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2015年7月

2015年7月20日 (月)

新たな機種を購入する前に

 時代はウィンドウズ10の登場を待つところであるが、終焉間近の8.1もなかなかという気がしている。同様のことはVISTAの時にも感じた。ただし、VIATAの時は、登場してもインストールしておらず、7の登場後に、オークションで値段が急落したVISATモデルを購入し、遅ればせながら使用したが、8.1は8の登場時に8をアップグレードという形でインストールし、それを引き続き8.1で使っている。VISTAと8.1も登場以来の様々な改良でよくなったのであろう。
 8をインストールする際は、965GM世代は除外し、GM45以降で行ったが、core2duoでは重たく、インストールした2台の内1台はすぐに7に戻したほどであった。そのままにしていたもう1台が、最近になって久しぶりに使うと、これが快適なのである。
 久しぶりに使用した理由は、ハイブリッドHDDへの換装を考えたためであったが、OSの立ち上がりが早く、換装の必要性を感じないでのある。機種を述べないと情報として意味がないが、デルのラティチュードE5500である。現在はオークションで数千円で購入できる。CPUはT9300で、正規のラインナップにはなかったもの。メモリ4GでHDDは7200回転の320G(日立製)のもの。8.1は64ビット版である。もちろん、ハイブリッドHDD、さらにはSSDに交換すればさらに快適であろうが、ウィンドウズ7のPCのように、立ち上がりで待たされることがない。
 少なくとも、8をインストールした際には、こんなことはなかった。7に入れ直そうと思いつつ、キーボードの不調(パスワードで使用するあるキーが押しても認識されず、日本語入力にも制約があり、外付けキーボードが必須であった)でほとんど利用しなかった。とりあえず8.1にアップグレードはしたが、事態は変わらなかった。それが、キーボードをいったん外して、内部を簡単に掃除して、再度付け直すと、何の問題もなくなった。接触不良があったのであろうか。
 ということで、10の登場とともに、メモリー8G以上の機種(ほとんどの機種は7と8.1のデュアルブートで、問題はどちらをアップするか)は10にアップグレードするが、アップグレードしない機種の一部は7から8.1にアップグレードしてみたくなった。なんで8.1という人もあろうが、フリーソフトを使えば(最初は別のソフトだったが、最近はクラシックシェルを利用)ほとんど問題をなく使えるし、7よりはサポート期間は長くなるのである。
 当初は、時代遅れとなったPCも、SSDやハイブリッドHDDに換装すれば、十分使えることを述べるため、この記事を書き始めた。後者については、換装した機種により改善状況に差があるが、FMVのE8270(7、CPUはT9900)やデルのE6400(7、P9600、これが8をインストール直後に7に戻した)では劇的に改善した。また、なおVISTAで使いたい機種もあり、その場合はSSDでないほうが無難である。新しい機種でないとOSの新機能に対応できないとの声もあろうが、普通の利用(インターネットとオフィス・一太郎)では何の問題もないのである。値崩れした8.1のPCを購入して10にアップグレードしてもよいが、その前に、検討してみる価値は高い。この記事もE5500で入力しているが、キーボード(スティックポイントもある)も中々よいのである。

ラグビーWC2019の会場

 新国立競技場の建設計画見直しで影響を受けるラグビーWC2019であるが、必ずしもマイナスではないとの意見を読んだ。陸上競技場はラグビー、さらにはサッカーの試合には適さない面もあるというのである。確かにラグビーの国際試合(昨日も南半球四ヵ国対抗の2試合を仕事をしながら観戦した)は専用の会場で行っており、陸上競技のトラックは観客席とのグランドの距離を大きくして、臨場感を小さくする。オリンピックを契機に主会場が新設されることが多いが、終了後は改修をしてトラックを撤去しているケースも多い。そしてトラックを残している競技場は稼働率が大変低いというのである。
 一方、サッカーのヴィッセル神戸が本拠地の移転を考えているとの記事も読んだ。こちらは専用球技場ではあり、ラグビーWC2019でも使用されるが、開閉式のスタジアムであるがため、天然芝の生育が良くなく、芝生の状態が良くないことが神戸の持ち味を奪っているというのである。以前から指摘されてきたが、一向に改善されていないという。
 サッカー協会は将来のラグビーWC再誘致のため、国立競技場の定員を8万人にしてほしいとの要望を出している。これはサッカーWCの主会場の現時点の条件が定員8万人以上であるためであるが、長期的に考えれば、定員8万人以上のサッカー専用スタジアム建設を目指すべきではないか。先立つものも必要だが、イギリス・フランスやオーストラリアでも同規模の専用の球技場があるのである。新国立競技場についても、その基本設計(オリンピック後の利用を含む)が最大の問題ではないか。
 現在、日本の競技場で定員が最多なのは、横浜国際総合競技場(72327人)であるが、ここもトラックを併設している。球技専用スタジアムでは定員63700人の埼玉スタジアム2002が最大で、新国立競技場に代わってここがWCの会場に加えられる可能性が高いそうだ。会場の定員の減少により、収入減が予想されているが、実際にラグビーを観戦する会場としては、より良いのではないか。サッカーの国際試合も旧国立競技場や横浜国際総合競技場よりも、この埼玉スタジアムでの開催が多いとのこと。
 ということで、基本構想を含めて新国立競技場は再検討が必要であるし、サッカー界もクリヤーすべき財源や観客動員の問題はあるが、専用の競技場の建設を検討すべきであろう。女子WCでもそうだが、日本では純粋にスポーツの質の高い試合ではなく、国威発揚の場として国際大会がその場限りの関心の対象となっている。普段はサッカーの試合を見てもいない人に限って、国際大会の成績に文句を言うのである。同様に沖縄に関心のない人に限って、領土問題で沖縄に不満を漏らしている。テニスの錦織選手も、ウィンブルドンで負傷リタイアしたが、たまたま女子WCがあったので、そう批判はされなかったが、これがなければどうであったろうか。このような人々の意識を変える必要もある。

2015年7月10日 (金)

北島家譜

 北島家譜の記述は出雲大社の歴史を考える上で重要である。千家家にも同種のものは残されているが、ここまで詳細ではない(史料編纂所所蔵の謄写本による)。その家譜を史料編纂所のデータベースで検索すると2つ(書目ID 00060154と00060155)ヒットする。前者(154)が以前紹介したもので、建長元年の遷宮注進関係史料に順序の錯乱があるが、後者(155)は正しい順番に直してある。『鎌倉遺文』に収録されたものをみると、神宝抜書③の途中に遷宮注進状①の署判の部分が紛れ込んでおり、竹内理三氏が前者により収録したことがわかる。
 そこで正しい順番になっている後者によって再度史料を示すと、最初に「一、建長元年己酉六月御遷宮注進之記録」として①「御遷宮注進之記録」=杵築大社造営所注進を収め、次いで、再度「一、建長元年己酉六月御遷宮注進之記録」と記して②「杵築大社正殿式之法尺」を収めている。そうすると、②は年月日を欠いているが、①と一連のものとして注進されたものであることがわかる。そこに明確に「高サ八丈」と記されている。ところが、現在①の原本(北島家文書)は残されて公開されているが、②に相当する文書は公開されていない。また②は途中で終わっているようにみえるが、この後は①と同様の注進者が署判を加えていたのであろう。
 それに続いて③「一、建長元年八月御遷宮御神宝抜書」と記して「同時御神宝抜書」を記していくのである。これに相当するものが千家家文書から『大社町史料』に収録されているが、若干の違いが含まれている。すなわち、表題が「建長元年八月日記案抜書」と記されているが、やや不自然なものである。本来は「建長元年八月日御遷宮神宝記案抜書」と記そうとしたのであろうか。いずれによせ、③は①②が六月時点で報告したものであったのに対して、八月の時点で目代の子息であった細工所別当左近将監源宗房が作成したダイジェスト版の史料である。そして文書名は「建長元年八月日御遷宮神宝記注記」(鎌倉遺文・大社町史料)ではなく「建長元年八月日御遷宮神宝記案抜書」とすべきである。さらに、千家文書として残されているものは原本ではなく、後に写したもので、その際に目代が造営の主体であることを隠すため、作成者の部分を除いて写したのであろう。

2015年7月 4日 (土)

藤原重頼について

 この人物に関心を持ったのは、隠岐国と若狭国に所領を持ち、同時期に紛争を起こしていたことを知ったことがきっかけだった。重頼は公家藤原重方の子であったが、その一方で歌人として知られる摂津源氏の源頼政女子(二条院讃岐)と結婚したことで、頼政領であった若狭国宮川保の地頭となっていた。近年では、これに対して二条院讃岐は九条兼実の妻であるとの説が出されているが、二つの説が両立することは可能ではないか。「讃岐尼」が宮川保地頭となっていたことも確認出来、讃岐が頼政女子で、重頼との間に子をなしたことも事実であろう。
 重頼は源頼政の子で生きのびた頼兼・広綱らと早くから頼朝に仕え、平家没官領から関東御領となった隠岐国犬来・宇賀牧の預所となる一方で、周辺地域の地頭にもなってその支配を拡大していた。ところが、前隠岐国司藤原惟頼(重頼の従兄弟)が沙汰していた中村別符などの所領は平家領ではなかったとして、その支配が否定されたのであった。
 犬来・宇賀牧が平家領として没官されて関東御領となり、幕府御家人重頼がその預所となったわけだが、源頼政の子仲綱もまた仁安2年12月には隠岐国司に補任されている。仲綱領であった犬来・宇賀牧が没収されて平家領となったため、重頼が両牧の預所に補任されたのではないか(若狭国宮川保についても同様か)。
 さらに重頼の弟能頼は治承年間には石見国司としてみえるが、知行国主である藤原光雅は重頼の姉妹と結婚している。光雅は後白河院のもとで蔵人頭・右大弁を務め、源義経・行家に源頼朝追討の院宣を出した際の奏者であったこともあって、文治元年には解任されるが、その時点までは石見国知行国主であったと思われる。文治元年12月に石見国司に補任されている藤原業盛は歌人として知られた藤原為忠-為業(寂念)を祖父と父とした人物であった。光雅の後任の知行国主は頼朝が推薦した議奏公卿の一人藤原宗家であった。光雅は翌年には復帰を認められているが、後白河の下で源義経とも密接な関係を有したであろう。益田兼高が一時兼経と名乗ったのもそのためであったと思われる。元久2年4月に石見守に補任された源頼兼は摂関家との緊密な関係を背景としていたが、その一方では源頼政の息子でもあった。
 以上、藤原重頼は隠岐国との関係で注目していたが、その関連をたどって、石見国守・知行国主と源義経の関係に至った。

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