koewokiku(HPへ)

« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »

2016年2月

2016年2月29日 (月)

文和2年・正平8年の石見国2

 当時の石見国では東部では幕府から派遣された守護荒川詮頼が、西部では吉見範直が国人の組織化を図っていた。文和2年2月30日には吉見範直が内田氏惣領致世代三和彦次郎の西黒谷城での忠節に対して感状を出している。奉書の形式は守護荒川氏との関係を示すのであろう。観応の擾乱期に反幕府方に転じた内田氏惣領が幕府方に戻っているのである。同様のことは益田氏惣領にもみられた可能性が大きい。内田氏惣領は6月25日には南朝と結んだ足利直冬方に再度転じており、12月27日には左近将監仁科盛宗が、貞松名に対する内兼成の権益を否定し、三隅信性と内氏の惣領周布兼氏に貞松名を沙汰付けるよう命じている。仁科盛宗は石見国人の幕府方への戻りを押さえるために直冬が派遣し、9月18日には石見国凶徒退治のため三隅に到着し、内田氏惣領致世などに益田への発向に参陣する事を命じている。
 以前にも述べたが、反幕府方に転じた惣領兼忠の死亡により、益田氏は兼忠の父兼世と兼忠の養子となった弟兼利が幕府方へ戻ることを選択し、結果として滅ぼされ、反幕府方にとどまった庶子益田兼見が新たな惣領についたと思われる。
 益田氏に影響をあたえ周防国の大内氏では惣領で反幕府方の弘世が幕府方の一族鷲頭弘長を破って統一し、次いで長門国へ攻め込み、正平十四年までには長門国を制圧した。石見国を挟む出雲国と周防・長門国でいずれも反幕府派が優位に立ったことで、石見国でも守護荒川氏に従う国人はあったが、多数は反反幕府派であった。
 正平9年4月13日には仁科盛宗が河原太郎右衛門尉に佐々木美多見彦三郎跡の出雲国高良村の替地として石見国角井村と松武名地頭職を預けているが、これも足利直冬と山名時氏の連携を前提とするものであった。足利直冬は出雲国人への軍勢催促を行い、正平9年9月には石見国から京都への上洛を開始している。
 正平10年には足利直冬・山名時氏・桃井直常の軍が京都を占領したが、3月には幕府方により奪い返され、再び山陰に戻る形となった。幕府にとってはチャンス、反幕府方にとってはピンチであったが、山名氏と大内氏(長門国統一の最中で今回の上洛には参加せず)の領国が安定していたため、石見国での反幕府方の優位には変化がなかった。足利直冬は益田氏や周布氏領に守護使不入の兼利を与え、益田氏には出雲国成田郷南方を預けているが、この時点では実効性は確保されていた。
 とはいえ、三隅信性は正平10年の京都の合戦で討死したとされる。また、山陽側の安芸国では南朝年号よりも北朝年号の文書の方が多く残されており、状況は変化してきていた。石見国人に対しても繰り返し幕府方となることを求めた軍勢催促状が出されているが、こちらも大内氏が幕府方となるまでは反幕府方の優位が続いた。

文和2年・正平8年の石見国1

 必ずしも十分でなかった点を補充したい。前年の文和元年・正平7年の前半には南朝による正平一統が失敗し、後半には大宰府の足利直冬が敗北するなど、反幕府方にとっては危機的な状況があった。正平6=貞和7年には石見国人で反幕府方となるものが続出したが、それがまた転換点を迎えたのである。
 南朝の中心であった三隅信性は、南朝の正平ではなく貞和7年の年号使って6月19日に庶子永安氏領の一部を継承した吉川経兼領の安堵を足利直冬に求めている。ところが、直冬のバックボーンであった義父直義の優位は、尊氏が8月に南朝方に下ることで失われ、翌観応3年2月に直義は死亡した。三隅氏は南朝方として翌年閏2月の京都占領に参加したが、5月には幕府が京都を奪回し、信性は石見宮と嫡子兼知を失って石見国に戻った。伯耆国守護山名時氏は北陸へ下った直義と行動を共にしたが、嫡子師義は幕府にとどまり、南朝と戦った。それが出雲国守護京極道誉との対立から8月に幕府を離脱し、9月には京極氏の領国出雲国へ攻め込み、これを占領した。京極氏の守護代吉田厳覚の抵抗はあったが、山名方が優位であった。
 そうした中、隣国石見国へ一族を派遣して幕府方に対抗している。幕府方の久利氏庶子赤波重房は文和2年正月22日には反幕府方の仁万弥太郎以下が楯籠もる仁万城を攻撃して攻め落としたが、逆に2月10日には久利次郎左衛門尉の城に攻めてきた山名刑部少輔・佐波善四郎左衛門尉らと戦っている。そして3月19日には守護荒川氏の指揮のもと土屋備前守らとともに反幕府方を河合城に攻めている。山名刑部少輔の実名は不明だが、石見国の反幕府方との連携のため派遣されたのであろう。
 西隣の長門国・周防国では、反幕府方の大内弘世が対する一族の鷲頭氏や長門国守護厚東氏と激しく戦っていた。そうした中、観応3年10月に大宰府の戦いで敗れた足利直冬が長門国豊田城から周防国衙へ移動し、石見国人の組織化を進めてきた。養父直義の死亡により孤立するかにみえた直冬だったが、正平8年5月までには正平年号を使用して、南朝や山名氏との結び付きを深めた。

観応の擾乱期の出雲国2

 10月には出雲国人に対して守護代吉田厳覚が石見国凶徒退治のため派遣された高師泰軍への参加を命じられているが、実際には高師泰軍は三隅城で敗北し、年末には石見国から敗走した。12月には足利直義が南朝と結んで、幕府の主導権を握り、敗走してきた高師泰・師直兄弟は、降伏したが殺害された。そして、翌貞和7年2月以前に、石見国から足利直冬方の「御大将」が出雲国に攻め込み、2月には直義方の山名時氏が出雲国守護となった。出雲国の中にも三刀屋氏や佐波氏のように大宰府の足利直冬のもとに使者を派遣し、所領の安堵を受けるものがあった。山名時氏が守護となった2月以降には、南朝の常陸親王から国人に対して軍勢催促状が出されるようになる。
 これに対して8月には足利尊氏が南朝と結んで反撃を開始し、直義は山名時氏らとともに北陸に脱出した。すると。尊氏方の国人にも常陸親王令旨が出されるようになり、11月以降は尊氏も正平年号を使用するようになる。その結果、観応年号を使うのは足利直義方のみとなり、尊氏が直義方を鎮圧するために関東に出陣すると、その隙を突く形で翌年閏2月には南朝方が京都を占領した。一方、2月26日には尊氏に敗北して幽閉されていた足利直義が病死する。
 そのため3月には足利義詮が、4月には尊氏が観応年号を再び使い、南朝方への攻撃の軍勢催促を開始し、5月11日には南朝方が京都から没落している。9月27日には北朝が観応3年から文和元年に改元している。一方、直義方であった山名時氏の子師義は幕府方に留まっていたが、8月には出雲国守護京極氏との対立から離脱し、9月には時氏とともに雲州凶徒=京極氏退治のための軍勢催促を開始する。足利直冬は10月には大宰府での合戦に敗北し、その後一時的に文書発給の空白が生じ、元号なしの文書を経て、翌年5月25日以降、正平年号(正平8年)を使うようになる。周防国の大内弘世は正平9年正月18日以降、南朝年号の使用が確認できる。この頃には周防国を平定し、次いで隣国長門国平定に着手し、正平14年末までには幕府方守護厚東氏を排除して平定に成功した。
 正平7年の南朝方による京都占領が失敗した際には、南朝方の中心三隅信性も石見宮を伴い上洛したが、幕府方の反撃により石見宮と嫡子三隅兼知が戦死している。出雲国では山名時氏が幕府方に復帰する正平18年(貞治2)までは反幕府方優位の状況が続いた。以上は年号とその立場を再確認するために記した。
付記 HPのみ修正しており、ブログも修正「観応年号を使うのは足利直冬方のみ」を直義に

観応の擾乱期の出雲国1

 観応の擾乱とは足利尊氏の弟直義と執事高師直の対立から幕府が分裂したもので、南北朝の動乱が長引く原因にもなった事件である。その始まりは貞和5年閏6月15日の高師直の執事罷免であった。弟直義の要求を尊氏が受け入れたものだが、8月には師直のクーデターにより、逆に師直の軍事力により直義が引退に追い込まれた。そして翌観応元年6月には中国探題として派遣されていた足利直冬追討のため、高師泰が派遣された。
 出雲国内の戦闘としては康永4年2月に前守護塩冶高貞の子貞家が飯石郡屋根山城に楯籠もったのに対して、佐々木五郎左衛門尉(高貞弟時綱嫡子重綱)らがこれを攻撃して落城させている。この軍忠に対して承判が押されており、高師直の花押と類似しているが、これは守護代吉田厳覚のものであろう。隣国伯耆国の名和氏の存在もあって、出雲国内でも反幕府方の動きは見られたのである。さらに、この前年には出雲大社神主をめぐって千家孝宗と北島貞孝の対立も生じていた。その後、貞和3年11月には幕府ならびに守護京極氏から東条や吉野の凶徒退治のための軍勢催促がなされ、出雲国人は守護代吉田厳覚とともに河内国と大和国における合戦に動員されている。
  そうした中、観応元年2月21日には足利尊氏が岩屋寺に凶徒退治の祈祷を命じており、出雲国内でも対立がないわけではなかった。そして土屋四郎左衛門尉と伊藤(小堺)弾正左衛門尉が大原郡阿用庄蓮花寺城に楯籠もり、それを守護方が同年7月8日に攻撃している。反幕府方は来島蔵人三郎入道らが来島庄内由木城に、来島蔵人次郎・佐々木貞宗(貞家と同一人物か)が同庄内野萱城と下子城に楯籠もったため、7月12日と13日には幕府方がそれぞれを攻撃した。そうしていると、今度は伯耆国凶徒が攻め込むとの情報が入り、幕府方は8月8日には安来津を警固し、12日には佐々木信濃五郎左衛門尉や佐々木近江六郎左衛門尉・土屋四郎左衛門尉・同修理亮・同弁房・多久中太郎入道・小堺弾正左衛門尉・同平五郎入道元智らと戦い、13日には富田関所に向かい、14日には平浜八幡で敵と戦っている。幕府方は守護代吉田厳覚・佐々木三河守重綱・朝山右衛門尉義景・佐陀次郎左衛門尉・玖潭彦四郎・小堺次郎左衛門尉・諏訪部彦十郎貞助・北垣三郎五郎光政などであった。

2016年2月24日 (水)

三隅氏からの文書

 貞治5年5月6日に益田兼見は「しやうゑんの御房」に対して、三隅氏の文書に関する13通の受取状を作成している。4グループに分かれ、最初のものは代々御下文案文で、紛失状として佐殿の裏判が押されていた。2番目と3番目のものはそれぞれ3通で、前者は「しんしむさしとと々状」とあり、「武蔵殿」の表記から高師直ないしは執権北条泰時などの関係文書であろうか。後者は「さくらいの御つかいの御けうそ」と「めしふ」とあり、さらに関係は不明である。桜井庄に関する領家からの要請とそれに関する召文との推定がなされている。そして最後の6通が「たい々々の御下文案」とある。
 三隅氏の文書(の写か)が益田氏に渡された背景としては、益田氏が「代々御下文」を失っていたことと、これまで反幕府方であった三隅氏が幕府方に復帰したことが考えられる。これをうけて、同年11月18日掃部助高弘挙状にみられるように、兼見が所領安堵を求めたのだろう。
 ここで問題とするのは最初と4番目の代々御下文の関係である。最初のものは三隅氏が足利直冬に提出した紛失状の写であろう。そこに収録された文書の個々を写したのが最後の6通の下文案であろう。6通との数から思い当たるのは、仁治3年4月25日関東下知状で、「前武蔵守」北条泰時が単独で署名している。この2ヶ月後に泰時は死亡するが、泰時の代に益田兼季領の配分が行われた。その下知状に益田兼時が所持する「六代相伝文書」と6通の御下文の関係である。この6代とは国兼から兼時までの6代であるが、三隅兼信も兄兼季領の配分を受けており、これまた6代である。益田兼時の弟兼定には手継文書であり六代相伝文書は渡されたなかったが、三隅氏は益田氏とは独立した扱いを受けており、少なくとも案文は渡されたのではないか。
 ということで、益田氏は惣領兼世―兼忠・兼利の系統が没落する過程でその所持した文書が失われ、新たな惣領となった兼見は三隅氏から文書の提供を受け、それに基づき安堵の申請をしたのではないか。ただし、応安元年3月16日の火事でその時点で所持した文書は失われたとする。また、室町幕府への申請で重要なのは鎌倉幕府以来の文書であり、後に作成された紛失状も試行錯誤の結果完成したもので、6代相伝文書の手継とイコールではない。渡された文書の性格とともに、この時点で三隅氏が幕府方に復帰していたことについて述べた。

2016年2月23日 (火)

益田兼見領から考える2

 残った飯田郷については、応安7年7月28日卜部仲光奉書で、虫追政国の子と思われる人物が長野庄惣政所職と一族領を惣管領することを認められている。卜部仲広は当時は北朝方の天皇綸旨の奏者となっていた人物であるが、ある有力貴族(長野庄領家)の家臣として、この文書を出している。虫追氏一族は飯田郷・市原郷・高津郷の支配を認められていた。それが、永和4年には飯田郷が兼見から嫡子兼世に譲られており、この間に虫追氏が没落したと考えられる。それをもたらしたのは永和2年の大内弘世の石見国守護解任をめぐる状況ではなかったか。益田兼見と大内弘世との関係は、兼見の二人の子の名前からもわかるが、この弘世解任の際には、兼見は幕府方で弘世排除に協力し、弘世との関係が深かった虫追氏や乙吉氏領を獲得したのではないか。これに対して、岡見については、三隅氏が幕府方に復帰する際に、益田氏と三隅氏の間で婚姻関係が結ばれ、それによって三隅領岡見が益田氏領となったのであろう。
 以上述べてきた点も、益田氏が康暦内戦前半戦で、幕府や大内義弘方となり、所領を減らすのではなくて増やしてきたことを示していると思われる。それが後半戦で変化したのは、大内弘世の子満弘と兼見女子の結婚であった。兄義弘が1356年の生まれであり、満弘もそれ以降の誕生となる。すでに述べたように、兼見の子兼世・兼弘兄弟が義弘・満弘兄弟と同世代か、ないしはやや上というところか。永和元年11月20日細川頼之書状では、大内新介=義弘が鎮西に合力のため発向することが兼弘に伝えられ、兼弘にも同心が求められている。南北朝遺文や大日本古文書では益田孫次郎を兼見に比定しているが、兼見は応安元年の時点ですでに出家しており、成り立ち得ない比定である。

益田兼見領から考える

 益田兼見が幕府方に復帰して大内弘世のもとで軍忠を重ね、貞治5年11月18日に大内氏家臣の掃部助高弘を通じて安堵を求めた所領は、益田本郷・東北両山道・弥冨名・伊甘郷・宅野別符であり、この段階では益田兼長後家阿忍の所領を継承していた。父兼方と阿忍領との関係が注目される。次いで永徳3年2月15日に将軍源義満により安堵された所領には新たに乙吉・土田村と岡見村、飯田郷が加わっていた。翌4年3月16日には、大内氏奉行人が宅野別符を益田方代官に打渡すよう命じており、貞治5年段階の当知行とは矛盾しているが、宅野別符は観応の擾乱期に当時の惣領兼忠(兼見の従兄弟)が、本領であるとして安堵(一旦失っていたものを回復)されている。
 乙吉・土田村は非益田氏系御神本氏である乙吉氏が南北朝期に至るまで支配していたが、応安元年閏6月24日には三和氏が乙吉・土田村田畠屋敷等の押領で、乙吉氏惣領であった乙吉十郎殿女子を訴えていたように、乙吉氏による一円支配ではなくなっていた。
そして、永和4年2月3日に益田祥兼が孫次郎兼弘に譲った所領に益田庄本郷内つちたのむらとあり、この時点で土田村を先に得ていたことになる。これが永徳3年置文では、乙吉・土田両村が兼弘に譲られている。
 岡見村については、永徳3年8月10日祥兼置文には「号三隅」と記し、同日付の譲状
では、兼世の後継者として嫡孫長寿丸をあげ、特に岡見村はもとより長寿丸が知行すべきとしている。ここからすると、長寿丸は兼世と三隅氏女子との間に生まれた可能性が高い。系図では三隅兼連孫直連が益田兼見女子と結婚し女子が誕生したこと、その女子が一族の信世(母は兼連女子)を養子に迎え、信世が直連の後継者となったことを記すが、三隅氏女子と益田兼見嫡子兼世の間にも婚姻関係が結ばれていた。兼世と信世の名前は大内弘世との関係を物語ろうが、兼世の弟兼弘もまた弘世の一字をもらった形となっている。
 益田兼見の子としては、貞治2年段階で譲状を与えた3人(まつわう・ちやうます・まつ一)がいたが、この段階では元服しておらず、永和3年段階で嫡子兼世には「ちやうしゆ」という子が誕生していることからすると、兼世は1350年代半ば頃の生まれとなろう。

益田下野守について

 益田下野守は永徳3年に益田祥兼が義満安堵状を得る際に、祥兼次男兼弘とともに上洛して、幕府や大内氏との交渉にあたった人物であるが実名は不明である。系図にみえないが、その後の没落などにより系図にはみえない益田氏一族が外にもいたことを意味している。益田兼見の父は益田兼方という人物であるが、兼見の兄弟は系図には記されていない。
 下野守に関しては、これに直接関係する3通以外に、年未詳3月5日の源頼持・藤原詮世連署状があり、そこでは、得屋郷四分一領家職が下野守代官に打渡されようとしたが、馬庭但馬守と岩田兵庫助が当参して支え申したので2月25日奉書が遵行できなかったとしている。ここから、馬庭但馬守と岩田兵庫助は益田氏と敵対する立場にあったため、その所領が益田下野守に与えられたことがわかる。下野守の確認できる年代からして、康暦内戦前半戦に関するものではないか。益田兼見は大内義弘方で、馬庭但馬守と岩田兵庫助は満弘方ではなかったか。父弘世の死により義弘と満弘との間は修復されたが、石見国人間の関係は簡単に修復できなかった。ところが、所領が没収されることで、馬庭・岩田両氏が降参したため、打渡しが中断されたのである。永徳4年3月には宅野別符が益田方代官に打ち渡されている。前年2月15日に兼見が安堵されたものを打ち渡されたのであろう。同時期に、下野守に得屋郷四分一領家職が与えられたのではないか。
 得屋氏は永和2年閏7月8日に得屋遠江入道が幕府から戦功を賞せられ、至徳2年8月13日には得屋領家職と同地頭方四分方を得屋入道が預け置かれている。得屋領家職に対して得屋地頭職が、地頭方四分方に対して得屋郷四分一領家職があったのだろう。得屋入道は得屋地頭職を支配していたが、新たに領家職と四分一地頭職を預けられたのだろう。それに対して、岩田兵庫助領であった四分一領家職が益田下野守に与えられようとした段階で、兵庫助が降参したのであろう。この点からみても、益田氏は大内義弘方で、一族の下野守が満弘方であった岩田兵庫助領を与えられたのであろう。

2016年2月20日 (土)

大内弘世の石見国守護解任2

 石見国守護を解任されたのが、石見国ではなく、安芸国や南朝との関係だとされると首をかしげたくなる。弘世は安芸国でも国人の家臣化をはかるため、国人による荘園・公領への押領を黙認していた。それは石見国でも同様であった可能性が高く、それが解任の理由ではないか。解任に際し、新守護荒川のみならず、「高房」も派遣されており、大内方を排除するため、益田城・江津・河本城で国人が軍忠を行い、幕府から感状が出されている。得屋氏と俣賀氏は近隣の益田城、武田氏も近隣の河本城であるが、角井氏はやや離れた江津へ動員されている。益田兼見の子孫次郎兼弘宛の「ウハ書」を持つ文書では江津での戦功が賞されているが、宛所が切断され、「ウハ書」は別文書のものとされている(永和元年に比定される11月20日細川頼之書状のもの)。
 この年の4月22日に益田本郷では益田氏の家臣と荘園領主側の使者により御年貢・田数目録帳が作成されているが、大内弘世解任時に益田氏がどのようにかかわったかは不明である。目録帳を作成していたことからすると、益田氏による所領押領は考えにくく、益田氏は大内氏の排除に協力する側であったと思われる。
 そして、康暦元年には中央の政変にともない、石見国守護が荒川氏から大内氏に戻ったが、守護となったのは大内弘世ではなく嫡子の義弘であった。康暦2年4月28日に大内義弘から井原左近将監跡を与えられた小笠原氏は、観応の擾乱期にも幕府方で、文和2年2月にはその一族である武田氏が所領を与えられていた。この場合は井原左近将監が弘世方として所領を没収されたのだろう。
 康暦元年7月26日に大内義弘が当知行を安堵している内田氏惣領と庶子俣賀氏は、内田氏惣領が直冬が石見国に入って以降の時期に反幕府方となったことを除けば、幕府方であった。8月23日には市木因幡入道跡が吉川経見の子(駿河守)に与えられているが、市木氏は貞治5年まで反幕府方であった福屋氏の一族である。9月12日には大内氏奉行人が荘厳寺大般若経免田8段に対する大家右馬助の押領停止を命じているが、この免田は応安8年3月6日に大内氏関係者から荘厳寺に打ち渡されたものであった。それが大家氏の押領を受けていたのである。康暦元年10月11日には、大内氏奉行人が吉田駿河太郎による下黒谷并美濃路本知行分に対する違乱の停止を命じている。さらに康暦2年9月には、安国寺雑掌が、寺領河合南郷が文和元年以来金子氏により押領されているとして、金子氏の処罰と所領の沙汰付を求めている。
 以上、大内義弘が石見国守護に補任されて以来の状況を見てきたが、所領の押領(あるいは南朝方であった期間が長いがゆえに現状変更を図ること)を停止したり、敵対勢力の所領が味方に与えられている。間に荒川氏の守護期を挟んでいるが、全体的には所領の押領が続いていたのではないか。その状況を変えるべく守護に補任されたのが大内義弘であった。この路線に反発したのが、大内弘世・満弘とその支持勢力であった。
 以上、明々白々な史料は残っていない場合でも残された史料の断片から考えることができるのではないかとの見通しから述べてきた。

大内弘世の石見国守護解任1

 大内弘世は貞治5年に石見国守護となり、益田氏・久利氏・来原氏などを率いて福屋氏の拠点である青竜寺城・有福城・福屋大石城・久佐金木城を攻め落とし、その後は安芸国山県郡大田へ発向している。益田兼見は貞治3年9月までに幕府方となり、三隅氏攻撃に参加して以降、大内弘世の指揮下に入った。そして大内氏に対して、益田本郷・東北両山道・彌冨名・伊甘郷・宅野別符の当知行安堵を申請している。翌年10月の某軍忠状(これも安芸国での軍功に対して提出)にも承判を加えている。
 そして応安元年には益田兼見が大内氏へ紛失状を申請し、同年8月には大内弘世が内田氏惣領肥前入道に安芸国小原郷三分一地頭職を、志和井城料所として預け、安芸国人への所領安堵の口入も行っている。安芸国守護武田氏との関係は不明だが、守護の役割を石見と安芸国でつとめている。
 応安3年11月には幕府が東寺が訴えている東寺修造料国である安芸国吏務職について、厳島下野四郎と阿曽沼下野次郎に対して諸郷保地頭等の押領を停止して東寺雑掌に沙汰付けることを命じている。守護武田氏と大内氏は忌避されている。そして翌4年には今川了俊が備後国とともに安芸国守護に補任されたが、了俊には一方では各国の国人を動員して鎮西退治が期待されていた。
 大内弘世も九州での合戦に参加したが、早くも応安5年8月頃には帰国し、永和元年12月には子の義弘が九州に渡った。そのような状況下で、永和2年4月に大内弘世が石見守護を解任され、新たに足利氏一族で、以前にも石見国守護であったことのある荒川詮頼が新守護として派遣された。その原因としては、弘世が毛利宝乗と結んで、その子で九州に参陣していた毛利元春領へ攻め込んだことがあった。毛利氏は宝乗の祖父了禅以来南朝方であったことがほとんどであったが、元春が幕府方となったので、宝乗が子である元春領を奪い取ろうとした。ここから、松岡久人氏は弘世の行動は南朝勢力を利するもので、それ故に解任されたとする。ただし、あくまでも南朝と結んでいたと記されているのは宝乗であって弘世ではない。

観応の擾乱後の石見国守護2

 一方、2月30日には「□直」(吉見範直ヵ)が内田左衛門三郎致世代三和彦次郎の西黒谷城での軍忠を注進することを約している。内田氏惣領致世はこの時点までは幕府方に留まっていたのだろう。それに対して、3月6日には九州を追われ長門国豊田郷に到着した足利直冬から軍勢催促状が出され、4月22日には足利義詮から吉見範直の注進を受けた感状が出されている。幕府方は東部は守護荒川詮頼が、西部は吉見範直が合戦の中心であった。4月5日には出羽郷地頭職を君谷弾正忠実祐に勲功の賞として与える将軍義詮下文が出され、6月5日には守護荒川詮頼が高山修理亮行家に、君谷実祐への沙汰付けを命じ、6月20日に打渡が行われた。また5月25日には守護荒川が、幕府方の小笠原左近将監と福光又太郎入道を証人として、大家西郷地頭井尻八郎太郎への井尻村当知行安堵が行っている。
 6月23日には朝敵となった義詮追討の綸旨が出されたとして、「□田彦三郎」(岩田氏であろう)に軍勢催促状を出し、同月25日には内田左衛門三郎に豊田城での忠節について感状を出している。内田氏惣領致世が幕府方から直冬方に転じたのである。9月25日には足利直冬が白上合戦について、某に感状を出しているが、人物比定は微妙である。すでに述べたように当時の益田氏惣領家は兼忠の死により、父兼世と弟兼利が中心となり、幕府方へ転じたが、庶子兼見は直冬方にとどまったと思われる。
 正平8年12月27日には直冬の側近仁科盛宗が、内田氏惣領致世の訴えを受けて、貞松名について内兼成に参決を命じたが応じないとして、内田致世への打渡を周布左近将監兼氏と三隅石見前司入道兼連に命じている。周布氏庶子内氏が姻戚関係により内田氏領貞松名の支配を認められてきたが、内田氏惣領が反幕府方に転じたため、所領問題が発生したのである。
 文和3年2月22日には守護荒川が、中国凶徒退治のため、将軍義詮自らが下向してくるとして、内田致世に軍勢催促を行っている。4月17日には内田氏庶子俣賀左衛門三郎に対して、荒川が感状を与えている。惣領家は直冬方、庶子家は幕府方であった。一方、5月2日には足利直冬が岩田彦三郎に対して本領と新恩の両方を安堵し、5月20日には三隅兼連が内田氏惣領致世の恩賞について挙状を提出している。翌21日には、足利直冬が軍勢を率いて上洛を開始し、27日には温泉郷切所で荒川参河三郎・小笠原左近将監らを破って東上を続けている。ところが、石見国西部で幕府方が蜂起したため、直冬は8月13日には守護人を派遣するとして、吉川経兼に軍勢催促を行っている。これが9月2日には14日から上洛が本格化するとして、吉川経兼に馳参を命じており、幕府方の鎮圧に成功したと思われる。10月23日には将軍義詮が幕府方の朝山氏に対して感状を与えているが、その内2通は討死の賞であり、上洛する直冬軍と出雲国内の幕府方の国人の間で激しい戦いが行われた。
 足利直冬は山名時氏・桃井直常らとともに正平9年正月には京都を占領したが、3月中旬には幕府に京都を奪い返され、撤退を余儀なくされた。そして10月には石見国内に帰った直冬方の国人と幕府方の国人との間で激しい戦いが行われている。直冬自身は正平11年2月には安芸国に入り、石見国人に馳参を呼びかけているが、4月29日には石見吉川氏と内田氏惣領に、安芸国からにわかに帰国したことに対して、再度の進発を命じている。石見国の戦況が影響し、帰国したと思われる。こうした隙をつく形で、幕府から守護荒川を通じて国人への働きかけがなされるが、貞治2年に大内氏が幕府方となるまでは、石見国では反幕府方が優勢であった。
 以上、文和元年10月17日に出羽氏に出羽郷を預けている石橋和義は石見国守護ではなく、11月以降、その活動が確認できる荒川詮頼が石見国守護であることと、荒川下向後もその活動の中心は石見国東部であり、西部については吉見範直が守護に準ずる役割を果たしていたことを確認した。

観応の擾乱後の石見国守護1

 「観応の擾乱と石見国守護」で、高師泰没落後、正確な時期は不明だが、幕府引付頭人石橋和義が石見国守護に補任されたことを述べた。文和元年10月17日には君谷弾正忠に対して、出羽郷を預け、軍忠によっては下文を与えるとしている。石橋和義(左衛門佐入道)は、伯耆・出雲・因幡・美作4ヵ国が反幕府方の山名時氏の支配下となったため、10月10日に中国地方へ発向し、11月13日段階ではなお備前国にいた。そこで、高師泰の石見国敗退に従っていた君谷氏の訴えを受け、石見国での軍忠を求めて、先の文書を与えたのであろう。その意味では「石見国守護」に補任されたのではなく、次の守護が補任されるまでの対応を行っただけであろうか。10月18日に足利義詮が、石見国安国寺領河合南村に対する金子孫五郎入道の乱妨停止を、守護を介さず小笠原左近将監と土屋備前守に命じているのはそのためか。
 正式な石見国守護に補任され派遣されたのは、荒川遠江守詮頼であった。11月25日には義詮が周布左近将監に荒川のもとでの軍忠を求めているが、周布氏は足利直冬方であった。これに対して石橋和義は11月16日の段階では備前国山口におり、そのもとに備後国三吉氏が馳参じている。君谷弾正忠も同様に備前国の石橋のもとに馳参じたのであろう。なお、三吉氏は12月7日に着到状を石橋に提出し、12月30日にはそれまでの軍忠に対して、将軍義詮から感状を与えられている。
 守護不在時に石見国で幕府方の中心となっていたのは吉見三河三郎範直であった。正月10日には俣賀兵庫助に対して、幕府への軍忠の注進を約束している。そして守護荒川詮頼の活動が確認できるのは、2月10日で、小笠原氏の関係者である武田伊豆乙に対して波祢郷内朝倉孫五郎・同七郎跡地頭職を預けている。次いで2月18日には足利義詮が荒川詮頼の注進を受けて、「□田孫三郎」に対して感状を与えている。前年末に石見国に下向した荒川のもとに馳参じ、今回の感状となったのだろうが、この人物の比定は、大日本古文書が何も記さないうように現時点は不可能である。南北朝遺文は益田兼見とし、佐藤進一氏は兼見の子兼弘とされるが、兼弘は「孫次郎」であり、益田氏であるかどうかも明らかではない。益田氏ならば「孫三郎」の部分を修正したであろうから、得屋郷地頭岩田氏など他氏の可能性が高い。
 久利郷一分地頭赤波重房の軍忠状によると、反幕府方の仁万弥太郎以下が仁万郷内に城郭を構えて楯籠もったので、正月22日に攻め落とし、2月10日には山名刑部少輔・佐波善四郎左衛門尉以下の敵数百人が久利次郎左衛門尉の城に攻め寄せたため防戦し、3月19日には土屋備前守や守護荒川氏家臣高山氏とともに河合城を攻め落としている。この間の合戦には前に述べた武田氏も参加していたのだろう。

2016年2月13日 (土)

康暦内戦後半(再2)

 こうした状況の中、至徳2年に比定されている2月15日書状(河上社文書)で了俊が大内殿に「石州事無為御成敗候者可目出」と伝えているが、年次の比定の根拠は確認できていない。とりあえずこの段階では対立が表面化していなかったということであろう。
 それが6月11日以降になると、今川了俊が忠節を約束した国人に所領安堵を行うようになる。九州での忠節とも考えられるが、この場面では安芸国での忠節(現地に残っている代理を含めて)と考えられる。7月7日には幕府が安芸国衙職について宮下野守と松田備前守に諸郷保地頭等による押領を停止することを命じている。まさに康暦2年の状況が復活したのである。東寺から押領したとした訴えられているのは小早川氏・平賀氏・厳島掃部頭・武田氏・大蔵少輔・金子氏・品河氏・香河氏であり、所領の安堵を受けているのは、毛利氏・内藤氏・小早川氏・天野氏であり、小早川氏は一族で対応が分かれていた。また、沙汰付を命じられている宮下野守と松田備前守も幕府方であったことになる。
 国衙領の沙汰付の命令は明徳3年11月13日の幕府からのものが最後であり、明徳の乱で山名氏などが鎮圧される中で、地頭等の抵抗も幕府-守護権力により排除されたのではないか。
 安芸国の話が続いたが、康暦2年段階で安芸国衙領の郷保地頭等と同一歩調を取ったのが大内弘世とその子満弘であった。至徳2年にこの問題が再燃する中、満弘と安芸国郷保地頭の結びつきが懸念され、満弘の石見国守護解任と身柄の引き渡しが求められたと考えられる。それに対して満弘と姻戚関係にある益田祥兼が引き渡しを拒否し、所領問題で不満のある国人がそれと結びついて石見国内の対立が復活したのであろう。至徳2年から明徳3年にかけての時期に幕府や守護から所領の安堵や預置を受けているのは、幕府・大内義弘方の国人であった。史料の残り方の関係で周布氏のものが多く確認できるが、三隅氏やその庶子永安氏、さらには小笠原氏や安芸吉川氏も所領の安堵や預置を受けたのであろう。
 以上により、康暦内戦(大内氏内戦)の後半は至徳2年から始まり、周布氏に残された益田氏攻撃に関する文書は至徳2年から3年にかけてのものであったことが確実となった。対立は安芸国と同様長引き、嘉慶年間にも益田氏攻撃が計画されたが、結果としてはその被害の大きさから回避されたのであろう。安芸国の対立が解決すれば、満弘の身柄の拘束の必要性もなくなり、これに祥兼の死もあいまって、大内氏と益田氏の間の妥協も可能となったのであろう。
 最初にこの問題を論じ始めてから、年次の比定など紆余曲折はあったが、康暦2年には比定できない文書が大半であることに、松岡氏の後続の研究者がまったく気づかなかったのは不可思議としか言いようがない。当方も少しずつ発見したのが実態であったが、通説が間違っていることを示す証拠は、それこそ山のようにあったのである。

康暦内戦後半(再1)

 康暦内戦後半戦は石見国が主な舞台であったと述べたが、一部訂正する。安芸国で関係する動きがみられるのである。前半戦の原因の一つであった安芸国衙領の押領問題を含む国人間の対立が再燃してくるのである。
 安芸国衙領は東寺に寄進されていたが、応安元年から国人による押領を東寺沙汰雑掌が訴えるようになり、幕府が守護に対して東寺所務雑掌に沙汰付けるよう命じてきた。ところが、康暦元年4月20日に大内弘世が国衙領拝領分は軍勢に預けているとして安芸国守護今川了俊からの使節遵行要請を拒否した。このため、了俊は弘世を含めた国人の排除に着手し、九州から関口を安芸国に派遣してその大将とした。これが前半戦の原因となった。
 安芸国における前半戦は幕府・守護今川氏・大内義弘方が大内満弘方に康暦2年5月28日に勝利し、1年後の6月2日に義弘と満弘が参会したことで、一旦は沈静化したと思われる。ただし、守護今川氏が九州平定のため安芸国にいないことで、国人による押領が復活する可能性は大であった。大内義弘も東西条などを支配していたこともあり、安芸国人との関係を持っていた。
 造果(賀)保地頭職は建武3年に足利尊氏により厳島神社に寄進されていたが、観応の擾乱期の文和3年に将軍義詮が造果保地頭職を小早川氏平に預け置いたため両者の対立が続き、幕府の判断も二転三転している。一旦は厳島下野守親直(了親)の訴えを認めたが、永徳元年2月には小早川安芸守宗平の訴えを認めて、城郭を構えて抵抗する親直を排除して下地を宗平に沙汰付ける命令が出されている。これに対して7月には大内義弘が志芳庄二分方地頭職を造営料所として厳島神社に寄進し、援助をしている。次いで翌至徳元年4月にも一旦は造果保に対する小早川駿河守の押妨を訴えた厳島掃部助親明の主張を認たが、11月には厳島下野守(親直)の訴えを認めた御教書を幕府が撤回し、小早川宗平に安堵している。

2016年2月11日 (木)

康暦内戦の影響2

 前半戦との最大の違いは益田祥兼が娘婿となっていた満弘を支持していたことである。おそらくは義弘が満弘との関係の安定化を図るために、益田氏と満弘の間に婚姻関係を結ばせたのであろうが、それが裏目に出た形となった(満弘の子満世が応永7年段階で「五郎」で任官していないことも、婚姻関係の成立時期の参考となる)。幕府は義弘を支持したが、満弘方の国人も多く、相手の切り崩しを行うまでには行かなかった。至徳2年以降、益田氏攻撃の準備が整ったことは史料で確認できるが、大規模な戦いが行われた形跡はない。義弘方でも被害の大きさを考え、本格的な合戦に踏み切れないままに時間が経過したと思われる。
 それを示すのが、益田庄弥冨下村をめぐる益田氏と永安氏の対立であった。義弘側は十分な証拠に基づき永安氏を支持したわけではなく、益田氏切り崩しの手段として永安氏や安富氏を利用し、益田庄周辺に城を構え自派の国人をそこに入れたが、結局、最後の決断には踏み切れなかった。益田祥兼の死を契機に、御神本内部の調整を経て妥協が成立し、明徳5年に内戦は終結した。益田氏の所領が削減されたわけでもなく、満弘も一門内で守護の地位を得ているように、満弘・益田氏側が屈服した状況にはない。
 最大の問題は、今回もまた国人間の所領紛争に明確な決着が図られなかったことである。そうしている内に、応永の乱で義弘が滅ぼされ、幕府が新たに大内氏一族を大内氏領国の守護に補任したが、結果的には幕府が補任した一族を義弘の弟盛見が破り、幕府も盛見を大内氏の後継者と認めざるをえなかった。この間の度重なる合戦も石見国人に大きな影響を与えた。
 応永の乱後は一時期を除けば山名氏が石見国守護となったが、国人間の対立の調整をするだけの権力はなく、その後も、国人間の所領の争奪戦が軟硬両様の形で行われていった。石見国衙が所在し、御神本氏の本領である伊甘郷をめぐっても、15世紀後半以降は益田氏と三隅氏の対立が続いた。そして戦国期になると石見国をめぐる大内氏と出雲国から進出してきた尼子氏の間で国人も揺れ動き、一時は福屋氏が伊甘郷や小石見郷を支配したが、最後は毛利氏に対する反乱に失敗して惣領家が滅亡した。三隅氏も高城が攻略され惣領家が滅亡したのに対して、益田氏と周布氏は惣領家が近世・長州藩の有力家臣として生きのび、ある程度まとまった量の関係史料を残した。しかし、三隅氏と福屋氏の史料が失われたことで、その実態の解明は不十分なまま残されている。益田氏と周布氏の残した史料の分析には様々な視点からの分析が欠かせず、ただ表面的にみるととんでもない虚像を描いてしまう。そこに「資料の声を聴く」意味がある。

康暦内戦の影響1

 すでにみたように、内戦が前後2回あったことは確実であるが、その内実には違いがあった。前半戦は、幕府と大内弘世との対立が軸となった。安芸国での支配を強化する弘世に対して幕府はこれを押さえ込もうとした。それが、大内氏の分裂を招き、義弘が幕府方となったのに対して、満弘は父弘世方となった。内戦は安芸国と長門国で始まり、安芸国では幕府方(今川了俊)と義弘方が優位に立って満弘方を圧倒したのに対して、長門国では下山城を弘世方が攻略した。まもなく長門国でも幕府と結ぶ義弘方の巻き返しが始まり、10月には下山城を奪回することに成功した。
 これに対して石見国では状況が異なっていた。南北朝の動乱の終わり方が中途半端で、所領をめぐる国人間の対立は残されたままであり(それぞれの国人が本領の回復をめざしていた)、福屋氏など不満を持つ国人が満弘を支持したのである。長門国から石見国に入ろうとした義弘方であったが、それが計画通りにいったかは不明で、満弘を支持する国人はかなりいたと思われる。そうした中、父弘世の死を契機に大内氏内部で対立の終結をめざす動きが強まり、永徳元年6月には両者が会談し、対立に一応の終止符が打たれた。
 幕府から義弘が補任されていた石見国守護は弟満弘に交代し、満弘は大内氏惣領である義弘の支配下に入った。安芸国や長門国の状況をみれば、義弘側がより譲歩したものとなっている。その背景が、石見国における満弘派の国人の多さであったと思われる。益田氏は義弘派ではあったが、周布氏や三隅氏のように国内の合戦で中心的役割は果たしていない。これに対して福屋氏や内田氏惣領、俣賀氏などが満弘派の中心であった。問題の石見国人間の所領をめぐる対立は未解決のまま、前半戦は終了した。
 これが後半戦が起こった原因となった。安芸国では後半戦の影響がほとんどみられない。長門国でも満弘による味方となった石見国人への所領の安堵・預け置きがみられるが、内戦の中心は石見国であり、国人間の所領をめぐる対立であった。至徳2年に義弘方である周布氏に数多くの所領が与えられたり預けられたりしているが、裏を返せば、周布氏と所領で対立する国人が複数存在し、彼らが満弘を支持していたことになる。

2016年2月 7日 (日)

康暦内戦前半戦2

 5月10日には大内満弘が安芸国竹仁村広沢藤三郎跡を内藤蔵人允に、6月13日には長門国内日郷之内有安名并赤田代を小野掃部助弘資に与えているが、これも支持勢力を増やすためのものである。小野掃部助は長門国内の所領の本領安堵を求めたが、当知行人との関係で困難だとして、とりあえず欠所を与えることを幕府奉行人飯尾頼秀が年未詳6月13日書状で約束し、敵と戦っている最中なので、望実現のためさらなる軍忠を求めていた。また年未詳8月11日今川了俊書状では、大内方と交渉していることが述べられていた。
 次いで年未詳6月2日今川了俊書状(禰寝文書)では、安芸国も現在は平和であり、大内兄弟(義弘と満弘)が一つになって2日に対面することになったとの報告を受けたので、安芸国や中国の船手を大隅国禰寝氏へ援軍として遣わすことを約束している。『南北朝遺文』(九州編、中四国編とも)では「康暦二年ヵ」と注記するが、康暦2年に比定できる6月24日大内義弘書状の内容(満弘が福屋氏のもとへ行ったとの連絡を受け、周布氏を頼りにしていることを述べる)と矛盾しており、康暦3年以降のものである(禰寝文書の無年号文書の年次比定も再検討すべきものが多い)。今気づいたのだが、永徳元年(康暦3年)6月頃に義弘と満弘が和解したとの松岡久人氏の根拠がこの文書なのだろう(それなのに康暦2年のところに収められている)。ということで、永徳元年6月2日のものである。『南北朝遺文』(九州編)では第7巻に年次を修正して再度収められている。
 そしてこちらは年次比定が修正されていないが、年未詳7月25日名和慈冬書状には「大内の大夫合戦ニかち候て、三郎ハ石見のふくやと申候物おたのミて候也」とある。永徳元年に比定されているが、これこそ康暦2年のものである。
 その後、同年に比定できる10月8日大内義弘書状により、5月10日の長門国栄山合戦で満弘方の支配するところとなった下山城を義弘方が落城させたことと、義弘方がまもなく長門国阿武郡を経て石見国に入る予定であることが周布氏に伝えられた。幕府の使者として下向した椙原伯耆守からは、満弘に同心している石見国人と芸州者共の名を注進するようにとの命令も出、義弘方の優位が確立しつつあったことがわかる。とはいえ、同年10月13日と26日には満弘が内田肥前入道と内田肥前三郎に長門国阿武郡内の所領を料所として与えており、石見国にも福屋氏以外の満弘方の国人がおり、義弘方による阿武郡の制圧が実現したかは不明である。
 こうした中、義弘と満弘の父である大内弘世が同年11月(10月とも)15日に死亡した。とりわけ満弘方の打撃が大きかったろうが、それがゆえに、父の葬儀の実施による停戦・冷却期間を経て両者の間の和解の動きがみられるようになったのではないか。そして康暦3年(永徳元年)6月2日の両者の会談により、妥協が成立したと思われる。
 以上、康暦の内乱の前半戦の経過について史料に基づきまとめた。

康暦内戦前半戦1

 康暦の内戦についてはなお不明な点が多いが、とりあえず事実の確認を行う。大内義弘と弟満弘の対立の舞台として確認できるのは安芸国・長門国・周防国・石見国である。
 対立のきっかけとなったのは、今川了俊のもとで九州平定にあたってきた義弘が康暦元年に石見国守護に補任されたことであろう。中央政界では4月に細川頼之が管領を解任されて失脚し、西日本を中心に大規模な守護の更迭が行われた。その一環として石見国守護の荒川詮頼も更迭されたが、後任は荒川氏の前に石見国守護であった大内弘世ではなく、その子義弘であった。これに弘世が反発して、義弘と弘世・満弘の対立となった。
 7月26日には義弘が内田肥前入道(内田氏惣領)と内田新三郎(庶子俣賀氏)の当知行を安堵しており、この時点までに石見国守護に補任されていた。次いで、8月23日には大内氏奉行人が市木因幡入道知行分を吉川経見に打ち渡すよう命じ、8月29日に曽原弘光と問田直義が打ち渡している。市木因幡守は福屋氏の一族であり、この処置に対して福屋氏は不満を持ち、これが満弘方となる原因となった。
 康暦2年2月24日幕府御教書によると、安芸国衙領では大内弘世と諸郷保地頭による押領が続いており、東寺雑掌の重ねての訴えを受けた幕府が、押領をすぐに停止させるよう、守護今川了俊に命じている。これと関連するのが、同年に比定できる3月3日今川了俊書状(禰寝文書)で、関口を芸州に遣わすことを伝えている。同日付の斎藤明真書状では関口殿を「芸州大将ニ被遣」とあるので、単なる押領の停止ではなく、反対派の鎮圧=大内義弘への援軍であろう。次いで4月28日には大内義弘が安芸国山県郡内平田庄残地頭分と石見国井原左近将監跡地頭職を吉川駿河守(経見の子)に預けているが、これも対立する陣営の国人の所領を没収して味方の国人に預けているのだろう。
 萩閥周布にも年未詳3月16日大内義弘書状があり、そこでは「美作守方可遣一勢」として一両日中に出津することと、緊急事態であることが述べられている。康暦2年にしか比定できないはずなのに、なぜか康暦3年に比定されてきた。康暦2年3月段階で大内弘世・満弘派とそれを鎮圧する今川了俊・大内義弘派の戦闘は現実のものとなっていた。それと平行する形で4月2日には益田越中入道祥兼領の守護使不入について、守護代美作権守某が祥兼の申請を大内氏奉行人陶山佐渡守に伝え、5月14日には大内義弘が臨時課役免除とともに祥兼に安堵している。当然、4月2日以前に益田祥兼から義弘方守護代に申請があっており、この時点でそのような行為をする祥兼が大内弘世・満弘派である可能性は皆無なのである。

2016年2月 5日 (金)

大田庄について4

 大田庄についてはすでに述べてきたが、吉見氏が与えられた大田庄が五辻宮領か宇佐輔景が一分地頭であった大田庄なのかは不明である。幕府が大田庄の実質的支配者ならば、大田庄が没収され他の人物に与えられることはあるが、一方では深草宮と五辻宮家の争いもあり、実際に吉見氏が支配した可能性は低い。
 石見国吉賀郡については、応永29年の段階で将軍家御台所領となり、能登吉見氏(家貞)が代官となっていたが、石見吉見氏による押領が続いていたことが確認できる。吉見氏が長門探題攻撃の中心となり、建武政権下で能登吉見氏の頼隆が石見国守となったことは確認でき、将軍御台所領となる以前に吉賀郡地頭職を与えられていた可能性は否定できない。
 筑後国儲問庄については確認できない。肥後国八代庄は後醍醐の下での軍忠により伯耆国名和長年の嫡子義高が与えられ、その子孫が移住した場所である。室町幕府がこれを没収し、吉見氏など幕府方の武士に与える可能性は大きいが、吉見氏との関係は確認できない。最後の播磨国鵤庄は法隆寺領であるが、その鎌倉後期の地頭については不明である。嘉暦3年の五辻宮領に鵤庄東南条がみえたように、その地頭職が幕府の支配するところとなった可能性は高いが、吉見氏との関係は不明である。
 以上、最後に暦応3年11月24日足利尊氏書下について検討したが、これが偽文書であることは確実である。個々の所領(地頭職)と吉見氏との関係がありそうなのは、因幡国と石見国の所領のみである。結局のところ大田庄についてはその場所を含め何一つ確実なことが確認できないことを確認した。

大田庄について3

 山城国物集女山階西庄については、京都府向日向市に天竜寺領物集女庄があり、物集女氏やその城の存在は確認できるが、吉見氏との関係や、山階西庄については確認できない。尊氏が建立した天竜寺領となっている点からすると、旧北条氏領等(地頭職)が没収され、室町幕府の支配となり、天竜寺領となったとの推定は可能である。
 丹波国片野庄と丹後国志楽庄については、後者の存在は確認できるが、前者の存在と両社と吉見氏との関係は確認できない。因幡国岩井庄・味野・広瀬両郷については、『康正二年造内裏段銭并國役引付』に「 一、 弐貫参百卅五文  吉見弥二郎殿  因幡高野郷・小田保段銭」とあり、因幡国内に吉見氏が所領を持っていた以上の関係は確認できない。伯耆国東郷庄は下地中分図で知られる松尾社領であるが、その地頭については不明で、長江庄を含めて吉見氏との関係は確認できない。
 出雲国安井郷は阿井郷のこととされる。文永8年の阿井郷地頭は「法華堂別当僧都」で、吉見氏出身で、尊範である。鎌倉幕府が阿井郷地頭職を支配し、この時点では右大将家法華堂別当僧都であった尊範に与えられていたものである。ただし、吉見氏が世襲するものではなく、また幕府滅亡により没収されたことは確実である。来海庄については文永8年の地頭は「別府左衛門妻」であった。別府氏は来海庄内に氏寺として弘長寺を建立しているが、その縁起からは北条重時との関係がうかがわれる。幕府滅亡の影響は不明だが、早くに別府氏の支配を離れ、別府氏の一族である成田氏(母方との関係で安保氏が相続)の関係者である痰氏の進出や、南北朝期に幕府御料所や将軍御台所領となったことが確認できる。別府氏が北条氏との関係で没落し、そこに安保成田氏が由緒を主張して進出し、最終的には全体が室町幕府領となったのだろう。吉見氏との関係は確認できないが、石見国吉賀郡では能登吉見氏が将軍家御台所領の代官となったことがあった。

大田庄について2

 問題はこの一連の経過と、宇佐輔景が三刀屋大田庄一分地頭であったことの関係である。五辻宮領大田庄と三刀屋大田庄が別の庄園である可能性も捨てきれない。五辻宮家領である大田庄地頭職と宇佐輔景領三刀屋大田庄一分地頭は両立しないはずである。また、五辻宮領の相続に幕府が干渉している点からすると、大田庄地頭職は鎌倉幕府の支配するところで、そのもとで守良親王に与えられていたのではないか。いくら五辻宮が幕府将軍久明の子であっても、干渉できないはずである。文永8年の時点では、秋鹿郡伊野郷の地頭が「持明院殿」で、後深草院に比定できる。また、正安年間の室町院領目録には「武家所進地頭職」として、出雲国林木庄・古曽石庄・母里庄・志々塚上方・下方がみえている。これと同様のものではなかったか。
 そして大田庄については最後の史料となるのが、暦応3年11月の足利尊氏書下である。宛名となっている吉見右兵衛権佐については、これまでのところ人物比定はなされていない。山城国物集女山階西庄以下西日本の庄園・公領16箇所が先例を守り元の如く領知せよと記されており、新たに与えられたのではなく本領安堵である。ここに記された内容がすべて正しい、またはすべて間違っていると思っている人はいないと思われるが、個々についての検証はなされていない。その一方で南北朝遺文にはとくに注意を喚起する文言もないままに掲載されている。
 最初の問題として、暦応3年の時点でこのような文書形式で尊氏が武士に所領を与えている事例が他にないことがある。他の事例は尊氏の袖判下文で与えられている。また列記された所領が本家・領家職の立場なのか、地頭職なのかも不明であるが、すべて地頭職の可能性が大きい。

大田庄について1

 大田庄については何点かの史料は残されているが、その関係を系統的にたどることができない。建武3年2月には三刀屋大田庄藤巻村地頭左兵衛尉宇佐輔景が、後醍醐方として軍忠状を出している。伯耆国守護名和氏の一族と思われる伯耆四郎左衛門尉などとともに行動し、名和長年の承判を得ている。出雲国守護塩冶高貞が足利尊氏方となったため、名和長年が出雲国守護になったのだろう。
 これにより、三刀屋郷に隣接して大田庄があったことがわかり、現在の雲南市三刀屋町大田を中心とする地域に所在したとの比定には問題がない。一方、この大田庄が文永8年にみえる「大田別宮」と同一であるとの説については検討の余地がある。多祢郷の一角に勧請された日蔵別宮と余りに近いという点と、塩冶郷内上郷に大田別宮が所在したことを示す史料があることによる。
 ただし、「宇佐輔景」については謎が多い。「輔」は三刀屋郷地頭諏訪部氏の通字(扶・助)に通ずることがあり、三刀屋氏との婚姻関係にあった可能性もある。そして「宇佐」と言えば八幡宮の元である豊前国宇佐八幡宮との関係がうかがわれるのである。輔景が「左兵衛尉」に任官していることも注目され、建武政権下で任官した可能性もあるが、国御家人か東国御家人など外から入った人物かの断定は困難である。
  大田庄に関する初見史料は元徳元年9月の北条守時書状である。大田庄を含む3庄が嘉暦3年9月の譲状に任せて深草宮(熈明親王)に渡されている。所領は亀山天皇の子守良親王(五辻宮)領であったが、鎌倉幕府の介入により幕府将軍久明親王の子深草宮に譲らさせられた。譲状とともに作成された嘉暦3年五辻宮家所領注文では播磨国鵤庄東南条が含まれていたが、これが元徳2年の時点では出雲国大田庄に替えられたのである。
  次いで元弘3年8月には備前国草部郷・出雲国大田庄・長門国牛牧庄等地頭職が五辻宮(守良親王の実子である五辻宮=宗覚)に返されている。この史料から出雲国大田庄とは大田庄地頭職分であったことがわかる。ところが、その後、建武政権が崩壊すると、建武3年8月には足利尊氏によって五辻宮領が深草宮に安堵されている。

2016年2月 4日 (木)

氷室庄について

 氷室庄は現在の出雲市斐川町神氷に所在した庄園であるが、その庄園としての実態は不明である。元弘3年に、国富庄とともに出雲大社に寄進されているが、国富庄は本来鰐淵寺領であり、その地頭職が没収されて寄進されたもので、氷室庄についても同様であったと思われる。嘉元3年12月には某に対して元の如く氷室庄を沙汰せよとの関東御教書が出されている。
 この御教書は本来あるべき宛所が失われているが、天台宗門跡の一つ梶井宮の後身である三千院の文書として残されている点と正和2年2月に刑部卿房海の申請に任せて、園城寺勧学院に寄進する関東下知状が出されている点、さらには文永8年の氷室荘地頭が園城寺別当で幕府御持僧となった信濃僧正道禅跡であることを勘案すると、氷室庄地頭職は幕府の支配する所となり、その地頭職は道禅とその跡(後継者)、さらには房海を経て、園城寺勧学院に寄進されたものと考えられる。
 それが幕府の滅亡により没収され、後醍醐により出雲大社に寄進されたのであろう。ただし、その後、大社領として続いた形跡はなく、建武政権の崩壊により無効となったのであろう。それが天文24年2月に、氷室庄100貫が尼子晴久により揖屋神社に寄進されている。この時点で出雲大社、日御崎神社にも寄進されているが、その所領は前年11月に討滅された新宮党領であったと思われる。これも地頭職が尼子氏の支配するところとなったものと思われる。尼子氏は守護京極氏領を継承するとともに、室町幕府領を自らの支配下に編入しており、氷室庄地頭職は室町幕府が支配し、その関係する禅宗の塔頭などに寄進されていた可能性が高い。以上、氷室庄についてみたが、その地頭職が鎌倉期のある時点で幕府領となり、それが室町幕府にも継承され、戦国期には戦国大名尼子氏領となったと思われる。当然、その滅亡後は毛利氏の支配するところとなり、その家臣である天野氏と宍戸氏に重ねて与えられ、トラブルが発生したが、宍戸氏領となった。天正年間末頃の日御崎社領覚に氷室庄300石がみえる背景については、領家分・地頭分のいずれかを含めて不明である。

« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ