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2015年12月

2015年12月26日 (土)

西遷御家人内田氏の所領相続3

 話を戻すと、1286年段階で朝員は石見国に入部し、義父生仏とともに、庶子である俣賀氏に対して豊田郷内の山野河海はすべて惣領分であるとして、狩倉などの押領を行い、俣賀氏がこれを幕府に訴えた。1290年以前には俣賀氏内部でも初代致義(弥益丸)の子兵衛三郎致直とその兄弟である舎兄蓮念ならびに兵衛五郎円戒との間で、田畠や狩倉をめぐり対立が発生している。俣賀致義の嫡子は上俣賀村と横田下村一分を譲られて兵衛三郎致直であるが、下俣賀村と横田下村を譲られた兵衛五郎円戒も、その嫡子が「新三郎致康」であったように、両者の間には惣領-庶子関係はなく、対等であった。これに対して俣賀田畠在家地頭職を譲られた蓮念の系統は、後に内田氏惣領家に併合され、1331年に空昭(朝員)が嫡子孫八郎致景に譲った所領には貞松名と豊田郷惣領分とともに「小俣賀田」がみえている。
 空昭が1286年までに致直(生仏)の養子となって石見国に入部したのに対し、その嫡子致景は祖父致親(石見国内でも豊田郷内堀内と在家三宇、一原土壇田畠を譲られる)のもとに残され、内田庄下郷の後継者として「孫八郎」と名乗ったのであろう。しかし、死期の迫った空昭は石見国内の所領も孫八郎致景に譲った。これに対して石見国内の関係者には不満があり、南北朝の動乱の初期には朝員の養子となった致員(致直女子を母とし、朝員女子と結婚)は反幕府方として豊田城に楯籠もったが、幕府方の攻撃を受けて落城した。そのため、豊田郷は幕府方に没収され、一旦は土屋氏に与えられたが、それまで遠江国内で幕府方として活動していた朝員嫡子致景が石見国に入部し、豊田郷は庶子致員の所領ではなく、自分の所領であるとして、豊田郷と貞松名の支配を回復し、観応の擾乱までは一貫して幕府方として行動している。
 最近全く更新していないが、とりあえずはここまで。関係者の生没年代を史料に基づき想定しながら、再度見直してみた。

西遷御家人内田氏の所領相続2

 宗茂の嫡子致員も両国での活動を平行して続け、1258年には隣接する吉賀郡野郷地頭代から山野の押領を訴えられたが、五度にわたる召文にも応じなかったため、1260年には、幕府が遠江国守護大仏宣時(時房嫡子朝直の子)に致員を出頭させるよう命じている。そうした中で、致員は石見国と遠江国の所領を2人の男子に分割して譲っているのは現実的対応であった。嫡子新三郎致直(法名生仏)に貞松名一円と豊田郷惣領分を譲っていることからも石見国の所領が中心であった。内田庄下郷惣領分は弟の八郎致親に譲った。父致員が「三郎」にとどまったのに対して、二人はともに左衛門尉に任官している。
 嫡子致直は石見国で所領の経営にあたり、貞松名に隣接する周布郷内内村地頭兼次を娘の婿に迎えたが、男子はなかったようである。これに対して晩年の致員(西仏)は内田庄下郷に戻っていたと思われるが、1281年には内田庄下郷を庶子致親の子三郎朝員に譲り、翌1282年には貞松名と豊田郷も朝員に譲った。朝員は父八郎致親と異なり「三郎」であり、遠江国守護大仏朝直の一字を得ていることから、祖父致員は朝員によって石見国と遠江国に分かれた2家を統合することを期待したのであろう。とはいえ、2度目のモンゴル襲来が終わったばかりであり、後継者朝員は惣領致直の養子となって石見国に入部した。時あたかもモンゴル襲来への対応から石見国守護は「伊藤三郎左衛門尉」から「武蔵式部大夫」に交替しているが、この人物こそ遠江国守護大仏朝直の嫡子でありながら、一旦義絶され、後に復活した大仏朝房であろう(この点については「遠江国内田庄相論」でも述べた)。朝房とその一族がいつまで石見国守護であったかは史料を欠いているが、弘安7年に朝房が豊後国守護である可能性が大きいが、その時点で石見国守護を兼務していた可能性もあるのではないか。幕末に内田左衛門三郎入道朝員が周布氏内部の対立をめぐって河上孫三郎入道(国御家人としては益田氏に次ぐ地位にあった伴氏の惣領)とともに幕府の命令を執行する両使となっていることが確認できるが、その背景にも石見国守護大仏朝房との関係があったに違いない。

西遷御家人内田氏の所領相続1

 承久の乱の勲功の賞として石見国貞松名と豊田郷を獲得した内田宗茂の本領は遠江国内田庄下郷であった。田数のみをみると両者は同規模の所領のようであるが、平野部の内田庄下郷に対して平野部と山間部の境界=中間地帯にある豊田郷の方がはるかに大きな所領であった。 そのため、内田氏は早くから石見国内に入部する。
 1236年6月、西仏(宗茂)は、所領を3人の男子に分割して譲った。嫡子致員と舎弟致重と弥益丸である。嫡子致員には貞松名一円と豊田郷・内田庄下郷の中心部分を譲った。致重には豊田郷一分(横田上村)と内田庄下郷一分(金太郎名外)を譲った。これに対して晩年の子弥益丸には豊田郷内俣賀村一円と横田下村を譲った。弥益丸は承久の乱後、それも譲与がなされる少し前に、石見国で誕生した可能性が高い。宗茂は新たに獲得した石見国内の所領と本領である内田庄下郷を度々行き来していたであろう。その中で弥益丸が誕生し、豊田郷の中心部分に対して独立性の高い俣賀村一円と、中心部分の一部である横田下村を譲られたのではないか。
 宗茂は恩賞を得た貞応元年(1222)時点では三郎であったが、所領を譲った嘉禎二年(1236)には「刑部丞」に任官していた。恩賞地の獲得で経済力が高まったことと、遠江国守護北条時房(甥である執権泰時を補佐する連署の地位にあったとされるが、下知状や政所下文では常に泰時に対して上位者の場所に署判を加え、政所別当でもあった。)との関係がその背景にあったと思われる。嘉禎二年の内田庄下郷の譲与安堵が、通常の政所下文に先行して、時房下知状で行われていることが、時房との関係を示している。

2015年12月23日 (水)

Windows10その後

 Windows10については、更新が頻繁なだけに不具合もあるようだ。同一のPCに8.1と7をインストールしていたが、8.1に続いて7も10にアップグレードし、1台で2領域に10をインストールしたPCに8.1で、なぜか8.1からアップグレードした方が起動しなくなった。すでに11月半の10のメジャーアップグレードも終えて最新版になっていたにもかわらず。
 ネットで検索しても「起動しない」にも様々なケースがあるようで、どうも再インストールするしかないかと思いつつ、起動時のオプションの画面から修復を選んだが、変化なし。ついで、以前のビルドに戻すを選択したが、どうもHDDにアクセスしていないので、ままよとばかりに、電源スイッチを強制的に切ってしまい、再度電源を入れた。そうしたところ起動すると「前のビルドに戻す」と表示され、今度はHDDにアクセスし、しばらくすると完了した。
 8.1からアップグレードしたが、すでに1ヶ月以上経過しており、8.1に戻すことはできない。ウィンドウズ10の第2版から当初のバージョンに戻っており、問題なく起動するようになった。けがの功名というべきで、ソフトの再インストールの必要は無くなった。8.1までのように「確認してから更新をインストールする」との選択肢はなくなった(ネットによると方法はあるそうだが)。毎日起動しておけばよいが、時にあまり使わないこともあり(1台に2つの10をインストールしているため)、不具合もあるかもしれないので、必要なデータはバックアップが必要か。

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