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2016年4月

2016年4月30日 (土)

あてずっぽうの歴史学3

 学校に1年以上前に届いていた某大学の歴史学・文化学科のブックレットを開いてびっくりした。大学の同級生某氏の最近の写真がそこにはあった。大学受験の座席はアイウエオ順であったので、受験の際にその存在を認知し、前期課程では同じドイツ語のクラスであった(2クラスあったが、同じであった気がする。そのクラスの担任はドイツ近代思想の研究者で、現在でも論壇で活躍されている三島憲一氏であった)。そこには歴史・文化学を目指す人への推薦本として服部英雄氏の『蒙古襲来』『歴史を読み解く』があげられていた。某氏は古代史が専門なので意外な感じはしたが、在学中の国史学科の助手が服部氏であり、その後の勤務でも重なることがあったような気がする。
 話を「あてずっぽう」に戻せば、歴史学においてもさまざまなレベルの「あてずっぽう」がある。それを行う本人としては一番可能性が高いと思うから使うのである。絶対的ではないが相対的である。それが正しいと思うのだが、すべての人を納得させるだけの明確な根拠は示せない。いわゆる「理論」とか「分析の視角」もそれに含まれると思うが、それに対して「理論」の信者の研究者からは異論があるかもしれない。言いたいのはその理論・視角によって新たに見えてきたところがあり、それはそれで有効なのだが、逆にそれで隠れてしまったものがあることを明確に自覚していない人がいることである。
 最近ブログで繰り返し述べている大内氏と石見国・安芸国に関する「康暦内戦」については、最初に述べられた説が最も事実に近い。何%かとはとてもいえないが、そこでは内戦は2度あったとされた。それが新たな説では後半戦は対立はあったが内戦とはいえないとされた。そしてすべてについていえるのが、前半戦の主役の一人が益田祥兼だとするのである。内戦は石見国人と安芸国人を巻き込んで2度あり、特に後半戦は長期化した。そして益田祥兼がかかわったのは前半戦ではなく後半戦なのだが、新たな説になればなるほど事実から離れていった。こういうことも史料の扱いの難しさである。
 囲碁の世界最強の棋士の一人とAIプログラムAlpha碁の対局からわかったのは、囲碁の世界は大変深く、これまでの人間の努力でもあきらかになったことはごく一部であったことであった。歴史学も同様だという意味で「あてずっぽうの歴史学」と名付けた。何度もいうが説を唱える人は本気なのだが、歴史学は史料の残り方からいっても深すぎるのである。これも何度かいったが、正しい文書の一部のみを残すことで、歴史は偽造できるのであるが、それに対抗するだけの歴史学はまだ途半ばなのである。

あてずっぽうの歴史学2

 古文書でも偽文書にみえて、実は失われた文書を復元しようとして情報が不足したため、根拠ある文書なのに不自然にみえることがある。これも「それをいっちゃあおしまいよ」なのであろうが、神社では偽文書がよく作成されている。言ってはならないのは「そんなことをしたら神様の罰があたると思わなかったのですか」との質問である。裁判に勝つための場合もあろうが、「それが正しい(そうあるべき)と思うが、証拠がない、だから証拠となるものを作成した。それのどこが問題なのか、罰などあたるはずがない」というところであろうか。そうしてみると、石器をねつ造した人、あるいはそれに基づき日本の歴史をどんどんさかのぼらせた研究者との距離はあまりないような気もする。
 大学の頃聞いてよく思い出すのが、石井ゼミで石井進さん(当時、学生では「石井さん」と呼んでいたのでご容赦を)が「多分の理」について説明された際に、正確には思い出せないが「日本における多数決の歴史」を述べた論文を紹介された。すぐに論文を読むと、鰐淵寺文書の正平10年の鰐淵寺大衆条々連署起請文案があげられていたのが記憶に残っている。それまで鰐淵寺では北院と南院が独自の主張を展開し、対立することもあったが、最初に「以南北旧執不可成真俗違乱事」とある。「多分」については「評定時可随多分義事」「此事古今の佳例也諸人可順衆議者也」とあるが、続いて「但少分先達古実之深義不可棄之、雖多分若輩今案之浮言難許容者歟可弁之也」ともある。少数意見の尊重ともとれるが、よく読むと微妙な表現である。
 記憶でしかないが、『中世政治社会思想』上で「一揆契状」を読んでいた際の事であったと思う。多数決の意見は「神仏の意見」と一致すると当時の人々が思っていたことを知った。浜田高校の教員であった際に大正年間の浜田の米騒動について部員とともに調べ「歴像」(これは前顧問山根正明さんの時代に命名)という冊子にまとめたが、その中で「一揆としての米騒動」との文を書いた。「たぶん‥‥」と言った際に「多分とは何%ぐらいか」と聞かれたらどう答えるのだろうか。石井進さんの言葉としては「論文とはいいながら新しい提案のないものが多い」というのも忘れられない。そのほかに高名な中世史家に対する皮肉たっぷりとも受け取れる言葉もあったが、それはここでは触れない。
  最近ほとんど本を読まないが、上原善広『石の虚塔 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』をネットで他の2冊(著者は同じ)とともに購入し、真っ先に読んだ。よい意味でも悪い意味でも「あてずっぽうの考古学」であり「あてずっぽうの歴史学」であるのだが、その意味は正しく共有されていない。説を立てた人はそれが正しいと思っていることは当然である。ただし、それを100%証明することはできない中、複数の説が登場する。

あてずっぽうの歴史学1

 最近、頭の中で「ささやかれている言葉」が「あてずっぽう」だ。この語はおそらく10年以上、自分の頭の中では浮かばなかったはず。ただし、これも「あてずっぽう」でしかない。その前には「空想から科学へ」というフレーズが浮かんでは消えていた。この題名で半月程前に文章を書き、一旦はアップしたが、まもなく削除した。すべてはブログの題名である「資料(文書)の声を聴く」と関係している。
 ネットで検索すると二つの説が目についた。一つは「当て推量(あてすいりょう)」が変化したというもの。「ずっぽう」の部分は「空(から)」にたいする「からっぽ」のようなものとの解説もあったが、どうであろうか。それならば「推法(すいほう)」がなまったものと言われれば音の部分では納得がいくが、「推法」との語はないようだ。「当推量」→「当推」→「当推坊」→「あてずっぽう」との説もあった。
 もう一つの説は「当て寸法(あてすんぽう)」がなまったものというもの。これならわかりやすい。参考文献に前田勇編「江戸語の辞典」(講談社学術文庫)とあり、それなりの根拠があるようであるが、ネット全体としては前者の説が多く、多数決をとれば前者か。ただし、根拠に基づくとなると後者であろうか。何か現在のネット上の言説をみるような気がする。これについては「理由を述べられない人」という文を以前アップした。
 そこで感じたのが、「お前の言ったことはあてずっぽうでしかない」と相手の説を批判することはできるが、その一方で「あてずっぽうなんだけど‥‥」と本人が言った場合は、可能性が何%かはわからないが、一番可能性が高いと思っていることを言っているのである。基本的に使う側は肯定的に言っているということである。
 「当て寸法」と聞いて連想したのは「目当て」「目分量」「当てがある」などの言葉である。この語も使用する側は肯定的に使うが、当然「当てがはずれる」場合もある。さきほどの「あてずっぽう」の語は10年以上頭の中に浮かばなかったとは実際にそう思っているが、根拠は示せない。あいまいな記憶でしかないのである。さすがに50年と言えば嘘になるであろうが。
 「ずっぽう」については「そっぽ」という語を連想した。「正しい」と思って意見を言ったが、結果として「そっぽ」を向いていたことも珍しくない。

2016年4月29日 (金)

至徳2~3年の安芸国

 康暦内戦の後半戦として安芸国の状況に注目したが、以前述べた以上に大がかりな対立がみられた。
  これまで気づいていなかったが、至徳2年7月末頃、安芸東西条で大規模な合戦があり、今川了俊と結んでいた毛利氏関係者にも複数の死者がでている。この点については河合正治『安芸 毛利一族』から認識した。永享2年2月10日毛利浄済譲状では自分が母親の胎内にいる時に父廣房(元春嫡子)が西条合戦で討死したため、自分には譲状が無いとする。寛正7年3月日毛利豊元雑掌申状では、曾祖父廣房が幕府の命令を受けて武田氏に合力し兄弟・一族とともに安芸国東西条で戦死したとする。
 この合戦の時期を特定するものは、直前の6月11日の今川了俊書下(安堵状)と直後の8月6日書下(同)である。前者では毛利廣世(廣房弟)と内藤満廉宛が残り、後者では毛利亀若(廣房嫡子)・毛利幸千代(一族有富氏)・熊谷四郎左衛門入道宛が残っている。この2つの安堵状の間に惣領毛利廣房とその一族が死亡したが、廣世は生き残り、廣房跡を嫡子亀若が安堵された。
 これと平行する形で、幕府は7月7日に東寺領安芸国衙職を諸郷保地頭等の押領を排除して雑掌に沙汰付け、請取を進めるように松田備前権守と宮下野守に命じている。これに対して、10月14日幕府御教書をみると、小早川美作守・左近将監・兵庫助が雑掌を追い出したり、押領をしたりしたことを踏まえて、再度の命令が両人に出されている。
  廣房嫡子亀若は10月7日に将軍御判御教書により吉田庄地頭職半分を安堵され、翌年正月には今川了俊が廣房跡に対して幕命の施行を行っている。その後も幕府・守護方国人に対する所領の安堵が行われ、東寺雑掌に対する安芸国衙職の沙汰付が命じられている。対立はなお継続していた。その状況を説明しているのが、至徳3年に比定される2通の今川了俊書状である。7月24日書状(至徳3年の追記あり)では、舎兄(廣内ヵ)にも述べたように、毛利廣世が合力のため九州に下向することを喜びながら、安芸国の関口からの報告を受け、9月~10月までは安芸国にとどまり、その後下向して合力するようにと述べている。8月26日書状(追記なし)でも、舎兄と関口の二人とも今廣世が下向することをなげいており、今しばらく安芸国に逗留するように述べている。また書状では舎兄が山名氏に同心しているとの噂があるが、疑うことはないと述べており、備後国守護山名氏の勢力が及んでいたことがわかる。
 以上のように安芸国内の幕府・守護派ならびに武田氏・大内義弘派と反対派の対立が強まっていた。この時期に石見国で大内義弘により行われている所領の安堵や預置は、安芸国と同様の激しい対立によるものと解釈すべきである。そしてこの対立は両国ともにすでに述べたように長期化する。そして石見国内では安芸国の反幕府・守護勢力と関係のある大内満弘を支持する勢力と大内義弘を支持する勢力の対立が高まり、義弘方が何度か益田攻撃の直前まで行くが、結局は実行されないまま(小規模なものはあったであろう)、内戦の終結迎えたのである。

至徳2年の「新介」について

 至徳2年(1385)に石見国守護に準ずる役割を果たしている「新介」が大内氏の関係者であることは確かであろう。大内義弘も任官以前に九州下向を拒否する父弘世に替わって、幕府から「大内新介」と呼ばれて下向を命ぜられている。
   至徳2年の大内新介については萩閥周布で「大内弘茂也」と付記されることから、義弘の弟弘茂であるとされてきたが、岸田裕之氏の指摘で、後に当主となった段階の弘茂の花押と、至徳2年の新介之花押が違うことが明らかになった。「当主となった際とそれ以前の花押の違いは盛見でも確認されている。現段階では二次史料だが根拠のある弘茂に比定するのが無難であろう。」と前に述べたが、以下の問題点がある。
 大内氏の系図で弘茂が弘世の七男とされている点と、至徳2年後新介がしばらく登場しない点である。弘茂の兄とされる盛見が永和3年(1377)の生まれであるので、これを前提とすると弘茂は至徳2年段階では9歳以下ということになり、新介に比定するのは不可能である。また、石見国以外でもしばらく「新介」がみえないことからすると、この人物がこの後まもなく死亡した可能性が大きく、応永の乱後に幕府から大内氏当主と認められた弘茂ではないことになる。仮に弘茂が満弘の年の近い弟だとしても、これ以後「新介」が史料にみえなくなることが説明できない。
 藤井崇氏は義弘の長子とされる持世が応永元年(1394)で義弘39歳時の子であることから、応永元年以前に死亡した義弘の子がいた可能性を指摘されたが、至徳2年段階では義弘自身が30歳でしかなく、義弘に元服した子がいた可能性はきわめて低い。子ではなく、系図には記されていない弟が存在し、義弘の後継者として「新介」と呼ばれたと考えるのが妥当であろう。なお、年未詳4月9日新介書状(萩閥周布)がある。これは応永の乱以後に弘茂が防長守護となった際のものであるとの説があるが、益田家文書にも「新介」と署名した応永年間のものはない。また、至徳年間の文書とも月がずれている。あるいは、この新介は義弘が九州に出かけた際に、周布氏と連絡をとったものかもしれない。

2016年4月27日 (水)

広瀬秀泰請文について

 鰐淵寺文書には応安7年(1374)3月9左衛門尉源秀泰請文がある。鰐淵寺領出雲郡漆治郷領家方庶務代官への補任に際してのものであろう。曽根研三氏『鰐淵寺文書の研究』では佐々木氏一族の広瀬秀泰に比定され、『南北朝遺文』でも踏襲されているが、今回の『鰐淵寺文書』では「源秀泰」と表記され、広瀬氏との比定は採用されていない。 広瀬とは富田荘内で飯梨川西岸にある場所であるが、問題は秀泰の活動時期並びに広瀬氏の活動範囲が出雲国西部に及んだかである。
 前者について言うならば、佐々木氏系図では秀泰は富田氏初代義泰の子とされる。建武政権で雑訴決断所の役人となった師泰、建武3年7月23日に出雲国守護塩冶高貞から出雲大社領を国造清孝に渡すよう命じられた富田弥六入道(頼秀)、高岡宗泰の養子となったが、元徳2年(1330)に51歳で養父宗泰に先立ち死亡した宗義の弟となる。宗義の生年が弘安3年(1280)であり、秀泰も1280年代の生まれであろう。となれば、応安7年には90歳前後と考えられ、源秀泰を広瀬秀泰に比定することは不可能であろう。彼を除けば佐々木氏系図に「秀泰」を名乗る人物がいなかったため比定されたのだろうが(もう一人、泰清の長子義重孫貞泰の子に小次郎左衛門尉清秀とならんで四郎秀泰がみえるが、清秀が元弘3年4月3日に関東で討ち死にとあるように、これも時代的に無理である。ちなみに清秀は多祢次郎左衛門尉女子を母としている。次郎左衛門尉とは正安2年に杵築大社造営奉行としてみえる多祢次郎左衛門尉頼茂であるが、なぜか大伴氏系図にはみえない。清秀が関東で討ち死にしているように、北条氏との関係を深め、幕府とともに没落したためであろうか)、可能な検証をしないまま、比定したことになる。その子孫については、苗字が記されておらず、活動範囲は不明である。その意味で『鰐淵寺文書』の「源秀泰請文」との文書表記は正しいことになる。
 佐々木氏系図で南北朝期に鰐淵寺との関係がうかがわれるのは、高岡宗義の孫(師宗の子)に信濃公(鰐淵寺衆徒)がみえる。高岡氏系図では「高円」と呼ばれ、応永6年(1399)年に死亡した事が記されているが、一方では塩冶時綱の子にも「高円(律師信濃公)」と記されており、両者は同一人物であろう。父師宗が塩冶高貞の乱で討ち死にしたため、その幼子が時綱の養子に入ったとの解釈が妥当であろう。

2016年4月26日 (火)

庵原家文書の伝来から

 小笠原氏関係文書として知られる庵原家文書26通はどのような伝来経路を持つものであろうか。井原氏を宛所とする小笠原氏発給文書が大半であるが、それ以外の文書との関係が問題となる。
 26通中写しが2通あるが、いずれも小笠原氏に対して所領を渡したものである。康暦2年4月28日大内義弘書下写は、これに先立ち将軍の発給文書があったのか、一時的な預け置きであったのか否かは不明であるが、時期的には大内氏内部の義弘と満弘・弘世の対立の中で、敵方である井原左近将監跡が、石見国守護大内義弘の判断で没収され、味方である小笠原右京入道(長義)に与えられたのだろう。明徳元年4月10日大内義弘遵行状写も大内義弘と満弘・益田兼見の対立が続く中で、味方である下総守小笠原長弘に所領が将軍から与えられ、それを守護義弘が所領(河本郷・吉永郷)の沙汰付を守護代右田伊豆守に命じたものである。井原左近将監跡との関係は明記されないが、以下のように無関係ではないと思われる。なにより、井原氏がこの写しを伝来してきたことがそれを示している。
 残るは井原氏以外を宛所とする、①建武4年7月25日小笠原貞宗代桑原家兼軍忠状、②暦応2年8月20日小笠原貞宗代武田弥三郎入道軍忠状、③文和2年2月10日石見国守護荒川遠江守詮頼書下、④永和2年7月24日管領細川頼之感状である。①②から河本郷一方地頭が小笠原氏惣領で信濃国守護であった小笠原貞宗であったことがわかるが、①の桑原家兼は「兼」の一字から、益田氏の一族である可能性がある。一緒にみえる小笠原又太郎長氏は益田兼時の娘と結婚して河本郷へ入部したとする石見小笠原氏であろう。
 これが②となると、小笠原氏と同族の甲斐源氏武田氏の一族が、貞宗の地頭代として派遣されたのだろう。それが③にみえるように、独立した石見国人武田氏となり、所領を預けられ、感状を与えられる存在になったのである。問題は武田氏と井原氏の関係である。井原は河本郷に隣接する久永庄の中心部分井原のことである。井原氏が武田氏の一族である可能性と、武田氏領がその後井原氏に与えられたためである可能性がある。いずれにせよ、井原氏が康暦2年4月に没落して小笠原氏の支配下に入った時点ですでに所持していた文書であると思われる。石見小笠原氏は幕府方として活動し、次いで大内義弘方として活動する中で、井原氏領を獲得して、その勢力を拡大したのである。
 なお、小笠原氏の系図によると、小笠原長徳の代に大内氏から井原を含む所領を与えられるとともに、井原氏は懈怠が続いたので悉く退治したと記している。その結果、井原氏の庶子家のみが存続し、文書を伝えたのではないか。

2016年4月23日 (土)

鎌倉期の鰐淵寺2

 ところがこの体制は、孝元による杵築社供御と国富郷の年貢未進、さらには国造孝綱が国司・幕府に働きかけたことに対する領家の反発で短期間で崩壊した。国富郷地頭は孝元から同族の孝幸に交代する形で収拾されたが、杵築大社神主は国造孝綱から在庁官人中原孝高に、権検校は出雲頼孝に交代した。両者は領家の命令を受けて孝元の追放を行ったのである。ただし、孝元は湯郷地頭等の地位は維持し、承久の乱も乗り切り、後に出雲頼孝の子ある出雲実高に代わって神主となったこともあった。
 鰐淵寺については、宇賀郷地頭として遠江国御家人西郷氏が入部したことで、前述の成相寺や清水寺と同様の打撃を受けたと思われる。鰐淵寺側が西郷氏を訴えた結果が弘長3年8月5日関東下知状案であった。いずれにしても鰐淵寺側の収入が承久の乱後減少したのは確実である。この点が土御門院が本家であったため、承久の乱の影響をあまり受けなかった杵築大社との違いであった。
 こうした鰐淵寺に対して支援を行ったのが守護佐々木泰清とその後継者達であった。島根郡生馬郷内1町が北院三重塔修理料田として、出雲郡志塚保内1町が南院薬師堂修理料田として寄進されている。これについて、佐々木貞清は「本堂并塔婆」とよんでおり、この時点では南院の中心が薬師堂であったのに対して、北院の中心は千手堂から三重塔に変化している。永仁6年には平田保地頭惟宗頼直が保内3段を鰐淵寺法花不断読誦料田として寄進している。
 鎌倉時代は北院が守護と結んで優位に立ったのに対して南院が後醍醐と結んで巻き返しをはかったともされるが、国富郷が鰐淵寺領となった際も北院50町、南院50町と差はなく、志塚保の例でもわかるように、佐々木氏は両院に料田を寄進しており、北院が優位であったとの評価は適切ではない。南北朝期の南院関係文書も頼源関係文書が残ったからであるにすぎない。

鎌倉期の鰐淵寺1

 鰐淵寺については井上寛司氏による研究があるが、なお不明な点が多いので、以下に述べる。古記録でも「鰐淵寺」と記されるのは仁平3年(1153)が初見であり、大伴氏系図で「鰐淵寺別当」と記されるのも12世紀後半の宝光坊惟宗からである。ただし、それぞれ独立性の強い千手堂(北院)と薬師堂(南院)に対して天永3年の塔が国衙により造営されたとの記述は両者を統合したものではなかったか。次いで塔供養には三井寺長吏が招かれているのである。
 鰐淵寺領についても、井上氏により従来の公領を注進に散在する小規模所領が中心であったが、13世紀初頭に院の関与により国衙との和解が成立し、一円的所領としての国富郷が無動寺に寄進され国富庄が成立したとされる。これ自体には問題がないが、さらに鰐淵寺の所在する宇賀郷との関係も問題となる。
 後の記録であるが、秋鹿郡成相寺も周辺の所領を支配していたのが、承久の乱で失ったと記し、能義郡清水寺も同様のことを記している。国富郷が鰐淵寺領となるまでは、散在する所領ではなく宇賀郷内の所領が中心であったと思われる。これに国富郷が加えられたのは、杵築大社との関係が強化され、それまで九月会と並び称せられていた三月会が鰐淵寺僧の参加とともにその位置づけを国衙の中心的祭礼としてアップさせたことと関係していよう。ただし、もう一つの側面として、なぜこの時期なのかということも注目しなければならない。
 国富郷にしても鰐淵寺(無動寺)領となるとともに、内蔵孝元が地頭職に補任された。無動寺への懇望によるとされるが、その前提として、孝元が国富郷司であったことが大前提である。一方、杵築大社については、神主国造孝綱・権検校孝元という体制が成立している。まさにこの当時に出雲国の実質的な分国主であった後鳥羽院と幕府将軍実朝との関係を抜きにしては考えられない事態である。まさに上からの命令であり、鰐淵寺側は国富郷の寺領化には不満を表していた。

2016年4月22日 (金)

朝山氏と鰐淵寺2

 仁平3年に源義広は美福門院を本家、平忠盛の妻藤原宗子(後の池禅尼)を領家として常陸国志太荘を立券しており、同様のことを出雲国でも進めようとしたが、万田郷に権益を有する勝部宿祢一族がこれを阻止しようとしたのであろう。「久木」は楯縫郡内の所領であるが、南側の出雲郡にまで張り出す形の所領であった。出雲郡には摂関家領福頼庄があり、それを通じて清和源氏の勢力が浸透してきたのだろう。
 その後、焼失2年後の久寿2年(1155)には造営が開始されたが、10年後の永万元年(1165)には火災により千手堂・薬師堂等が焼失した。その後再建され、治承元年(1177)には千手堂供養がなされたが、翌2年には再び火災で千手堂・薬師堂・常行堂・塔・釈迦院・普賢院が焼失した。6月には千手堂の柱立が行われ、年中には終了したとする。その勧進を行ったのが宝光坊であったが、大伴氏系図に「鰐淵寺別当法光坊」と注記される元宗の子惟宗である。続いて薬師堂の造営が宝光坊の勧進で行われたのに対して、常行堂は朝山庁事により造営された。当時の朝山庁事は元宗の孫(佐世庁事守安の子)惟元であった。その兄弟にも「鰐淵寺別当法達房」と注記される宗尊がおり、惟元の子円顕(鰐淵別当律師)と宗顕(鰐淵寺別当宝忍法橋)も鰐淵寺別当をつとめている。元宗系が鰐淵寺との関係を強めていたことがわかる。各院の長吏に対して、鰐淵寺全体をまとめるのが別当であろう。
 元暦元年の塔・千手堂供養は、供養導師天王寺松林坊、請僧60人という体制で行われ、文治2年9月の薬師堂供養の供養導師も松林坊であった。この際に、松林坊が過去の鰐淵寺の焼失と建立の記録をまとめたのであり、その内容はおおむね信頼できるものである。なお天王寺は摂津国四天王寺のことで、聖徳太子が初めて建立した寺院として信仰を集めていた。
 以上、平安末期の鰐淵寺について、鰐淵寺古記録と大伴氏系図から述べたが、園城寺ならびに元宗系勝部宿祢(朝山氏)との関係を有したことが明らかとなった。

朝山氏と鰐淵寺1

 鰐淵寺文書は鎌倉期以降のものしか残っておらず、その鎌倉初期に国衙により杵築大社との関係が確定されたとされるが、それ以前について若干の考察を加える。
 今回の『鰐淵寺文書』にはなぜか収録されなかったが、文治2年9月15日に作成された「鰐淵寺建立並焼失事」と題する記録がある。推古天皇の治世に鰐淵寺の前身となるものが建立されたことに続いて、寛和2年(986)に千手堂と薬師堂の造営が国衙により行われたことを記す。千手堂が後の北院、薬師堂が南院である。杵築大社の造営記録よりも年次が古いが、少なくとも鰐淵寺の前身にあたる寺院の造営が国衙により行われたことは事実であろう。
 次いで杵築大社の造営・遷宮が行われた天永3年(1112)に塔が造営されている。国守は藤原顕頼である。杵築浜に因幡国からもたらされた巨木がこの塔の造営にも活用された可能性が高い。そして天治2年(1125)には塔供養が営まれているが、「三井寺長吏同乗房、請僧百名」と記され天台宗三井寺(園城寺)長吏が招かれ、請僧100名の規模で行われたことがわかる。天台宗寺院として、延暦寺よりも園城寺との関係が深かったのであろう。
 仁平3年(1153)11月には久木新大夫と鰐淵寺唯乗房との間で万田荘をめぐる相論があり、それが鰐淵谷での合戦に発展した。久木新大夫は源義憲(義広)の方人となり、万田荘への介入をはかったが、それに対して鰐淵寺唯乗房が異議を唱えたのであろう。承久の乱後に勝部宿祢の惣領となる一族は、12世紀中期の佐世庁事元宗の子孫であった。元宗は勝部宿祢一族では惣領孝盛に次ぐ地位を占め、国衙の庁事となっていた。
 大伴氏系図には元宗の子として万田庁事明元がみえ、建久年間には万田郷司であったと考えられる。文永8年(1271)には「万田本庄」「万田新庄」とみえ、その後まもない時期に荘園として寄進されたのであろう。

2016年4月19日 (火)

大内弘世から義弘へ

 大内義弘が守護として確認できる初見は以下の通り
  石見国:康暦元年7月26日(内田氏と俣賀氏への当知行安堵)
   長門国:康暦元年11月2日(長門国二宮大宮司職を安堵)
    周防国:康暦2年9月8日(これ以前に平子因幡守の周防国での忠節を注進)
 周防国については、義弘と満弘兄弟の内戦にともなうものとの解釈も可能だが、満弘の背後には父弘世があったのは確実である。安芸国内での弘世与同勢力を排除するために、幕府は安芸国守護今川了俊と大内義弘の勢力を動員し、了俊の代官として関口氏を芸州対処として派遣するとともに、現場で指揮し報告したのが武田(信在か)であった。且つ、長門国の例をみれば、康暦元年11月の時点で周防国も義弘が守護に補任されているとすべきである。佐藤進一氏は、「父弘世の死(康暦2年10月15日と11月15日説あり)に先立って守護の職務行為に携わっているようである」とされたが、当時の両者は敵対関係にあり、幕府が弘世に代えて義弘を守護に補任していた。それを端的に示すのが、義弘の花押の変化で当初は父弘世に似た形であったが、石見国守護としての初見史料から全く違う形の花押を使用するようになる。これに対して、満弘は父弘世、さらには初期の兄義弘の花押とよく似たものを使い続ける。

2016年4月18日 (月)

名和氏と朝山氏の本拠地移転

 偶然、弘和4年(1384)7月日菊池武朝申状(菊池古文書)をみていたら、正平13年に名和氏惣領顕興が拠点を伯耆国から肥後国へ移し、菊池氏とともに懐良親王による九州北部制圧に従事したことが記されていた。正平13年当時の伯耆国は反幕府方であった山名時氏が、幕府方に対して優位に立っていたが、やはりそれまで南朝方と北朝方として激しく対立してきた名和氏と山名氏の関係は改善されなかったのではないか。とりわけ、強い圧迫を受けてきた名和氏にとって山名時氏は不倶戴天の敵であったのであろう(名和氏と出雲国参照)。
 朝山氏は正長2年(1429)9月に、応永元年(1394)まで支配していた本領である朝山郷を召放たれ、御料所にされたとしてその回復を求めている。同時に、勲功の賞として得た安田庄と長田東郷については守護により掠め取られ、召し放たれたと主張している。ただし。実際には康暦元年(1379)5月27日に国内の三津郷・長田東郷の替わりに伊勢国尼寺田郷・岩田郷等を与えられている。安田庄についても文和3年(1354)に長田東郷・朝山郷闕所分等とともに与えられているが、当時は山名氏や足利直冬と結ぶ反幕府方が優勢で、その実効性は不明である。
 康暦元年は中央の康暦の政変で出雲国守護が京極氏から山名氏に交代した年であり、朝山氏の主張を踏まえると、旧朝山氏領の一部は新守護山名氏領となったのではないか。安田庄については、安来庄地頭松田氏が勢力を伸ばし、康正2年にはその一部が備後国の奉公衆杉原氏領となっており、朝山氏の支配は回復していない。

2016年4月 3日 (日)

出雲政孝と義孝

 政孝は孝房の子で兄孝綱の跡を継承した形となっているが、実際にはその後も孝綱系との間で相続をめぐる対立があったと思われる。建保7年3月には孝綱が父の申置きに基づき弟政孝に国造職と惣検校職を去り渡しているが、後に作成されたものである。この時点で国造が神主職を確保していたわけではない。以前の論文では、実朝暗殺との関係で述べていたが、文書そのものが要検討である(論文でも義孝譲状からが正しいものとしている)。承久元年11月の関東下知状では孝綱に元の如く4カ所の地頭職が安堵されているが、これは孝綱系の人々が後世作成した文書である。
 系譜では嘉禄元年(1225)に孝綱から弟政孝に交替したとする。同年4月には政孝が本家承明門院に神主職は神殿造営に依り補任される職であるとして補任を求め認められているが、補任権を持つのは領家であり、国造以外が神主であったので、このような訴えをしたのだろう。当時は出雲大社仮殿造営中であったが、進んでいなかった。これに対して政孝は代々の造営日記文書を所持していた。これは建久2年に内蔵資忠との裁判のため、天永3年(これを誤って永久2年とした)と久安元年の造営史料を写したものであった。国衙にはその元となる史料が保存されていたが、承久の乱で有力在庁官人の多くが没落する中で失われてしまったため、その史料の重要性が増していた。そのため、訴えが認められた。承久の乱までのライバルは国造家と外戚関係を持つ有力在庁官人中原孝高であったが、在庁官人中原氏は承久の乱でその勢力のかなりの部分を失った。
 神主となった政孝は内蔵孝元の例を引いて権検校出雲真高の解任を求めるが、領家の受け入れるところとはならなかった。嘉禄3年(1227)6月に仮殿遷宮が終わったが、それが神主の変更となったかは不明である。寛喜元年(1229)7月には出雲実(真)高が権検校職に補任されている。同3年3月には政孝が子義孝に国造と惣検校職を譲っているが、これも要検討文書である。天福元年(1233)6月には出雲大社神主真高が刃傷事件を起こし、解任され、承元2年に幕府の支持で権検校職を務めた内蔵孝元が神主となった。文暦2年(1235)9月には領家が義孝を神主職に補任するとともに造営沙汰をするよう命じている。それまで真高が神主として行ってきたが正殿造営が進まないためであった。翌嘉禎2年6月には鎌倉幕府が将軍御教書により孝綱子経孝を神主職に補任しているが、後世作成されたものである。この翌年に領家藤原家隆が死亡した。この点と正殿造営が進行したことで、造営日記文書を持つ義孝が、神主職を確保したと思われる。
 正殿造営には幕府も御家人に負担を命じ、協力した。この中で義孝は守護佐々木泰清との関係を強めていく。その子が泰清の一字をもらい「泰孝」と名乗っていることもそれを示しているし、義孝自身の花押も、当初の形から変化し、泰清の花押と似てくる。

出雲宗孝再考

 ここでは国造職と神主職の2つの職の違いを確認するのはなく、国造職を持つ人々が、いつの時点で神主職に補任されたかについて確認する。国司が補任する国造と領家が補任する神主は別のポストで、国造家が神主になるのが当然だったわけではないのである。
 国造で初めて神主となったのは12世紀半ばの兼忠であった。一旦は、内蔵忠光が中心となって出雲大社領が成立(神主忠光・領家藤原光隆・本家崇徳院)したが、崇徳院が保元の乱で敗れ、次いで光隆が一時的に失脚した隙をついて、一旦は公領に戻された。次いでまもなく光隆が復活した際に、本家を後白河院に変えて再度の立券が行われ、兼忠が忠光に代わって神主となった。系譜では兼忠は仁安3年(1168)に死亡し、兼経が国造・神主となった。兼経は兼忠の甥で、その祖父宗房と兼忠の父兼宗は兄弟であった。本来は宗房が頼兼の嫡子であったが、国造就任後1年で死亡したため、弟兼宗が国造となった。次いでその子兼忠が継承したが、兼忠の死を契機に兄宗房系に戻ったのである。系譜によると兼経は9年間、国造・神主を務めて死亡した。兼経の子が幼少であったこともあり、再び後継者争いが生じ、兼宗系の代表としてその跡を継承したのが宗孝であった。建久5年の在庁官人解では宗孝について、元出雲氏であるが、兼忠の嫡子として国造・神主を継承したという、不可解な表現がされている。この解そのものが後世に裁判などのために作成されたものであることが「不可解な表現」の最大の理由である。
 それはさておき、宗孝が国造・神主となったのは安元2年(1176)が初めてで、平治の頃に一度なったというのは、兼忠の死没年代からみても事実ではない。建久2年の在庁官人解では国造孝房からみて「伯父兼忠」、「祖父兼宗」、「曾祖父国経」と呼んでいる。ここから宗孝を兼忠の弟(その場合は国経の孫娘と結婚して養子となったか)とすることも可能だが、それならば国経との関係が問題で、「元出雲氏であるが、兼忠の嫡子」という不可解な表現にはならない。そうでないとすると、宗孝が兼宗女子と結婚して生まれたのが孝房ということになる。そして宗孝は国経の孫であった。
  国経の前任者は国明で、国をその名に付ける人々が国造であったが、その後は頼兼系が中心となり、「兼」をその名に付ける人が国造となった。次いで兼経の死の中で浮上してきたのが、兼宗女子と結婚していたと推定した「宗孝」であった。宗孝の系統は出西郷の開発を進め、経済力を付けていたのが、相続を可能とした。仮説の上に仮説を重ねているが以上のように考えた。宗孝の跡をその子孝房が継承したため、今度は兼経系から不満が出て、国造職をめぐる対立が発生した。それが過去の相続について偽文書が作成された背景である。
 一方、宗孝の子孝房は神主職を、内蔵忠光の子資忠に奪われている。忠光失脚後、神主職についても兼忠とそれ以外の人物の間で交替があった可能性はあるが、史料がなく不明とせざるを得ない。神主職は国造職と違い、領家への請文提出者から選ばれており、経済力を持った関係者なら可能であった。急に資忠が神主になることができるかとの疑問も生ずるが、なんといっても大きかったのが源頼朝への大功であった。神主となって大功をなしたのではなく、大功があったので頼朝が領家藤原光隆に強く推薦し、資忠が神主になったのである。同様の例に薗山庄の荘官の地位への復帰を頼朝に働きかけた師兼の例があった。資忠は出雲氏の中で「内蔵」の管理にあたっていた家で、出雲国と隠岐国の有力在庁官人でもあった。これ以降の点については「内蔵資忠と出雲大社領」の中で述べた。

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