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2016年4月30日 (土)

あてずっぽうの歴史学1

 最近、頭の中で「ささやかれている言葉」が「あてずっぽう」だ。この語はおそらく10年以上、自分の頭の中では浮かばなかったはず。ただし、これも「あてずっぽう」でしかない。その前には「空想から科学へ」というフレーズが浮かんでは消えていた。この題名で半月程前に文章を書き、一旦はアップしたが、まもなく削除した。すべてはブログの題名である「資料(文書)の声を聴く」と関係している。
 ネットで検索すると二つの説が目についた。一つは「当て推量(あてすいりょう)」が変化したというもの。「ずっぽう」の部分は「空(から)」にたいする「からっぽ」のようなものとの解説もあったが、どうであろうか。それならば「推法(すいほう)」がなまったものと言われれば音の部分では納得がいくが、「推法」との語はないようだ。「当推量」→「当推」→「当推坊」→「あてずっぽう」との説もあった。
 もう一つの説は「当て寸法(あてすんぽう)」がなまったものというもの。これならわかりやすい。参考文献に前田勇編「江戸語の辞典」(講談社学術文庫)とあり、それなりの根拠があるようであるが、ネット全体としては前者の説が多く、多数決をとれば前者か。ただし、根拠に基づくとなると後者であろうか。何か現在のネット上の言説をみるような気がする。これについては「理由を述べられない人」という文を以前アップした。
 そこで感じたのが、「お前の言ったことはあてずっぽうでしかない」と相手の説を批判することはできるが、その一方で「あてずっぽうなんだけど‥‥」と本人が言った場合は、可能性が何%かはわからないが、一番可能性が高いと思っていることを言っているのである。基本的に使う側は肯定的に言っているということである。
 「当て寸法」と聞いて連想したのは「目当て」「目分量」「当てがある」などの言葉である。この語も使用する側は肯定的に使うが、当然「当てがはずれる」場合もある。さきほどの「あてずっぽう」の語は10年以上頭の中に浮かばなかったとは実際にそう思っているが、根拠は示せない。あいまいな記憶でしかないのである。さすがに50年と言えば嘘になるであろうが。
 「ずっぽう」については「そっぽ」という語を連想した。「正しい」と思って意見を言ったが、結果として「そっぽ」を向いていたことも珍しくない。

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