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2016年1月

2016年1月30日 (土)

三処郷一分地頭

 大中臣氏略系図は承久の乱の勲功で大原郡久野郷地頭職を獲得した中郡六郎太郎経元とその子孫について記しているが、経元の子孫には三処郷と万田庄一分地頭となったものもあったと記す。万田庄についてはこれに直接関係する記述がなく不明である。三処郷については、経元の孫道意が土屋五郎忠泰女子と結婚して、弥松丸と女子をもうけたが、その土屋五郎忠泰女子に「清(三)所郷地頭」と記されている。道意は仁多四郎重房女子との間にも子をもうけ、建治4年(1278)に53才で死亡しているので、嘉禄2年(1226)の生まれとなる。道意の父重経は文永5年(1268)に64才で死亡しており、元久3年(1205)の生まれで、22才の時に道意が誕生したことになる。
 常陸国御家人である重経は同国御家人国井氏女子と結婚していた。それが、中郡氏が出雲国に入部した後に生まれた道意は、同じ西遷御家人である秋鹿郷地頭土屋忠泰女子とともに、国御家人勝部宿祢一族の仁多四郎重房女子を妻に迎えている。仁多氏は三処郷地頭三処長綱と同族であり、三処郷と関係が無いわけではないが、系図では土屋忠泰女子が三処郷一分地頭と記されている。
  そこで可能性をさぐると、三処長綱後家尼が土屋氏の出身ではなかったかとなる。道意の年齢からすると、後家尼の方が一世代前となるので、土屋忠泰の姉妹が後家尼ではなかったか。忠泰女子は後家尼の姪であったため、その養女になるなりして三処郷一分地頭を譲られ、近隣の久野郷地頭道意と結婚したのではないか。後家尼と忠泰の年齢は重経よりもさらに一世代上で、文永8年の秋鹿郷地頭としてみえる「土屋五郎」は忠泰ではなく、その後継者であろう。

2016年1月24日 (日)

三隅兼連について

 戦前は南朝の中心として顕彰された三隅兼連について、史料からわかる点をまとめてみる。法名は信性で、高津長幸の父高津二郎兵衛入道道性との関係(法名の類似性から同時に出家した)を指摘するものがあったが、生没年代を記した系図は未見である。ただし、足利直冬とともに上洛した正平10年の京都の合戦で死亡したとされる。
 父信盛は所領の配分状が作成された延慶2年(1309)10月10日以前に死亡したことがわかる。この時点で兼連への所領の譲与がなされていないことからすると、兼連は当時30才未満の可能性が大きい。一方、正平9年(1354)7月22日には兼連が曾孫女千福に小石見郷内の所領を譲っている。周布氏と三隅氏との間で紛争となっていた4箇所を、三隅氏領小石見郷内であるとした上で、周布因幡守兼氏(1320年代前半の生まれ)の妻となっている曽孫女千福に譲るという形で調整を図っている。両者とも反幕府方の中心であった。曽孫女が結婚していることからすると、この時点で兼連は60才以上であった可能性が高い。両者をあわせて考えると、兼連は1280年頃の生まれとなる。
 『太平記』によると兼連は船上山の後醍醐のもとへ参り、その後については不明だが、自らの姉妹を母とする周布兼宗や庶子永安兼員と同様に上洛した可能性が高い。建武政権下では周布郷と小石見郷の境界が問題となっている。小石見郷は弘安年間までには益田氏惣領が没収され、北条氏など東国御家人領となったが、建武2年2月12日には後醍醐天皇綸旨により益田氏一族に本領として返された。実質的にはそれ以前から三隅氏の支配下に入るとともに、周布郷との境界問題が発生していた。
 周布郷は吉高名、小石見郷は吉光名が領域的所領に再編成されたものであるが、本来、両名は土地が入り組んでいたのであろう。それが東国御家人領になったことで、小石見郷側の権利が強く出されて境界問題が発生し、三隅氏領となった段階でも継続していたのであろう。問題となる4箇所は基本的には周布郷内と考えられていた。そして周布兼宗は延元2年(1337)には高津道性の後任として南朝の石見国守護となったとされる(周布氏系図)。周布兼氏が嘉慶2年(1388)に死亡したのに対して、妻千福は応永7年(1400)まで生存しているように、両者の間には一定の年齢差があった。
 兼連の嫡子兼知は父に先立ち正平7年の上洛時に京都で戦死したとされ、兼連の孫直連がその跡を継承した。直連の名は足利直冬との関係を物語るが、正平10年以降、直冬の勢力は次第に衰え、貞治元年9月には大内弘世が幕府方に帰順した。これ以降、石見国人も相次いで幕府方となった。貞治3年には益田兼見が大内弘世とともに三隅城を攻撃しており、この後まもなく三隅氏も幕府方となったと思われる。三隅直連は益田兼見女子を妻としており、益田氏が間に入ったのだろう。貞治5年には三隅氏から益田氏へ代々の御下文案文が渡されており、これが後の紛失状案文の作成に活用されたのだろう。

2016年1月22日 (金)

乙吉氏惣領家文書4

 前に乙吉惣領家文書として以下の6点を記した。
 ①貞応2年9月26日益田庄預所下文(毛利)、
 ②寛喜3年11月12日関東御教書(毛利)
 ③(建長7年1255)3月5日北条時頼書状(益田)
 ④正嘉2年(1258)3月18日関東御教書(毛利)
 ⑤永仁7年4月24日六波羅下知状(写が譜録にあり)
 ⑥(年未詳建武年間)7月26日定行書状(益田)
  *新出周布文書に建武年間頃の定行書状あり。
これに加えて、本来一緒に所持された文書が、⑦貞和6年12月日石見国乙吉・土田両村地頭長益代兼縄申状(檜垣文庫資料乙吉文書)である。この文書は益田市の調査で『新修福岡市史』に収録されていることが確認されたものである。これにより、乙吉氏惣領が長益からその女子に継承されていたことが分かる。これと一緒に残された史料が暦応2年11月日乙吉大弐房道祐代六郎三郎宗弘軍忠状であるが、原屋家文書を残した家とは別の庶子家であろうが、その後、文書を惣領家が入手たものであろう。原屋家文書には貞和7年2月日乙吉村一分地頭六郎次郎入道道教申状が残されており、惣領と庶子がともに益田氏惣領と時を同じくして足利直冬方となったことが分かる。ただし、文和2年10月5日乙吉・土田村内検目録からすると、益田氏惣領家と乙吉氏は間もなく幕府方に復帰した可能性が強く、その事が益田氏惣領家が交代し、同族の益田兼見が新たな惣領となることになる。
 庶子家には貞治6年正月10日おとつる女譲状が残されている(原屋家文書)が、翌貞治7年6月24日伊賀守・沙弥某奉書では、三和賀世丸からの乙吉・土田村田畠屋敷等の押妨に関する訴に対し、守護関係者が乙吉十郎女子に事情の説明が命じられている。一度目の命令には応じて居らず、再度の命令であった。この文書は、三和氏関係者が残した可能性が大きいが、乙吉氏惣領家が支配してきた乙吉・土田村の田畠屋敷の一分が三和氏の支配するところとなり、それをめぐって惣領家と三和氏の間でトラブルが発生している。
 以上の文書に建武3年7月に益田氏惣領家の関係者とともに幕府方として益田城に楯籠もっていた「乙吉十郎」の存在を勘案すると、惣領家は13世紀半ばの「乙吉小太郎兼家」から、南北朝初期には「乙吉十郎長益」に継承され、その跡は十郎女子が惣領となったことが分かる。ただし、その過程で所領の一部が他氏である三和氏の支配するところとなった。三和氏については、内田氏惣領致世代として黒谷城で行った軍忠を文和二年四月二十二日に幕府方吉見範直から賞されている三和彦次郎がおり内田氏の関係者であった。次いで応安七年八月十日氷上山妙見上宮上棟神馬寄進注文(興隆寺文書)にも益田大炊助・豊田三郎左衛門尉と並んで三和十兵衛尉がみえ、大内氏との関係を強めている。
  その後、永徳3年2月15日足利義満御判御教書により、乙吉・土田両村が益田兼見に安堵されている。貞治5年11月18日守護代掃部助高弘挙状には兼見領としてみえておらず、その後、乙吉氏惣領家が没落したことになる。
 乙吉氏は非益田氏系御神本氏であり、13世紀半ばの兼家は「兼」をその名に付けていたが、その後の人物は「兼」を付けていない。

2016年1月16日 (土)

仮名からみた御神本氏一族2

 これに対して益田氏は兼時の嫡子太郎兼長が仮名を継承したが、後継者である男子が誕生する前に死亡し、益田氏惣領は兼長の弟次郎兼久に交代した。ところが兼久の嫡子兼胤が所領を没収され、益田庄内山道郷に逼塞することになった。そのために兼長後家阿忍が配分された伊甘郷を兼胤と阿忍女子の間に生まれた兼弘に譲ることとし、兼弘は父兼胤の仮名次郎ではなく、母の父兼長の後継者として孫太郎と呼ばれた。ところが、阿忍と兼弘の間にトラブルが発生したため、阿忍は兼弘への譲与を悔い返し、別の孫である鳥居女房つるやさに譲り直した。とは言え、益田氏一族全体の問題もあって、兼弘は拒否しても、その子達は阿忍―鳥居女房領の相続対象者から除外されるわけではない。兼弘の嫡子兼世の仮名は次郎であるが、その兄と思われる兼方は太郎であった。この兼方が鳥居女房の女子などと婚姻関係を結ぶことは十分あり得たと思われる。
 兼方の子兼見は孫次郎であり、兼方の庶子であったと思われる.兼方の嫡子は太郎某であったろう。鈴木氏本に、兼見がまずは伊甘郷地頭となり、その後に益田を領したと記す。益田氏惣領となった兼見は三人の子に次郎兼世、孫次郎兼弘、弥次郎兼政と名付けた。前代の惣領が次郎兼世であり、自らは孫次郎であったことに対応し、伊甘郷は孫次郎兼弘に譲った。
 次郎兼信を祖とする三隅氏は益田氏とは独立した御家人として扱われたため、その嫡子を太郎兼村、晩年に生まれた子を次郎兼祐とした。ところが、兼村の後継者は孫次郎信盛と名乗った。それ以前に兼盛や信時と名乗った時期があったかもしれないが、最終的には兼を含まない信盛であった。ただしこの信盛は延慶2年(1309)以前に死亡し、その遺領が配分されている。嫡子は二郎兼連であるが、延慶2年段階で未だ譲状を得ていなかったことになる。三隅氏畧系には兄として太郎実時がみえるが、早世したのだろうか。信盛女子は周布氏惣領兼信(当初は庶子兼貞であったが兄死亡により継承)と結婚し、嫡子兼宗を産んでいる。
 兼連の嫡子は太郎兼知であったが早世し、孫直連が継承した。直連の名は足利直冬との関係を物語るが、仮名は不明である。直連は益田兼見女子を妻としたが、後継する男子が生まれなかったためか、一族の兼信と祖父三隅兼連女子との間に生まれた信世を直連女子の養子にして後継させた。その間に生まれた嫡子が氏世で、父と同様大内弘世との関係をうかがわせる。それ以後は「兼」(氏世の子信兼のみ)よりも「信」の一字を名前に付け、仮名も五郎が一般的になる。益田氏への対抗心によるのであろう。
 三郎兼広を祖とする福屋氏は非益田氏系御神本氏を継承したため、その嫡子兼仲以降、15世紀初めの義宗(最初は兼光)まで、太郎を仮名として「兼」の字を名前の上の字に使い続けた。ところが、義宗の子氏兼以降は「太郎」以外の仮名が目立ち、「兼」を付ける場合も名前の下の字に付けることが一般的となる。

仮名からみた御神本氏一族1

 元服にあたり烏帽子親から付けられる仮名。必ずしも生まれた順番を示すのもではなく、ある一族の嫡子には共通の仮名が付けられることが多い。ただし、嫡子が早世したり、惣領家が交代することもあり、その場合には仮名が変わることもある。この点について御神本氏を事例にみていく。
 益田氏の祖とされる国兼については、系図には仮名の記載が無かったが、鈴木氏本諸氏家牒所収益田氏系図にはで国兼の兄弟に関する記載が見られた。兄として益田太郎国季、弟として国頼と国宗がみえるが、国兼・国頼・国宗には仮名は記されていない。4人とも12世紀半ばに石見守を2期8年務めた源国保の名にちなんでいるが、国季と国兼についてはさらに、国保の後任である源季兼の一字をも付けている。ただし国兼の兄とされる国季が益田を拠点にしていたかどうかは検討の余地がある。
 国兼以降の季兼(兼真)・兼栄・兼高については仮名は不明である。兼高の子については嫡子兼季が太郎、庶子である三隅兼信が次郎、福屋兼広が三郎である。兼季の嫡子兼時と三隅兼信・福屋兼広はほぼ同世代と思われ、兼季と二人の弟の間にはかなりの年齢差があり、兼高晩年に誕生した異母弟であったと思われる。そのため、当初は兼季にほとんどの所領が譲られたが、兼季の急死を受けて所領の配分が行われ、二人の弟にも複数箇所の所領が与えられた。
 兼季の嫡子兼時は太郎であり、庶子周布兼定は次郎であった。これに対して、三男兼直が三郎、四男兼忠が五郎、五男の兼明については不明である。上の三人が兼季の妻聖阿弥陀仏の子で下の二人は異母弟であった。兼定は早くに母の実家の所領である福光郷に入部していたが、父兼季の死に伴う配分で周布郷等3ヶ所を与えられ、自身は周布郷に移り、福光郷は兼定の後継者となった弟兼正(兼明)がその女子に譲って、福屋兼仲の子兼継を養子に迎えた。三郎兼直は叔父三隅兼信の養子となり末元別符を譲られた。
 これに対して、五郎兼忠は匹見別符と丸毛別符を譲られ、末子兼明は後継者のいない兄兼定の養子となった。父である兼季の意向が働いたと思われ、晩年の子である兼忠と兼明は異母兄である兼直よりも優遇されている。これに対して、上三人の母である聖阿弥陀仏は、兼定領が異母弟兼明(弥次郎兼正と改名)と兼定後家の連子幸寿に譲られることに不満を持ち、兼時の子松房を兼定の養子にして周布郷と安富郷を譲らせようとしたが、裁判で敗訴した。周布氏は祖である兼定以来の次郎を代々の惣領が継承していく。

益田兼胤について2

 益田氏系図では兼胤の子として、兼弘・兼和・兼利・兼種・兼国・女子を記すが、兼和と女子については記載のない系図もある。兼和については全く情報を欠いている。兼利は譜録作成時にまとめられた一族の系図では兼弼の二男兼利(大草)、三男兼種(遠田)、四男兼国(波田)を記し、兼国女子に「宇地地頭」「丸毛九郎兼直妻」と記す。兼国の妻が宇地村地頭職で、兼国女子(是阿と同一人物であろう)がそれを継承し、丸毛兼直と結婚したのだろう。
 兼頼は益田兼長の妻の実家小笠原家から養子に招いた「次郎法師丸」が、兼長の死により新たに惣領となった弟兼久の養子に入ったのだろう。しかし、益田氏惣領家の所領没収により、最終的には益田氏庶子丸毛氏の養子に入っている。
 益田氏系図には登場しないが、兼久の妻幸寿の所領安富郷を譲られた人物がいるはずである。安富郷は周布氏領を幸寿が譲られたもので、所領の没収を免れた。周布氏系図はその人物を彦三郎兼幸とするが、南北朝動乱期に活動が確認される兼幸は、父から丸毛別符一分地頭職を、祖母連阿から安富郷を譲られたとする。丸毛氏には小笠原氏出身の兼頼が養子に入ったことで、本来の一族の相続した所領が細分化したと思われる。兼貞は益田庄内波田を譲られた兼弘の子兼国の娘で益田庄内宇地を譲られた女性と結婚している。
 問題は丸毛兼幸が安富郷を譲られたとする連阿であるが、周布氏領安富郷を継承した幸寿は正和2年(1313)に死亡している。一方、丸毛兼幸は元弘3年(1333)9月14日に石見国目代から安富郷と丸毛別符内堀越村・渋谷名の当知行を安堵されたのが初見史料で、正平18年(1363)2月18日に安富郷を子九郎入道智弘に譲ったのが終見史料であるが、正平10年(1355)には兼幸が孫である助九郎直世に安富郷を譲っている。直世は智弘の子であろうが、何らかの事情が発生し、智弘に譲り直したのであろう。正平10年段階で成長した孫を持つ兼幸は50才以上の年齢であったと思われ、14世紀初めには出生していたはずである。そうすると幸寿が死亡する以前に兼幸は誕生していたことになる。また兼幸の「幸」は「幸寿」にちなむものであり、兼幸の祖母連阿とは幸寿と同一人物であろう。祖母ならば兼幸の父兼直か母である波田兼国女子の母となるが、事実と矛盾するので、兼幸が幸寿の子の養子となり、その所領を譲られたのではないか。

益田兼胤について1

 鎌倉期の益田氏当主でもっとも謎が多いのが兼胤である。兼胤は兄兼長の早世により益田氏惣領となった兼久の嫡子であった。ところがこの代に益田氏惣領家はその所領の多くを没収された。その時期が永仁7年(1299)以前であることは明らかであるが、もう少し絞り込んでみる。
 益田兼見は明徳2年(1391)に死亡しているが、生年は系図には記されていない。史料上の初見は暦応3年(1340)8月27日益田孫次郎兼見軍忠状である。これに対して三隅氏庶子である吉川経明は建武3年(1336)正月から益田弥二郎とともに合戦に参加している。弥二郎は益田氏惣領兼世の嫡子兼直であろう。その兄二郎太郎兼行や舎弟三郎(又三郎兼氏か)も同年7月の益田城での戦いにみえている。兼見の父は系図では兼世の兄とされる太郎兼方で、兼直・兼行・兼氏はその従兄弟となるが、兼見の方がやや年少であったため、合戦への登場が遅れたのだろう。後述の点を勘案すると兼見の生年は1315年頃で、75才前後で死亡したのであろう。
 そうするとその父兼方は1295年前後には生まれていなければならない。一方、兼方・兼世の父兼弘の生年はその父益田兼胤が女捕により所領を没収された年代に影響してくる。文永10年(1273)に益田氏惣領兼長の遺領が配分されており、事件はこれ以降のこととなるが、その子兼方の生年からすると兼弘は1270年代半ばには生まれていなければならず、兼胤の父兼久が益田氏惣領となってまもなく、事件が起きたことになる。兼胤により女捕された兼長女子について竜雲寺蔵三隅氏系図は兼胤の妻となったと記す。
 毛利氏家老となった益田氏に残された系図は兼胤を兼弼と記す。一次史料を欠くためその当否の判断は難しいが、三隅氏系図が兼胤の兄弟を記さないのに対して、益田氏に残された系図では兼村・兼宗・兼頼を記す。
 兼村は三隅氏畧系では「兼弼同母弟」で三隅氏一族の末元氏に養子に入ったとする。末元氏は末元別符を譲られた三隅兼信女子と益田兼季の子兼直が結婚して成立した。この兼直の孫娘に益田兼村が養子に入ったのである。ここでいう「兼弼」は益田氏惣領兼胤のことであろう。益田氏領の没収をうけて末元氏の養子になったと思われる。

2016年1月14日 (木)

福光氏について

 永仁3年12月、大家庄内福光郷では雑掌が地頭兼継を検注以下の事で訴えた裁判が進行中であった。雑掌からの訴えに地頭兼継は自らの権利=地頭職の証明書として書類を提出したが、その中には惣領が保持して兼継は写のみ所持するものがあり、惣領に対して原本の提出が求められた。
 惣領とは周布弥次郎兼信であった。周布兼正の子で、当初は周布郷内長浜と小川を譲られた庶子であったが、嫡子時兼が後継者なく早世したため、周布郷惣領の地位を継承した。当初は「三郎兼貞」であったが、継承により「弥次郎」と改めた。名前も兼信と改めているが、これが周布氏継承によるか、三隅氏惣領信盛女子との結婚によるかは不明である。
 弘安10年に兼正領が嫡子時兼に譲られた際に、他の所領も庶子に譲られた。兼正領は周布郷、福光郷、鳥居郷であった。周布郷は嫡子以外に兼貞(長浜・小川)、兼次(内)、長兼(長見)等に譲られた。鳥居郷は兼行(鳥居)と兼俊(鳥越)に、福光郷は女子に譲られ、福屋兼仲の子兼継を養子に迎えた。その他の女子領もあったと思われるが具体的には不明である。
 福光兼継が提出した文書には、①周布兼定が福光郷を譲られた文書、②それを幕府が安堵した文書(2通)、③養父兼正の福光郷継承が認められた文書、④兼正が女子に福光郷を譲った文書などがあったと思われる。このうち、①④と②の1通は兼継が所持していたが、②の1通と③は惣領が原本を所持していた。②の一通とは貞応2年6月20日関東下知状であり、福光村を兼定の本知行に任せて安堵している。福光村単独であったので、兼継が原本を所持していた。もう一通は、兄兼季領の配分を受けた後に、周布郷、鳥居郷、長野庄内安富名、大家庄内福光村の4ヶ所を安堵した関東下知状であったので、原本は惣領が所持し、兼継は写を所持していた。
 福光について、周布氏系図は兼定が祖父兼高から譲られたとするが、兼栄・兼高領にはみえず事実ではなかろう。母の実家である非益田氏系御神本氏領であったと思われる。その意味で兼定は福屋兼広と同様の立場にあったが、兄兼季領を配分されると、周布郷に拠点を移すとともに、苗字も周布氏を名乗った。広義の益田氏一族であった福屋兼広と狭義の益田氏一族であった兼定の違いであろうか。ともあれ、福光村は女子に譲られ、非益田氏系御神本氏と深い関わりを持つ福屋兼仲の子兼継を養子に迎えたのである。そして兼継は自らの女子に福屋兼親の子兼秀を養子に迎えている。ただし、南北朝の動乱では福屋氏と周布氏惣領が南朝方となったのに対して、福光兼継は幕府方となった。

2016年1月11日 (月)

非益田氏系御神本氏領

 御神本氏は「兼」の一字をその名に付ける。それは12世紀半ばに知行国主藤原忠通のもとで石見守であった源季兼との関係によるのであろうが、益田氏との間に惣領・庶子関係のない人々がおり、その存在は無視できないものと考えるので、ここで整理しておく。益田氏についても広義の益田氏=兼栄・兼高父子以降と狭義の益田氏=兼季以降がある。三隅氏は兼栄・兼高父子につながる広義の益田氏一族であるが、周布氏は兼季につながる狭義の益田氏一族である。これに対して福屋氏は初代兼広は三隅兼信と同様、益田兼高の子ではあるが、非益田氏系御神本氏の家に養子に入ってこれを継承したもの。
 福屋兼広が継承した家は、邑智郡桜井庄内日和郷や大家庄内大家西郷(大家庄は那賀郡と邇摩郡にまたがる)を支配していた。周布兼定が当初譲られた大家庄内福光村もその一族の所領であった可能性が大きい。大家西郷惣領地頭職を継承した井尻氏や福光氏と福屋氏の間に婚姻関係が結ばれたのはそのためであった。これに対して、福光氏との関係を背景に周布氏も井尻への進出を図った。
 治承・寿永の乱で源氏方となった兼栄・兼高父子が支配を認められた所領の中にも、本来は非益田氏系御神本氏の所領があったと思われる。周布兼定領であった安濃郡鳥居郷に対して、その父兼季の妻聖阿弥陀仏と嫡子兼時は関心を持たず、周布郷と安富郷を弟松房を養子に入れて取り戻そうとした。いずれにせよ兼栄・兼高父子が獲得した所領のすべてを本来の御神本氏惣領であった兼真(季兼)が支配していたとも考えられない。ただし、石見国東部の益田氏領のすべてが非益田氏系のものであったともいえず、大家庄内温泉津郷や邇摩郡宅野別府は兼真領であった可能性が強い。長寛2年正月に兼栄が下司に補任された高津郷(兼栄・兼高領でもみえたが兼季領にはみえず)など長野庄内の所領(飯田郷・得屋郷)も本来は競合する非御神本氏一族の所領であった可能性が大きい。
 益田庄内乙吉保を支配した乙吉氏も非益田氏系御神本氏である。乙吉保についても、乙吉のみならず土田村を含むものであった可能性がある。そして益田荘内井村についても、南北朝期には三隅氏の庶子が支配井村氏を称しているが、兼栄・兼高領にはみえず、非益田氏系御神本氏領であった可能性が高い。

福屋氏の惣領2の3

 系図では兼景の嫡子は兼香で「太郎」「播磨守」とするが、文書には直接関連するものがない。石見国で反幕府方であった大内氏が貞治2年に幕府方に転じた後の貞治5年9月3日益田兼見軍忠状によると、貞治3年9月から三隅城を攻撃し大内氏に従い、貞治5年7月には青龍寺城攻撃に続いて、福屋氏領の乙焼(音明)に陣取り有福城を落城させ、次いで福屋大石城を攻撃している。福屋郷を構成する大井原内の和田に大石谷がみえ、ここに福屋大石城が築かれたいたのであろう。福屋氏の個人名は登場しないが、時期的には播磨守兼香の時代であろう。初代兵衛尉兼広の子孫は他の益田氏一族と同様、鎌倉末期までは任官していなかったが、福屋氏は南朝方となることで任官したのであろう。
 大石城の攻撃と平行して幕府方は久佐金木城を攻撃している。久佐は鎌倉期には伴姓河上氏の所領であったが、河上氏は暦応~康永年間には南朝方として幕府の攻撃を受けて降伏し、観応の擾乱期には高師泰=幕府方となった。ところが石見国守護に補任された高師泰の石見国内の反幕府方攻撃は最後の三隅城攻撃で失敗し、幕府軍が石見国から追い落とされる中で河上城は反幕府方によって攻め落とされた。これが原因となり、河上氏領であった久佐郷・長屋・佐野の内、久佐・長屋は福屋氏の支配するところとなっており、それがために久佐金木城が攻撃されたのである。
 応永14年には小国村最中山社を、同18年には久佐八幡宮を前安芸守沙弥道堅が再建した記録が残されている。これが系図では兼香の嫡子で「太郎」「安芸守」とされる福屋義宗(兼光)であろう。応永6年11月1日三隅道満・益田道兼・周布道賢・福屋義宗起請文に参加し、同12年正月18日吉見頼弘・益田兼家・三隅氏世・周布兼宗・福屋氏兼起請文には義宗の嫡子氏兼(系図では「太郎四郎」「安芸守」)が参加している。この間には応永の乱で大内義弘が滅ぼされ、石見国人の中にも乱に参加したものがあったと思われるが、福屋氏による久佐郷支配は維持された。貞応2年石見国惣田数注文でも「久佐」の右肩に「ふくや知行」と記されているが、これは永享12年に石見国諸郡段銭注文を作成する際に照合して加筆されたもので、久佐郷は15世紀半ばの時点でも福屋氏領であった。
 一部、「福屋郷について」などですでに述べた点と重なるが、現段階で整理した。

福屋氏の惣領2の2

  これに対して大家西郷氏惣領家は同郷内井尻を支配した。福屋氏との関係が深く、元弘3年9月19日に石見国宣により大家西郷地頭職の当知行安堵を受けた井尻九郎太郎兼家の女子は福屋兼親の子兼有(兼忠)を養子に迎えている。また、兼親の子兼秀は福光兼継女子の養子となって福光家を相続している。
 福屋氏についても周布543並びに周布氏系図所収福屋家略系の発見により従来より遙かに多くの情報が得られるようになったが、福屋家畧系の記述にも問題がないわけではない。初代兼広が三郎であり兵衛尉に任官したことは諸系図で一致しており事実であろう。問題は兼仲以降であり、福屋家畧系のように「兵衛太郎」とするものと「兵衛次郎」とするもの(『群書類従』、前述の棟札も)がある。父が三郎であるのになぜ三郎ではないのかと思う人もあるだろうが、益田兼高の三郎であったが、福屋家に養子に入ったため新たな仮名を名乗ったのだろう。次郎・三郎のいずれかは決めがたい。
 これが兼仲の嫡子兼親となると「太郎」としている。この点は諸系図一致しているが、福屋家畧系のみ「左衛門尉」に任官したとしている。これは惣領益田氏が兼時までは左衛門尉であったが、その子は左衛門太郎兼長と左衛門二郎兼久であるように、任官しなかったのが事実であろう。三隅氏も初代兼信は左衛門尉に任官していたが2代目惣領兼村は「左衛門太郎」で任官していない。
 福屋畧系では4代目福屋兼行を「弥太郎」「左衛門尉」とするが、多くの系図は「孫太郎」とする。元徳3年6月10日には六波羅探題が豊田郷内角村地頭が押領を訴えられたことについて、高津兵衛二郎入道と福屋孫太郎に角村地頭を参洛させるように命じている。これが確実な史料における福屋氏の初見史料であるが、この孫太郎=兼行であり、畧系の弥太郎で任官したとの記述は誤りである。
 次いで南北朝の動乱が開始されても、福屋氏が石見国内外で活躍した史料はみえない。上洛して南朝方として活動していた可能性が高い。福屋氏が初めて石見国内の合戦に登場するのは、暦応4年8月から5年2月まで幕府方による福屋城を攻撃を受けて福屋弥太郎左衛門尉兼景と舎弟修理亮某が降参したことを記した軍忠状である。この兼景についても福屋氏略系の記載は「孫太郎」「左衛門尉」と他の系図と異なり、恐らくは誤っている。
益田兼見軍忠状では三和田狭所を打ち破り、凶徒を城に追い籠めたと記しており、福屋城とは前に述べた阿部郷内の城であろう。

福屋氏の惣領2の1

 以前、中世前期の福屋氏惣領についてはあとでまとめるとしていたが、行っていなかったので、以下に記す。
 こんなことに今頃気づいて(以前にも一度思った気がするが)ということだが、建仁3年12月日藤原兼季申文では、国方所領が15ヶ所とされながら、阿刀の次の5番目が判読不能で14ヶ所しか分かっていなかった。古文書の残された字形と周布543益田氏系図(萩博物館所蔵)の兼恒所領と比較すると、それが阿部郷であったことがわかる。ここが判読不能となっていたため、元暦元年11月日源範頼下文にも「阿部郷」が欠落してしまった。周布543には本来は兼恒領として「阿部郷」が記されていたが、範頼下文に合わせる形で、ある段階で除かれたのであろう。それは阿部郷が独立した所領ではなくなり大井原や阿刀と併せて福屋郷と呼ばれるようになった事も影響した。
  これを踏まえて福屋兼広領を再度確認すると、当初、非益田系御神本氏女子と結婚する形、ないしは養子に入る形で邑智郡内日和郷と邇摩郡内大家西郷の一部を相続した。拠点としたのは日和郷(桜井庄の一部か)内福屋であったため、福屋氏と名乗った。それが兄兼季の急死に伴う所領の配分により、新たに阿刀郷(別符、北部の跡から入野川流域を経て家古屋川流域の皆合が南端)・大井原(家古屋川中流域のうち、追原川と白角川流域で和田が南端)・阿部郷(家古屋上流域の丸原・今市)、並びに市木別符を獲得した。貞応2年石見国惣田数注文では、「あと」と「稲光久富」「いちき」と呼ばれた地域である。そのため、拠点は阿刀別符内の音明に遷したが、苗字は養子に入った経緯から福屋を使い続け、阿刀・大井原・阿部郷を併せて福屋郷と呼ぶこともあった。兼広が造営した記録が残るのは、辛卯(寛喜3=1231)年に大井原内和田の山辺神社を兵衛二郎兼仲が造営したのと寛元年中に阿部郷内丸原八幡宮を兵衛尉兼広が野田山に鎮座させたということのみである。
 福屋氏初代兼広領に大家西郷内が含まれた(正確には妻の所領か)のは、兼広の娘良円を通じて永安兼栄女子が継承した所領に福屋のくらみつ名(惣田数注文では「くらみつ」)とともに大家西郷内津淵があったと考えられることと、2代兼仲の子に大家西郷内福田・横道を譲られた兼綱と井田・大屋を譲られた兼保がいることによる。兼綱・兼保領は兼仲の妻の所領を相続した可能性もある。また、兼仲の子兼継は周布氏2代目兼正女子の養子に入り、大家西郷内福光郷(村)を相続している。

2016年1月 9日 (土)

Windows10その後2

 Windows10へのアップグレードが8.1か7かで細かい部分の違いがあるようだ。7ならメディアプレイヤーが残っているが、8や8.1ならメディアセンターがインストールされていない場合は、groveミュージックで音楽の再生はできるが、ブルーレイどころかDVDの再生も別ソフトが必要となる。7や8.1でメディアセンターがあれば、DVDプレーヤーが10でインストールされるようだ。基本的にPCはデュアルブートにして、8.1二つか8.1と7の組み合わせとして、両方とも10にアップしたPCもある。
 FMV・H8260は7からのアップグレードではうまくいかなかったので、ドライブを二つに分けて、8.1をインストールした方からアップグレードしてみたが、今回は問題がなかった。ところが、無線LANが接続されたはずが、新たに立ち上げるとつながらないという問題があったので、無線LANを更新してみた。ただし、H8260 が2008年の機種であることが原因であるため、新たな無線ルータではさらに認識されにくい。そこで、無線LANのルーターを以前のものも併せて使おうとしたが、これはよくない使い方であったようで、有線接続のPCもつながりにくいものが出てきた。そうしているうちに、コンセントに引っかかり、机の上からH8260 が落下してしまった。
 その後PCの起動には問題がないが、液晶の表示がおかしくなってしまった。分解して液晶と本体をつなぐソケットを再接続したが変わらない。液晶とインバーターの接続部分が原因かもしれないが、とりあえずVGAポートによる外部モニターへの接続は正常なので、液晶を外して外部モニターに接続して使うことにした。これにUSBタイプのアダプターを介して2台目のモニターにも接続した。7ではUXGAモニター縦置きとFHDモニター横置きの接続は解像度が制約されたが、10ではうまくいった。H8260はキーボードが打ちやすいし、SSDにしたことでCPUの性能は高くはないが、スムーズに使うことができる。この文章もその環境で書いている。

天文5~6年の尼子氏2

 天文5年に詮久が動いたのは東部ではなく西部の安芸・備後であった。頭崎城の平賀氏の現形をうけて出兵するとともに、吉川氏への働きかけを強めていた。吉川氏が尼子氏方となれば、毛利氏が頭崎に動くことは大変困難になる。その両者の交渉が決着したことを示すのが、天文6年に比定できる3月8日の尼子経久と詮久の書状であった。尼子氏は味方となった吉川氏に山県郡内先知行地の権益の安堵を吉川氏に伝え、3月10日は両者の書状を湯原幸清と川副久盛が吉川氏側に送った。この3通は後述の2月5日付の書状群に対して大変シンプルである。木村氏は幸清・久盛書状の「連々申聞」から、2月5日に安堵を受けた吉川氏が再び安堵要求と記されているが、現実的にありえない解釈である。とはいえ当方も「尼子氏の石見国進出をめぐって」の中では両者を天文6年(木村氏は天文8年とする)のものとしており、同様の誤りを犯してはいたが。論文執筆時に安芸国を担当していた湯原が天文6年後半から東部遠征に参加することに気づいていながら、湯原がいない2月5日書状を天文6年としていたのである。
 尼子氏の支持を取り付けた吉川氏は山県郡内で毛利氏と競合していた所領の奪取に着手する。尼子氏にとっても毛利氏を山県郡に足止めすることが可能となるのである。6月17日の湯原・川副書状に「毛利表御取合」とみえ、吉川氏が尼子方の支援を受けて毛利氏との合戦を始めたことがわかる。その状況は後に毛利元就が頭崎の時に在所を離さざるを得なかったと述べたように、吉川・尼子方が優勢であった。そうした状況の中、尼子氏は東部遠征に着手するのである。西部の調略を担当していた湯原も東部遠征に参加することになった。2月5日に再度の安堵状が出されたのはそのためであった。前年3月8日の安堵状は吉川氏を支持するという以上のものではなかったが、実際に吉川氏が所領を掌握した段階で、再度出されたのである。それがため、天文6年5月段階では尼子氏側が吉川氏に礼物を送っていたが、天文7年2月には尼子氏の支援で所領を確保できた吉川氏側が礼物を送っている。以上の比定は書状にみえる石見国の状況とも合致している。
 これに対して木村氏は、書状にみえる大内氏が安芸国人に対して「別儀」なく「面目」を失うという事態にいつなるのかということで、天文8年以前には該当しないとして、一連の書状群をすべて天文8年に比定された。その根拠として『房顕覚書』の天文9年の状況を記した神主友田興藤に関する「防州ノ敵トモ見ヘス、味方トモ見ヘサル」以下により天文8年にそのような事態となった可能性が高いとされるが理解に苦しむ解釈である。これによるなら天文9年にもそのような事態にはなっていないとなるのではないか。問題なのは吉川氏がいつ尼子氏方に転じたかである。それにより、毛利氏の行動は制約を受け、大内氏方にとっても打撃であった。木村氏の解釈も「空想」レベルであり、「科学」としての要件を欠いている。

天文5~6年の尼子氏1

 年末・年始に混乱の極みとなっていた部屋の資料の整理(捜索)を行った。その結果、1992年の「益田氏惣領制の再検討」のレジメならびに、木村信幸氏「安芸国人吉川氏の山県面占拠について」のレジメなどが久しぶりに揃った。バラバラとなって部屋の各所に潜んでいたのである。後者は広大の院生の方から、前者への問い合わせ(論文としては未発表)があった際に頂いたような気がする。
 ここでは木村氏のレジメの一部と関係する天文5~6年の尼子氏について再度述べてみる。天文5年閏10月以前に頭崎城を本拠とする平賀氏の分裂が明らかになった。平賀弘保の子興貞が尼子経久と結び、親子が対立したのである。尼子氏が安芸国に進出するために働きかけを強めていたのであり、それは吉川氏に対してもであった。 
 この時期の尼子詮久について、レジメの表でも」天文5年12月に備中・美作を制圧して出雲へ帰る」と記されているが、翌6年12月の誤りである。『出雲尼子氏史料集』でも関係史料を天文5年に比定しているが、その根拠となる史料はない。天文5年12月に九条殿が但馬尼子方へ下ったことが「証如上人日記」に記されているが、その意味は情報が少なすぎて不明である。尼子氏の軍勢が但馬国へ出兵していたというのは「空想」のレベルである。ここで求められるのは「科学」のレベルである。
 本願寺は天文5年12月に初めて尼子経久に手紙と礼物を送り、翌天文6年7月には詮久が返書と礼物を送っているが、具体的なことは何も述べられていない。それが11月14日には本願寺側が「今度御進発」や「戸部御出張」に触れて礼状と礼物を送っている。詮久の備中・美作遠征からの帰国を浅井氏に報じた12月26日亀井安綱書状は天文5年ではなく6年のものである。天文5年閏10月10日に詮久が神魂神社神主秋上氏に「あきあけハとみとたからにあひかしておもふことなくなかいきをせむ」との自筆の和歌を送っているが、遠征中であったのであろうか。

2016年1月 7日 (木)

隠岐国守護富田氏

 貞治4年2月(1365)に富田秀貞の子弾正少弼直貞が隠岐国守護であったが、応安7年(1374)の隠岐国守護として佐々木薩摩守がみえる。玉若酢神社棟札により63年ぶりに修造を行ったとされるが、その記載から棟札そのものの写ではなく、棟札に基づきまとめられた史料と思われる。代官として来海六郎左衛門尉秀重がみえるが、出雲国来海庄を支配した一族の出であろう。富田氏自身も出雲国が本拠であり、その過程で来海氏との関係を持ち、富田氏が隠岐国守護となると、共に隠岐国に入部したのだろう。富田氏の本領は富田庄であるが、これが出雲国守護京極氏領となったため、隠岐国守護と所領が富田氏に認められたと思われる。
 これに対して同棟札は14年後の至徳4年(1387)に山名伊豆守が修造を行ったと記す。山名時氏を念頭に記しているが、この時点で時氏は死亡しており、その子山名時義が隠岐国守護であったと考えられる。この造営に給人6人とともに来海六郎左衛門入道賢覚が関わっている。賢覚=秀重であり、来海氏は守護代としての地位を維持したことがわかる。
 問題は隠岐国守護であった富田直貞とその子孫のゆくえである。群書類従本佐々木氏系図では、直貞の子として尊光・信貞・貞頼のみを記し、いずれも任官していない。直貞についても信濃守四郎左衛門・弾正少弼・法名尊覚とあるのみである。これが高岡氏系図になると、信貞は四郎左衛門として任官している。高岡氏は富田氏初代義泰の子宗義が高岡宗泰女子と結婚して養子に入り、義泰の嫡子師泰が高岡宗泰女子と結婚している。師泰の嫡子秀貞の女子も高岡氏の第3代師宗の子で隠岐国別府に所領を有した直宗と結婚し、その間に生まれた国宗の子貞直が富田直貞の孫(信貞子)である孫四郎貞清の婿養子となっている。世代を考えると、信貞(四郎左衛門と任官)の子貞清(孫四郎と任官していない)が早世し、残された貞清女子結婚した国宗の子貞直が跡を継承したのだろう。
 そして問題となるのが、至徳元年(1384)に、幕府が出雲国守護山名義幸に対して、佐々木左衛門四郎薩摩守長胤跡等を河野駿河守信益に引き渡すよう命じていることである。佐々木氏系図には「長胤」という人物は見当たらないが、左衛門四郎といえば左衛門尉であった直貞の嫡子にふさわしい名前であり、佐々木薩摩守が隠岐国守護としてみえたことは前述の通りである。ということで課題は残されているが、現時点では佐々木左衛門四郎薩摩守長胤とは富田直貞の子とみるのが最も妥当なのではないか。
 そして山名氏へ交代した契機としては康暦の政変が考えられる。康暦元年から2年(あるいはすべて元年か)には富田城合戦が行われ、福依信高(祖父古志宗信は富田義泰女子を母とし、福依は富田庄内)、高木直清(高木氏は富田庄内上山佐)が討死し、富田氏一族新宮清綱は惣領(富田氏ないしは塩冶氏)に敵対して富田庄新宮城で討たれたとある(群書類従本佐々木氏系図)。出雲国守護が京極氏から山名氏に交代した事とも関連しようが、富田氏一族の中で対立が生じたための合戦ではないか。結果として富田氏惣領も隠岐国守護と所領を失ったのではないか。

2016年1月 4日 (月)

益田氏と日野氏との関係

 益田庄と12世紀半ばの石見守源季兼との関係については、「石見国における中世的所領の成立」の項で述べた。また、益田庄が14世紀初めに円満院宮領となった経緯については「益田庄の荘園領主」の項で述べた。両者に共通するのは益田庄が摂関家並びに九条家と深い関係を有したことである。これに対して、益田氏系図の多くは御神本氏初代の国兼を日野氏の一族としている。この点について以下に述べる。
 国兼は日野氏一族藤原有隆の子とされる。有隆の父有定(1043~1094)は日野氏当主有信(1039~1099)の4才下の弟であった。両者の祖父で日野氏の祖とされる資業は公卿となり、その三男が大宰大貳として、肥後国鹿子木庄の領家となった実政であったが、後に宇佐八幡宮からの訴えを受けて伊豆国へ配流され、その地で亡くなった。その子敦宗も連座して左少弁を解任され、後に復帰を認められたが、公卿に進むことはなかった。実政卿の末裔(実政娘と藤原公実との間に生まれた女子が母で、藤原頼通の孫経実が父)願西も同様で、肥後国衙の乱妨を防げず、鳥羽院の娘高陽院内親王に鹿子木庄を寄進したとされる。
 実政の失脚をうけて日野資業の次男実綱の三男有信が日野氏当主となったが、これも公卿には進めなかった。これに対して有信と実政女子との間に生まれた実光は従二位中納言となった。実光と国兼の祖父とされる有定女子との間に生まれたのが資憲で、崇徳天皇の側近となった。ところが、保元の乱により資憲は出家し、高階重仲女子を母とし、後白河の側近となっていた弟資長が日野氏当主となった。二人の子が「資」をその名に付けるのは日野氏の祖資業との関係であり、将来を期待されていたのだろう。
 この日野資長が摂関家家司・石見守として益田氏と益田庄の成立に重要な役割を果たした源季兼の娘と結婚し、その間に生まれたのが日野氏当主となった兼光であった。季兼が領家であった摂関家領若山庄はこの兼光の系統が継承していった。益田氏系図で国兼と日野氏を結びつけた背景には、益田庄の領家もまた季兼女子を経て日野氏に継承された事があったのではないか。
 ただし、益田氏系図では本来親子である日野実光と資憲(国兼の父とされる有隆の姉妹が母)を兄弟として記しており、系図としての信頼性に問題点があった。そのため、国兼を藤原実頼系(九条流に対して小野宮流)の藤原公通の子とする系図が作成されたのではないか。公通の父公定は公卿となったが、その子公通は公卿に進まず無名の人であり、外部から問題点を指摘される可能性は低かった。
 以上、益田氏と日野氏の関係について述べた。

2016年1月 2日 (土)

南北朝期の隠岐国守護について

 この点については、以前、山名時氏が隠岐国守護であるとした文書について、貞和3年8月28日伊豆守奉書は隠岐国守護奉書ではなく引付頭人奉書であり、伊豆守=上杉重能であることを述べたことがあった。山名時氏が隠岐国守護であったことを示す史料はないのである。
 これに対して山名氏が隠岐国守護であったことが確認できるのは、明徳の乱の時点の守護が山名満幸であり、その前任者が山名時煕・氏之のいずれかということであった。佐藤氏は時煕・氏之は父時義の地位を継承したものであろうとの推定を加えられた。しかし、時氏が隠岐国守護でなかったとすると、時義については検討の余地が大きいとせざるをえない。佐藤氏は貞治4年2月(1365)に富田秀貞の子弾正少弼直貞が隠岐国守護であった事を明らかにされた。富田秀貞は幕府方の美作国守護であったが、観応の擾乱の当初から南朝方に転じて、南朝方の出雲国守護となり、足利直義方であった伯耆国守護山名時氏が反幕府方となり、次いで大内弘世とともに直義の養子足利直冬を担いで、山陰では反幕府方がしばらくの間は幕府方を圧倒していた。
 富田秀貞・直貞父子は貞治元年10月までは山名時氏の指揮のもと反幕府方として戦っていたが、翌2年8月に山名時氏が幕府方に復帰した際に、これに従ったと思われる。その結果として認められたのが隠岐国守護の座であった。出雲国守護は幕府方であった京極高氏がこれを確保したが、山名氏以下の反幕府方もその権益を維持したのである。同年3月3日に「従四位下弾正少弼源朝臣直貞」は大般若波羅蜜多経を鰐淵寺に寄進しているが、その時点では正平18年という南朝年号を使用していた(島根県立図書館所蔵『島根県史料大原郡』大東町中遠所一乗寺所蔵経典奥書)。
 出雲佐々木氏一族の高岡師宗は暦応4年に惣領塩冶高貞と行動を共にして自害するが、その子の内、兄重宗は出雲国高岡を領して山名満幸に仕え、弟直宗は隠岐国別府を領して山名時煕に仕えた(高岡氏系図)。これにより、隠岐国守護は時義の嫡子時煕であったことがわかるが、師義の子義幸が出雲国守護となった康暦2年の政変の時点で、時義をへて時煕が継承したのだろう。出雲国守護は義幸が病弱であったこともありその弟満幸が継承した。次いで、足利義満による山名氏分断作戦により、まずは時煕・氏之兄弟が追討され、その所領は満幸や氏清などの一族に与えられた。時煕に仕えていた直宗は一時備後国に籠居していたが、明徳の乱で山名氏清・満幸が討伐されると、主人である時煕とともに許され、兄重宗ら山名満幸方と戦った。乱後、京極高詮が出雲国守護となったこともあって、直宗は但馬国内で所領を与えられ、出雲国内に帰ることは無かった。
 以上を踏まえ、隠岐国守護の相承を記すと、
建武元年~暦応4年  塩冶高貞    暦応4年~貞治2年  不明
貞治2年~康暦2年? 佐々木直貞      康暦2年~康応元年 山名時義
康応元年~明徳元年 山名時煕    明徳元年~明徳3年  山名満幸    明徳3年~      京極高詮
 以前のように頻繁に更新とはならないだろうが、今年も気がついた点をアップしたい(康暦2年はまだ時義の時代なので訂正した)。

 

 

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