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2016年4月30日 (土)

あてずっぽうの歴史学2

 古文書でも偽文書にみえて、実は失われた文書を復元しようとして情報が不足したため、根拠ある文書なのに不自然にみえることがある。これも「それをいっちゃあおしまいよ」なのであろうが、神社では偽文書がよく作成されている。言ってはならないのは「そんなことをしたら神様の罰があたると思わなかったのですか」との質問である。裁判に勝つための場合もあろうが、「それが正しい(そうあるべき)と思うが、証拠がない、だから証拠となるものを作成した。それのどこが問題なのか、罰などあたるはずがない」というところであろうか。そうしてみると、石器をねつ造した人、あるいはそれに基づき日本の歴史をどんどんさかのぼらせた研究者との距離はあまりないような気もする。
 大学の頃聞いてよく思い出すのが、石井ゼミで石井進さん(当時、学生では「石井さん」と呼んでいたのでご容赦を)が「多分の理」について説明された際に、正確には思い出せないが「日本における多数決の歴史」を述べた論文を紹介された。すぐに論文を読むと、鰐淵寺文書の正平10年の鰐淵寺大衆条々連署起請文案があげられていたのが記憶に残っている。それまで鰐淵寺では北院と南院が独自の主張を展開し、対立することもあったが、最初に「以南北旧執不可成真俗違乱事」とある。「多分」については「評定時可随多分義事」「此事古今の佳例也諸人可順衆議者也」とあるが、続いて「但少分先達古実之深義不可棄之、雖多分若輩今案之浮言難許容者歟可弁之也」ともある。少数意見の尊重ともとれるが、よく読むと微妙な表現である。
 記憶でしかないが、『中世政治社会思想』上で「一揆契状」を読んでいた際の事であったと思う。多数決の意見は「神仏の意見」と一致すると当時の人々が思っていたことを知った。浜田高校の教員であった際に大正年間の浜田の米騒動について部員とともに調べ「歴像」(これは前顧問山根正明さんの時代に命名)という冊子にまとめたが、その中で「一揆としての米騒動」との文を書いた。「たぶん‥‥」と言った際に「多分とは何%ぐらいか」と聞かれたらどう答えるのだろうか。石井進さんの言葉としては「論文とはいいながら新しい提案のないものが多い」というのも忘れられない。そのほかに高名な中世史家に対する皮肉たっぷりとも受け取れる言葉もあったが、それはここでは触れない。
  最近ほとんど本を読まないが、上原善広『石の虚塔 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』をネットで他の2冊(著者は同じ)とともに購入し、真っ先に読んだ。よい意味でも悪い意味でも「あてずっぽうの考古学」であり「あてずっぽうの歴史学」であるのだが、その意味は正しく共有されていない。説を立てた人はそれが正しいと思っていることは当然である。ただし、それを100%証明することはできない中、複数の説が登場する。

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