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2016年9月25日 (日)

安芸国人一揆後の安芸国守護1

 応永の安芸国人一揆の後、山名満氏の後をうけて安芸国守護となったとされる人物が「山名煕重」であるが、その存在に関する疑問が大きくなるばかりなので、以下に述べてみる。はっきりしているのは、満氏の後任は「右京亮」であることのみである。煕重と記した史料は今のところ確認できないが、これと山名氏系図に惣領時煕の弟時長の子としてみえる煕重を結びつけたものである。系図そのものを見ていないが、おそらくは煕重の官職として右京亮という注記があるのだろう。
 これに対する疑問が大きくなったのは、時煕が貞治6年(1367)の生まれで、応永13年(1406)には40才であるためである。その弟時長の子ならば、煕重は何才であったかという事が気になってしょうがないのである。物理的には20才ぐらいになっていてもおかしくはないが、それでこの難局を乗り切ることができるであろうか。ちなみに、時煕の長子満時は応永3年(1396)の生まれで、応永21年に19才で侍所頭人に就任したが、応永27年に25才で早世している。
 安芸国守護満氏と石見国守護氏利は、いずれも山名氏清の子であるが、氏清は康永3年(1344)の生まれと、時煕の父時義の2才上で、氏清の女子が時煕と結婚しているように、満氏と氏利は時煕と同世代であり、守護に起用されても何ら不思議がない年齢である。その後任が満氏の子と同世代かあるいは若年な煕重という可能性はゼロではないか。なぜ、これまで研究してきた人々が疑問に思わなかったのか、不思議でしょうがないというのが実感である。
 それでは、「右京亮」とは誰かということになるが、大変有力な候補者はいるのである。それは、氏利と並んで石見国両守護、実際には邇摩郡分郡守護に起用された時久である。この人物の系図上の位置づけにも疑問があるが、現実に古文書に登場している。応永13年(岸田氏は12年とされるが誤りである)正月28日山名常煕(時煕)書状では、安芸国へ派遣されていた左京亮(氏利)が死亡したため、右京亮が安芸国に発向し、守護代入沢八郎左衛門入道が同じく下向したことと周布氏も出陣すべしというのが上意であることが周布兼宗に伝えられている。相手が石見国人であることからすると、右京亮が石見国から発向し、石見国守護代入沢は京都から下向したと解釈した方が自然である。

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コメント

この記事を読ませていただきました。
私が研究している内容とちかいものを感じました。
ちなみにお聞きしたいのですが、参考文献の記載などはないですか?
もしあるのでしたら、私自身興味があるので、教えていただければ幸いです。

二〇一七年に論文「貞治~応永年間の芸石政治史-文書の声を聴く-」を公開していますが、掲載されたのは地方史研究者の古希記念集ですので、入手は容易ではないかもしれません。それに先立ち、二〇一六年一一月の島根県中世史研究会でも報告しています。メールアドレス(送り先)がわかれば、PDFをお送りします。当方のアドレスharak399@nifty.comに返信いただければと思います。県外の専門研究者で抜き刷りを送付したのは、広大研究室、東大編纂所久留島、榎原氏(大学の同級生、久留島氏は2級上)、西田、堀川氏、愛媛大川岡氏(高校の同級生です)、呉座勇一氏ぐらいです。論文で取り上げた岸田氏と飯分氏は送り先がわからず未送付です。

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