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2015年9月

2015年9月26日 (土)

益田家文書中の後醍醐天皇綸旨5

 益田家文書には2通の元弘3年の後醍醐天皇綸旨が含まれている。8月29日付の御神本三郎兼衡に当知行地の安堵を行ったものと、4月9日付で「出雲高保可致合戦之忠者」としたものである。後者については以前、「出雲高保」を地名とする解釈が一般的であったが、他の後醍醐天皇綸旨との比較から人名であるとの説を提示した。実際、船上山の戦いの後に「高保」で軍忠を尽くせとの解釈よりも、「出雲高保」に対する軍勢催促であるとの解釈の方が遙かに現実的である。
 これに対して前者は現在残っている系図に該当者はみえないが、「三郎」がポイントであろう。益田氏惣領は、太郎兼長の早世後、弟次郎兼久がその跡を継承したこともあり、兼久の嫡子は弥次郎兼胤であった。兼胤と兼長女子との間に生まれたのが「孫太郎兼弘」であった。益田氏惣領となるとともに、兼長後家阿忍から伊甘郷を譲られたのは、兼長系と兼久系を統合した益田氏惣領の継承者を象徴するものであった。ところが、祖母阿忍と相続問題で対立し、伊甘郷は悔い返しにより阿忍の別の孫鳥居女房に譲られた。そのためか、兼弘の後継者は「次郎兼世」であった。
 これに対して後の惣領兼見の父「太郎兼方」は庶子であった。兼見が孫次郎を名乗っていることからすると、兼見は兼方の庶子であったことになる。実際、観応の擾乱以前の兼見の軍忠状には「‥‥郷地頭」といった表現は無く、未だ所領を譲られていなかった可能性が高い。同様に、三隅氏の一族の永安氏の庶子であった吉川兼明(当初の経兼から惣領三隅氏と袂を分かつため経明と名を変更)軍忠状にも当初は「‥‥郷地頭」との表記は無かった。それが幕府方として軍忠を積む中で南朝方となり没収された一族領を得て「津淵村地頭」と名乗るようになった。
  三郎兼衡の候補としては、兼世・兼方の兄弟、ないしは兼世の子(竜雲寺蔵三隅氏系図には「又三郎兼氏」がみえる)を考えることができる。宛名が本文中に含まれるため、益田氏惣領ではなく庶子であったのは確実である。
 上記の2通に対して、益田家文書の担当者である久留島典子氏の科研報告所では、元弘3年5月5日後醍醐天皇綸旨(益田金吾家文書)が紹介された。宛名としてみえる弥三郎は苗字は不明だが、某氏の庶子ではなく惣領であったと思われる。長門探題攻撃に関して注進したことに対して、すでに京都に帰っているので改めて朝廷に申入れることと、長門探題討滅を急ぐように命じている。
 長門探題攻撃といえば石見国の吉見氏や高津氏が中心であったが、現在のところ該当する人物は見当たらない。高津道性は高津兵衛次郎入道と同一人物で、高津「余次」長幸も
その子であろう。三郎と言えば内田氏と俣賀氏の惣領とも考えられるが、前者は惣領内田左衛門三郎入道であり、別人である。残るは俣賀氏惣領であるが、建武3年6月の俣賀熊若丸代内田致氏軍忠状では、5月25日の兵庫合戦に弥三郎宗景とともに軍忠を行ったことを述べている。ともに行動した人物は代表的人物を記すことが多いので「弥三郎宗景」が俣賀氏(上俣賀氏と下俣賀氏)の惣領で、その父が「弥三郎入道」であった可能性を指摘したい。益田金吾家文書は益田氏と内田氏・俣賀氏に関する文書が大半である。

2015年9月22日 (火)

長野庄について3

 飯田郷は益田氏が地頭職に補任されていたが、13世紀後半の惣領益田兼胤の代に没収され、その跡に市原郷・飯田郷を支配する一族の茂国が代官に補任されたのであろう。得屋郷も同様に、本主である岩田氏の支配が復活したのであろう。益田氏惣領の所領没収からは幕府による西国御家人圧迫が想定できるが、これをみると、意図的に所領を没収したとまでは言えないかもしれない。建武2年に益田氏に返された益田本郷・小石見郷・津毛別符・疋見別符は東国御家人に与えられた可能性が高いが、本主である国御家人が獲得した例もあったのである。津毛別符や河本郷は益田氏と婚姻関係を結んで所領を得ていた小笠原氏関係者に与えられている。
 建武4年5月には長野庄惣政所虫追四郎左衛門尉政国が一族を率いて長門国で幕府方として行動している。政国は元応2年の四郎左衛門入道の関係者であろう。同年10月には安濃郡河合郷地頭金子清忠が白上郷地頭職に補任されている。白上郷の領主が南朝方となったことにより、勲功の賞として金子氏に与えられたのだろう。なお、周布氏系図の中に含まれる「藤原氏田村・来原家畧系」には、鎌倉初期に来原郷地頭職に補任された東国御家人田村資盛の子として、来原郷を譲られた孫(弥ヵ)四郎盛家以外に四郎次郎盛次と四郎三郎有政を記し、盛次は兄から白上郷を譲られたことを記す。有政は同じ東国御家人越生有平の養子に入り、承久の乱の勲功で宇津郷を得ている。資盛には来原郷を領したことのみ記すので、整合的に考えると、盛家が承久の乱の勲功で白上郷を得、それを弟盛次に譲ったということになる。白上郷は本郷と新白上郷に分かれ、新白上郷は源国久が庄務にあたっていたが、白上郷は東国御家人が地頭となり、その子孫が南朝方となり、幕府方の金子氏に与えられた。後に田村(来原)氏や周布氏が白上郷を与えられるものそうした背景があったのであろう。
 これまで述べていない吉田郷と角井郷については、南北朝期に吉田氏と角井氏の存在が確認でき、高津郷と同様、益田氏以外の国御家人が支配していたのであろう。
 以上をまとめると以下のようになる。
豊田郷:承久新恩東国御家人内田氏・俣賀氏 →益田氏・吉見氏
美濃地黒谷郷:承久新恩東国御家人波多野氏 →益田氏・吉見氏
白上郷:承久新恩ヵ東国御家人田村氏 → 周布氏・益田氏
新白上郷:源氏 → 周布氏・益田氏
市原郷:代官源氏 → 益田氏
飯田郷:益田氏 →代官源氏 → 益田氏
安富名:益田氏→周布氏→丸毛氏 
得屋郷:益田氏→岩田氏 → 益田氏
角井郷:角井氏(吉田氏の一族、源氏ヵ)→周布氏・益田氏
吉田郷:吉田氏(源氏ヵ) →益田氏
高津郷:高津氏 → 益田氏

長野庄について2

 長野庄に関する確実な史料の初見は貞応2年石見国惣田数注文(益田家文書)であり、豊田郷・飯田郷・安富名・得屋郷・角井郷・吉田郷・高津郷・美濃地黒谷郷・白上郷・市原郷から構成されていた。益田兼栄-兼高領としては飯多郷・得屋・安富・高津がみえるが、これは途中経過を示すもので、最終的に益田氏領と確認されたのは飯田(多)郷と安富名であった。高津郷については周布氏蔵益田氏系図により、長寛二年に兼栄が高津本郷下司に補任されたことが記されているが、その一方では高津を苗字とする高津氏が存在し、両者の間で競合があり、結果としては高津氏の支配が認められたのであろう。飯田郷については貞応2年の関東下知状で兼季の三代知行が認められており、これも兼栄の代に獲得したものである。安富名も同様であろう。これに対して問題となるのが益田庄、それも本郷と境を接する得屋郷である。長野庄の惣政所として「国」を名乗る人々が多いのは12世紀半ばの石見国司源国保(重任し2期務める)との関係なのに対して、益田(御神本)氏が「兼」を名乗るのはその後任の源季兼との関係であろう。これに得屋郷が長野庄に含まれたことを勘案すると、長野庄が先行して立券され、次いで益田庄が立券されたと思われる。
 長野庄内で地頭の設置が確認できるのは、益田氏領となった飯田郷・安富名と、承久の乱後に新恩地頭が補任された豊田郷(内田氏)と美濃地・黒谷のみである(後でもう一ヶ所追加)。延応元年には地頭により年貢の未済があり、領家側が幕府に訴え、幕府と六波羅の命令が出たことを踏まえて、領家が美濃地・黒谷郷を惣政所の沙汰として過去の未済を含めて催済すべきことを住人に伝えている。一旦は地頭請所となり、それが地頭の未進により撤回されたのであろう。地頭の補任が確認できない所領では、益田氏以外の国御家人が、領家から代官に補任されて年貢の納入にあたっていたと思われる。宝治元年には領家下文により、惣政所に対して国頼入道跡の給田畠を国久に与えるので万雑公事を免除することが伝えられている。13世紀後半に比定できる年未詳12月15日書状(益田家文書)には、本領(飯田郷ヵ)と新白上・市原郷の庄務にあたっていた国久が死亡したことにより、領家が国連に代官職を安堵することが述べられている。これに次いで、最初に引用した嘉元2年の領家某下文が残されている。左兵衛尉源茂国が飯田郷と市原郷の庄務にあたる代官職に補任されている。次いで元応2年には領家から、四郎左衛門入道が、長野庄飯多・市原両郷奉行事を命ぜられている。これらはすべて同族で源氏姓で、「国」をその名に付けていたと思われる。この一族が左兵衛尉や左衛門尉のように13世紀後半以降も任官していることは注目に値する。益田氏一族の場合、任官しているのは益田兼時・周布兼定兄弟とその叔父にあたる三隅兼信・福屋兼広までである。

長野庄について1

 以前『島根県の地名』で長野庄を担当して述べたことがあったが、その後、明白な誤りであることが判明した点もあり、改訂版として以下に述べていく。明白な誤りとは、長野庄が関東御領であるとした理解で(「中世石見国武士団について』でも同様の理解を述べたが、ブロク掲載版では訂正)、その根拠とした嘉元二年七月二七日領家某下文(保阪潤治氏所蔵手鑑)の理解に問題があった。
 下 長野庄内飯田・市原政所
    宛補 御代官職事
     左兵衛尉源茂国
 右以人補任彼職、令執行庄務、恒例臨時御公事無懈怠可致其沙汰之状、所仰如件、住民 等宜承知敢勿違失、故下、
      嘉元二年七月廿七日
 (花押)
これを掲載した『鎌倉遺文』では幕府将軍久明親王の花押であるとし、次いで同文で署判の位置と署判者が異なる「北条時村下文案」(古証文)を掲載していた。ここから関東御領であるとし、領家某下文と同形式の延応元年九月三日と宝治元年五月日の某下文の署判者を九条頼経であるとした。ただし、花押は頼経のものに似てはいるが、同一とまでは断定できないものであった。
 それを益田氏系図の研究をまとめている際に、史料編纂所のデータベースで久明親王や北条時村の花押を検索してもヒットしないので、花押の比定が違うのではないかと思うようになり、久留島氏に問い合わせたところ、前者の花押は久明親王のものではなく、後者は前者を写したもので、北条時村のものである根拠はないとの回答であった。ということで、その後明らかになった点を含めて修正したものを掲載したい。

W杯とオールブラックス

 「理由を述べられない人達」に記したように、様々な記事にコメントが付いているが、その多くは十分な情報もなしに意見を述べている。ちゃんと調べて十分考えて書かないと公開する意味は無く、自己満足にすぎない。
 今年のラグビー・チャンピォンシップのアルゼンチン戦も観戦したが印象が少ない。W杯初戦のアルゼンチン戦はフォワードが接点での攻防が劣勢で驚いた。まるで2007年大会を見るようだった。この時はグレアム・ヘンリーHCのもと、本大会までメンバーを固定せずにやってきた。1次リーグは1位通過したが力強さが感じられず簡単にターンオーバーされ、相手の前進を止める力も弱かった。そして迎えた準々決勝は前半優位に立ちながらフランスに逆転されると挽回する力がなかった。
 今回のチームはベテランと若手が中心で中堅が少ないとされる。まさに2007年大会で優勝してABから引退する(北半球への移籍はあったであろう)はずの選手が今回も主力となっている。FLマコー 、SOカーター、PRウッドコックの3人でいずれも30代半ば(HOメアラムも同年代)。8月に日本代表と試合をした世界選抜のPRハイマンはABでウッドコックとコンビを組んでいたが、こちらは2007年にABから引退し、現在はフランスでプレーしている。今年限りで現役から引退するとのこと。2011年でABから引退して日本のトヨタに2年間所属後、代表に復帰したカイノもいるが、前回と比べれば目立たない。
 上記のメンバーは経験は豊かであるが、大会前の伸びは期待できない。W杯ではどのチームもそれまでのテストマッチの段階から数段レベルアップして来るのに。日本代表もこれまではハードなトレーニングと並行しての試合でベストではなかったが、本大会でようやくベストの状態として、初戦の南アに勝利した。
 以前も述べたと思うが、2007年と2011年大会の後、コーチ陣を一新しなかったことが影響している。ヘンリーの後はアシスタント・コーチのハンセン(以前、ヘンリーの下でウェールズのACで、ハンセン辞任後HCとなった際の成績はさっぱりだった)のHC昇格が既定路線であり、そのため、本来ならHCの最有力候補であったディーンズはワラビーズのHCとなり、現在は日本のパナソニックのHCである。今回のW杯でも、アイルランド・ウェールズ・スコットランドのHCはニュージーランド出身で、ABのHC候補はいくらでもいたのに、である。
 大会の結果は神のみぞ知るであり、結果が出る前の今だから言えることであるが、スコットランドのHCコッターもなかなかの指導者であるようだ。その後輩であるアイルランドのシュミットHCの方がシックスネーションズ2連覇と結果を出しているが、それはスコットランドとアイルランドのそれまでの実力の違いによるところが大きいであろう。スコットランドの最近の試合を調べると(日本の記事では見当たらない)、前半の六ヵ国対抗では5敗で最下位であったが、イタリアと比較すると、イタリアは他の4試合とも完敗、スコットランドは4試合とも惜敗かそれに近いもので、イタリアに惜敗したのが信じられない(19-22)。8月のテストマッチをみると、アイルランドとフランスには善戦し、イタリアには2勝(16-12、48-7)である。若いチームでまだムラがあるが、日本戦は接戦になる可能性が高い。
 少し前なら、ウェールズのHCガットランドも次期ABのHCの有力候補とされていた。国内組ではチーフスHCとしてスーパーラグビー2連覇(2012・2013)を達成したレイニー(最近評価は低下気味)、今年初優勝のハイランダースHCジョセフ(1999年W杯の日本代表、当時はAB代表歴があっても問題なし)、2位のハリケーンズHCクリスボイドなど人材は豊富だが、ダントツの候補者はいない模様。
 題名から離れるが、日本代表のHCの後任はどうなっているのであろうか。ここで誤るとすぐにレベルダウンしてしまう。トップリーグのHCにも海外で実績のある人がいるが、それらを含めてきちんと選ばないと元の木阿弥となる。
 
 

2015年9月12日 (土)

花押比定の間違い

 益田家文書67号に年未詳8月13日大内義弘書状がある。内容は石州事について元の如く御教書が出されたことを伝えて、了解を求めたところ、子細有るべからずとの返事をもらい悦んでいることと、早々出陣すべきことを伝えている。問題なのはその時期と切り取られた?宛所は誰かということである。
  大日本古文書では永徳元年頃かとあるが、松岡久人氏論文集の補注(岸田裕之氏)では花押の形から至徳2年~3年のものとされる。確かに康暦年間のものや、明徳年間の義弘の花押とは明らかに異なっている。ということで、当該時期の至徳2年7月11日大内義弘書下の花押を見ようとして「日本大学総合図書館所蔵俣賀家文書」の花押一覧を見たら、絶句させられた。花押が大内義弘のものではないのである。よりによって当時対立していた大内満弘のものなのである。両者の花押は明らかに異なるのに、このずさんさは一体何なのであろうか。
 さらに問題なのは、これが『南北朝遺文』にも受け継がれ、それに基づく東大史料編纂所の日本古文書ユニオンカタログでも、さらには便利であるはずの藤井崇氏の「大内義弘主要文書表」でも同様の記述となっている(この外にも様々あるが省略)。「花押かがみ」の室町時代編が刊行されれば訂正されるのだろうが‥‥。
 ということで、大内義弘の弟弘茂の文書が確認できる至徳2年7月22日の直前の11日の時点でも、満弘の文書発給が確認できた。その内容からは、本領(一旦失っていた)を安堵することで、俣賀氏の取り込みを図ったもので、義弘との対立はすでに起こっていたのであろう。最初の8月13日の義弘書状は石見国守護に復帰したことにより、満弘方を排除するため、某氏に出陣して義弘方となることを求めたものであろうか。花押そのものはすべてを確認してはいないが、永徳年間でもよさそうな気がする。出陣が必要な事態が発生していることとなれば、至徳2年~3年という岸田氏の比定が妥当かもしれないが。
宛所については益田氏ではありえず、益田家文書に関係文書が残る得屋氏などの対立者であろう。

2015年9月 9日 (水)

義弘と満弘・兼見の和解2

和解は確認されないにもかかわらず。遺文では永徳二年に比定されている。
  御本領事伺申候之処、不可有子細候、被遣代官可有知行之由候也、恐々謹言、
 六月廿日   智高(花押)
            良智(花押)
この文書には宛名がないが、本来なかったのか、切り取られたのかは不明とされる。大日本古文書でも明記されない。写真からすると微妙な点もあるが、宛名は当然あったはずである。その部分を切り取ったのであろう。そして、井上氏と大日本古文書の編者久留島氏はともに益田祥兼宛とされるが、祥兼宛なら切り取る必要がないので、久留島氏も切り取ったとは書かれなかったと思われる。問題は祥兼宛なら切り取る必要がないのに切り取っていることである。
 松岡・井上・久留島氏ともにこれが永徳三年二月二五日の足利義満による益田祥兼領の安堵に関係する文書とされるが、それには多くの疑問がある。下線部のように、代官を派遣して知行せよとあり、本領一般ではなく、特定の所領が本領であることと知行が認められたので、代官を派遣せよといっているのである。問題はこの文書の時期と宛名である
手がかりとなるのは、署判者である森良智と杉智高である。大内氏奉行人の発給文書については藤井氏の論文に一覧でまとめられており、A康暦二年二月二七日奉行人奉書、
B嘉慶二年五月一八日奉行人奉書、C嘉慶二年一一月一九日奉行人奉書、D年未詳六月九日奉行人連署書状である。
 Dの年次比定も重要であるが、藤井氏は康暦二年とされるが、遺文ではCに続いて掲載されている。井上氏は永徳元年の和解直前のものとされる。内容からすると、Dでは大内氏による益田発向が近づいており、永安左近将監に遠田城を執るように伝えていたのが、Cでは一転して永安氏が遠田城から撤収することを求めているので、C=嘉慶2年以前ということになる。Aでは森大和守で、この直後の三月一六日義弘書状では森大和入道と記されており、康暦二年との比定は不可能ではないが、すでにみた康暦二年後半に比定される文書と内容はずれている。永安氏のみならず、益田に隣接する安富氏も益田氏への攻撃に参加していることがわかる。遺文が比定したように、嘉慶二年一一月以前のものだが、松岡氏が説かれる至徳2年以降の大内義弘と益田氏の対立に関わるものであろう。藤井氏と井上氏はこの二回目の対立の存在を認められないが、一回目の対立では益田氏は関係していないことはすでに述べたとおりである。
 問題は年未詳六月二〇日連署書状であるが、これも至徳二年から嘉慶二年の益田氏と永安氏の対立に関係するもので、宛所は永安左近将監であったと思われる。それゆえに宛名は切り取られたのである。遠田城を含む弥富下村が永安氏の本領であることが認められ、永安氏の代官を派遣して知行すべしと大内氏側が伝えたものであった。関係史料をみると永安氏の本領であるのは三隅氏から譲られた小弥富であり、遠田については確認できないが、当時の益田氏攻撃の中で、大内氏が政治的に判断したのであろう。永安氏と益田氏の間では弥富をめぐり応安四年以降何度か対立が繰り返されているが、益田氏の主張するように、永安氏は遠田村に関する証拠を提出できず、結果的には応永の乱後の益田道兼(祥兼嫡子)の段階で、益田氏の勝利が確定している。この文書の年次比定も不正確であり、大日本古文書でも益田祥兼の時代のものとされているが、藤井氏が指摘されたように宛名の杉重連が出家した応永2年以降のものである。
 永徳元年六月頃に満弘と義弘の間で和解が成立したとされながら、その根拠を確認できずフラストレーションがたまっていたが、ようやくその根拠となるものがないことに気づき、それとともに年未詳六月二〇日連署書状に注目してみた。あと、細かい事であるが、井上氏、松岡氏(遺文)、久留島氏(大日本古文書)ともに、これを連署奉書とされるが、藤井氏の一覧表にあるように連署書状が正しい。このあたりも論者の感覚からは信じられないことである。過去に奉書といわれていても、文書形式は連署書状なのである。これで少しだけフラストレーションが解消した。大切なのは後から検討するものが、論文といえるような作業を行うことである。萩閥や松岡氏の作業段階では様々な意味で大変であったと思われる。

義弘と満弘・兼見の和解1

 この問題に関する松岡氏の理解を再掲する(『南北朝遺文』解説より)
①同二年五月頃、弘世の家督をめぐって義弘・満弘兄弟の継嗣争いが起こり、安芸国内郡、長門国下山城、石見国益田領など領国の諸方面で戦闘が展開したが、永徳元年(一三八一)六月頃には石見福屋氏を頼っていた満弘と義弘の間で和解が成立した。しかし満弘陣営にあった益田氏と義弘との和解が成立したのは、それより遅れて永徳二年閏正月頃と推定される。
②しかし両者の対立は直ちに解消したわけではなかった。詳細はなお明らかではないが、永徳二年八月の時点で大内満弘の石見国守護権限行使が認められるのと並んで、至徳二年(一三八四)七月より十月にかけて、義弘与党の大内弘茂の守護行使が認められ、満弘と弘茂との間に一定の対抗状態の存在をうかがわせる。 

 最大の問題点は、①の下線部であることにようやく気がついた。実は松岡氏の論文で最もあいまいで、根拠を欠いた部分であった。康暦二年五月以前に両派の合戦が始まったのは安芸国と長門国で、安芸国で討たれた人々の中に石見国守護代内美作守がいたと『花栄三代記』は記していた。問題はここからである。
 年未詳一〇月八日大内義弘書状が松岡氏の説くように康暦二年に比定できるのはすでに確認したとおりであるが、長門国下山城から阿武郡をへて益田辺へ入る以上のことはわからないのである。「三郎=満弘に同心する国人と芸州者共」の注進を幕府の使者が命じており、長門・石見・安芸国に満弘派がいたのも確実である。この時点で周布氏に対する幕府からの同年七月一九日付の感状も出されていた。六月二四日付義弘書状では、平子新左衛門尉を派遣したことを周布入道に伝え、三隅氏と談合することと、満弘が石見国では福屋氏を頼っていることもわかる。最初の問題はここに益田氏の名前が出ていないことである。松岡氏をはじめとして誰もこの点に疑問を持たれなかったのが不可思議である。
 松岡氏は続けて説かれる。周布兼氏が一族の結束の弛緩の問題に悩まされながらも八月には子息兼仲を益田氏攻撃にあたらしめ、八月下旬には義弘軍が益田近辺まで攻寄せ、九月上旬には右田弘直の別働隊も到着したと。次いで一〇月八日書状を引用され、益田氏攻撃軍が増強され、義弘自らも一両日中に益田辺へ入る予定であるとされながら、その後の経過は遺憾ながら明らかではないとされ、一二月に至るまで市原城の攻撃が進捗したが、厳冬の間は作戦は中止されたらしいとなる。ここでなぜ文書間の矛盾に疑問をもたれなかったのであろうか。
 岸田浩之氏も周布氏庶子の問題と満弘・義弘間の対立を特に結び付けては考えず、周布氏への公田数の低減と庶子への恫喝を機械的に解釈していたのみであったが、松岡氏の表現からも両者は別々の問題とされている。なぜ、益田辺に軍隊を集結しながら厳冬のため作戦を中止するのであろうか。益田周辺が冬でもほとんど積雪がないことは周知のとおりであるが、康暦二年から三年にかけてはそんなに厳冬であったのだろうか。次いで三月一六日付の義弘書状から、にわかに政局が活気を帯びたとされ、福屋氏との間には和平交渉が進められ、益田氏との間には戦闘準備が開始されたとある。益田氏との戦闘準備ならすでの十二分に整っていたはずなのに。福屋氏との交渉とは満弘との交渉であるのに、なぜ益田氏と義弘は戦うのであろうか。益田氏(この時点で兼見女子が満弘と結婚していたとされる)が降伏すれば、満弘・福屋氏との交渉がさらに進むのであろうか。すべては無理な年代比定に基づき強引に解釈するからである。
 すべてが極めつけなのであるが、三月一六日の書状で、前年に安芸国で討たれた美作守方へ義弘方の軍が派遣されていることについても、松岡氏は何の説明もされない。この書状は康暦2年のものである。さらに六月に至り義弘と満弘の和解が成立したとされる。ところが、松岡氏の論文集をまとめられた岸田氏は、注27番が重なっており、二つ目の27番の注が萩閥周布の六九番・六一番であって、六月に和解が成立したことの典拠は不明だとされている。実際、六月に和解が成立したことを示す史料は存在していない。ようやく①の下線部の問題点に到達した。本来なら、この問題を再検討した論文で指摘がなければならないが、それは松岡氏自身を含めてない。松岡氏は遺文の解説でも「六月頃には」とあいまいにされながら述べられているのである。

2015年9月 7日 (月)

三隅・福屋・周布氏領について

 末元別符は所在地が不明だが、周布郷の西側、納田(三隅)郷に隣接する地域にあったと思われる。貞応2年の石見国大田文では6町7反180歩で、永安の7町300歩よりやや狭い程度である。それを考えると一定のまとまりを持った所領であった。問題は益田兼栄-兼高父子の所領に見えないことで、三隅兼信が譲られたことからすれば、その母の所領であった可能性が大きい。益田兼季(治承・寿永の乱にも参加したか)と三隅兼信・福屋兼広兄弟の間には一定の年齢差があり、母親も違う可能性が大きいが、兼信と兼広はどうであろうか。
 三隅氏畧系によると兼信は早い段階(正治年間)から納田郷内の三隅城に入部しており、母からの末元別符とともに父から納田郷を譲られていた。それが兄兼季の死亡により、木束郷・永安別符・小弥冨を配分されたのであろう。福屋兼広の場合は早くから日和郷内福屋に入部していた。日和郷も兼栄-兼高領にはみられず、大家西郷(こちらも兼仲の子が譲られていることからすると、兼仲の妻の所領である可能性もあるが、すでに述べたように大家西郷津淵村を譲られ、永安兼栄と結婚した良円は兼仲ではなく、兼広の子である可能性が大である)とともに、母ないしは養子に入ることで譲られていたのであろう。それが後に、阿刀別符・大井原・阿部郷(兼栄・兼高・兼季領としては久富名と表記。以前の説明をこの点について修正)・市木別符を譲られたのであろう。
 周布兼定についても正治年中に祖父兼高が福光郷を譲ったとの記述があるが、兼栄-兼高領に見えず、福光郷は兼高の妻、ないしは兼定が養子に入った先の所領である可能性が大きい。当初の予定としては、益田氏の惣領に所領の大半を相続させ、兼信・兼広並びに兼定には、末元兼直や丸毛(茂)兼忠と同様の扱いを考えていたのかもしれないが、兼季の急死により、一族で配分が協議され(幕府の影響の有無は不明)、三人には一定程度の所領を譲って独立させようとしたのであろうか。その後の益田氏、三隅氏、福屋氏の相続形態も同様の考え方で行われている。ただし、周布氏については、4カ所の所領が石見国東部から西部にまで散在したこともあって、4カ所それぞれを惣領と庶子家で分割する形をとっている。

2015年9月 6日 (日)

康暦内戦(後半戦)

 康暦内戦の前半戦は康暦2年から翌3年(永徳元年)にかけて大内弘世の子義弘と満弘の間で長門・石見・安芸国で戦われたが、1年後には和解が成立し、満弘が石見国守護、義弘が大内氏惣領と防長守護等の地位を占めた。石見国人の内、この内戦で満弘を支持したのは福屋氏と内田氏、周布氏庶子、越生氏などであった。これに対して義弘を支持したのが、三隅氏・周布氏惣領・石見吉川氏等であり、益田氏は中立的立場にあった。
 これに対して後半戦については無かったとの説もあるぐらいで、大内満弘・益田兼見が大内義弘・周布氏と対立した点を除けば不明である。通説とは異なり益田氏に対する攻撃が行われたのは前半戦ではなく後半戦であるが、それにもかかわらず後半戦は存在しなかったとの説すらあるのは大変不思議である。満弘と益田氏のみが大内義弘と対立したのであれば、至徳2年(1385)から明徳4年(1393)までのあしかけ9年間に及ぶものとはならなかったと思われる。この問題を解く鍵は至徳2年以降に周布氏や他氏に安堵・預置された所領であり、その所領をめぐる競合者は反義弘派と考えて良いのではないか。
 周布氏に安堵された所領については松岡久人氏の論文に表が載っているが、周布郷(庶子や小石見郷との境界をめぐり三隅氏庶子井村氏と対立)、来原別符・白上郷本・新・小坂分(田村氏=来原氏の一族と対立)、井尻村(福屋氏と対立)、有福村・宇豆郷(越生氏と対立)、佐野別符(河上氏ないしは福屋氏と対立)、貞松名(内田氏惣領と対立)、末元別符(末元氏とその惣領である益田氏・三隅氏と対立、末元別符は三隅氏領であるが益田氏から養子に入る)、井上(伊甘)郷内宇野村(益田氏と対立)、市木郷(福屋氏と対立)ということになり、前半戦よりも多くの国人=益田氏・福屋氏・周布氏庶子・来原氏庶子(その文書は益田家文書として残っている)・越生氏・内田氏惣領・河上氏?が満弘派であったと考えられる。所領の問題で井村氏(三隅氏略系では周布士心と対立した兼武=兼氏の子までしか記さない)をあげたが、三隅氏惣領は永安氏と同様義弘方であったことがわかる。
 これに対して義弘派は義弘ないしは弘茂により安堵を受けている。周布氏、俣賀氏[これは義弘の発給文書ではなく、満弘書下であった]、石見吉川氏(周布兼氏女子が嫁入)、得屋氏、永安氏、君谷氏(これと対立する高橋氏は満弘派?)、小笠原氏、大家氏、鳥居氏、それに三隅氏と益田氏の庶子の一部、安富(丸茂)氏というところであろうか。そして後半戦における大内義弘との関係が、応永の乱の中での対応に影響したと思われる。前述のように益田・三隅・福屋氏が大内氏方から離脱した段階でも周布氏が残っていたことを推測した。そして応永の乱の影響を最も強く受けたのも周布氏であり、乱後に認められた所領は、至徳2年に得たものの一部にとどまった。また、周布氏系図で、周布兼仲の子が兼宗のみしか記されていないのも、周布氏惣領と庶子の対立ならびに応永の乱の影響であったと思われる。
 以上、松岡氏のみが後半戦の存在を積極的に指摘されていたが、単に大内満弘と益田氏のみが大内義弘と対立していたわけではない。それがゆえに、益田氏攻撃が行われたかどうかも不明であるが、反義弘派が10年間にわたって存続しえたのではないか。益田庄の没収も幕府ではなく石見国守護大内氏レベルのことではなかったか。従来の研究は史料の表面のみをなぞり、且つ年次比定に大変な問題があったが故に、事象の本質から遙かに外れた分析しかしていなかったことがわかる。 

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