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2016年6月

2016年6月28日 (火)

康暦内戦の内実

 康暦内戦の見直しをしてきたが、「康暦内戦」との名称や、大内義弘と満弘の対立という捉え方がそもそも間違っている。南北朝内乱を契機に国人層が庄園を押領し、自らの支配下に置こうとしたのに対して、幕府がこれに歯止めをかけようとしたのである。それが、幕府による大内弘世抑圧とからんで、義弘対弘世・満弘という図式がある一時期生まれたものにすぎない。
 弘世の死により義弘・満弘兄弟の間で和解が成立したが、それは所領の押領を続ける国人にとっては無関係であった。問題は幕府に面従腹背しつつ、自らの利益を守ることである。幕府方となった国人は、その時点では幕府方である方が結果として得るものが多いと解しただけである。ゆえに、幕府方と反幕府方のメンバーは固定的ではなく、刻一刻と変化している。たとえば、石見国では周布氏が、安芸国では石見吉川氏が大内義弘との関係を強め幕府方として活動してきたが、応永の乱で義弘が討伐された際に、周布氏と吉川氏は反幕府方であった。
 岸田氏のように応永の安芸国人一揆の背景として応永の乱のみを考えるのは論として十分ではない。南北朝動乱時の状況がいわゆる「康暦内戦」により維持・拡大していたのである。石見国でも、国人間で幕府への帰服の時期が異なり、それが対立する所領をめぐる優劣となっていたが、それは一時的なもので、いくらでも一発逆転可能なものであった。

2016年6月25日 (土)

大家西郷について2

 貞治元年11月2日には義詮袖判下文により井田・津淵村は幕府方の蒔田公継に与えられた。蒔田氏は在地名を苗字とし名前に「公」の字が含まれることから大家東郷大家氏の一族であると思われる。しかし、その後、大内氏の幕府復帰により南北朝の動乱が終了すると、石見吉川氏と福屋氏も幕府に従っており、井田・津渕村をめぐって蒔田氏との間で競合が生じたであろう。津淵村は康暦2年12月27日に義満御判御教書により、石見吉川氏一族の庶子吉川雅楽助に与えられ、井田上村は明徳元年11月2日には義満御判御教書で大家東郷とともに大家氏惣領公兼に安堵された。いずれも康暦2年から明徳4年までの大内氏に関係する内戦で義弘方となった人物であった。
 石見吉川氏惣領で後に安芸国大朝庄に本拠を移した吉川経見は、すでに述べたように九州に出陣した際に、安芸国守護今川了俊とともに大内義弘にも軍忠状を提出して承判を受けるなど、大内義弘との関係を深めていた。その父経兼の妻は周布兼氏女子であり、周布氏もまた義弘方の中心であった。乱勃発の前年の康暦元年8月には福屋氏一族である市木因幡入道知行分が経見に預けられ、後半戦が勃発した至徳2年10月には市木郷と仁万石川村が経見に預けられているが、仁万石川村も福屋氏一族の所領であった。
 その後、応永32年6月2日大内盛見書下により井田村が家臣の右田三郎貞俊に与えられた。それ以前に大内盛見の邇摩郡分郡知行とともに、井田村が盛見領になっていたのである。
 井尻村は八郎太郎兼基の嫡子兼法の代に、周布兼氏に譲られ、それを康暦3年2月に大内義弘が安堵している。大家西郷に権益を有し、井尻氏に女子が嫁いでいた福屋氏は、この当時、義弘と対立する大内満弘を支持していた。永享5年10月5日周布観心(兼家)譲状には井尻とならんで福田もみえるが、福田は鎌倉時代末には福屋氏庶子横道氏の所領であった。
 戦国期以降は、大家西郷に小笠原氏や福光氏も進出し、所領をめぐる競合関係はより複雑化するが、この競合をもたらしたのが南北朝動乱終了後に約15年間続いた康暦内戦であった。出羽上下郷については幕府方であった君谷氏が与えられたが、備中国から石見・安芸両国に進出した高橋氏との間で対立・競合が続いたが、これも単に両氏の対立ではなく、南北朝動乱とそれに続く内戦で生じたものが戦国期に至るまで続いたものであった。その意味で、康暦内戦は芸石両国に大きな影響をもたらした。

大家西郷について1

 すでに述べてきたように、大家西郷は非益田氏系御神本氏の所領であった。その内部は細分化され、井尻村・津渕村・井田村・横道村・殿村・福田村・大田村等からなる。井上寛司氏の『温泉津町誌』上での分析があるが、大家西郷全体が福屋氏領であったとの説を含めてなお課題は残されている。
 大家西郷惣領地頭職は西郷内井尻を苗字の地とした井尻氏が保持、福屋氏初代兼広が得たのは庶子分であった。具体的には福屋家畧系にみえる横道・福田(殿村も)・井田・大屋[畠](太田か)と永安兼祐と結婚した良円(初代兼広子)の所領であった津淵であるが、横道と井田については、2代目兼仲子兼継が福光を譲られた周布兼政女子と結婚したのと同様に、それぞれを譲られた非益田氏系御神本氏女子と結婚して得た可能性もある。まとめると、大屋西郷の井尻を中心とする西半分は惣領が支配し、東半分は細分化されて庶子領となったが、婚姻関係を通じて福屋氏関係者領となった。
 建治3年10月9日に大家庄領家が、大屋西郷と東郷の狩集(狩倉に関する権限か)について、西郷地頭の主張を退け、東郷の支配を認めている。東郷地頭は大家氏を苗字とするように、大家庄全体に対して権限(惣公文職)を有した。西郷地頭とは後の井尻氏につながる人物であろう。大家西郷の西側は福屋氏関係者の所領となるが、それは良円領津淵を除けば14世紀初めのことだったと思われる(福屋家畧系)。
 福屋氏3代目兼親は庶子兼秀を弟福光兼継女子と結婚させ、女子を井尻氏惣領兼忠(有)に嫁がせた。兼忠の子八郎太郎兼基は正平6年8月19日には南朝方から所領を元の如く安堵されているが、文和2年5月25日には幕府守護荒川詮頼から当知行安堵を受けており、反幕府方であったのは観応の擾乱期の一時的な状況であった。この時点でも石見国内ではなお反幕府方が優位に立っており、周辺の反幕府方国人による所領の押領の危機に直面していたと思われる。貞治4年5月6日守護山名義理奉書によると、井尻村内高野寺院主が井尻氏に敵対したことを訴えた八郎太郎兼基がその支配を安堵されている。
 西郷東部を支配した福屋氏関係者の多くは反幕府方であったと思われる。津渕村については石見吉川氏の経明(吉川経茂と永安氏出身の良海の子、当初は経兼を名乗ったが、動乱開始とともに幕府方となった時点で経明に変更)が康永元年に与えられたが、観応の擾乱期以降は、長らく反幕府方となり、その名も元の経兼に戻していた。

2016年6月21日 (火)

吉川経見の関係文書2

 一般的には、安芸国守護は明徳3年に今川了俊から細川頼之の弟で管領となった頼元に交替したとされるが、明徳元年5月6日に今川了俊が吉川駿河入道道常息女の大朝庄内知行分について挙状を進めたのを最後に、安芸国についての文書はみられず、8月17日には大内義弘が吉川讃岐入道玄龍に軍忠により安芸国山県郡志路原庄を預けたとして、御下文を沙汰されるよう挙状を提出している。次いで10月11日には義弘が天野蔵人に対して志芳庄二分方を本の如く返している。当時の幕府は山名氏抑圧を進めており、同年の山名氏惣領時煕討伐に続いて、翌2年末には山名氏清・満幸の討伐を開始し、3年正月にはこれを山城国内野合戦で破って敗走させた。そのためにも安芸国の支配を大内義弘に委ねたのではないか。明徳の乱が終了した明徳3年正月に安芸国守護は義弘から細川頼元に交替した。義弘には和泉国と紀伊国守護が与えられた。
 その後、経見についてはしばらく史料が残っていないが、応永11年8月3日には、新たに安芸国守護に補任された山名満氏から当知行地を安堵されている。この背景として、経見と大内義弘との密接な関係が考えられる。石見国の周布氏も応永の乱の前後の文書は残されておらず、応永9年に兼仲が死亡してその子兼宗に代替わりしたことで、応永9年6月1日に石見国守護山名氏利から当知行地の安堵を受けている。周布兼仲と吉川経見(その父経兼の妻は兼仲の兄弟である)とともに大内義弘と密接な関係を有し、応永の乱に至る時期にも文書を与えられてたはずであるが、義弘の滅亡により、その文書の有効性は失われ、破棄されたと思われる。
 以上、吉川経見文書をみる中で、通説とは異なり明徳元年後半から明徳3年正月まで、大内義弘が安芸国守護であったとの見解を述べた。同年8月5日大内義弘起請文に述べられた内容と矛盾はしない。毛利廣内は大内義弘の指揮下で山名氏討伐にあたっていたが、所領をめぐる不満から、子千代若丸に所領を譲った上で無断で安芸国に下向し、合戦に及んで討死したのだろう。

吉川経見の関係文書1

 吉川経見は三隅氏の庶子永安氏出身の良海の子経兼を父とする。応安4年3月21日明阿(経兼)譲状により駿河守経見が、石見国永安別府一方と益田庄内寸津・美磨博・庄窪等を譲られているが、その一部は次男修理亮経春、三男典厩丸、女子4人ならびに妻に一期分として譲られた。翌応安5年6月には大朝新庄地頭吉河駿河守経見として軍忠状を提出し、今川了俊の承判を得ている。
 次いで永和3年正月には永和2年9月27日に再度渡海してからの軍忠状を提出し、今川了俊の弟仲秋の承判を得ている。次いで3月には同内容の軍忠状を大内義弘に提出して承判を受けている。これにより、経見は義弘との関係を強めたと思われる。康暦元年8月には大内氏奉行人奉書により石見国市木因幡入道知行分を預けられた。これに対して市木氏庶子益成氏から異論が出されたが、翌2年2月27日には益成氏分を含めて知行を認められた。同2年4月28日には大内義弘から安芸国山県郡内平田庄残地頭分を預けられ、12月27日には安芸国大朝新庄と大朝本庄内鳴滝名・平田庄地頭職と石見国永安別府一方地頭職を安堵されている。同日には経見の従兄弟の子吉川雅楽助も石見国大家西郷津淵村地頭職を安堵されている。義弘と弟満弘による康暦内戦前半戦で、経見は義弘方であった。次いで内戦の和解成立後の永德3年4月17日には大内氏領国の周防国熊毛郡小周防西方宗像筑前知行半分を与えられている。
 至徳2年7月に内戦が再開されると、10月19日には市木郷に加えて仁万石川分を大内氏から預けられ、打ち渡されている。その後、経見関係文書はしばらく見られないが、明徳元年に比定できる11月9日大内義弘書状で、当方に属し軍忠を致さば御判所領事は安堵することを伝えられている。吉川氏一族が安芸国守護今川了俊を通じて幕府からの所領安堵を受けていたのと対照的に経見の文書は見られなかったが、明徳元年に大内義弘が了俊に代わって安芸国守護に補任されたことにともない、義弘から誘われたのであろう。

2016年6月19日 (日)

年未詳大内義弘書状3

 石見国でも康応元年8月から11月にかけて大内氏によって周布氏に対して所領安堵と公田数の低減がなされている。次いで翌明徳元年4月10日には大内義弘が小笠原下総守に河合郷と吉永郷の地頭職について遵行し、8月21日には君谷孫次郎祐直の申請を受けて、下地を打渡すように守護代右田弘直に命じている。さらには11月2日と12月29日にはそれぞれ足利義満御判御教書により、大家太郎左衛門尉公兼と鳥居左京亮兼家に対して相伝に任せて所領の安堵が行われている。明徳元年の安芸国についてはすでに述べたとおりである。
 その後は、明徳3年11月3日幕府御教書で、安芸国衙職に対する諸郷保地頭による押妨を停止を求める東寺雑掌の申請に対して、松田筑後太郎に雑掌に沙汰付て請取を進めるよう命じているが、これが東寺領安芸国衙職に関する実質的に最後の文書となり、進捗はなく、地頭による押領を追認する形となったと思われる。前年の明徳2年3月4日には、安芸国三入本庄と新庄の地頭の間で契約が結ばれ、両派に分かれての対立を終結させるための約束が行われた。
 これにより幕府・守護方と反幕府・守護方との間の対立は幕府・守護方の譲歩により縮小した。同じ11月3日付で藤原(益田)兼家は左近将監に任官している。父兼見と幕府の対立が解消したことで、任官が可能となった。明徳4年12月27日に、大内義弘は益田庄地頭職を一円に益田次郎(兼家)に返し、元の如く知行せよと命じた。対立解消の背景としては幕府・守護方が現実に合わせ譲歩したことと、山名氏の明徳の乱への対応に幕府が追われたことがあったかもしれない。

年未詳大内義弘書状2

 至徳2年(1385)後半に内戦が再開してから、石見国・安芸国ともに対立に伴い守護・幕府方国人への所領安堵が行われていた。10月には幕府と守護今川了俊が御方の国人に所領を安堵し、安芸国国衙領に対する小早川氏一族の押領を停止し、宮下野守と松田備前守に東寺雑掌への沙汰付けを命じている。こうした安芸国の問題は翌3年9月の時点でも解決しておらず、今川了俊とその代官関口は毛利廣世合力のため九州に下向することを先に延ばすよう求めている。実際、10月から11月にかけても幕府による御方の国人への所領安堵が続いていた。石見国では前年来の益田への打入りの動きが6月末までみられる一方、12月には大内義弘が幕府方の出羽氏からの所領安堵の申請について幕府に挙状を提出している。
 至徳4(嘉慶元)年も同様で、安堵状の発給ととともに安芸国衙領に関する命令がみられる。石見国でも周布弾正少弼兼仲への幕府からの安堵が行われている。それが嘉慶2年(1388)にはその事例があまり見られず、11月19日大内奉行人連署奉書では、遠田城を拠点に益田氏の包囲に参加していた永安氏に対して、守りを解くようにとの命令が出されている。対立が緩和しつつあったのだろう。
ところが足利義満による厳島神社参詣が終了した嘉慶3(康応元)年後半になると再び同様の事例が増加してくる。すなわち、7月20日には今川了俊が吉川讃岐権守入道玄龍に対し、御教書(軍勢催促ヵ)に随ったとして本知行分を安堵している。次いで11月25日には幕府が、武田治部少輔信在・香川之正らの押領を止め,佐東郡東原郷・安南郡・新勅旨田・杣村・緑井郷・八木村・温科村以下を東寺雑掌に打渡すよう松田掃部助と森宮内少輔に命じている。さらには12月26日には足利義満御判御教書で造果保(除細河淡路守氏之知行分)が御下文・下知状に任せて小早川安芸守宗平に安堵されている。

年未詳大内義弘書状1

 吉川家文書には年未詳11月9日大内義弘書状(吉川駿河守宛)がある。御方となって忠節を致せば、安堵の御判や所領については子細なしと、吉川駿河守を誘っている。藤井崇氏は義弘発給文書一覧表で花押の形状から至徳から康応年間に比定している。実際に確認すると、至徳年間のものとは異なっている。また明徳元年の花押とよく似ているが、同3年以降のものとは違いがみられる。花押からすると明徳元年のものである可能性が高い。義弘と満弘が対立した康暦内戦後半戦に関する文書である。
 前半戦では康暦2年12月27日には吉川経見と一族の雅楽助に対して足利義満御判御教書が出されたのは、すでに述べたとおりであるが、後半戦の安芸国ではもっぱら幕府と守護今川了俊の文書が御方となった国人に発給されていて、義弘の文書はほとんどみられない。そうした中、明徳元年には義弘の発給文書がみられる。すなわち、明徳元年8月17日には吉川讃岐入道玄龍の申請に基づき、安芸国山県郡内志路原庄を軍忠により預け置いたことを奉行所に報告している。また、10月11日には天野蔵人に対して安芸国志芳庄東村二分方を元の如く返している。
 一方同年5月6日には今川了俊が吉川駿河入道道常息女代が申請した大朝庄内知行分の安堵について挙状を提出し、8月17日には足利義満袖判御教書で吉川信濃入道玄龍に対して大朝庄内知行分が相伝に任せ安堵されている。玄龍は貞治6年12月7日に安芸国守護武田光誠(氏信)が御方に参り忠節を致したとして本領安堵を幕府に申請した大朝本庄惣領地頭吉河信濃守経任と同一人物であろう。11月9日大内義弘書状も以上のような流れの中で吉川駿河守経見に対して出されたものであろう。

2016年6月18日 (土)

義満による所領安堵

 吉川家文書には康暦2年12月の足利義満による3通の所領安堵状が残されている。1通は25日付けで①吉川駿河入道法秀に対するもの。2通は27日付けで②吉川駿河守と③吉川雅楽助宛のものである。大日本古文書では出家した駿河入道と2日後の駿河守をともに経見に比定しているが、成り立ち得ない比定である。
 これに対して錦織勤氏は①を偽文書として②の駿河守を経見に比定した。両者にみられる所領には矛盾があるとして、経見が出家したのが確認できるのは応永22年の法秀申状だとする。①と②との日付以外の違いとしては、義満袖判御教書でありながら①は本文中に宛名があり、②は年月日の後に正式な宛名がある。②と日付が同じ③は②と同じ形式である。
 吉川経見は経兼の嫡子で、正平13年(1358)3月に左兵衛尉に任官していることからすると、1340年前半までには出生していた可能性が高い。母については不明であるが、父経兼の妻は周布兼氏女子であった。
 兼氏は暦応5年(1342)2月には南朝方として小石見城に楯籠り、幕府方の攻撃で降参した国人の一人として「周布城凶徒左近将監兼氏」としてみえる。元徳3年(1331)7月に周布兼宗が周布郷惣領職を悦喜丸(兼長)に譲った際に異母兄として見えていたが、興国3年(1342)に父兼宗が死亡した後は、その時点で11歳であった兼長に代わって周布氏の中心的存在として活動していた。1320年代初めの生まれであろうか。その後の兼長の関係史料はいずれも北朝年号を使用しており、周布兼氏も降参後は幕府方となったいた可能性が高い。貞和3年2月には兼長が兄兼氏に惣領職を譲っており、兼氏が名実ともに惣領となった。兼氏は足利直冬の勢力が石見に及ぶと反幕府方に転じた。同時期に吉川経兼も母良海とともに反幕府方に転じている。兼氏女子と経兼の結婚は反幕府方に転じた後のことで、兼見の母は兼氏女子以外の女性であろう。兼氏女子の母は三隅兼覧女子(兼連孫娘)であった。
 康暦2年の時点で兼見は40歳前後であり、出家していたがどうかは微妙であるが、問題なのは①と②の文書形式の違いである。義満による所領安堵は袖判下文で行われてきたが、康暦元年10月5日足利義満袖判御教書(小早川家文書)を初見史料として、宛名を有する文書が登場してくる。それが永德3年2月15日に益田祥兼(兼見)領を安堵した足利義満袖判御教書以降は、元の下文と同様に所領安堵の御判御教書は宛名にあたる人名を本文中に記すものに戻る。袖判下文と袖判御教書の違いは明らかではないが、両者がみられる。
 吉川家文書の三通の足利義満袖判御教書の内、日付が異なる駿河入道法秀に対するものは、経見が出家していたかどうかは微妙であるが、その形式から偽文書とせざるをえない。以上については史料編纂所の古文書ユニオンカタログで検索して個々の文書を確認した。

2016年6月16日 (木)

大家西郷津淵村地頭について

 大家西郷津渕村については、嘉暦3年4月15日領家御教書が残されている。検注以下のことについて雑掌と地頭との間に紛争が生じたが、和与が成立している。次いで元弘3年8月25日には、幕府滅亡を受けて石見国目代から津渕村地頭に対して当知行安堵が行われている。 
 弘安5年9月5日に永安兼祐は嫡子彦二郎兼栄を義絶し、妻である永安女房良円に所領を譲り、良円一期の後はただ一人の孫である孫夜叉に与えてほしいとの置文を、良円宛に作成した。兼栄が異国警固番役に同行しなかったためであった。永仁6年4月24日に良円は所領を孫夜叉に譲り、徳治3年6月には幕府の外題安堵を受けた。ところが、兼栄に男子弥二郎が誕生したため、後家良円は延慶3年には悔い返して、弥二郎に永安本郷と小弥富を、孫夜叉には永安別府内門田と益田庄内寸津・中山の田畠、美磨田1町、庄久保畠1町を譲る形に変更した。永安別府と小弥富の惣領地頭職は弥二郎に譲るが、田畠の面積ではほぼ対等であろう。
 良円が死亡すると両者の相続争いが起こり、正中2年8月27日に和与が成立し、六波羅探題がこれを安堵した。結果としては永安別府と小弥富を構成する個々の所領をそれぞれ分割して半分ずつ知行することとなった。
 ところが翌3年4月16日六波羅御教書によると、永安兼栄の別の娘が両者を訴え、内田左衛門三郎入道に対して、両者を参洛させるよう命じている。この女子もまた兼栄の所領の継承を求めたのであろう。この所領をめぐる争いの背景には2名の女子の結婚相手やその男性との間に生まれた子どもの存在があった。
 後家として夫の所領の処分を委ねられた良円はみずからの所領を孫夜叉=良海に譲った。福屋郷岩地村である。良海には嫡子経貞と庶子経兼の外に女子があり、その女子は父の実家である吉川氏の一族である吉川太郎左衛門尉と結婚した。元徳3年9月6日には良海が永安別府大塔を吉川左衛門太郎に譲っているが、これには経任・経貞・経兼が加判を加えている。最初にみえる経任が良海女子が結婚した吉川太郎左衛門尉であると思われる。
  良海の庶子経兼は建武3年に南北朝の動乱が始まると安芸吉川氏の多数や益田氏惣領とともに幕府方となった。その時点で三隅氏との関係を示す「経兼」から「経明」に改名し、石見国大将上野頼兼のもとで石見国中部から西部の合戦に参加している。暦応5年2月26日上野頼兼軍忠状では「安芸勢案内者」としての役割を期待され、三隅氏の本拠三隅城や庶子井村氏の小石見城や井村城での合戦に参加している。そして康永2年8月20日上野頼兼感状では恩賞を与えることを約束されている。この恩賞とは康永2年8月日の軍忠状以降に経明が称する「津淵村地頭」であったと思われる。
 福屋氏初代兼広の娘であった良円領であった津淵村(福屋兼広が養子に入った非益田氏系御神本氏領であった)は、良海の譲状にはみえないので正中3年に良海と弥二郎を訴えた女子に譲られたと思われる。その後継者が南朝方となって没収された津渕村地頭職が良円の曾孫にあたる経明に与えられたのであろう。最初に述べた嘉暦3年と元弘3年の文書は良円領を継承した人物に関係する文書であり、津淵村を与えられた経明が獲得したものである(以前は良海から吉川太郎左衛門尉と結婚した女子に譲られたとしていた)。

2016年6月12日 (日)

大寧寺の変(大内義隆殺害)について

 陶晴賢による謀反の動きが最初に確認されるのは天文19年8月24日陶隆房書状であるとされ、そこでは、毛利元就・隆元宛と吉川元春宛に2通の密書を書き送りが、「杉や内藤と相談し、義隆を廃し、若子に跡目を継がせたい」として協力を求めたとされた。
 これに対して、年未詳6月20日益田次郎藤兼書状(蜷川親俊宛)では、大内家が正体無き状態であるため、石見国にも大問題となる中、陶尾張守と相談して最大限の努力を行い、ようやく落ち着いた姿になりつつあるとして、当主には大友兄弟を立てるので安心するよう伝えている。しかし、これに与さない人々があり、思い通りにはんならないとも述べている。後半では将軍の一字を頂戴した件では協力いただき、事がなったと述べ、今後とも扶持を得たいとしている。
 これとともに出された益田氏の京都雑掌大谷与三左衛門尉実繁の書状でも、先年参上した際にご懇意いただき藤兼も恐縮し、その後すぐに申し入れるべきであったが、遠路であることと、大内殿が正体無き状態であり、石見国でも錯乱し、どうにもならなかったとし、今のように申し遅れたとする。国が落ち着いたら1・2年の内に先年理解をいただいたことを申し達するので、ご協力を願いたいとしている。
 この2通の書状については、大日本古文書(蜷川家文書)では陶隆房による大内義隆殺害後のものとされたが、問題は「益田次郎藤兼」である。『蜷川親俊日記』天文21年9月1日条にはなお「石見益田次郎」とみえ、この時点でも藤兼が任官していないかのようであるが、実際には天文18年12月の大内義隆や陶晴賢の書状の宛所ではすでに「益田治部少輔」とあり、これ以前に任官していることは明かである。これに対して、6月20日書状では藤兼本人が「益田次郎」と署名しており、天文18年以前のものとしかならない。蜷川親俊日記は任官しているにもかかわらず「益田次郎」と誤って記したものであろう。天文17年8月には前述の大谷実繁が益田次郎からの礼物を蜷川親俊に送り、9月10日には親俊が次郎の父越中守尹兼へ、伊勢貞孝が益田次郎へ返事を送っている。このことがあって、親俊は治部少輔藤兼を益田次郎と記してしまったのであろう。
 となると、天文18年6月段階で、陶晴賢や益田氏との間で、大友家に嫁いだ義隆の姉妹が産んだ子晴英を立てる動きがあったことがわかる。天文18年2月から5月には毛利元就との子隆元らを連れて山口を訪れており、これを契機に関係を深めた陶晴賢と毛利氏などとの謀議の結果であったのだろう。それが、翌年8月段階では、隆房と杉・内藤の相談で義隆を廃して実子で年少の義尊擁立することに変化していたことになる。しかし実際には、天文20年5月の時点で、隆房が晴英擁立を大友氏側に打診し、9月に大内義隆・義尊父子はともに殺害され、晴英が山口に迎えられ新当主となり、天文22年春には将軍義藤から偏諱を受けて義長と改名した。 以上、6月20日書状は天文18年のもので、この時点では義隆の子義尊誕生により大友氏のもとに返されていた晴英を当主とする動きがあったことを確認した。

益田氏当主の官職

 一族の惣領が前代の惣領の官職を継承することはよくあることであるが、益田氏についてはどうであろうか。最も多くの当主が得た官職は越中守であるが、最初に補任されたのは誰であろうか。系図で益田(御神本)氏初代とされる国兼には「大納言」や「越中守」と記されることが多く、「大納言」については疑問視されているが「越中守」はどうであろうか。当時の国守は補任された人物が実際に国務を担当しており、国兼が越中守であった可能性もゼロであろう。その子兼真は「案主太夫」ないしは「安主大夫」と呼ばれているが、これは国衙での役割に関するものであろう。ただし、これは次代の兼栄・兼高父子には継承されない。兼栄の「越中権守」についても実際に補任されたものではなかろう。兼高の「権介」については、本来の「石見権介」とは異なる意味を持つものであるが、後世に「益田権介跡」と呼ばれているように、実際に補任されたものであろう。
 兼高の子は益田右衛門尉兼季、三隅左衛門尉兼信、福屋兵衛尉兼広のようにいずれも任官している。兼季の嫡子兼時は左衛門尉に、庶子周布兼定・末元兼直・丸毛兼忠も兵衛尉に補任されている。ところがその次の世代からしばらくは官職には補任されていない。それが南北朝期に新たに惣領となった兼見が「越中守」に補任されて以降、代々の当主は官職を得ている。兼見の越中守補任は過去の惣領の官職を継承したものではなく、逆に兼見が越中守に補任されたことを過去の惣領に遡らせて、国兼が「越中守」であったと記したにのであろう。ただし、この時期の「~守」は実際の国務とは無関係なものである。
 兼見之嫡子兼世は大内義弘並びに幕府と対立したため、ながらく次郎であったが、対立が解消した明徳4年には左近将監に補任され、その名も「兼顕」と改めていた。次いで父と同様「越中守」に補任された。兼世の子兼家(秀兼)は「長寿丸」と呼ばれた幼少時から祖父兼見の寵愛を受けており、父と同様「左近将監」から「越中守」に補任された。
 次代の兼理については左近将監に進んだが、越中守に補任される前に筑前国で戦死した。その子兼堯は先祖とは異なり「左馬助」に補任された。ながらくこの職にとどまっていたが、文明4年に東軍方となると、越中守に補任された。その嫡子貞兼は西軍方であった文明2年の時点で「治部少輔」に補任され、次いで越中守となった。貞兼子宗兼・孫尹兼も同様であった。尹兼が越中守であることが確認できるのは天文15年の譲り状であり、天文13年の父宗兼の死後であろうか。
 問題は藤兼である。蜷川家文書の年未詳6月20日書状は、天文21年に比定されているが、「益田次郎藤兼」と封書ウハ書にあり、これは天文18年12月15日の段階で「治部少輔」であることが確認でき、天文18年のものとなる。ここで将軍足利義藤から一字を頂戴したことを述べている。益田氏系図ではそれを天文8年とし、大日本古文書では天文17年頃ヵとするが、天文18年の可能性もある。そして天文18年6月20日以降12月15日までに「治部少輔」に補任され、次いで天文21年4月21日に大内晴英が治部少輔藤兼の右衛門佐所望を京都に伝えるとしており、まもなく右衛門佐となった。確認できるのは天文21年7月11日である。このあたりは大日本古文書(蜷川家文書)の年次比定にも混乱がみられ、近刊の『中世益田・益田氏関係史料集』でもその誤りが踏襲されている(ということに今気づいたところで、関係文書を再検討する必要がある)。藤兼についてはそれ以前の名前は不詳だが、次郎某→次郎藤兼→治部少輔藤兼→右衛門佐藤兼とわずか3年の間にめまぐるしく変わっているが、これは大内義隆へのクーデターが原因であった。

2016年6月 6日 (月)

益田氏の東軍入り2

 久留島氏論文には応仁・文明の乱関係史料一覧があるが、そこに漏れている史料について補足する。表には「文明4年か」として5月14日細川勝元書状(未活字分)が掲載され、文明4年11月13日細川勝元書状も含まれている。文明4年11月13日には足利義政御判御教書で、益田治部少輔貞兼の所領が安堵されているが、このことを勝元が益田越中守兼堯に伝えて祝ししたものである。5月14日書状では、益田左馬助兼堯に父子ともに馳参し忠節を致さば、知行分以下の安堵をすることを述べて誘っていた。
 これに対して、5月7日と5月15日の足利義政御内書については表に掲載されていない。7日付では益田治部少輔貞兼に宛てて、東軍方へ参加するとの意向を歓迎し賞するとともに、戦功があれば恩賞を与えることを約している。「文明4年ヵ」と注記されているが、そのとおりであろう。ところが15日付の益田左馬助宛のものについては、「寛正2年ヵ」と注記され、表にも含まれない。御方に参るとの意向について注進を受けた義政が、軍忠を積めば賞することを約している。義政が寛正2年10月10日に御判御教書で益田又次郎貞兼の当知行安堵を行った際の花押と、文明年間の花押は最後の部分に違いがみえ、5月15日御内書も文明4年のものであろう。この前後の御内書がいずれも「小切紙」であるのもその裏付けとなる。益田氏の東軍方への参加は文明4年の前半の段階で決定しており、それを知った大内氏家臣陶弘護や政弘母からの働きかけも功を奏さなかった。
 10月7日御内書はこれも小切紙であるが、畠山義就退治について請文を提出しながら遅れていることは不審であるとして、すみやかに畠山政長に属して戦功を積むことを求めている。「文明元年ヵ」との注記があるが、文明9年12月21日幕府奉行人奉書で畠山政長に属し義就を退治せよとの命令が出ており、文明10年のものとなる。この当時の益田氏は三隅氏との対立をかかえており、それが12月21日に三隅貞信・長信連署起請文が提出されて解決したところであった。文明11年10月26日には福屋是兼・国兼連署起請文も提出されている。
 最初に述べたようにまだ十分にわかったわけではないが、史料編纂所のデータベースを活用すれば、以上のようになる。

2016年6月 5日 (日)

伊甘郷をめぐる益田氏と三隅氏

 文明元年12月6日、大内政弘は幕府(西軍)に対して、益田又次郎貞兼が御神本氏惣領であるのに、この度庶子である三隅中務少輔豊信が東軍に同心し益田所帯をすべて与えられたことを受け、逆に三隅一跡をすべて又次郎貞兼に与えることを要請している。これを受けた西軍方将軍義視は、貞兼を治部少輔に補任するとともに、三隅豊信跡を欠所として貞兼に与えた。翌年正月22日管領斯波義廉御教書で、目録を付して、豊信跡を貞兼が支配するよう命じている。
 問題は豊信跡の所領目録である。そこには11ヶ所の所領が載せられており、井上寛司氏は尾上郷(岡見)と府中国衙(伊甘郷)の2ヶ所が三隅氏が掠め取ったものであるのに、三隅氏領すべてが貞兼に与えられたとの解釈を述べられた。ただし、前述のように、益田所帯すべてを三隅氏が得たと記されており、ここにみえる11ヶ所こそがこの時点の三隅氏領で、三隅豊信はこの上に益田氏所帯を東軍方幕府から与えられたのである。
 永享12年に貞兼の父兼堯が幕府から安堵された所領で、三隅氏領と重なる可能性があるのは、井上氏の指摘された岡見村と伊甘郷である。岡見村は弥富名の一部で小弥富と呼ばれたものであり、益田氏と三隅氏庶子永安氏が競合していた。それが岡見と尾上郷と分かれていたものであろう。伊甘郷も本来は益田氏領であるが、三隅氏領石見国衙とは伊甘郷の一部で、15世紀のある時点で、三隅氏領となったものではないか。
 永正6年8月24日に三隅興兼が岡本次郎四郎に当知行分と約束の地に分けて所領を安堵しているが、当知行分に「府中藤井分当知行之在所」がみえている。三隅氏は小石見郷を支配していたが、16世紀初めには江要害に対する支配権を一時的にではあるが得ていた。小石見郷と江要害の中間にある伊甘郷に対して三隅氏が勢力を伸ばして、益田氏との間で妥協が成立したのではないか。天文年間には福屋氏が小石見郷や伊甘郷をその支配下に収めている。
 という事で、三隅豊信跡として記された、三隅郷・津毛郷・疋見郷・丸毛郷・尾上郷・井村郷(本来は庶子井村氏領)・来都賀郷六方・波佐郷・小石見郷・府中国衙・永安郷(庶子永安氏領であるが、豊信嫡子興信の子が永安氏を継承)はすべて三隅氏領であった。三隅豊信が与えられたのも、永享12年に兼堯が安堵された益田氏領すべてであった。

益田氏の東軍入り1

 この点については、久留島典子氏の研究により無年号文書の確かな年代比定がなされ、ようやく議論の前提条件が整った。自分自身ではなお理解できていない点が多いので、以下は覚書的なものである。
 西軍方として大内政弘と結んでいた益田氏も、文明4年11月までには東軍方へ転じ、足利義政から長野庄内の安堵を獲得することになる。大内氏関係者は政弘を通じて長野庄内の安堵が得られることを益田氏に説いたが、結局安堵がなされないまま、益田氏は東軍方として義政の安堵を得たのであった。長野庄内の安堵で問題となるのは益田氏と長野庄内をめぐり対立していた吉見氏である。吉見氏は応仁の乱の当初は西軍方として大内氏に属していたが、文明2年初に大内道頓が東軍方として蜂起すると、他の石見国人同様、東軍方に転じた。
 ところが、まだ道頓の乱が続いている文明3年10月の時点で、乱が終われば吉見氏が大内氏方に転じ、益田氏を見捨てるのではないかという噂が流れ、大内氏重臣の陶弘護がその疑いをはらそうと、益田氏に起請文を提出している。ここにみられるように、大内政弘が益田氏への長野庄内安堵をためらうとすれば、吉見氏への配慮しかありえない。実際に道頓が文明3年末に再度敗北して国外に没落すると、吉見信頼は東軍から西軍方に転じる動きをみせたのではないか。益田氏は一族の益田下野守を道頓方に参加させ、道頓から幕府へ報告がなされている。このことを賞した11月25日足利義政御内書を『大日本古文書』益田家二では「文明2年ヵ」としていたが、後の久留島氏論文では「文明4年か」と修正された。この直前の文明4年11月22日に益田兼堯は「越中守」に補任されている。
 吉見信頼は東軍方であった小笠原長直女子を妻としていたが、その弟で後に当主の座を譲られる頼利(後に頼興と改名)は、大内政弘の重臣内藤弘矩女子を妻としている。文明6年12月11日には益田貞兼への長野庄内の安堵について、異議に及ぶ国人があれば、貞兼に合力するように、三隅・福屋・周布・高橋・佐波・河本氏に対して幕府奉行人奉書により命じられている。ここに東軍であった吉見氏の名はみえない。文明14年に吉見信頼は政弘の重臣陶弘護を殺害するが、その背景にも長野庄内の問題があったであろう。
注記 最初にアップしたものを増補し、2も加えた。

2016年6月 4日 (土)

出羽郷と君谷氏について3

 康暦内戦後半戦が始まった翌年の至徳3年12月7日には、君谷駿河守祐忠の出羽上下郷安堵の訴えを大内義弘が奉行所に上申している。これも君谷氏が義弘方であったことを示すが、逆に言えば出羽上下郷をめぐって対立する高橋氏は反幕府方であったことになる。
嘉慶2年(1388)12月日には足利義満袖判御判御教書で君谷祐忠の出羽上下郷地頭職が安堵されているが、高橋氏による押妨は止まらず、明徳元年8月21日には大内義弘書下により君谷祐直に出羽上下郷地頭職が安堵されているが、その背景には高橋氏による押妨は止まらず、祐忠が守護大内義弘に訴えた事があった。そして同年10月17日の時点でも打渡しは完了しなかった。
 出羽氏は幕府のもとで軍功に励んだが、文明3年2月5日足利義政御判御教書により、亡父祐房遺跡として出羽上下郷地頭職が君谷孫二郎太祐に安堵されている。一方、文明8年9月15日には、高橋命千代が益田兼尭との間に契約状を交わしているが、そこには高橋氏被官16名が傘連判の形式で署判を加えている。その中に下出羽光明と上出羽光教がみえ、下出羽郷と上出羽郷に高橋氏の支配が及んでいたことがわかる。その後、出羽上下郷については、享禄4年2月12日毛利元就契約状まで残っていない。そこでは御本地である出羽700貫の内、450貫が高橋氏によって代々押領され、その一族は拠点となる城郭にちなんで本城氏と名乗ってきたことが述べられている。押領は幕府による出羽氏への安堵にもかかわらず、継続していたと思われる。それが、高橋氏の滅亡と塩冶興久の乱により、毛利元就が手に入れ、出羽民部大輔にそれを一円に与えている。
 出羽上下郷と阿須那をめぐる幕府方の君谷氏と反幕府方の高橋氏の対立は、14世紀後半から始まり、約170年間にわたって続いた。邑智郡から安芸国にかけて所領を支配した高橋氏は15世紀半ばには西部の吉見や近隣の佐波氏・小笠原氏、さらには安芸国の宍戸氏とも婚姻関係を結び、芸石両国での政治的地位を高めてきた。これに対して君谷氏は、出羽上下郷のみならず、苗字の地君谷についても、15世紀以降は小笠原氏領となるなど、苦しい状況に置かれた。

出羽郷と君谷氏について2

 石見国では足利直冬の勢力が及び、しばらくは反幕府方が優勢であったため、上下出羽郷には備中国高橋氏の勢力が及んできた。高橋氏の動向については系図によるしかないが、高師泰による石見国の反幕府方討伐に備中国から参加したが、その後の高師泰の没落により、備中国内の所領を奪われ、石見国阿須那を本拠とし、反幕府方に転じたとする。
 幕府方の出羽氏と反幕府方である高橋氏との対立が生じ、高橋氏は康安元年(1361)3月5日には隣接する上下出羽郷に押し寄せ、9月4日には実祐(道祐)が討ち死にしてしまった。君谷実祐は貞治元年11月2日には将軍下文により安須奈庄を与えられているが、これは反幕府方の高橋氏の所領であったためであろう。しかし現実には高橋氏が優勢であり、貞治2年12月14日足利義詮御判御教書では、実祐跡の申請をうけて、出羽上下郷地頭職に対する濫妨人等を退け、実祐跡に沙汰付けるよう、守護荒河弾正少弼に命じている。一方、翌3年正月11日には荒河が実祐子祐直の申請を受けて当知行安堵を行っている。それによると、実祐は元徳元年3月6日に君谷村内小谷村外を父である実清から譲られたが、延文6年(康安元年)9月4日に未処分のまま討ち死にしたとして、祐直がその安堵を求めたのである。君谷氏は江川の上下流域の所領を支配する伴氏の一族で、出羽郷も伴氏領であった可能性は否定できないが、文和元年以前の上下出羽郷と君谷氏との関係については不明とせざるを得ない。
 永和2年11月6日には君谷出羽四郎左衛門尉祐忠が過去の証文を提出して安堵を求めた恩賞地について、解任された大内弘世の後任の石見国守護荒河道恵が挙状を提出している。君谷氏は大内弘世方ではなく幕府方であった。永和5年2月3日には守護荒河自らが書下で出羽上下郷地頭職を安堵しているが、その後の康暦の政変で、守護は弘世の嫡子大内義弘に代わっている。その原因の一つに安芸国衙領問題があったと思われる。3月16日に守護今川了俊が、東寺雑掌の訴えを受けて出された幕府引付頭人奉書を示して、大内弘世に国衙領を東寺雑掌に沙汰付けることを命じた。これに対して弘世は、国衙領については軍勢等に預け置き、軍忠を求めており、東寺への沙汰付けはできない旨の請文が了俊に提出された。これにより幕府は旧大内氏領国であった石見国守護に弘世ではなく、嫡子義弘を補任した。同年6月には東寺雑掌が周防国美和庄内兼行方について、守護大内弘世が応安の半済令が出された翌年の応安2年以降、兵粮料所を家人に預けている事から、幕府に守護大内弘世の被官人の押妨を停止して地下の沙汰付けを求めているが、石見国でも守護大内弘世の下では同様の事態が進行していたと思われる。

出羽郷と君谷氏について1

 出羽郷の初見は貞応2年石見国惣田数注文で、邑智郡内の「のふよもりちか」(36丁4反小)に「出羽」と、「同(のふよ)いなよし」(11丁7反120歩)に「下出羽・佐波」、「かハへのよしなか」(11丁7反120歩)にも「佐波」と注記されている。「のぶよもりちか」と「のふよいなよし」の一部が出羽郷となり、「のふよいなよし」の残りの部分と「かハへのよしなか」が佐波郷となったことを示す。とはいえ、出羽郷と佐波郷の間には高見庄や河本郷があり、「のふよいなよし」は広範囲に散在していたことになる。すべて山間部の所領であり、その中でも面積が最大である「のふよもりちか」は最大規模の公領であった。
 ちなみに「かハへのちよまつ」には「都賀」と注記されており、この外に「かハへのひさとみ」もある。この「かハへの‥‥」と表記される3ヶ所については、「あの々よしなか」(16丁2反60歩)「ちよまつ」(伊甘郷内在庁別名、2丁5反大)「稲光久富」(15丁)があり、本来は同一の人物(一族)が支配していたのだろう。
 注記は永享12年石州諸郡段銭帳との関係で加えられたもので、そこには「出羽 公田四町」「君谷 公田二町二反」「佐波 公田十一町7反小」とある。貞応2年とは異なり佐波が最大となっているが、これは佐波郷ではなく、佐波氏の支配領域すべてを含んだものであろう。都賀がみえないのは、御料所となり、そのもとで高橋氏が代官として支配していたのであろうか。
 出羽郷については、13世紀末には関係者である善願が隣接する久永庄を押領したとして、石見国知行国主にその停止が命ぜられている。建武3年には上下出羽郷が足利尊氏により本圀寺造営料として寄進されている。下出羽郷が出羽川下流域で佐波郷に隣接し、 上出羽郷が上流域で久永庄と接していた。貞和3年には園城寺講堂造営料として上出羽郷に200貫余が、下出羽郷に110余貫が当てられている。これ以外に石見国衙に納める正税があり、両郷はこの時点でも公領であった。文和元年には足利義詮が両郷を園城寺に寄進しており、両郷は荘園となったが、その一方で同年には幕府が観応の擾乱後に中国地方に派遣した石橋和義が両郷地頭職を君谷弾正忠に預けている。両郷地頭が反幕府方に転じたためであろう。翌文和2年4月5日には足利義詮袖判下文により両郷地頭職が君谷弾正左衛門尉実祐に勲功の賞として与えられた。実祐は新たに幕府から「左衛門尉」にも補任されたことになる。出羽家文書には「伴富永出羽実祐」を弾正左衛門尉に補任する延文2年8月15日口宣案が残されているが、他の史料と矛盾しており、文書紛失により後年に作成されたものであろう。

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