koewokiku(HPへ)

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月

2015年10月25日 (日)

NZ対南ア

 南アの防御時の反則の少なさとNZ側の反則の多さという規律面の違いが目立ち、点差は常に5点差以下という常に緊迫した接戦であった。NZ側が連続攻撃をしても中央でのFWでのトライは難しく、2トライはいずれもサイドに振って人数を余らせた上でのFLカイノと、ノヌーがタイミングをはずしてバレットにつないだものであった。ミルナスカダーが交代したのはNZ側には痛いと思われたが、交代したバレットによるトライであった。
 カーターは比較的自由に動けており、NZ側が攻撃する時間が長く、60分を過ぎると、攻撃する際に選手が孤立する形で南ア側の足が止まり始めていた。ラインアウトのミスも疲れからくる判断ミスが原因であろう。南ア側は日本戦と同様FWが中心でハバナをはじめとするバックス陣が活躍することは無かった。今日は反則の少なさから接戦になったが、本来ならもう少し差がついたであろう。
 両チームの違いはアタックの能力であろうか。南アの場合、ウェールズとニュージーランド相手ではそう得点できず、ややスターがいないということか。若い有望な選手はいるので、今後の新チームではわからないが。W杯後という点ではニュージーランドの方が大変か。逆にいえば急速な世代交代が進み、未知のスターが登場する期待はあるのだか。それ以上に問題なのはHCの人選であろうか。まさかハンセン体制の継続はないと思うが、その場合でも世代交代は免れない。決勝の相手は今夜決まるが、ニュージーランドの優位は動かないだろう(これはほとんどの人の意見と同じふつうの見解)。

2015年10月24日 (土)

ラグビーW杯のゆくえ

 今日と明日の準決勝2試合については、すでに専門家の予想も出ており、ニュージーランドとオーストラリアの優位が伝えられている。ただし、どの程度優位かは論者により差があろう。予選リーグをデータでみる限り(一部しか試合を見ていないので)、オーストラリアの好調さが目立ったが、準々決勝のスコットランド戦は意外な結果であった。ハイライトしか見ていないが、苦戦の原因がスクラムにあるならば、アルゼンチンにもかなりの勝機(過半数)があるのではなかろうか。ずっとスクラムがオーストラリアの弱点であったのが、今年の南半球4カ国対抗では、弱点とはなっておらず、それが故にニュージーランドを抑えて優勝したのであった(こっちらは観戦)。ただし、これも試合そのものをみていないが、その後にあったブレディスローカップの第2戦ではニュージーランドに完敗している。とりあえず、明日のオーストラリアとアルゼンチン戦はアルゼンチンの勝ちと予想しておこう。初戦のニュージーランド戦はニュージーランドが不調であった以上に、アルゼンチンの力量アップを示すものであろう。
 本日のニュージーランドVS南アフリカは、どこまで南アのフィットネスが持つかにかかっていよう。攻撃は最大の防御とボール保持率が高ければ、重たいFWの疲労も緩和されるだろうし、接点で互角ならば、南アが後ろに走らされて、よくあるように最後にニュージーランドが得点を重ねて逆転勝ちということろか。ただし、フランス戦はフランスがあまりにもふがいなかったためであり、あまり参考にならない気がする。両者の対戦では前回と前々回の対戦のについて語られることが多かったが、その前の2003年大会のことも忘れてはならない。この年にはフランス代表がニュージーランド遠征を行ったが、2試合とも大敗を喫した。ところが、本番ではフランスが勝利したのであった。準々決勝のフランス戦を前にニュージーランドのハートHCが、それ以降の練習スケジュールを発表したのは半年前の対戦での大勝を踏まえてのものであったが、敗れたのである。
 1987年の第1回大会の優勝チームのACであったハートは国内最強のオークランドを率いており、当然1991年の第2回大会のHCに選ばれると思われ、オールブラックスの初の日本遠征もハートが率いていた。ところがあまりにオークランドが強いため、ハートがHCとなると、オールブラックスのメンバーがそれまで以上にオークランド中心になることに反対した他地域の指導者たちが、こぞってNo2のカンタベリーを率いるワイリーに投票し、ハートは第2回、第3回ともに落選し、一時的にラグビーの世界を離れ実業家となった。それが、第2回(ワイリー)、第3回(メインズ)と優勝を逃したため、1999年の第4回W杯にはラグビー界に復帰したハートを立てて必勝を期したのだった。ハートは何よりフィットネスを重視し、大きく重いFWではなく機動性に富んだメンバー選び、期待通りの好成績をあげ、W杯での優勝は確実だと思われていた。前哨戦の3カ国対抗(トライネーションズ)の最終ワラビーズ戦(ホームとアウェイの2戦)までは。ところが、この最終戦で軽量FWの弱点を突かれる形で敗北し、オールブラックスのW杯優勝に一抹の不安が芽生えたのであった。そしてそれが準々決勝のフランス戦で的中したのであった。
 この間のことはブログ開設初期にも述べたことがあるが、何が言いたいかといえば、フランスと南アではかなり受けるプレッシャーに違いがあり、本日の試合で本当のオールブラックスの力がわかるということである。フランス戦ではスタンドオフ・カーターも全盛期を彷彿させるほど、ランもパスもキックもさえていたが、これが本物かということもわかろう。とは言え、予想は僅差でニュージーランドの勝ちというところか。よくもわるくもお互いに相手の戦力は十分わかっている(若干4ヵ国対抗には出場していない新顔がいる)中での対戦である。
 とすると決勝はニュージーランドVSアルゼンチンとなるが、これも接戦となるのではないか。オールブラックスが図抜けているとの評価もあるが、それは相手のプレッシャーがアルゼンチン戦を除けば弱かったからだと思われる。昨年活躍したサベアも今年はさっぱりだったが、これまでは相手に助けられて8トライしており、真価が問われる。ミルナスカダーもこれまでのように自由には動けないだろう。それでも、オールブラックスが優勝する可能性が一番高いのは間違いない。NZ33%、アルゼンチン27%、南ア23%、豪17%というところか。とはいえ、どうなるかは神のみぞ知るである。W杯の4チームの試合を半分しかみておらず、素人の予想にすぎない。放送時間が遅いのが難点であるが、これまでの濃いラグビーファン以外の人がかなり試合を観戦することが期待できる。

2015年10月21日 (水)

WIN10への移行2

 前に述べたことのその後について報告する。ネットで検索してもアプリの動作確認情報はあっても、PCのそれはヒットしない。MacBookPro17については追記したように、7からのアップグレードでは問題があったが、8.1経由のアップブレードでは、一部のマック独特のキーがブートキャンプ上で使えないことを除けば問題は出ていない。
 ノートで965GLないしはGMと45GMの違いについて述べたが、前者であってもHDDをSSDに変更した場合は、インストール可能でスムーズに動いている。FMVのH8260もMacBookProと同様に、8.1経由ならアップブレードができた。DellのLatitudeD830(前期版)については、7からのアップグレードができて、この文章もD830(画面はWUXGA)で入力している。FMVはバイオスなどの更新ができないが、Dellはある程度の更新が可能である。ただし、スムーズなのはSSDにした場合で、DellのE5500の場合、7→8.1では起動を含めすべてが別人のようにスムーズになったが、10にしたとたんに重たくなった。また、プリンターの10対応ドライバーが未だ公開されていないこともあって、8.1に戻して使用している。ほぼハード的に近いE6400の場合は、ハイブリッドHDDに換装したためか、スムーズである。
 最後のATOKについて確認すると、2013以降なら、アップグレード後、再インストールすればエッジ上でも問題なく使える。2012の場合は再インストールしてもエッジ上での使用は不可であった。この場合のみ10に付属のIMEに変えれば普通に使えるのだが。ということで、ATOK並びに一太郎については、2013、2014、2015をそれぞれ2本購入して使用している。2013はジャストシステムではすでに購入できなかったが、アマゾンからダウンロード版の購入が可能であった。最新の2015を4本にする手もあったが、諸般の都合から、3バージョンを2本ずつとした。一太郎2013のスーバープレミアムに付属するドラゴンスピーチ11については、10ではインストールできなかったが、8.1にインストールしてから10にアップグレードすれば使用できる。フォトスタジオ13はインストール可能だが、ジャストシステムで16の優待販売をしていたので、そちらを購入して使っている。フォトショップ(写真の角度調整ぐらい)と同様ほとんど初歩的なレベルの使用にとどまってはいるが。時間に余裕ができれば、アドビのクラウド版の購入も考えられるが、いまのところはCS6と5.5で使用中。

2015年10月 9日 (金)

永安氏と弥冨下村

 永安氏は三隅氏の庶子であるが、弥冨名下村半分=遠田村との関係はどのようなものであったろうか。永安兼員と姉良海が下地中分した際の所領には含まれておらず、それ以降に獲得したか、兼員(ないしはその子兼秋)が母との関係で獲得したものとなる。
 兼員は元弘3年6月29日には周布兼宗と同様上洛し、足利高氏の証判を受けているが(益田家文書)、その後の史料はなく、貞和4年5月4日に、その子と思われる「永安二郎太郎」が石見国大将上野頼兼から赤松城攻撃の際の勲功を賞されている(古証文)。次いで、正平9年9月2日には足利直冬からの軍勢催促状が、良海子吉川次郎三郎経兼と永安太郎左衛門尉に与えられている(吉川家文書)。三隅氏略系にみえる兼員の子兼秋で、反幕府方に転じる中、「二郎太郎」から任官して「太郎左衛門尉」となったのであろう。その母の出自は不明だが、「後に真海尼と号した」と記されている。翌正平10年10月には「永安太郎左衛門尉」と「永安三郎」が直冬から高津城での軍忠を賞せられている。「三郎」は三隅氏略系では兼秋の弟に三郎左衛門尉兼豊が記されている(吉川家文書)。このように永安氏は良海とその子吉川経兼と同様、観応の擾乱を契機に反幕府方に転じて三隅氏と同じ立場に立った。その後の幕府方への復帰も共同歩調をとった可能性がある。 永安氏が観応の擾乱期に弥冨名下村半分を得た可能性もある。貞和7(正平6)年6月19日には吉川次郎三郎経兼が当知行地の安堵を申請し、これに対して三隅信性が請文(起請文)を提出しているが、その中に納田郷内弥冨がみえている。弥冨名は本来は納田郷とは独立した所領であったが、それを納田郷(三隅郷)内とするとともに、弥冨を吉川経兼が当知行しているというのである。
 応安4年に永安周防入道祥永が弥冨名下村半分地頭職を自己の所領であるとして、益田祥兼(両者ともに「祥」の一字を法名に付けている)を訴えた背景には、観応の擾乱期に永安氏もまた弥冨名の一部を与えられたことがあったのではないか。兼秋の子が「直秋」と足利直冬との関係をうかがわせる名前であることも注目される。三隅氏庶子井村兼雄の子の中の3人信連・兼景・兼武(兼氏)の母は足利直冬女子であったと三隅氏略系は記している。

2015年10月 6日 (火)

宛名の切り取られた文書

 長府毛利家文書に次の文書が残されているが、宛名は切り取られている。
 三隅尓御渡候由承候、御子息是へ被来候、今度志殊ニ悦入候、諸事三隅方へ申候、返々 今度御振舞難有候、恐々謹言、
    六月廿四日  義弘(花押)
なぜか南北朝遺文にも掲載されていないが、影写本作成以降、長府毛利家から流出し、現在は下関市が手鑑として保管しているようである(この外に大内教弘と政弘の書状もある)。この文書については、藤井崇氏が大内義弘発給文書一覧表に掲載し、康暦2年のもので、周布士心宛ではなかったかとしている。
 長府毛利家文書には益田氏が所領を拡大する中で入手したと思われる他氏の文書が含まれている。現在でも益田家文書に残っている同種の文書もある。藤井氏は康暦の内乱に関係する文書として、この文書を理解されたが、すでにこのブログで述べたように矛盾点がある。周布士心がその子息弾正小弼兼仲とともに宛名としてみえる大内義弘書状は康暦2年ではなく、至徳2年のものであることと、長府毛利家、手鑑(筆陳やその他のものもあり)、益田家文書に残っている他氏文書には本来周布氏が所持していた文書は一通もないことである。
 ここでは永安氏宛ての文書であった可能性を検討したい。永安氏は三隅氏の庶子で、弥富名をめぐって益田氏と対立していた。6月24日書状では大内義弘が某が三隅氏のもとへ行き、某の子息が大内氏のもとに来たことを述べている。某は三隅氏と関係する問題を大内氏に訴えたのであろう。それに対して義弘は自分からも三隅氏に申し入れることを述べるとともに、今回の某の振舞について感謝している。
 最後の表現から、某と三隅氏の所領問題ではなさそうであり、義弘と満弘・祥兼の対立に関するものである可能性は高いのではないか。すなわち、義弘・三隅氏と某は同じ立場にあったのである。
 それで当該期の永安氏について確認すると、応安4年の段階では永安周防入道祥永(兼員子兼秋)が弥富下村をめぐり益田祥兼と対立していたが、結果としては益田氏の主張が認められた。次いで、祥永の後継者である永安左近将監(直秋)が、至徳2年以降の義弘と満弘・祥兼の対立の中で遠田城と弥富下村=遠田村の支配を一時的には認められたが、嘉慶2年11月の段階では対立から和解の方向へ変わったのか、大内氏が永安左近将監に遠田城から退去することを求めていた。対立が完全に解消した明徳5年段階では、益田次郎兼家が弥富名上下村に関して永安太郎(兼範)が支申していることを訴え、大内氏が弥富上下村を益田氏に渡すことと、永安太郎には上京してその主張を述べることを伝えるよう、守護代右田伊豆守に伝えている。そして応永年間にも、益田道兼(大日本古文書は祥兼とするが、宛名が杉豊後入道なので成り立たないことは藤井氏が指摘するとおり)が、永安氏の訴えが退けられたにもかかわらず、なお永安太郎が重ねて訴えたことに対して納得がいかないことを述べ、それを守護代右田弘直が大内氏奉行人に伝えている。
 何より、長府毛利家文書と益田家文書には永安氏の関係文書が含まれているのである。年未詳6月20日大内奉行人連署書状についても、宛名が切り取られており、これも本来永安氏宛ではなかったかということを述べた。6月24日書状についても、至徳2年以降の対立の中で、永安左近将監とその子永安太郎が惣領三隅氏と大内氏に弥富上下村のことで働きかけるとともに、それを実現するため益田氏攻撃の一翼を担っていたことに関する文書であったとの推定はそれほど的外れではないと思うがどうであろうか。

2015年10月 4日 (日)

義弘と満弘・祥兼の和解3

 3者の2度目の対立は、嘉慶2年11月29日の大内奉行人連署奉書段階では緩和の方向に動いていた。これより少し前(至徳3年以降)の年未詳6月9日奉行人連署書状では大内氏による益田氏攻撃が迫っていた。それがなんらかの理由で転換した
 藤井氏があげる明徳4年10月19日の堺での犬追物に、将軍・管領とともに、左京権大夫義弘と伊予守満弘が参加していることから、この時点では和解が成立していたことになる。次いで同年12月27日には益田庄地頭職が義弘から一円に益田次郎(兼家)に返されている。その意味で注目されるのが、明徳2年10月の祥兼の死と、明徳3年11月13日の益田兼顕(← 兼世、法名道兼)の左近将監補任であろう。翌年10月に伊予守とみえる満弘が任官したのも同時であろう。大内義弘と幕府を通じて任官を申請した可能性が高く、この時点では和解が成立していたことになる。嘉慶2年11月には妥協の道が模索されており、それがこのような形で結実したのであう。この時期は山名氏による明徳の乱も起こっており、幕府の立場からすると大内氏の内紛は解決しておきたかった課題であったろう。

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ