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2015年5月

2015年5月23日 (土)

境目領主小笠原氏の動向

  小笠原氏の動向について補足する。佐波氏や小笠原氏といった境目領主の動向は、その時々で変化している。大永2年と3年の尼子氏による石見国への軍事行動の結果、小笠原・佐波両氏とも、その後の尼子氏の伯耆国への軍事行動に参加している。しかし、これが対大内となると微妙である。小笠原氏については不明だが、大永6年段階で佐波氏は毛利氏とともに大内氏方に転じたことで、尼子氏による攻撃を受け、当主が山口の大内氏のもとに逃れる結果となった。尼子氏とは対立していた福屋氏も、都治氏跡の継承を塩冶興久に認めてもらおうとしている。これに対抗して河上氏も興久に使者を送り、福屋氏を抑えて都治氏の復活を認められた。ところが、塩冶興久が父への反乱に失敗したことで、石西地域における尼子氏の影響力は低下した。ただし、興久の乱で佐波氏は尼子方となっている。これもうがった見方をすれば、大内・毛利氏と同様、劣勢が伝えられた経久方となることで、尼子・塩冶方の共倒れを狙ったともいえる。そしてこの時期の小笠原氏は権力の空白を突くかのように石見銀山への独自の進出を図った。
 これに対して、天文6年に経久から詮久への当主交代を果たした尼子氏は、その前後の時期から東部への進出の準備を始めた。最初に尼子方に転じたのは吉川氏であったが、これに続いて、石西では福屋氏が大内氏から独立する動きを示し、小笠原氏も吉川氏への援軍の派遣という形で尼子方との旗色を鮮明にした。佐波氏もとりあえずは尼子氏に人質を出したこともあって吉田攻めには参加している。西田氏は小笠原氏が尼子氏方に転じるのは大内氏の出雲国攻めが失敗した後と考えられているが、関係史料の見落としであろう。小笠原氏は吉川氏と同様、吉田攻めが失敗したことで、大内氏方に戻り、さらに尼子氏方に転じたのである。境目領主としてはいたしかたない選択であった。尼子氏の対応も、佐波氏に対しては赤穴氏による掌握という選択しがあったので、厳しいものになったが、江川東岸の小笠原・吉川氏は、自らの勢力を浸透させるには必要不可欠の存在であり、これを許して活用せんとした。ただし、小笠原氏は尼子氏一辺倒ではなくあくまでも自らの利害を優先している。尼子氏が毛利氏の圧迫に苦しむ吉川氏を救援する軍事行動をおこなわなかったため、吉川氏は毛利氏から養子を迎え、小笠原氏もそれを祝している。それに対して、天文18年の小笠原氏の軍事行動は自らの選択により大内氏方と戦っている。この時期に尼子氏が石見国で軍事行動を起こした形跡はなく、尼子氏方としての行動ではない。この点は以前の論文でも明記していたのだが、佐伯氏・西田氏には十分論旨が理解していただけなかったようだ。これに対して尼子氏の吉田攻めに先立つ石東での合戦では、軍忠状からは相手がわからないが、尼子氏方としての行動であった。
 これに対して、大内氏滅亡後の陶氏と毛利氏の対立の中で、小笠原氏は陶氏方となった。ところが陶氏が滅亡すると、毛利氏の勢力が石見国に及び、それに呼応するかのように、福屋氏が自らの権益拡大のため動いている(以前の論文では弘治2年ヵとしていたが、西田氏が弘治元年であることを明らかにされた)。弘治元年に福屋氏が大内氏支配下の江要害を攻略し、陶氏方であった小笠原氏への攻撃を開始している。ただし、その一方で福屋氏は尼子氏とも連絡を取っており、単純に毛利氏方であったわけではない。最終的に福屋氏が毛利氏方であることを明確にするのは、尼子晴久による新宮党討滅以後である

都野氏と都野郷2

 都野氏の苗字の地である都野郷については、幕府が地頭職を没収し、吉良氏に与え、吉良氏はそれを東福寺に寄進した。ところが、そこに波祢時継が介入している。貞和4年に東福寺の訴えをうけて幕府の命令が出されたが、遵行すべき石見国守護上野頼兼は、都野郷は敵方所領であって、遵行できないことを東福寺に伝えている。敵方=波祢氏ではなく、都野氏のことであると思われる。波祢時継は建武3年9月には、幕府方として、大田北郷地頭土屋氏、河合郷地頭金子氏、久利郷一分地頭赤波氏とともに安濃郡稲用郷金剛山に楯籠もって南朝方である河上氏や三隅氏と戦っており、貞和4年段階でも幕府方であった可能性が高い。
 波祢氏が都野郷に介入する背景として、西田氏は、波祢氏の本拠地である波祢郷と都野郷がいずれも水運の拠点であったことを指摘されているが、それ以上に波祢氏が都野郷ないしはその隣接地に権益を得ていたことがあるのではないか。幕府方であった金子氏は建武4年10月に勲功の賞として白上郷を与えられ、時期は不明だが、土屋氏も桜井庄地頭職を獲得している。同様に波祢氏も恩賞を得ていた可能性が高いのである。波祢氏は貞治3年にも東福寺から都野郷への介入について訴えられている。とはいえ、最大の問題は都野氏である。永徳元年に都野郷嘉久志村半分が幕府によって和田士貞坊に与えられているが、これは地頭職が東福寺領であることと矛盾しており、東福寺には別の所領が与えられたのではないか。
 西田氏は戦国期に至るまで都野氏の勢力は振るわなかったとされ、その上に永正年間以降に三隅氏が都野郷内江要害に進出して、対立するようになったとされた。前者についてはデータがなく不明であるが、後者については、三隅氏の都野郷への進出はもう少し早い時期からみられている。そのきっかけは、三隅氏が益田氏領であった府中国衙=伊甘郷へ進出したことである。これにより益田氏との間の対立が発生し、文明9年9月27日には三隅氏老臣と益田氏老臣が大浜で会い、和与を申し合わせている。三隅氏老臣が益田氏側へ送った起請文の本文には「殊に庄内之事」とあるが、その「封書ウハ書」に益田氏側が「三隅此方庄内・都野之事について、老者中書違」とあり、庄内とともに都野郷をめぐり対立が生じていることがわかる。
 その具体的経過は一部を除き不明だが、西田氏も指摘されるように天文21年には益田氏が「都野内神主分」・「同所内上村分」・「有福」・「江津」を三隅氏の不知行地と主張している。三隅氏と都野氏の直接的関係は確認できないが、小笠原長定(長隆父)の子長弼が都野氏を継承しているのと同様に、三隅貞信女子が小笠原長定の妻となっており、都野長弼の母であった可能性が高い。

都野氏と都野郷1

 都野氏は河上氏・都治氏・出羽(君谷)氏などと同様、石見国衙の有力在庁官人伴氏の一族で、江川西岸の都野郷ならびに加志岐別府(有福)を支配した。石見国大田文では、都野郷の田数が21町1反60歩、かじきが3町5反120歩。西で境を接している波子は中世の宇津郷に比定できる。東では都治郷と境を接している。都野郷内を流れる敬川の上流域が加志岐別府(有福)であった。
 鎌倉時代に分割相続が進みんでいた。有福伴三郎実長の所領は、建治元年には後家妙蓮・庶子道智領五分四と嫡子実保領五分一に分かれていた。嫡子実保の所領が少なく疑問とする意見があるが、都野郷内の別の所領も譲られていたと思われる。建治元年以後に、実保が所領を没収され、その跡が勲功の賞として狩野貞親に与えられたが、有福氏からすれば、所領の没収に不満があり、狩野氏との間にトラブルが絶えなかったのだろう。徳治2年には有福氏側が狩野氏を訴えた訴訟の和与が成立し、両者の所領が再確認されたが、問題の解決には至らず、正和元年7月には狩野貞親が、越生光氏との間に所領の交換を行った。
 越生氏にとっては苗字の地である武蔵国越生郷内岡崎村をなぜ、石見国の所領と交換するのかというのが素朴な疑問であろうが、越生光氏の曾祖父有政(鎌倉初期に来原別府を獲得した東国御家人田村氏から越生氏に養子に入る)が都野郷に隣接する宇津郷を承久の乱の勲功の賞として獲得していたことを知れば、納得がいくであろう。光氏の兄重氏が石見国宇津郷を譲られ、光氏が岡崎村を譲られていたのである。また、光氏の兄弟(女子)が周布郷地頭兼宗と結婚していた。狩野氏にとっては長年のトラブルを解消できるが、有福氏にとってみれば、石見国に拠点を置く東国御家人越生氏領となったことは、何の問題の解決にもならない。南北朝の動乱でも、周布氏や都野氏の一族が南朝方となったのに対して、越生氏は幕府方となった。
 そして、南北朝動乱が実質的に終了した後の至徳2年7月22日に大内新介は有福村・宇豆(津)郷・佐野別府を周布因幡入道兼氏に預けた。有福・宇津郷は越生氏並びに都野氏領(有福5分4)であり、佐野別府は河上氏領であった。ただし、これは一時的な措置であり、周布氏が一定期間支配できたのは有福5分1越生分のみで、宇津郷は不明で、佐野別府は河上氏領に戻っている(石州諸郡段銭注文)。

桜井庄地頭土屋氏

 土屋氏が討伐を受けたのはいつであろうか。応永13年には、桜井次郎宗直が邇摩郡を押領し、守護山名氏が周布氏領井尻村を沙汰付けることができない事態となっていた。この時点では土屋氏が桜井庄地頭であり、応永の乱後の混乱の中、実力行使に出ていたのであろう。その一方で土屋氏は宗信が都治政行の女子と結婚し、下都治を得ていた。下都治には都野郷と隣接する江川河口の東岸地域も含まれていた。郷原氏本には、土屋氏による都治弘行殺害は応永21年となっている。この事件そのものでは追討の対象にはならなかったことになる。
 応永32年5月には石見吉見氏による吉賀郡内の御台御料所(代官は吉見氏惣領)押領が問題となり、益田・三隅・河本・桜井・福屋並びに周布氏に押領人を退け、代官に下地を沙汰付ける事が命じられており、土屋氏討伐はこれ以後のことである。石見吉見氏による押領は応永29年11月以前に吉見氏惣領が代官となって打ち渡しがなされたが、実施不能であり、この状態が長引いていた。そして永享12年の石見国諸郡段銭注文では、吉賀郡そのものが「吉見知行」となっている。押領行為が是認された形である。吉見氏知行地の公田数は吉賀郡の60町に長野庄内山津田8反と豊田郷地頭・領家分半分10町5反を合わせると、71町3反となり、73町9反半の益田氏に匹敵する規模であった。
 それが応永33年12月には大覚寺門跡領桜井庄領家職の沙汰付が地頭桜井の抵抗でできないとして、益田氏に沙汰付けと請取状の提出が求められている。実際には、桜井庄押領を名目として国人が動員され、土屋氏の排除と所領の没収がなされたのであろう。
 これに関連して、年未詳3月1日佐波某書状がある。佐波氏が桜井庄を預かりたいとの希望を出したことが伝えられているが、それは事実ではないと、佐波氏が周布氏に伝えている。土屋氏が桜井庄地頭職を没収された時点での手紙であろう。土屋氏が詫びて内裏段銭を納入して所領を返された際には、土屋氏の親戚である周布氏が、益田氏一族や他の国人に働きかけたと「根本之事」は記している。時期は、康正2年に内裏修造が完成した時点である。同年10月10日には、桜井又次郎跡が出陣したとの注進を受けた幕府奉行人が、今後も忠節をつくすよう、益田兼堯に伝えている。「根本之事」の記載とも呼応している。この時に、桜井庄とともに、上都治も返されたのではないか。海東諸国記に、1468年に北江津太守平朝臣吉久が朝鮮に使者を送ったことが記されているが、土屋氏の一族であろう。1470年にも土屋氏惣領と思われる桜井津修理大夫平朝臣賢宗が使節を派遣したことが記されている。

2015年5月22日 (金)

応永末年の石見国

 応永年間は、近代の一世一元の制下を除けば、最も長期間続いたが、その末年には飢饉の発生とともに、各地で所領をめぐる紛争が発生している。出雲国でも出雲大社と日御崎社の対立がみられ、それが日御崎社検校をめぐる対立に発展した。
 石見国西部では吉見氏惣領と庶子である石見吉見氏(木部一類)との対立がみられ、結果的には在地を掌握してきた石見吉見氏の支配が確立していく。石見東部では、桜井庄に対する地頭桜井氏の押領が訴えられている。桜井庄は地頭不設置であったのが、南北朝期に大覚寺領となったこともあり領家が南朝方となり、その結果、幕府方で太田北郷地頭であった土屋氏が桜井庄地頭に補任されたと思われる。この土屋氏はその一方で、応永21年には姻戚関係にあった都治弘行を殺害して都治氏領を奪おうとしている(これそのものは問題とならず)。桜井荘押領の訴えによる、石見国守護と国人が動員され、土屋氏領桜井庄と押領した都治郷の一部は、将軍家と婚姻関係を結んでいた日野氏の庶流烏丸家に与えられた。「都治・河上両家根本之事」によると、都治は「京都ヘノ直務として烏丸との御あつかりなり」とあり、幕府の管理下で烏丸氏に預け置かれていた。桜井庄も同様の扱いであったと思われるが、その後内裏修理が行われた際に、土屋氏が守護山名氏に詫言を行うとともに、石見国6郡の負担分を自ら納入することを申し出たため、土屋氏に返されたと「根本之事」は記している。土屋氏はその後も桜井氏を名乗り活動しており、事実であったと思われる。
 そして、応永末年のもう一つの事件が、佐波氏と高橋氏の対立である。佐波氏は当主幸連が死亡し、後継者梁山も7才と幼少であったため、隣接する都賀郷を支配する高橋氏が佐波氏領の押領を図ったのであろう。この紛争と土屋氏をめぐる問題が関係した可能性もある。この対立の中、「赤穴郡連置文」によれば、明都賀氏など佐波氏の下方親類衆や、赤穴庄西分を支配していた千束氏は高橋氏方となり、危険を感じた赤穴弘行が梁山を伴い京都に上洛し、幕府に訴えて問題の解決を図り、明都賀氏を成敗し、千束氏はその所領の3分2を没収された。正長元年(1429)に出雲国守護代宇賀野氏が、隠岐国村次郎左衛門尉と田儀次郎左衛門尉並びに石見勢を鎮圧するために、国人を率いて転戦しているのも、この対立に関係するのではないか。
  高橋氏と都賀郷の関係であるが、永享12年の石見国諸郡段銭帳には都賀郷がみえない。この時点で幕府の支配するところとなっていたぐらいしか思いつかない。応永11年の伊勢神宮旦那引注文にみえる「都賀二郎五郎証光」はその名からして高橋氏であると思われる。南北朝期に南朝方となった高橋氏が石見国に進出し、出羽氏などと戦ったことも確認できる。その都賀郷が一旦は幕府により没収されたのであろうか。

2015年5月16日 (土)

建久元年杵築大社造営について2

 承久の乱後は、中原氏の没落を受け、政孝が神主、頼孝の子真高が権検校に補任された。国造政孝としては、今度は同じ出雲氏である頼孝・真高父子がライバルとなったのである。そこで、真高を圧迫するとともに、内蔵孝元の例を引いてその解任を求めた。一方、嘉禄元年(1225)4月には、兄孝綱と同様、本家に対して神主職に補任を求め、認められている。この時点では政孝が神主であったが、その立場を強化しようとしたのである。兄雅隆に代わって領家となった弟藤原家隆(新古今和歌集の選者)からすれば、政孝の行為は許容できず、一旦は政孝を神主職から解任したと思われる。建治2年(1276)2月に領家兼嗣が政孝の子義孝を惣検校(神主)職に補任しているが、そこには、嘉禄の造営が、神主が造営旧記を所持しないため遅れた際に、政孝が旧記を所持することを根拠に神主に補任したことが述べられている。嘉禄2年7月に政孝が領家下文で神主職に補任されているが、この下文には造営旧記のことは述べられておらず、この後に神主が政孝から別の人物に交替して造営が進められたが、うまくいかず、政孝が再び神主に補任され、正殿造営が進められたのであろう。
 ここでも問題はその時期であるが、天福元年(1233)6月には神主真高による刃傷事件があり、内蔵孝元が神主職になっている。ところが、文暦元年(1236)9月には、真高が造営について奔走したがうまくいかず、義孝が神主職に復帰している。この直前の6月には領家家隆が、造営文書を披見して年内に棟上げをするよう神主に命じているが、これが真高であった。孝元から真高に戻り、その後政孝が補任されたのである。造営旧記の所持が問題となったのはこの時点であろう。そして、翌年、領家家隆が死亡し、後継者が幼少であったこともあって、権検校も国造の関係者が補任されるようになったと考えられる。
 話が建久元年から離れてしまったが、文治6年=建久元年(1190)正月の時点では内蔵資忠が神主であった。これに対して朝廷からは資忠の解任を求める要求が頼朝のもとに届いていたが、頼朝は神主職の補任は領家の権限で、自分が口入する問題ではないとしているが、その結末は不明である。建保2年8月の土御門院庁下文に引用された国造孝綱の主張によると、遷宮の時期に臨み、特別な沙汰により孝綱父孝房が還補して遷宮を遂げたとしている。建久2年7月の解状でも、孝房が御神体を奉懐したとする。事実であろうが、注意すべきは神体の奉懐は国造としての仕事である(神主設置により神主の仕事となったとの解釈が成り立つ余地jもあり)という点と、正殿造営そのものは、文治2年(1186)から建久元年初めまでは神主であった内蔵資忠によって行われたことである。この時点では、国造が神主でなければ造営が進まないということはなかったのである。この事実の確認が、今回のブログを書き始めた動機であった。それがゆえに、国造家にとっては、建久元年の遷宮に至る史料は、後世には残したくない史料であった。久安元年の遷宮までは、庄園としての出雲大社領は成立しておらず、国衙のもとにある出雲大社領であるため、遷宮等の儀式に登場するのは目代ならびに在庁官人などの国衙関係者と国造ならびに社家の関係者のみであった(ただし、後の神主に相当する国衙の一宮責任者はいたはず)。建久元年の次の宝治2年の遷宮時には国造側が神主職ならびに権検校職を確保していた。ただし、仮殿遷宮の時点はそうではなかったので、遷宮の記録は残されていない。建久元年の遷宮についても、正殿遷宮時には国造が神主であったであろうが、仮殿遷宮を含め、誰が神主であったかは不明である。
 以上のように、史料が残された背景を考えずに、残された史料のみから論ずると、結果として事実を捏造することがある。「治暦・永久旧記」(実際には治暦・天永・久安旧記)についても、その作成の背景がまったく理解されずに、研究がなされてきたのが実態であった。

建久元年杵築大社造営について1

 鎌倉幕府成立後、初めの造営となった建久元年の造営並びに遷宮については、ほとんど史料が残されていない。承久の乱で出雲国衙在庁官人が大打撃を受けたためと解釈していたが、そう単純なものではなさそうである。国造側は建久元年(1190)6月29日に遷宮が行われたとしている。建久2年7月の出雲国在庁官人等解と弘安4年(1281)3月の国造義孝大社造営注進状である。前者は在庁官人等解状とはあるが、国造側が作成した文書に在庁官人等が花押を加えたものであろう。これに対して、承久2年(1220)3月の杵築大社遷宮年限例注進では建久元年10月18日としている。この文書は、建久元年の造営・遷宮から30年近く経過し、大破や有事の可能性があるとして、在庁や社頭の訴訟が相次いだことにより、国衙からの要請を受けて杵築大社政所(領家のもとで神主が統括)が、報告したものである。
 問題なのはこの時点の神主(惣検校)が誰かであるが、建保2年(1214)8月に国造孝綱が本家土御門院に中原孝高の濫妨を停止し、自らを補任するよう求めており、この時点では中原孝高が神主であったと思われる。補任権は領家が持っており、本家の判断がどこまで有効かは不明である。ことある毎に神主補任を希望するものが請文を提出し、領家が判断していたであろう。
 建保7年(1219)に国造孝綱が国造職と惣検校職を弟政孝に去り与えているが、国造職は国司に、神主職は領家に補任権があり、両職ともに譲与できるものではなく、これを根拠にこの時点で国造孝綱が神主であったとすることはできない。ライバル内蔵資忠の死と後鳥羽院と3代将軍源実朝の協調体制のもとで、国造孝綱が一旦神主職に補任されたが、権検校内蔵孝元の解任問題で、孝綱が国司と幕府と結んで領家の権限を侵害したことで、神主職を解任され、有力在庁官人の子中原孝高が神主職に補任された。領家藤原雅隆には国造孝綱への不信感もあり、且つ実朝の暗殺を受けて、孝綱では神主復帰が難しいとの判断で、弟政孝にバトンタッチしたのだろう。中原孝高が神主である体制が変わるのは承久の乱で、出雲国在庁官人が打撃を受けた時点であろう。また、神主中原孝高のもとで、権検校(最初は内蔵孝元が補任されたが、御神供を欠如したため解任された)となったのは、領家の命を受けて、神主孝高とともに内蔵孝元を追い出した出雲頼孝であろう。中原氏は秋鹿郡秋鹿郷と伊野郷の郷司であったが、承久の乱で両方ともその地位を失っている。

2015年5月13日 (水)

赤穴氏一族井本氏について3

 置文では井本氏は、猪子谷南村を佐波大惣領のもとで知行し、赤穴の井本分を弘行のもとで知行したとして、あたかも佐波氏大惣領-赤穴氏惣領(弘行)-井本(清連)のように記すが、自らも猪子谷南村は井本のもとで知行していた。たまたま、猪子谷村全体の地頭職を佐波氏惣領が持っていたので、猪子谷南村一分地頭職は佐波氏が加判したのみであり、弘行と清連は対等であった。しいていえば、年少の子弘行を常連が愛したがため、佐波氏惣領幸連と同じ読みの弘行(ゆき)としたのであろう。弘行の子は幸重と名乗った。一方、常連は掃部助から備中守となっているが、正連が掃部助、清連が備中守に任官している。それに対して弘行は不明である。
 正連流の没落についても置文に記されている。梁山(元連)が7歳の頃、明塚氏を中心とする惣領への謀反があった。高橋氏と佐波氏の対立に際して、佐波郷の下方親類衆がことごとく高橋氏方となったのである。赤穴庄西方の千束を梁山が通る際にこれを襲う計画があることを察した赤穴弘行が瀬戸山城から梁山を伴って京都に上洛して訴え、幕府の安堵を得ることに成功したのであろう。梁山と下国した弘行は、自らの家臣と梁山の家臣に張本人明塚隼人正を成敗させた。これは永享10年以前の事件であったが、ここでは井本は弘行流とともに梁山方となったのであろう。その後も、梁山を暗殺せんとする奥山氏の計画があったが、これも赤穴氏が未然に防いだ。
 これに続いて起こった佐波氏惣領元連の危機が、八幡宮押領により元連討伐の命令が出されたことであった。出雲国守護京極氏と石見国守護山名氏に元連退治の命令が出され、両国の国人が動員され、泉山に三沢氏をはじめとする討伐軍が陣取った。泉山の地は狗子田南村の井本氏分にあることから、その時点で井本氏も討伐軍に参加していたのであろう。事件の発端となった赤穴八幡宮は赤穴氏の所領にあり、押領は赤穴氏の協力なしには不可能である。赤穴氏は佐波氏方にあったのが、最終的に京極氏の元に出頭し、猪子田南村片山分は没収され、石見国守護の所領となった。これに対して井本氏は早い段階から守護方となっており、石見国守護と幕府から所領の安堵を受けた。それが理由は不明であるが、元連の罪は許され、逆に井本・明塚が事件の張本人であることがわかり、両者は所領を居奪われ、逃げ失せてしまった。
 文安6年に善連(出家後の清連)と子の重連がいずれも重連子かめわかに赤穴庄と猪子田南村を譲っているが、所領の没収を避けるためのものであったろう。結局、所領は没収されたが、かめわかは手継証文を保持して、所領の復活を願っていた。そして延徳4年にかめわかと同一人物と思われる了銀が、赤穴善太郎安連と契約を結び、赤穴氏による所領支配に異議を言わないことを約束している。この間、佐波氏惣領元連は、井本氏領だけでなく、赤穴氏領に自らの支配下に置こうとして、両者の間で戦いとなったが、京極氏の側近多賀高忠と幕府奉行人飯尾氏の仲介で、猪子田南村内片山と赤穴庄が赤穴氏に返された、こうした中、井本氏が佐波氏惣領と結ぶ事態を避けるため、井本との間に契約を結んだのであろう。

赤穴氏一族井本氏について2

 常連領は③のようにみなみのつら=猪子谷南分であり、その東境が「さけたにかわ」で、西境がくねちたにであった。これを置文では、「佐波郷のうち円山、下はくねち谷かぎり、大河を限り、赤穴堺まで」と記している。石井氏は置文の頭注で、円山・くねち谷は未詳、大河は江川を指すとされた。東境の赤穴堺=「さけたにかわ」と表記し、西境=くねち谷とすると、大河とは、応永13年譲状に「しようのこしお大かわおかきる」と記された猪子谷村の中央を流れる川であろう。この川は現在は沢谷川で統一されているが、この川が江川から分かれた地点を「くねち谷」とし、その最上流部を「さけたにかわ」と表現したのであろう。弘行領と清連領は④=⑧で境を接し、弘行領は⑥まで、清連領は⑦までとなり、両者の間に正連領が入る領域はない。従来、沢谷中央に「九日市」の地名が残り、これと「くねち谷」を直接結びつけて、場所の比定が不明確になっていた。「くねち谷」とは「九日市」のある谷といった意味であった。こう考えることで、沢谷が現在の井本と片山の境(竜尾)で二分され、弘行と清連に与えられたことがわかる。赤穴庄も弘行が惣地頭職を得ているが、その面積からするとほぼ三分されている。文安6年5月には清連の子重連が、亀若丸に赤穴庄3分1を譲っていることからもわかる。同様に南猪子田村も、惣地頭職は清連とされたが、一分地頭弘行領と面積は同程度であった。
 ここまでをまとめると、赤穴常連は三人の子に所領を分割して譲ったが、長子と思われる正連には赤穴庄のみを譲り、二男清連と三男弘行には2カ所を譲った。三者の間に惣領ー庶子関係はみられないが、清連と弘行が正連より優遇されていた。まさに弘行流にとっては清連流=井本氏がライバルであり、何度も置文でその動きを批判した。それに対して正連流は置文で登場する「千足」氏である。赤穴庄西方にある千束を拠点としていたのであろうが、高橋氏と佐波氏が戦った際に、高橋方となり、戦闘が終結した段階で、惣領により所領の3分の2が没収された。実際には3分の1も確保できず、永享12年の弘行流の幸重譲状のように、正連領は弘行流が併合している。萩閥未収録文書であるが、永享10年6月には正連流の清文が、3分1の知行が実現するよう、井本氏に依頼し、関係文書を渡したが、働きかけがなかったとして、井本氏に預けた証文は無効であることを述べている。おそらくは、この一流は弘行流の支配下に入ったのであろう。中川四郎氏所蔵文書には、なぜか正連譲状のみ、本書と写しの2通残されている。この時点で、清文が弘行流に写しを作成して渡したのであろう。

赤穴氏一族井本氏について1

 井本氏は、赤穴郡連置文に何度か登場し、赤穴氏の選択した行動を正当化するための引き立て役となっている。すなわち、応永13年に赤穴常連が自らの所領赤穴庄と佐波郷内を弘行・正連・清連に分割して譲っている。後に作成された赤穴郡連置文には、実連の嫡子(長子)顕清が早世したため、実連は二男井本と顕清の子である嫡孫弘行に所領を譲ったとしている。これについて、藤岡大拙氏、石井進氏、岸田裕之氏は二男井本=正連であるとの説を提示されているが、根拠は示されていない。しいて言えば、正連が応永13年段階で掃部助であるのに対して、清連はなお二郎四郎にとどまっている点があげられようか。ただし、正連が二男であるのは、顕清が存在した場合である。嫡子=長子とは限らないが、顕清は死亡した時点では掃部四郎であったと置文に記されている。正連は応永22年に法師丸に所領を譲っているが、その外に孫四郎・こんなう丸という名の子がいたことがわかる。また、清連は応永32年に所領を二郎丸に譲っているので、応永13年に所領を譲られた弘行が正連と清連の子たちより年長であることは間違いなく、弘行の父顕清が存在したならば正連より年長であろう。問題となるのは応永13年の譲状である。どこにも三者の関係を記した記述はなく、置文がなければ、だれも三者は兄弟であると考えたであろう。そして事実そうであった。常連の長子が正連であり、二男清連が井本であった。 残されている譲状は、赤穴庄が3通なのに対して、佐波郷猪子田南村については、弘行・清連のみの2通である。井本分が後に佐波氏惣領に没収されたため残らなかったと3氏は考えられたのであろうが、弘行分と清連分の四至境をみれば、正連分はなかったことがわかる。
  永和3年常連領
   上:さけたにかわをかきる①、
  下:くねちたにをかきる②、みなみのつら③
 応永13年弘行領
  東:あさおさの大としのなハてをミなみゑなはられ、くりのきのそ
        ねをおくかきる④
  北:しょうのこしおきたゑ大かわおかきる⑤
  下:くねちたにおかきる⑥
 応永13年清連領
  上:さけたにおあかなさかゑへかきる⑦
  下:あさおさの大としのなハておミなみゑなはられ、くりのきのそ
        ねおおくかきる⑧
   北:しようのこしお大かわおかきる⑨

2015年5月 8日 (金)

益田氏領の整理9

 乙吉[美濃郡]
 兼栄・兼高領、兼季領のいずれにも乙吉はみえないが、その一方で乙吉を支配する一族もまた益田氏と同様「兼」の名を付けている。益田氏を含む御神本氏が「兼」の一字を付けるのは、12世紀半ばの石見国司源季兼との関係であるから、乙吉氏は国兼から始まる御神本氏の一族ではあるが、兼高以降の広義の益田氏(兼季以降が狭義の益田氏)ではなかった。乙吉は乙吉郷と呼ばれたり乙吉別符とも呼ばれているが、人名を付けているように、散在する耕地の集合体で、その分布は乙吉だけでなく、三隅氏領と堺を接する土田にまで及んでいた。田数は両方併せて9町であった。永和4年に祥兼が嫡子兼世に譲った所領に「つちたのむら」(ここでは本郷内とする)がみえ、永徳3年の将軍義満安堵状には乙吉・土田両村がみえ、この時点までに乙吉氏は益田氏惣領の家臣となっていた。 
  飯田郷・安富郷[美濃郡]
 長野庄内の飯田郷については、益田氏に関する確実な文書で最も古いものが残されている。すなわち、貞応2年5月25日関東下知状で、飯田郷をめぐる掃部助仲廣と右衛門尉兼季の裁判で、兼季がこれまで三代知行してきていることを仲廣が承伏し、且つ地頭職を何度も安堵されているとして、仲廣の非論を停止すべきことを命じている。長野庄内高津別符は兼高領には見えたが、兼季領からは除かれている。益田氏系図によると、長寛2年正月27日に兼栄が高津本郷下司に補任された事が記されている。益田庄を拠点とした兼栄が新たに長野庄に進出したわけだが、これに対して本来の領主もおり、両者の対立が続いていたと思われる。飯田郷をめぐり対立した掃部助仲廣も長野庄内の武士であると考えられる。飯田郷も三代知行であるから兼栄の時代に獲得したわけだが、高津郷は結果が異なり、本領主の権利が認められたのであろう。長野庄は益田庄とは異なり、国をその名に付ける一族が立庄の中心となったと思われる。源季兼の前任国司で重任した源国保との関係を強めたのであろう。これに対して、本来は石見国衙の主導権を握っていた御神本氏一族が、益田庄立庄を期に美濃郡に進出し、保元の乱などの政治的変動を利用して、長野庄内にも勢力を伸ばしつつあったのであろう。国保は藤原忠通の子頼長とのつながりを持っていた。
 ところが翌貞応3年2月10日に兼季が急死し、その遺領が配分された。飯田郷は嫡子兼時、次いで兼時の庶子兼久に譲られた。兼時から周布郷・安富郷・鳥居郷を譲られた周布兼定が死亡した際に、兼時とその母聖阿弥陀仏は、兼久(松房)をその養子に入れて相続させようとしたが、裁判には敗れた。その後、兼定の後家慶阿弥陀仏の連れ子幸寿と兼久が結婚し、兼久は飯田郷とともに宅野郷を譲られ、幸寿は兼定領安富郷を譲られていた。
  その後、兄兼長の早世により兼久が益田氏惣領となったが、幸寿領安富郷は、幸寿女子ないしは孫女蓮阿を祖母母とする丸茂兼幸に譲られた。兼幸は父(名宣)からは丸茂郷一分地頭職を譲られ、祖母から安富郷惣領地頭職を譲られた。丸茂郷惣領地頭職は小笠原氏から益田氏に養子に入った兼頼が譲られたのである。
 得屋郷[美濃郡]
 得屋郷は長野庄に組み込まれたが、益田川下流域の西岸地域からその支流多田川流域にかけての所領で、大田文の時点の田数は20町2反小である。ここから分かることは、益田庄の立券に先行する形で長野庄の立券が行われたことである。石見守源国保(重任)-石見守源季兼の順番とも矛盾がない。ただし、益田氏領となる以前からの本領主が存在したはずであり、13世紀末の益田兼胤の時代に益田氏がその所領の大半を没収されると、本領主得屋(岩田)氏が復活したと思われる。得屋氏関係史料は14世紀半ば以降のものが残り、応永17年8月4日には得屋胤家との契約に基づき石見国守護山名常勝が得屋郷地頭職を益田周兼(兼家)に打ち渡し、翌18年12月の将軍義持の安堵状からは得屋郷地頭職が含まれるようになる。ただし、得屋氏も領家分はなお確保していたようで、15世紀前半に比定できる三隅道城(兼繁、三隅氏略系による)書状によると、長野庄領家職については、地頭方に返すことを命じた京兆(大内氏ヵ)からの文書が届いたとして、得屋遠江入道に対して領家分を知行すべきことを伝えている。

益田氏領の整理8

 納田郷・井村[美濃郡]・小石見郷
 益田庄内の所領で、大田文段階では23町5反60歩であった。弥富名の一部=小弥富、末元別符、木束郷、永安別符とともに三隅兼信に譲られた。井村(8町1反)は兼季の後、誰が支配したかは不明である。三隅氏略系では南北朝初期から南朝方の中心であった三隅兼連の弟兼雄が小石見郷と井村地頭であったと記されている。実際、小石見郷の岡本氏の文書から、小石見郷は南北朝期は三隅氏が支配していたことが確認でき、暦応5年2月17日には、幕府軍が小石見城凶徒井村石見権守兼雄以下が降参しており、系図の記載を裏付けている。兼季以降は不明であるが、南北朝期には小石見郷とともに井村を三隅氏庶子兼雄が支配していたのは確かである。その後は納田郷と井村を併せて三隅郷と呼ぶようになるのではないか。
 応安7年正月の周布因幡入道士心申状は、前年に周防国大内氏のもとに参り、小石見郷と対立が生じている所領について訴え、遵行と注進を待っていたところ、12月27日に井村八郎左衛門尉兼氏に奉書が与えられたため、再度訴えている。
 弥冨名[美濃郡]
 その名前の通り、散在する田の集合体であったのだろう。大田文では16町で、その範囲は納田郷と益田本郷に挟まれた地域であった。兼季段階では弥冨名であったが、兼時領としては弥冨郷と呼ばれている。弥冨名の一部が三隅兼信に譲られ、小弥冨と呼ばれたのに対して、残った大部分が弥冨郷と呼ばれたのであろう。兼時から嫡子兼長に譲られたが、兼長が早世したため、弟兼久を惣領とし、所領の多くを継承した。兼長後家阿忍は伊甘郷と弥富郷を配分された。阿忍は益田氏惣領となった孫兼弘(道忍)に伊甘郷を譲ったが、後にはこれを悔い返し、孫夜叉=鳥居女房に譲った。そして、弥冨郷については、兼弘の兄弟たちに譲った。兼弘の兄弟は、二男兼利が大草氏、三男兼種が遠田氏、四男兼国氏が波田氏を名乗っている。波田は東山道内の地名であるが、兼国女子亀夜叉は宇地村地頭で、丸毛別符一分地頭兼直と結婚している。兼国は父兼胤から波田を、祖母阿忍から宇地村を譲られたのであろう。建武5年2月に益田庄宇地(宇治)村を孫子兼里に譲っている尼是阿は兼国女子亀夜叉と同一人物であろう。是阿の提出した具書に元亨2年2月の道忍去状がある。波田氏は阿忍領だけでなく兼胤領を譲られているので、兼胤嫡子兼弘=道忍からすれば庶子であり、道忍が宇地村に介入したが、最終的に道忍が是阿に去渡したものであろう。
 応安4年の段階では弥冨名下村が遠田村と呼ばれ、その半分を益田祥兼が押領していると永安祥永が訴えていた。それが永徳3年には将軍義満により弥冨名全体とかつての小弥富に相当する岡見村が祥兼に安堵されている。そのため、応永年間には永安太郞が今度は弥冨上下村について益田祥兼の子道兼を訴えているが、益田氏の支配に変わりはなかった。

益田氏領の整理7

 益田庄については、本郷・納田郷・弥冨名・井村に分けて、長野庄については、飯田・得屋・安富にわけてみていく。
 益田本郷[美濃郡]
 益田庄には上記の所領以外に乙吉があるが、ここは益田兼栄・兼高父子の所領ではなかった。乙吉は乙吉郷ないしは乙吉別符とも呼ばれ、現在の乙吉のみならず、土田川下流域の土田村を含んでいた。大田文の時点の田数は9町である。これに対して益田本郷は91町7反60歩である。
 益田兼季は当初、益田本郷・納田郷・井村・弥富名を譲られたが、その死後に納田郷と弥冨名の一分は三隅兼信に譲られた。兼時は益田本郷と弥富名を譲られたが、井村については不明である。これ以外の女子に譲られた可能性もある。そして兼時の段階では、益田本郷と弥冨名から、東山道郷と北山道郷が独立している。益田川上流域が益田本郷から独立して東山道郷となり、弥冨名内から北山道郷(種)が分かれたのであろう。
 応安4年、永安祥永が、益田庄内弥冨名下村半分が益田祥兼により押領されたと訴えたのに対して、祥兼は、正和5年2月21日に益田兼長後家阿忍が3人の孫子に譲り、その権利を継承していると主張している。阿忍は益田氏惣領兼胤の嫡子で、自らの孫である兼弘=山道孫太郎入道道忍に伊甘郷を譲ったが、文書を抑留したとしてこれを悔い返して、別の孫である「孫夜叉」に譲ったが、その一方で、孫である兼弘の兄弟には弥富名内の所領を譲ったのである。系図では、兼弘の兄弟兼利は大草氏、兼種は遠田氏、兼国は波田氏と号している。波田は益田本郷内の所領であるが、兼国女子には宇治地頭と記されており、兼国は父兼胤から東山道内波田村を譲られ、祖母阿忍から弥冨郷内宇治村を譲られたのだろう。大草・遠田・宇治本来はいずれも弥冨名内で、これが阿忍から孫子に譲られた所領であろう。そして、その後、この3カ所は益田氏惣領が弥富名(海岸部)を支配するようになると、種を中心とする北山道郷内に吸収されたのではないか。
 永徳3年8月、祥兼は嫡子兼世と庶子兼弘と兼政に所領を譲った。益田本郷の大半と弥冨名は嫡子兼世に譲り、兼弘には内陸部の久々毛村と海岸部の大谷・平原と東山道郷、乙吉・土田両村を、兼政には元々益田氏館があった得原の右近允名と北山道郷を譲った。
 ところが、応永18年12月の室町幕府御教書では、基本的に益田氏領の全てが惣領周兼(兼家=兼世の嫡子)に譲られている。同29年閏10月の石見国守護山名常勝譲状では兼家嫡子兼理に同様の所領が安堵されているが、そこには東北山道郷と伊甘郷について、庶子跡であるが、惣領に対して野心を構えたため、惣領兼理の支配としたことが述べられている。永徳3年後、大内義弘と弟満弘の対立が発生し、満弘を婿とする益田祥兼とその子兼顕(兼世から変更、これも義弘との対立による可能性大)は、明徳4年末に至るまで義弘と対立関係となった。この過程で、義弘方となった周布氏・三隅氏や益田氏庶子との間で様々なトラブルが発生したと思われる。これにより、庶子跡が没収される事態が生まれたのであろう。

益田氏領の整理6

 匹見・丸毛別符・津毛別符[美濃郡]
 高津川の支流匹見川上流域の匹見別符は大田文段階では、三隅川上流域の支流丸茂川流域の丸茂別符と未分化で、田数5町1反120歩。益田川の支流都茂川流域の上津茂別符は7町2反140歩。匹見・丸茂が上都茂を挟む形となっている。丸茂別符は兼高の子兼季を経てその弟五郎兵衛尉兼忠に譲られたが、匹見別符と上津茂別符は惣領兼時が支配していたことがわかる。
 建武2年2月、後醍醐天皇綸旨により、益田氏惣領兼世に益田本郷・小石見郷・匹見別符・津茂別符が返されている。益田本郷は兼久の子兼胤の時代に、女捕の罪で没収されたが、その時点で小石見郷と匹見・津茂別符も没収されたのだろう。小石見郷は北条氏を含む幕府関係者領となり、津茂は河本と同様、益田氏と関係の深い小笠原長氏領となり、その子経氏に継承されたと思われる。この後、南北朝の動乱の中で、益田本郷は益田氏が支配しているが、小石見郷は三隅氏の支配下に入り、匹見・津茂をめぐっては益田氏と三隅氏との間で対立が続いていく。
 丸毛別符は兼忠の後、太郎兼信と養子五郎兼頼に譲られた。兼頼は益田兼時の妻の実家小笠原家から兼時の嫡子兼長の養子となった(次郎法師丸)。小笠原別流丸毛家系譜(河毛系譜)では、兼頼は小笠原長氏の長子で、次子が嫡子宗長だとしている。兼長の早世(文永10年以前)により、兼頼は新たに惣領となった兼久の養子となった。次いで、兼久の子兼胤の代に益田氏惣領家はその所領の大半(益田本郷・小石見郷・上津毛別符・匹見別符・得屋郷・飯田郷・宅野別符)を没収されているが、兼頼は丸毛兼忠の養子となっている。そして、没収された所領の一つである上津毛別符は兼頼の弟である経氏の所領となっている。
 一方、河本郷一分地頭職を譲られた益田兼時女子が小笠原兼経の孫長親と結婚している。建武4年7月には、河本郷一分地頭小笠原信濃守貞宗代桑原九郎次郎家兼が、小笠原又太郎長氏とともに、反幕府方の河上孫三郎入道城郭を攻めている。小笠原氏総領貞宗は兼頼の甥で、長氏は長親の曾孫である(石見小笠原系図)が、長親系は丸毛別符を継承した兼頼と異なり、益田氏の「兼」ではなく小笠原氏の「長」を名に付けている。暦応2年7月には、反幕府方の新田左馬助・福屋孫太郎・高津与二・津野神主・長瀬八郎等が市山城に攻め寄せたのに対して、貞宗代武田弥三郎入道が小笠原又太郎とともに後巻を行い、引き上げた敵が構えた木村山城郭に対しては、土屋彦太郎とともに攻撃している。
 兼忠の子兼信が太郎で、兼頼が五郎であるので、養子兼頼が兼忠の嫡子としての扱いを受けている。その代償としてか、丸毛兼幸が祖母連阿(益田兼久の妻となった幸寿か)から安富郷を譲られている。
 以上、益田庄と長野庄以外の所領についてまとめてみた。

益田氏領の整理5

 河本久富[邑智郡]
 大田文では「かいへのひさとみ」と記され、久富名の江川沿いの地域にあった所領であったことがわかる。大田文段階の田数は11町2反180歩であった。兼時までは益田氏惣領の所領であったが、小笠原氏系図によると、河本を譲られた兼時女子と小笠原長親が結婚したことで、以後は小笠原氏領となる。兼時の妻は小笠原長経女子であり、兼時の嫡子は兼長で、兼長は小笠原長氏の子次郎法師丸(兼頼)を養子にしている。ところが、兼長が早世したため、兼頼は兼長に代わって惣領となった兼久の養子となったが、最終的には益田氏庶子丸毛兼忠の養子として丸毛別符を譲られた。南北朝初期には河本郷地頭は小笠原氏惣領貞宗(長氏の孫)で、一分地頭が長親の子孫と思われる長氏であった。
[訂正]これだと、河本郷を惣領貞宗が支配することの説明ができない。益田兼時女子は河本郷一分地頭職(村之郷)を譲られ、その後、益田氏惣領兼胤が所領を没収され、その跡が阿波小笠原氏の長親系と信濃小笠原氏の長氏系(本来は阿波小笠原氏であったが、霜月騒動で信濃小笠原氏惣領が没落し、これに代わる)が与えられた。
 宅野別符[邇摩郡]
 仁万郷北東側にある海岸部の所領で、大田文段階の田数は8町4反200歩。惣領兼時までは益田氏惣領の所領であったが、その後は庶子兼久領となった。ところが嫡子兼長が早世したため、兼久が益田氏惣領となり、兼長領の大半を相続した。この結果、宅野は再び益田氏惣領の所領となった。その後、兼久子兼胤の時点で没収された可能性が強いが、14世紀半ばの観応の擾乱時に、益田氏惣領兼忠が本領であるとして宅野別符を安堵され、貞治5年には新たに惣領となった兼見の所領であることが確認できる。なお兼時の女子は邇摩郡内の温泉津を支配する一族に嫁いでいる。また、14世紀後半には福屋兼景の庶子上村兼資が仁万郷地頭となったが、これと対立する大内氏は仁万郷石川分を吉川経見に与えている。
 長田別符[邑智郡]
 出羽川の支流長田川流域の所領。大田文時点での田数は4町2反240歩。兼栄・兼高領にはみえるが、兼季以後にはみえない。正式に所領が確定した段階で他氏の所領となったのであろうか。嘉禎4年の地頭は東国御家人坂上明定であった。坂上氏は明法家として幕府に仕えていた。承久の乱で本領主が没落し、幕府の支配するところとなり、坂上氏に与えられたのではないか。

益田氏領の整理4

 阿刀別符(郷)[那賀郡]
 阿刀別符は敬川の上流域とそこから分岐した目田川・本明川・入野川流域の所領である。大田文時点の田数は7町1反半に過ぎないが、その領域は北の江津市跡市町から南の浜田市金城町皆合までに及び、福屋兼広に譲られた。当初兼広は父兼高以外から譲られた邑智郡の桜井庄内日和郷福屋に入り福屋氏を称したが、その後、那賀郡内の阿刀別符・阿部郷(久富名)・大井原と邑智郡内の市木別符(郷)を譲られると、阿刀別符内の音明に移って本拠としたが、苗字は当初の福屋氏を使い続け、阿刀別符と大井原を合わせたものが福屋郷と呼ばれるようになった。後に庶子兼統に譲った久富名(阿部郷)も福屋惣領家領となり、福屋郷内に吸収された。
 市木別符[邑智郡]
 谷戸川上流域の所領で、その西側は那賀郡重富と、南側は安芸国と堺を接していた。大田文段階の田数は5町6反。福屋兼広が譲られる。南北朝の動乱期には安芸国と石見国の間で市木郷内御坂峠で合戦が行われた。14世紀後半には福屋氏庶子市木因幡入道が支配していたが、福屋氏とともに反大内義弘方となったため、大内義弘は市木を周布兼氏女子と結婚していた吉川経見に与えた。しかし15世紀半ばの石州段銭帳により、この時点では福屋氏の支配が復活していたことがわかる。

益田氏領の整理3

 木束郷[那賀郡]
 三隅川の上流木束川流域(弥栄町木都賀)の所領で、三隅兼信に譲られた。大田文段階の面積は13町5反60歩である。その後、2代目兼村、3代目信盛に譲られたが、信盛が急死したため、延慶2年にその所領が関係者に配分された。木束郷の一部(木都賀内西の郷外で田数は10町8反。永安別符の例をみても、この段階の木束郷の田数は50町以上はあったと思われる)は信盛次女藤原氏に配分され、藤原氏が周布氏4代兼信(3代時兼の弟)と結婚したため、三隅氏と周布氏で木束郷をめぐる対立がみられる。
 永安別符[那賀郡]
 三隅川の上流長安川とその支流域と周布川から分岐した小坂川流域の所領。大田文段階の田数は7町300歩でしかないが、正中2年に下地中分がなされた段階では、約50町の田数となっていた。初代惣領三隅兼信から庶子兼祐に譲られ、永安氏領となる。兼祐は一旦は嫡子兼栄に譲ったが、蒙古襲来時に不孝があったとして、悔返し、後家良円を経て兼栄女子良海(孫夜叉)に譲った。ところが、その後、兼栄に男子兼員が誕生したため、兼員を嫡子として所領の譲り直しが行われた。しかし、良円の死後、安芸国吉川氏を婿に迎えた良海側と兼員側が対立して裁判になり、結局は所領の中分が行われた。

益田氏領の整理2

 久富名・大井原[那賀郡]
 久富名はその後の益田兼季・三隅兼信・福屋兼広領のいずれにも見えない。大井原(浜田市金城町追原から浜田市旭町和田にかけての地域)は兼季領と福屋兼広領としてみえ、兼季領が配分された段階で福屋兼広領となった。久富名は①別の名前で記されているか、②系図にはみえない女子に譲られたか、③他氏領となったかの3つが考えられる
 久富名と関係する所領として河本久富と稲光久富があるが、河本久富は兼季領となった段階では河本別符と、兼時領の段階(周布氏系図による)では河本村と記されている。石見国大田文では、「かわへのひさとみ」に対して「稲光久富」と「稲光本郷」(浜田市旭町の本郷川流域と都川川流域ヵ)があった。この稲光久富の中に久富名(浜田市旭町の家古屋川流域)と大井原が含まれているのであろう。一方、系図で福屋兼広領となった「阿部郷」は案文にも、大田文にも見えないが、久富名=阿部郷であろう。ただし、兼季領には久富名はなく、阿部郷がみえるので①になる。兼広は当初日和郷(桜井庄内ヵ)とともに大家西郷内の所領を譲られ、日和郷内福屋に入部したのだろう。兼栄領として記される久富名から市木別符までは三隅・福屋氏領となっており、河本久富以降が兼季=益田氏領となっている。久富名と大井原は『大日本古文書』では河本久富との関係で邑智郡に比定されたが、那賀郡内の所領で、両者を合わせた稲光久富の大田文段階の面積は15町である。
 福屋兼広領はその子達に分割して譲られた。嫡子兼仲は福屋郷と呼ばれるようになった阿刀別符・大井原(大田文のくらみつ名も)・市木郷と大家西郷内横道・福田・井田・大屋を、庶子の兼統と兼世にはそれぞれ日和郷と阿部郷を譲ったが、庶子のその後については記録がない。永安兼祐と結婚した良円は、福屋郷内くらみつ名と大家西郷内津淵村を譲られた。
 次いで、兼仲は、福屋郷を嫡子兼親に、大家西郷横道・福田村を兼綱に、井田村を兼保に譲り、兼継を福光郷を譲られた周布兼政女子と結婚させている。こうして福屋氏領は分割されていった。

益田氏領の整理1

 益田氏系図の研究を執筆した段階より、理解が進んだ点があるので、所領について整理する。とりあげる順番は兼栄・兼高領を元の如く安堵した源範頼下文の記載順とする。その際、兼時までの所領を記した系図(山口県文書館)が重要な判断材料となる。その所領名と紛失状案文に記された所領はほぼ対応しているが、若干の違いが見られる。紛失状案文が作成された際に、原本のみならずその正確な写が失われていたため、当時の益田氏系図に記された所領名に基づき、案文が作成されたと思われる。系図の方は、文書当時の所領名ではなく、変化した段階の所領名で記されていた。また、現在残されている源範頼下文は途中経過として出されたもので、平家滅亡後に出された正式な文書とは違いがあったはずであるが、なぜこれを復元したのかは謎である(正式なものでは認められなかった所領が含まれているからであろう)。
 兼栄・兼高領の案文と系図の違いは、系図には「千代末名内」を欠いている点と、「安富」が「安富郷」となっている点である。周布兼定領をめぐってその母聖阿弥陀仏・兄兼時と兼定後家慶阿弥陀仏・舎弟兼正が争った際の仁治3年4月25日関東下知状(新出周布家文書)によると、嘉禄3年に兼時が舎弟兼定に譲った際には「周布郷吉高名・鳥居郷・安富郷本名別符」と表記され、これを安堵した幕府下文には「周布郷・鳥居郷・長野庄内安富名・大家庄内福光村」と、さらに延応元年の兼定譲状には「周布郷・鳥居郷・安富郷・福光郷」と表記されていた。いずれにせよ、従来の「安富名」ないしは「安富別符」が「安富郷」と呼ばれるようになったことがわかる。「千代末名内」は伊甘郷内の在庁別名でしかないため記されなかったのだろうが、元暦2年段階で兼栄・兼高父子が伊甘郷全体を与えられていなかったことがわかる。

2015年5月 6日 (水)

電源の交換

 またまた準備不足と知識不足を露呈してしまった。
dellのOPTPLEX9020は電源交換を念頭に、スリムタイプではなく、M-ATXのスモールデスクトップを選んだのだが、電源ならびにマザーボードが独自規格で交換はできないようだ。手持ちの物と交換しようとしたが、ケーブル端子があわないので、ネットで調べると、出来ないことが書いてある。ひとつ前の9010で可能だとまでは確認していたのだが。
 とりあえずは、displayportが2つあるので、高解像度のモニター2台を接続しての使用には支障がないが(モニターを3台つなぎたければ、USBをHDMIに返還する周辺機器を持っているので可能)、ビデオカードの増設はよほど省電力タイプ以外では難しいかもしれない。ただし、その場合はCPUに内蔵されているインテル4600を上回ることは難しそう。
 この関係でAMD機の電源をDELLに使うため取り外し、使用をやめていた電源(剛力450W)を再利用してみたが、起動はするが、2006年発売の電源で、2コアまでならよいが4コアにはやや問題がありそうである。CPUが大変高温になってしまい、ダウンしてしまった。ということで、本来の玄人志向の500Wの電源(2年半ほど前にAMD機にradeon7770を増設したところ、初期不良品で、砂嵐が発生して、マザーボードが壊れた。その際に、電源に問題ありかとして購入した。実際には電源には問題がなく、同じマザーボードを中古で購入して元の環境で利用。中古マザーの利用は2回目)に戻すと、何の問題も無く動いている。電源とメモリーはいろいろ選べるだけに、一番大切な部品でことは重々知ってはいるが、どうしても値段に目を奪われてしまいがち。特に最近は円安もあって価格が上昇中。
 以前述べたキーボードが再び英語キーボードと認識される状況が再現してしまったが、なぜか前に述べたことを今日も行おうとしたら、日本語キーボードに戻っていた。ドライバー・ファイルのアップデートをしたのがよかったのか、原因は不明である。電源交換に無駄な時間を使ったのか、よい勉強となったのか?最近では自分で組み立てるのも意欲が低下し、それもあってDELLをオークションで購入したのだが。

2015年5月 1日 (金)

所領相続と女性

 鎌倉末から南北朝期にかけて活動の軌跡がたどれる丸毛彦三郎兼幸の所領から考えたい。彼は、父名宣から丸毛別符内堀越村と渋谷名を譲られ、祖母蓮阿から安富郷を譲られたとする。動乱の当初、彼は丸毛彦三郎と称し、丸毛別符を拠点に、幕府方として活動している。時に安富兼幸とも称しているが、本来なら惣領地頭であった安富を常に名乗るはずである。ポイントは、安富郷を本来支配し、南朝方の中心あった周布氏惣領兼氏と対立していたことで、そのため、安富郷の確保は困難であったと思われる。三隅氏の庶子永安氏を母とする吉川経兼が、幕府方となって三隅氏と対立した際にはその名を「経明」に変更し、足利直冬方となった時点で「経兼」に戻したことを思い出させる。
 足利直冬の勢力が及ぶと、兼幸も反幕府方に転じ、周布氏と同じ立場になった。貞和5年10月には「丸毛彦三郎入道」に対して、同心すれば長野庄内知行の地を安堵するという内容の、直冬の軍勢催促状が出されている。そうした中、正平10年に、安富郷と丸毛別符地頭職を孫子助九郎直世に譲っている。「直世」の名は足利直冬と大内弘世との関係をうかがわせる。いずれにせよ反幕府方に転じたことで安富郷の確保が可能となったのであろう。ところが、正平17年には「安富彦三郎入道」当知行分長野庄内角井村が三隅直連に与えられている。兼幸が再び幕府方に転じたことによるのではないか。
 話を戻すと、兼幸の祖母蓮阿とは誰かということである。安富郷は周布兼定領であったが、その後は兼定後妻の連れ子で、益田兼久と結婚した幸寿に譲られていた。兼久は当初飯田郷と宅野別符を譲られていたが、兄兼長の死により、益田氏惣領となり、多くの所領を与えられた。ところがその子兼胤が女捕の罪で、所領の大半を没収されたのである。ところが、母幸寿領は没収の対象とはならず、女子蓮阿に譲られたのであろう。兼幸の祖母には父兼直方と母亀夜叉方の二人が考えられるが、母方の祖父波田兼国は益田兼久の孫であるので、父兼直の母が蓮阿であったと考えざるを得ない。
 父兼直は丸毛氏初代五郎兵衛尉兼忠の孫であった。兼忠の跡は太郎兼信に対して五郎とされる養子兼頼(小笠原長氏子)が惣領として継承し、兼信の子が兼直と兼氏であった。兼氏が丸毛兼信跡を継承し、兼直は丸毛別符一分地頭であるとともに、波田兼国女子で宇治村地頭を譲られた女性と結婚していた。この女性が建武5年に宇地村地頭職を孫子兼里に譲った尼是阿と同一人物であろう。こうした中、兼幸は父の丸毛別符一分地頭とともに祖母蓮阿の安富郷地頭職を譲られたのである。それは、曾祖母幸寿の名の一字を付けていることからもわかる。これに対して是阿は夫兼直の子ではなく、孫兼里に宇地村地頭職を譲った。女性が自らの所領の譲与については夫と独立したいたことがわかる。周布氏系図では幸寿の子として兼幸を記しているが、それは幸寿領安富郷を継承したためであるが、子ではなく曾孫であった。きわめて難解な所領の動きも、以上のように考えると説明できるのではないか。

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