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2015年11月

2015年11月21日 (土)

出雲大社神主職の補任時期4

 ところが翌天福元年(一二三三)六月には、神主真高が刃傷による狼藉があったとして解任され、おらくは幕府の後押しを受けたと思われるが、内蔵孝元が神主職に補任されている。これによれば、義孝へのバトンタッチの隙を突く形で、寛喜三年七月頃に真高が神主職に補任されたと推測できる。出雲国衙在庁官人が承久の乱で大打撃を受ける中、幕府との関係が深い内蔵孝元は国造家と同様生き残っていたのである。
 しかし、長らく出雲大社とは関わっておらず支障があったのか、文暦二年(一二三五)閏六月には領家家隆が神主に年内の出雲大社正殿の棟上を命じているが、これは真高であった。当時進行していた出雲大社造営がネックになり、真高の復帰となったと思われる。真高は父頼孝の時代を含めると20年以上、出雲大社権検校であった。ところが、真高をしても大社造営には困難があり、その三ヶ月後の九月には義孝が神主に復活した。ただし、国造家内部でも競合があり、嘉禎二年(一二三六)六月五日関東御教書では孝綱の子経孝が神主職に補任されている。この文書は署判者、内容に問題があり、後世に作成されたものである。はっきりしているのは孝綱系にも神主職や国造職の候補者がおり、政孝―義孝が安泰ではなかったことである。
 そうした中、翌嘉禎三年には領家家隆が死亡し、成年に達した後継者がなかったことから、領家の主体的な動きは限定され、出雲大社正殿造営が進んでいたこともあって、国造義孝が継続的に神主となり、権検校も国造の一族が務めた。これにより、義孝が神主をめぐる対立で優位に立つようになる。そして、遷宮が終わった建長元年には、国造義孝が承元二年九月六日下文に任せて、大庭・田尻保の地頭職に補任されたように、義孝と守護佐々木泰清ならびに幕府の関係が強まったのである。
 以上、神主職の補任時期を手がかりに、関係史料を見直してみた。書き始めた時点の予想以上に新たな点がわかったと感じた。

出雲大社神主職の補任時期3

 ところが、国造孝綱と内蔵孝元の対立は解消されず、孝元が御神供を欠如したことをとらえた孝綱は、国司と幕府に働きかけて、孝元の解任を図り、幕府もこれを了解した。ところがそれは神主職と権検校職の補任権を持つ領家の権限を侵害するものであったため、領家雅隆は、承元四年(一二一〇)には幕府に対して事態の説明を求めるとともに、権検校孝元のみならず、神主孝綱をも解任し、新たな神主には在庁官人出身で国造家の外戚であった中原孝高を補任した。権検校には出雲氏の一族である頼孝が補任された可能性が高く、この二人が領家の命令を受けて内蔵孝元を排除し追放した。ただし、混乱はこれでは解決せず翌建暦元年六月の時点でも、国司側は国造孝綱を神主と呼んでいる。
 ただし、実際は孝高が神主であったと思われ、建暦三年八月には領家雅隆が大社領の知行を安堵した神主も孝高に比定できる。これに対して国造孝綱は建保二年(一二一四)には領家を飛び越えて本家土御門院庁に訴え、神主・惣検校職に補任されているが、実効性はなかったと思われる。そして将軍実朝が建保七年(一二一九)正月に暗殺されたのを受けて、同年三月には国造孝綱が、国造職と惣検校職を弟政孝に譲っているが、これにより国造が惣検校であったことにはならない。あくまでも国造家の代表の地位を政孝に譲ったのである。
 後鳥羽上皇による幕府打倒=承久の乱が失敗すると、側近有雅が知行国主であった出雲国衙の在庁官人は大きな打撃を受けた。これに対して乱に関与していない土御門院領であった出雲大社への影響は小さかったと思われる。これにより秋鹿郡秋鹿郷や伊野郷司(地頭となっていた可能性も大)であった在庁官人中原氏はその勢力を低下させ、乱後の神主は不明であるが(国造と他氏の間で交代か)、権検校は出雲頼孝の子と思われる真高が継承した。ところが、出雲大社仮殿造営が進まない中、重代造営日記文書を所持していた国造政孝が神主に復活した。権検校真高に不満を持つ国造政孝は真高を圧迫するとともに、内蔵孝元の例をひいて真高の解任を求め、嘉禄元年(一二二五)四月には孝綱にならって本家承明門院から神主職に補任されているが、これも実効性はなく、兄雅隆に代わって領家となった家隆の反発を招いただけであった。貞応三年(一二二四)六月には雅隆が真高への不当な扱いを改めるよう神主に命じ、嘉禄元年五月には家隆が真高を元の如く権検校に補任し、七月十九日には神主政孝の濫妨停止を預所と思われる平右兵衛尉に命じている。翌嘉禄二年七月には、家隆が国造政孝を神主に補任するとともに、真高を権検校職に補任している。この体制は、国造政孝が国造職と神主職を子義孝に譲った寛喜三年(一二三二)三月までは続いたと思われる。

出雲大社神主職の補任時期2

 それを示すのが建久二年七月日の在庁官人等解であり、国造側が作成した解状に在庁官人が署判して提出されたのであろう。ただし、それには裏付けが必要であり、その提出を求められたことを受けて出されたのが同年八月二日の在庁官人解状であった。驚いたことには半世紀以上前の久安五年の国造補任文書の焼失について紛失状を提出したのである。ただし、そこに記された9世紀前半以来の補任状は、吉忠が補任された正暦四年(九九三)十一月日国司庁宣が、孝忠を補任した長保四年六月廿八日太政官符と人名・時期とも一致しないように、事実とは異なる点を多々含んでいたと思われる。国造が国司庁宣で補任されたことが確認できるのは安元二年(一一七六)十月日国司庁宣であるが、この文書も後世に作成されたもので、文治元年十一月三日国司庁宣が最初のものである。
 神主職については、建久二年十月日領家下文写で孝綱が補任されているが、この時点であるなら孝房のはずであり、後の嘉禄二年七月日領家藤原家隆下文を参考に作成されたものである可能性が高い。この問題に結論が出たのは、翌建久三年七月で、領家藤原光隆(当時65才で、子の雅隆に交替していた可能性もあり)、内蔵資忠を惣検校職に補任した。頼朝(~1199)―光隆(~1201)ラインを崩すのは困難だったのだろう。
 次に神主に関わる記事がみられるのは、承元二年(一二〇八)十一月一日の『吾妻鏡』の記事で、内蔵資忠の子孝元が父資忠の例に基づき権検校に補任されている。これも幕府から領家藤原雅隆への申し入れを受けて実現した。時期が十一月であり、通常の時期とは異なっている点に注意が必要である。ライバル内蔵資忠の死により神主(惣検校)に国造孝綱が補任されたのを受け、新たに権検校が新設されたのではないか。この間、資忠が神主であったのか、国造側との間で交替があったかは史料を欠き不明である。そして、承元二年九月六日に国造孝綱に対して、大庭・田尻保地頭職に関する将軍の御下文が出されたことが注目される。この時点までに資忠を支持してきた幕府と国造側の和解が後鳥羽院とその側近で出雲国知行国主であった源有雅を通じて成立し、国造孝綱が神主職に補任されたと考えられる。その背景には将軍実朝と後鳥羽の関係があった。

出雲大社神主職の補任時期1

 出雲大社並びに出雲大社領の現地の最高責任者である神主は年間のどの時期に補任される(=交替の時期はいつか)のであろうか。一般的には、年貢などの収納が終わった時点で交替するのであろうが、そのためには留任か交替かが前もって決定していなければならない。
 文治2年(一一八六)正月に土肥實平が鎌倉殿御下文に任せて出雲孝房を神主職に補任しているが、これは『吾妻鏡』同年5月3日条に「総検校職」が「出雲則房」から「同資忠」に交替したことが記されていることから、後に作成されたものである。実際、正月に交替が決まっても新年からの荘園管理のスタートに混乱が起きるのみである(留任としてもこの時期は不可思議)。
 これに対して、五月から七月に次期神主(惣検校)の決定がなされている例が一般的で、『吾妻鏡」の記事には問題がない。頼朝との関係を有する資忠が、領家藤原光隆への働きかけを依頼し、それが功を奏して実現したものである。頼朝と上西門院との関係はよく知られているが、藤原光隆の父清隆は上西門院、崇徳院、後白河院の母帯賢門院の別当をつとめていた。資忠の名は父忠光(光隆との関係をうかがわせる)と崇徳院の側近日野資憲にちなむものと思われる。資忠側は早くから次期神主を目指して働きかけを開始し、五月の時点で次期神主職の地位を獲得したが、国造孝綱側には衝撃が走ったであろう。
 当然、孝綱側も次期神主を目指して働きかけるが、頼朝―光隆ラインを崩すのは困難であった。それが実現したのは、出雲大社遷宮が実施される建久元年(一一九〇)五月頃であったと思われる。この年(文治六年から四月に建久元年に改元)の遷宮時期については、六月二十九日説(建久二年在庁官人等解)と十月十八日説(承久二年杵築社遷宮年限例注進)があるが、その理由は不明である。神主が出雲大社の祭祀の最高責任者ではあるが、ご神体を遷すことは国造の役割であり、それを背景に交替を迫り、後白河の後押しもあり、実現した。しかし、遷宮が完了すれば、今度は資忠側からの働きかけが開始されるのである。

2015年11月19日 (木)

『大日本史料』と出雲大社遷宮2

 次いで、建長元年の遷宮記事は『大日本史料』第5編27(1986年刊)に収録されている。そこでは、『鎌倉遺文』と『大社町史』とは異なり、「一 建長元年己酉六月日御遷宮注進記録」と記した上で、出雲大社正殿式の方尺が記されている。『鎌倉遺文』は『大日本史料』の刊行前であり(編纂所の北島家譜には錯乱あり)、『大社町史』は刊行後であるが、『鎌倉遺文』に収録されているかどうかの記載はあっても『大日本史料』に関する記載はない。ただし、これに続く「神宝抜書」は『鎌倉遺文』に収録された北島家譜からではなく、『大日本史料』と同様に千家文書から収録し、その末尾に、千家文書で省略された抜書の作成者(国衙関係者、千家側では国衙関係者の関与の歴史を残したくなかったのだろう)の部分を北島家譜で補っているので、当然『大日本史料』も参照されている。この時点(大社町史)に収録された時点で、『大日本古文書』と同様に冒頭の部分が収録されて居れば、誰の目にも宝治二年に造営が完了し、建長元年に遷宮が行われた出雲大社本殿の高さが二十四メートルであったことは周知され、今日の無意味な混乱は避けられたと思うが、なぜこうなったのかというのが素朴な疑問である。
 今年四月十五日に掲載されたHOME`S PRESSの記事(フリーランスライター福島朋子氏による「日本の“木造”建築の可能性―出雲大社の古代本殿の高さは48mあった?」)では古代出雲歴史博物館の岡宏三氏が「現状では高さに関する確実な資料はでていないのです」と述べているが、そうではなく、建長元年遷宮の本殿の高さが二十四メートルであったことを示す確実な資料は存在し、それ以前においても、院政期に行われた天永三年と久安元年の遷宮で正殿がそれぞれ三年と四年半で完成していることからすると、24mであったことは確実なのである。一つのボタンの掛け違いが虚像を今も再生産している。一瞬で虚像を消すことが可能であるにも関わらず。人間の無能さと愚かさを実感させられる事例である。また、永久二年六月十八日と永久二年十月二十六日、さらには永久三年十月二十六日に出雲大社遷宮が行われたというのも虚像である。天永三年六月十八日と100%断定できる。

『大日本史料』と出雲大社遷宮1

 天永三年六月十八日の出雲大社遷宮については、すでに述べたところだが、たまたま検索をしていて、『大日本史料』の関係記事がヒットした。該当するのは第3編15と16で(2冊とも1972年刊行)、引用される史料はいわゆる「治暦・永久旧記」である。
当時の編者も扱いに苦慮したのか、「同三年四月廿八日 宣旨、被勘下 遷宮日時、六月十八日癸卯」の記述中、六月十八日の部分には「ママ」と注記し、永久三年十月二十六日に「出雲大社正遷宮」の記事を置いている。その根拠としたのは「国日記云、御遷宮之後、依御託宣奉直神殿、始自七月至于八月両月之間、一国贔負、同十月廿六日丁卯戌時御遷宮了」の記述であるが、その内容は一旦遷宮が完了した後に、御託宣に基づき神殿を直したものであると記され、本来の正殿遷宮ではないことが明らかである。
 これに関連するのが『中右記』永久二年六月一日の記事で、「杵築社修理之間、作仮殿并可奉渡御躰之日時可勘申」とある。修理のための仮殿への遷宮が六月に行われ、『殿暦』同年十月二十三日条にも「出雲大社遷宮日時」が定められたとの記事がある。国日記が記すように七月から八月にかけて修理が行われ、修理完了に伴う仮殿から正殿への遷宮が十月二十三日に行われた。修理のための遷宮は永久二年に行われたことは明らかで、「治暦・永久旧記」中の「同三年」は同二年の誤りである。ところが、『大日本史料』の編者は永久二年十月二十六日ではなく、翌三年に遷宮が行われたとしてしまったのである。それも修理のための遷宮を本来の「正殿遷宮」と記して二重の意味で誤りを犯したのである。正殿遷宮は天永三年六月十八日に行われていた。

2015年11月15日 (日)

年齢から考える―佐波氏と赤穴氏2

 ところがこれには問題があって、三人への譲状をそのまま読めば、三人の兄弟(正連・清連・弘行)に所領が分割して譲られたとした解釈できないのである。置文には常連の二男が井元であるとするが、正連は応永一三年段階ですでに父の官職であったことのある「掃部助」に任官しているのに対して、清連は「二郎四郎」で、応永一八年の時点でこれまた常連の官職であった備中守に任官している。ここからすると、正連が兄で清連が弟ということになるだけでなく、正連は嫡子とされる顕清よりも年長となる。すると、譲状の記載からもわかるように、弘行は常連の末子であり、その父とされた嫡子顕清は実在しなかったことになる。つまり、長男正連、二男清連、三男弘行となるのである。
 そうすると、井元=正連という通説が問題になってくる。藤岡氏は弘行と清連と同様、正連も赤穴庄と佐波郷の両方を譲られたとされたが、正連には赤穴庄の譲状しか残っていない。弘行が譲られた佐波郷の東側の境界と清連分の下流=西側の境界は一致している。清連分の上流=東側の境界は赤穴庄との境である。弘行分の下流=西側の境界は、「くねちたにをかきる」とあるが、後の譲状には「くねちかわをかきる」とも記されている。また、幕府の安堵状では「円山村」、置文では「片山分」とも呼ばれている。これらを総合的にまとめると、江川の支流沢谷川(九日市川)の谷=沢谷(九日市谷)であって、沢谷川南側の所領が西側(江川まで)が弘行分で東側(赤穴庄まで)が清連分であり、その中に正連分が入る余地はないのである。
 話を常連から三人の子への譲与に戻すと、常連には年長の正連と清連があり、末子として弘行があった。常連は末子の弘行に赤穴庄を三分割した内の惣領地頭職と佐波郷内猪子田南村一分を譲り、清連には猪子田南村惣領地頭職と赤穴庄一分を譲った。これに対して年長の正連には赤穴庄一分のみを譲った。二男清連の年齢は兄正連より弟弘行に近かったと思われる。末子である弘行の将来を思って、兄二人には自らの名の「連」を付けたのに対して、末子弘行には佐波氏惣領幸連と同音の「行」を付けた。赤穴庄惣領地頭職と佐波郷内猪子谷南村地頭職(惣領分と一分)には幸連が常連とともに署判を加えている。
 二人の兄がそれぞれ掃部助、備中守に任官したのに対して、弘行は任官していないが、その背景として、応永一八年の飛騨国の乱に惣領幸連とともに参加した弘行が幸連とともに無断で国に下り、その後は「主なし」の状態となったのが影響したのであろう。
 ともあれ、置文では本来惣領―庶子の関係にはなかった常連の子の三家の中で、弘行流が最初から惣領であったことを主張するため、架空の人物として弘行の父顕清を登場させたのである。
 最後に問題となるのが惣領幸連と常連の関係であるが、応永一三年に常連が七〇才前後であったことを考えると、幸連=兄頼清ではなく、幸連は頼清の子であると考えられる。そして幸連の嫡子が置文では梁山とも呼ばれた元連である。梁山が七才の時の明都賀氏ら下方親類衆の乱とは、弘行と清連(法名善連)が契約状を取り交わした応永三〇年(一四二三)のことと考えられる。弘行はこの時点では三六才であった。そうすると梁山(元連)は一四一七年の生まれで、赤穴別宮領の押領の疑いで一旦元連が追討をうけた宝徳元年(一四四九)には三三才であったことになる。この時点の赤穴氏惣領は弘行の子幸重であり、系図では寛正五年(一四六四)に五一才で死亡しており、一四一四年の生まれであった。元連の三才上で、宝徳元年には三六才であった。
 以上、年齢から佐波・赤穴氏の関係者についてみてみた。

年齢から考える―佐波氏と赤穴氏1

 幕府奉公衆佐波氏の系譜については、文書がほとんど残っていないこともあり、不明な点が多い。庶子赤穴氏の文書に登場する人物をつないでいくしかないが、その作業をする際に赤穴氏当主の年齢と出生年を判断材料としたい。
 佐波氏に関する最も早い時期の資料は文永3年の天津神社棟札であり、そこには大願主として清連の名がみえている。系図では正治年間に石見国に入部した義連に次ぐ2代目の当主とされている。それに次いで『太平記』に佐波善四郎がみえる。元弘3年に船上山の後醍醐のもとに駆けつけた武士に石見国の佐波がみえ、同一人物と思われる善四郎は観応の擾乱時に反幕府方となったが、幕府方の高師泰の軍に攻められて戦死したとされる。その子が文書が残る実連であろう。実連の子については『赤穴郡連置文』に嫡子三河守頼清・次男赤穴備中守常連・三男久保(佐波郷内久保を譲られたためであろう)・四男明都賀がみえる。そして問題となるのが、赤穴庄東方惣領分を支配する紀氏兄弟の兄から所領を譲られた実連の子常連と、貞和七年正月、足利直冬に赤穴庄東方地頭職の安堵求を求めた善四郎顕清の関係である。この問題を考えるため、古文書に登場する人物の比定を行う。 ①観応元年(一三五〇)四月 善四郎左衛門尉(幕府方)
  ②文和二年(一三五三)二月 佐波善四郎左衛門尉(反幕府方)
①は苗字は記されていないが、佐波氏特有の名であり、②と同一人物=実連であろう。そうすると、貞和七年の善四郎顕清は実連ではありえず、置文がいうように、実連の子常連ということになる。実連の父については明証は欠くが「善四郎顕連」であったとされる。
 これを系図で示すと「善四郎顕連―善四郎左衛門尉(隼人正)実連―三河守頼清」となり、頼清の弟が備中守常連=善四郎顕清となる。貞和七年(一三五一)時点の常連(顕清)を一五才とすると一三三七年の生まれとなる。常連の上に頼清がいることを勘案すると、父実連は一三一〇年代半ばには誕生していたことになる。仮に一三一五年生まれとすると、至徳元年(一三八四)に死亡した時点では七〇才となる。常連は応永一八(一四一一)に死亡しており、一三三七年生まれだと七五才となるが、死亡する五年前の応永一三年になってようやく所領を三人に譲っている。置文によると嫡子は顕清であったが、未家督(系図では応永一二年に三六才で死亡)のまま死亡したとする。顕清は一三七〇年の生まれとなる。その嫡子が弘行で、系図にある永享八年(一四三六)に四九才で死亡したとすると、一三八八年生まれとなる。

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