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2016年8月

2016年8月29日 (月)

4Kマルチモニター

 以下のPCをオークションで入手した(送料込みで14040円)。
 Amphis BTO DiMN5200-Ci5-TG (OS無/Core i5/4G/500G)。
OSなしとあるが、ライセンスのシール(7pro64)はあるので、インストールは可能。今回は最初から10をインストール。
 内蔵グラフィックはDVIとVGAのみであり、手持ちのReadtech GT640を使用するが、なぜか4KモニターなのにWQXGAが最高解像度。そこで、Dell製のRadeonのカードに変更するが、なぜか起動せず。そこでしかたなく、GT640に戻すと、今回は4Kで、WQXGAとWUXGAとのマルチもできた。ただし、内蔵グラフィックではなぜかFHDどまりであった。以前、このカードでAMD機で4Kができたので、「なぜか」と記した。ただし6年前のAMD機では実用レベルではなかった。GT640で4K(60ネイティブ)が可能なのはすべてDPがあるからである。GT640の初期のタイプなので、ネット上では4K動作の情報はない(後期のものは可能とあるが動作報告は?)。Corei5 3470なので実用レベルである。
 PCそのものも中古とあるが、天板に小さなキズがある程度で、新品同様である。HDDは7200回転の500Gのタイプが内蔵されていたが、手持ちの5400回転の2Tのものに交換し、メモリーも手持ちの8Mに換えた。これで、しばらくはサブ機として利用できそうである。それにしても結果的には安い買い物であった。途中、Dellのカードが使えなかった時には途方にくれかけたが。競争もなく、即決であった。

2016年8月28日 (日)

広田氏について

 出雲佐々木氏一族で仁和寺領大原郡広田庄を支配した一族が広田氏であるが、文永8年の広田庄地頭は武蔵国御家人品川弥三郎(胤信)であった。同郡内の仁和寺庄もその名前からして仁和寺領であった可能性が高い。また、品川氏は紀氏であり、隣接する来次(木次)上村地頭大井新左衛門尉重泰とは同族である。三代庄地頭本間対馬二郎左衛門尉忠泰も武蔵国御家人である。ちなみに現在は広田の地名は木次の町の小字として残るのみである。三代と木次といえば、一ノ谷合戦に朝山・木次・三代が一党が参加したように、大原郡佐世郷を本領とした勝部宿祢一族であり、広田庄を支配していたのも同族であろう。そうすると品川・大井氏・本間による支配は鎌倉初期にさかのぼる可能性がある。
 建武4年8月28日光厳上皇院宣により広田庄への悪党等の濫妨を停止し、仁和寺の支配が安堵されている。塩冶氏の系図では塩冶高貞の兄弟に「広田木次」とのみ記されるが、佐々木系図では「寂阿」について、「筑後守、遁世、号来次」と注記しており、高貞の兄弟が、品川氏や大井氏跡の来次と広田を獲得したが、その後何らかの事情で遁世して寂阿と名乗ったことがわかる。その後、文明4年3月24日には、幕府が大社司(両国造)による日御崎社領の押領停止を出雲国中西部の主要国人に命じているが、その一人に「広田殿」がみえる。文明8年8月16日の牛蔵寺領への多賀氏等による押領停止を命じられた国人の中にもみえ、年未詳(文明初年)2月27日守護京極生観書状にも杵築浦破艘舟問題の解決を命じられた3人の中にも「広田肥前守」がみえる・
 戦国期には天文3年9月15日来次庄八幡宮棟札に「大檀那源朝臣千満丸」、弘治3年12月同棟札に「大檀那源朝臣佐々木貞宗」がみえる一方で、天文9年竹生島奉加帳に源氏一族として「広田太郎五郎殿」がみえる。塩冶氏一族による支配が続いていた。ただし、尼子氏滅亡後の永禄9年の八幡宮造営は三沢為清が行っており、広田氏は没落した可能性が高い。
 従来確認できた以上の史料に、今回はもう一点付け加える。それは鎌倉時代から室町時代にかけて流行した早歌(宴曲)の写本の奥書にみえる「塩冶広田金吾」である(『大日本史料』第7編の2)。14世紀初めの早歌の創始者明空の孫弟子坂阿(ばんな、坂口三郎盛勝)が写した「別紙追加曲」(応永2年6月1日写)「宴曲集」(同12月13日写)「究百集」(同10月9日写)の奥書には「為塩冶広田金吾、差博士畢」とある。坂阿が広田金吾のもとに写本とともに博士を派遣したとの意であろうか。年代的に広田金吾(左衛門尉)とは寂阿の孫ぐらいの世代であろう。
 寂阿は遁世したが、その子孫は広田庄を戦国期まで支配していたことになる。そして広田左衛門尉は京都で活動し、文化人との交流をしていたことがわかる。以上史料編纂所データベースで確認した。

2016年8月27日 (土)

佐々木三河入道道彭について

 守護山名義幸時代の出雲国守護代は佐々木三河入道道彭であった。「三河入道」の名から塩冶氏惣領である可能性が高いが、佐々木系図にはその名がみえない。明徳の乱後も生き残っていくのは佐々木通清の子満通の系統である。佐々木系図には「上郷三河守・法名道円」とあり、三河守は共通だが、法名が異なり別の人物となる。塩冶高貞滅亡後の塩冶氏惣領時綱は「乙立宮内少輔・法名時円」であった。その時綱の後継者が「上郷三河守」ではありえず、道清は時綱の庶子であった。そして『明徳記』では山名氏の家臣となっていた塩冶駿河守が、父上郷入道は京極氏との関わりが深いと述べており、その点でも山名義幸の守護代である「道彭」とは異なっている。
 一方塩冶氏の系図では通清の兄弟として義綱を記し、山名氏が出雲国守護であった時代の惣領であり、山名氏の評定衆であったとする。法名「義覚」「遠江守」を含めて、これまた道彭とは別人である。康暦3年2月二十九日沙弥道彭書下(安国寺文書)に記された花押は守護山名義幸の弟で後に出雲国守護となる満幸の花押とよく似ている。病気の兄に代わって代官を務めていた満幸が守護代を補任していたのだろう。そして、永德2年3月日諏訪部新左衛門入道軍忠状では「佐々木三河入道道彭」とともに「奥州御陣」(山名陸奥守氏清)に馳参したことを述べている関係で、山名氏清が承判を加えている。
 それが至徳3年の出雲大社遷宮について、後世記した記録では「御遷宮守護殿代上卿(郷)殿」とあり、この時点では上郷通清が守護代であったのだろう。交替の理由としては道彭の死が考えられる。至徳3年9月23日山名満幸寄進状(出雲大社)からすると、この時点では兄義幸の病気により、守護は弟満幸に交替していた。佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』では至徳2年7月7日の幕府御教書で丹後国河上本庄の遵行を命じられているのが「山名弾正少弼」(満幸)で、同4年閏5月2日の幕府御教書で同国朝来郷の遵行を命じられているのが「山名讃岐守」(義幸)であることから、満幸は兄から丹後国守護を譲られたが、出雲国守護となった段階で、丹後国を返したのではあるまいかとされる。ただし、病気で守護を譲ったとするならば、丹後国と出雲国の両方を満幸に譲り、病気の回復により満幸が丹後国を返したとすべきであろう。山名義幸が出雲国守護であったのが確認できる至徳元年9月12日から至徳2年7月7日までの間に守護が満幸に交替したと考える。
 それでは佐々木三河入道道彭とは誰かということになるが、佐々木系図で「五郎左衛門尉重綱」とみえる人物であろう。「五郎」と「三河守」が時綱流のアイデンティティである。弘長寺文書目録の貞治6年にみえる「前三河守」を『塩冶誌』中世では「通清」としたが、「重綱」に訂正する。康正3年3月晦日塩冶高清書下では「祖□道鼓・父源山」としているが、「道彭」と読むべきであろう。系図の上では高清の祖父は道円通清であるが、母方の祖父の可能性もある。高清の父満通が道彭女子と結婚して生まれたのが高清(初めは光清)だったのではないか。重綱(三河入道道彭)の死後に、通清が三河守となり塩冶氏惣領となったのであろう。

2016年8月24日 (水)

林木庄について

 治承四年(一一八〇)五月十一日皇嘉門院惣処分帳に「いつも はやしき」がみえる。藤原忠通女子で崇徳天皇の皇后となった皇嘉門院聖子は異母弟九条兼実を猶子(養子)としていたが、治承四年には兼実の嫡子良通を猶子としてその所領を譲ることとした。ただし良通が14歳であったので、この時点では兼実の同母弟兼房に譲った。
 皇嘉門院領は保元の乱後、藤原忠通が父忠実から譲られた所領と妻宗子(白河院近臣藤原宗通女子)を通して得た所領を娘聖子に譲ったものである。基経の創建とされる九条殿領34ヶ所と宗子の持仏堂最勝金剛院領11ヶ所とが中心で、林木庄は前者の一つで、実質的には九条兼実領であった。
 兼実は元久元年(一二〇四)には林木庄を含むその所領60ヶ所の大半を娘宜秋門院任子(後鳥羽天皇中宮)に譲り、元久三年四月二十四日には院庁下文により藤原信西を母方の祖父とする藤原長兼が林木庄預所に補任されている。長兼は九条家家司で兼実・良経(良通の死後嫡子となる)父子の信任を得ていた。
 九条家当主は良経から嫡子道家に継承されるが、建長二年に道家が作成した惣処分帳には孫である右大臣九条忠家に譲った所領として女院方林木庄と新御領末次庄(長倫卿寄進)がみえる。
 14世紀初頭の室町院領目録(八代恒治氏所蔵文書、ここに記されるのは持明院統分)には「武家所進地頭職」の中に林木庄がみえるが、これは当庄地頭職を得た人物から寄進されたものである。林木庄で下地中分が行われた可能性もある。
 庄園領主については建武三年八月二十四日九条道教家領目録に「出雲国林木・美談両庄領家職」とみえ、九条家領として相伝されていた。ただし美談庄が九条家領となったのは建長2年以降のこととなるが、その経緯は不明である。なお、正応元年十一月二十一日将軍家政所下文で「神門郡薗・林木」地頭職が某又次郎に在京奉公の労として与えられているが、当該部分は「薗内外」であったのを後に修正したもので、林木庄関係文書ではない。

2016年8月23日 (火)

比知新宮について

 佐々木系図で貞治3年3月26日に古志義綱が安堵された所領の一つに「比知新宮」があった。実際には庶子義綱ではなく、当時の古志氏惣領が安堵されたものを、後に義綱が惣領であったかのように記したものである。一緒に記されている隠岐国山田別符については、貞和3年には「古志次郎左衛門尉(惣領宗綱ヵ)が地頭であったことが確認できる。いままで気づいていなかったが、「比知新宮」は仁多郡内の庄園で、文永8年の地頭は阿井兵衛尉であった。阿井氏は仁多郡系勝部宿祢一族の可能性が高いが、苗字の地である阿井郷の地頭は法華堂別当僧都尊範であった。法華堂とは右大将家法華堂であり、頼朝の死後にその墓とともに設けられたものである。
 阿井郷は実質的には幕府領として、別当僧都が給主として与えられていたものであろう。そして阿井氏は阿井郷についても地頭代などの地位にあり、鎌倉幕府と結びつこうとしたのではないか。その点では横田庄地頭職を六波羅探題であった北条時輔(時宗の異母兄)に寄進した三処左衛門後家の行動とも相通ずるところがある。
 なぜそう思うのかというと、「兵衛尉」に任官していることがある。当時は任官するのにも多額の資金と朝廷とつながるコネが必要であった。三処左衛門後家の子ないしは関係者として地頭代を務めた景長・舎弟実綱・実直がみえるが、その内実綱のみは「七郎左衛□□(門尉)実綱」と任官していることが明らかとなっている。他の二人については任官していなかったのではなく、その有無は史料がなく不明である。
 鎌倉幕府滅亡により比知新宮地頭職は没収されたと思われる。興国元年6月23日には南朝から得勝寺播磨房歓全跡に比知新宮半分地頭職が与えられている。これに対して、古志氏は幕府方として比知新宮地頭職を与えられたと思われるが、その後の史料は欠いている。

2016年8月21日 (日)

出雲国人と備後国の関係

 備後国で城郭などの研究をしている方からコメントがあったので、表題の点について簡単に述べる。現在は14世紀後半から15世紀初頭までの石見国と安芸国の政治史が深く関連していることを示す論文を執筆中であるが、これまでの研究ではその一部しか確認されていない。
 備後国は安芸国と隣接し、今川氏や山名氏が両国守護を務めることがあったが、当該期の安芸国は石見国との関係のほうがより密接だと思われるが、どうであろうか。この後は大内氏が備後国にも勢力を伸ばしていくが、そのあたりについては十分検討していないので、ここでは触れない。
 出雲国と備後国の関係は、出雲国衙在庁官人筆頭の勝部宿祢の惣領となった朝山氏が、建武政権で備後国守護になったことによる。出雲国人佐々布氏が貞和2年12月の時点で備後国守護高師泰の守護代的役割を果たしていることも確認できた。そしてそれが故に佐々布氏惣領は没落し、出雲国内の所領も没収された。
 佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』下では暦応3年から貞和5年4月の足利直冬の中国管領としての下向までの備後国守護は一貫して細川頼春であったとされるが、『日本史総覧』の守護一覧などでは、頼春は康永元年5月には伊予国へ凶徒退治のため派遣されており、この時点で高師泰に交代したとされている(ただし、高師泰の守護就任を示す史料は前述の貞和2年12月21日の佐々布次郎左衛門尉宛の書下のみ)。
 朝山氏と佐々布氏以外にも備後国で所領を与えられた国人はいたであろうが、古志氏の場合は系図にみえるのは美作国綾部郷である。守護となった富田氏とともに与えられたのであろう。古志氏の備後国進出は、明徳の乱で京極氏が出雲国守護に補任された際に、山名氏の領国である備後国へ移動したものがあったためであろう。前にも述べたように、古志氏惣領は京極氏のもとで出雲国にとどまり、出雲国・隠岐国・美作国・近江国の所領を安堵されたと思われる。古志氏以外にも、高岡氏、羽田井氏、布志名氏、塩冶氏と出雲国人の一族で山名氏領国へ移ったものは少なからずいた。この点が戦国大名尼子氏の備後国進出の足がかりとなったのは、美作国と同様であろう。朝山日乗も出家前は備後国内で活動していたが、城が落城し兄が亡くなったため、美作国へ移り、その後、おそらくは新宮党討滅事件をみて、戦争のむなしさを知るとともに、尼子晴久にあきれて、上洛することになったと思われる。

2016年8月18日 (木)

大山寺等身地蔵

 伯耆国大山寺では天文23年3月24日の夜に火災で諸末社と近隣の房舎が悉く焼失したため、同年4月24日から尼子晴久を大檀那とする再興事業が開始された。その中の一つに、佐々木四郎高綱が自らの等身の大きさで作成・寄進し、社内に安置されていた佐々木地蔵があった。晴久は地蔵の加護により合戦に勝利を収め、「降伏怨讐、治国利民、子孫繁昌」を実現するとともに、自らの長生・長樂を願い造立した。
 そこで佐々木高綱の等身地蔵について調べると、『大山寺縁起』の中に記述があった。
高綱が山陰道7ヵ国を給わり下向して伯耆国に入部した際に、死につながりかねない重病にかかった。大山権現の祟りであるという。すると夢想のお告げがあり、等身地蔵を作成して神殿に安置し、長日地蔵供の法を三院で日を追って勤めよとのことであった。建久2年2月3日に寄進し、末吉・稲吉・稲光(名)から各1町の計3町の田地を寄進した。すると、病は程なく平癒し願いは叶ったとする。 
  なぜ晴久は高綱の先例にちなんで等身地蔵を作成・寄進したのだろうか。高綱のように病に冒されたわけではなかった。高綱は佐々木氏系図によると、備前・安芸・周防・伯耆・因幡・伯耆・日向・出雲等を拝領し、高野山で出家した後に出雲国に下向しそこで死亡したとされるが、実際に守護として確認できるのは文治2年の長門国守護のみで(長門国守護次第)、これに東大寺再建の関係で周防国も可能性があるとされている。
 奥州藤原氏を滅亡させた鎌倉殿=源頼朝は建久元年11月7日に上洛し、後白河天皇と交渉を行い、この結果、いわゆる守護・地頭とよばれる職の権限等が固まったとされる。高綱が7ヵ国を給わり下向したというのは、この頼朝-後白河の交渉直後であったと思われる。そこで原因は不明であるが病にかかったため、等身地蔵を作成・寄進したのだろう。 高綱が伯耆国に下向したのは単に伯耆国内に所領を得たのではなく、守護職を得た可能性が高い。高綱は建久6年には家督を嫡子重綱に譲って高野山で出家しているが、伯耆国で守護として確認できるのは元久2年の金持広親以降である(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)。この金持氏は駿河国金持庄を本拠とする北条氏と関係の深い東国御家人で、建久6年3月に頼朝が石清水八幡宮から東大寺へ赴いた際に随った人々の中に「金持二郎」の名がみえる(『吾妻鏡』)。建久6年は高綱が引退・出家した年であるが、この年に北条氏との関わりの深い金持氏が伯耆国守護となった可能性もある。
 話を晴久に戻すと、天文21年には出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆8ヵ国の守護に補任され、天文24年には民部少輔から修理大夫に進んでいる。この自らの8ヵ国守護と高綱(この当時にはすでに7ヵ国を給わり=守護と考えられていたのではないか)を重ね合わせて、晴久は等身地蔵を造立したのではなかろうか。ただし、その最中に新宮党討滅という予期せぬ事態に追い込まれた。新宮党は伯耆国支配とも関わっており、この事業にも参加していたのではないか。

2016年8月16日 (火)

小堺保地頭伊藤氏関係文書4

 そこで気になるのが、俣賀家文書に含まれる「伊藤氏関係文書」である。俣賀家文書には俣賀氏以外のものが若干含まれている。それは①正平6年8月10日常陸親王令旨と②同日治部権少輔軍勢催促状、③正平6年9月15日常陸親王令旨である。①②は同日同文の内田左衛門三郎(俣賀致治)宛の文書が残っているが、③は「伊藤次郎六郎」宛のみである。俣賀家文書については、一括してあったものが、売却などで分かれて現在の形になったとされ、分かれる前には現在確認されている点数よりも数十点多くあったとされるので、あるいは③の内田左衛門三郎宛の文書も存在した可能性がある。
 常陸親王令旨は一斉に複数の国人に対して発給されたであろうが、残っているのはそのうちの一部であろう。この伊藤次郎六郎はすでにこの時点で石見国人である可能性もあるが、その一方で、幕府方であったのは「伊藤次郎」「伊藤又次郎」「小堺次郎左衛門尉」であり、伊藤次郎六郎もその父は伊藤次郎である可能性が高い。常陸親王令旨は本来南朝方であった国人に発給されたものと、幕府方であった国人を御方に取り込むために発給されたものがあるが、「伊藤次郎六郎」宛は「内田左衛門三郎」宛と同様、幕府方であった国人に発給されたものである。その意味では、俣賀家文書中で、藤原景光が治部允を所望したことと藤原景春が弾正忠を所望したことへの返書も、俣賀氏以外宛として注目される。伊藤氏が15世紀半ば以降に石見国に活動の本拠を移したことで俣賀氏との関係が生まれ、その文書の一部が俣賀家文書として残った可能性もあるのではないか。俣賀氏としても自己の所持する文書と同一の内容だとして残したのではないか。

小堺保地頭伊藤氏関係文書3

 幕府では観応2(貞和7)年初に高師直・師泰兄弟が殺害されると、南朝と結んで主導権を握った直義と兄尊氏が対立し、尊氏は直義に対抗して10月には南朝に降伏した。この年の出雲国では直義派の山名時氏が伯耆国に続いて出雲国守護になったが、年号は「観応」をそのまま使っている。一方、南朝の後村上天皇綸旨や常陸親王令旨が中国地方の幕府方国人にも出され、「正平6年7月25日」には富田秀貞が勅裁で決まったとして、鰐淵寺に阿井郷を寄進している。後に鰐淵寺頼源はこの文書を「守護人富田秀貞寄進状」と記したが、秀貞が本当に南朝方となったのか、尊氏と南朝の接近の中で「正平」年号で寄進状を出したのかは微妙である。直義が正平7年2月末に死亡した後の同年(観応3年)8月2日には足利義詮が美作国守護佐々木美作前司(秀貞)に対して国内の高倉庄の雑掌の所務を全うさせよと命じ、秀貞の嫡子直貞が8月7日に請文を提出している。
 9月15日には山名時氏が三刀屋氏惣領三郎入道助重に対して軍勢催促を行っているが、これは時氏の嫡子師義が京極導誉との対立から幕府を離脱して伯耆国に帰ったのをうけて、時氏が京極氏の領国である出雲国に攻め込んだ際のものである。富田秀貞が反幕府方に転じたのはこれ以降のことであろう。
  この文は萩閥やそれを継承した『南北朝遺文』の人物比定の注記の中には根拠無きものもあるのでそれぞれについて自分で根拠に基づき判断するしかないことを、小堺保地頭伊藤氏を題材に書き始めたものであったが、一方では観応の擾乱期の出雲国の幕府・反幕府派について史料に基づき詳細に述べた。
 最後になるが、萩閥の系図では伊藤元智は実は石見国の吉見頼直の子が伊藤家に養子に入ったものであるとの記述がある。そのため、伊藤家は吉見氏の家臣となって、元智は応安7年4月に討死したと記す。元智の次代の元実(これが弾正左衛門尉ではありえない)は応永23年死亡とし、次の義勝は宝徳3年に石州で死んだと記す。元智が吉見氏から養子に入ったというのは事実ではなかろうが、伊藤元智の子孫が15世紀半ばの時点では石見国を本拠としていたのは事実であろう。反幕府方国人の中には、明徳の乱後、出雲国が京極氏の領国となったことで、国外に本拠を移したものが一定程度みられた。これに対して幕府方であった小堺次郎左衛門尉の末裔については史料を欠くが、出雲国で活動を続けたであろう。

小堺保地頭伊藤氏関係文書2

 幕府方の諏訪部(三刀屋)貞助軍忠状は、7月の時点で土屋四郎左衛門尉一族と伊藤弾正左衛門尉以下の凶徒が大原郡の阿用庄内蓮花寺城に楯籠もったので守護方が攻撃した際の軍忠から書き始め、次いで敵方の飯石郡内の城を攻めて降参させたり没落させたことを記す。さらに貞助は、伯耆国凶徒が出雲国に攻め込むとの風聞を受けて8月8日には安来津で警固にあたっていたところ、8月12日に敵である佐々木信濃五郎左衛門尉・同六郎左衛門尉らが高野山(能義郡と意宇郡の境界にある京羅木山)に出てきたので戦い、富田関所まで供を務め、14日の平浜八幡合戦でも軍忠に励んだと記す。
 同じく幕府方の大野庄内祢宇村一分地頭北垣光政の8月の軍忠状には、8月12日に土屋四郎左衛門尉・同修理亮・佐々木近江六郎左衛門尉以下が百騎が謀反のため出てきたので、佐陀次郎左衛門尉・玖潭彦四郎・小堺次郎左衛門尉等と同心し、佐陀城に楯籠もったこと、翌13日に白潟橋で佐々木三川守(塩冶三河守)・朝山右衛門尉らが敵方と合戦に及んだので、佐陀城から出て敵の背後をついて追い払ったこと、14日には八幡津と森山の合戦で先駆をしたことを記す。幕府方の中心が塩冶氏と朝山氏で、光政の軍忠状には守護代吉田厳覚が承判を加えている。これに対して反幕府方は塩冶高貞の遺児や土屋氏が中心だったが、翌7年正月26日には足利直冬が派遣した大将左近大夫将監義継が石見国から出雲国内に入り、出雲大社国造に大社領12郷の内4郷を寄進している。小境平五郎入道が2月日軍忠状を提出したのはこの大将であると思われる。
 ここから小堺氏が次郎左衛門尉(これが貞和3年の伊藤次郎と同一人物であろう)が幕府方で、弾正左衛門尉と平五郎入道が反幕府方となったことが分かる。ところが、『南北朝遺文』では次郎左衛門尉に「元智」と注記しているが、元智(法名)とは平五郎入道であり、「次郎」であった人物が「五郎」になるのは他家に養子にでも入らない限り(その場合でも「次郎」を使うのが一般的)ありえない。さらに弾正左衛門尉には萩閥の系図で元智の次に記される「元実」と注記している。すべてが根拠なき比定で、系図も信憑性に欠け不明にしておくべきであったのに。

小堺保地頭伊藤氏関係文書1

 小堺保(郷)地頭小堺氏に関する初見史料は、文永8年関東下知状で、小境保地頭として小境二郎がみえる。在地名を苗字としており国御家人である。姓は藤原であり、出雲国在庁官人藤原氏の一族である可能性が高い。小堺氏の文書は萩閥に収められている、
 最も古いものは建武4年10月23日小堺郷一分地頭伊藤次郎義明軍忠状で、出雲国守護塩冶高貞のもとで大和・河内国の戦闘に参加したことの承判を得ている。一分地頭とあるので、小堺氏惣領は別にいたことになる。それが、暦応4年3月には塩冶高貞が謀反の疑いで追討されると、伊藤又次郎に対しても高貞誅伐の命令が足利直義から出されている。萩閥は巻末の系図で義明が暦応4年に死亡したとして、又次郎に「頼明」(こちらは康永4年8月討死とある)と注記する。他の出雲国人や鰐淵寺北谷衆徒にも同様の命令が出されている。
 その後も小堺氏は幕府方として活動し、貞和3年11月28日には河内国の東条凶徒退治のための伊藤次郎に足利直義軍勢催促状が出されている(島根県中世史料集成「南北朝遺文・中四国」のリストからは漏れている)。萩閥の系図には頼明が康永4年8月討死とあり、貞和3年の次郎=元智と注記する。南北朝遺文』はそれに疑問を持ったのか注記なしである。
同じ出雲国人大野二郎左衛門尉には、出雲国守護京極導誉が自らへの重ねての発向命令を示しつつ、庶子を相催して来月20日以前に馳参せよとの同日付の軍勢催促状を出し、遅引した場合は後悔するに違いないとの恫喝まがいの台詞で結んでいる。国人達の反応が今ひとつであったのだろう。実際にこの戦いで幕府軍は楠木正行らに苦戦し、高師直・師泰兄弟の投入でようやく勝利を得、師直・師泰兄弟の台頭を招き、後の観応の擾乱につながった。
 この小堺氏も観応の擾乱で幕府が分裂し足利直冬の勢力が出雲国に及ぶと、反幕府方に転じるものが現れた。貞和7年2月日小境伊藤平五郎入道元智軍忠状によると、前年8月に出雲国では、佐々木六郎左衛門尉(萩閥は高久と注記するが、塩冶高貞の子であろう)・伊藤弾正左衛門尉・土屋弁房・多久中太郎らが中心となって反幕府方国人が挙兵し、幕府方国人と白潟橋で激しい戦闘に及んだとする。

2016年8月12日 (金)

大内満世について

 大内満世は大内満弘と益田祥兼娘との間に生まれたとされる。その父満世は兄義弘と2度にわたり対立した。最後は和解し、大内氏分国の豊前国守護の地位にあったが、九州の合戦で討ち死にした(「大内満弘の没年」を参照)。
 満弘の子五郎満世の存在が次にクローズアップされるのは、応永6年(1399)末の応永の乱で大内義弘が幕府から討伐された直後であり、義弘の跡を継承した弟盛見に対して、幕府は応永7年には盛見の弟である弘茂を正当な後継者とし、これに五郎を加えた体制を確立せんと、石見国人などに合力を働きかけている。ところが、これは同8年末に弘茂が盛見に討ち取られることで失敗した。2年後には盛見の兄助入道道通を擁立して、一旦京都に逃れた五郎とともに盛見に対抗させたが、ここでも介入道がすでに体制固めを済ませていた盛見の前に敗北し、九州へ逃れた。応永10年7月13日大内満世書状をみると、この直前に「満世」の名と長州二郡を拝領している。こうした点からすると、初見の応永7年段階でようやく元服したぐらいの年齢であったと思われる。となると、その誕生は至徳2年(1385)頃となる。ここから大内満世と益田祥兼女子の結婚は永徳2年(1382)6月の義弘と満弘の和解後であった可能性が高い。
  応永11年5月30日以前に幕府は大内盛見を防長2カ国の守護と認め、藤井氏によると応永12年以後、満世は盛見に懐柔され、盛見一門としての活動を開始しているとされれる。限られた史料しか確認していないが、応永11年んもり、盛見と介入道の戦闘で盛見が優勢に立つとまもなく、満世も盛見方に転じたことがわかる。
  この後、満世の動静がわかるのは永享4年2月の大内持盛と持世の相続争いであり、それが決着した同5年(1433)4月には自害している。すなわち、「満済准后記」永享4年4月27日条によると、将軍義教が大友持直に対して大内新介持盛と中務大輔満世の扶持をすることを禁じている。1年後の永享5年4月20日の夜には、九州で持盛が討たれたとの報告が届くとともに、大内の京都雑掌安富掃部と侍所長官山内常煕(時煕)の命を受けた一族の山名遠江守が京都五条の潜伏先に満世を襲い、追い詰められた満世は自害したことも伝えられた。3月始めに満世は九州の持盛のもとを離れて遁世し、伊勢神宮に参詣した後、京都の小家に宿していた。その年齢は50歳前後であった(この項は史料編纂所データベースで確認した「看聞御記」「満済准后日記」「管見記」の記述に基づき述べた)。

2016年8月 8日 (月)

吉見範直について3

 さて問題はここからである。観応3年2月13日讃岐守某軍勢催促状(内田左衛門三郎宛)である。内田家文書に残っているので、宛名は内田氏惣領致世であるが、「讃岐守」
は誰であろうか。最初に国守進氏が内田家文書を紹介した時点では文書名は付されていなかったが、それが『日本大学総合図書館所蔵俣賀家文書』に収録された時点でなぜか「讃岐守」=吉見範直となり、近刊の『中世益田・益田氏関係史料集』でもそれが踏襲されている。すでにみたように吉見範直が「三郎」であることは明らかなのに‥‥。
 この時点の「観応三年」という年号は微妙であるが、致世が宛所であるので、足利直冬や南朝方ではなく、幕府方の人物が致世を幕府方に戻るよう求めたものである。当時の幕府方の人物で讃岐守と言えば、細川頼之の父頼春であるが、この直後の2月22日に南朝との戦いで戦死している。関連して、観応3年頃に比定できる2月17日讃岐守□直書状がある。これも内田三郎に対して同心することを求めており、2月13日の催促状と関連したものであろう。□については判読ができないが、讃岐守であり「範直」でないことは明らかである。一方「細川頼春」の「春」の下の部分が消えて「直」と読まれる可能性はあるのではないか。何より内田氏惣領は観応の擾乱以前は幕府方であったのである。
 ということで吉見範直に関係するとされた文書を確認したが、①から⑤までの5通であり、最後に取り上げた2通は幕府方細川頼春によるものではないか。さらに付け加えると、下俣賀氏の俣賀致弘に関する文書は正平6年10月8日常陸宮令旨(俣賀兵庫允宛)と正平17年正月26日口宣案(兵庫允藤原致弘を兵庫助に任ずる)、貞治4年8月10日俣賀致弘譲状のみである。兵庫允に任官したのも南朝からのものであろう。この一族は貞治4年以前は基本的に反幕府方であった。繰り返しになるが俣賀家文書中の「内田左衛門三郎」は俣賀致治(致義子熊若丸)であり、内田家文書中の「内田左衛門三郎」は内田致世である。最初に『南北朝遺文』で関係文書をみるとわけがわからなくなるが、文書をまとまって残された塊としてみるならば、容易に識別できるのである。島根県が作成・公開している「島根県中世史料集成」(南北朝遺文・中四国)でも「内田左衛門三郎」の内の一部のみ比定している。その基準はまったく恣意的で、俣賀家文書であろうと内田家文書であろうと関係なく惣領致世に比定してしまっている。一日も早く再検討をしないと間違いがさらなる間違いを生む事になる。

吉見範直について2

 この当時、内田氏惣領と俣賀氏はともに「左衛門三郎」であり、後者も時に「俣賀左衛門三郎」とも呼ばれたが、そのほとんどが「内田左衛門三郎」と呼ばれており、両者の識別が肝心である。内田氏惣領は足利直冬方となり、俣賀氏は幕府方である。
 ①は幕府方の俣賀致治宛である。関係文書は数多く残っているが、その実名がわかるのは「観応3年8月日俣賀左衛門三郎致治軍忠状」(益田金吾家文書)のみである。②の「俣賀兵庫助」の実名は不明であるが、彼も幕府方なので、俣賀氏惣領上俣賀氏ではないか。この時点では下俣賀氏の俣賀致弘は「兵庫允」であり、且つ反幕府方であり「兵庫助」とは別人である。致治は上俣賀氏の庶子である。③は内田氏惣領致世宛で、内田家文書に残っている。内田家文書と俣賀家文書で同一文書(内容が同じで宛所が違う)は一通もなく、鎌倉末期以降、両者の間の惣領庶子関係は全く機能していない(惣領家による所領押領をめぐる対立が原因であろう)。 だから、同じ「内田左衛門三郎」宛であっても、内田氏と俣賀氏のものは明確に識別ができる。
  内田氏惣領は直冬方だといったが、③では代官三和氏が幕府方として西黒谷城での忠節を賞されている。内田氏惣領致世の父致景は当初遠江国で幕府方として活動していたが、石見国豊田郷が、父朝員の女子と結婚していた内田三郎致員が反幕府方であった関係で、幕府方に没収されて土屋氏に与えられたのをうけて石見国に入部し、豊田郷は致員の所領ではないことを明らかにして、取り戻す事に成功した。石見国でも幕府方であったが、観応の擾乱期に反幕府方に転じた。所領の確保にはその方がよいと判断したためである。ただし、南朝の京都占領が短期間で失敗した事もあって、反幕府方に転じた国人の中には幕府方に戻る者もあった。その代表が益田氏惣領であり、兼忠が反幕府方に転じたが、その死もあって、父で動乱当初から幕府方であった兼世が主導して幕府方に戻ったと思われる。それは周囲の反幕府方の攻撃を招き、子兼利(兄兼忠の養子となり後継者となった)とともに殺害され、新たに庶子家で反幕府方であった益田兼見が新たな惣領となった。
 内田氏惣領致世も貞松名をめぐり、周布氏庶子で伯父の内田致員跡を継承したとする内兼成と対立していた。兼成の兄は致員女子と結婚して兼員と名乗ったが早世し、兼成は兼員から譲られたと主張し正平7年3月に一旦は南朝から認められていた。これに不満を持った内田氏惣領致世が代官三和氏を幕府方として活動させたのであろう。そのため正平8年12月以前に足利直冬は内田氏惣領致世に貞松名を安堵したが、内兼成が抵抗した。そこで三隅信性に周布兼氏とともに下地を致世代に沙汰付るよう命じている

吉見範直について1

 この人物については、HP「吉見一族 その系譜と事歴」が一番簡潔且つ正確に述べているが、史料集で混乱がみられるので、情報を補足しつつ整理する。
①於石見國致忠節之由、吉見三郎範直所注申也、尤以神妙、彌可抽戦功之状如件、
   觀應三年八月十二日    (花押)[義詮]
  内田左衛門三郎殿 
②自最初迄至于今、於御方致忠節、度々戦功抜群上者、其旨注進可申候也仍執達如件、
   文和二年正月十日    範直(花押)
  俣賀兵庫助殿
③内田左衛門三郎致世代三和彦次郎西黒谷城致忠節之由候、尤神妙、其旨注進可申候、□ 依仰執達如件、
   文和二年二月卅日    □[範]直(花押影)
①②は俣賀家文書、③はその惣領である内田家文書に含まれるが、後者は写で一部は花押が模してある(花押影)。HPにはないが、さらに内田略譜と俣賀家文書に関係史料が各1点ある。
④吉見三郎範直以下凶徒誅伐事、令合力同[助ヵ]四郎頼房、可致軍忠之様[状ヵ]如件
      観応三年五月十二日    判(直冬ヵ)
          豊田兵衛蔵人殿
⑤石見国凶徒退治事、致忠節被疵之由、吉見三河三郎範直注申也、尤神妙、弥可抽戦功之 状如件、
      文和二年四月廿二日  (花押)[義詮]
 ④が一番時期が早いが、吉見助四郎頼房に合力して、幕府方の中心である吉見範直以下を誅伐せよと命じている。内田家文書には観応2年8月15日足利直冬軍勢催促状写があり、石見国凶徒退治のために吉見助四郎頼平[房ヵ]を派遣したので馳参せよと命じている。貞和6年3月24日には九州にいた直冬が、相良孫次郎に一色道猷以下の野心の輩を誅伐するため吉見四郎頼甫を派遣したので馳参せよと命じているが、これも助四郎頼房と同一人物であろう(豊西説話、大日本史料第6編13巻)。
  範直は吉見三河三郎と呼ばれており、系図の記載はさておいて、吉見三河守頼隆の子であろう。観応元年に幕府は高師泰を石見国守護として派遣して反幕府方を鎮圧しようとしたが、却って敗走し、兄弟である師直とともに足利直義により殺害された。その後、幕府は石見国守護の経験のある石橋和義を中国地方に派遣して幕府方国人のつなぎ止めを行った後に、荒川頼詮を新たな石見国守護として派遣したが、石見国西部の幕府方の中心となったのが吉見範直であった。

俣賀氏と内田氏の動向3

 その後は、永和2年閏7月8日に、俣賀新三郎が大内弘世方を排除するために益田城で行った忠節を幕府から賞せられ、康暦元年7月26日には康暦の政変後新たに石見国守護に補任された大内義弘から当知行を安堵されている。その後、理由は不明だが、俣賀新三郎は俣賀地頭職を没収されたが、至徳2年7月11日に大内義弘と弟満弘の対立が復活すると、満弘から元の如く返し付けられている。「新三郎」の名乗りとこの後に残る史料からすると下俣賀氏の一族であろう。康暦2年に義弘と満弘の最初の対立が生じた際、俣賀新三郎は義弘方となった。翌永徳元年に和解が成立して満弘が石見国守護となると、俣賀新三郎の所領下俣賀村地頭職は没収され、上俣賀氏に与えられたのであろうか。これが至徳2年に両者の対立が復活すると、御方を増やそうとする満弘は上俣賀氏から所領を奪い、下俣賀氏の新三郎に返した形となったのだろうか。
 応永28年12月28日には俣賀兵庫尉致貞(景勝)が嫡子掃部左衛門尉致家に俣賀村地頭職と横田田畠等を譲られている。「兵庫尉(允)」という致貞の官職や所領の記載状況からすると下俣賀氏流の人物となるが、嫡子致家の「掃部左衛門尉」との官職名は上俣賀氏の系統であることを示すものである。両方の系統で婚姻関係が結ばれ、両者が統合する形で俣賀氏が一本化されたのであろうか。そのため、俣賀家文書には上下両俣賀家の文書がともに含まれている。
 内田三郎入道朝員以後の内田氏惣領家については、嫡子八郎致景は遠江国で幕府方として活動していたが、石見国では上野頼兼などの幕府方の攻撃を受けて暦応4年10月15日落城に追い込まれた豊田城の工藤三郎致員がいた。致員は朝員を養子とした内田氏惣領致直女子と周布氏庶子内兼次の間に生まれたが、朝員女子と結婚して内田三郎致員と名乗っていた。周布氏(惣領兼宗)とその庶子内氏が南朝方の中心であったことから致員も後醍醐天皇方として活動した。周布兼宗は周布氏系図によると、延元2年には高津道性の後任の南朝方の石見国守護に補任されている。また兼宗の兄弟兼茂は内兼次女子(致員の妹となる)と結婚して内氏を相続し、建武3年には三隅二郎入道信性・嫡子三隅太郎兼知とともに、幕府方の益田二郎太郎兼行(惣領兼世の子)・舎弟三郎・乙吉十郎(乙吉氏惣領)を攻撃し、軍忠状を提出し、信性から承判を得ている。
 以上、なお残された課題はあるが、俣賀氏について新たに気付いた点を述べた。

俣賀氏と内田氏の動向2

 これに対して致義は建武2年正月19日には長門探題北条氏の残党による反乱を鎮圧した際の高津道性実検状を受け取っている。これにより高津道性との関係を深めた致義は動乱が開始されると、後醍醐方となり、上洛した。これに対して上俣賀氏惣領は幕府方となった可能性が高く、致義の子熊若丸とその代官が父とは異なり、幕府方となったのはそのためではないか。それを示すのが建武3年6月 日の俣賀熊若丸代彦九郎宗氏軍忠状である。宗氏は5月13日付けの足利尊氏軍勢催促状(俣賀熊王=熊若丸宛)に応じて幕府方となり九州から上洛した尊氏軍と行動を共にし、大将軍吉見頼隆(幕府方の石見国司)の手に属し、5月25日以降の兵庫合戦では「弥三郎宗景(致景)」と行動を共にしていた。
 この「弥三郎宗景」が上俣賀氏=俣賀氏惣領であろう。これに対して建武2年5月9日了忍召文の中で、致義による濫妨を訴えていた「俣賀・横田両村地頭尼妙戒」が下俣賀氏惣領家の関係者であろう。其の後、上俣賀氏惣領に関する文書は残っておらず(文和2年正月10日に吉見範直奉書により幕府方として忠節を賞せられている「俣賀兵庫助」が上俣賀氏惣領か)、致義とその子致治の系統が生き延びて新たな上俣賀氏惣領になるのだろう。これに対して下俣賀氏惣領家の関係者が俣賀兵庫助致弘である。
 俣賀致弘の初見は正平6年10月8日に常陸親王令旨で疵を被むったことによる軍忠を賞せられている俣賀兵庫允であり、文和2年に幕府方であった俣賀兵庫助とは別人である。致弘は正平17年正月26日口宣案(南朝方の後村上天皇による)により、兵庫允から兵庫助に進んでおり、一貫して反幕府方であったと思われる。
 正平6年9月14日常陸親王令旨では俣賀左衛門三郎に対して、軍忠が賞せられているが、致弘宛と異なり軍忠の内容が記されていない。この時期は弟足利直義に対抗するために尊氏が南朝に降伏していた時期であり、幕府方であった俣賀左衛門三郎(熊若丸→致治)に対しても南朝の常陸宮令旨が出された。ただし、本来南朝方であった致弘と異なり、軍忠の具体的内容は記されていない。ともあれ、上俣賀氏では左衛門三郎致治が、下俣賀氏では致弘が生き残り、貞治4年と5年には幕府方であった上俣賀氏が石見国守護山名義理の守護使から所領の打渡を受けている。これに対して下俣賀氏にはそのような史料は残っていないが、貞治4年8月10日に俣賀致弘が嫡子道祖徳丸に所領を譲っている。代替わりをすることで政治的立場の変更を可能にしたのであろうか。

俣賀氏と内田氏の動向1

 「俣賀(内田)左衛門三郎について」と題して俣賀左衛門尉致義とその子左衛門三郎致治について述べたことがあるが、一部変更が必要かもしれないので、以下に記す。致義が上俣賀氏の出であることには変更の必要がないが、本来は上俣賀氏の惣領ではなく庶子でああった可能性が大きいという点を中心に述べる。
 致義の初見史料は元徳4年5月16日藤原兼氏書状である。豊田郷一分地頭致貞が、俣賀又三郎・鏡円・同孫三郎らが朝忠の語らいを得て致貞領に入り、苅麦などの狼藉をしたというのである。朝忠はその名から内田氏惣領朝員の関係者であろう。前年6月10日には豊田郷地頭代(惣領内田氏代官)兼阿が郷内角村地頭が大嶽村を押領していることを訴えている。大嶽は内田氏惣領の所領であり、それを庶子角村地頭が押領したとするのである。重申状とあり、これ以前から訴えていたが、中々角村地頭は参決しなかった。その報復として、内田氏惣領が庶子俣賀氏一族を語らって報復に及んだのであろう。そのため、俣賀地頭に対して、関係者の名簿を提出して明申すように、藤原兼氏が求めたのである。
 俣賀又三郎以下は俣賀氏一族ではあるが、俣賀氏惣領本人=上俣賀氏ではないと考えるべきであろう。嘉暦2年段階の俣賀氏惣領は俣賀上村地頭内田彦三郎致俊であった。上俣賀氏庶子であった致義は高津道性による長門探題攻撃に活躍し、元弘3年4月13日には高津道性実検状を受け取っている。これに対して、元弘3年5月15日には後醍醐天皇が弥三郎入道に対して、戦功に関する注進状を披見したが、すでに天皇は京都に戻っているので、京都に申し入れることと、長門探題北条時直以下の輩を追罰せよと命じられている。
 弥三郎入道は宛所のある綸旨をもらっており、庶子ではなく惣領であったと考えられる。内田氏惣領は鎌倉末の段階で内田左衛門三郎入道である。承久の乱で石見国豊田郷と貞松名を獲得した致茂以来、惣領は「三郎」を名乗っており、弥三郎入道=内田左衛門三郎入道の可能性が高い。

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