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2016年3月

2016年3月31日 (木)

赤江保

 宝治元年三月十一日の院評定での報告に「掃部寮便補保国司顛倒所々」として、周防国久賀保と備中国永富保とならんで、出雲国赤江保がみえている(葉黄記)。国衙領ではあるが国衙を通さず年貢を直接掃部寮に納めていたのが、国衙領に戻したのであろう。建長元年出雲大社遷宮注進状には「赤江郷」とみえ、前年の遷宮の神事の中では仁多郡布施郷社・山代郷・福富保等の地頭とともに、流鏑馬十五番中の四番を勤めている。文永八年出雲大社三月会結番帳では、宇賀庄二四六町四反小とともに、赤江郷一八町三反三〇〇歩がみえ、地頭は鶴岡八幡宮の僧大弐僧都であった。地頭職を幕府が管理し、関係者を給主とする所領になっていたのであろう。延慶元年頃には「赤江保」とみえ、六波羅探題南方料所となっていたが、本主に返すことになったため、これに替えて周防国竈戸関が料所として進められた(年未詳九月二十六日長井貞秀書状、金沢文庫文書)。この記事について『島根県の地名』の「赤江郷・赤江保」の項では、本主=掃部寮とするが、公領としての支配と地頭職を混同しており誤りである。一貫して公領であったが、地頭職については幕府が管理する=幕府領になったのである。本主は幕府の関係者(僧・御家人等)であろう。
 そのため、幕府が滅亡すると赤江保地頭職は建武政権によって没収されたはずである。康永三年には「赤江郷」、正平八年には「赤江庄」とみえることから、「この間に本格的な庄園として成立した」との評価も的外れである。公領の一部(地頭職ではない)が分国主によって特定の寺社や人物に与えられることは珍しいことではない。
 寛正六年十一月十二日多賀清忠寄進状により「出雲国赤江郷地頭分」が大徳寺塔頭清泉寺の春浦上人に寄進されているが、文明七(一四七五)年十二月四日には塩冶与五郎政通が多賀紀伊守清忠による赤江庄の押領を訴えている(政所賦銘引付)。政通の父と思われる「故兵部大輔(豊高)」が清忠から借銭をした際に質券として入れおいたが、約束の月を過ぎても赤江庄が返されないまま、数年が経過したとしている。
 豊高は寛正三年には塩冶氏惣領として塩冶郷内日御崎社領一町の安堵を行っている。兄高清が惣領であったが、その嫡子が早世し、替わって嫡子となった貞綱が幼少であったため(一四三八年生)、豊高が一時期惣領を務めたと思われる。文明四年三月には幕府が出雲大社による日御崎社領の侵犯を停止するよう守護京極氏と国内の有力国人に命じているが、その中に「佐々木塩冶五郎左衛門尉」がみえ、翌年十二月には「宮内少輔貞綱」が塩冶郷内大津村一町を塩冶八幡宮御神田として寄進している。文明四年までに豊高が死亡し、貞綱が惣領となっている。政通は文明七年段階でも「与五郎」であり、惣領貞綱よりも年少であった。
 この間の状況について『島根県の地名』では、赤江庄領家職と地頭職に分けて考え、多賀氏が守護京極氏の家臣(被官)であり、塩冶氏が幕府奉公衆であることから、領家職を幕府が支配し、地頭職を京極氏が支配し、それぞれが家臣に与えられていたとするが、これも適当ではない。塩冶氏から質券として一時的に得た「赤江庄地頭分」を多賀氏は自らのものとし、それを春浦上人に寄進したと考えるべきである(「在地と権威」でこの問題に言及した際は、『島根の地名』の理解を採用していたが、改める.。ただし「応仁・文明の乱と尼子氏」ですでに訂正している)。

2016年3月28日 (月)

富田秀貞の動向

 富田秀貞は塩冶高貞と同世代となり、その動向も塩冶高貞が追討されるまでは併走していた。富田氏と婚姻関係で深く結ばれていた高岡氏が高貞とともに追討されたのもそのためであろう。ただし、美作国守護となっていた秀貞自身はその後も幕府方として活動している。それが、正平6年7月25日には「前美作守」として、勅裁をうけて鰐淵寺に阿井郷を寄進したのである。足利尊氏が弟直義との対立を有利にするために南朝へ下るのは8月のことであり、秀貞の行動はそれとは別個のものである。「前美作守」との表現にもそれが表されている。8月17日にはこれに関して秀貞が注進状を提出するとともに、鰐淵寺衆徒が目安状を提出している。10月には頼源が三処郷地頭職の安堵を求めた目安状を提出し、10月8日には後村上天皇綸旨で認められている。同年9月18日には宛所が切り取られているが、出雲国楯縫東西両郷と加賀庄闕所分等地頭職が某に与えられている。一方、8月22日には山名時氏に呼応する三刀屋氏などが、三刀屋郷石丸城に楯籠もり、時氏の承判を受けている。この時点では秀貞と時氏の関係は不明である。
 翌年には南朝の京都占領が一時的に実現したが、まもなく5月には幕府により京都が奪還され、正平一統が終了した。山名時氏が幕府を離脱するのは観応3年9月である。このような状況の変化は秀貞の動向にも影響を与え、8月2日には幕府が美作国守護佐々木美作前司に同国高倉庄への濫妨停止を命じており、秀貞は幕府方に復帰していたことになる。その一方で8月5日には幕府が出雲国守護佐々木道誉に対して、淀新庄に対する佐々木美作守の濫妨についての雑掌の訴えを認め、下地を雑掌に打ち渡すことを命じている。秀貞自身は出雲国におり、京都にいたと思われる嫡子美作四郎左衛門尉直貞が、高倉庄について請文を提出している。訴えられていた濫妨人はすでに退散したが、渋谷氏などが新たに濫妨をしているとして、新たな御教書の発給を求めている。そして9月には山名氏が出雲国守護京極氏への攻撃を開始し、これを制圧する。9月には時氏の嫡子師義が岩屋寺に禁制を出している。岩屋寺の求めに対して出したものである。幕府が同年(文和元年)12月22日に加賀庄の替えとして周防国二宮庄地頭職を東福寺に寄進しているのも、出雲国が反幕府方に押さえられたことを受けての事であろう。翌年に出された御崎社検校淸政契約状も正平年号を使っている。幕府方は朝山安芸守義景が文和2年に注進状を提出し、それを受けて幕府は中国凶徒退治のため発向するので、用意をするようにとの軍勢催促状を10月に出している。そして翌文和3年4月8日には幕府が出雲国富田庄・美作国青柳庄・近江国江辺庄・鳥羽庄下司職などの佐々木美作前司跡を京極道誉に与えたのである。この時点では実効性はほとんどなかったが、秀貞領を没収したのである。そしてこの年、石見国から出雲国に入った足利直冬を迎え、朝山氏などの幕府方を撃破し、山名時氏とともに、富田秀貞ら反幕府方が京都を占領することになるが、すでに述べたことなので省略する。

2016年3月27日 (日)

漆治郷地頭再考

 延慶3年12月日藤原泰親奉平朝臣某寄進状(鰐淵寺文書)について、再検討をしてみたい。『竹矢郷土誌』執筆の際に、得宗領について論じたが、そこで漆治郷地頭が文永8年段階の小山氏(藤原姓)から平氏に交替していることと、地頭2人のうちの平顕棟が将軍久明親王の側近であること、さらには得宗と密接な関係を持つ美濃国御家人池田長氏が漆治郷地頭となり、建武元年には長氏の子孝長が佐草氏の所領安堵の際の証人としてみえることを明らかにした。そうした中で、延慶3年寄進状の平朝臣は平顕棟である可能性が高いことを指摘した。それについて、再検討が必要なことについ先ほど気づいたので、以下に述べてみたい。
 平顕棟が久明親王の令旨の奏者としてみえるのは、①年未詳5月13日令旨案(播磨清水寺文書)と元亨3年(1323)に比定できる②二月二日令旨、③3月4日令旨(大徳寺文書)の3通である。①は『鎌倉遺文』では当初嘉元3年(1305)に比定されていたが、補遺遍では「徳治元年ヵ」(1306)とされた。1305年と1306年に比定された根拠は不明であるが、重要なのは延慶元年(1308)8月4日に、久明親王は将軍を子の守邦親王に譲って、京都に送還されたことである。1305年だろうと1306年だろうとまだ久明が将軍であり、そうであるならば令旨という親王の立場から文書を出すのは不自然である。将軍として関東御教書で出せばよい。その意味では①も将軍引退後の文書ではなかろうか。
 延慶3年12月に寄進が行われた時点では、久明は将軍ではないのである。また、①②ともに平顕棟は署名のみで花押がなく、この文書の寄進者が平顕棟であるかどうかを確認するすべはない。それだけならよいが、紀氏系図(系図纂要)を見ると、池田長氏が漆治郷地頭職を獲得したのは正応6年(1293)の平禅門の乱の勲功の賞だということが記されていた。鎌倉地震で混乱する中、北条貞時が独裁を行っていた平頼綱を粛正した事件である。正応6年の時点ではなお、地頭は平顕棟と平賀氏妻平氏であり、実際に恩賞を得たのは、延慶元年8月に久明親王が引退し、平顕棟とともに京都へ帰ってからのことではなかったか。実際に、平禅門の乱に関する所領の給与状は他氏のものを含めて残っていない。そうなると、延慶3年12月の平朝臣は顕棟とは別人の可能性が高くなってきた。新将軍守邦親王と関係する公卿ではないだろうか。奏者がおり、奥上署判である点からそう考えた。鎌倉中期以降の漆治郷の地頭の変遷は以下のようであったと考えられる。
    小山下野守女子 → 平顕棟と平賀氏妻平氏 → 平朝臣某(貴族)と池田長氏等

出雲国の守護領・幕府領(含北条氏領)3

 後醍醐天皇により地頭職が出雲大社に寄進された国冨庄(文永8年の地頭は狩野氏)・氷室庄については前述のとおり。宇賀庄地頭職と三処庄地頭職は鰐淵寺に寄進されているが、三処もすでに述べたとおり。文永8年の宇賀庄地頭は有力御家人長井氏であったが、その後、得宗領となり、ここに覚明を招いて得宗家御内人である牧氏により雲樹寺が建立された。長井氏は代々北条氏得宗から一字を与えられており、その関係を背景に得宗に組み込まれたのであろう。横田庄地頭職は後醍醐により、須佐郷地頭職は足利尊氏により石清水八幡宮に寄進されたが、横田庄は建武政権の崩壊により皇室領とされた(室町幕府との関係は不明)。寄進ではないが、安田庄地頭職についても、幕末期に江戸氏が没収され、南北朝期に復活しており、一時的には得宗領となった可能性が高い。なお、日御崎社の関係者である日置政高が後醍醐から与えられた福富保については、文書が要検討であり、採り上げなかった。
 小山氏が地頭であった漆治郷についてもその後、将軍側近平顕棟や得宗家と関係府深い美濃国御家人池田氏が地頭となっており、幕府の支配を経て得宗領となったであろう。別府氏が地頭であった来海庄、中須郷、長田氏が地頭であった長田西郷、長田東郷、枕木保も別府氏と両長田氏(親戚ではあるが、やや遠い関係)なども没落しており、得宗に接近した結果ではないか。所在地不明であるが大田庄(地頭職)も幕府の管理するところであった。さらに三刀屋氏文書目録の記載により、暦応元年段階で相模禅尼(北条高時の母か)跡に安堵されている上熊谷郷(文永8年の地頭は逸見六郎)は鎌倉末期には得宗領であった可能性が高い。
 文永8年段階の守護・北条氏領からわかるのは承久の乱(それも後述のように限定的)とその後の幕府内部の政治状況の影響でしかない。得宗領で最も重要な竹矢郷については、正嘉2年10月15日郷司某下文写をみる限り、この時点では得宗領ではなかった可能性が高い。承久の乱の直後ではなく、宝治合戦などで有力御家人が没落した結果等により、得宗領になったのではないか。守護領・幕府領・得宗領について論じるためには以上のような変化を含めて分析していかなければならない。以上の点については『竹矢郷土誌』・『出雲塩冶誌』の中世編の中でも分析したが、大田庄や上熊谷郷についてはここ1・2年のところで新たに気づいたものである。その他についてもその背景など次第に理解は深まってきた。

出雲国の守護領・幕府領(含北条氏領)2

 その他に、能義郡内井尻保についても、確証は得られないが、守護領となった可能性が高い(「能義郡井尻保について」で述べた)。室町期には守護京極氏の一族が支配している。守護領を地図上に落とせば、宍道湖(斐伊川水系)と中海(飯梨川・伯太川水系)をぐるりと取り囲む形で守護領が分布していることがわかる。佐々木氏一族である、吉田氏領(吉田庄)と乃木氏領(乃木保・乃白郷・日吉末社)については除外している。承久の乱後に出雲国守護となった佐々木義清は相模国渋谷氏を母として生まれており、法吉郷・比津村・法吉社の地頭渋谷権守三郎も注目される。特に分割して相続されていないが、一括して守護佐々木氏の関係者が代官として支配にあたっていた可能性もある。
 幕府領と北条氏領の区別は難しいが、得宗時宗領としては竹矢郷・須佐郷と神立社があった。兄時輔が地頭であった横田庄は地頭三処氏が寄進したものであり、時宗領とは性格が異なったが、時輔の母妙音のもとでも地頭代を務めていた三処氏は年貢未進等の責任を取らされる形で、横田庄地頭代のみならず、三処郷地頭の地位も失い、両方とも実質的に幕府が支配する所領となっていた。大野庄(西方)についてもその一部が「得宗元弘没収地」となっており、文永8年以降にその一部が得宗領となっていた。鎌倉末~南北朝期にみえる豊島氏は得宗領摂津国多田庄を通じて得宗家と関係を持った。
  文永8年段階で、鶴岡八幡宮の大弐僧都が地頭としてみえた赤江郷、六波羅探題の役人出浦四郎蔵人が地頭であった佐草社、幕府に仕える医師丹波氏(雅楽頭)が地頭であり、出雲国衙の所在地である大草郷、将軍の側近持明院少将入道基盛が地頭であった長海本庄(佐々木泰清はここで死亡した)、幕府(頼朝以来)と関係の深い徳大寺氏領であった長海新庄、法華堂別当僧都尊範が地頭であった阿井郷、信濃僧正道禅が地頭であった氷室庄も実質的に幕府が支配した所領であった。

出雲国の守護領・幕府領(含北条氏領)1

 文永8年段階の守護佐々木泰清領は、富田庄・美保郷・平浜別宮・塩冶郷・古志郷であるが、すでにその段階でそれに準ずる形となっていた所領は他にもあった。泰清の子太郎義重領である美談庄は父から譲られたものであろう。そしてその時点で七郎頼清が養子に入って相続することが決まっていたのが、湯郷・拝志郷・佐世郷である。佐世郷は当時の勝部宿祢一族の惣領であった大原郡系出身の朝山氏の本領であったが、生き残りのため、養子に迎えたのであろう。
 これに加えて、守護により塩冶八幡宮と鰐淵寺に寄進されている所領も守護領となったことになる。前者が志々塚保上分(5反)と林木東西(5反)であり、後者が生馬郷(1町)と志々塚保(1町)である。元応元年に出雲国知行国主から公領4カ所ついて下地支配権と年貢について訴状が出され、六波羅探題が守護貞清に代官を進めて説明することを求めている。塩冶郷・古曽石郷・美保郷・生馬郷である。塩冶・美保・生馬郷が守護領なので、古曽石郷も守護領であったことになる。これに加えて、14世紀初めの時点でその地頭職が寄進されて室町院領となっている①母里庄、②吉曾名(古曽志カ)庄、③林木庄、④志々塚上方、⑤志々塚下方がある。①以外は守護領となっていることが確認できるので、①の母里庄も守護が地頭職を得て、室町院領に寄進したのであろう。実質的支配は守護の代官が行う。これとは別に温冶(塩冶)庄もみえるが、これは塩冶郷が後深草上皇か亀山上皇の院分国であった時期に、庄園とされたもので、守護による地頭職の寄進の例とは違う。
 結番帳4番の左相撲頭にまとめられている美談庄・志々塚保・伊野郷の組み合わせも注目される。美談庄は太郎義重領であり、志々塚保と伊野郷は「持明院殿」=前林木女後深草上皇が地頭としてみえる。結番帳で地頭が「殿」と呼ばれているのは「相模殿」=得宗兼執権北条時宗と「持明院殿」しかない。志々塚保については、地頭職が寄進された室町院領となった。持明院殿をへて室町院領に寄進されたのであろう。伊野郷については明証を欠いているが、志々塚保と同様に守護の関係者が地頭分の管理にあたり、年貢を持明院殿に納めていたのであろうが、室町院領には組み込まれなかったことになる。

2016年3月26日 (土)

佐々木貞清の花押2

 鰐淵寺のある宇賀郷内の鰐淵寺に関係する住人と宇賀郷地頭西郷氏の権限が問題となり、鰐淵寺側が訴えたものである。書面での主張を経て幕府での対決となる時点で両者の間に和与が成立し、その和与を幕府が安堵したもので、住人について、地頭西郷氏は在家別に一人、年間25日だけ召仕することと、春の勧農の時は在家一宇につき3人ずつ合計15人(在家は5であったことになる)を3日間だけ召仕することで合意した。ただし、山口の住人は免除し、地頭の狩役は停止することとなった。
 鰐淵寺側が残した可能性も否定できないが、直接的には地頭の権益が記されており、地頭である遠江国御家人西郷氏が残した可能性が大きいのではないか。文明18年12月27日大福坊頼顕売券(日御碕神社文書)によると、宇賀郷内二分と一分の経田1町を宇賀弥四郎に売却している。当然、この文書は宇賀氏(西郷氏が地名を名乗ったのであろう)の文書であったはずだが、後世に何らかの理由で日御碕神社のものとなった。西郷氏関係文書については、三刀屋氏の文書目録にも「正和三年ヨリ文明十八年迄、雲州宇賀郷論訴ニ付、両六波羅并近江權守、縫殿頭載許之御下文等」を含む明応5年までの文書が掲載されている。天文9年の尼子氏による竹生島奉加帳には宇賀氏はみえないので、この時点までに没落したのであろうか。
 とすると、この下知状案が鰐淵寺を入手したのも戦国期となり、その時点では北条政村と長時の花押を確認することはできず、鰐淵寺文書中の文書に登場する人物の花押を記したのではないか。「相模守」の花押は出雲国守護佐々木貞清の花押とよく似ていると書いたが、よくみれば貞清の花押を写したものである。「武蔵守」の花押のもととなったものについては不明である。「全く似ていないわけではない」という微妙な状況である。
 史料編纂所の花押データベースでも鰐淵寺文書中の「相模守」の花押を北条政村の花押として扱っているが、それが佐々木貞清の花押を記したことが分かってみると、誤解を招く現在の扱いは問題である。以上、貞清の花押から、鰐淵寺文書の問題に発展した。『鰐淵寺文書』には改題・解説が一切ないが、どのような意図でそうなったのかは不明である。これも文書の伝来を知る手がかりとなるとともに、訂正すべき点であろう。一方、最初に問題とした貞清の花押が誰の影響下にあるかは解明できなかった。

佐々木貞清の花押1

 佐々木貞清は父頼泰ではなく、祖父泰清にちなんで信濃孫次郎左衛門尉と名乗っていたが、その花押は泰清とも頼泰とも似ていない。「貞」の一字からは北条貞時を連想するが、花押の類似性はみられない。貞時の子高貞の花押も独特である。
 ということで、『鰐淵寺文書』の巻末の花押集をながめていたら、よく似た花押があるではないか。それは『同文書』の弘長3年8月5日関東下知状案の「相模守」(北条政村)のものであった。ところが、喜んだのもつかの間、ネットで政村の花押をみると全く違う。というか、政村の花押は典型的な執権北条氏一族の花押である。そこで編纂所の花押データベースで調べると、政村の初期の花押は典型的な花押とはやや異なっていたが、下知状案の花押とはやはり似ても似つかないものであった。「連署」として署名している「武蔵守」(北条長時)の花押も、長時の当時の花押とは違っていた。よく見れば少し似ていない事もないことはないという程度で、両者の花押からするとこの文書は正しいものかという疑問もわいてくる。
 大学3年になって国史学科に進学したところで、史料編纂所で益田家什書と鰐淵寺文書を原稿用紙に筆写したことは以前にも述べたことがあるような気がするが、この下知状は永原慶二氏『日本封建社会論』の中でも採り上げられていた。その時の筆写原稿をみると、武蔵守は「北条長時」と括弧書きしているが、相模守については「北条政村カ」としていた。花押が違っていたためであろう。
  弘長3年8月5日時点の関東下知状案としては、花押以外は問題がない。「将軍家仰せに依り」という表現もこの時期の下知状には常に使われている。花押が変なことからして原本でないことは確実であるが、この文書は誰が残したものであろうか。

出雲大社三月会結番体制の変質4

 続いて六巡目は1367年、七巡目は1386年、八巡目1405年、九巡目は1424年の開始となる。八巡目の14番は1418年=応永25年となり、これも同年の幕府御教書の内容と合致している。1430年=永享2年は九巡目の7番が勤仕となるはずであるが、同年の3月会一番響・二番響神物引付にみえるのは、加賀庄・長田東郷・枕木保・布施社という18番の所領で、本来は1422年が当番であった。この時期から、頭役負担が容易ではなくなり、3月会の開催そのものが危ぶまれる状況が出てきたのであろうか。
 赤穴庄は12番であり、結番注文では50町2反の田数であった。八巡目は14番の2年前である1416年に勤めたはずであるが、年未詳7月29日寄俊・行清連署書状(赤穴殿宛、中川四郎氏所蔵文書)が残されている。両者は赤穴庄はすでに50町2反から20余町減反して三月会の頭役を勤めてきたが、さらに五町の減反要求が赤穴氏から出された。それを国造側に伝えたところ、それでは30余町の社家の損亡となり、赤穴庄の闕頭を京都へ歎き申すべきところだが、両奉行(寄俊・行清)から話を承ったので、少しは計らう必要があるとして、22町で勤仕することは容認したようである。以前は「闕頭」とは頭役を勤めていないことだと理解してきたが、頭役負担が何巡かする中で、庄園・公領の側から基準となる田数の減反を求めてきたことを意味することがわかった。年未詳であるが、赤穴氏関係文書の残り方と三月会頭役の勤仕状況からすると、結番に沿って勤仕されていたことが確認できる最後となった八巡目の最初=応永12年か、九巡目の最初=応永31年前後の交渉を示したものであると思われる。赤穴庄は石清水八幡宮領であり、特に減反要求が強かったと思われるが、神社以外からも回ってくる度ごとに同様の要求は出されていたと思われる。

出雲大社三月会結番体制の変質3

 応永25年(1418)7月8日室町幕府御教書(出雲大社文書)によると、この年は安来庄が出雲大社の三月会頭役を負担する順番であったが領家から鴨社領は他社役を勤仕しないことを認められているとして、元暦元年と文永5年下知案などの御教書を捧げて異論を述べたという。これに対して出雲大社社家は、文永8年に結番帳が作成され、地頭松田氏が提出した延慶3年(1310)と嘉暦4年(1329)の下知状でも、安来庄領家方が頭役を難渋してはならないと命じられているのを根拠に、文永結番帳と貞和御教書以下の証文に任せて頭役を負担することを、安来庄地下人等に相触れるよう、守護佐々木吉童子に命じている。
 元暦元年は安来庄が鴨社に寄進される前年なので、この御教書は出雲大社三月会ではなく、他の社役についてのものであろう。文永5年についても同様であろう。鴨社側は頭役負担の年が近づくと、社役の免除を求めたのであろうが、幕府はそれを根拠があるとは認めず、三巡目開始の延慶3年(1310)と四巡目開始の嘉暦4年(1329)に負担することを求めたのであろう。これでわかるように20番に結ばれたが、20番すべての頭役を負担したことはなかったのである。
 五巡目は1348年からとなるが、はたして、貞和3年(1347)3月19日室町幕府御教書が残っている(出雲大社文書)。今回もまた鴨社雑掌が愁訴したが、幕府は根拠がないとしてすぐに勤仕するよう触れることを出雲国守護京極道誉に命じている。同時期には八幡領須佐郷(14番)と塔婆料所生馬郷(14番)も三月会頭役を対捍していた。実際には五巡目に入る前に結番帳からの離脱を求めていたのであろう。その20年前にも同様で、嘉暦元年(1326)12月17日六波羅御教書(国造宛)では、守護佐々木貞清からの頭役対捍注進を引用している。すなわち、下賀茂神社領家遠江前司祐明に引付への出頭を求めたが、出頭しなかったので、是非の確認ができなかったことと、祭礼が越年した例はないことを述べていた。それを受けて六波羅探題が朝山出雲権守に、闕分を付替えて祭礼を遂げるように命じたことを、国造に伝えている。この時の最終的な結論が嘉暦4年の下知状であったと想われる。
 以上の点を勘案すると、沙弥覚照書状では13番の美保郷が当番となっているので、1341年のもの、朝山義景書状は14番の安田庄と長田西郷が登場するので1342年のものとなる。ただし、前述のように、五巡目が始まる直前に結番体制からの離脱が問題となった時点の史料である可能性も残されている(こちらが正解であろう)。1341年に塩冶高貞追討の軍勢催促を行ったのは朝山義景の父景連であった。頭役負担が一巡して次の負担が開始される前の段階で、関係所領に確認がなされ、その時点でさまざまな異論が出されていたのであろうか。
 書き始めた時点はこれほどのことが判明するとはまったく予想していなかったが、二巡目以降の開始年が当方の仮説と実際の史料の記述がぴたりと一致したのには正直いってびっくりした。これこそ「文書の声を聴く」ことの神髄となった。きちんと年次比定できなかった史料に生命を吹き込み、よみがえらせことができた。

出雲大社三月会結番体制の変質2

 ここから、嘉元元年(1303)ないしはその次年頃が長田西郷を含む14番が頭役を負担する年であったことがわかる。すると2巡目の開始年(1番が当番)が1290ないしは91年となるが、1272年が1番であろうとの前述の仮説と矛盾している。そうならば2巡目は1292年になるはずである。一巡目からトラブルが発生し、ある番が頭役を勤めない事態が発生したのだろうか。そのヒントとなるのが、正和元年7月7日六波羅下知状案(集古文書・牛尾)である。そこでは結番帳には各所領の地頭名が記されているが、二カ所ある本所一円地=地頭不設置はどうなるかが問題となっている。それに対する出雲国守護代義任の回答は、徳大寺御領長海新庄(8番)は頭役を勤めているが、上賀茂神社領福田庄(2番)は勤めていないとのことであった。
 結番体制2年目にして早くも問題が発生したのである。結番に組み込まれているからには、福田庄も頭役を負担するはずであったが、頼朝以来の先例(地頭宗遠の代官実法の非法により地頭職が停止)を楯に負担を拒否したのであろう。鴨(下賀茂)神社の例にあるように、神社側は当番が回ってくる以前から負担を拒否する例が多く、結果として負担しなかったのではなく、結番帳作成直後から拒否の姿勢を貫いたのであろう。そうなると2番の他の所領に頭役を肩代わりして負担させるわけにも行かず、2番を飛ばしてとりあえず3番が勤めたのではないか。それも最終的に上賀茂神社が拒否を撤回すれば、一巡目に2番の所領が頭役を勤めることはできたであろうが、すでにみたように、福田庄は頭役を負担しないことになったのである。そしてこのことは他の庄園、とりわけ神社領が頭役負担を拒否する口実となり、最初から結番体制はつまづいたのである。
 二巡目は1291年から始まったと思われるが、2番については早晩編成変えをしなければならない。それが行われたのが三巡目に入った1310年代であった。その原因となったのが石清水八幡宮領横田庄(12番)であった。横田庄は地頭が北条時輔母妙音の時に下地中分が行われたが、妙音の死後の正和4年、地頭分は鶴岡八幡宮仮殿料所となり、石清水八幡宮が支配する領家分ともども、3月会頭役負担の拒否を宣言したのであろう。
これにより、幕府も20番体制の維持を断念し、2番と12番の所領を中心に再編成して、新たに19番の結番体制にしたのであろう。以上の通りとするなら、三巡目は1310年から、4巡目は1329年、5巡目は1348年からとなる。

出雲大社三月会結番体制の変質1

 文永8年に幕府の命令に基づいて出雲国守護佐々木氏と在国司朝山氏が作成したのが、三月会結番帳である。すでに述べたように、この時点での国内の庄園・公領の地頭配置状況を踏まえて各番の田数を260余町とするために数あわせしたもので、その配置の意味を分析しても得られるものはほとんどない。例えば、この編成に伴い領内の地頭の配置替えを行ったなら、明確な意図を感じることができるが、そのようなことは行われていない。このような結番帳を作成することそのものには意図があるが、中身には意図はみられない。文永8年途中で地頭が内蔵(出雲)孝元から大西二郎女子に代わった湯郷・拝志郷については情報の更新がなされているが、それに基づき編成を変えることもなされてはいない。また、大田文そのものであればその内容はより詳細となったであろうが、大野庄のようにその一部に大野氏の一族ではない土屋氏領(忠時息女平氏=前林木女)が含まれていたが、区別されてはいない。この所領が大野氏一族の宮石女に譲られたのは建治元年8月のことであった。
 そして問題となるのは、この結番体制がどの程度機能したかである。とりあえずは南北朝の動乱期を経て永享2年(1430)までは存続したことが知られているが、すでに見たように、1310年代(正和4~文保元年)には20番体制が19番体制に編成替えされているが、従来の研究はこの点に気づく事も、その背景と意味を考察することもなかったのである。
 文永8年11月1日に作成された結番帳が提示され、これに基づき沙汰するように信濃前司(出雲国守護佐々木泰清)と朝山右衛門二郎(在国司朝山昌綱子時綱、この名前は北条氏ではなく、泰清嫡子時清にちなむものであろう)に命じられている。当然、翌文永9年の三月会から適用されたであろう。何年に何番が頭役を負担したかを示す史料として最も早いものは、元応2年3月2日関東下知状(飯野八幡宮文書)である。すなわち、その中で、長田余一入道昌遍が漆治郷に対する狼藉を訴えられ、六波羅探題に釈明のため出頭を求められたが、応じないとして嘉元元年4月に召文違背の咎に該当すると注進され、同年11月に所領を収公されたことが記されている。ところが、昌遍は召文に応じなかったのではなく、出雲大社三月会頭役を勤めるために許可を受けて出雲国へ下向し、嘉元元年閏4月に死亡したため、六波羅に出頭できなかったのである。朝山氏一族で長田西郷を支配していた一族の一員であった昌遍は在京人として京都にいたのだが、たまたま頭役の順番が来たため、出雲国に下向したのである。

2016年3月25日 (金)

朝山貞景について

 『鰐淵寺文書』では78号文書「文和4年3月10右衛門尉書下」の発給者を「朝山貞景」としているが、根拠があるのだろうか。従来は『南北朝遺文』のように山名氏冬に比定してきたが、この年の3月30日には山名時氏が「正平9年」を使用しており、これは明確な誤りである。
 「貞景」といえば、康永2年3月25日に岡本保国衙分を神門寺に打ち渡した人物がおり、その端裏に「後村上天皇 吉田殿渡状」とあることにより、吉田貞景とされている(神門寺文書)。ただし、北朝年号を使用しており「後村上天皇」は明確な誤りで、「吉田殿」も十分根拠を持って記されたものではなかろう。系図でも出雲佐々木氏の吉田氏には該当する名前の人物はみあたらない。そこでこれを朝山貞景打渡状ではないかとしたことがあった。
 文和3年9月26日には某貞景預状がある(鈴鹿太郎氏所蔵朝山文書)。朝山安芸守義景に多祢郷を兵粮料所として預けているが、官職の部分は判読不能とされている。一方、文和2年7月18日には「右衛門尉」が三刀屋郷内庶子跡闕所を諏訪部三郎入道信恵に預けている(三刀屋文書)。この人物の花押は鰐淵寺文書78号の花押と同一である。そして文和3年10月23日足利義満袖判下文(朝山系図勘記)では、朝山孫次郎貞景跡に対して貞景討死の賞として俊広庄半分が与えられており、これ以前に朝山貞景は死亡していた。となると文和2年と4年の右衛門尉某は朝山貞景ではないことになる。某貞景の方はぎりぎり可能である。朝山氏惣領義景も観応元年段階では「右衛門尉」であったが、文和3年には「安芸守」に変わっており、年未詳6月16日義景書状(千家文書)の花押とも異なっている。
 義景書状は三月会の頭役負担が無沙汰である所領について、安田庄や長田西郷等に沙汰するよう相触れ、今明の返事を受けて無沙汰があれば、沙汰せよとの命令を遵行するとして、闕頭所々注文については受け取り承知したと述べている。これと関連するものが2月3日沙弥覚照書状であり、今年が三月会頭役を負担する順番であることを伝えられたのに対して、美保郷内の知行分はすぐに沙汰することを国造に伝えている。ただし、美保郷内の南浦・片細・志津留伊は自分の知行分ではないので、直接催促することを求めている。長田西郷内の知行分についても沙汰するが、委細は代官等が申すとしている。美保郷がその年の、長田西郷が翌年の順番にあたっていたのであろう。
 2通の書状は『新修島根県史』の時点では南北朝末年に比定されていたが、義景=朝山義景(その果たしている役割による)、覚照=羽田井高泰(正平9年のものと花押が一致)であることを明らかにし、南北朝中期のものであることを述べた。これを受け、『大社町史』では観応末年のものとされた。ただし、富田氏惣領秀貞が美作国守護であった際の守護代羽田井高泰がなお幕府方であった時点のものであり、観応の擾乱以前のものとなる。

2016年3月24日 (木)

山名高義について

 山名高義は山名時氏の九男とされ、兄である四男氏清に養われ、明徳の乱で氏清らとともに討死したとされる人物である。詳細は不明であるが、正平7年閏2月4日右衛門尉高義寄進状(冨家文書)について大社町史や南北朝遺文で「山名高義寄進状」とされているので、確認する。結論から言えば成り立たない比定である。比定の理由を聞いてみたいところだが、これを山名氏関係者とみることはできず、いわんや山名高義ではない。
 山名高義ではない理由は、兄四男氏清が康永3年(1344)の生まれ、五男時義が貞和2年(1346)の生まれであり、正平7年(1352)の時点で高義は生まれていたかどうかも不明なのである。
 次に山名氏でもないのである。山名時氏は塩冶高貞追討の功で一時的に出雲国守護となり、高貞領であった神西庄三分方を恩賞として与えられたことがあるが、寄進された大津村を含む塩冶郷を得たことは確認できない。何より、この時点で山名時氏は幕府方であり、南朝年号である正平を使う事はないのである。山名氏が正平年号を使用しているのは正平8年9月1日山名時氏寄進状がある。形式にとりたてて問題はないが、忌部総社大宮神宮寺秘事記に収められた写であることと、この前後の山名氏寄進状が他にないことから、検討の余地がある。出雲国関係で確実なのは、正平9年6月1日山名右衛門佐師義軍勢催促状(三刀屋信恵宛)である。山名氏の領国である因幡国日置上郷御下文手継文書等目録では、観応3年10月13日前伊豆守施行状につづいて、正平9年3月30日同施行状が掲載されている。
 では、誰かいうことであるが、最も可能性の高いのは塩冶高貞の関係者であろう。高貞やその子貞家(冬貞)の花押と類似性は見られる。次いで、名和氏の関係者となるが、いずれも該当する人物は系図には記されていない。たまたま山名時氏の子に高義がいたので確認せずに比定してしまったのだろうが、それが検証されることもなく、佐伯徳哉氏「鎌倉・南北朝期における出雲国内支配と八幡宮」でも山名氏と塩冶郷の関係を示す史料として扱われているのである。
(付記)応安4年7月25日に鰐淵寺に御本尊として阿弥陀如来像(純金坐像)を寄進している勝部高家との関係はありや。

2016年3月21日 (月)

名和氏と出雲国

 後醍醐天皇の隠岐脱出と船上山での籠城を支えた名和氏については、系図を除けば史料が乏しいため不明な点が多い。 塩冶高貞が箱根竹の下の戦いで幕府方に転じた以降は、名和長年が出雲国を管轄し、鰐淵寺南院に対して軍勢催促を行っているが、長年は延元元年(建武3、1336)6月に、その嫡子義高も延元3年5月22日には和泉国堺浦(石津の戦)で北畠顕家とともに討ち死にしている。そして伯耆国でも幕府方守護石橋和義と後任の山名時氏の攻撃を受けている。そうした中、興国元年(暦応3、1340)6月21日には村上天皇綸旨により、村上兵庫允に対して能義郡利弘保地頭職が与えられている。そして、翌暦応4年3月には南朝との関係を疑われた塩冶高貞が京都を出奔するのである。南朝との関係を橋渡しするとすれば、伯耆国の名和氏であろう。
 利弘保を与えられた村上兵庫允については名和長年の孫(30歳で出家した基長の子)顕長に比定されているが、年齢的にどうであろうか。2年前に死亡した義高が37歳であり、弟の子顕長は興国元年段階では20歳未満であったと思われる。それに対して長年の兄弟行氏の子長氏も兵庫允とされる(名和系図)。行氏は正平5年に57歳で死亡しており、興国元年の長氏は20歳を超えてた可能性が高い。いずれにせよ、劣勢ではあったが、名和氏も伯耆国や出雲国で活動を続けていたことがわかる。
 この長氏は正平7年4月25日に八幡城で討たれたとあり、南朝の正平一統時の京都占領に参加していた。この戦いでは三隅氏惣領兼知(兼連の子)ならびに兼知が伴っていた石見宮も討ち死にしている。ところが名和系図をみると、それに先立つ3月から4月初めの伯耆国の戦いで討ち死にしている人物が目立つ。長年の従兄弟長村の孫である某と興村、同じく従兄弟の行貞の孫長信、従兄弟の行忠の子行実、そして村上兵庫允に比定した長氏と5名が確認できる。正平5年(貞和6、1350)8月に出雲国で塩冶高貞の子貞家を中心とする反幕府方が挙兵しているが、その際にも伯耆国から軍勢が出雲国に攻め込むとの風聞が流れたように、挙兵の背後に名和氏の勢力があったことが確認できる。貞家等は康永4年(1345)にも飯石郡内屋根山城に楯籠もり、幕府方である三刀屋氏等の攻撃を受けていた。
 伯耆国で名和氏と戦ったのは守護山名時氏であろう。時氏は観応の擾乱の初期の段階では高師直派で、一時期直義派に転じて出雲国守護となったが、直義の死後は再び幕府方に転じていた。それが正平8年には京極高氏との対立から再び反幕府方となり、出雲国に攻め込み、高氏の守護代吉田厳覚を国外に追いやった。それ以前にも幕府方として伯耆国で名和氏ら南朝方と戦っていたのである。反幕府方としての名和氏と山名氏の関係は微妙であったと思われる。

2016年3月20日 (日)

湯・拝志郷・佐世郷について3

 孝元が支配した所領のうち国富郷は、御供や年貢の未進などにより、孝元が出雲大社権検校を解任された時点で、地頭職も失った。ただし、後任の地頭には孝元と同族の内蔵孝幸が補任された。それは国富郷が内蔵氏の本領であったからである。これに対して、湯郷・拝志郷は孝元が地頭となったが、実際の支配は地頭代である元綱が担ったため、年貢の未進の問題は発生しなかった。
 承久の乱では知行国主と国守が後鳥羽上皇の側近とその関係者であったこともあって、国御家人の所領が没収され、その跡に大量の東国御家人が入部してきた。ところが、孝元は鎌倉幕府との関係が深かったことにより、関与せず、その所領支配を維持する事ができた。勝部宿祢惣領や、大原郡系の惣領であった惟綱は知行国主との関係で所領を没収されたが、孝元のもとで地頭代を務めていた元綱もまた関与せず、その結果、乱後には勝部宿祢全体の惣領となった。これに対して孝元から同族の内蔵孝幸に地頭が交代した国富郷は幕府により没収され、幕府評定衆である大宰少弐狩野為佐が地頭となった。ただし、地頭代は内蔵孝元の関係者が務めた可能性が高い。宝治元年10月に鰐淵寺住侶が、地頭代孝綱は経田・神田に濫妨をしてきた人物であり、孝綱の解任なくしては三月会の読経を拒否するとして、その解任を求めたのはそのためであった。
 限られたデータではあるが、湯・拝志郷・佐世郷については以上のように考えられるのではないか。これにより大原郡系勝部宿祢一族はその所領を拡大した形になったが、生き残りを図るには東国御家人との結び付きが必要であり、守護佐々木泰清の子頼清を養子に迎え、三郷の地頭としたのであろう。「忌部総社神宮寺根元録」には文永8年冬に泰清が頼清に西意宇郡領を与え、湯庄(郷)に居住させたことが記されており、結番帳作成の直後には勝部宿祢一族へ養子として入ったと思われる。建長3年(1251)の生まれであり、21歳であった。

湯・拝志郷・佐世郷について2

 塩冶氏の祖頼泰については不明な点が多い。守護所となった塩冶郷と出雲国守護を父泰清から譲られたとするが、塩冶郷内は九郎宗泰(高岡)や五郎茂清(美保郷)の子茂頼(荻原、名前の頼が付くのは頼泰との関係か)にも譲られている。これに対して富田庄は義泰以外には譲られていない。また、義泰嫡子四郎師泰は高岡宗泰女子と結婚し、庶子六郎頼秀は五郎茂清女子と結婚、八郎宗義は高岡宗泰の養子に入り、女子2人は吉田三郎秀信(義清の兄弟六郎厳秀の孫)と古志九郎宗信と結婚している。
 通説のように、鎌倉在住で引付衆となった時清が隠岐国守護を譲られ、頼泰が出雲国守護を譲られたというより、時清が両国を譲られ、その弟である三郎頼泰と八郎宗泰が守護代ないしは名代となり、時清が評定衆に進んだ弘安6年に二人の弟が守護成員となったとの解釈が妥当ではないか。
  話を湯郷・拝志郷・佐世郷の問題に返すと、この三郷が建長元年の注進状で一まとめにされたいたのは、本来それが承久の乱後に勝部宿祢の惣領となる大原郡系勝部宿祢一族の所領であったためであろう。文永8年には湯・拝志郷の地頭が大西二郎女子、佐世郷の地頭が湯左衛門四郎である。湯左衛門四郎は湯郷地頭の一族であろうが、湯郷ではなく佐世郷の地頭である。大西氏も大原郡大西庄を苗字の地とする大原郡系勝部宿祢の一族であろう。さらに問題となるのは、後世の編纂物であるが、承元2年に出雲大社権検校となるとともに、出雲国内で数カ所の所領を与えられた内蔵孝元(吾妻鏡)が承元2年に湯庄(郷)に居住するようになったことと、文永8年9月には守護佐々木泰清の命令により土屋六郎左衛門尉が孝元の屋敷を焼き討ちし、伯耆国に追放したことが記されている(忌部総社神宮寺根元録)のである。泰清の長子義重は土屋六郎左衛門女子との間に重泰をなしている。
 最初の問題は、承元2年に孝元が地頭に補任された所領であるが、一次史料で確認できる出雲郡国富庄とともに、湯郷と拝志郷があったと考えられる。これに関連して湯郷地頭一族が大原郡佐世郷地頭となったのだろう。佐世郷は大原郡系勝部宿祢一族のルーツとでも言うべき所領であり、その大原郡系の惣領が地頭であったが、湯郷と拝志郷の代償として湯氏に与えられた。その時点の大原郡系の惣領は朝山郷司となっていた朝山惟元であり、惟元には嫡子惟綱と庶子元綱があった。惟元は朝山郷とともに佐世郷・湯郷・拝志郷の地頭であったが、湯郷・拝志郷の地頭に孝元が補任されたため、本来なら嫡子惟綱に譲るはずの佐世郷を庶子で湯郷・拝志郷を支配するはずの元綱に与えたのである。

湯・拝志・佐世郷について

 一番の左相撲頭は、すべて国御家人領である。意宇郡湯郷・拝志郷と大原郡佐世郷は大原郡系勝部宿祢一族の所領である。建長元年注進状では3郷とも流鏑馬9番。佐世郷と湯郷は相撲4番というようにまとめられていると述べたが、この3カ所については文永8年の地頭の前任者と後任者が問題となる。
 後任者は守護佐々木泰清の子七郎頼清である。一次史料は欠いているが、佐々木氏系図では頼清の子十郎泰信が湯氏を、七郎清信が佐世氏を号している。長子であろう八郎宗清については不明だが、その子が後醍醐の隠岐からの脱出を助けて建武政権で若狭国守護に補任された布志那雅清(富士名義綱)である。宗清は庶子として湯郷内富士名を支配していたのだろう。そして五郎泰秀が拝志郷(の全部ないし一部)を与えられたと思われる。貞和2年7月21日に足利尊氏が出雲国安国寺に意宇郡の佐草社と拝志郷内柳井村、秋鹿郡大野庄の(東)半分内三分一と根尾村を寄進しているが、柳井村は佐々木弥五郎跡であった。弥五郎は五郎泰秀の孫の世代の惣領で、南朝方として所領を没収されたのであろうか。
 頼清の嫡子は七郎清信であろう。一人だけ「清」を名前の上の字としている。そして清信とともに左衛門尉に任官している十郎泰信も嫡子に準じた扱いを受けている。父頼清から一字も受け継いでいないかにみえるが、清信と泰信は祖父泰清から一字ずつもらった形である。そして庶子である宗清と泰秀も同様に一字ずつ与えられているが、両者は任官していない。
 ちなみに、泰清の子には、祖父義清の一字を付けた太郎義重(美談)・九郎義信(古志)、父と祖父の共通の一字を付けた二郎時清(嫡子)・五郎茂清・七郎頼清、父の一字を付けた三郎頼泰・八郎宗泰、父と祖父からの一字ずつを付けた義泰(富田、当初は後述のように泰義か)がいる。六郎基顕は後藤氏に養子に入っている。庶子の中では富田義泰がもっとも重視されていたのだろう。承久の乱後の佐々木氏惣領信綱の長子大原重綱女子と結婚している。結番帳十三番の佐々木泰清領の記載順も気になるところである。文永8年段階で守護所が富田庄に置かれていたためとの解釈も可能だが、山間部の庄園であり実質的な面積は平野部の塩冶郷を上回る最大のものであるためか。塩冶頼泰については微妙であるが「頼」は北条時頼にちなむものであろうか。富田義泰は弘安8年但馬国太田文にも西明寺の地頭「佐々木信濃四郎左衛門尉泰義」とみえている。父泰清から譲られた可能性もあるが、その母である葛西清親女子や結婚相手の大原氏から得た可能性もある。

2016年3月19日 (土)

杵築景春について

 興国4年6月1日に名和高重とともに願書を捧げている杵築木工助景春について、名和氏の同族である可能性があると述べた。景春は鰐淵寺南院常行堂を造営することを願っており、一定の経済力を持った存在であった。そして建武3年7月6日平賀共兼軍忠状(平賀家文書)で、6月5日に西坂本で伯耆守長年一族杵築太郎を討取ったとあることによる。
 杵築太郎は建武元年2月23日後醍醐天皇綸旨とそれをうけた備後国宣で、浄土寺領因島地頭職に対して乱妨を働き、「悪党」と呼ばれていた。討幕時の恩賞で備後国内に所領を与えられていたと思われる。同様に名和氏一族で出雲国内に所領を与えられたものがいてもおかしくない。この杵築太郎も名和氏系図には登場しないのである。建武3年7月日福光兼継軍忠状では、6月5日の同所の合戦で、長年の兄弟の子である伯耆三郎右衛門尉を討ち取ったと述べている。そして長年自身も6月晦日(ないしは7月13日)の合戦で自害(ないしは討死)している。
  杵築景春は正平7年正月10日には杵築大社領松木別所南北を讃岐律師御房(頼源)に譲っている。花押をみる限り、名和高重ほどには似てはおらず、根拠とはならないが、「刑部権大輔」という官職は名和高重が一時名乗った「刑部大輔」と相通ずるところがある。この時期、南朝は前年の足利尊氏の南朝への降伏と尊氏自身が鎌倉へ下っていた隙をつく形で閏2月末には短期的に京都を占領している。景春が所領を頼源に譲ったのも、上洛を控えてのことであった可能性がある。景春の死亡時期については記録がなく不明である。

漆治郷について2

 話が横にそれたが、漆治郷と鰐淵寺との関係も、本寺である比叡山延暦寺を介して、この時期からあったがゆえに、国冨郷と漆治郷・津々志村は同じ十一番に組み込まれたのではないか。文永年間から弘安年間にかけての出雲国は後深草院と亀山院の院分国となっており、この時期にこそ公領を寺社に寄進したり、側近の貴族に与えることが可能であった。後深草院が分国主であった文永年中に長江郷が祇園社の四季天神供並びに常灯料所として寄進された。弘安4年に分国主が亀山院に代わると、後深草院は長江郷の代わりに土佐国永武郷を寄進したが、亀山院もまた弘安5年には長江郷を祇園社に寄進している。弘安4年7月12日の院宣は、新たに出雲国分国主となった亀山院が、領家に命じたものであろう。
 正安3年10月4日後宇多上皇院宣により、漆治郷が山門に返されているが、その根拠として、関東下知とともに文永院宣があげられている。後深草院が分国主であった文永年間に国衙領であった漆治郷の権益が延暦寺に寄進され、これが契機となって日吉社との関係が生まれたのであろう。
 漆治郷について、もう一つ気になるのは、永仁年間の地頭が、藤原姓の小山氏から平氏に交代していることである。一方地頭治部権大夫顕棟は将軍久明親王の側近平顕棟で、もう一方の地頭は平賀蔵人三郎妻平氏である。平賀氏は源姓平賀氏と藤原姓平賀氏が知られているが、平姓平賀氏は確認できない。何より平賀氏妻平氏は夫ではなく父などから漆治郷を譲られた可能性が高い。平顕棟の祖父成俊の姉妹に将軍宗尊親王の母がおり、平氏が鎌倉幕府に仕えるようになったのは13世紀中頃であろう。平賀氏妻平氏は平顕棟の兄弟か子であろう。
 また、紀氏系図には美濃国池田庄を苗字の地として北条得宗家と深い関係を持った池田長氏に「出雲国漆治郷地頭」となったことが記されている。長氏の子孝長の出雲国内での活動が建武元年に確認できるので、系図の記載は事実を反映したものと考えられる。漆治郷地頭職が幕府の支配するところとなり、将軍側近の平氏や得宗と関係の深い池田氏に与えられたのであろう。小山氏から幕府への支配権の移行時期を考える材料となるのが、弘安元年に比定される6月25日北条時宗書状である。宛所を欠くが、漆治郷地頭の非法を荘園領主側が訴えたことに対する返事であろう。これが原因となって小山氏が漆治郷地頭職を没収され、幕府が支配する所領になったのではないか。

漆治郷について

 三月会結番帳で特徴的なものをあげると、十一番について佐伯氏は「公田数百町前後の有力領主少数」と評価している。地頭のみに注目すればそうであろうが、有力領主の所領が甲斐三郎左衛門尉(父狩野為佐跡を継承)が地頭である国冨郷と(小山)下野入道女子が地頭である漆治郷・津々志村であることに注目したい。国冨郷が鎌倉初期以来鰐淵寺領であることは知られているが、漆治郷も貞和5年には鰐淵寺根本千手堂(北院)の修造料所であることが確認できる。それも「如元」とあり、これ以前に料所となっていたのが復活したのである。
   漆治郷は国衙領であるが、その一方で近江国日吉社領としてみえる。日吉社との関係は、弘安4年7月12日亀山上皇院宣案が初見史料である。漆治郷実検を先例に任せ国衙の妨げなく行い、恒例供料を加増し、異国降伏を日吉社において祈らせるとともに、重ねて大般若経の転読をするよう供僧に触れるよう、成仏に下知することを、侍従三位に命じている。
 ところが、この院宣については、年次や侍従三位の比定やその内容の解釈に課題が残されている。鎌倉遺文では文永11年(文永の役)と弘安4年(弘安の役)の2カ所に収録している。文書の貼紙には弘安4年に比定した根拠が記されているが、近年はこれを文永11年に比定する意見があり、後者の場合は亀山上皇ではなく後深草上皇の院宣とする。ちなみにこの文書は比叡山の関係寺院である円宗院から鰐淵寺が文安3年に購入したものである。その目録には7月12日の肩に弘安4年と付されている。現物をみてないので不明であるが、この比定と関係するのが前述の貼紙であろうか。
 それに対して、文永11年との比定の根拠は何であろうか。宛所の侍従三位が藤原家時であるならば、弘安5年7月20日に89歳で死亡しており、文永11年の方が良い気もするが、一方で家時は正元元年には従二位に進んでおり、どちらの説をとっても「侍従三位」を家時に比定することは不可能である。弘安年間に「侍従三位」と呼ばれているのは九条隆博・二条(飛鳥井)雅有・五辻氏(名前は確認できない)がいるが、特定する材料はない。また、侍従三位の立場としては、出雲国の知行国主(文永11年は後深草院が分国主、弘安4年は亀山院が分国主)との解釈とともに、日吉社領漆治郷の領家との解釈も可能である。前者の解釈がなされているが、意味からすると後者である可能性が高い。
 年次比定はどうであろうか。これも貼紙の弘安4年の方がはるかに妥当性が高い。文永11年の元・高麗軍は10月5日に対馬に来襲している。弘安4年の東路軍は5月21日に対馬へ来襲しており、来襲前よりも来襲後の異国降伏の解釈が妥当ではないか。文永11年前後と弘安4年前後の後深草と亀山の院宣をみても、後者の方が妥当である。「依御気色、執啓如件」との表記も希であるが、弘安4年に比定されている8月14日亀山上皇院宣(鎌倉遺文14420、石清水文書)が「依御気色、執達如件」表現を使っている。文永11年説には他の根拠もあるかもしれないが、ほとんど疑う余地がないのではないか。
(補足)奏者とされている藤原「康」能については、持明院統との関係が深い。宛所が領家なら弘安4年の後深草上皇院宣となる。

2016年3月17日 (木)

文永8年出雲大社三月会執行体制5

 十一番もすべて東国御家人領である。左相撲頭は出雲郡国冨郷で、右相撲頭はその残りと意宇郡山代郷・秋鹿郡岡本保、出雲郡津々志村である。舞頭は津々志村と地頭が同じ(下野入道女子)である同郡漆治郷。
 十二番の左相撲頭は地頭が同じ(多祢)飯石郡多祢郷と日蔵別宮に同郡の三刀屋郷・飯石郷・熊谷郷と仁多郡阿井郷を加えたもの。右相撲頭は飯石郡赤穴庄に仁多郡馬木郷と三沢郷を加えている。舞頭は仁多郡横田庄と三処郷に、大原郡の久野郷と白上八幡宮、さらには島根郡の末次保を加えている。
 十三番はすべて守護佐々木泰清領で、相撲頭と舞頭の区分は記されていない。能義郡富田庄、神門郡塩冶郷、島根郡美保郷、神門郡古志郷、意宇郡平浜別宮で、富田庄と塩冶郷を除けば、面積順に記されている。富田庄を最初に記したのはこの時点では富田庄が守護佐々木氏の拠点であることと、その立地が中山間地から山間地に及ぶため、実質的面積では塩冶郷をはるかにしのいでいたためであろう。泰清からその子に譲られた美談庄は四番と別の扱いになっている。
 十四番は左相撲頭がすべて北条時宗領である意宇郡竹矢郷・飯石郡須佐郷・出雲郡神立社。右相撲頭は島根郡内の長田西郷と生馬郷である。舞頭は神門郡伊秩庄と飯石郡来島庄で、地頭は同一(来島木工助入道)である。長田西郷に対して東郷は
 十五番は左相撲頭が能義郡安田庄、右相撲頭が同郡安来庄で、舞頭は安田庄と安来庄の残りに出雲郡吉成保と楯縫郡平田保を加えたものである。
 十六番は左右相撲頭ともに能義郡宇賀庄で、舞頭はその残りに同郡赤江郷を加えた形で編成されている。
 十七番は左相撲頭が大原郡大東庄、右相撲頭がその残りに、意宇郡忌部保と島根郡千酌郷を加えてある。
 十八番は左相撲頭が加賀庄、右相撲頭が出雲郡林木庄と布施郷。舞頭が地頭が共通(長田蔵人)の長田東郷と枕木保に布施社を加えている。
 十九番は左相撲頭が能義郡吉田庄、右相撲頭はその残りに楯縫郡万田本庄、神門郡知伊社を加え、舞頭は島根郡国屋郷と楯縫郡万田新庄である。
 二十番は杵築社領で、三頭の区別はない。神門郡遙堪郷、出雲郡武志郷・鳥屋郷・大田郷・出西郷、意宇郡伊志見郷である。ただし、高浜郷・稲岡郷・石塚・冨郷はみえない。
千家村・北島村・求院村は大田郷に相当すると思われる。記載されている所領は国司と鎌倉幕府から寄進されたことが記されている。これに対して記載がないのは、別納の地とされる所領である。ただし、289町5反の田数は康元2年の検注帳の定田数とほぼ一致しており、実際には寄進された所領名で代表させていると思われる。

文永8年出雲大社三月会執行体制4

 一番の右相撲頭は、出雲郡の宇賀郷・福富保に、秋鹿郡成相寺・島根郡朝酌郷と地域的まとまりはみられない。舞頭の秋鹿郡大野庄と島根郡北野末社についても同様である。福富保・朝酌郷・大野庄の地頭は所領名を苗字とする国御家人で、その他は東国御家人領である。
 二番の右相撲頭は大原郡内の賀茂庄・大竹寺と、神門郡の石清水八幡宮別宮である大田別宮と新松八幡(別宮)である。左相撲頭は意宇郡来海庄のみで、舞頭は来海庄の残り10町分と隣接する佐々布郷・大守社に、来海庄と地頭が同一人物である能義郡中須郷、さらには秋鹿郡秋鹿郷と仁多郡槻矢村で、賀茂・大竹・来海・佐々布・大守社は地域的にまとまっているが、合計面積を合わせるために、大田・新松・秋鹿郷、槻矢村を合わせたのであろう。
 三番は「地頭」とのみ記す一カ所を除きすべて東国御家人領で、庄園が多い。右相撲頭は島根郡長海本庄に熊野庄と阿吾社。右相撲頭は意宇郡意東庄に出雲郡氷室庄。舞頭は、意宇郡内の揖屋庄・乃木保・乃白郷・日吉末社に出雲郡宇屋新宮が加えてある。乃木・乃白・日吉末社の地頭は近江佐々木氏の一族乃木氏である。
 四番は右相撲頭が能義郡母里郷に神門郡内の常楽寺と木津御島を加えてある。母里郷は建長元年注進状にはみえない。右相撲頭は出雲郡美談庄・志々墓保(両方とも地頭は持明院殿=後深草院か)に秋鹿郡秋鹿郷、舞頭は出雲郡建部保に大原郡淀本庄に秋鹿郡長江郷とバラエティに富んでいる、
 五番も地頭はすべて東国御家人であるが、能義郡内の所領が中心である。左相撲頭は秋鹿郡古曽石郷に能義郡の静雲寺と真松保・利弘保(両方とも地頭は西条余一入道)。右相撲頭は意宇郡石坂郷に能義郡の松井庄・田頼郷・舎人保を組み合わせている。舞頭は能義郡飯生庄と坂田郷。
 六番は在国司朝山右衛門尉昌綱跡領が中心である。左相撲頭は昌綱跡領である楯縫東郷・西郷に小境保を加えてある。右相撲頭は昌綱跡領である神門郡朝山郷と楯縫郡三津庄、舞頭は他氏が地頭である楯縫郡多久郷に能義郡富田新庄と佐香保。
 七番は左相撲頭が神門郡の神西庄と恒松保に楯縫郡の玖潭社と島根郡の持田庄。右相撲頭は島根郡内で地頭が共通(渋谷権守三郎)である法吉郷・比津村・法吉社に宍道郷を加えている。舞頭は神門郡神西新庄のみである。
 八番は地頭が置かれていなかった島根郡長海新庄を除けば、すべて東国御家人領である。左相撲頭は長海新庄に意宇郡大草郷を加えている。右相撲頭は公領で最大の意宇郡出雲郷。舞頭は出雲郷の残りに意宇郡内の津田郷と佐草社、これに島根郡の春日末社・能義郡の井尻保・比知良保を加えている。
 九番は相撲頭・舞頭のすべてが出雲国最大の庄園である佐陀社である。地頭が同じ(佐陀神主跡)国屋郷は十九番の舞頭である。
 十番も地頭はすべて東国御家人で、一カ所を除けば大原郡内の所領である。左相撲頭は大原郡三代庄と広田庄に、出雲郡波根保。右相撲頭は出雲郡の福頼庄で、舞頭は福頼庄の残りに来次上村・大西庄・福武村・日伊郷・淀新庄。三代庄地頭本間氏と広田庄地頭品河氏・来次上村地頭大井氏は同族(紀姓)で、福武村と日伊郷の地頭は同一(伊北又太郎)である。

文永8年出雲大社三月会執行体制3

 表題に関連して、佐伯徳哉氏は文永8年結番帳における地頭や庄郷保の組み合わせから当該期地域支配の構図がとらえられるとしているが、そんなことは可能であろうか。そもそもこのような地頭配置が成立したのは承久の乱による大量の新恩地頭の入部によるものであり、配置する際には明確な意図があったであろうが、出雲大社三月会の頭役負担を念頭に置いたものではない。今回の注文は文永8年に出雲国全体を約260数町前後の20番に分けて、負担への抵抗感を和らげるためのものである。また、20年に一度の三月会負担だけの組み合わせであり、時代をへる中で分割相続などにより地頭の交代もありうるのである。
 氏の整理では一方では有力領主(地頭)を中核にして責任を負わせ、もう一方では斐伊川・赤川水系(出雲西南山間部)、伯太川・飯梨川水系、宍道湖中海水系、府中近傍(出雲東部)の領主層の横の一族連携や地域的まとまりに責任を負わせるという構図だとしている。
 例えば三番を宍道湖東部・中海沿岸とされるが、氷室庄と宇屋新宮はそのような分類には当てはまらない。また五番を飯梨川・伯太川水系という地域性があるとしているが、10の所領中8は水系というより能義郡内の所領である。これに秋鹿郡古曽石郷と意宇郡石坂郷を組み合わせた理由は何であろうか。三頭それぞれの田数と合計(260余町)を合わせるため以上の意図は読み取れない。特徴があるとすれば、地頭がすべて東国御家人だということであるが、国内の約4分の3が東国御家人領という状況下では特徴にもならない。さらに十二番は斐伊川水系であるとされるが、赤穴庄と末次保が入っているのはどうしてなのか説明できない。当時の斐伊川の流れが風土記の時代と同様、日本海に流れていたか、それとも近世以降のように宍道湖に注いでいたかについても述べられていない。府中近傍だとされた八番についても、遙かに離れた能義郡井尻保が含まれている。以上のように、そのそもの立論の在り方に大きな問題があるのである。
 それであるがゆえに、従来の比定地に問題があるものについて再検討されることもない。福頼庄は100町近い大庄園であるが、これまで地名のみを頼りに仁多郡内に比定されてきた。山間部の100町規模の庄園としては富田庄があるが、広大な面積を占め、とても比定されている場所に同規模の福頼庄を入れることは不可能である。佐伯氏は福頼庄を地図の上では相変わらず仁多郡内に落としている。これまでいかなる所領の所在地としても比定されておらず、且つ十分な面積を持つのは、宍道湖西岸の庄原から学頭にかけての地域しかないのである。また、大田別宮も飯石郡内比定されてきたが、その場合、日倉別宮と2km余しか離れていないという問題がある。これに対して神門郡塩冶郷内の上郷神社の棟札には平安末期の保延年間と鎌倉初期の文治年間にこの地に「太田別宮」があったことが記されている。別宮と勝部宿祢一族の関係からしても、成り立つ可能性は大きい。
 以上のように、文永8年結番帳における所領の配置については、すでに述べたように分析するしかないのである。

2016年3月13日 (日)

高岡高重について3

 最初に「高岡高重」ではありえない理由から述べる。HP「日本氏族大観」の高重の項には「興國22年(1361)6月1日、鰐渕寺に捧げし願文あり。」とあり、これぐらいしか亡霊が復活した理由は考えられない。くだんのHPは貴重な系図史料からの情報を掲載しているが、系図に記された点と編者の意見は区別しなければならない。編者の方も系図についてはひとかたならぬ見識を持っているのであろうが、不慣れな点もあるのである。別件であるが石見銀山の関係者の過去帳に「遠行」とあった。読んだ当時は意味を知らないので辞書を引いてみると「死亡」を意味する仏教用語であることがわかった。当然、一部の専門家を除けば知らないのであろうが、これをみた近世史(鉱山史)の専門家はこの記載から、技術者が石見大森から但馬国生野銀山に技術を持って行ったことと解釈した。本当ならば貴重な史料となるが、喜びすぎてチェックをしなかったのである。興国22年という年号がないことは中世史研究者なら知っており、「二」を縦に二つ並べた表記は「四」を意味することは自明のことである。
 すでに見たように、1341年に高岡師宗とその嫡子義宗が死亡した時点で、高重の父重宗は幼少であるがために助命されたのである。その2年後(興国22年ならば20年後で、生まれてはいただろうがなお成人前である)に生まれているはずのない重宗の子高重が願文を捧げることはありえないのである。
 では何故名和高重かというと、その花押が名和長年と類似していることがある。長年の花押は中央の長い縦線が特徴的である。「足利直義」や「足利直冬」のように継続して花押が残っていればよいが、長年の花押は建武政権の一時期のものしか確認できない。その長い縦線は彼が建武政権で出世したことと関係していよう。その長年の花押と長い縦線を除けばよく似ているのである。「左衛門尉高重」は長年の兄弟で、「名和系図」(『群書類従』)には「使美作」の肩注と「美作判官・村上八郎判官・八郎左衛門尉・大蔵大輔・刑部大輔・従四位下法名行妙、正平九甲辰三九」の記載があり、時期的にも問題がない。
 この願文について、貞治5年3月の頼源送進文書目録では「伯耆美作判官高重願書」と記しており、名和高重であると100%断言できる。左衛門尉から美作守に進んだのであろう。美作国は建武政権で出雲佐々木氏一族の富田師泰・秀貞父子が国司や守護の権益を得、秀貞は美作大夫判官と呼ばれていた。この富田氏が塩冶氏とともに幕府方に転じてことで、伯耆国に隣接する美作国や出雲国の権益は名和氏に与えられたのであろう。文書目録には同日の杵築木工助景春願書が記されている。「杵築」のみみると出雲国の関係者とも思えるが、これも名和氏関係者である可能性が高い。ただし、名和系図には該当する人物がみえないので、結論は保留することとする。誤りは行った人がその誤りを認めて訂正することでしか修正不能であり、このままだと「高岡高重」の亡霊はいつまでたってもこの世から離れられない。文書集・HP・ならびに古代文化センターの目録の記述が訂正されることを希望する。

高岡高重について2

 前置きが長くなったが、表題の高岡高重については情報が限られるが、曽根健三氏(あるいは未確認だが旧島根県史もか)は、興国4年6月1日に鰐淵寺に願文を捧げている左衛門尉源高重をこの高岡高重に比定され、新修島根県史も同様であった。南北朝遺文でもそうなっている。「高岡高重」で検索すると「島根県古代文化センター」の「島根県中世史史料集成」(南北朝遺文・中四国)がヒットし、そこでも同様である。ちなみにこの目録の表題と掲載箇所の「中四国」と表記すべきところがすべて「中西国」となっておりご愛敬なのだが、さらに問題なのは、すべて北朝年号で記している点である。好き嫌いの問題ではなく、その違いを明示しなければ、誤解を生むのである。これも一種のねつ造といって良いだろう。おそらくは、個々の文書についての検討なしに、ただ、アルバイトの人が遺文(ただし年号は除く)をそのまま入力したのであろう。問題なのはアルバイトの人ではなく、それを確認していない担当者の姿勢と見識の低さである。
 『南北朝遺文』は『鎌倉遺文』などと同様に、どのような史料があるかを明示するのが主目的であり、誤りを含むことには目をつむっている面があり、これはこれでいたしかたないことである。問題は、その島根県関係を抽出して目録化しながら、何の検討もなされていないだけでなく、年号をねつ造していることである。
 とはいえ、主役は「高岡高重」である。以上の史料集に対して『大社町史』では「名和高重願文」としている。町史史料編のチェックを頼まれた際に、名和高重であることを編者井上寛司氏に伝え、訂正してもらったものである。とりあえず中世前期については、目を通しており、『大社町史』の誤り(これはだれがどういう体制で行っても避けられず、それを利用した研究者が改善していくべきもの)には自身も責任の一端はさけられない。 井上氏作成の「中世出雲国史料目録」でも「名和高重」となっている。すでに解決済みであったはずが、昨年8月刊行の『出雲鰐淵寺文書』では再び「高岡高重」の亡霊が復活してしまったのである。曽根健三氏による『鰐淵寺文書』の問題点を克服するための史料集で、研究会が組織され、史料編纂所の協力も得て作成されたものでありながらどうしたのであろうか。これが、この文を書く理由である。

高岡高重について1

 高岡氏は出雲佐々木氏の一族で、佐々木泰清の子宗泰を初代とする。塩冶郷内高岡を苗字の地としている。高岡氏については、HP「日本氏族大観」で紹介されている系図が詳細で、従来の佐々木氏系図では不明であった点も明らかになった。表題の高岡高重とは、父重宗とともに明徳の乱で山名満幸方として討ち死にした人物である。佐々木氏系図では父重宗が尾張守三郎左衛門(法名月覚)で、高重が七郎であったことしか記されていない。
 高岡氏初代の宗泰は八郎左衛門尉であり、その娘念智禅定尼(正平10年3月の鰐淵寺大衆条々連署起請文に鰐淵寺の仏像建立の大檀那としてみえる)と結婚した富田氏初代義泰の子八郎宗義が2代目となった。その間に生まれた八郎左衛門・遠江守師宗が3代目となったが、謀反の疑いで追討された塩冶高貞とともに自害した。その嫡子八郎太郎義宗は播磨国加古川で討たれ、二男は仏門に入った。佐々木氏系図で鰐淵寺衆徒と記され信濃公であろう。高岡氏系図では1399年まで生きたことがわかる。これも祖母念智禅定尼による造仏の背景であろう。
 師宗の子で幼少で生き残った(山名時氏に生存を認められた)のが三郎重宗・四郎師重(1332年生)・五郎直宗であった。重宗は山名満幸の家臣なり、満幸が出雲国守護となると高岡に復帰した。直宗は山名時義の嫡子時熈の家臣となり、時熈が隠岐国守護となると隠岐国別府の所領を与えられ居住した。この仕えた主人の違いが兄弟の明暗を分けた。最初は、足利義満が山名氏惣領であった時熈の追討命令を出し、時熈は没落して直宗は備後国に籠居した。隠岐国も追討にあたった山名満幸が守護となったのである。ところが、次には皇室領横田庄押領により、満幸追討の命令が出された。満幸の家臣であった重宗とその子高重は戦いに敗れ、高重は戦死したとする。山名時熈が復活したのに伴い、その家臣であった直宗が高岡氏惣領となったが、出雲国を離れ但馬国に移住し、所領を与えられた。

2016年3月12日 (土)

アルファーGoと棋士の対局

 アルファーGoとイ・セドル9段の対局は、事前の予想に反してアルファーGoが2連勝、それも圧勝し、衝撃を与えている。ネット上でもその論評がアップされ、それに対して様々な意見が出されているが、論評に比して意見はいつのもように玉石混交(ほとんどはこれもいつものように石、なぜならばなんら根拠をもたないお気軽な感情を述べたものが多い)。
 囲碁のプロ棋士はイ9段に限らず。「眠れない」(原因は様々あろう)というのが実感だろう。プロ棋士がコンピュータに敗れてその存在意義が揺らいでいることもあるだろうが、これまで妥当な判断とされてきたものが妥当ではないかもしれず、次の自らの対局での個々の局面の判断が難しくなる。
 囲碁と違って将棋は王(玉)を詰めることがゴールであり、紙一重の勝利であるようにみえても最後はすべてKO勝ちで、いわゆる判定勝ちはないのだが、囲碁はKO勝ちとともに、判定勝ち的な勝利もないことはない。コンピュータが指した手がそれまでの定石と異なっており、且つ有効な手と判断されたならば、将棋の棋士には同じ局面でそれを採用する動きはあろうが、囲碁はそうもいかないでのはないか。コンピュータのその一手の背後にある読みと人間の読みの間には大きな懸隔があると思われ、根底から考えを変えなければ、コンピュータの一手を採用しても無駄であろう(それほど囲碁がわかっているわけではないので、お門違い近いな場合もある)。
 意見の中にはコンピュータ側が有利でアンフェアだというものもあった。将棋では、コンピュータ囲碁の大会で上位5位までに入賞したソフトとトップ級棋士が対局したが、プログラムを大会の時点から改編してはならず、且つそのソフトを借りて棋士は研究することができた。あるソフトには致命的なバグがあったのだがそれを修正出来ず、実際の一局で、プロ棋士がそれを利用して勝利を収めたこともあった。
 それに対して、今回は昨年9月にヨーロッパチャンピオンに勝利した際の棋譜は公開されたが、その後半年の期間にアルファーGoは別のソフトといってもいいぐらい進化していた。プログラムを動かすハードも並大抵なものではなく、このグーグルが提供するハードあってのアルファーGoであった。9月に日中韓であればアマチュア王者クラスである欧州の2段のプロと対局する前にアルファーGoに読み込まされた過去の棋譜データと、9月以降読み込まされたデータは異なるという。今回は世界のトッププロ棋士の棋譜を入力・学習した上で、アルファーGoは対局に臨んでおり、9月とは棋風も異なるという。
 9月の棋譜を見れば、これまでの囲碁ソフトに比して格段の進歩はあっても、世界のトッププロとは2目程度の差があると感じたプロが多かったようだ。日本でもアマ名人が井山6冠王と6目半のコミをもらって黒番で対局したが(13目のハンデ)、逆転負けしている。19歳のアマ名人はプロ試験に合格し、4月からはプロ初段として棋戦に参加する人である。半年間での進歩はあっても、それでも世界のトップに勝つのは難しいだろうとの意見が棋士の多数意見であったが、9月までとそれ以後に読み込んだデータが違う事は、今回の対局が始まってから公開されたものである。
 本日は第3局が行われる。イ9段側は韓国の棋士とアルファーGo対策を考えた上で対局に臨むようだが、それでも勝利は難しいというのが大方の予想であろう。解説者泣かせなアルファーGoの一手一手である。2局目はイ9段は一度も優位に立つことなく敗北したと述べていたが、韓国や日本のトッププロの判断では途中でイ9段が優位に立ったと思われた場面があったとのことである。ただし、それが10手も進めば、先ほどのイ9段優勢の判断を変えなければならないことが多かったようだ。
 1局と2局の対局後に中国のカケツ(コジェ)9段が自分ならば勝てるとブログでアピールしている。確かに現時点での世界最強棋士であることは誰でも認めようが、18歳で伸び盛りの彼でも難しいと多くの棋士は思っていよう。プロ棋士が勝利するとすれば前半で明確に優位に立ちアルファーGoが投了する形しかなかろうが、2局目までの様子からはありえない状況としか考えられない。そして中盤から終盤にかけては、プロ棋士の目算をはるかに超えた正確さを備えたアルファーGoが明確な優位を確立するであろう。こう書いている自分の囲碁の棋力は級位者のレベルであり(高校・大学の頃には、藤沢秀行9段の本を読み、50手ぐらいまでならうまく打てた気がしたが、今はさっぱりわからない)、この予想が外れることを少しだけ期待して、筆を擱くこととする。もうすぐ対局が始まるので。

2016年3月 9日 (水)

文永8年出雲大社三月会執行体制2

 二十番の杵築社領は三頭の区別はなく、神門郡遙堪郷、出雲郡武志郷・鳥屋郷・大田郷・出西郷、意宇郡伊志見郷のみ記され、高浜郷・稲岡郷・石塚・冨郷はみえない。千家村・北島村・求院村は大田郷に相当すると思われる。記載されている所領は出西郷(国造家の先祖開発の地とする)を除けば国司と鎌倉幕府から寄進されたことが記されている。これに対して記載がないのは、別納の地(出西郷も)とされる所領である。ただし、289町5反の田数は康元元年の検注帳の定田数とほぼ一致しており、実際には寄進された所領名で代表させていると思われる。
 まとめると、編成時に最優先されたのは、①同一人物が地頭である所領はできるだけ同一番にすることと、②一組の合計面積を260町台にすることである。近隣の地域をまとめることは、①②を満たす範囲内で行われている。そのため、大規模な庄園や公領の番数を決めて、そこに中小規模の庄園・公領をあてはめて作成されたのである。できるだけ負担が可能で、不満が出にくい形をとることで体制の安定化を図ったのである。課題として、約30年に一度行われる出雲大社造営ならびに遷宮との関係がある。遷宮にも多大な負担が発生し、遷宮と三月会の執行を同じ並行して行うのは次第に困難となっており、そのための明確なルール作成であったろう。ただし、文永7年正月に出雲大社本殿が焼失してしまったのは、大きな誤算であった。通常なら計画的に行う造営を、より短期間で実行する必要があり、造営と三月会の同時並行しての事業実施を困難にしたと思われる。
 最後に、文永8年以前はどうであったかという点がある。公領のみで負担していたとの説があるが、文永8年の関東下知状にはそのような点には全く触れておらず、院政期以降に発達する一国平均の役の例をみても、庄園・公領の両方が勤めていたとすべきである。ただし、建長元年注進状の流鏑馬十五番のように、各番の所領の合計面積にはアンバランスがあった可能性が大きい。

文永8年出雲大社三月会執行体制

 文永8年に鎌倉幕府が、守護佐々木泰清と在国司朝山昌綱子(後の時綱)に出雲国の庄園・公領を20番に結び、この順番で出雲大社三月会の頭役負担を勤めさせるように命じている。直近の出雲国大田文をもとに、守護と在国司が編成した案を幕府が承認し、各所領の荘園領主と地頭に周知・命令するためのものであった。以下では編成の方針を確認するが、その際に、建長元年出雲大社遷宮注進状に記される流鏑馬十五番の組み合わせについても参照したい。
 所領の組み合わせの際に、もっとも重視されたのは各番の定田数である。二十番となった理由は明確ではないが、九番の佐陀庄二百八十町、十三番佐々木泰清領291町1反半、二十番出雲大社領289町5反を除いた十七のグループはすべて260町台(左右相撲頭90町前後、舞頭80町前後)となっており、この3例の定田数と全体をわかりやすい20番とする意図から定められた可能性が高い。これに対して石清水八幡宮や鴨社領、摂関家領でわかるように荘園領主が同じである点は考慮されていない。地頭については、文永8年段階で同一人物が地頭の場合は同一番になるようにしているが、佐陀神主跡のように定田数が多い場合はその限りではない。守護佐々木泰清領もその子義重領は別となっているように、定田数が優先されている。一族については、多胡氏領が八番出雲郷・十二番馬木郷・十五番平田保、勝部宿祢領である長田西郷が十四番なのに対して長田東郷と枕木保は十八番、さらには成田氏領が五番坂田郷、七番宍道郷とあるようにそれほど考慮されていない。ただし、多胡氏領は建長元年注進状の流鏑馬では五番にまとめてあり、同じく五番に含まれる竹矢郷とともに、承久の乱以前の領主が反映されている(同じ人物ないしは一族)可能性がある。同九番の湯郷・拝志郷・佐世郷についても同様で、文永9年でも一番の左相撲頭にまとめらている。地域的まとまりは十六番がすべて能義郡で、十番は一カ所を除けば大原郡で、残る一カ所も大原郡に隣接しているが、同一郡の例は一部にとどまっており、ある程度配慮されている程度である。

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