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2016年5月

2016年5月29日 (日)

誰のために、何のために3

 これについても、所得税と法人税が下げられなかったら、もっとひどい事になったという人がいるが、具体的な根拠は述べられない。現在問題となっているのが日本における分配の問題である。26年度は4月に消費税が5%から8%に上げられており、その分の上昇分は45%(9ヶ月分)=4.9兆円(合計15.66兆円)なので、実質的な消費の伸びは2%である。所得税減税などを受けた富裕層の消費の伸びであろう。ともあれはっきりしているのは消費税の8%への上昇により税収全体としては減らなかったことである。近年の円高により法人所得が減ることから法人税の減少と株価の低迷により富裕層を中心とする所得税が減ることは予想できるが、10%に引き上げてもトータルの税収が減らないことは確実である。経済成長の問題については、データがなく不明としか言いようがない。
 コメントの中に、増税をすると景気が悪化し、生活保護受給者が増えるので反対だという意見があったが、これこそ「語るに落ちた」レベルの発言である。福祉予算が増えるであろうが、その分だけ消費の落ち込みが緩和されるのである。以前、テレビでシンガポールに住所を移して所得税を少なくしている富裕層が、「なんで自分が生活保護者のための税を負担しなければならないか」と口をそろえて言っていたことを思い出した。これも感情的な意見でしかない。
 外国と生活保護を比較するデータはあまりないようであるが、1992年の公的扶助支出額のGDP比が「Social Assistance in OECD Countries 1996」にあり、あるブログ(2012年6月)では
 日本0.3%、イギリス4.1%、フランス2.0%、ドイツ2.0%、イタリア3.3%、アメリ カ3.7%、カナダ2.5%。
 1990年代前半の日本の生活保護費は1.3兆円。GDP500兆円の0.3%で符合します。 今は3兆円なので0.7%ですね。
と紹介されていた。実際に保護を受けている人の待遇が悪いのではなく、生活保護者の捕捉率が低いのが原因である。別の研究論文では日本の捕捉率(必要な人の内実際に受けている人の割合)は14%である。
 結論を出すほどのデータを知っているわけではないが、日本経済の大きな問題に「分配」の不平等があるのは間違いないにもかかわらず、分配には文句をいう富裕層が多いとまではいえよう。政治を変えなければならないことも確か。ここのところ分配の格差はどんどん増大している。そんなことをすると富裕層が逃げるという人があるが、これで逃げるようなおろかな人(トランプ氏など)を基準に考えても無意味である。

何のために、誰のために2

 消費税増税延期に関していつものように内容がないコメントがネット上をただよっている。高校1年の時の漢文の授業中に突然教師から「論」とは何かと質問された。一番前の席にいたがために。少し考える時間とヒント(論を使った熟語を考えてみよ)をもらえれば不十分とはいえ答えられたかもしれないが?、すぐさま「バカタレ、論とは言葉を使ってケンカすることだ」と答えを言われてしまった。当然のことながらケンカのためのケンカではなく、どの意見が一番良いかを競うのである。
 一番良いと言えば簡単だが、実際にはそれぞれの意見にはプラスとマイナスがあり、要はその時点で一番ベターなのはどれかというところだ。そのことを知らずに、「この結論(道)しかない」と思い込んで発言している人がほとんどなので、全く建設的ではない。プラスとマイナスについてはある程度解答が共有でき、その上で「今ならどこを重視するか」の違いで競い合うべきである。
 「あてずっぽうの歴史学」でも述べたが、この国(他国の事はまだよく知らない)では、定説に対するきちんとした批判が少ない。何も考えずに受容するか、これまた何も考えずに否定する研究者がほとんどである。真の研究者はこの国にはほとんどいないということになる。
 せっかくインターネット上で意見が交換できるのだから、根拠を述べた上で自分の意見を言わなければ無意味である。消費税増税にマイナスがあることはわかったことであるが、プラスもある。「財政再建と言って増税したら景気が悪くなって税収が減った」とのコメントがあるが、駆け込み需要の反動など短期的には十分ありうることである。それには対策が必要だが、現在言われているのはそれこそ「昔の名前で出ています」レベルのもので、中には増税分を超える財政出動が必要だというものもある。
 橋本内閣が1997年4月1日からそれまでの3%から5%に税率を上げたが、その年の税収は前年と比して1.8兆円増(消費税分は3.2兆円増だが、法人税は1兆円分減少)であった。次の年は増税前から2.7兆円減少する(所得税収は2.2兆円、法人税収2.1兆円の減少、GDP成長率は-1.8%)。この原因は増税という説と1997年のアジア通貨危機や山一證券や北海道拓殖銀行の破綻が主たる原因との説がある(このデータはウィキペディアによる)。
  その後、消費税収は小幅な波はあるが10兆円前後で推移したが、所得税・法人税・その他が減少し(所得税は最高税率が50%から40%に引き下げられ、法人税も37.5%が30%へ)、増税の年の53.9兆円を上回ったのは平成26年の54.0兆円以降である。26年度は前年より7兆円増加したが、その内5.2兆円は消費税で(10.8から16.0兆円)、所得税は1.3兆円、法人税は0.5兆円の増加だった。

井村氏について3

 以前に一度述べたが三隅氏畧系についても、検討が必要な部分があることに気づいたので、再度述べる。前回は兼冬とその子兼雄を記す系図と兼冬のみ記すものがあることを確認したが、兼冬=兼雄で三隅兼連の弟とすべきではないか。
 今回問題とするのは兼雄の子の内4人中3人に母が「足利直冬女」と記されている点である。足利直冬は尊氏の子であるが、その生没年にはともに諸説ある。生年については嘉暦2年(1327)との説があるが、父尊氏の生年嘉元3年(1305)なので妥当な線だろう。するとその孫は1360年代後半以降の出生となり、応安7年(1374)の周布士心申状にみえる井村八郎左衛門尉兼氏本人が直冬の孫とは考えられない。兼武=兼氏としたのは誤りで、兼雄の子が兼氏で、孫が兼武とすべきではないか。兼氏の同母の兄である信連(光信・兼信)の子兼世は三隅氏庶子から惣領家に養子に入った信世の子盛世を養子に迎えており、兼世と信世は同世代である。信世(道満)は応永16年(1409)までは生存が確認でき、その子氏世はその活動が応永12年に確認できる。信世・兼世は1360年代、氏世は1380年代半ば生まれであろう。
 ということで、年代の矛盾を無く理解すると、先ずは兼連の年の離れた弟が兼雄で後には足利直冬との関係で兼冬と名乗ったと考えられる。兼雄は康永2年(1343)2月段階で小石見城に立て籠もっていたが、幕府の攻撃を受けて降伏した。正平9年に三隅信性は周布兼氏と結婚した曽孫女千福に周布氏と係争地となっていた安田以下の所領を譲り、問題の解決を図っているが、小石見郷の大部分を支配したのは兼雄から改名した兼冬の子と思われる兼氏で、井村氏と周布氏が幕府に復帰した段階では係争地は小石見郷内で井村兼氏の支配が認められた。兼氏は足利直冬女子と結婚し、大内弘世との関係も周布氏以上に強かった。これに対して周布兼氏・兼仲父子は父弘世と対立する義弘と結んで事態の打開をはかり、康暦内戦後半戦がはじまった至徳2年には係争地を含む周布郷を安堵された。三隅氏畧系では井村氏は兼氏の子兼武と孫信氏まで記し、この後は三隅氏の被官となった可能性が高い。
 三隅氏畧系は信憑性が高いと思っていた(他の系図よりも高い)が、個々の記述についてはやなり検討が必要である。
追記 兼冬→兼雄から兼雄→兼冬に変更した。足利直冬との関係以外に兼冬と名乗る理由はないので。益田氏惣領も「兼直(忠)」と名乗った。兼雄の子で、直連の養子に入った三隅氏惣領信世の父となる人物についても情報が混乱しているのを整理した。
 井村氏の成立については、益田庄内井村は益田兼季から女子(系図にはなし)に譲られ、その家に兼連の年の離れた弟兼雄が養子に入ったと解釈する。

2016年5月25日 (水)

益田氏と庶子、並びに吉見氏との関係

 応永29年閏10月9日石見国守護山名常勝遵行状は前月である10月10日義持御判御教書を遵行したものである。将軍による安堵は前回の応永18年12月13日義持御判御教書と同じ内容であるが、遵行状では東北両山道村と伊甘郷の庶子跡について、惣領に対して野心を構えたとして、惣領兼理の支配を認めた内容となっている。庶子跡としてはいずれも永徳3年8月10日に益田孫次郎兼弘と弥次郎兼政に譲った所領である。同日の置文にも譲与の内容が記されているが、嫡子兼世への譲状のみで、兼弘・兼政宛の譲状は残されていない。
 応永33年に比定される7月13日兼理置文には、当所庶子大草・波田・符・山道等について、この子孫は永代当所に帰ることは許さない旨が記されている。これに関連して同32年2月日吉見頼弘書状があり、益田殿に対して豊田堺と符・山道等について是非を申すべからずと述べている。益田氏庶子が吉見氏と結んで益田氏惣領兼理に対抗しようとしたのだろうか。符については場所が不明であるが、吉見氏領と堺を接する益田庄ないしは長野庄南部の所領であろう。永享7年7月25日寺戸禅幸以下104名の益田氏家臣起請文には、吉田治部少輔兼弘・凡夫丸(ただし花押無)に続いて、符佐渡入道久中・符左衛門大夫兼雄・同藤九郎兼実が署判を加えている。「兼」を付けているので御神本氏一族ということになる。
 吉見氏との互いの被官と領土をめぐる問題は、この後もみられ、永享11年に比定される吉見頼弘書状でも、益田氏被官については指南・扶持はしないことを、守護山名氏の家臣である山口豊後守と高山右京亮に伝えている。同時期には益田氏と三隅氏の間でも紛争があり、三隅信兼が同様の旨を両人に伝えている。
 応永末年以来の能登吉見氏と石見吉見氏の紛争もなお継続していた。享徳元年に比定できる西山妙盛書状では、吉賀郡は吉見三河守代々の所領なので、代官を下すべきであると益田左馬助兼堯に伝えている。大日本古文書(益田三)では三河守を頼弘の子頼世に比定しているが、頼世は周布氏系図に付属する吉見氏系図をみると能登守であり、吉見氏のHPが比定するように三河守は能登吉見氏の家貞(応永末年にも将軍家御台所領の代官であった)であろう。同時期の文書に「吉見三郎」とみえるのが頼弘の子頼世ないしはその弟で頼世から家督を譲られた成頼であろう。

2016年5月23日 (月)

周布氏と土屋氏

 周布氏が一時的に所領を没収された背景としては、都治氏領を乗っ取り、桜井庄を押領して討伐を受けた土屋氏との関係が想定できる。「都治・河上両家根本之事」には、土屋氏と所領の処分を行う際に、国人から周布・大家・河上の三氏が代表して守護山名氏のもとへ赴いている。「根本之事」と同系統の本である「佐々木家記録写」によると、土屋氏領は守護山名氏、福屋氏、小笠原氏、河上氏、烏丸大納言に与えられた。「根本」には山名氏、大家氏とともに「京都ヘノ御直務として烏丸との御あつかりなり」と記す。烏丸大納言が都治ならびに桜井庄を支配していたことは永享12年石見国諸郡段銭注文により確認できる。大家氏は「邇摩郡ノ内ニある」をあずけられたとするが、これが大内氏の誤りではないか。
 その後、都治家を再興する際に、下都治の半分を都治氏領とし、残り半分を大内義弘領としたとするが、応永の乱で滅亡した義弘では時代があわず、再興が周布氏が所領を還補されたことと併せて考えたい。「根本」には討伐を受けた土屋氏を赦免するために石見国人が守護・幕府へ詫び言を申したとあるが、その中心となったのが土屋殿の親類であった周布氏だとする。応永13年の兼宗の段階では周布氏領井尻が土屋氏により押領されていたが、その後、周布氏と土屋氏の間で婚姻関係が結ばれたのだろう。
 周布氏系図では、兼宗が益田兼家女子と結婚し、その孫和兼が益田兼理女子と結婚したことを記すが、兼宗嫡子で和兼の父である兼良の室(和兼)については康正元年に死亡したことと法名は記すが、実名は空欄となっている。この女性が土屋氏女子ではなかったか。土屋氏の赦免は和兼の時代である。そして土屋氏の赦免と周布氏領の復活との間にも関係があろう。例をあげれば、土屋氏が押領していた井尻は周布氏ではなく、大内氏御料所とされ、温泉氏に与えられていた。これが土屋氏が赦免され、桜井庄の支配のみが復活した段階で、井尻が周布氏に元の如く安堵されたのではないか。土屋氏討伐の際には周布氏はその関係を疑われ、苦しい状況に置かれたと思われる。それが土屋氏赦免により改善されたのである。
 

2016年5月22日 (日)

周布氏と三隅・福屋氏の違い2

 兼季の弟兼信・兼廣と嫡子兼時・庶子兼定は12世紀末から13世紀初頭の生まれであり、兼季の死亡時点でいずれも20代であったと思われる。兼定は兼時の同母弟であるが、兼信・兼廣は兄兼季との年齢差が20歳以上あり異母弟であった可能性が高い。配分は兼定を除く3人に対してなされ、三隅兼信は嘉禄3年12月20日に関東下知状により安堵された(三隅氏畧系)。福屋氏については史料がないが、同様であったと思われる。これに対して、兼定は兄兼時の嘉禄3年10月日譲状により周布郷(吉高名)・鳥居郷・安富郷(別府)を譲られ、安貞2年2月6日に関東下知状により福光村等を併せてせて安堵された。
 三隅氏領永安別府等を譲られた庶子永安兼員は姉良海との相論で、「曾祖父三隅左衛門尉兼信以来兼員まで兼員数代相伝当知行今に相違なし」と主張している。兼信が父兼季やその子兼時から所領を譲られたのではなく、配分により所領を得、益田氏とは独立した御家人とされたことを意識しての主張であろう。福屋氏も同様であるが、福屋氏は最初に譲られた桜井郷内日和郷や大宅西郷内の所領の内、日和郷内福屋(父兼季の所領ではない)を苗字として名乗っている。それは父の遺領阿刀市別府や阿部郷・大井原・市木別府を配分され、本拠を日和郷福屋から阿刀市別府内乙明に移動しても変わらなかった。三隅氏の場合は最初に譲られ、本拠とし苗字の地となった三隅郷(益田庄内納田郷)は兼高・兼季領であった。三隅氏畧系には貞応2年6月20日に幕府の安堵を受けたことを記すが、周布兼定と同様のものであったであろう。
 この違いが、周布氏領に対する益田氏の介入を生んだ。すなわち、兼定が延応元年8月29日に死亡すると、兼時とその母聖阿弥陀仏(兼季妻)が、兼時の庶子松房を兼定養子という形で遺領の内周布郷と安富郷を相続をさせようとした。兼定自身は延応元年7月には所領を養子とした弟兼正(周布氏系図には貞応年中に嗣子となったと記す)と妻慶阿弥陀仏の連れ子で継子とした幸寿に譲ることとしていたが、兼正が聖阿弥陀仏以外の女性の子で、幸寿は外部の人間であるとして介入したのだろう。その際に鳥居別府と福光村は対象外となったが、福光村の場合は、兼定領となった経緯からして当然であろう。
 元亨3年6月7日に周布西信は嫡子兼宗以下の子に周布郷を譲ったが、翌4年9月7日には安堵奉行から益田氏惣領孫太郎入道に対して、所持する下文を進めるとともに相伝の真偽と支申仁の有無について起請の詞を添えて注進せよとの命令が出されている。
 福屋氏と周布氏は非益田氏氏系御神本氏の所領を相続した。福光氏は周布氏領福屋郷を譲られた周布氏女子と福屋氏男子が結婚したことにより誕生した。福光氏は初代兼継女子もまた福屋氏男子を養子に迎えた。周布氏と福屋氏は非益田氏系御神本氏領大家(宅)西郷や、福屋氏領が周布氏女子と結婚した石見吉川氏に与えられたことで、康暦内戦で対立した。

周布氏と三隅・福屋氏の違い1

 以前「益田氏一族の世代交代」として述べたことと一部重なるが、当時は新出周布氏文書の存在が明らかになっていたが、周布氏系図とそれに含まれる益田・三隅・福屋氏系図の内容は明かではなかった。それを踏まえたのが以下の記述である
 惣領益田氏と庶子である三隅・福屋・周布氏との関係が確立したのは、貞応3年に益田兼季が所領未処分のまま死亡したことを受けて、その遺領の配分が終わり、幕府がそれを安堵した時点であろうか。周布氏については、新出周布文書で関係史料が増補された。
 貞応2年5月25日関東下知状により長野庄内飯田郷をめぐる右衛門尉兼季と掃部助仲廣の訴訟について、元の如く兼季が飯田郷地頭職の地位を認められた。以前述べたように「元の如く」とあるからには、兼季は一度は失った地位を回復したことになる。仲廣の立場と主張の詳細は不明であるが、問題となったのは兼季の三代知行の実否とその地位が地頭職であるかであったが、いずれも兼季の主張が認められ、兼季は先御下知の状の任せて安堵された。仲廣が兼季と同様の国御家人か東国御家人かについて、以前検討したが、第三のケース=荘園領主の関係者も想定される。長野庄における益田氏の立場は益田庄と違って関係者の一人で、当時は御神本氏庶子であった兼栄が長寛2年正月27日に高津本郷下司に補任されている。その地位は兼栄の子兼高には継承されたが、孫兼季が安堵された所領からは高津別府が漏れており、本領主高津氏の権利が認められたのであろう。仲廣は、兼季の地位が幕府が補任権を持つ地頭職ではないことも併せて主張しており、武士ではなく領家の関係者であろう。
 これに対して、その直後の6月20日には関東下知状により藤原兼定が大宅庄内福光村地頭職を安堵されている。本知行相違なしとの注進をうけて当知行安堵されたのである。兼定が福光村を譲られたのはこれ以前のことで、それも父兼季ではなく、母方の関係者ではないかということもすでに述べた。新出周布氏系図では兼高から譲られたと記すが、福光村は兼高領にはみえず、事実とは考えられない。いずれにせよ周布氏領の中で福光村のみは扱いが異なったのである。
 益田兼季は貞応3年2月10日に死亡した。年齢は50歳前後で、出家もしていないため、その死は予期せぬものであった。所領の譲与の方針も示されていなかったため、一族間の協議をへて嘉禄3年までに配分が決められた。それに先立つ貞応3年6月2日には関東下知状により、故兼季の所領が伝領に任せて兼季嫡子兼時等に安堵されており、幕府は一族に配分を委ねたと思われる。

2016年5月21日 (土)

吉田氏と角井氏

 長野庄では最大の所領であった吉田庄の領主吉田氏について情報を整理する。関連して角井氏についても言及する。吉田氏に関する史料は得屋氏以上に残っていない。吉田郷と角井が益田氏領として確認できるのは文明6年7月28日足利義政御判御教書であった。それに先立つ文明4年11月13日付御判御教書では宝徳2年9月3日幕府下知状と同じ所領を安堵されている。足利義教段階の永享12年2月21日の安堵から増えたのは長野庄内黒谷郷地頭職と美濃地村地頭職であった。それが応仁の乱による国人間の対立により、大内政弘(西軍)方であった益田氏が、東軍方であった吉田氏領を獲得したのであろう。そうすると15世紀半ばすぎまで吉田氏の支配は継続したはずであるが、史料はほとんど残っていない。
 南北朝内乱の開始から間もない暦応4年には、幕府方が吉田郷内須子に陣取って吉田宮尾ノ城を攻撃しており、吉田庄と吉田氏は南朝方の支配下に置かれていた。それ以後史料を欠くが、波多野五郎義秀が下黒谷と美濃路内本知行分に対して吉田駿河太郎が違乱をなすことを訴え、大内氏奉行人が末益三郎左衛門入道と三和若狭守に波多野義秀への沙汰渡しを命じている。
 吉田氏に関しては、郷内須子と隣接する角井に関係する人物がみえる。永和2年閏7月29日には角井駿河次郎が江津での戦功を賞され、永徳元年11月6日には須子駿河次郎が角井村領家職を打ち渡されている。この二人は同一人物であり、基本的に大内義弘方であったことがわかる。前述の「吉田駿河太郎」と須子駿河次郎も兄弟である可能性が高いが、吉田駿河太郎は大内弘世方であった可能性が高い。兄弟でも対応は分かれていた。
 応永30年11月27日には周布因幡入道兼宗が応永19年10月27日角井恵法譲状に任せて角井郷地頭職の打ち渡しを受けている。その後も周布氏が角井郷の安堵を受けているが、永享9年3月18日の周布氏惣領に従うことを約した連署起請文の署判者に角井やそれに隣接する地名を苗字とするものはみえない。一方、永享7年7月25日益田氏一族・家臣連署起請文の署判者には「須子二郎国忠」の名がみえ、須子に対する益田氏の支配が強まっていたことがわかる。なお、長野庄立券の中心となったのは「国」をその名に付ける源氏姓の人々であったと思われ、吉田氏もその中に含まれていた可能性が高い。角井郷については、足利直冬の影響が及んでいた時期に、河原太郎右衛門尉・安富道元・三隅氏惣領直連が与えられており、角井氏による安定した支配は困難で、それがゆえに周布氏を頼ったと考えられる。文明8年に益田氏の吉田郷・角井郷に対する支配が認められて以降、周布氏による角井郷支配は有名無実化した。

得屋氏について3

 康暦内戦後半戦も明徳5年までに終了したが、その間、大内義弘方と満弘・益田兼見方の国人が激しく対立した。内田氏惣領は義弘方であったが、一族内部には満弘・益田方のものもおり、後半戦が開始した至徳2年8月9日には大内満弘が内田氏惣領肥前入道に、長野庄白上郷内河上(川登)の豊田帯刀左衛門尉跡を預けている。結果的に惣領は義弘方を選択し、至徳3年4月8日には逆に大内義弘が内田氏惣領肥前入道に豊田郷内菅谷・中谷を預けている(内田家文書)。内田氏惣領は益田氏と対立する側となった。得屋氏惣領と思われる遠江入道も得屋郷をめぐる益田氏との対立を背景に、義弘方となったであろう。
 応永2年3月には御領内領家分1町1段150歩が渡されていないとして内田氏が大内氏に訴えたのをうけて、守護代右田弘直が得屋入道に打渡すよう命じている。この所領は豊田郷ではなく得屋郷内であったがため、得屋氏が渡さなかったのだろう。領家方の一部が内田氏のものとなっていたのである。
 そして得屋氏に関する最後の史料が、年未詳6月25日道城書状である(益田家文書)。長野庄領家職について地頭方から返されたので、得屋遠江入道に郷領家分を知行するよう伝えている。道城については「石見ノ三隅入道」との貼紙が付けられているが、三隅氏畧系によると
  三隅氏庶子兼信の子信世が惣領直連女子と結婚して養子に入って惣領家を継承しているが、ついで信世の次男盛世が三隅氏庶子兼世の養子に入り、その子兼繁が法名道城であった。道城は15世紀半ばの三隅氏惣領信兼の従兄弟で、同世代であった。この史料は15世紀半ば過ぎのものであろう。
 問題は得屋郷地頭方であるが、応永17年8月4日には石見国守護山名常勝が胤家との契約に任せて益田越中入道兼家に得屋郷地頭職四分一除を安堵し、9月9日には打渡されている(益田家文書)。ところが、応永18年12月26日管領奉書で、得屋郷地頭職とともに同四分方も安堵された。四分方は至徳2年には大内義弘が得屋氏惣領に預けた所領であった。応永20年3月8日守護代入沢慶明打渡状では、四分方について益田越中入道が相続した事が安堵されている。四分方についても得屋氏との間で合意に達したのであろうか。そして得屋領家職が益田氏に初めて安堵されたのは文明6年7月28日将軍義將御判御教書であった(益田家文書)。応仁の乱を乗り切るなかで、長野庄の大半を支配下に置いたが、その前提となったのは、大内弘世のもとで容認された所領の国人による押領(国人への預け置き)であった。

得屋氏について2

 観応の擾乱が起こり、幕府方であった益田氏惣領兼忠が反幕府方に転ずると、得屋氏もこれに同調して軍事行動を続けた。貞和6年11月には得屋郷惣領地頭岩田彦三郎胤時が、三隅城を包囲する高師泰陣を攻撃し、次いで没落する師泰軍を追って河上城の退治に参加しているが、その際に三隅兼連と益田兼世の両方に軍忠状を提出して承判を得ている(益田家文書)。その後、益田氏惣領家は兼忠が死亡したためか幕府方へ戻った。これにより反幕府方の国人の攻撃を受けて兼世・兼利(兄兼忠の養子となる)父子は殺害され、新たな惣領として兼世の兄兼方の子兼見が擁立された。得屋氏については史料を欠くため不明であるが、益田氏惣領と異なり得屋氏惣領は本来反幕府方であったので、益田氏惣領に同調することはなかったと思われる。
 永和2年には大内弘世が石見国守護を解任され、その与同勢力の排除がなされたが、閏7月8日には得屋遠江入道(万代家文書)と得屋三郎左衛門入道(譜録益田隼人兼定)が幕府管領奉書により軍忠を賞されている。遠江入道は幕府が派遣した「高房」に同心したことを、三郎左衛門入道は注進状の提出と益田城での忠節がその対象であった。当時の得屋氏に少なくとも二つの家があり、独立して活動していたことを示すものである。ちなみに、永和2年をもって石見国における南北朝の動乱が終結したというのは、足利直冬方への攻撃がなされたと解釈してのものであることを初めて知ったが、大変なお門違いである。
 次いで年未詳源頼持・藤原詮世連署請文(益田家文書)がある。得屋郷四分一領家職について、守護関係者の奉書に任せて益田下野守代官に打渡そうとしたところ、敵方であった馬庭但馬守と岩田兵庫助が御方となるとして抵抗したので遵行ができなかったことを奉行所に報告している。「益田下野守について」で述べたように、康暦内戦の前半戦が終わった永徳年間に比定できるのではないか。岩田兵庫助は得屋郷四分一方領家職の権益を持つ一族であった。
 これに対して至徳2年8月13日に大内義弘から得屋領家職・同地頭方四分方を預けられた得屋入道は得屋地頭職を支配していたが、義弘方となることで新たな所領を与えられた(長府博物館所蔵筆陳)。

得屋氏について1

 長野庄得屋郷を支配した領主得屋氏について、その情報を整理する。関係史料の大半はは益田家文書に、一部が長府博物館所蔵筆陳に残されている。
  石見国における得屋氏の初見史料は康永元年3月17日に南朝方として三隅城の支城大多和外城に立て籠もり、幕府方の攻撃で降参した徳屋彦三郎である(益田家文書)。この時点で在地名である「徳屋」を名乗っていることからすると石見国の御家人か、鎌倉初期に入部した東国御家人であろう。得屋氏をなのる前には岩田氏を名乗っていたと思われる。得屋郷は長野庄に属するが、益田本郷内の益田氏館のあった土井に隣接する多田の地域に所在していることもあって、益田氏と得屋氏の間で得屋郷をめぐる対立が続く。
 鎌倉初期の益田兼栄・兼高領として長野庄内では得屋郷と安富郷・飯田郷・高津別符がみえたが、兼高の後継者兼季領には高津別符がみえなくなる。そして高津を本拠として14世紀半ばに反幕府方として活躍したのが高津氏であった。その後、安富郷は兼季の弟周布兼定領となり、飯田郷・得屋郷が益田氏領として残ったが、13世紀半ば過ぎの惣領(ないしは惣領の嫡子)であった兼胤が所領の大半を没収され、その後、飯田郷では虫追氏の、得屋郷では得屋氏の支配が復活したと思われる(周布五四三益田家系図)。その意味からすると得屋氏は東国御家人ではなく、益田氏と同様国御家人となる。
 得屋郷を支配した得屋氏は石見国の武士で、益田庄に先立って立券された長野庄の寄進に参加し得屋郷の支配を認められたが、その後、保元の乱などの影響の中で、益田庄立券の中心であった御神本氏が長野庄にも進出し、飯田・高津・安富とならんで得屋郷司の地位を得、鎌倉幕府からもその地位を認められ、地頭に補任された。益田庄が先に立券された場合は得屋郷を含んでいた可能性が大きい。また、長野庄立券の中心となった源氏はその名に「国」を付け、御神本氏は「兼」を付けるが、摂関家の藤原忠通が石見国知行国主であった際の国守は国保(重任)・季兼の順番であった。
 国御家人であった得屋氏は南北朝動乱では南朝方となったため、益田氏をはじめとする幕府方の攻撃を受け、康永元年には降伏した。康永2年8月19日には幕府方大将軍上野頼兼が木束城警固により得屋三郎兵衛尉に感状を与えているが(益田家文書)、彦三郎とは別人であり、得屋氏内部でも対応は分かれていた。

2016年5月19日 (木)

応永12年正月の石見国人書違3

 応永15年8月28日には石見国守護山名道弘(義理)が、豊田右馬助入道に豊田郷地頭職と貞松名等を安堵されているが、周布氏への安堵と矛盾している。そして応永18年12月26日幕府御教書で周布因幡入道観心(兼宗)が安堵された所領には、貞松名が含まれていないが、河上は含まれている。新出周布家文書には、年未詳周布因幡入道観心申状があり、豊田右馬助の押妨を退け由緒に基づき貞松名を安堵されんことを求めている。この18年の安堵に際して提出したのだろうが、認められなかった。応永29年と応永34年にも再度観心が貞松名について訴えているが、29年には守護被官人による押妨であった。34年には幕府が守護山名常勝に観心への沙汰付と、子細があれば注進すべきことを命じているが、この時点では押領者は「豊田右馬介入道」であった。豊田氏=守護被官人であろう。貞松名は周布郷に隣接した場所にあったにもかかわらず、豊田氏の支配が続いたのはそのためであろう。
 次いで永享5年に観心が孫賀幸丸(和兼)に譲った所領には、河上・井尻はみえても貞松名はみえない。ところが、永享11年11月12日山名煕貴遵行状には、貞松に加えて三隅氏との競合地である安田・福井が含まれている。ただし、永享12年石見国諸郡段銭注文では貞松名は豊田氏領とされている。白上郷本新内山津田についても、応永18年の安堵状以降に周布氏領としてみえるが、同段銭注文では吉見氏が知行していると記されている。現在山津田との地名は残らないが、河上とともに記されるので、川登下と川登町が河上で川登上が山津田であった可能性が強い。
 その後、理由は不明だが一時的に周布氏の所領の全てないしは一部が没収される事態となったが、嘉吉3年12月26日管領下知状により「元の如く」和兼への沙汰付が命じられ、翌4年6月18日には守護山名常勝が遵行し、守護代掃部頭に命じている。ところが閏6月20日の掃部頭打渡状には、安田・福井・西河内三ヶ所は京都で御左右中なので除いたとしている。いずれも三隅氏との競合地である。邇摩郡井尻については、大内氏の分郡支配のもとにあったので、10月になって大内氏奉行人が郡代問田備中守に打渡すことを命じているが、そこに記されているのは、周布氏から没収された井尻村が一旦大内氏の御料所となり温泉次郎に計らっていたが、周布和兼知行分所々が還補となったので、とある。
 とりあえず、15世紀半ばまでみたが、南北朝動乱期に起因する所領の対立・競合は長期間にわたって影響し、中には途中で没落した国人もあった。 

応永12年正月の石見国人書違2

 幕府は応永8年末の大内弘茂の戦死後1年たった同9年12月6日になって、大内介入道と五郎に同心するよう益田氏に命じている。五郎は弘茂とともに盛見と戦っていたが、敗北により一旦防長から逃れていたのであろう。この間、益田氏に対しては6月11日に山名氏利が所領の公田の低減化を認めている。8月10日には山名氏奉行人が吉田上野入道分について当知行安堵をすることを家臣の大橋近江守に伝えている。この吉田上野入道について、岸田裕之氏は益田氏庶家と理解されているが、この時点では従来から吉田郷を支配してきた領主であり、益田氏ではない。
 大内五郎については、応永10年7月13日までに長門国内で2郡を幕府から拝領し、満世の名をあたえられていた。従来は関係史料は応永9年に比定されていた(前のブログでもそう述べた)が、史料の順序からして、10年のものとならざるをえない。その後の介入道と満世の動向は不明であるが、応永11年5月28日の時点で幕府は盛見を正式の防長守護として認めており、介入道はこれ以前に戦死したと思われる。
 大内義弘の後継者盛見の討伐を断念するという新たな状況の中で、幕府は11年4月には山名満氏を安芸国守護に補任し、国人に対して所領に関する支証の提出を求めたが、これに反発する国人29名が一揆契状に署判して国人一揆を起こした。幕府はこの動きを認めず、一揆を押さえ込もうとするが、そうした中で、応永12年正月に2度目の石見国人による書違が結ばれた。
 そこでは福屋氏兼・周布兼宗・三隅氏世・益田兼家の御神本一族4氏に新たに吉見頼弘が加わっている。能登吉見氏の庶子であった石見吉見氏が南北朝動乱の後半に独立した御家人として勢力を認められる存在となったことがわかる。また4氏についてはいずれも応永6年11月の署判者からその子へ代替わりしている。その訴えの中心は所領である。新たな状況下で将軍に自訴を行ったが、なかなか思うようにならない中、5氏での団結を確認し、単独行動に出ないことを約束している。5氏とその他の国人間のみならず、5氏の間でも所領支配をめぐっては競合があったのである。5人の中で万一虚言を言ったり、無理な訴えをする人があれば、他の4人が誤りであることを指摘し、それが用いられなければ仲違いをするとまで述べられている。周布氏はすでにみたように、内田氏惣領との間に所領の競合があった。また、福屋氏・三隅氏との間にも所領をめぐる対立があった。
 一方、幕府は安芸国人一揆を抑えるため、石見国守護山名氏利を動員した。益田兼家は応永12年11月24日には守護代入沢四郎に属して動員された安芸国での軍忠を幕府から賞されている。周布兼宗はこの時点では出兵しておらず、応永13年正月末の段階で山名氏惣領常煕から、山名氏利の死亡と山名持重の発向と守護代入沢八郎左衛門の下向を伝えられるとともに、出陣することを求められている。その一方で、山名時氏から、周布氏が歎申ていた大家西郷内井尻については、桜井宗直が押領しているため、これにかえて福光上村を預けられている。動員のための懐柔であったのだろう。ただし、井尻や福光は福屋氏との間に競合した所領であった。

応永12年正月の石見国人書違1

 応永の乱の前後に石見国人が2度にわたり書違を交わしている。最初は応永の乱の直前、応永6年11月1日に、福屋義宗・周布道賢・益田道兼・三隅道満の4名が、各人の当知行の所領について将軍から煩いがあれば、守護に歎き、守護が異議に及べば、京都に申し上げる事を約している。さらに合戦に及んだ場合は4氏が同心することを約している。
 10月28日には幕府が安芸国の毛利廣世に大内義弘退治のための軍勢催促を行っており、石見国人に対しても同様の命令が出ていたであろう。11月7日には佐波常連に対して軍勢催促状が出され、12月8日には佐波一族が御方となったことへの感状が出されている。12月21日には大内義弘が戦死し、弟弘茂も降伏した。翌7年2月25日には、石見国守護に補任された京極浄高の感状も出された。少なくともこの時点までは京極氏が守護であった。
 書違の内容に戻ると、「将軍からの煩いを守護に歎き」とある「守護」とは大内義弘または盛見ではなく、新たに補任される石見国守護であり、この時点で4氏が幕府方に転じることを約束したものと考えられる。
 その後、7月までには山名氏利が石見国守護となり、所領に関し富坂の沙汰が行われていたが[富坂を守護代とした点を修正]、それは益田・三隅・福屋氏にとって不満のあるもので、幕府も大内盛見追討を優先し、その後に理非に基づき沙汰する方針を伝えた。ここに周布氏の名がみえないので、書違とは異なり、周布氏の離脱は遅れたのではないかと前に述べた。この時点で大内氏の京都における窓口であった平井氏は幕府方として石見国人との調整にあたっている。
 新守護山名氏利の沙汰の初見史料は応永8年11月7日書下であり、豊田肥前入道に豊田郷内菅谷・中谷と貞松名を本知行に任せ安堵している。当知行安堵ではないので、庶子領(菅谷・中谷)や敵方所領(貞松名)について本来は内田氏惣領の所領であったとして安堵したものであろう。
 貞松名について競合する周布氏は、応永9年2月に周布因幡入道道賢(兼仲)の死亡をうけて、子の兼宗が6月1日に相伝に任せ、本新并当知行地を悉く安堵する旨の書下を氏利から与えられている。12月19日幕府御教書では周布郷(付末元・貞松)・来原郷と白上郷新本内河上村等であり、貞松名は含まれているが、至徳2年に大内新介から与えられた所領のすべてが安堵されているわけではない。貞松名については豊田(内田)氏と競合しているが、河上村についても、至徳2年8月9日大内満弘書下では長野庄河上豊田帯刀跡が内田氏惣領肥前入道に与えられいるように、豊田氏と競合していた。

2016年5月16日 (月)

何のため、誰のために

 気になっていたので、日本の祝祭日の数が国際的にどうなのか調べてみた。さまざまな面で国際比較がないままに報道がなされている。別件であるが、日本の労働組合組織率の低さが言われるので、これも調べてみたが、日本より高い(過半数を超えるところもあり)のは北欧諸国で、いわゆるG7などの先進国は日本同様高くない。
 祝祭日が15日の日本と同程度なのがフィンランドであり、他の先進各国は多くて10日程度であった。これに振替休日となったことで、いわゆる上からの休日は日本は決して少なくないようだ。ところが、この細切れの休日が自分から長期休暇を取得する(制度的には日本でも可能)ことを困難にしているということ。なんとも皮肉な結果である。ゴールデン・ウィークとはいいながら、それがゆえに休めない人々もサービス業にはたくさんいる。
 ということで、休日の問題からもこの国の政治が国民主権とは正反対のことを行っていることがわかった。本来なら、自分が休みたい時に互いに調整しながら休めることが大切であり、政治はそれに向けての環境整備をはからなければならない。ところが、現実には自分の「忙しさ」を自慢?する自己を有能だと?思い込んでいる人々により、誤った政策が導入されている。以下の数字は磯山友幸「お上主導で祝日だらけ 効率の悪い日本の“休み方”」で紹介されていた数字。ドルに変換すると、為替変動の大きさで比較ができないので、円とユーロ同士で過去と比較している。
  日本の2011年の1人当たり名目GDPは366万円と四半世紀前の1.3倍に過ぎない。これに対してドイツは3万1436ユーロと25年間で2・4倍に拡大している。
 「未来志向」と言いながらきわめて古いデータに基づいて自らの考えを形成してきた政治家には即刻政治の世界から退場してもらわなければならない。聞こえの良い言葉を実現の可能性を無視して言うのはまさにタダなのである。これをネット上で支えるているかにみえる人々は「ある程度の経済力を持つが教養はあまりない」という特徴があるとの分析を見たが、まさに現総理大臣と同じである。とにかく、意見を述べる際には根拠をきちんと出すべきである。そうすれば保守的?と呼ばれる人々もレベルアップが可能となる。トランプ氏を批判することは簡単であろうが、それは自分の姿とどこが違うのであろうか。十年一日のごとく同じことを述べてどうするのか。日本に比して、北欧諸国はそれなりのバランスのもとで、休日が設定されているが、形のみまねても意味が無いのである。

2016年5月15日 (日)

将軍による所領安堵の評価

 延徳2年(1490)に益田氏と周布氏が将軍となったばかりの足利義尹から所領の安堵を受けている。出雲国では将軍からの安堵は南北朝期までであり、奉公衆佐波氏の一族であった赤穴氏が佐波氏から譲られた石見国部分について、応永18年に安堵を受けているのが最後である。以後はもっぱら守護京極氏による安堵に変わる。これに対して益田氏と周布氏は応仁の乱の前までは将軍により安堵されている。
 ここから石見国の方が出雲国よりも室町幕府の支配が強固に及んでいたと評価してよいだろうか。そうではなかろう。益田全田(貞兼)から嫡子宗兼への譲与は、文明15年に兼堯・貞兼父子連署譲状が作成されていたが、それを全田が幕府に申請し、安堵を受けたものであるが、あくまでも主体は益田氏の方にある。15世紀半ばまでのように石見国守護による遵行が行われるわけではない。とりあえず安堵をうけておけば損はないという程度であろう(とはいえ、関係者への働きかけなどで相応の費用は必要)。明応2年7月に義尹が細川政元に追放されると、今度は幕府奉行人奉書で宗兼の当知行が安堵され、12月にはそれを伝える細川政元書状が出されている。
 周布氏の場合も同様である。当主元兼が延徳2年11月に当知行の安堵を受けている。これも周布氏側からの働きかけの結果であろう。石見国の他の国人でも同様の事があった可能性はあるが、これまでのところ他国を含めても国人への安堵はこの2点しか残されていない。周布氏系図によると、元兼嫡子次郎がこの年に大内義興から加冠を受けて「興兼」と名乗っている。その母は三隅豊信女子であった。2年後の延徳4年4月には奉公衆小早川美作守敬平の申請により、嫡子又鶴に安芸国沼田庄外の所領が安堵されている。
 出雲国関係では、延徳2年閏8月に連歌師としても知られていた民部卿法眼宗精が当知行に任せて所領を安堵を歎申ており、その中に長田郷があった。どの程度の効果があったかは不明である。その後、天文10年には法印某が東長田郷が不知行だとして幕府に回復を求め、幕府が尼子晴久にこれを伝えている。

2016年5月12日 (木)

応永7年の石見国「両守護」2

  8月12日付の祥助書状(益田殿宛)では、7月25日書状を9日に拝見したと述べている。五郎(大内満世)が益田氏のもとに着いたことを喜ぶとともに、富坂方の沙汰については「比(不)興」であると両守護殿に指示したこと、その間の事情は7月26日に下向した僧が申し入れることになっているが、すでに到着したであろうと述べている。
 508号では「両守護方」に「山名氏利・同氏之ヵ」と注記されたが、年号比定を変更した。一方594号では「両守護殿」を「山名氏利・同時久ヵ」とされた。その理由は示されていないが、久留島氏は両者をともに石見国守護と考えられたのではないか。508号について、藤井崇氏は石見国守護山名氏利と安芸国守護山名氏之と解釈されたが、年号比定は応永9年のままで、そこに登場する別駕を大内道通と解釈している。応永9年の安芸国守護については史料がなく不明であるが(従来は岸田氏により応永10年に山名満氏が守護に補任されたとされてきたが、近年の飯分徹氏の研究で同11年に修正された)、藤井氏は応永9年の守護を(実際は応永7年が正しい)山名氏之とされた。山名氏之は応永31年までは生存が確認できるが、守護としては伯耆国守護のみが確認されてきた。 問題は「両守護」を石見国守護と安芸国守護を解釈できるかである。「両国守護」ならば可能性があるが、「両守護」であり、話題も相手も石見国関係である。そこで両守護とは石見国守護が分割されて山名氏利と時久に与えられたと解釈したい。氏利が守護正員で、時久は邇摩郡分郡守護ではなかったか。氏利が死亡した後に時久が石見国守護となったとしたが、それを変更した。
 氏利の死により、その後任者が決まるまでは時久が石見国守護を代行したと考えたい。石見国邇摩郡分郡守護についても過去に述べたことがあったが、大内氏ではなく大内義弘討伐後の新体制として山名氏による両守護としたのではないか。そこで紹介した井上寛司氏の説では、大内盛見が幕府の介入をはねのけて防長守護の地位を認められた際に、邇摩郡分郡守護の地位を得たとされていた。

応永7年の石見国「両守護」1

 応永6年末に大内義弘が堺で敗死すると、幕府は大内氏の領国に新守護を補任して、体制の刷新をはかった。一方、大内氏の本拠である長門国と周防国には義弘の弟盛見がおり、なお抵抗を続けていた。幕府は防長守護には義弘の弟で応永の乱で降伏した弘茂を補任した。問題は石見国であるが、討伐前の11月15日には隣国出雲国守護京極浄高(高詮)に交替させた。ただしこれは臨時的措置で、応永8年8月25日浄高譲状には出雲・隠岐・飛驒国しかみえず、応永の乱の勲功の賞として別人に与えられた。
 それに関する史料が、応永7年に比定できる7月25日遊佐長護書状(益田508)と
8月12日平井祥助書状である(同594)。前者は『益田家文書二』では応永9年に比定されていたが、それと一連の文書である後者が『同三』で応永7年に比定された。前に述べたがこの一連の史料には益田・三隅・福屋の三氏しか登場せず、周布氏がみえないでの、応永7年が正しい。
 関連史料を含めてみていくと、7月7日祥助書状では、大内弘茂が両国守護を拝領し下向したことが、益田氏に伝えられた。これに対して7月8日付で三隅・益田・福屋三氏から富坂方の沙汰について批判する内容の書状が出され、同22日に祥助が受け取り、26日付で返事(同593)を出している。石見国守護代富坂の沙汰に対する批判に同意し、石見国の扱いは、長門・周防両国を退治してから理非に入て沙汰した上で将軍の判断を仰ぐべきで、先ずは大内弘茂の発向に合力すべきと山名氏惣領常煕に指示したことが述べられている。また、25日には管領畠山氏御内遊佐入道方からの書状を受け取ったので、これを三氏に進めるので、御一見後、弘茂方へ遣わしていただきたいと祥助が述べている。この遊佐入道の書状が508号文書である。ここでは同内容のことを山名金吾(常煕)と両守護方へ指示したと記されている。 

山名時久について3

 時久は前回述べたように、2月28日には周布兼宗に福光上村を預けることを伝えており、これも周布氏を安芸国へ動員するための働きかけであったのだろう。3月2日書状で時久は備後国と石見国の国人を安芸国に動員することが上意として決まったことを安芸国人熊谷氏に対して祝していた。それ以前にも石見国人益田兼家が安芸国に動員されていたが、本格的に動員することになったのだろう。応永の乱で滅んだ大内義弘との関係では、周布氏が益田氏より近い関係にあった。逆に山名氏利との関係では益田氏は近く、周布氏は相対的には遠い関係にあった。その周布氏を含めて動員することになったのである。
 そうすると、幕府が備後・石見国人を本格的に動員することを決めたのは応永12年末ごととなる。年未詳9月11日山名常煕書状②を岸田氏は応永11年に比定されたが、これも物理的に無理である。9月6日安芸国守護山名満氏書状で「此子細上様へ軈て申上べく候」と記されていたのが、5日後の9月11日常煕で「御退治之由被仰出」となることはありえない。②は応永12年に比定できる。一揆契状直前に命令が出されたのではなく、一揆契状締結とその後の戦況(氏利の戦死も含むか)を考慮して、幕府が新たな対応策を決定したのである。9月11日の対応と、翌年正月までに備後・石見両国人の本格的動員との間にも差がみられる。安芸国守護満氏も応永13年前半には安芸国に下向しているが、状況によってはさらなる一手も計画されていた。しかし、備後・石見国人の本格的動員と守護満氏の下向により、安芸国内の戦況は幕府側にとって好転し、これが一揆勢との妥協成立につながったと考えられる。
 以上、年号比定の誤りを訂正したが、当然の事ながら正確な年号比定の必要性が再確認された。

山名時久について2

 史料を見ていて、早速訂正が必要なことに気づいた。それは岸田氏の指摘に基づき応永12年に比定した文書である。広島県史年表が比定した応永13年が正解だと思われる。以下にその理由を述べる。
 応永12年11月24日に幕府が益田兼家に対して感状を与えている。石見国守護代山名入沢四郎の手に属し、芸州に発向したことの注進を受けてのものである。そして問題なのは次の文書との関係である。
 年未詳正月28日山名常煕書状①では、周布次郎兼宗に対して、石見国守護山名左京亮氏利を安芸国の合力に派遣したところ不慮の儀(戦死であろう)が起こったがこれは是非なき次第だとして、山名右京亮煕重が安芸国に発向し、守護代入沢八郎左衛門入道も同様に下向したとして、周布兼宗にも早々に出陣することを求めている。ここから岸田氏は以下のように述べられるが、問題が多い。
 前述の応永12年11月24日の守護代が入沢四郎であり、守護代の交替が確認できるので、これを守護山名氏利の交替に伴うものと推測すれば、この文書①は応永12年に比定できよう、と。
 石見国守護代の交替とは誰から誰へかについては明記されていないが、文脈からすれば岸田氏は某から入沢四郎へと考えられ、さらに入沢四郎=入沢八郎左衛門入道と考えられているように思われる。しかし、四郎=八郎左衛門入道とはありえない想定で(実際の研究論文ではこのような明確な間違いを平気でする人が多い)、両者は別人である。応永14年12月段階の石見国守護は山名義理(沙弥道弘)で、その守護代は入沢土佐入道であった。この土佐入道もまた別人で第3の入沢氏である。
 となれば、応永12年11月段階では石見国守護山名氏利、守護代入沢四郎であったことになり、氏利の戦死を伝える山名常煕書状はそれ以後の応永13年正月のものとなる。入沢八郎左衛門入道は氏利死後に石見国守護を務めた山名時久の守護代であろう。

2016年5月 7日 (土)

小笠原氏の動向7

 この長弘(道賢)については、文明10年正月21日井原経信譲状で、河本郷ゆミの村之内かちへやしきとけんほうやしきについては、大殿道賢が親しやうしゆに永代与えたものであることを述べている。康暦2年4月に井原左近将監跡が小笠原氏に与えられて以来の関係であろう。
  文明3年に比定される12月7日陶弘護外6名連署書状には、大内道頓の挙兵に同意した石見国の東軍方国人として、小笠原又太郎がみえる。文明6年12月11日幕府奉行人奉書により、長野庄内七郷等が益田貞兼に還付されたことについて東軍の石見国人6名に対して合力するよう命じられているが、その中に河本下総守がみえるが、山根本の長正であろう。やはり河本氏を名乗っている。文明8年3月18日には河本下総守が敵方に同意した輩を率いたのに対し、出羽掃部助が佐波兵部少輔に合力したことを幕府奉行人奉書で賞されている。東軍方であった河本下総守が佐波氏との対立から西軍方へ転じたのであろう。
 問題は下総守長正と次代の大蔵少輔・伊予守長定の関係である。明応4年6月26日小笠原大蔵少輔長定・与次郎長隆連署契約状にみられるように石見国西部の国人との関係を強める。この長定を石見小笠原氏系図では長正の嫡子とするが、山根氏本では両者の関係は不明である。長正は安芸国宍戸氏女子と結婚し、石見国安濃郡の波根氏と邇摩郡の福光氏に女子を嫁がせていた。
 一方、長定は西部那賀郡の三隅貞信女子を妻としている。姻戚関係も金子・大家・高橋・福屋・川上と広がっている。次男は那賀郡の都野氏に養子に入り、都野遠江守長弼として活動している。その三男も長谷を継いでいる。そしてこれまで河本氏としてみえたが、長定以降は河本氏ではなく小笠原氏としてみえる。西軍方となって没落した河本氏の跡を庶子家出身であった長定が継承したのはないか。 長定の子長隆は佐波氏女子を妻とし、永正8年の船岡山合戦の勲功により兵部大輔から上総介に補任された。文亀元年(1501)11月24日御請申人数事(大友家文書)にも、「小笠原与次郎」とみえる。
 小笠原長隆・長徳父子は尼子氏に従い天文9年~10年にかけて安芸吉田攻めに参加したが、その中で次男長晴が戦死している。長隆の代に都賀西を初めて知行し、鳥居・金子分も知行し、そこに自分の子である五郎長相・四郎長実を養子に入れた。また、長徳は大内氏から大家三方・下都治・延里・佐摩・白杯・井原を与えられた。井原は以前家臣としたが、しばらく懈怠をしたので、悉く退治したとする。以上の所領は尼子・大内氏の対立の中で尼子方として没収され、大内氏が小笠原氏に与えた。その後、大内氏の出雲攻めは失敗し、小笠原氏も尼子方に戻ったが、与えられた所領が本主に戻されることはなかったようである。本主の中には都治氏の本家である河上氏や大家氏の様に、滅亡したものもあった(大家氏の場合、益田氏のもとへ逃れた人があり、その文書の一部が益田家文書や古証文として残った)。
  とりあえず、今回はここまでとする。

小笠原氏の動向6

 次いで応永16年10月15日には源長宣が河本郷内甘南備寺に寺領を寄進している。この人物は石見小笠原氏系図に登場せず、明徳元年の小笠原下総守長弘の後継者=惣領であると思われる。5年後の応永21年正月13日に甘南備寺に河本郷内松原名を寄進している長義も石見小笠原氏系図に長氏と長教の間に見える長義とは時代が異なり別人で、やはり石見小笠原氏惣領家の人物であろう。応永32年5月19日管領奉書では益田左近将監(兼理)・三隅右馬助(信兼)・河本・桜井(土屋氏)・福屋介四郎(教兼)・周布因幡入道(観心)に対して、将軍御台御料所石見国吉賀郡吉賀上領・中領・下領と野郷下領に対する木部一類=石見吉見氏の押領を停止し、代官を沙汰付けるよう命令されている。小笠原氏惣領が在地名を苗字として河本と呼ばれていることが注目される。
 永享12年9月10日石見国諸郡段銭注文案には、安濃郡吉永郷に「已前河本知行」とあり、この段階では河合郷が小笠原氏惣領(河本氏)の所領ではなくなったことがわかる。
逆に邑智郡高見には「河本知行分」とあり、河本氏の支配するところとなっていた。小笠原氏系図では長教の次男が「高見殿」と呼ばれている。同郡久永庄が矢上と井原に分かれ、井原(公田13町2段)に「此内河本・中村弁分在之」とあり(河本を支配する人物と久永庄中村を支配する人物が弁じている部分があるとの意味か)、康暦2年に井原左近将監跡が小笠原氏領となったことに関係するのだろう。
 宝徳2年(1450)9月11日には小笠原長直が三原八幡宮に寄進している。山根本ではこの長直女子が「高橋、吉見婿取」とあり、備中国から石見国邑智郡に進出してきた高橋氏や石見国吉賀郡で勢力を拡大してきた石見吉見氏(木部一類)と婚姻関係を結ぶ存在となってきたことがわかる。吉見氏の系図では、文明14年に領土問題をめぐる対立から陶弘護を殺害した信頼の妻が小笠原民部大輔長直女子となっている。また、信頼の祖父にあたる頼弘が高橋刑部少輔師光女子を妻としている(ただし、両者の活動時代の違いから頼弘の父弘信の妻が師光女子ではないかとの説がある)。吉見・小笠原・高橋という石見国で新興勢力として台頭してきた一族間で婚姻関係が結ばれたのである。
 寛正3年(1462)9月吉日に三原郷氏八幡宮に告文を捧げている長弘は山根本の上総守長弘(法名道賢)である。大内氏と少弐氏の取相により長弘が九州へ向かったという。石見国では嘉吉元年10月14日に、大内教弘に合力して九州へ進発すべきことを益田兼堯が命じられている。またこの時まで四国生摩庄を本知行とあるが、妻が四国の同族三好出身であったことによるのだろう。

小笠原氏の動向5

 康暦2年4月には大内弘世・満弘と義弘の間で、周防・長門・石見・安芸国で大規模な合戦が発生した。初戦の長門国の合戦では弘世・満弘方が義弘の代官杉氏の守る下山城を攻略したが、続いて起こった安芸国内郡の合戦では、守護今川了俊が派遣した大将と義弘方が、弘世・満弘方の大将讃井氏らを殺害して勝利した。そのため、満弘は石見国内の支持者の中心である福屋兼香のもとに逃れた。石見国内の緊張が高まったが、同年11月に両者の父弘世が死亡したことで、対立は沈静化に向かい、翌永徳元年6月初めに両者が会談を行い、妥協が成立した。その結果、大内惣領義弘のもとで、石見国守護は満弘がつとめることになった。ただし、対立の背景となった幕府方と反幕府方の国人の対立はそのまま温存された。
 内戦発生前の康暦元年8月25日、守護大内義弘奉行人は、邑智郡の市木因幡入道知行分を大朝新庄と石見国内を所領とする吉川駿河守に預けた。市木因幡入道は益田氏一族の福屋氏の庶子であり市木郷等を支配していたが、反幕府方であるとして所領を没収されたのである。一方吉川駿河守は幕府方である周布因幡入道士心の女子を母としていた。康暦2年4月28日には安芸国山県郡内平田庄残地頭分を大内義弘が吉川駿河守に預けている。平田庄地頭の一族に反幕府方となったものがいたのであろう。それと同じ日に大内義弘が小笠原右京入道に石見国井原左近将監跡地頭職を渡している。井原氏は邑智郡内久永庄井原を苗字としているが、反幕府方となったことで所領が没収され、幕府方の小笠原右京入道に与えられた。これも小笠原長義に比定できる。小笠原氏は一貫して幕府方であった。
 明徳元年4月10日大内義弘が安堵の将軍下文と管領施行状に任せて、安濃郡河合郷と吉永郷地頭職の下地を小笠原下総守長弘に渡している。康暦内戦後半戦はなおも続いていた。幕府方となることで小笠原氏惣領長弘が河本郷に加えて河合郷・吉永郷を得ていたことがわかる。問題は、石見小笠原氏系図との齟齬である。系図では長義の後継者は右馬助長教で、以下、下総守長性、民部太輔長直と続いている。これに対して邑智郡の鋳物師の頭領山根氏が残した小笠原氏の系図(以下では山根本)は前欠であるが、下総守長弘から記し、その後継者を民部大輔長直とする。長教の没年を石見小笠原系図は応永21年(1414)とし、応永3年5月3日には右馬助長教が武明八幡宮に5貫文の地を寄進している。貫高表示を含め気になる点はあるが、石見小笠原氏の惣領家の交替が記述の違いに関係していよう。すなわち山根本の記す下総守長弘は石見小笠原氏惣領であるが、長教は庶子家で、上総介長弘と長教の子下総守長性は別人であると思われる。

小笠原氏の動向4

 永和2年7月24日には管領細川頼之が石州邑智郡河本城衆として軍忠のあった武田修理亮に対して感状を与えている。幕府は守護荒川の下向に先立ち「高房」を派遣して、幕府方の国人を動員して、大内弘世とそれに同心していた国人の排除を行った。戦闘は那賀郡江津、さらには西部の美濃郡益田城でも行われ、弘世方国人の排除が行われた。これにより弘世に同心していた国人は所領支配に関するはじごを外された形となり、幕府・守護に対して不満を強めた。
 康暦元年閏4月、中央における康暦の政変で管領細川頼之が失脚し、対立する斯波義將がが実権を握り、西国を中心に守護が交替した。石見国では、荒川に代わって弘世の嫡子義弘が守護に補任された。ところが、義弘は九州への動員をへて父弘世とは異なり、幕府の方針を支持するようになっていた。それを示すのが花押の変化であり、当初は弟満弘とともに父弘世を模した花押を使っていたが、康暦元年には全く異なる花押を使うようになっていた。これに対して弟満弘は花押を変えることはなく、兄弟の考え方の違いが明確となった。幕府を支持する義弘と父弘世を支持する満弘である。
 このため、義弘が守護になると、荒川の時代と同様、押領を否定しない反幕府派の国人領が没収され、幕府派国人に預けれられる例が目立った。康暦元年7月25日に義弘は内田氏惣領肥前入道と内田氏一族の俣賀新三郎に対して当知行の安堵を行っている。俣賀氏は鎌倉末期の山野河海の支配をめぐって惣領内田氏を訴え勝利した後は、惣領家とはまったく独立した活動を展開している。惣領家が観応の擾乱期に反幕府方に転じたのに対して、俣賀氏(上下2家の一方)は一貫して幕府方として行動した(もう一方は惣領家と同様に反幕府方に転じていた)。
 邑智郡出羽郷を支配する出羽氏は、観応の擾乱期に出羽上下郷を与えられたが、反幕府方の高橋氏による押領に苦しんでいた。それが、永和2年11月6日には出羽祐忠の石見国恩賞地の訴えを守護荒川詮頼が幕府に伝え、永和5年2月3日には詮頼が出羽祐忠に出羽上下郷の支配を認めている。次いで、康暦内戦後半戦の最中の至徳3年12月7日には守護大内義弘が出羽祐忠の当知行は相違無しとして、幕府に安堵の挙状を上申している。これに対し、嘉慶2年12月日足利義満御判御教書で出羽上下郷地頭職が出羽祐忠に相伝の旨に任せて安堵された。益田氏の一族である那賀郡周布郷の周布因幡入道も同様に康暦内戦で一貫して幕府・守護方の立場を堅持し、将軍や守護から所領の安堵や預置きを受けている。

小笠原氏の動向3

 長義は文和元年10月18日には土屋備前守とともに安国寺領安濃郡内河合南村地頭職に対する金子孫五郎入道の乱妨を排除し、安国寺雑掌に沙汰付けるよう命じられている。佐波善四郎左衛門尉や金子氏が観応の擾乱期に反幕府方に転じたのに対して、石見小笠原氏惣領は安濃郡大田北郷地頭土屋氏とともに幕府方の中心として活動した。信濃小笠原氏惣領貞宗と同じ選択をしたことになる。翌2年5月25日には石見国守護荒川詮頼が、邇摩郡大家西郷井尻村地頭職を井尻八郎太郎に安堵しているが、当知行を証明する証人として小笠原長義と福光又太郎入道がみえている。一方、同年2月10日には荒川詮頼が安濃郡内波祢郷内朝倉弥五郎・同七郎跡地頭職を兵粮料所として武田伊豆乙[守]に預けている。武田氏は河本郷一分地頭小笠原貞宗の代官から軍功により地頭正員に昇進し、幕府方として活動してきたと思われる。
 正平9年、足利直冬が石見国を出発して京都への上洛を開始するが、その途中で幕府方と交戦している。直冬方の吉川経兼は直冬に供奉して5月27日には幕府方の荒川参河三郎・小笠原左近将監(長義)以下の凶徒が構えた温泉郷切所を突破したことについて軍忠状を提出している。
 応安2年8月5日の邑美原八幡社棟札に「大志願主尾張守長義」と記されている。若干見慣れない表現が使われているが、時期的には問題がない。また明応5年11月5日の同社棟札には「今上皇帝武運長久」とみたこともない表記がなされているが、ネットで調べるとこの当時「今上皇帝」との表現が使われることはあったようだ。とりあえず、時期と
「大願主彦左衛門外地下」「大檀那源長隆」との間には矛盾がない。
 永和2年4月、幕府は石見国守護大内弘世を解任した。貞治5年末までに周防・長門両国守護である大内弘世を石見国守護とした。石見国内には南朝や足利直冬方が多く、その切り崩しのため、貞治2年迄は反幕府方として石見国人に影響力を持っていた弘世を起用した。弘世は安芸国でも同様の役割を期待され、石見国人を率いて安芸国の南朝・直冬派を切り崩し、安芸国東西条の支配を認められた。
 その後の弘世は、応安の半済令により国人による荘園侵略に歯止めをかけようとする幕府とは異なり、国人の側に立つことで国人の組織化を図った。それを黙認していた幕府も、弘世が動員されていた九州から無断で帰国すると態度を硬化させ、九州探題で備後国と安芸国の守護であった今川了俊に指示して、国人による所領の押領に厳しい態度をとるようになった。その結果、国人は幕府の方針に従うものと、弘世と結んで押領を続けるものに分かれた。弘世は九州に動員されている国人領の押領にも関与していた。幕府は弘世の嫡子義弘と庶子満弘を九州に代わって動員するとともに、弘世を石見国守護から解任し、文和年間に守護であった荒川詮頼を守護とし、国人の押領を抑えるとともに、所領支配をめぐって対立する国人の中で幕府の方針に従う国人の所領支配を優先して認めた。

小笠原氏の動向2

 建武2年に益田氏に対して益田郷とともに小石見郷・匹見別符・都毛別符が本領安堵されているが、この4ヶ所については北条氏を含む東国御家人に与えられたと思われる。都茂別符は益田氏と婚姻関係を結んでいた小笠原氏(兼頼の弟経氏)に与えられた。河本郷は分割され、兼時ー兼長ー兼久ー兼胤に継承された一分地頭職は兼頼の兄弟で小笠原氏惣領となった宗長に与えられ、次いで嫡子貞宗に譲られた。河本郷のもう一方については益田氏に婿入りした小笠原長親がこれを得ており、没収されることなくその子孫が継承していた。
 霜月騒動後、長氏が新たに信濃小笠原氏の惣領となったが、その長子兼頼が前述の法師丸で父長氏が庶子であった時の子であった。小笠原氏と益田氏との姻戚関係を考慮したのか、没収された益田兼胤領の内、津毛別符と河本郷一分地頭は小笠原氏惣領となった長氏が与えられ、河本郷一分地頭は第二子で嫡子となった宗長を経てその子で信濃国守護となった貞宗が継承した。それに対して津毛別符は第四子経氏に譲られた。これに対して益田氏に養子に入っていた長子兼頼は最終的には益田兼時の弟に兼忠に始まる丸毛(茂)氏惣領分を相続した。これに対して丸毛氏一族の兼幸は母方の由緒をたどって安富郷地頭職を継承した。
 この結果、13世紀末の段階で、旧益田氏領の内、丸毛別符・津毛別符・河本郷一分地頭職は小笠原長氏の子である兼頼(益田氏に養子に入ったため「兼」を付ける)・宗長(嫡子)・経氏が支配する形となり、河本郷一分地頭職は次いで宗長嫡子貞宗が継承した。これに対して益田兼久・兼胤領で没収を免れたのは益田庄本郷の中心部分以外の地と、兼久の妻が周布氏領を譲られていた安富名(別符)であった。また、兼時から女子に譲られた河本郷のもう一方の地頭職はその子孫である石見小笠原氏(家長ー長胤ー長氏)が継承した。建武4年7月25日小笠原貞宗代桑原家兼軍忠状では家兼が又太郎長氏とともに幕府方として戦っているが、桑原家兼は益田氏を含む御神本氏の一族であった可能性が高い。益田兼季の弟兼広は邑智郡桜井庄内日和郷や邇摩郡大家庄内大家西郷を支配する福屋氏の養子に入り、兄兼季の急死によりその所領の配分を受けた後も日和郷内福屋を苗字として使っている。
 暦応2年8月30日小笠原貞宗代武田弥三郎入道軍忠状でも、武田弥三郎入道と小笠原又太郎が一緒に幕府方として活動しているが、武田氏は小笠原氏の同族であり、貞宗の代官として派遣されたきた人物だと思われる。次いで観応元年4月17日に石見国安国寺に指定された旧福園寺(益田兼長の後家阿忍が開基)警固人に、(佐波)善四郎左衛門尉とともに任命された小笠原左近将監は長氏の子長義に比定できる。

小笠原氏の動向1

 石見小笠原氏の系譜については、「丸山伝記」に代表される一連の小笠原氏系図が知られていたが、小笠原氏のもとで石見国の鋳物師頭領をつとめていた山根氏が小笠原氏の系図を残していることが明らかになった。その記載は小笠原氏系図の中では簡素で、戦国期末の状態をとどめているが、他の系図と異るのは14世紀末の惣領だと思われる小笠原下総守長弘以前の部分が切り取られた形で前欠(一部痕跡が残る)となっていることである。 また、代々の当主を記しているが、小笠原氏系図と異なり前当主との関係は記していない。また、一連の小笠原系図の中では古い形を残してはいるが、この系図の記載にも検討が必要である。ともあれこの系図と一次史料である古文書により石見小笠原氏の動向を明らかにしたい。
 石見小笠原氏の初代長親は益田兼時女子と結婚して石見国に入部した。長親の祖父長経女子が益田兼時と結婚しており、従姉妹の女性の婿に迎えられ、益田氏領河本郷の一分地頭となった。これに対して、兼時嫡子兼長は男子が生まれなかったためか、小笠原長氏の子法師丸を養子に迎えた。1285年の霜月騒動の結果、惣領伴野氏が没落し、長氏が小笠原氏惣領となる以前のことで、小法師丸は生まれてまもなく益田兼長の養子となったと思われる。兼長が文永10年に死亡すると法師丸は新たな益田氏惣領となった兼久の養子となった。ところが兼久嫡子兼胤は従姉妹となる兼長女子への女捕により所領の大半を没収された。兼胤の子兼弘が「山道孫太郎入道」と呼ばれたのは、益田氏のもとに残された益田庄の所領の内山道を譲られたからである。益田庄の中心部分である本郷のみは北条氏領となった可能性が大きい。
 問題はこの没収の背景である。西国出身の有力御家人が鎌倉幕府のもとで所領を没収される例は珍しくないが、没収された所領がどのようになったかを考えると、単純に弾圧とは言いがたい面がある。関係する所領については以下の通りである。
 益田庄中心部分である本郷は北条氏など幕府有力御家人領となった可能性が高く、山道など周辺部分が益田氏のもとに残された。長野庄内飯田郷は長野庄成立時には立券の中心となった源氏が支配していたと思われるが、保元の乱後、藤原頼長が没落する中、益田庄から御神本氏庶子兼栄が長寛2年(1164)に下司職を得、貞応2年の訴訟では、益田兼季がその支配を認められた。その後、兼季領が配分されると嫡子兼時領となったが、兼時は嫡子兼長に所領の大部分を譲り、庶子兼久には飯田郷・宅野別符を譲った。それが兼長の早世により、弟兼久が益田氏惣領となった。兼長領も伊甘郷と弥富名は兼長後家阿忍に配分されたが、その他は兼久領となった。兼久は嫡子兼胤に惣領の地位と所領の大部分を譲ったが、そこで女捕事件が起き、所領を没収された。飯田郷については本主源氏が支配権を回復したと思われる。宅野別符についても東国御家人ではなく本主に譲られた可能性が大きい。

都野氏と小笠原氏

 西田友広氏「江津・都野津と江要害」という論文に久しぶりに遭遇して読んだところで、前回(「都野氏と都野郷」「小笠原氏」)は注目していなかった点について述べてみる。
 一つは、永徳元年11月3日に大内満弘から都野郷内嘉久村半分地頭職を与えられている和田士貞坊が永和2年益田本郷御年貢・田数目録の志目庭・智州名に屋敷がみえる「志貞御坊」と同一人物であるとの推定である。時期的には問題がなく、古証文の中にある時点で益田氏が所持していた文書があることからしても、可能性を否定はできない。永徳元年6月に義弘と満弘の間で和解が成立しているので、義弘方であった益田氏領の志貞御房が石見国守護の地位を認められた満弘から安堵を受けることはありうる。判断は保留するが、和田士貞坊は関東安堵之旨に任せて都濃郷内嘉久志村半分を安堵されており、都野氏一族の出身者であるのだろうか。益田氏がこの文書を入手した経緯は不明である。11月6日の沙弥某渡状は、奉書の旨に任せて須子駿河次郎に角井村を打ち渡している。
 もう一点は、西田氏の指摘で当方が年次比定を変更せざるを得なくなった。年未詳9月18日毛利元就書状である。文書に登場する「防州城衆杉治部太輔」についての基礎知識がないまま、弘治2年に比定したが、確かに杉隆泰は弘治元年10月27日に討ち死にしており、成り立たないものであった。西田氏は天文23年か弘治元年のものであると述べられたが、福屋氏が最終的に毛利氏方となるのは、天文23年11月1日の尼子晴久による新宮党党滅以降であり、この文書は弘治元年9月18日のものとなる。
 前回にも触れたが、安芸国吉田攻における小笠原氏については小笠原氏の系図でも、長隆の次男長晴がこれに参加して討ち死にしたことが記されている。長隆は佐波氏女子と結婚していたが、佐波氏も小笠原氏と同様吉田攻めには参加している。問題はいかにして広範囲にわたる国人を尼子氏が動員できたかであるが、それ以前の尼子氏の東方遠征は、吉田攻めの準備という側面があった。けして、西部方面が危なくなったので急遽東方遠征を中止したのではなく、東方遠征が開始された際に、すでに吉田攻めは計画されていたとすべきである。そして両方の計画をつなぐのが、河副氏とともに西部方面に派遣されていたが、東方遠征に参加するため、富田城に帰った湯原幸清である。 

2016年5月 3日 (火)

山名時久について1

 応永13年2月28日に時久なる人物が、周布兼宗が歎申していた邇摩郡大家西郷内井尻村について、現在、邇摩郡は桜井庄地頭桜井宗直が押領しており物騒で沙汰に及ばないとして、同郡内の福光上村を預置くと、周布氏兼宗に伝えている。萩閥の編者は山名と注記している。応永12年1月5日の時点では石見国守護は山名氏利であり、応永13年11月8日以降の守護は山名義理であるので、守護であったとしても短期間となる。以前、周布氏について述べた際は守護代としていた。
 「山名時久」をネットで検索すると、「島根県中世史料集成(熊谷家文書)」がヒットし、『大日本古文書・熊谷家文書』の関係文書15点のリストが掲載されている。3番目に(年未詳)3月2日山名時久書状が掲載され、「石見勢 年未詳だが、山名時久の安芸守護在職徴証は応永25-26年に確認できるため、暫く応永26年(1419)に掲げる。」と備考欄に記されていた。従来はこの時期の守護は「山名遠江守教孝」とされていたが(広島県史)、当該史料で平賀氏に所領を安堵している「遠江守」について、『大日本史料』第7編33巻では、新たに山名時久に比定している。確実な根拠があるのであろう。ちなみに、今年になって東大史料編纂所のデータベースは利用しやすくなり、当該の平賀文書は「古文書フルテキストデータベース」を「平賀」で検索すれば、大日本古文書の当該巻を見ることができるようになった。
 ただし、毛利家文書に関係文書があり、応永13年に比定できる。それは2月5日山名常煕(1367~1435)書状であり、応永11年の安芸国人一揆を抑えるため、石見国と備後国から国人を動員しようとした際のものである。この一揆については岸田裕之氏の論文、さらには氏が当該部分を執筆した『広島県史』通史編2が詳細である。2月5日書状は、山名氏惣領常煕が「伊達入道」に、動員への参加状況を注進することを求めたものである。
 3月2日の文書では「時久」(山名右京との押紙あり)が、芸州の事について備後・石見勢を動員することが上意として決まったことを祝するとともに、出陣については奔走すべき事を求め、等閑は無いと伊達から注進があったことが述べられている。「伊達」の共通項からも、2通の文書が同時期のものであることは確実である。広島県史編纂時に作成された『広島県史年表』では、両者を応永13年に比定しているが、岸田氏の論文の説くように12年の可能性が高い(13年が正しいと訂正)。
 問題は時久の役割で、大日本古文書『益田家文書』では当該時期に出てくる両殿に「氏利・時久」と注記しているが、氏利が応永13年正月前後に急死した際に、時久が短期間だけ守護をつとめた可能性が高い。ただし、時久の山名氏の中での系譜上の位置づけは不明である。

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