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2016年7月

2016年7月31日 (日)

応永の乱前後の安芸国政治史2

 石見国では応永の乱の直前に大内盛見が石見国守護を解任され、出雲国守護京極高詮がこれに代わったが、一時的な措置であり、応永7年7月までには山名氏利が守護となり、守護代として富坂が入部した。石見国人は大内義弘方となったものも多かったが、『応永記』の記すように乱の最中に石見国衆200人が幕府方に寝返っている。ここでも守護よりも幕府を重要視したことになるが、反義弘派の中心は大内満弘を支持して義弘と対立した益田氏であった。乱直前の応永6年11月時点で益田・三隅・福屋・周布氏が起請文を掲げ同一歩調を取ることを申し合わせているが、大内義弘との関係が緊密であった周布氏や三隅氏の立場は微妙であった。そして義弘滅亡後は、早速所領の没収・安堵をめぐり、守護代富坂と国人間の対立が発生し、大内盛見攻撃に支障が出ている。守護正員山名氏利が石見国内に入部し活動を始めたことが確認できるのは応永8年11月であった。備後国では今川了俊に代わって管領細川氏が守護になっていたが、応永8年3月に山名氏惣領時煕に代わった。
 これに対して安芸国守護は、応永2年に今川了俊に替わって九州探題となった渋川満頼が、その前年の応永元年以降安芸国守護であったことが確認できるが、応永の乱の前後で交替はなかったと思われる。そして応永11年になってようやく山名満氏が新たな守護に補任された。幕府派と反幕府派の対立に大きな影響力を持つ大内氏の問題が片付いたため、国衙領の押領問題を含めて本格的に対応を開始したが、所領の安堵をめぐる方針や守護代小林氏の動きが国人の反発を買い、同年9月には33名の国人が署判を加えて国人一揆が結ばれた。
 従来は、2年後に守護が山名満氏から煕重に交替したところから、国人一揆側が勝利したとの評価が一般的であったが、1978年に岸田裕之氏がこの一揆を本格的に取り上げた論文を発表し、そこでは実質的には国人一揆が解体され、一揆が敗北したと評価された。ただ、近年の飯分徹氏の研究が指摘したように、山名満氏の安芸国守護就任の年次や関係文書の年次比定並びに個々の内容に関する氏の評価には再検討が必要であり、全体としては幕府の意図は国人一揆により阻止され、その後の山名氏の支配にも大きく影響したというのが妥当なところである。山名満氏の守護就任とともに東寺側も安芸国衙領支配の復活をねらって新たな代官を補任したが、それもうまくいかず、その後も有名無実の状態が続き、守護山名氏による安芸国支配は十分浸透しないまま終わった。

応永の乱前後の安芸国政治史1

 大内氏の動向に大きな影響を受けた14世紀後半の安芸国政治史であったが、応永の乱前後について残された史料からわかる点をまとめる。大内義弘は幕府の側に立ち国人による荘園・公領の押領を押さえる立場にあったが、実際には多くの所領では押領が継続していた。これに対して幕府から所領の安堵や預け置きを受ける国人がいたが、前者の方が多数であったと思われる。前者の国人らは東寺領国衙領のみならず、厳島神社領についても押領していた。
 厳島神主は大内義弘と満弘の対立では満弘方であったが、明徳4年末に義弘と満弘の対立が解消すると、安芸国守護渋川満頼が武田氏等による厳島神社領の押領を抑えようとし、大内義弘は志芳庄内二分方を厳島神主に寄進している。このことが、厳島神主親胤が応永の乱で大内義弘とともに堺に籠城する原因となった。
 応永の乱に際しては、安芸国では大内義弘の味方をした国人は少なかったと思われる。それまで義弘方で幕府方でもあった国人の多くも幕府の命令に従った。ただし、大内義弘滅亡後も国人の多くは所領の押領を続けており、その意味では反幕府方が多数を占めていた。後述の岸田裕之氏は応永11年の安芸国人一揆の参加者の多くが大内盛見派であるとされたが、安芸国人にとっては幕府と守護に抗して所領の押領をいかに継続するかが問題であり、盛見の兄義弘は幕府派として安芸国人の多くと対立していた。
 幕府による大内弘茂を助け盛見を討伐せよとの命令が福原弘世宛のみ残っているが、彼を毛利氏惣領としたのは毛利氏の多くが、所領の押領を続け反幕府方であったことによる。本来の惣領備中守も後述の国人一揆に参加している。
 応永8年12月に弘茂が討ち死にしてから、次なる対応がとられるまでに1年近く要しており、その間に盛見の支配は強化された。すなわち、応永9年末になって介入道道通が擁立されたが、ほとんど戦果を上げないままに、10年末には防長を追放され九州へ逃れた。そのため応永11年5月30日までに、幕府は盛見を大内氏当主・防長守護として追認した。

2016年7月30日 (土)

大内満弘の没年

 兄大内義弘と対立し、最後はその死が応永の乱の遠因の一つとなった大内満弘であるが、その没年については混乱がみられる。応永5年10月16日に大内義弘は京都を出発して九州に下っている(迎陽記)が、藤井崇氏は系図纂要・応永記の記述を根拠として応永4年秋に死亡したとする。その一方で、氏の論文の主要文書表では応永4年12月7日大内義弘遵行状(伊予守宛)と応永5年2月18日伊予守大内満弘遵行状(杉但馬入道宛)を引用するのである。応永5年2月18日の時点で大内満弘が健在であったのはまごうかたなき事実であるのに、応永4年秋死亡説に疑問を呈さないのは支離滅裂である。その影響がWikipediaにも出ている(これはそれを書いた人の問題だが)。応永6年3月3日の時点では大内義弘が豊後国守護であることが確認できるので、これ以前に満弘が戦死したのは確認できる。
 問題となるのは、応永4年に比定されている12月7日大内義弘書状(益田越中入道宛、益田家文書)である。この中で、九州事について大友・菊池両陣が落居したことを伝えるとともに、「伊予守御合力候者喜入り候」と満弘の合力について、益田道兼に協力を依頼しているのである。『応永記』では義弘と弟の盛見・満弘が一緒に九州へ渡ったかのように記すが、石見国守護である盛見はともかく、豊前国守護満弘は豊前国から合流するのが合理的であろう。応永5年10月に京都を発した義弘は12月7日の時点で九州におり、そこから満弘の働きかけをする際に、その妻の実家である益田氏(道兼)に協力を依頼したのであろう。この文書は応永4年ではなく5年のものとなる。その際の問題点が満弘がいつ討死したのかという点であるが、それとともにいつ豊前国守護となったのかもこれまで明確にされてはこなかった。
 満弘と豊前国との関係を示す初見史料は応永3年12月13日豊前国御許山霊山寺鐘銘であり、「大捨主従五位下伊予守多々良満弘」とみえる。この時点では兄義弘から豊前国守護の地位を分与されていたと思われる。明徳4年末の両者の和解(益田庄の益田氏への返還)を受けて、大内氏領国の再編成がなされ、石見国は盛見が、豊前国は満弘が守護になったのだろう。応永2年までは義弘が石見国守護であったことが確認できる。
 応永5年2月15日伊予守(満弘)書下に続いて、同年閏4月 日宇佐八幡宮神官等申状(到津文書)には「去年八月十八日に予州御方が到津庄について領家職が有る(守護領となっていたのだろう)といって使節を派遣し点じ置いた」と述べており、応永4年8月時点で満弘が守護であったことと、応永5年閏4月時点でなお健在であったことがわかる。
 応永5年11月には石見国人出羽祐直が軍忠状を提出して大内盛見の承判を受けており、盛見は義弘とともに九州に入ったことがわかる。その時点で満弘は参加しておらず、益田氏に協力を依頼して、満弘の参加が実現したのである。その時期は応永6年初めであろう。そして3月3日に大内義弘が豊前国守護としてみえる以上、参加してまもなく満弘は討死したことになる。要請してようやく参加を実現した義弘としては、結果として悔いの残るものとなり、『応永記』の記すように、将軍足利義満から何ら音沙汰がなかったとしたら、大きな不満となったであろう。残された子(後の五郎満世)の事もある。以上により大内満弘の討死の時期は応永6年1~2月とみて間違いなかろう。

2016年7月26日 (火)

康暦の政変の出雲国への影響2

 ただし河野氏による西大野庄半分・朝酌郷並びに成相寺支配は短期間にとどまった可能性が大きい。それぞれ別の人物に与えられ、その人物等を経て、大野庄と成相寺に関係の深い日御崎社検校小野氏と成相寺が後に文書を入手したのであろう。大野庄については、京極氏一族で、毛利氏の支配下で大野庄支配を認められた宍道氏が関わりを持った可能性がある。
成相寺地頭職のその後については応永3年2月9日成相寺置文が参考になる。
 真言宗の古刹成相寺は承久の乱までは庄(成相寺)の村を有していたが、乱により東国御家人椎名氏が地頭に補任され、その支配は有名無実化していた。それが「上之御料所」となった。将軍家御料所とも考えられるが、その後の状況からすると守護領となったと解釈すべきであろう。具体的には河野氏の後に守護山名氏の支配するところとなった。その山名氏は明徳の乱で没落し、当然のことながら、新守護京極高詮の所領となった。すると京極高詮は成相寺を自らの祈願寺とし、所領の一部を成相寺に寄進し、成相寺の再興が実現したとする。
 山名氏と成相寺との関わりを示すものとして、明徳2年11月15日竹中貞昌譲状がある。竹中氏は成相寺に隣接する佐陀庄内に相伝所領を有していたが、守護山名氏のもとで在京して数々の軍功を積んで感状を与えられていた。そして山名氏から多久和五郎左衛門の扶持を依頼されたため、自らの所領の一部を譲っている。従来、竹中氏にとっての「御屋形」=守護とは京極高詮であると注記されてきた(『松江市史』史料編でも)が、時期が明徳の乱の直前であることと、多久和氏が飯石郡多久和に関係する武士であることから、以上のように考えるべきである。これがさきほどの、成相寺地頭職を守護山名氏が得たことを推測させる。山名氏は佐陀庄に対しても支配権を有し、その関係者である竹中氏を家臣化して京都に在京させていたのである。
 至徳元年の室町幕府御教書は最近の史料編纂所の調査でその存在が明らかとなったが、この文書が発見されたことにより、従来、必ずしも明確でなかった個々の史料の関係が明確となり、以上のように考えることが可能となった。

康暦の政変の出雲国への影響1

村義宗が康暦2年3月8日に富田新宮自害
高木直清が康暦2年3月5日富田城合戦討死
新宮清綱が康暦元年8月24日惣領敵対により富田庄新宮城で討たれる
福依信高(古志宗信の孫)が康暦2年3月8日富田庄新宮城討死(以上佐々木氏系図)
至徳元年9月12日 西大野庄半分と朝酌郷が御下文に任せ河野駿河守信益に沙汰付け
至徳2年4月27日 成相寺地頭職を河野駿河守信益に安堵に任せて沙汰
 「隠岐国守護富田氏について」の中で康暦の政変の影響について述べたが、その補足を行う。康暦元年4月に管領細川頼之が失脚し斯波義将に交代すると、西国を中心に守護の交代も行われた。出雲国守護は京極高秀から山名義幸に、隠岐国守護は佐々木薩摩守(富田直貞子)から山名時義に代わった。京極氏と山名氏ならびに富田氏は観応の擾乱以降の出雲国に於いて激しく対立し、戦っており、その下には幕府(京極)派国人と反幕府派(山名・富田)がいた。今回は幕府派であった京極氏と反幕府派から幕府派に復帰していた富田氏が失脚し、山名氏一族が新守護となった。
 出雲国守護山名義幸の守護代となったのは塩冶道彭(上郷道清→誤り)であった。道清は塩冶高貞滅亡後に塩冶氏惣領となった時綱の子で塩冶郷内上郷を支配する庶子であったが、嫡子であった兄重綱の死により、塩冶氏惣領となった。京極氏と山名氏の対立の中では京極氏方であったが、新たに守護となった山名義幸は塩冶氏惣領を守護代とした。
 これに対して、富田氏は隠岐国守護のみならず、隠岐国と出雲国内に有した所領も没収された。守護の交代に伴い、両派の国人の間で富田庄を舞台に激しい戦闘が行われた。高木・新宮・福依氏は富田庄内の国人で、富田氏ならびに富田氏を母とする古志氏の庶子であるが、隠岐国村氏は佐々木泰清の前任の出雲国守護であった兄昌義の子孫にあたる。隠岐国守護富田氏との関係から、合戦に参加したのであろう。
 富田氏領が没収されたことを示すのが先に言及した至徳元年9月12日室町幕府御教書(小野家文書)である。伊予国河野氏は細川頼之の失脚により、頼之に替わって河野氏惣領通直が伊予国守護に補任されたが、11月29日には頼之との戦いで討死にした。幕府はその遺児亀王を新たな守護に補任したが、当然、河野氏一族でそれを補佐する人物がいたはずである。河野駿河守通益については現存する河野氏系図には該当する人物が見当たらないが、一族の有力者として、富田氏跡であった西大野庄半分・朝酌郷を与えられたのであろう。ただし、富田氏や西大野庄の残りの半分を支配する大野氏惣領などの抵抗もありその支配は容易ではなく、至徳元年9月の段階で沙汰付けが守護に命じられたのであろう。至徳2年4月27日室町幕府御教書で同様に沙汰が命じられている成相寺地頭職も同様であろう。本主の抵抗があったのである。
補足 塩冶(佐々木)三河入道道彭と通清が別人であることは「佐々木三河入道道彭について」で述べた。

2016年7月23日 (土)

Windows10への移行(その後)

 10の無料アップグレードの終了が近づいたので、デスクトップ2台をHDDメインからSDDメインに変更した。1台(デル)は新規に480Gのものを購入して、8.1をインストールしてから10にアップグレードした。2年ほど前は512Gが3万7千円ほどしたが、現在は480HGが3分の1の価格で購入できる。もう1台はXPS15で使用していたSSDを流用した。XPSの方は本来32GのSDDを組み合わせてHDDのみより早く立ち上がるタイプであったのでHDDに戻し、960G(2万2千円で購入しXPSで使用)のSDDを自作デスクトップ用にした。もう1台と同様の作業で10にアップした。
 デルではHDDも7200回転のハイブリッドタイプのものに交換していたが、10の立ち上がりは早いが、インターネットの接続が完了するのに時間がかかった。SSDにすることでトータル時間は半分以下に短縮した。8.1のインストールをする過程で、デルのデスクトップとノート(こちらはオークションで入手し、7とoffice2013が導入済みであったが、32ビットのタイプだったので、SSDを仕切り直して、10へのアップとオフィス2016を導入して、両方使えるようにした)の両方でUSBからのインストールができずに困惑した。とりあえず、DVDから(ノートはUSB接続の外付けドライブを使用)インストールしたが、なぜできないのか今でも不思議である。自作のデスクトップでは当然、何の問題もなくできた。いずれにせよ、自分自身がPCの関する情報を以前ほど知らないことも原因であろうか。ほとんどの場合はネットで調べると対応は可能であるが。
 マイクロソフトオフィスのインストールも2013からはパスワード・IDを入力してサインインしてからできるようになり、オフィス365の場合は、1台の使用をやめて、他の1台にインストールすることが可能となった。現在は365と2016を各1ライセンス、2013と2010を2ライセンス、2007を4ライセンス(うち2ライセンスはプレインストール)という形で運用している。1ライセンスにつき同時使用しなければ2台までインストールできるできるので、14台まではインストールできる(パッケージ版はアカデミック)。
 一太郎の方も2013からはシリアル番号だけでなくライセンスキーの入力が必要となった。10で使用するにはATOK2012以前はやや不便である。2013から2016まで各2ライセンス計8ライセンスを所持。毎年アップする必要はない気がするが、ここ最近は続けてアップしている。アドビの方も4、5.5、6に続いてCC(こちらは同じPCなら6もインストール可能)を導入しているが、使用頻度が低いので使用方法を熟知してはいない。ドリームウィーバーは6ではできるのに、CCでは以前からの表がうまく修正できないという問題がある。CCの大量のソフトの中の必要なソフトをこの夏の期間に慣れたい。

2016年7月18日 (月)

乙吉氏庶子家について

 近刊の『中世益田・益田氏史料集』では乙吉氏関係史料3点が新出史料として掲載されている。2点が「九州大学図書館所蔵桧垣文庫」、1点が「扱古帖」に含まれている。ともにネット上で写真を見ることもできる。前者は「九州大学附属図書館付設記録資料館ニューズレター 2016  VOL.10」に山本隆一朗氏(九州大学大学院人文学府)による資料紹介が掲載され、後者は国文研のデジタル公開所蔵者一覧の「九州大学附属図書館 支子文庫 等」から閲覧できる。いずれも『新修福岡市史1』で活字化されている。
 ただし、山本氏の紹介では同じ図書館に所蔵されている「扱古帖」所収文書については言及がなく、それがために乙吉氏惣領家と庶子家の文書の区別がなされず、両者を混同したまま「南北朝期 乙吉氏系図」が作成・掲載されている。そこで言及されている久留島典子氏の科研報告書の「原屋邦司氏所蔵文書の紹介と考察」で示された系図(乙吉一分地頭職)とも異なったものとなっている。
 原屋家の文書は庶子家のものに限られているが、桧垣文庫の2点は惣領家(乙吉・土田両村地頭長益女代兼縄申状)と庶子家(乙吉大貳房道祐代六郎三郎宗弘軍忠状)各1点、「汲古帖」の1点は応安元年後6月24日大内氏奉行人連署奉書であり、署判者沙弥と伊賀守の組み合わせは、同年11月14日奉行人奉書と同一で、沙弥は応安3年9月18日常秀打渡状と応安4年5月21日奉行人奉書(益田家文書)にもみえる「常秀」、伊賀守は『益田・益田氏史料集』でも注記されている「宮川頼直」である。乙吉・土田村田畠屋敷等の押妨を訴えられた惣領乙吉十郎(長益)女子が残したものである。3点とも乙吉・土田村が益田氏領となるなかで益田家の所持するところとなり、その後長府毛利家文書中の乙吉家文書と同様益田家から流出したものであろう。特に「汲古帖」の1点は訴えた側ではなく、訴えられた側が残していたことで珍しい(永安氏関係史料にも訴えられた側が残した文書あり)。 惣領家についてはすでに述べたので、庶子家について以下に述べる。
 久留島氏は①藤原宗胤(尊印?)→②六郎太郎(道祐?)→③けんしん房→④おとつる女→⑤彦三郎の流れを示され、道祐は一旦六郎三郎を養子として庶子分の田畠を譲ったが、姿を消したため(南朝方となったのであろう)、新たに六郎次郎入道道教を養子として譲り直している。道教は貞和7年2月に九州の足利直冬のもとに赴き安堵を申請し認められたが、そこでは乙吉村一分地頭と名乗っている。道祐から六郎次郎道教への譲状の冒頭には「□□六郎次郎入道道教譲渡田畠事」とあり、尊印からの譲状には冒頭に「‥‥□胤譲渡乙吉別符内」とあることから、宗胤への譲状であろう。その前の部分は文字の欠損でわかりにくいが、尊印が嫡子二郎に田畠を譲ったが、二郎自身の子が生まれなかった場合は、女房(尊印の妻か)一期の後は六郎宗胤が領作すべしとあり、宗胤は尊印の庶子であろうか。
 宗胤は六郎太郎に田畠を譲ったが、これが道祐であろう(永仁7年の乙吉村地頭道祐は惣領家の人物で、この道祐とは別人)。道祐以後については、久留島氏の述べたれた通りである。なお、桧垣文庫の暦応2年11月日乙吉大貳房道祐代六郎三郎宗弘軍忠状にみえる大貳房道祐は②の六郎太郎道祐と同一人物であろう。六郎三郎宗弘は一旦姿を消した六郎三郎が復帰したのであろうか。石見国の情勢は当初は三隅氏を中心とする南朝方が郵政であったが、大将上野頼兼が派遣され、長門国や安芸国の幕府方武士が動員されると、幕府方が優勢となった。以上、乙吉氏庶子家について述べたが、尊印が惣領か庶子かについては不明である。

2016年7月 8日 (金)

三隅氏と大内氏

 三隅氏は大内義弘と満弘の対立において、石見国人の中では真っ先に義弘方となり、その他の国人の組織化に活躍した。当時の当主信世は三隅氏庶子兼信と三隅兼連女子の間に生まれ、前当主直連女子と結婚して婿入りをしていた。信世の次の当主は嫡子氏世であり、庶子盛世は一族の三隅兼世の養子となり、庶家を相続している。
 以上のように、信世とその子氏世・盛世はいずれも「世」の一字をその名に付けており、大内氏との密接な関係がうかがわれる。これに対して、益田兼見(祥兼)の嫡子兼世は、康暦内戦後半戦で義弘と対立すると、その名を兼顕に改めている。内戦終了後には兼顕嫡子兼家を前面に立てるが、実際は兼顕が実権を持ち、足利義満が出家すると、大内義弘ととともに出家しており、義弘との関係も改善していた。
 義弘が応永の乱で討伐された後に、幕府の支持する兄弟との争いに勝利して、大内氏当主となったのは義弘の弟盛見であった。ところが盛見は永享3年に筑前国での合戦で益田氏当主兼理等とともに戦死した。これにより、盛見の後継者をめぐり、義弘の子である持世と持盛による争いが生まれた。両者とも明徳5年の生まれであり、異母兄弟であるが、康暦内戦の終了後に生まれた義弘の子が祖父弘世にちなむ「世」をその名に付けていることが注目される。
 幕府から後継者に指名されたのは持世であったが、一時は持盛を後継者とする案もあり、幕府の指名に不満を持つ持盛が従兄弟にあたる満世(満弘の子、母は益田兼見女子)とともに挙兵し、一時は持世を破って後継者の地位を得たかにみえたが、石見国三隅氏のもとに逃れていた持世が、大内氏家臣と領国内の国人の支持により、永享5年には持盛・満世を討って後継者争いに勝利した。問題はなぜ、持世が三隅氏のもとに逃れたかである。益田氏は当主兼理とその嫡子が死亡し、後継者問題(幼少の松寿丸が擁立される)があったこともあるであろうが、益田氏女子を母とする満世の存在からして、その立場は微妙であった。これに対して、康暦内戦で父義弘を支持し、当主氏世も「世」の一字を付ける三隅氏を持世が頼ったのであろう。これに先立つ永享元年には三隅氏世と益田兼理との間で弓矢(合戦)に及ぶ状況があり、大内氏と石見国守護山名常勝に対して両者の合戦を停止させるよう、幕府が命じていた。

2016年7月 6日 (水)

宛名の切り取られた文書再考

 年未詳6月24日大内義弘書状(長府毛利家文書)について、康暦内戦後半戦の至徳3年のものであるとの比定をしたが、今回の大内義弘の花押の変遷を踏まえると、康暦2年6月24日のものであると修正する。本来は永安氏の文書であったのが、永安氏領が益田氏のものとなったことで益田家文書に入り、さらに益田氏から毛利氏に献上され、長府毛利家文書として残ったものである。なぜか2度にわたり編纂所の影写本から筆写したメモがあるが、その花押はⅡ型のものであることが明白で、至徳3年の花押とは異なっている。康暦2年とした藤井崇氏の比定が正しかったことになる。ただし、これを周布氏に宛てたものとする氏の説は成り立たない。周布氏宛の文書が益田氏と長府毛利家文書にまったく残っていない事と、氏が関連文書とした周布氏宛の文書は至徳2年のものであることによる。
 康暦2年6月24日には、大内義弘が周布氏に対して、すべては三隅氏に伝えてあるので談合していただきたい事と、周布氏を頼りにしている事、さらには三郎満弘が福屋氏のもとへ越していったことについては承知したことを述べている。この書状も年未詳であるが、5月28日の安芸国内郡の合戦で義弘方に敗北した満弘の動向を述べており、他の関係史料とも合致している。これに先立つ6月7日書状では、義弘が先日の書状が到着したかどうかを確認するとともに、石見国の事は面々を頼りにしているとして、三隅氏と同心することを求め、子細は三隅氏から連絡があるかと述べている。
 ここからわかることは、石見国人の中で、真っ先に義弘方としての旗色を鮮明にしたのが三隅氏と周布氏だという事で、義弘も三隅氏から周辺の国人への働きかけを強め、石見国内の国人の味方への組織化を図っていたということである。それに対して福屋氏が満弘方の中心であった。周布氏が義弘方となったのは、同年7月19日幕府御教書で、義弘の注進に基づき、幕府が周布入道の忠節を賞していることから明白である。
 6月24日書状の内容に帰ると、そうした中、永安氏も当主は三隅氏のもとを訪れ、その子が義弘のもとを訪れたことがわかり、義弘方となった。当主が応安4年に益田祥兼を弥富名下村半分地頭職の問題で訴えた永安周防入道祥永であり、その子が後の康暦内戦後半戦で益田氏攻撃の一翼を担って遠田城に入った永安左近将監である。嘉慶2年11月19日には大内氏奉行人から遠田城の警固を解くように命じられており、内容的に先行する年未詳6月9日の奉行人書状は、後半戦開始2年目の至徳3年に比定できる。年未詳6月20日奉行人書状(益田家文書)では、本領についての訴えは承知したので、代官を遣わして知行あるべしと述べているが、これも至徳3年に永安氏に宛てたものであろう。
 これに対して年未詳8月13日大内義弘書状(益田家文書)は、同日付で得屋入道に得屋領家職と地頭方四分方を預けた義弘書下の関連文書で、「得屋入道」に宛てて、石見国守護に正式に復帰したことを伝えたものである。ともに花押はⅢの2型である。以上、宛名の切り取られた3通の書状について、現在の見解を述べた。

2016年7月 3日 (日)

大内義弘の花押

 この問題については、花押かがみの室町時代1の刊行により解決されるであろうが、義弘の花押の変化の変遷は比較的わかりやすく、無年号文書の時期の比定が可能なので、以下に述べる
 『大日本古文書」の応永6年12月21日条に義弘の死亡記事とともに、5種類の花押が掲載されており、その違いは明確である。応安7年9月6日の花押の初見史料(保阪潤治氏所蔵文書)は父弘世に類似したもの(Ⅰ型)であった。それに継ぐ康暦元年7月26日のもの(俣賀文書)は父との路線対立を背景に、まったく違ったもの(Ⅱ型)となっている。Ⅱ型の左側は①上下に伸びる線と②右上から左下へのが交差する形であり康暦2年5月14日の益田家文書まで確認できるが、永德元年5月14日の前田家手鑑からは、①が左上から右下へ伸びる線となり、②が上下に伸びる線に変わっている。これをⅢ型とする。Ⅲ型も永德2年12月8日のものから、右下の線のはね方が変わっている(Ⅲの2型)ことが確認できる。至徳3年12月7日の出羽文書まではこの型である。
 その後、義弘の文書で残っているものは写が続き、明徳元年5月10日の興隆寺文書では最後のはね方が再び変化して、左上方向であったのが、真上に伸びるようになる(Ⅳ型)。明徳2年のものは確認できないが、明徳3年1月29日以降のものは、はね方が大きくなる(Ⅴ型)。これが応永4年12月7日までは確認できる。応永2年7月20日の出家は花押には目立った変化をもたらしていない。応永5年のものは残っておらず、最後の応永6年のものは、また最後のはね方が変化している(Ⅵ型)。
 大日本史料の5つの花押は、Ⅰ型・Ⅲ型・Ⅳ型・Ⅴ・Ⅵ型型が掲載されているが、なお子細にみれば、Ⅱ型、Ⅲの2が存在し、最大7タイプがあることになる。これにより、無年号文書の時期比定はかなりのところまで可能となる。
 実際の花押をみないとわかりにくいことは重々承知しており、関心のある方は、東大史料編纂所のデータベースのうち、大日本史料7編人名カードデータベース(新田英治氏による労作である)で、「義弘」とのみ入力すると、大内義弘の主な関係文書がリストとして出てくるので、その中から、花押のあるものをクリックして選択すると、その文書の義弘の花押が実際に表示されるので、若干手間ではあるが、みていただきたい。論者はその画面をPDF化し、そこから花押の部分を取り出して、ワード上で配置し、山口県史史料編の別冊の花押一覧と併せて考えた。なお、義弘の関係文書を確認するには、編纂所データベースのうち、「日本古文書ユニオンカタログ」で「大内義弘」で検索すれば、ほぼ網羅した形で表示される。

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