに一揆の中心であった。ここからすると、「むねとの者」とは武田氏当主であったのかもしれない。この時期の武田氏当主について確認する。
 14世紀後半の当主は氏信(光誠)であったが、康暦2年に死亡し、その子信在が継承した。武田氏当主は伊豆守をアイデンティティとするが、「森源太郎氏蔵武田氏系図」(大日本史料7編の32)によると、信在とその子(ないしは弟)信守は「治部少輔」を経て伊豆守に任官している。応永6年12月12日足利義満袖判御教書は、大内義弘方(凶徒)討伐のため、守護人渋川満頼を派遣したので、武田伊豆入道とともに忠節を致すように安芸国人に命じている。ここからわかるのは武田氏が反大内義弘方であることであるが、その武田氏が安芸国人一揆では反幕府方であり、安芸国人一揆を応永の乱の延長線上に位置づけて解明することの必要性を説いた岸田氏の想定が誤っていることを端的に示している。

根拠を欠く説2

 そうした中、岸田裕之氏は①年未詳9月11日常煕書状を、②9月6日山名満氏書状とともに応永11年に比定された。②によると8月27日に安芸国内で山名満氏・守護代小林方と反幕府方の国人の間で合戦があり、反幕府方の「むねと者」を伐捕した。そして年未詳9月11日山名常煕書状を根拠に反幕府方の中心となったのが武田氏と平賀入道であるとする(福原弘世宛)。この点については、岸田説を再検討された飯分徹氏も同様である。
 ところが①に記された内容は両氏の理解とは異なるものであり、且つ、常煕の発給文書である。常煕は、武田氏と平賀氏の振舞いに不満があるため、すぐ沙汰すべきであるが、将軍の意向を聞いたところ、使者を下され、猶難渋を申すなら退治せよと命令ぜられたことは目出度いとする。また、福原氏が今回守護に随ったことは将軍の耳にも達しているとしてこれを祝している。これに対して②では、満氏が8月27日の合戦における福原氏の忠節は守護代小林から報告があり管領に伝えたが(9月11日に管領奉書の感状が出されている)、その子細は将軍にも申し上げるので感状が下されるであろうと述べている。また、特に「むねとの者」を伐捕したことは大変喜ばしいとして、今後とも頼りにすることを伝えている。
 以上の①②が同じ合戦のことを述べていると考えることは不可能である。時期も異なる別の事例を述べている。②と同日に竹原小早川氏に出された満氏書状をみると、守護代小林が安芸国に入部する際には幕府方国人に対して軍勢催促がなされ、計画的に反幕府方の「むねとの者」への攻撃がなされた。これが8月27日の合戦であり、当然その意図は反幕府方も事前に察知していた。ただし、「むねとの者」が誰であったかは不明である。これを①と結びつけることはできないのである。安芸国人一揆を再検討された飯分氏が岸田氏の解釈に疑問を持たれなかったのは不可思議である。

根拠を欠く説1

 安芸国人一揆について述べてきているが、従来の研究には文書の解釈とともに年次比定の課題がみられるので、以下でみていく。岸田裕之氏と飯分徹氏は応永13年7月の時点で国人一揆は終焉を迎えたとされるが、実際には以下のように応永16年の時点でも反幕府方と山名常煕を中心とする幕府方の対立は継続しており、一応の終焉が確認できるのは武田信守が分郡守護として所領安堵を行っている応永19年であろうか。
 明徳の乱で敗死した山名氏清の子満氏が安芸国守護に補任されたのは応永11年4月頃で、応永13年7月20日には更迭され、新守護には山名右京亮時久が補任された。満氏の発給文書で残っているのは応永13年3月15日の書状と安堵状(ともに吉川駿河守経見宛)が最後となる。6月23日には山名民部少輔(満氏)の手に属して忠節を尽くしたことを賞する幕府御教書が吉川経見に出されている。そして国人一揆関係者との交渉の中心となったのは山名氏惣領常煕で、閏6月26日には安芸国守護の満氏から時久への交替が決まった。時久は石見国邇摩郡分郡守護ではあったがやや若年であったのか(満氏・氏利の弟か)、主導権は常煕が握っていた。これに対して、右京亮の守護としての文書は応永17年~19年に各1通残っているのみである。
 応永17年段階でも幕府方の小早川安芸入道宗平が造果保地頭職(14世紀後半には厳島神主との間の係争地であった)について訴え、11月13日には押領人を退け下地を宗平に沙汰付けるよう幕府が守護山名右京亮に命じているが、実行されず、翌18年8月17日に再度の幕府の命令が右京亮に出されている。応永19年11月2日には毛利頼広が吉田庄内麻原郷地頭職について毛利大膳大夫入道による押領を訴えているが、これも応永26年段階でも解決せず、幕府は守護山名遠江守時久に再度命じている。
 常煕の文書には無年号の書状が多く、その年次比定が問題となるが、年次が明確な文書で今回の一揆に関する常煕関係史料の初見は応永13年正月28日書状である(周布次郎宛)。そこでは石見国守護山名氏利(満氏の弟)が安芸国に派遣されたが、予期せぬ形で死亡したことと、山名右京亮が守護代とともに安芸国へ向かったので、周布氏も早く出陣することを求めている。まさに非常事態であり、後任の決定も急がれる中で、山名氏惣領常煕が調整にあたった。本来なら満氏が安芸国守護であった時期と同様、後任の守護右京亮が行うべきであろうが、右京亮補任後も山名氏惣領常煕が行っている。要は石見国守護山名氏利が死亡したことを契機に山名氏惣領常煕が登場し、国人一揆と交渉して安芸国守護を山名満氏から右京亮に交替する形で収拾を図ったのである。

2016年9月10日 (土)

応永11年安芸国人一揆形成の原因3

 飯分氏が守護代による押領を考えられた一つの根拠に、応永7年に山名氏利が守護に補任された石見国の状況があった。大内盛見討伐のため石見国人の動員を図っているにもかかわらず、「富坂」なる人物の行為が益田・三隅・福屋氏などの不満を生んでいたのである。これと同名の富坂が山名満氏が安芸国守護となった応永11年に、東寺関係者の口入を背景に東寺領安芸国衙領の所務の請負を申し出たが、守護方=山名氏が許容せず、採用されなかった。石見国の富坂は守護代と理解されていたため、安芸国守護代小林の行動にこれが重ね合わされ、飯分氏は守護代による押領が国人一揆形成の原因とされた。
 しかし、石見国守護代に起用された富坂と安芸国衙領の所務請負を申し出た富坂は同一人物であろう。石見国での轍を踏まないためにも山名氏がその起用に反対したのである。山名氏の各国守護代は山名氏一族ないしは重臣が務めており、山名満氏の守護代小林氏も同様である。これに対して富坂には起用されたが、山名氏一族や重臣ではないと考えた方が合理的である。本来富坂は、安芸国衙領の所務を請負うような所領支配の専門家ではなかったか。富坂の地名は山城国内にあり、そこの出身であった可能性もある。富坂が山名氏の関係者であるならば、その問題は山名氏に訴えればすむことである。益田・三隅・福屋氏が幕府に訴えていることから、石見国の国衙領の所務を請負い、年貢納入などで国人との間にトラブルが発生したのではないか(益田家文書を再確認すると、富坂=守護代であることが明白なため、表現を修正した)。山名満氏が安芸国衙領の代官を希望した富坂の起用に反対したように、満氏はその轍を踏まないように関係者の小林を守護代に起用した。
  以上、応永11年安芸国人一揆形成の原因について、検討したが、このケースも最初の通説が真理に近いという結論に達した。大内氏や山名氏との関係ではなく、南北朝期を通じて維持された安芸国衙領の押領に対して、大内盛見の防長守護追認で対大内氏問題が決着した時点で、幕府が再び国衙領押領問題に着手したがために、関係国人の反発を招いた。一揆が勝利したとの従来の説に対して、岸田氏が異論を提出されたが、結果的には国衙領押領問題の解決には至らず、幕府・守護側の意図は実現しなかったと評価できるのではないか。

応永11年安芸国人一揆形成の原因2

 飯分氏が山名氏による国人領の押領の根拠とされたのは①応永11年8月3日山名満氏書状と②同日の満氏安堵状(いずれも吉川駿河守宛)である。①の「近日国中へ可出」部分を守護代小林氏が安芸国中に討って出るを解釈すると、守護方は国人との抗争を織り込んで計画的に押領しようとしていたと考えられるというのである。また、①と②の二通から山名満氏は吉川氏を懐柔して守護方勢力に取り込んだと評価された。
 ただし①をみると、最初に吉川氏側から所領問題などを訴えるため守護代小林氏に接近したことがわかる(8月5日までに所領の支証の提出を求められていた)。守護代小林は吉川氏に等閑にはしないと回答するとともに、吉川氏の希望も含めて守護山名満氏に報告したのである。それをうけて、満氏が守護代小林への忠節があれば、どこであろうと所領の希望に応えるとするとともに、②で当知行安堵を行っている。
 そして守護代小林が安芸国に入部した際には奉公衆小早川氏一族や毛利氏惣領広世がこれに同行している。計画的に国人領を押領するためならば、両氏が同行することはなかった。反幕府派の中心人物を攻撃するためならば、両氏の同行は幕府への忠節となり、恩賞の対象となるのである。実際に9月6日には守護満氏が毛利広世の忠節を賞し、11日には将軍家御教書により広世を等閑にはしないことが伝えられている。
 当初、一揆形成の背景は国人の新・本領安堵と整理への国人の反発とされたが、それがもっとも真理に近いのではないか。至徳2年には安芸国守護今川了俊が請文を提出したものの所領を安堵する方針を打ち出したが、今回は支証の提出を求めたのである。これまで幕府方(応永の乱までは大内義弘方や武田氏方であった)であった国人には幕府による安堵状や宛行状が与えられていたが、安芸国衙領等の押領を続けてきた反幕府方の国人にはそのような支証はないのであり、幕府と守護の方針に警戒と反発を強めつつあった。そうした中、8月27日の合戦で反幕府方の「むねとの者」が伐捕されたのであり、守護に対する反発は最高潮になり、自らの権益を守るために一揆が形成されたのである。

応永11年安芸国人一揆形成の原因1

 この一揆については『中性政治社会思想』上に契状が収録されたことでその存在がよく知られるようになったが、その後、岸田裕之氏が論文「安芸国人一揆の形成とその崩壊」を発表し、その理解の修正を図った。すなわち、それまでは一揆の背景として、幕府と新守護山名氏による国人への新・本領の安堵と整理策に対する国人の反発が指摘されてきたが、岸田氏は安堵・整理策が出される一年前には、新守護山名満氏が補任され、国人平賀氏との間で戦闘が行われていることに注目し、安芸国に大きな影響力を有した大内義弘が滅ぼされた応永の乱の事後処理との関係で、一揆を理解された。これに対して、最近になって飯分徹氏が関係史料の再検討をされ、新守護山名満氏の補任と平賀氏との合戦はいずれも安堵・整理策が発表された応永11年のことであることを明らかにされた。併せて、大内氏勢力の削減制裁が一揆形成の主たる原因であったとする岸田氏の理解を修正され、新守護山名氏が安芸国における足掛かりを作るため、武田氏をはじめとした在地領主の所領を押領したことが、一揆形成の原因であったとされた。
 飯分氏の研究は史料に関わる事件の年次を確定する大きな成果を上げたが、一揆形成の原因が山名氏による国人領押領であるとする理解についてはなお問題点が多いと考えるので、以下に述べてみたい。
 一揆契状の内容が守護山名氏の支配を批判していても、幕府の支配そのものを否定したものではないことは従来から指摘されていた。第1条では理由無く本領を召し放された場合は、一揆参加者で歎き申すとしている。召し放つのは守護であり、それを幕府に歎き申すとの意味であろう。合戦に及ぶなどの内容ではない。第3条では是非弓矢一大事の場合は馳せ集まり、メンバーの大事の為奔走するとあるが、必ずしも合戦に及ぶと決まったものではない。

不思議な解釈

 応永7年正月26日足利義満御判御教書により、天野一族等跡である安芸国志芳庄が伯父円順譲状に任せて小早川美作入道宗順(春平)に安堵されている。ここから岸田裕之氏は天野氏が応永の乱で大内義弘に与した処罰であるとされ、飯分徹氏もそれに疑問を呈せられない。「任伯父円順譲状」はどのように解釈したらよいのだろうか。これがなければ、岸田氏・飯分氏の解釈は妥当である。
 伯父円順については系図では確認できないが「宗順」の名前との共通性から小早川氏一族であろう。普通に解釈すれば、天野一族等跡を恩賞として与えられたのは伯父円順であり(預け置きの可能性もある)、その譲状に任せて春平が安堵されたということになろう。とすれば天野一族等跡が欠所となったのは応永の乱ではなく、それ以前の反幕府・守護方としての行動(所領の押領であろう)によるものである。
 ということで安芸国関係者で、応永の乱で大内義弘方となったことが確認できるのは厳島神主と毛利氏某のみである。また、小早川春平が幕府方であったこともわかる。それなのに、なぜ以上のような解釈をされるのか、あるいはその解釈に疑問が呈せられないのは不可思議としか言いようがない。

2016年9月 7日 (水)

室町期の佐々木氏と京極氏2

 永享2年の杵築大社三月会一番饗二番饗神物引付には、「加賀庄宍道殿さた」とともに「延福寺内遠江殿さた」とみえ、加賀庄を宍道氏惣領が、加賀庄内延福寺を庶子遠江守が支配していた。一方、永享2年7月25日足利義教右大将拝賀式の記録には拝賀帯刀24人の中に「佐々木岩山美濃守持秀」、「佐々木遠江守高慶」、「佐々木中務少輔持清」が、衛府10人の中に「佐々木塩冶五郎左衛門尉光清」がみえる。従来は塩冶氏のみが注目されていたが、宍道氏庶子から兄の早世により新たな惣領となる「遠江守高慶」がみえていることが注目される。
 三月会の史料と併せて考えると、永享2年の段階で高慶は惣領を継承したばかりではなかったか。①には宍道氏がみえず、佐々木延福寺五郎は延福寺を支配していた高慶の後継者であろう。遠江守高慶は惣領家に入り、その庶子が延福寺を継承したのである。これが②では佐々木宍道=高慶と延福寺対馬守となっている。五郎=対馬守が慶景で、後は尼子氏がこの系統を宍道氏惣領にすることになる。
 康正二年には将軍義政の大将拝賀式があり、松江市史には侍所京極中務少輔の被官を記した水戸彰考館の史料が掲載されている。市史では中務少輔を持清としているが、持清の嫡子勝秀(応仁2年に病死)が正しい。それは益田家文書に残る記録からわかる。こちらが全体の記録で、そこには侍所佐々木中務少輔勝秀が随兵30騎を具していたとあるが、その内訳を記したものが彰考館のものである。益田家文書には帯刀として「佐々木岩山美濃守(持秀)」、「佐々木宍道兵部少輔(慶高に比定)」、「佐々木加賀守(教久)」、「佐々木多田治部少輔(秀直)」を、衛府として「佐々木塩冶宮内少輔(国貞に比定)」、「佐々木吉田六郎左衛門尉(清秀に比定)」、「一騎打 佐々木大膳大夫持清」を記している。益田家文書が何を根拠に塩冶宮内少輔に「国貞」と注記したのかは不明であるが、そうではなく塩冶光清の嫡子であろう。ただし、この後の史料にはみえないので、間もなく死亡したと思われる(出雲塩冶誌参照)。
 長禄3年12月18日には相国寺の塔頭勝定院の佛事銭を佐々木塩冶が10貫文負担したことがみえる(蔭涼軒日録)。これも新たに確認したものであるが、佐々木加賀守(教久)も10貫文負担している。寛正6年9月29日に義政が奈良から帰京した際の布衣として「塩冶五郎」がいたことはすでに知られていたが、同時に「佐々木延福寺」もみえる。
塩冶高清(光清)の子で早世した兄(あるいは父か)に代わって惣領となった貞綱についても文明18年7月29日には「佐々木塩冶参河前司貞綱」(親元日記)とみえるが、その後の史料からするとなお「三河守」であったと思われる。
 以上、新たに確認した史料に基づき主に塩冶氏と宍道氏と宍道氏庶子延福寺氏について述べた。

室町期の佐々木氏と京極氏1

 これまで未確認であった史料を紹介し、従来知られていた内容との関係をさぐりたい。京極氏のもとで生き残った塩冶氏に関する初見史料は応永3年9月20日比叡山大講堂供養にみえる「塩冶五郎左衛門尉」であった。応永19年の八幡社参記にも「塩冶五郎左衛門尉」がみえた。今回、その間の史料として、応永9年2月28日に義満が石清水八幡宮に参詣した際の布衣の中に「佐々木塩冶」を確認した(吉田家日次記)。いずれも塩冶満通であろう。応永27年段階には参河守に任官していたが、その前年の石清水八幡宮放生会でも衛府布衣人々の先頭に佐々木塩冶参河守がみえていた(薩戒記)。
   永享以来御番帳①には三番に塩冶三河守(満通)とその一族の塩冶四郎左衛門尉がみえるが、それ以外でも以下の関係者がみえる。
 一番 馬田三郎左衛門尉、佐々木吉田千寿丸、吉田五郎
 二番 佐々木延福寺五郎、井尻能登入道、佐波善四郎左衛門尉
 三番 塩冶三河守 塩冶四郎左衛門尉   
  五番 岩山美濃守、朝山肥前入道
  管領 佐々木治部少輔
 相伴衆 京極治部少輔持光 佐々木加賀入道有[道ヵ]統 佐々木鞍智駿河守高信
これが文安年中御番帳②は以下の通り。
  一番 吉田四郎左衛門尉、佐々木宇津木平次郎、馬田三郎左衛門尉、佐々木吉田千寿丸
 二番 佐々木井尻能登守、佐々木延福寺対馬守、佐波善四郎左衛門尉
 三番 塩冶五郎(秀清)   [詰衆]塩冶四郎左衛門尉
  五番 朝山肥前入道       [詰衆]岩山美濃守
 外様衆 佐々木中務少輔 佐々木宍道 佐々木鞍智 佐々木加賀守
 相伴衆 佐々木京極大膳大夫  此外 佐々木大膳大夫
 馬田三郎左衛門尉は共通で佐々木泰清長子義重流で大東庄を支配した。吉田氏については出雲・近江の両方が考えられる。延福寺五郎は宍道氏庶子であるが、②では対馬守に任官している。井尻氏も京極氏の庶子で能義郡井尻保を支配した一族であるが、①の井尻能登入道から②の佐々木井尻能登守に代替わりしている。宍道氏惣領は①ではみえなかったが②に外様衆として中務少輔勝秀、佐々木加賀守(教久、①にみえる高数=道統の養子、土岐氏出身であった。京極氏惣領が持清に移ったため、別家を立てる)、鞍智氏とともにみえる。

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