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2015年8月

2015年8月30日 (日)

宇地村地頭再考

 これまで何度も述べているが、課題が残されており、再び確認したい。久留島氏は以下のように述べられた。
 原屋家文書にあるべき文書の一部が益田家文書に入っているということは、両者の関係の深さを示している。道忍避状が宇地村地頭職についても出されていることから、尼是 阿も兼長後家尼阿忍から宇地村地頭職を譲られたのだと推測でき、兼見と同じ一族のも のと考えられる。
 宇地村地頭是阿は、丸毛氏系図で宇地村地頭と注記される兼弘の兄弟波田兼国の娘と同一人物であろう。彼女は丸毛別符一分地頭兼直と結婚し、その間に生まれた丸毛兼幸は、父兼直領丸毛別符一分地頭職と祖母蓮阿領安富郷地頭職を継承した。それに対して兼国娘領宇地村は母から兼幸の兄弟(男女ともに可能性有り)に譲られた。彼女が宇地村地頭職を継承したのは父波田兼国ないしはその母の可能性があるが、父兼国であろう。兼国はその父兼胤から譲られた宇地村地頭職を娘に譲ったのである。そして前述のように、彼女は宇地村地頭職を兼幸以外の子に譲ったのである。ところが、その子が早世する中、孫子兼里を養子として、宇地地頭職を譲り直したのである。
 元亨3年には益田氏惣領道忍が宇地村地頭職を是阿に譲渡したのは、両者の間でトラブルが発生していたためであろう。所領の没収で規模が縮小する中、分割相続が行われたであろうが、新たな譲与対象者も登場し、それに伴い惣領側が所領に対する自らの権利の強化を図り、これに庶子が反発し、訴えたのであろう。これで決定版としたいが、どうであろうか。

2015年8月28日 (金)

4Kモニターその後

 4Kモニターの敷居も大分低くなった様な気がするが、一方で、必要がない人も多いであろう。dellのOPTPLEXのオプションにR5 240なるプアーなカード(といってもオプションで付けると1万円強)がある。HD8490相当であろうか。DVIとDP(displayport)があり、DPにつなぐと本格的な4Kの表示ができる。本体にもDPが1基(3020の場合、9020は2基)あるので、同時に2台の接続が可能である。
 以前から気になっていたのが、Leadtek GT640 2Mであった。何のことはなく6年前のAMD機でもDPにつなげば、これも本格的な4K表示が可能であった。Radeonシリーズでの4Kは容易だが、GTシリーズは高性能版でなければ対応しないと言われたが(DPを持つ機種が少ないのが原因であろう)、DPさえあれば可能である。それなら、ノートPCでDPがある機種でも4Kが出来そうであるが、こちらは機種を選ぶようで、最新の機種なら可能なものがあるようであるが、当方の所持する機種では、いずれもWQXGAどまりである。やはりデスクトップは拡張性があるということか。

2015年8月22日 (土)

井村氏について2

 井村氏が兼冬ではなく兼雄から始まることを確認して、ようやく本論に入ることができる。それは正和5年8月に伊甘郷地頭代道覚から訴えられた「井村地頭」は誰かということになる。井村氏とは関係ないが、正和2年11月の六波羅御教書も注目される。伊甘郷地頭阿忍代善覚が、福屋郷地頭が新金口を掘ったことにより、下流部の伊甘郷内の田地が流出したことを訴えている。福屋氏の謎では「福屋郷の地頭名を欠いているが、婚姻関係をめぐらす同族間で、このような事態=幕府に訴えざるをえないということは考えにくい。」と述べ、福屋氏惣領も益田氏惣領と同様の事態=所領の没収に直面していたのではないかと考えた。
 井村は益田庄内井村であるが、益田兼季が建仁3年12月に安堵を申請した所領としてみえるが、承久の乱後にその子たちに譲られた所領にはみえないのである(周布・益田氏系図)。
これに井村氏が兼雄から始まることを踏まえると、正和5年の井村地頭とは益田氏一族ではないと思われる(以下のように訂正)。そして、建武2年に小石見郷が益田氏惣領に返されたが、実際は三隅兼連が周布郷と小石見郷の境界をめぐり、周布氏から訴えられているように、三隅氏が支配するようになっている。井村については、建武政権下で三隅氏に与えられ、小石見郷とともに、兼連から弟兼冬の子兼雄に譲られたのではないか。それにより井村氏が誕生したのであろう。ただし、小石見郷については、三隅氏惣領との間で分割して支配した可能性もある。
付記  益田兼季領の配分の際に、弟三隅兼信・福屋兼広、嫡子益田兼時・庶子周布兼定・丸毛兼忠以外の女子に譲られた可能性が大きい。それが、三隅兼連の弟兼雄が継承して井村氏を称し、次いで兼雄は建武2年に小石見郷が益田氏に返還されると、小石見郷の一部を譲られたのではないか。

井村氏について1

 三隅氏の一族に井村氏がいるが、苗字の地は益田荘井村だと思われる。問題は井村氏の成立時期である。竜雲寺蔵三隅系図には兼連の弟兼冬に「号井村」と付記し、その子に光信・信連・兼景・兼武の4人が記されている。これに対して、周布系図に含まれる三隅氏畧系では兼連の弟に兼冬を記す点では竜雲寺本と同じだが、兼冬の子に兼雄を記して、さらにその子として信連・兼景・兼武と兼重を記す。兼雄の存在の有無が最大の違いだが、4兄弟も光信がおらず、これに替えて兼重を記している。
 竜雲寺本では光信(石見弾正少弼)に続いて信世―盛世―兼冬と記しているが、略系では、兼雄の兄弟に兼信(弾正少弼)とその子信世を記し、信世の官職も一致(右馬助)している。竜雲寺では信世は直連の子としても記されるが、略系には母が信性(兼連)女子であり、信世は直連女子(この母は益田兼見女子)と結婚して三隅氏惣領家を継承したとする。次いで、信世の子に氏世と盛世がおり、盛世が信連の子兼世の養子に入り、その子が始め兼冬と名乗り、後には兼繁(法名道城)と改名したことを記す。
 以上をまとめると、兼雄の有無を除けば、両系図の違いについては明らかになったことになる。三隅氏の一族間で頻繁に養子の出入りがあったが、竜雲寺本ではそれを養子と結婚した女子の情報を消して、あたかも実子であるかのように記したのである。そして、なぜ兼雄を記さなかったかは不明である。そして竜雲寺本では兼冬の子の内、兼武のみはその子信氏(略系では助一左衛門尉)まで記す。略系では兼雄の子として信連を記し、その母は足利直冬女子だとする。兼雄は小石見城に楯籠もって幕府方と戦ったことが一次史料で確認できる。次いで、応安6年12月に周布郷と小石見郷の係争地が井村八郎左衛門尉兼氏に安堵されているが、これが兼武(母は直冬女子)と同一人物と思われる。そうすると兼氏―信氏の名前のつながりも明確となる。
 井村氏は兼冬―兼雄に始まるが、竜雲寺本は兼冬に「号井村」「石見守」と記すが、略系では「三郎」「伊勢守」で、兼雄が「石見権守」「小石見郷并井村地頭」と記しており、竜雲寺本は「兼冬―兼雄」の二人を兼冬一人にまとめて記した形となっている。益田氏系図では信憑性が最も高いとされた竜雲寺本であるが、略系が確認されたことにより、その問題点が明確になった。これに対して略系は女子の情報も残しており、信頼性が高い。また益田氏系図で三隅氏庶子永安氏について、14世紀後半の兼秋の子として兼冬を記し、さらにその子として兼雄を記している。この兼冬は兼雄の父ではなく、盛世の子兼冬のことであり、それが14世紀前半の「兼冬―兼雄」と混同されてこのような記述となったと思われる。

2015年8月20日 (木)

俣賀(内田)左衛門三郎について

 これまでこの人物の父又三郎(掃部左衛門尉)致義について、上俣賀氏=致直系と考えてきた。それは、以下の理由による。
 建武二年に「石見国豊田郷俣賀・横田両村地頭尼妙戒」が又三郎致義による濫妨を訴えていた。正和元年(一三一二)に円戒領を譲られた嫡子市熊丸も建武年間には成人していたはずであるが、尼妙戒の名とその所領名からは、この時点の円戒領を継承していた女性であると思われる。これに対して濫妨をする致義は市熊丸と同一人物であろうか。そうだとすれば、妙戒は致義に対する庶子で、それに惣領である致義が濫妨を加えたことになる。この可能性は皆無では無いが、極めて低いのではないか。円戒は三郎ではなく五郎であった(ただし円戒の嫡子は新三郎致康であった)。三郎致義は円戒後家光阿と裁判を行った彦三郎致俊の後継者ではないか。
  これに対して、致義と子左衛門三郎(熊若丸)が光阿の所領であった長野庄内須子の田畠の相続を主張している点から、致義=下俣賀氏と考えることも可能である。暦応3年に須子村を覚融庵主なる人物が押妨したことを致義が頼兼に訴え、頼兼側は益田氏惣領兼世に関係文書の調査を命じた。兼世は関係者である助つぼねに尋ねたところ、須子に関する手継文書と下文を覚猷方へ渡したことを述べたとして、「軍忠に基づき熊若丸に須子を渡すべきだ」と報告した。これを受けて上野頼兼が、覚猷の行為は不当だとする熊若丸の主張を認めて、家臣である大森氏に熊若丸への打渡しを命じている。
 「 」の部分について、水野氏は「軍忠状については調査して致弘方に渡す」と解釈された。軍忠状に「須子」のことが述べられているものを探すのであろうか。熊若丸=致弘の部分はともかくとして、軍忠状は現在残っている形で、熊若丸方が所持していたはずである。文書を所持していた助つぼねが覚融庵主に渡したのは、覚融側にもそれなりの由緒があったからではないか。それにもかかわらず、頼兼は軍忠に基づき熊若丸に打渡したのではないか。最初に求めた致義は豊田郷内白岩合戦で討ち死にしたのである。
 この点については断言まではできないが、上下俣賀氏間にも婚姻関係があり、それを背景に上俣賀氏が下俣賀氏領の安堵を求めたのではないか。建武2年の妙戒の訴えからもそれがうかがえる。そして水野氏や上島氏が左衛門三郎と同一人物とされた致弘には違いがある。左衛門三郎が南朝方からの文書を受け取ったのは、尊氏が南朝に一時的に結んだ時期のみで、左衛門三郎は原則として幕府方であった。観応の擾乱期もそうであった。これに対して、致弘は正平17年に南朝から兵庫助(それまでは兵庫允であった)に補任されており、観応の擾乱から大内氏の幕府復帰までは反幕府方であった。貞和4年に幕府から打ち渡された所領は、左衛門三郎が俣賀村地頭職と横田下村内俣賀分領で、翌5年には俣賀村地頭職と吉田郷内女子分であった。これに対して、同年の致弘譲状では俣賀村地頭職と横田内田畠を道祖徳丸に譲っている。なにより、左衛門三郎が観応3年の軍忠状により致治であることが明らかで、致弘とは別人である。そしてこれ以降残っている譲状はいずれも「俣賀村之地頭職并横田之内田畠等」を譲っており、致弘=下俣賀氏系が結果としては存続した。ただし、致弘=上俣賀氏の可能性も皆無ではない。ということで若干の留保はあるが、致義-熊若丸(左衛門三郎致治)=上俣賀氏、致弘=下俣賀氏と考える。

ウィンドウズ10への移行

 かなり前なので詳細は忘れてしまったが、ウィンドウズ8への移行の際には、事前にアシスタントを実行し、特定のソフトをアンインストールしてから、アップグレードしたと思うが、今回の10では、そのような場面はない。
 よく使用するPCは7と8.1のデュアルブートで使用しており、その一方を10にアップグレードしたが、現段階では7からのアップグレードが中心となっている。8.1からは、予約はしても準備中の状態が続いている。1台のみが8.1からで、後は7からである。そして、途中でアップグレードできなくなったものや、アップグレードできたが、起動するとすぐにエラーが出るものがあり、前者は作業を中止し、7から8、8から8.1へのアップグレードとした。機種はFMVのH8260という2008年発売の機種である。アップグレードの作業は始まったが、最初の再起動で失敗した。そこで7で起動し直しすると、元の状態に戻ったので、前述の対応に変更した。実際のところ、8.1へのアップグレードができたのが予想外であった。今のところ問題は発生していない。その一世代後となるE8270やデルのlatitude6400では問題なく10へアップグレードできた。GM965とGM45のチップセットの世代の違いであろうか。
 後者はMacBook Pro17であった。ほんのたまにエラーが出ないという状況で、後悔したが、インストール1ヶ月以内なら元に戻せるということであったので、無事7に戻すことができた。そして8へアップグレードしようとすると、ブートキャンプ4を削除せよとのことであったので、これもネットで情報を確認して、5.1にアップグレードすると8へ移行できた。現在8.1へ移行する作業中である(無事完了した)。10にアップグレードするにはブートキャンプを最新版の6にしなければならないが、6に対応しているのは2012年前期以降の機種にOSXの最新版をインストールした場合であり、2011前期の機種はサポートされていない。それならアップグレードの際に教えてほしいところだが、それはなく、何とか7に戻せたので安心した。サードパーティ製のSSDを使用するため、マックOSXをあえてダウングレードしてはいたが、5.1にアップデートできて幸いだった。もう一台のMacbook airの方は、2013年の機種であり、ブートキャンプのアップグレードの前に10をインストールしたが、今のところ問題は出ていない。
 共通して困っているのは、新たなHTMLソフトエッジで、ATOKの日本語変換ができないことである。最新の2015でアップデートをすると、普通に使用できるが、2014以前だと、一旦アンインストールして、再インストールをすると使えるようになるが、日本語変換の起動が面倒である(2014についてもアップデートで対応できるようになった)。それがいやなら、インターネットエクスプローラーを使用すればよいのだが。また、4Kモニターにしてから目の疲れを感じる。やはりメインは目に優しいEV2455にすべきであろうか。現在も使用しているシャープのアクオスではこのようなことは無かったのだが。
(追記)Macbookpro17を8.1移行後、再びWindows10にアップグレードすると、今回は問題なく動いている。ハード・Bootcampともに10のサポート対象ではないが、8のインストール時にBootcampとドライバーのアップグレードをしたためであろうか。とりあえず、1ヶ月以内に問題がなければ、このまま行きたい。ただしサポート対象ではないので何事も自己責任となる。

2015年8月18日 (火)

上野頼兼の石見国からの離任

 上野頼兼は国大将として石見国内の南朝勢力の押さえ込みに成功していた。何よりも周防・長門・安芸国などの国人を動員できた点が大きかった。この頼兼と石見国との関わりが確認できるのは貞和5年3月11日室町幕府御教書の宛所として「上野左馬助」がみえている時点までである(安国寺文書)。4月に足利直冬が中国管領として派遣されたのを契機に石見国における国大将の役割を離れたと推定されている。
 これが南朝方とそれを押さえ込んできた幕府方の力関係に影響を与えた。現地の事情を知らない足利直冬に同様の役割を期待することは困難である。問題はどの時点で石見国人の幕府方から反幕府方への転向が行われたのである。
 貞和7年正月日岩田胤明軍忠状(益田兼忠承判)にみえる貞和6年4月以来の活動が転向を物語るのかも知れないが、問題は岩田胤明が貞和6年11月に三隅城へ馳せ向かい、高師泰陣に攻め込んだ時点で、二通の軍忠状を提出している点が注目される。一通は同年4月以来行動を共にしてきた益田兼忠に11月15日付で提出して承判を貰っている。ところが今回はその前の11月10日付で三隅兼連に提出して承判を貰っている。岩田胤明の政治的立場が変わったがために、益田氏惣領兼忠とともに、新たに三隅兼連から承判を貰ったのであろう。
 岩田胤明は貞和6年5月21日~8月17日までの長門国椿城での合戦では、益田兼忠とともに幕府方として戦い、それが11月3日に石見国三隅城へ馳せ向かい、8日に高師泰陣に押し寄せて合戦をした際には反幕府方に変わったのである。それは益田兼忠の変化でもあった。この間、すでに述べたように、石見国守護は某→大平義尚→高師泰と変化していた。変化のきっかけとなったのは、7月29日付けの桃井左京亮の軍勢催促状(井尻四郎太郎宛)であろう。師直・師泰誅伐のため中国大将軍として石州に下着したことを述べている。同年10月には大内弘世が直冬方となっていることが確認でき、このことが益田兼忠らの転換につながったのであろう。いずれにせよ、上野頼兼の離任が大きく影響したのである。
 これに対して、出雲国での反幕府派の旗揚げは貞和6年8月12日であった。そして貞和7年正月21日に「当国御発向」につき、小境元智は塩冶郷に馳せ参じ、宍道郷まで御供をしたと軍忠状で述べている。同年2月日の西鳥居兼元軍忠状には1月17日以降に御大将が出雲国に発向したとあり、石見国から出雲国に入国している。その際には、それまで幕府方であった田儀次郎左衛門尉も合流している。
 この大将も桃井左京亮義郷の可能性がある。義郷は観応2年6月7日には足利直冬の意向を承けて出雲大社に祈祷を命じるとともに、所領十二郷を安堵している。ただし、その前に2月11日には左近大夫将監義継が十二郷内4郷を寄進しており、こちらが出雲国へ派遣された人物である可能性が高い。2月には足利尊氏と直義の和議が成立し、高師直・師泰兄弟は直義方に殺害される。

2015年8月 1日 (土)

大永3年の尼子氏(2)

 ただし、同6月末から11月末まで半年間にわたる軍事行動であり、上記の解釈には首をかしげたくなる。都治氏の記録では、尼子氏本隊が富田から赤穴に着陣した段階で、亀井能登守・宍道・三沢の三人は先陣として邑智郡出羽に着陣していたことが記され、出雲国人を動員した大がかりなものであったことが記される。前年の準備を経ての行動であった。
 この尼子軍に対して、福屋氏は抵抗を試みるが踏みこたえられず城を捨てて逃れ、尼子軍は三ツ子山城を落として浜田・長浜・周布を攻撃した。このため三隅氏は衣掛城を明け渡して細腰に立て籠もり、この段階で尼子氏方の援軍とともに、大内氏軍とこれに加勢した大友氏軍が到着し、雲州軍と豊後・防州軍の間で浜田・天満畷の戦いが行われた。其の後、大内氏方の陶氏が攻撃を仕掛けるが、雲州軍はこれに応じなかった。そして尼子経久が大友氏の家臣を通じて和談をまとめ、細腰表を退却したことが記されている。この天満畷の戦いについて、軍記物は大永6年の事件としているが、都治氏の記録が記す(1年ずれていた)ように、大永3年のこととなる。
 尼子氏の軍事活動は一年の後半に展開され、年度末には退却する形で行われることが多く、今回もこれ以上の在陣は得るものがないと判断したのであろう。『快円日記』の「出雲国衆ハ一人モ不着陳也」とは、天満畷の戦い以後雲州勢が大内氏方の挑発に応じず、その背後で和談を図っていたことを記したものであり、今回の遠征に出雲国人が参加していなかったことを示すものではない。都治氏の記録にみえる宍道・三沢氏以外にも多くの国人が参陣していたはずである。安芸国攻めについても同様であろう。単純にその部分のみを国語的に解釈すれば、「国人は参加しなかった」との解釈は可能だが、まったく史料の流れを無視したありえない解釈である。史料の声を聴く必要がある。

大永3年の尼子氏(1)

 大永2年2月に第一回目の杵築での万部経読誦を行った尼子経久は、同年9月末には石見国東部へ軍を進め、都治氏の今井城を包囲して都治駿河守を自害に追い込んだ。駿河守はみずからの子(兄弟)を福屋氏のもとへ遣わし避難させたが、今井城に派遣されていた福屋氏家臣興国寺と野田大和守を使者として申し入れ、都治氏関係者を自害に追い込んだ。
そして山名氏との関係で南北朝期に石見国に入部していた郷原氏を守護代とし、波積砥石谷城に置いた。
 翌年6月末には安芸国と石見国の二方面へ軍事行動を展開し、大内氏方に衝撃を与えた。石見国の場合、江川を越えて福屋氏・周布氏、さらには三隅氏領にまで侵入し、浜田の細腰城に立て籠もる三隅氏に攻撃を加えた。以上は主に都治氏の記録に基づく。
 この件について、『岩屋寺快円日記』には次のように記している。
此快円、富田尼子殿要害ニテ霜月廿一日ヨリ同廿八日迄、護摩焼申候、石州ミスミノ御陳留守祈祷云々、①大内氏殿御馬廻衆、各々ト井田殿・陶殿・大スモ殿衆取向候畢、②出雲国衆ハ一人モ不着陳也、大永三年癸未
①のように、三隅氏救援のため大内氏が出馬し、大内・尼子方が対陣した。そして大内氏方の馬廻衆や問田・陶・大スモ氏が尼子氏を攻撃せんとしたのに対して、②のように「出雲国衆ハ一人モ不着陳也」であった。これについて今回の石見国攻めは尼子氏直臣のみで行われ、三沢・三刀屋といった国衆は動員されなかったとの解釈が示されている。スピーディーに軍事行動を展開して、大内氏や周辺の勢力を驚かせ、その存在をアピールすることに主眼があり、現地の掌握は二の次であったとするのである。

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