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2015年4月24日 (金)

福光氏系図1

 益田氏一族間での婚姻・養子関係とその後の男系化の進行により、系図の記載が変更された例については、すでにみてきた通りである。そうした中、系図の系統的理解が最も困難なのが、表題の福光氏であった。その初代とされる兼継については、周布氏・福屋氏両方の系図に記載されており、兼継の父が誰であるかという点でも意見の相違があった。すなわち、①系図では、福屋氏系図には必ず兼継が記されるが、周布氏系図では一部にとどまったため、福屋兼仲の子が兼継という説が一般的であった。これに対して、②福光兼継が福光郷雑掌と相論した際に、周布氏に対して惣領として保持する関係文書の提出が求められていることから、兼継は周布兼正の子であるとの説が提出された。
 論者は、福光郷は本来周布兼正領であり、その後継者=周布氏惣領に文書の提出が求められることは当然であり、②説の根拠とはなりえないことと①説を踏まえ、周布兼正女子と福屋氏男子の間に生まれたのが兼継であるとの考えを30年ほど前に述べたことがあった。それが、益田氏関係系図を収集することで、福屋兼仲子兼継が周布兼正女子と結婚して福光郷を継承したことが明らかとなった。福光氏は福屋氏一族であり、且つ周布氏の一族でもあったのである。このことは、その後の福光郷の継承をめぐって福屋氏と周布氏の間で対立を生じ、そのことが福光氏系図の記載の違いにつながった。この点について、具体的に述べていきたい。
 初代兼継については問題がないが、その子については、周布氏系図では兼秀と女子2人のみ記し、女子の一人が福屋兼親子兼秀と結婚し、もう一人が都治氏に嫁いだとする。都治氏については文書では室町期以降にしか確認できないので、注目すべき記述である。そして兼秀の子として、福光兼氏・湊森兼友・福光兼直を記し、兼直孫頼兼が嫡家兼氏曾孫兼三(兼之)の跡を継承した形となっている。
 これが譜録では、兼継(兵衛尉)ー兼季(弥六)ー弘兼(市木地頭)との記述の一方で、兼季(秀ヵ)の子として、①兼氏(弘兼ヵ)ー兼躬(因幡守)ー貞兼(筑前守)ー兼之(五郎太郎)ー頼兼と②湊森兼友、③兼直(三郎・掃部助)ー兼義(豊前守)ー頼兼と周布氏系図と同様に記述している。問題は兼氏=弘兼である。福屋氏略系では、福屋兼景の子として市木三郎弘兼と上村兼資(祐)を記し、兼資の後を上村兼信(仁万郷地頭)ー上村兼義と続ける。竜雲寺三隅氏系図では、兼継の子として兼秀と市木・仁摩を記す。鈴木氏本では、「兼継ー五郎太郎兼季ー市木地頭弘兼ー兼藤(一般的には鳥居兼行子)」と記す一方で、五郎太郎兼秀を福屋兼行子、亦五郎兼氏を福屋兼行子、因幡守兼宗を福屋兼景子とする。

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