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2015年6月

2015年6月29日 (月)

Macbook pro17のSSD化2

 そこで、とりあえずハイブリッドHDDの方でそれを試してみた。こちらは価格が4分の1なのでそれほど気にならないのである。複写をしてもとのHDDと交換して起動すると、元と同様、マックとウィンドウズの両方が起動し、ソフトの再インストールも不要である。ただし、マック版オフィスは、シリアル番号の再入力を求められた。ウインドウズ版はそれも不要であった。とことが、理由は不明だが、元のHDDよりも動きが遅いのである、ということで、別のウィンドウズPCで活用してみことにした。初期不良でなければよいのだか。
 ところがさらなる問題は、マックOSにあった。MLCタイプのSSDの寿命と速度を維持するため、trimという命令が最近のOS(ウィンドウズは7以降)でサポートされているが、マックの場合は、昨年秋にバージョンアップした最新版では、問題があるというのである。純正で購入した内蔵SSDは問題ないが、あとからSSDに換装した場合は、trimが無効となっているというのである。フリーのソフトを使えば設定できるが、最新版OSでサポートされた機能とバッティングするというのである。そこで、以前の機種をSSDに換装する人々は一つ前のOSにダウングレードしてSSDを使用しているようだ。
 最後の手段としてHDDをSSDに丸ごとコピーすることを選択肢としていたのだが、それはまずいこととなった。いろんなサイトを見ても十分理解ができたとはいえないので、一つ前のOSのUSBインストールディスクを作成し、これから起動してSSDにインストールした。そしてウィンドウズは、複写するのではなく、再インストールすることにした。マックのソフトは環境をバックアップしておいて、それを前のOSに引き継ごうと思ったが、最新OSの環境は引き継げないことがわかり、とりあえず、オフィスは再インストールした。ATOKも再インストールする予定である。
 そして、ウインドウズの再インストールのためのUSBディスクを作成するため、サイトに書いてあるまま実行してみるのだが、なぜかできない。2年前にはできたはずなのだ‥‥。DVDからのイメージファイル作成をしたのだが、なぜはそのイメージファイルが使えないのである。そこでマイクロソフトからイメージファイルをダウンロードしようと思ったが、ウィンドウズ環境なら問題ないが、マックでは課題があった。なにせウインドウズをインストールしてしまいすれば、後は容易なのだが。ということで、ウィンドウズの環境については、それをバックアップしておき、一つ前のOSをインストールした後で、それを復元することとした。ただし、そのためには有料のソフトが必要で、海外のサイトであるため、クレジットカードで使えるものが限られ、自分が唯一持っているカードは使えないことがわかった。そこでプリペイドカードをコンビニで購入して、その後家に帰ってから、それが使えるように登録をしたが、ここでもなかなか簡単ではなかった。
 とはいえ、何とか購入し、ダウンロードしたそのソフトでウィンドウズ環境をバックアップし、試行錯誤で何とかウィンドウズ環境を復元し、現在に至っている。960Gを半分ずつに分け、それぞれにマックとウインドウズの環境を構築した。マックはソフトを再インストールしたが、ウィンドウズはそれはなんとか回避できた。trimの問題も一つ前のOSにしたので問題は無い。肝心の起動は、爆速ではないがHDDより倍以上は早くなり、入力も快適である。これが失敗したら、1日を無駄に使うところであったが、なんとかなったのである。参考にしたサイトから逸脱した操作をした場合もあり、ひやひやものだった。デスクトップについてはそこそこ早いのでSSD化は考えていないが、ノートパソコンの使用頻度が高まるであろう。

Macbook pro17のSSD化1

 情報収集が不十分なまま、HDD交換用のSSDを購入したは良いが、調べてみると課題が山積、というのが偽らざるところ。SSDは反応が早いが、寿命に問題があることは知っていた。それも最近のMLCタイプは改善したと思っていたが、条件付きであることを知らなかった。すでに述べたように、最初に購入したSSDは大変な地雷であり、それ自身が欠陥品であるだけでなく、それにつないだPCをも起動不能にするものであった。それに対して、FMV-H8260に結果として導入したのは成功であった。使用頻度が多いというほでではないが、よいキーボードで反応が早くなり、快適な環境となった。
 そこでマックブック・プロであるが、17インチ・WUXGAでテンキー無しという、文章入力には大変適した一台である。問題点としては、時に動作が緩慢(とくに最初)なことがあった。そこでSSDの導入を検討していたが、ネックとなったのが、元のHDDが750Gと大きいので、それ以上のSSDを購入するとなると、値が張るのである。経験豊富なら、もとのファイルを調整して500GのSDDでOKなのだろうが、まさにずぶの素人である。SSDもそのスピードで値段にも差があり、定番がよいのだろうが、なにせ最新型ではなく、2011年前半の型であり、最近発売されたSSDなら問題はない。ということで、960Gのものを4万円弱で入手した。このサイズとしては破格の値段で、普通は5万円程度する。
 その直後だった、ハイブリッドHDDなるものでもある程度は速度が改善することを知った。しまったと思ったが後の祭りであったが、それでも気になるところで、マック以外で速度が改善するのならと、購入した。SDDよりやや大きい1Gで1万円弱である。これでよいならという思いであった。
 マックの場合、ウィンドウズPCと比べて環境の移行は面倒である。ウィンドウズなら、H8260でも行ったように、玄立ないしは複写ソフトを使って丸ごとコピーし(そのためにも、新たなストレージの方が容量が大きくなければならない)、その後、ソフトを使って容量を増やすのである。マックの場合も丸ごとコピーは可能だが、その後の容量の拡大はできないということであった。750GのHDDを960GのSSDに複写しても750gのままで、それを拡大はできないのである。実質的には問題がないのだろうが、210Gが無駄になるのである。

2015年6月21日 (日)

出雲大社領の荘園制支配5

 『北島家譜』によると、次の国造孝綱は元久元年(一二〇四)から嘉禄元年(一二二五)まで22年間在職したことになる。この年の四月には政孝が本家承明門院に訴えて大社神主職に補任されている。これとの関係が問題となるのは、建保七年(一二一九)三月十一日大社司出雲孝綱去文であり、二〇〇四年の論文では指摘しなかったが、この文書も要検討である。「大社司」との名乗りもであるが、この段階では、国造職と杵築大社惣検校職は去渡すことなどできないものなのである。
  いつの間にか、話はⅡ期に入っているが、かほどに出雲大社に残された文書には問題が多いのである。論文で述べたように、譲状で信頼が置けるのは弘長二年(一二六二)十二月三日の国造義孝譲状からであり、寛喜三年(一二三一)三月二十五日国造政孝譲状にしても、最初の「譲渡 可早知行‥‥」の表現を含めて、要検討文書である。
 Ⅱ期は内蔵資忠の死をうけて、後鳥羽―実朝の関係を背景に、出雲国の国御家人が国造孝綱やそのライバル内蔵孝元をはじめとして地頭職に補任されたが、すぐに利害の対立が表面化した。国造孝綱と国司が幕府に働きかけて孝元を排除しようとしたが、これに対して本来の補任権を持つ領家が反発して、孝綱を神主職から解任し、新たに国造家と外戚関係を持つ在庁官人中原孝高を神主職に補任したのであった。その後、国造孝綱が、国司と結んで神主職に留まろうとしたり、建保四年(一二一四)には本家に神主職并惣検校職補任を訴えて認められたことは、却って逆効果であり、国造による神主職復帰は実現しなかったと思われる。このⅡ期の状況が大きく変わるのは、承久の乱で中原氏をはじめとする出雲国在庁官人の大半が没落したことで、今度は生き残った国造並びに出雲氏の一族(その中に内蔵氏と権検校家が含まれる)の間での対立となる。とりあえずⅡ期は、後鳥羽―実朝の権門体制的秩序が崩壊した承久の乱までであろう。この時期までは残されている史料で信頼の置けるものが少ないのが特徴か。

出雲大社領の荘園制支配4

 なお未解決の問題もある。建久元年の正殿遷宮に先立つ仮殿遷宮の時期である。『北島家譜』によれば、承安二年(一一七二)十一月十九日に仮殿遷宮が行われている。久安造営の正殿が十月十日に顛倒したため、国造兼経の下で取り敢えず仮殿に遷したとするのは、一応筋は通っている。ただし、承久二年(一二二〇)の注進状では、承安元年十一月十九日に仮殿遷宮をしたとするが、その一方で久安元年から三十四年としている。後者を採用すると治承元年(一一七七)のこととなる。恐らくはそれが正しいのだろう。これに対して、国造義孝申状では、承安二年十月十日に顛倒し、安元元年十一月十九日に国造宗孝の下で遷宮が行われたとする。ただし、混乱があるようで、その下に「廿九日吉辰」と記されている。近世初頭の記録や『北島家譜』には「二十九日」とされているように齟齬があったのであろう。問題なのは①に記されたように、宗孝が国造に補任されたのは安元二年=治承元年なのである。
 以上の情報を整理すると、顛倒をうけ、国造兼経のもとで応急処置的に御神体が遷され、正式に仮殿遷宮が行われたのが治承元年十一月十九日であったのだろう。その後、正殿造営が始まったはずだが、国造宗孝は在職十年とあるからには文治二年に死亡したことになる。実際には文治元年十一月三日には宗孝の子孝房が国司庁宣により国造職に補任されている。②の譲状も元暦二年=文治元年であるが、このあたりの混乱も後世に作成されたことによると思われる。そして、文治二年正月日には鎌倉殿下文に任せて土肥実平下文(文書の形式も不自然で後世に作成されたもので花押を含めて確認はできない)により孝房が国造に補任されている。同年五月の孝房から内蔵資忠への惣検校職交代の記事をも意識してこの時点の文書が作成されたのであろう。その意味で、伊藤邦彦氏のように(氏はこれを正しい文書だと誤認されている)、この時点で土肥実平が出雲国惣追捕使であったなどとは思いつくことができないのである。基本的には内蔵資忠は領家下文により惣検校職に補任され、それを働きかけた頼朝が安堵しているものであり、その家臣による施行状など必要ないのではないか。
 資忠は建久元年初めまでは惣検校であったことが確認でき、建久元年の出雲大社造営は実質的に国衙と資忠により行われ、国造家としては大変な危機的状況に追い込まれていた。それを朝廷と結んで資忠の解任を求めた。この当時には資忠と同じく頼朝の推薦で出雲国目代となっていた兵衛尉政綱が義経と結んでいるとの疑惑もあり、頼朝は政綱の解任を求めるとともに、朝廷から出されていた資忠の解任要求を許容し、領家により国造孝房が惣検校に補任されたと思われる。ただ、それは一時的なものであり、遷宮が終了し、目代政綱解任問題が解決すると、資忠が惣検校に復帰した。国造孝房と資忠の相論に対して、孝房を支持する建久二年七月日の在庁官人等解が提出されたのはそのためであった。その結果も、建久三年七月二十三日と二十五日の頼朝文書で明らかなように、領家が資忠を惣検校に補任し、幕府がそれを追認している。このことも内蔵資忠が頼朝とだけでなく、領家藤原光隆(一二〇一年死亡)と深いつながりを持ち、且つ出雲大社造営を行う実力を持っていたことを示している。

出雲大社領の荘園制支配3

 文治二年(一一八六)五月三日の『吾妻鏡』の記事によりそれ以前は国造出雲則房が惣検校職であったことがわかる。「停止」とあるので、単に請文を提出した内蔵資忠を新たに補任したのではなく、何らかの問題が発生して停止した可能性が高い。資忠の補任もこの時点が初めてではなかった可能性もある。井上氏は1期を幕府と国造の対立と評価されたが、荘園が成立したことにより領家が補任する惣検校が国造の上に立つ職として設定されており、領家と国造の間に利害の対立が発生した。さらにいうならば、荘園成立以前も、国司寄進の出雲大社領が設定されたことにともない、国衙内に所領を管理するポストが生まれていたはずである。それが鎌倉幕府成立により、頼朝との関係を背景に内蔵資忠側が働きかけ、幕府がさらに領家藤原光隆に要請し、領家が受け容れた結果として、資忠の惣検校職補任が実現したのである。
 内蔵資忠と源頼朝、さらには藤原光隆を結びつけたのは、待賢門院の下での人々の結び付きであった。資忠はその父忠光とともに藤原光隆とその父清隆、さらには藤原資忠を介して待賢門院の子崇徳と結び付いていた。頼朝もまた待賢門院の子上西門院との関係を持ち、待賢門院の兄弟とも結び付いていた。建久二年(一一九一)七月の出雲国在庁官人等解で、忠光が放火して神殿が焼失したことで、忠光の子孫は永く停止すべきと国司庁宣が出されたことが記されているが、大社司=惣検校職は国司ではなく領家が補任権を有しており、事実であったかどうかを含めての検討が必要である。 
  ということで、第1期には鎌倉幕府成立以前を含めて考えるべきで、惣検校職をめぐり国造と競合者の対立があったばかりではなく、国造職をめぐる出雲氏内部の対立もみられた。その中から、宗孝流が国造職を独占するようになった。建久三年以降、幕府が強硬な方針を転換するとの井上氏の評価も妥当ではない。幕府が方針を変えるのは頼朝の死によるものである。2代頼家と3代実朝の時代には後鳥羽上皇が政治の主導権を握るようになり、権門体制のもとで利害の調整が図られた。これとともに、承元二年の直前に内蔵資忠が死亡したことも、変化につながった。

出雲大社領の荘園制支配2

 とりあえず、ここまでを検証すると、宗孝が神主職に譲られたことから、平治の頃には荘園としての出雲大社領とその管理にあたる神主職が成立していたことと、兼忠が神主職を子に譲ることができたことになる。まず問題となるのは、領家はこの時点では神主職とは呼ばずに惣検校職の名称を使っていたことである。建久五年(一一九四)の時点では「神主職」と呼ぶようになっていたので、④は「神主職」を使ったとの意見が出されようが、「神主職」が成立するのは、承元二年にそれまでの惣検校職の権限が分割されて権検校職が成立した時点である。これに伴い、惣検校職に代わって神主職と権検校職の二つが新たに生まれたが、国造側を中心に神主職を惣検校職と呼ぶこともあった。そのため、幕府は神主職を、国造は惣検校職を使ったが、領家は両方を使うことがあった。
 神主職の成立が承元二年(一二〇八)であると述べたことに対しては、幕府は早くから「神主職」を使っているとの意見があろう。『吾妻鏡』では文治二年の記事では「総検校職」と記しているが、文治五年と建久元年の記事では「大社神主資忠」と記している。前者の記事は領家下文並びにそれを施行する形の頼朝下文を引用する形で「総検校」と記し、後者の記事は『吾妻鏡』編纂時点の呼称により「神主」と記したのではないか。「神主職」成立後の天福二年の記事で「神主真高」と記したのと同様に。
 荘園としての成立は国造兼忠の時代であるが、『北島家譜』は兼忠から兼経への国造の交代を仁安三年(一一六八)とし、宗孝の国造職補任を安元二年としている。兼忠から宗孝に交代したが、宗孝が私的に兼経にその職を譲ったという点は事実ではない可能性が高い。兼経が平治の頃から安元二年まで国造であったとすると一六~七年間務めており、「若くして死亡」したことにはならない。それが、仁安三年からだと八年間で、矛盾は小さくなる。
 惣検校職は兼忠の時代に成立したが、領家が補任するものであり、国造兼忠がこれを子に譲ることは不可能で、兼忠(国造)以外の人物が補任されることもあったであろうが、詳細は不明である。これに対して、国造職は兼忠(兼宗流)の死亡により、仁安三年に兼経(宗房流)が補任されたが、安元二年に兼経が死亡したため、後継者をめぐる対立が生じ、その結果勝利したのが宗孝であったのだろう。ただし、それで決着した訳ではなく、その後も国造の交代期には紛争が発生している。

出雲大社領の荘園制支配1

 この問題については、何度か考えてきているが、最新の整理をしてみたい。井上氏の著書(二〇〇九年)では以下の様に区分されている。
 Ⅰ期 文治二年(一一八六)~建久三(一一九三)
 Ⅱ期 承元二年(一二〇八)~天福元年(一二三三)
 Ⅲ期 文暦二年(一二三五)~文永十二年(一二七五)
 Ⅳ期 建治二年(一二七六)~永仁五年(一二九七)
史料の制約であろうが、Ⅰ期とⅡ期の間に十五年の空白がある。井上氏はこれを移行期ととらえられているが、なお説明は不足している。
 Ⅰ期を氏は幕府と杵築大社(国造)の対立期であるとされるが、やはり杵築大社と国造は分けて考えるべきものである。また、なぜ幕府と国造が対立したのか、さらにはなぜ幕府は杵築大社に介入できたのかという点もあいまいにされたままである。文治二年以前とのつながりも問われなければならない。このような感想を持つのも、論者は井上氏が考えられているほど、国造による惣検校職確保が簡単ではなく、Ⅰ期以前でも実際に国造(宗孝流)以外が惣検校になる時期が少なくなかったと考えているためである。国造(宗孝流)としたのは、鎌倉期以降、出雲氏の中で国造職を独占していくのが宗孝流であるためが、それ以前の「兼」を名に付ける一流を含めて国造職をめぐる対立があった。
 宗孝流に関しては、①安元二年(一一七六)十月日出雲国司庁宣、②元暦二年(一一八五)四月日国造宗孝譲状、③建久五年(一一九四)三月二十一日国造孝房譲状、④建久五年□月日出雲国在庁官人等解があるが、二〇〇四年の論文であきらかにしたように、4通とも後世作成された偽文書であり、これのみを根拠に論じてはならないものである。①②③④の説くところは以下の通りである。
 国造頼兼の嫡子宗房が国造職に補任されて一年後に死亡し、その嫡子兼家が幼少であったため、宗房舎弟兼宗が国造職に補任された。その後、兼宗が死亡した際には嫡子兼忠が国造職に補任された。次いで、兼忠が死亡した際には嫡子宗孝が「大社神主職」を譲られた。この時点では「神主職」が登場し、国造職も神主職に付属するものとなっていた。そこで平治の頃(一一五九~六〇?)に宗孝が国司庁宣により国造職に補任されたが、宗孝が留守所に申し出て、国造職を兼経に一期分のみ譲った。それが兼経が若くして死亡したため、安元二年になって国司が再度宗孝を国造職に補任した(①④)。

理由を述べられない人達

 ネット上で発言する人達の多くは、意見は述べるがその理由を述べない(述べられない)。これでは何のための投稿かと思う。理由が述べてあれば、他の人との対話・意見交換につながるが、なければ難しい。「理由を述べて」と要請しても「理由はない」「理由は述べられない」「自分の意見のどこに問題か」という程度であろう。
 中には「確信」しているといいながら、その理由が述べられない人や、公の場で根拠も確認せずヤジを飛ばしてしまう人もいる。この人物が論理的思考ができずに、子どもの頃にすり込まれた情報に基づき発言・行動していることは誰もよく知っている。まさに「未来志向」ではなく「過去への復帰」「時代おくれ」である。私的な立場ならともかく、公的立場にある場合は放置しておいてよいわけがない。国政は子どものおもちゃではない。
 砂川事件の判決を引用する人がある。これが裁判官の良心に基づく判決であるならばまだ見るべき点もあるが、そうではなくアメリカから政治的圧力を直接受けて出させられた判決であることは、現在では100%証明されている。引用する人からすれば、「これを除いたら根拠がなくなるじゃないか」が本音であろうが、問題はそれを放置している周りの人達(特に問題なのは自分は賢いと思っている人達)にもある。きちんと言えば、二度とこのような妄言は出ないと思う。
 「国際的環境が変化した」というのも、少年法改正を主張する某政調会長が述べた(に限らず、これを主張する人の決り文句)「少年犯罪が凶悪化している」と同じく、検証を欠いた理由である。ある場面では賢く、ある場面では愚かであるというのはすべての人に当てはまるが、公的立場の人は、対話を通じて「愚かさ」を修正・緩和する必要性が大きい。
 このように、本人は理由を述べているつもりでも、実際には述べていない場合もあるので、本ブログは「資料の声を聴く」として発信している。理由は十分述べているつもりだが(後で訂正することもあり、そこが論文として発表することとの違い)‥‥、最後は読んだ人の理由に基づく(根拠ある)判断に依る。要は「理由を述べて議論しましょう」と言いたいのである。

2015年6月18日 (木)

以前の記事の訂正

 内蔵資忠と出雲大社領(3)で以下のように記したのは、問題であった。

   建武年間の領家と国造の裁判で、領家方が提出した建久3年7月23日と25日の下文がその際の文書である。この史料は国造側が偽文書であると裁判で主張し、井上寛司氏もそれに同意されていたものであるが、正しいものであることを、10年前の論文で初めて主張し、現在では大方の同意を得ている。ただし、2通の下文の関係がよくわからず、「右大将家」の表現に引きずられ、7月23日付けが政所下文で、25日付けが袖判下文かなともおもったが、当時の発給状況と合致せず、「政所下文か袖判下文か不明」と記したのである。 現在みれば、なぜ気づかなかったのかと思うのだが、23日の下文は相伝の職だとして資忠を惣検校職に補任している。一方、25日の下文は資忠が重代相伝であるとして、領家が補任したことを安堵しており、23日付が領家下文で、25日付が頼朝袖判下文であった。2つの文書の日付が近いので、両方とも頼朝下文と考え、2通の違いがわからなかったのである。日付の近さは領家光隆と頼朝の間でどう対処するのかの協議がなされ、それを踏まえて出されたためであろう。

つい、手元にあった大社町史をみて記したが、大社町史のこの部分には一行分欠落があることを失念していたのである。論文「中世前期出雲大社史の再検討」を読み直していて気づき、松江市史(この建武3年の史料の校訂は自分が担当。当然、論文作成時にも確認していた)を確認した。両方とも領家下文をうけて安堵した頼朝下文と政所下文であった。二通の復元案は以下のとおり。

頼朝下文(復元案)
        (花押)
 下 杵築大社神官等
   可早任領家中納言家下文、以資忠為惣検校職事、
資忠依為相伝職、補任惣検校職畢、全不可有濫妨之状、
所仰如件、以下、
 建久三年七月廿三日

頼朝政所下文(復元案)
 前右大将家政所下 杵築大社神官等
    可早以内蔵資忠、為杵築大社惣検校職事
件人依為重代相伝者、自領家被補彼職云々、依領家下文
全不可有濫妨之状、所仰如件、以下、
 建久三年七月廿五日 (署判者略)

この史料は領家との協議に基づき作成され、当然、領家のもとにも送られていたのである。

2015年6月14日 (日)

尼子経久の孫

 経久の孫といえば晴久を連想されるだろうが、晴久だけではない。現在も同様だが、自分の子以上に孫をかわいがったりする。経久の長子政久の子としては、早世した長子、晴久(それがゆえに又四郎ではなく三郎四郎)、さらには松田氏に嫁いだ女子(誠保の母)がいた。二男国久の子は多く、男子だけでも長子誠久以下久豊・久尊(後の敬久)・又四郎・与四郎などがいた。女子も晴久と結婚した女子とともに、宍道経慶と結婚し後の隆慶を産んだ女子がいた。三子興久の子は清久が知られる。
 経久の子には、北島国造ならびに千家国造と結婚した女子もおり、前者は国造雅孝の子=経久の孫を産んだが、17歳で死亡した。千家国造との間には子は誕生していない。最後に、宍道久慶と結婚した女子がおり、この子=経久の孫が宍道経慶である。
 そして塩冶興久の乱には宍道経慶も反富田方として参加した。一時は塩冶方の勢力が勝っているとされた興久の乱であったが、富田城を落城させることはできず、かつ両者の共倒れを期待した大内氏・毛利氏が経久方を支持したため、興久の乱は鎮圧された。
 乱後の処理で孫はどのように扱われたのであろうか。興久の子清久は幼少であったため、塩冶の支配を認められた。成人に達していた宍道経慶(28歳)自身は死亡したが、その子松千代(隆慶)・寅寿=経久の曽孫(国久の孫)は、清久と同様支配を認められた。その上で、孫詮久(晴久)への継承が行われたが、安芸国吉田攻めが失敗すると、清久と隆慶は大内氏の出雲国攻めに荷担した。孫ではないが、経久の弟源四郎の孫であった誠幸についても、その後の動向は不明である。そしてとどめが、新宮党討滅であり、誠久以下の孫達も殺されてしまった。まさにこの状況が晴久の評価につながるのであろう。

2015年6月13日 (土)

尼子氏と松田氏

 以前から気になっていたのが、尼子清貞である。父持久と子経久の間にありながら何故「久」を付けなかったのだろうか。鎌倉末期の出雲国守護佐々木貞清も「信濃次郎左衛門尉」と、父頼泰(三郎左衛門尉)ではなく、祖父泰清(信濃守、隠岐次郎左衛門尉)にちなんだ名と官名であった。今回気づいたのは、江州尼子氏も3代目は国貞と名乗っており、こちらとの関係も考えられる。宍道氏2代目高慶女子が国貞と結婚している点をみても、宍道氏の方が出雲尼子氏より家格は上であった。江州尼子氏は「高久―詮久」であったが、3代目以降は「久」は使用していない。一方、出雲尼子氏は3代目経久から再び「久」を付けて、これがアイデンティティとなった。
 清貞と経久の名前の違いの原因の一つに、清貞の晩年の状況が関係するであろう。通説では文明8年の能義郡土一揆(国人一揆)を清貞が鎮圧したなどというお目出度い評価がなされているが、裏付けを欠いており、軍記物が説く、清貞失脚説の方が遙かに可能性が高い。すなわち、清貞は国人一揆を鎮圧できず、失脚に追い込まれ、それに代わって子の経久が守護代となったのである。そのため、又四郎は父清貞ではなく、守護政経の一字をその名に付けた。しかし、やはり反京極氏の国人一揆が優勢であり、結果として経久は国人一揆と結ぶ途を選択して、戦国大名化を図っていった。
  問題となるのが、国人一揆の中心であった安来庄の松田氏や吉田庄の吉田氏であった。小野家文書として残っている大永4年6月2日口宣案により、藤原宗政が宮内少輔に補任されているのは、松田氏の地位の高さを示している。それが、天文8年段階では松田氏当主は「越前守経通」であり、経久から一字をもらう存在になっている。家臣団に組み込むとともに、政久女子と結婚し、後の誠保が誕生している。国人一揆の側でも、一旦は反逆者とされながら、許され復権した尼子経久と結ぶ必要があったのであろう。
 吉田氏(源姓ではなく藤原姓)についても不明な点が多いが、大内氏の出雲攻めの時には、吉田筑後守が尼子氏への忠誠により、宇賀荘を一円に与えられている。当然、宇賀荘を支配していた尼子氏家臣(尼子氏一族か)が大内氏方に寝返ったことにともなう措置であった。永禄12年8月10日には尼子勝久が吉田四郎三郎に対して祖父宮内大輔の時の如くに、同名中5人の跡職5000貫分の知行を与えており、吉田氏の勢力がうかがわれる。
 ちなみに、竹生島奉賀帳の出雲州衆については、尼子氏と関係する近江源氏の人々を最初に記し、その後は地域ないしは一族毎に記しているが、その最初に、吉田兵庫助、母里土佐守、松田越前守と能義郡の国人一揆の首謀者と思われる人物(藤原姓)が並んでいる。棟札によると西母里を支配する吉田氏は「永」の字を付け、東母里を支配する母里氏は「房」の字を付けていたが、本来は同族であったと思われる。天文21年の吉田兵庫助は経永で、文亀2年の母里刑部左衛門は経房と、ともに経久との関係がうかがわれる。

2015年6月11日 (木)

ちあきなおみ4

 ちあきなおみの番組がしばらくないこともあり、彼女を取り上げたブログの中には検索してもヒットしないものも出てきた。本家本元の「ちあきの部屋」は健在であるが、以前ほどの投稿はみられない。そうした中、以前一回ほど落札の直前までいった「男の友情-ちあきなおみ 船村徹を唄う」を遅ればせながら入手した。たまたま、本当に久しぶりにオークションで検索したらヒットし、競合することなく、入手できた。このアルバムにしか収録されていない6曲が売りであるが、他の歌手の歌唱で聴いたことのある2曲が、良い意味で想像を裏切られた。それは「母のいない故郷」と「居酒屋「津軽」」である。前者は作曲者船村徹氏と鳥羽一郎の歌唱を知っており、後者は細川たかしと鳥羽一郎の弟山川豊の歌唱(作曲者船村氏の歌唱はこれまでのところ聴いたことがない)を聴いたことがあった。両方の曲とも他の歌手の歌唱より艶のある声でゆっくりしっとりしているというところであろうか。他の曲と同様、別の曲という印象まで受ける。
 歌唱の完成度が十分でないため、お蔵入りしていたとも言われたが、アルバムの構成上の問題から漏れ、その後、活用されないままに、ちあきなおみの活動停止となったというところではないか。その意味で、このアルバムは作曲者は同一であるが、落穂拾い的な感じ(ただし、個々の作品の完成度は高く、コロムビア時代のなみだの宿の世界に通じる)が強い。彼女の作品集の中では唯一復刻されていないが、今後の見通しも不透明であり、とりあえずは入手できたことを喜びたい。
付記
 「ちあきなおみ礼賛」という記事は以前にも読んだことがあったが、今回改めて読む中で、筆者が、ガンを宣告された闘病生活の中、是非とも残して置きたいとの想いで記されたことを知った(2005年末にちあきなおみを再認識し、2007年に闘病生活に入り、2009年1月に死亡)。アマゾンでのCDのコメントを見ると、なお演歌嫌いの人も目立っているが、繰り返し聞いていただきたい。多くはイントロの段階で惑わされている食わず嫌いである。美空ひばりとの違いも、とりあえずは両者が共通して録音した曲を聴いてみる必要があろう。「男の友情」「ひばりの佐渡情話」「波止場だよおとっあん」「やくざ若衆祭り唄」「無法松の一生」などが思いつくところ。ただし、「波止場だよおとっつあん」についてはその歌詞に含まれる視覚障がい者に関する表現により、ちあきなおみの歌唱を確認するとしたら、船村徹作曲家生活25周年記念コンサートのアルバム(30数年前に家の改築でなくしたが、その歌唱は耳に残っている)で聴くしかない(国会図書館に行けば聴くことができよう)。コロムビアから出た6枚組のCDでもこの曲だけは未収録。美空ひばりの歌唱は、近年発売の船村徹氏の代表作を集めたCDで確認できる。同じ曲ではないが、小椋佳の作品もある。美空ひばり「愛燦々」はよく知られているが、「部屋」「あなたのための微笑み」も注目すべき作品である。

2015年6月 5日 (金)

出雲大社本殿の高さについて2

 問題は、宝治2年の造営・遷宮に至る過程でこの「旧記」が参照されたことである。承久の乱により出雲国衙在庁官人の大半が没落したことにより、建久元年以前の造営関係史料は失われ(少なくとも建久元年に至る造営史料は国造側にとって残したくないものであった点については、すでに述べた)、建久元年頃に国造が写した旧記が唯一のものとなった。そのため、出雲大社神主と国衙目代が造営を進めようとしたが、関係史料がなく進まず、領家は国造の所持する文書を参照して造営をすすめることを銘じた。しかし国造側がそれをみせることはなく、領家は神主を国造に交替させて造営を進めることとした。これは文永7年に本殿が全焼し、その再建の際の史料に記されている記事であるが、前回の宝治2年の造営・遷宮にいたる過程でも、国造が旧記を所持することを理由として神主に補任されたことがあった(当然、宝治2年の造営も前例に基づき8丈(24m)で造営されている)。院領荘園としての出雲大社領が成立して領家が神主を補任するようになると、神主は国造の上に立つポストとなり、国造は神主の兼任を希望したが、国造以外の人物が神主になることが多かった。
 宝治2年の24mの本殿が造営される際に模範としたのが「治暦・天永旧記」であった。この旧記に記された造営で最もスムーズであったのが、天永3年(1112)の造営とこれに続く久安元年(1145)の造営であった。いずれも院の近臣の子である藤原顕頼と藤原光隆が国守で、ぞの父で有力な院の近臣である知行国主藤原顕隆(ないしは祖父為房)と藤原清隆が実質的に造営を主導した。天永3年6月の遷宮については、天仁2年(1109)3月の本殿顛倒から3年3ヶ月で行われている。久安元年11月の遷宮については保延7年(1141)6月の顛倒から4年5ヶ月で行われている。
  ということで、旧記に記された天永3年と久安元年の遷宮は、まさに院政の全盛期に行われたものであったが、この時点でも高さは8丈であったと思われる。まさにこの記録を参照して宝治2年の造営・遷宮が行われたのである。出雲大社本殿の高さについて検討したが、本殿そのものの高さが8丈を超える時期は無かったというのが結論である。早急に誤った情報は訂正される必要がある。

出雲大社本殿の高さについて1

 この問題については、何度か論じているが、事態はさらに悪化していると言わざるを得ない。高校で日本史を教えているが、副教材にも「出雲大社本殿は48m」と掲載されるようになった。今年から使用している図表にも記されているが、これは学校により使用するものが違う。大きな影響力があるのは教科書に関するデータをまとめた『日本史用語集』(山川出版社)の最新版の中でも述べられていることである。24mであることは明白なのに、いままさに「ねつ造」が進行している(以前の旧石器の問題と背景は同じなのでこの表現を使う)。
  とりあえず、これまで述べなかったことを含めて情報を整理してみる。本殿の高さが現在の24mより高かったことを具体的に述べた最古の史料は、近世初頭成立の「杵築大社旧記御遷宮次第」(鰐淵寺文書)の中に引用された史料で「杵築大社三十二丈ト申ハ仁王十二代景行天皇ノ御時御造立也、其後十六丈ニナリ、次ニ八丈ニナリ、今ハ四丈五尺也」と記している。現在が4丈5尺と述べているので、慶長14年の豊臣秀頼による造営(大社側は仮殿遷宮とするが建築史の広島大学三浦氏は正殿遷宮に外ならないとしている)以前に記されたものであろう。
 問題は、その根拠であるが、三本柱が束ねられた遺構が確認された宝治2年の造営が8丈(24m)であったことは、北島家譜に引用された史料から明白である。歴博に展示された模型では三浦氏の説が正しかった。寛永の造営も過去の前例に基づき8丈となったが、その前例が宝治2年の造営であった。
 上の引用では時期的なことが述べられていないが、宝治2年は8丈であった。それ以前を考える必要がある。造営に影響するのは技術力が第一であるが、それに次いで経済力も影響する。宝治2年を最後に規模が縮小(4丈5尺)したのは、技術力の問題ではなく経済力が原因であった。その意味で考えなければならないのは、出雲大社の位置づけである。11世紀に初めて「出雲大社」と表記するようになり、従来の熊野大社に替わって、国内第一位の神社となり「出雲国一宮」と位置づけられた。そして、11世紀末には院政が成立し、出雲大社造営に院ならびにその近臣がかかわるようになった。技術力とこの点を踏まえれば、出雲大社が現在よりも高かったとした場合、一宮となる以前は考えにくいと思われる。10世紀後半成立の「口遊」の表現をどう評価するかという問題があるが、これが事実とした場合は、本殿が平地ではなく丘陵上にあった以外はありえないと思われる。
  さて、この時期の造営を考える史料が「杵築大社造営遷宮旧記注進」(北島家文書)であるが、鎌倉初期に写された時の誤解から「治暦・永久旧記」と呼ばれたが、実際は「治暦・天永三年旧記」とすべき内容のものであった。この点についてはすでに述べたところであるので、省略する。

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