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2015年4月

2015年4月27日 (月)

SSDへの交換

  少し迷っていたSSDの導入を行うこととして、256GのSSDとPATAに変換するアダプターを購入した。現在128GのSSDを256Gに交換し、128Gを旧式のIDEタイプのHDDと交換しようと思ったのである。ところが、SSDを交換しようとしてノートPCのふたを開けたら、SSDはMーSATAタイプのもので交換できず、かといってアダプターもSATAではなくM-SATAのカードを変換するものであった。しかたなく、256GをデスクトップのHDDと交換しようと思ったが、その領域を縮小しても256G以下にはならず、これも断念。しかたなく、dellのノートから外していた32GのM-SATAのカードをアダプターに挿して、これを古いレッツノート(CFーY5)のHDDと交換した。小さいので、もとのHDDをコピーできず、WIN7をインストールし直した。このノートはメモリが1.5Gが上限で7にはきついが、ワープロ・表計算・ネットならこれで十分で、劇的に動きは軽くなった。余った256Gの方は、とても本来の性能は期待できないが、PM965搭載のFMVーH8260のHDDと交換した。こちらも、劇的に改善した。ただし、購入する前に、きちんと確認が必要であった。

応永の乱と石見国3

 兼仲から兼宗への譲状は残されていない。そして兼宗の兄弟についても系図には記されていないが、ヒントとなる史料が永享9年3月18日周布氏家臣連署起請文である。その冒頭には、今度、大谷・狩屋が惣領に対して遺恨を構えてその意思を表したことでこのような沙汰がなされたことに対して、残りの縁類と扶持人が一味同心を行い、両殿(観心と嫡孫賀幸丸か)の役に立つことを起請している。
 大谷(ないしは大谷狩屋)とは、周布郷内大谷を支配した庶子であろうが、系図にはみえない。ただし、系図には庶子内兼豊の妻が、大谷氏女で兼宗の養女となって兼豊に嫁したことが記されており、兼宗の兄弟であった可能性が高い。兼豊は文安元年(1446)に死亡しているが、その子兼祐は永正12年(1515)まで生存しており、兼豊は結婚後、子をなして、そう遠くない時期に死亡したことになる。
 周布兼宗(因幡入道観心)は、嫡子兼良が永享5年8月4日に死亡したことにより、同年10月5日に嫡孫賀幸丸に所領を単独で譲っている。ただし、これに対して一族内部では不満が生まれ、永享9年の起請文に記された事件が発生したのだろう。永享11年には将軍義教と守護山名熈貴の安堵を受けたが、嘉吉元年の将軍義教の暗殺により、嘉吉3年には和兼が安堵の申請を行い、文安元年には再度、幕府と石見守護から所領の安堵を受けている。ただし、三隅氏との係争地安田・福井(小石見郷内)と西河内(木束郷内)については、京都で調整中だとして除かれた。また、邇摩郡井尻については、一時大内氏領となり、温泉次郎に預けられていたが、文安元年10月5日に周布和兼に返されている。単純に代替わりであることだけではなく、周布氏が所領の一部を没収される事態も発生していたようである。
 その原因については不明だが、境を接する益田氏一族間で所領と扶持人をめぐる対立は日常的にみられた。正長2年(1429)6月には、益田氏と三隅氏との間で弓矢=戦闘が発生する可能性が高まり、守護山名氏だけでなく、大内氏にもその停止に動くよう幕府が依頼している。同4年2月には、大内氏内部の対立により、惣領持世が持盛に襲われ、一時的に三隅氏のもとに逃れるという事件が起きている。なぜ三隅なのかは不明であるが、翌月に持世は持盛等を逐い、惣領の地位を回復したが、永享11年段階でも、三隅能登守と益田孫次郎の間の不快が問題視されている。南北朝期に発生した所領の移動が原因であろう。

2015年4月26日 (日)

応永の乱と石見国2

 問題はここに周布氏がいないことである。これに対して、応永9年(1402)に比定されている7月13日付大内満世書状(益田宛)では、11日付幕府御教書により満世の名と阿武・厚東を拝領したことを目出るとともに、三隅・福屋・周布両三人が罷下る時に同道することを述べている。この時点では、従来の三氏に周布氏が加わっているのである。この三人は応永6年の署判者の子で、応永12年正月に契約を結んだ三隅氏世・周布兼宗・福屋氏兼であろう。親は石見国に残り、子が京都に派遣されていたのであろう(当初は大内義弘のために)。
 関連事項をみると、応永9年2月14日に周布兼仲(道賢)が死亡している。(兼仲は後継者となった永和3年に15才前後と考えられ、死亡時40才前後で、予期せぬ死であった可能性が高い。また系図では兼仲子は兼家のみ記されているが、これは不自然である)そして6月1日には新守護山名左京亮氏利が周布次郎に対して本新并当知行地を安堵している。次いで同年9月16日には足利義満御判御教書により、周布郷(付末元・貞松)・来原郷・白上郷本新内河上村等が安堵されている。ただし、これに先立つ応永8年11月7日には左京亮氏利が豊田肥前入道に対して、豊田郷菅谷・中谷并同国貞松名を本知行に任せて安堵しており、貞松名は係争地であった。
 以上のことからすると、石見国勢が義弘方から離脱した段階で、周布氏は義弘方に留まった可能性が高い。背景としては義弘と周布氏(兼氏-兼仲父子)の緊密な関係があげられる。それがため、至徳2年に大内弘茂から周布氏に安堵されていた貞松名が、新守護山名氏利から競合する豊田肥前入道に対して安堵されたのであろう。それが、父兼仲の死により、周布氏も幕府方に転じ、守護山名氏と将軍義満により、周布氏領が安堵されたのである。だが、貞松名については、豊田右馬助の無理押妨を退けて安堵されんことを、周布因幡入道観心が求めている(応永29年か)。応永18年12月13日に将軍義持が安堵した周布因幡入道観心領には貞松名はなく、応永29年12月20日幕府御教書により、観心が当知行地貞松名に対する被官人による押妨を訴え、守護に報告が求められている。豊田氏は守護被官人となり、貞松名を支配したのである。永享12年石州諸郡段銭帳でも貞松名は豊田知行分となっている。
 以上、応永の乱で石見国勢が離脱した際に、周布氏のみは義弘方に留まった可能性が高いことを指摘した。

応永の乱と石見国1

 明徳の乱、応永の乱はそれぞれ出雲国・石見国と深い関わりを持った。ところが、前者は山名方として戦死した国人が確認できるが、後者については、現在までのところ確認できない。『応永記』によると、乱の途中で石見勢200騎が幕府方に寝返った事が記されている。
 応永の乱勃発直前の応永6年(1399)11月1日には三隅道満(信世)・益田道兼(兼顕)・周布道賢(兼仲)・福屋義宗(兼氏)が契約を結んでいる。紛争については先ず守護に歎き、次いで京都に申すとともに、弓矢(合戦)となった場合は自らの一命を捨てることと、万事談合を加えることを約している。この契約に基づき、応永の乱の途中で寝返ったのであろうか。
 ただし、四氏が共同歩調をとったかどうかを疑わせる史料が存在する。それは応永7年(1400)7月26日に比定されている平井祥助書状(三隅・益田・福屋宛)で、7月8日付書状を22日に受け取り、返書したものである。同時に富坂方沙汰に関する書状と別駕(大内弘茂)方への書状も三氏から平井へ送っているが、それらはすべて管領方へ持参して了解を得、将軍義満にもお目にかけたところ、守護代(富坂)はなぜこのような沙汰をしたのかと立腹され、石見国については長門・周防両国を退治した後に沙汰をすることを伝えている。次いで8月12日付書状(益田宛)は、7月25日付書状を8月9日に受け取ったことに対する返書である。ここでも別駕が登場するとともに、7月26日書状のことについても触れている。
 大日本古文書ではこの関係史料として7月25日付遊佐長護書状(平井宛)をあげる。別駕書状と益田・三隅・福屋三人連署書状等を上覧したことを含め、26日祥助書状と同内容のことが記されている。これをうけて祥助が三氏に返書を出したのであろう。大日本古文書二では、これを応永9年に、そして別駕を大内道通に比定されていたが、同四では比定が改められたことになる。

2015年4月24日 (金)

福光氏系図2

  これに対して、岩国福光家蔵と田村氏作成の福光系図は、兼友系の系図であるが、兼継の子として兼秀、上村兼祐、井尻兼有、女子を記す。井尻兼有は周布氏系図井尻では兼家の子で兼忠とも呼ばれ、福屋兼親女子との間に兼基が誕生している。福屋氏略系では、兼親の子として福屋兼行とともに、福光兼秀・福屋兼忠・女子2名を記し、女子のうち一人が井尻兼有に嫁いだとする。いずれにせよ、井尻・福光氏が福屋・周布両氏と婚姻関係を結んだことが、系図記載の混乱の原因である。
 整理すると、福屋兼仲子兼継が周布兼正女子と結婚して福光家を継承し、次いで兼親の子兼秀(季)が兼継女子と結婚してその跡を継承した。兼親女子は井尻兼有(忠)と結婚し、その子兼基が井尻氏を継承した。福屋氏が福光氏と井尻氏をその一族として位置づけるのはそのためである。問題はここからで、兼秀の子兼氏と弘兼の関係、さらにはその次世代である兼躬と兼宗の関係である。
 結論を記せば、萩博物館蔵周布氏系図の記載が正しい。福屋氏一族に市木因幡入道がいたことは、古文書から確認できるが、この人物に関する記載は系図には残っていない。世代的には福屋兼景と同世代であろう(兄弟の可能性もある)。兼景の子弘兼に市木郷地頭の記載があるが、弘兼=因幡入道ではなく、因幡入道の跡を弘兼が継承したのであろう。福屋氏を含む益田氏一族は「兼」を名前の上に付けるのが普通であるが、弘兼は下に付けている。また兼景子兼資には上村地頭、その子兼信には仁万郷地頭の記載がある。市木郷と仁万郷をめぐっては、福屋氏と周布氏・吉川氏との間で対立があり、残っている文書からは14世紀末に吉川氏の支配が認められかにも思われるが、その後戦国期に至るまで文書は残っておらず、実際には福屋氏が市木郷と仁万郷を確保したと思われる。市木郷については、福屋氏と福光氏の間の複数回の婚姻関係と福光兼躬が因幡守であったこと、さらには周布氏惣領も兼氏以降因幡守であったことなどから生じた混乱であったと思われる。
 付記
 福屋氏に関する情報は限られるが、断片的に残る棟札のデータを以下に記す。浜田市旭町丸原(阿部郷内か)の天満宮は、寛元年中に福屋藤兵衛尉兼廣が村内野田山に建立したとする。また、旭町和田(大井原内か)の山辺神社の延元元年9月3日棟札によると、福屋播磨守兼香が大旦那としてみえ、その裏には仁治2年から延元元年まで96年と記されており、前回の建立が仁治2年で、福屋兼廣により建立された可能性が高い。同神社の辛卯年棟札には福屋兵衛治[太]郎兼仲が大願主としてみえている。辛卯年=1291(正応4)年であろう。久佐八幡宮は応永18年7月25日に芸州太守沙弥祝州により再興されている。応永6年に署判をくわえている福屋兼光(義宗)であろう。小国村最中山神社は応永(?)4年4月に芸州前太守沙弥通啓(ないしは道堅)により再建されている。年次が?であるが、これも福屋氏当主であろう。

福光氏系図1

 益田氏一族間での婚姻・養子関係とその後の男系化の進行により、系図の記載が変更された例については、すでにみてきた通りである。そうした中、系図の系統的理解が最も困難なのが、表題の福光氏であった。その初代とされる兼継については、周布氏・福屋氏両方の系図に記載されており、兼継の父が誰であるかという点でも意見の相違があった。すなわち、①系図では、福屋氏系図には必ず兼継が記されるが、周布氏系図では一部にとどまったため、福屋兼仲の子が兼継という説が一般的であった。これに対して、②福光兼継が福光郷雑掌と相論した際に、周布氏に対して惣領として保持する関係文書の提出が求められていることから、兼継は周布兼正の子であるとの説が提出された。
 論者は、福光郷は本来周布兼正領であり、その後継者=周布氏惣領に文書の提出が求められることは当然であり、②説の根拠とはなりえないことと①説を踏まえ、周布兼正女子と福屋氏男子の間に生まれたのが兼継であるとの考えを30年ほど前に述べたことがあった。それが、益田氏関係系図を収集することで、福屋兼仲子兼継が周布兼正女子と結婚して福光郷を継承したことが明らかとなった。福光氏は福屋氏一族であり、且つ周布氏の一族でもあったのである。このことは、その後の福光郷の継承をめぐって福屋氏と周布氏の間で対立を生じ、そのことが福光氏系図の記載の違いにつながった。この点について、具体的に述べていきたい。
 初代兼継については問題がないが、その子については、周布氏系図では兼秀と女子2人のみ記し、女子の一人が福屋兼親子兼秀と結婚し、もう一人が都治氏に嫁いだとする。都治氏については文書では室町期以降にしか確認できないので、注目すべき記述である。そして兼秀の子として、福光兼氏・湊森兼友・福光兼直を記し、兼直孫頼兼が嫡家兼氏曾孫兼三(兼之)の跡を継承した形となっている。
 これが譜録では、兼継(兵衛尉)ー兼季(弥六)ー弘兼(市木地頭)との記述の一方で、兼季(秀ヵ)の子として、①兼氏(弘兼ヵ)ー兼躬(因幡守)ー貞兼(筑前守)ー兼之(五郎太郎)ー頼兼と②湊森兼友、③兼直(三郎・掃部助)ー兼義(豊前守)ー頼兼と周布氏系図と同様に記述している。問題は兼氏=弘兼である。福屋氏略系では、福屋兼景の子として市木三郎弘兼と上村兼資(祐)を記し、兼資の後を上村兼信(仁万郷地頭)ー上村兼義と続ける。竜雲寺三隅氏系図では、兼継の子として兼秀と市木・仁摩を記す。鈴木氏本では、「兼継ー五郎太郎兼季ー市木地頭弘兼ー兼藤(一般的には鳥居兼行子)」と記す一方で、五郎太郎兼秀を福屋兼行子、亦五郎兼氏を福屋兼行子、因幡守兼宗を福屋兼景子とする。

2015年4月19日 (日)

千代末名内とは

 元暦元年11月25日源範頼下文により、藤原兼栄・兼高父子が、元の如く知行せよと、石見国内の所領を与えられている(これが本領安堵で、当知行安堵ではない)が、その中には伊甘郷はみえない。これに対して、元暦2年6月日源義経下文では、伊甘郷在小別名と、伊甘郷が兼高に本領安堵(如元可進退領掌)されている。「在小別名」とは、貞治5年11月18日石見国守護代掃部助高弘挙状に「伊甘郷付小別名」とあることに対応している(井上寛司氏)。実際に国衙のある伊甘郷は「すなわちの郷(即郷)」35町8反と在庁別名7、御もくたい(目代)正作田、かちきうてん(鍛冶給田)からなっていた。
 これをふまえて範頼下文をみると、兼高は伊甘郷内の在庁別名千代末名について本領安堵されたことになる。そして、父兼栄の所領にも伊甘郷はないのである。伊甘郷内の在庁別名で規模が一番大きいのは「つねすゑ」4町9反300歩であり、それに次ぐのが「ちよまつ」2町5反大であった。このことは兼高とその父兼栄が、伊甘郷を支配する御神本氏の惣領ではなかったことを示している。御神本は伊甘郷にあった御神本大明神に由来するものであり、その惣領が即郷とつねすゑ名を支配していたと思われる。その人物とは、系図では兼栄の父とされている案(安)主大夫兼実(真)であろう。
 「系譜」(山口県文書館蔵周布家文書543)には、兼栄が長寛2年(1164)正月27日に高津本郷下司に補任されたことが記されている。長野庄内高津郷であるので、「下司」でも問題はなく、兼栄が益田庄とともに、長野庄にも権益を獲得していたことになる。ただし、高津郷には後に高津道性-長幸につながる一族がおり、御神本氏庶子で益田庄を拠点とする一族との間に対立が生ずることになる。同系譜では兼実の父とされる国兼について、永久4年に石見国司となり国府館に寓居したとするが、この一族が「兼」の字を付けるのは、1153年から57年にかけて石見国知行国主藤原忠通のもとで国司であった源季兼との関係によるものであり、国兼は12世紀初頭ではなく、半ばに活動した人物で、その子とされる兼実と孫とされる兼栄は実際には兄弟であったと思われる。兼実は一ノ谷合戦に石見国から参陣した「安主大夫」であり、その所領が源頼朝により没収され、その受け皿と期待されたのが、兼栄-兼高父子であった。そのために、「如元」という表現が使われたのである。一方、隣接する長野庄では「国」の字をその名に付ける源氏姓の人々が庄園立券の中心であったと思われるが、それは源季兼の前任国司(1146~53)であった源国保との関係であったろう。母は同族の源師俊女子であるが、その姉妹が藤原頼長との間に子兼長をなしている。

福屋郷について

 益田氏一族の所領の中で、最も現地比定が難しいのが福屋郷である。とりあえず、土地勘のある人が執筆した『島根県の地名』の福屋郷を参照すると、「現在の旭町今市から福屋氏の本拠地の一つであった本明山南麓の金城町今福、北麓の江津市福田の辺りにかけての一帯に比定される」とある。「福]の字と関連づけたものであるが、やや広範囲にわたっているきらいがあるので、根拠に基づき、絞り込んでいく。
 益田兼高領で、福屋兼広が相続したのは、①阿刀別符・②大井原・③市木別符である。これに対して、福屋氏略系、周布氏系図、関係文書などからわかる兼広領は、それだけでなく、④日和郷と⑤阿部郷、さらには⑥大家西郷内が含まれている。また、兼広は当初日和郷福屋に居住し、福屋氏と称したと記されている。これによれば、「福屋」の地名は日和郷内にあったこととなるが、④⑤⑥の真ん中に居住したのであろう。その後、父兼高の所領の内、長兄兼季の予期せぬ死亡により①~③を配分されため、①阿刀郷内音明に移ったとする。確かに①~⑥を支配するには④は東に偏っている。ここから考えられるのは、兼広が最初に譲られた④⑤⑥は父兼高ではなく、母方の所領ではなかったかということである。3人の男子の中で、長子兼季が兼高領の大半を譲られ、次子兼信が納田を譲られたのに対して、第三子兼広は母方の所領を譲られたと。
 日和郷については問題ないが、阿部郷とはどこであろうか。阿刀郷は、江津市跡市から、浜田市皆合に至る南北に長い所領で、これを参考にすると、その東側に隣接する地域(追原川と白角川流域)が大井原であろう。貞応2年石見国大田文に登場する別の所領である「きた」(木田川流域)・「しげとみ」(重富川流域)・稲光本郷(本郷川流域)を消去して考えると、残るのは現在の今市を中心とする家古屋川流域で、これが阿部郷であり、大田文に「稲光久富」と記された所領は、大井原と阿部郷を含む所領であった。系図によると、兼広の嫡子兼仲が福屋を名乗ったのに対して、二人の弟兼統と兼世が、それぞれ日和と阿部を名乗っている。①②の地域が福屋郷と呼ばれ、③④⑤⑥はそれぞれ独立した所領として扱われたが、後には⑤の阿部郷も福屋郷に吸収された。
 正和2年に伊甘郷地頭阿忍が、上流で福屋郷地頭が鉱石採掘をしたために伊甘郷内の田地が流出したことを訴えている。伊甘郷の最南端の七瀬川流域と、福屋郷西端の入野川流域が境を接していたのである。暦応5年には益田兼見が守護上野頼兼とともに福屋城(音明)に発向し、「三和田狭所」を打ち破っているが、これが現在の浜田市金城町美又(追原に隣接)に比定されている。康永3年8月に吉川経貞が娘法寿御前に福屋倉光名を譲っているが、これが白角川から枝分かれした岩地谷に比定されている。貞治5年7月16日には益田兼見が乙焼(本明)に陣取って有福城を追落とし、次いで25日には久佐金木城(浜田市金城町久佐)から福屋大石城(浜田市旭町和田)を攻めている。有福城、金木城、福屋大石城に囲まれた地域にあったのが、今市の家古屋城であり、音明城とならぶ福屋氏の2大拠点であった。
 以上のように福屋氏の関係所領は特定の川の流域に南北に長く広がっており、先に示した比定地と対応している。『島根県の地名』が記した久佐(金城町久佐~周布川上流の波佐までの地域)は、福屋郷ではなく、阿部郷に隣接しており、今市も阿部郷内の土地であった。なお、鎌倉期の「くさ」は、「なかや」(今福を含む)・「さの」とともに、河上氏領であったと思われる(都治・河上両家根元之事)。それが、南北朝の動乱の中で、久佐氏と永屋氏が福屋氏の家臣となって、福屋氏の所領となった。佐野についても至徳2年には有福村・宇津郷とともに周布氏に預けられたことがあったが、15世紀半ばの石見国段銭注文では河上氏領となっていた。そして段銭注文との関係で注記が加えられた貞応2年石見国大田文では、「くさ」に「ふくやちきやう」と記されていた。同じ注記のある「きた」は大井原の東に隣接しており、その上流にある「しけとみ」とともに福屋氏がその支配領域に編入したのであろう。これに対して、「あと」と「いきち」は福屋氏がその本領を回復したものであろう。市木は一旦、大内氏により周布氏に預けられ、周布氏女子と結婚していた安芸・吉川氏領となったが、福屋氏が回復したのであろう。

2015年4月18日 (土)

益田氏・三隅氏と大内氏の距離

 三隅氏の当主は鎌倉幕府滅亡時の兼連からその摘子兼知、摘孫直連の後、直連女子と結婚した信世、その子氏世と続く。氏世の弟盛世は庶子家井村兼世の養子となり、跡を継承している。「世」という一字から、大内弘世との関係がうかがわれる。これに対して、益田兼見の嫡子の名=次郎兼世も弘世との関係からであろうが、永徳3年から明徳3年の間に「兼顕」と改名している。ここに、三隅氏・益田氏と大内氏の距離感の違いがうかがわれる。すなわち、康暦2年の大内義弘と満弘の対立においては、両氏とも義弘方であり、立場の違いは無かったが、その後、兼見女子と満弘が結婚したこともあって、至徳2年以降の義弘・満弘2度目の対立では、三隅氏が義弘方で「世」の字を使い続けたのに対し、益田氏は婿満弘を擁護し、義弘と対立した。そのこともあって兼見嫡子兼世は兼顕と改名し、幕府が義弘を支持したこともあって、兼顕は次郎のままで任官もしていない。また、満弘子満世も応永9年段階でも「五郎」であった。一方、三隅信世は三隅氏略系(萩博物館蔵)に右馬助・石見守・越中守、氏世は筑前守(竜雲寺蔵三隅氏系図、ただし三隅氏畧系では氏世とその兄弟盛世は任官しておらず、こちらが正しいであろう。信世は大内義弘方であったが、子氏世は満弘方であった)と記されているように任官している(ただし氏世の子は信兼と再び兼を名に付けている)。
 それが益田氏と大内氏の和解が成立(益田兼家に益田庄を返す文書は、大内氏の発給文書であり、幕府のレベルでの没収ではなかった)する前年に兼顕が左近将監に任官し、応永2年までには父兼見と同じ越中守に補任されている。そして嫡子兼家も応永12年までには左近将監に進み、2年後には「益田越中入道周兼」とみえ、越中守に補任されたことがわかる。兼家は幼少時は「長寿丸」と呼ばれ、三隅氏女子を母としたと思われ、そのこともあって兼家女子は三隅氏世と結婚している。兼家女子には周布兼仲嫡子兼宗とも結婚しているものもあったが、兼宗は父兼仲が死亡した応永9年の時点でも次郎であり、任官していない。こういった点も、益田氏・三隅氏、さらには周布氏の置かれた状況(特に大内氏と近く、それがゆえに応永の乱の影響を受けた)を反映している。また、南北朝期の状況(大内氏との関係で所領の安堵・給与・没収が行われた)が、その後の一族間の所領をめぐる対立の原因となった。

2015年4月13日 (月)

大内新介と周布氏領

 至徳2年に大内新介(岸田氏の指摘で、後に当主となった段階の弘茂の花押と違うことが明らかになったが、当主となった際とそれ以前の花押の違いは盛見でも確認されている。ただし弘茂が盛見の弟であるとすると、至徳2年の新介ではありえない)が周布氏に与えた所領の中で、注目すべきものについてみていく。なお、義弘方と満弘方の対立が続く中、ここにみえる所領がすぐに周布氏領となったのではない。
 白上郷・井尻村についてはすでに述べたのでここでは触れないが、有福村・宇豆郷・佐野別符を預けられている。有福村は加志岐別符ともよばれ、鎌倉末に越生光氏が狩野貞頼との交換で獲得した所領である。そして康暦2年6月8日には大内満弘が越生掃部助義氏の当知行を安堵している。これが、義弘と満弘の和解後どうなったかが問題であるが、至徳2年7月22日に義弘方の周布兼氏に与えられた。この後の義弘と満弘の対立では義弘方が優勢であり、結果としては周布氏が越生氏領を吸収した。その背景としては、周布氏が姻戚関係を結んでいた田村氏から、鎌倉初期に越生氏に有政が養子に入っていることと、周布兼氏の母が越生氏女子であったことがあった。
 宇豆郷も越生氏領であった。田村氏から越生氏に養子に入った有政が承久の乱の恩賞として宇豆郷を獲得し、代々惣領家が支配してきた。これが有福とともに周布氏が権利を主張し、最終的に幕府から認められた。佐野別符については、隣接する永屋・久佐と本来、御神本氏と並ぶ国衙在庁官人系の伴氏の惣領である河上氏の所領であった。それが南北朝の動乱期に河上氏が反幕府方となったことで没収され、久佐や永屋には福屋氏の勢力が及んでいる。そうした中、この時点では周布氏に与えられたのだろうが、以後、周布氏領としてはみえず、15世紀半ばの石州諸郡段銭帳には河上氏領となっていた。いずれにせよ、福屋氏と競合する所領である。
 これが、8月6日から7日にかけては、7月の弘茂奉書で惣領の催促に応じない庶子領を没収することが命ぜられており、それを実行する形で、周布郷内末元別符(本来は三隅氏領であったが、そこに益田氏から養子に入る)、貞松名(駿河国御家人内田氏領であったが、周布氏庶子内村氏が養子に入り譲られていた。その人物は反幕府方として没落)、安田・福井・荏原は、周布郷内か小石見郷内であるかで周布氏と三隅氏の間でトラブルが発生していた。
 二度目の義弘と満弘の対立は史料を見る限り石見国に限定され、且つ義弘対満弘・益田氏という状況であった。それがゆえに無かったとの評価も生まれた。そして、解決には時間がかかり、最終的には明徳4年12月に益田庄が益田次郎兼家に返されるという形で解決した。この間に祥兼は死亡しており、実質的には次郎兼世の時代であった。祥兼置文が作成された永徳3年の時点では兼世(大内弘世との関係であろう)であったが、明徳3年11月に左近将監に任ぜられた時点では兼顕と改名していた(この時点までは次郎であり、これも益田氏と大内義弘の対立の結果であろう)。そして、一旦は兼家を前面にたてる形で和解が成立した。しかし実際には兼顕が実権を持ち、応永2年の時点では父祥兼と同じ越中守に補任されていた。それが義満の出家に伴う義弘の出家に倣う形で出家し、道兼と名乗った。大内満弘も応永4年段階では復権している。一旦は周布氏との関係が悪化したが、益田兼家女子が周布兼仲嫡子兼宗と結婚している。三隅氏との間にも兼家女子が信世(道満)の子氏世と結婚している。こうした形で修復が図られていった。

2015年4月12日 (日)

大内義弘と満弘の対立と益田氏8

 新介が周布氏に預置いた所領の中には他氏や庶子との紛争地も含まれていた。従来、周布氏が守護から安堵されていたのは周布郷と白上郷地頭職のみであった。そうした中で、Qの意味を考えなければならない。
Q石見国周布郷内一分地頭等事、
右於軍役以下御公事等、不応惣地頭催促云々、太無謂、於如然族者以彼所帯、任先例可被付惣地頭之状、依仰執達如件、
                      大内弘茂也
    至徳二年七月日     新介判
     周布因幡入道殿
前回の康暦2年も、義弘と満弘が対立する中、周布氏庶子の中には義弘方であり惣領に随わず、満弘と結びつくものがあったが、まもなく両者の和解が成立し、曖昧な形で決着していた。それが、今回の義弘と満弘の決裂で、周布氏惣領と庶子の対立が再燃したのである。そして、義弘方は前回同様のQを出すのみならず、庶子領を惣領兼氏に与えたのである。次いで、兼氏が死亡すると、後継者兼仲の申請を幕府に伝え、将軍の安堵状を得るとともに、公田数の低減化を求め、それを実現したのである。その背景には義弘と満弘の対立があった。岸田裕之氏は公田を低減したので、もはや軍役・諸公事の難渋は許さないとの恫喝であると評価したが、満弘-益田・福屋氏との戦いに勝つために至徳2年に打ち出した方針の継続であった。
R石見国周布弾正少弼兼仲申本領安堵事、申御沙汰者可然候、恐々謹言、
    康応元年八月十三日    左京権大夫義弘判
  進上 御奉行所
S依年々大洪水、所領田地損去云々、然者仰守護代方、可遂検見、其間先公田拾町御公事可有勤仕之状如件
 康応元年八月十三日    左京権大夫判
      周布弾正少弼殿
T石見国周布弾正少弼兼仲申、当郷地頭職付和田原井須々井村等事、相伝当知行無相違候、安堵事申御沙汰候者可然候、恐惶謹言、
  康応元年十月五日   左京権大夫義弘判
    進上 御奉行所
U石見国周布郷事、先年度々洪水之時損失之上、依今年康応元六月五日同七日両度洪水大略損亡之由、守護人大内左京権大夫義弘注進之上、於向後公田拾町分諸公事可令勤仕之状、依仰執達如件、            斯波義將也
    康応元年十一月二日    左衛門佐
      周布弾正少弼殿
V石見国周布郷内一分地頭等事、不応催促、令難渋軍役以下御公事云々、太無謂、於如然者、任先例没収所帯、可被付惣領之状、依仰執達如件、
             大内義弘也
    康応元年十一月三日    左京権大夫判
     周布弾正少弼殿
X   義満公
            御判
石見国周布郷付和田原井須々井村地頭職事、任相伝、周布弾正少弼兼仲可令領掌之状如件、
    康応元年十一月十九日
Y   義満公
            御判
石見国白上郷新本地頭職事、任相伝、周布弾正少弼兼仲可令領掌之状如件、
    康応元年十一月十九日
文書のアルファベットも尽きたので、以下は項をかえてみていく。

大内義弘と満弘の対立と益田氏7

 永徳元年11月3日には大内満弘が都濃郷内加久志村半分を和田士□御房に安堵しており(古証文)、この時点では和解が成立し、満弘が石見国守護となっていることがわかる。
次いで永徳2年閏正月12日には大内義弘が益田祥兼からの本領安堵の申請を幕府に伝え、同月29日には義弘の側近森大和入道良智が在京代官平井親助に連絡をしている。ここでは満弘の名はみえないが、永徳2年(元年の可能性あり)に比定される12月8日大内義弘書状(道助宛)により、祥兼の本領安堵を満弘が義弘に注進したことがわかる。そして永徳3年2月15日足利義満袖判御教書により、祥兼の本領が安堵された。
 安堵状がもたらされると時を同じくして、守護満弘が祥兼の所領への守護使不入と臨時課役催促の免除を守護代に伝える旨の文書を祥兼に与えている。満弘は祥兼女子と結婚し、馬場殿と呼ばれていたが、それは満弘が義弘のもとで守護となったこの時期ではないか。
同年に比定できる4月9日森良智書状では、祥兼の使者下野守が下向したこととともに、近日中に来訪する馬場殿に対して諸事申入れることを述べており、ここからも満弘と祥兼の緊密な関係がうかがわれる。
 石見国守護としての満弘について、藤井氏は消極的評価しかされない。満弘の活動としては祥兼の本領安堵の注進と、至徳2年8月9日満弘預状で内田肥前入道に所領の預置をしている程度で、守護としての立場は限定的・名誉職的なものとされる。これは史料をみないで行う典型的な「ためにする評価」である。氏は義弘が満弘から石見国を接収したのは、対立によるものではないとする。接収のため義弘が派遣した新介の発給文書は至徳2年7月22日~10月19日まで17通が残っているが、その以前の7月11日には義弘書下により、長野庄俣賀地頭職が俣賀新三郎に元の如く返付られている。元の如くとは、一旦所領を失ったことを意味するので、満弘時代の裁定を覆す形で、返付られたのである。
同年に比定される8月13日義弘書状が述べるように、幕府御教書により満弘から義弘に守護が交代したのであろうが、満弘側はそれを認めていない。それを示すのが、8月9日の満弘預状であることが藤井氏にはわからないのである。8月13日には義弘により得屋入道に対して得屋郷領家職と地頭職四分が預けられており、これは益田氏からすれば不満のあるところであった(後には得屋氏領は益田氏領となる)。そして康暦元年に吉川経見に与えられたはずの市木郷が、9月26日に新介から周布庶子等御中に預られる形をとって、仁万石川分とともに、再び吉川経見に預けられたのである。これは福屋氏にとって不満のあるところであった。

大内義弘と満弘の対立と益田氏6

 至徳2年には、義弘との和解後、石見国守護となった満弘に対して、義弘並びに大内新介と右田伊豆守弘直の発給文書がみられるようになる。まずは和解が成立したとされる康暦3年(永徳元年)の状況をみておく。ただし、この年に比定されていた3月16日大内義弘書状については、康暦2年のものであることをすでに述べた。
 康暦3年2月7日には、某盛澄が、大家西郷内井尻村地頭職を、代々譲状と兼法書状に任せて、周布因幡入道兼氏に打渡している。その前提となる守護等の発給文書については言及がなく不明であるが、井尻村はすでに述べたように、市木郷とならんで周布氏と福屋氏の係争地であった。以下のPはその関連文書であろう。
P周布入道殿方より被申候大家庄西郷内井尻村事、任御下知之旨、可被打渡彼方之状也、恐々謹言、
                   大内三郎也
   九月十六日     弘直 判
          山野土佐守殿
周布氏系図によると、兼法とは井尻八郎太郎兼基の子で、兼基は四郎太郎兼忠と福屋兼親女子との間に生まれていた。兼忠の兄弟に三郎五郎某がおり、その子が千代松丸であった。萩閥周布によると、観応の擾乱期には惣領八郎太郎兼基が反幕府方(直冬方)であったのに対して、又次郎某は幕府方であった。それが、貞治4年までに兼基が幕府方に復帰している。一方、庶子である千代松丸も永和4年12月には石見国守護荒川詮頼により一方地頭職を安堵されている。それが、惣領兼法が周布兼氏に井尻村を譲ったことにより、康暦3年2月には兼氏に打渡された。至徳2年7月には周布兼氏宛の大内新介発給文書が出されたが、その一つに井尻村がみえ、相伝の証拠に任せて安堵している。
右田弘直は10月19日には同日付の新介預状を承ける形で、市木郷と仁万石川分を吉川経見に打渡している。この時点で石見国守護代とも言われるが、至徳2年の文書はこの2通(以下の2通を加えて4通)のみで、次いで明徳元年と4年末~5年初に断片的にみえ、継続的にみえるのは応永3年以降である。

(新出周布家文書に右田弘直の2通あり)
石見国大家庄西郷内井尻村事、云相伝道理、任安堵之旨、所打渡周布因幡入道代官之状、仍執達如件、
  至徳二年八月十八日   伊豆守 判
 周布因幡入道殿
石見国井尻村事、依仰所渡申状如件
    至徳二年九月十六日  伊豆守 判
  周布因幡入道殿

大内義弘と満弘の対立と益田氏5

M 去十月廿五日・十一月二日御札委細令拝見候了、
一西方事、市原城退治之間、益田辺事不可有幾候歟、目出候、
一御安堵間事、京兆注進到来之間、内々奉行方申談候了、仍則落居候、千万目出喜存候、御意又奉察候、
一料足弐拾結・漆二盃拝領候了、貴方様御事、自元一切不存等閑候之上者、於向後候ても可御心安候之処、如此御沙汰於身者本意候、雖被申子細候、吉井殿再往承旨候間随仰候、御意且恥入存候、雖然御芳志之至恐悦無極候、尚々不知所謝畏存候、事々期後信候、恐々謹言、
        十二月十四日              沙弥道助 判
    謹上  周布殿 御報
Mも康暦2年に比定されているが、「御安堵間事、京兆注進到来之間、内々奉行方申談候了、仍則落居候、千万目出喜存候、御意又奉察候」の部分から、周布氏が将軍から安堵を受けた、至徳2年、嘉慶元年、康応元年のいずれかに比定できる可能性が高い。ただし、
康応元年の場合は、8月に周布因幡入道兼氏が死亡している。石見国西部の市原城を大内氏が退治し、益田周辺についても攻撃が近づいていることがわかる。内容から、これも康暦2年に比定されていた2つの文書と同年のものであろう。
N道助方へ状事承候、書進候、抑益田事対治不可幾候哉、就之御息出陣、殊御奔走之由承候、悦入候、其境事憑存候、兼又蝋燭七十挺給了、難得時分令悦喜候、諸事連々可申候、恐々謹言、
        八月十五日                   義弘 判
          周布入道殿  
          御返事
O御出陣事悦入候、諸事三隅方有談合、被入御心候者可然候、御辛労察申候、兼又道助方状事承候、書進候、猶々陣取以下事、定自兵部少輔・豊後方可申談候歟、恐々謹言
    八月十五日    義弘 判
        周布弾正少輔殿
               申給へ
Nでも周布氏と道助との間で文書の遣り取りがなされており、益田氏の退治が迫っている中で、周布入道の子である弾正少弼兼仲が出陣したことがわかる。兼仲は兼氏の庶子で田村盛泰女子と結婚していたが、兄氏連が応安5年(1375)に死亡してから2年後の永和3年(1377)に兼氏の後継者となっており(周布氏系図)、この頃に元服したのだろう。永徳3年(1383)には父兼氏から周布郷と白上郷を譲られるとともに、この頃、弾正少弼に任官したと考えられる。
 同日付のOは子兼仲宛で、出陣を喜ぶとともに、益田氏攻撃について三隅氏と談合することを求めている。そして陣取については兵部少輔と豊後守から相談するかとしている。豊後守は大内氏側近杉重連であり、永徳4年(至徳元年)以降の文書が残されている。兵部少輔は陶弘宣であるが、その文書のほとんどは明徳の乱の結果、義弘が恩賞として得た紀伊国の守護代としてのもので、明徳3年以降のものがほとんどである。O・Nでは兼仲の出陣について特に触れられており、初陣であった可能性が高い。その点を考慮すると、一連の文書は至徳2年のある可能性が高い。

大内義弘と満弘の対立と益田氏4

H先日進状了、参着候哉、当国事者面々憑申候、三隅殿御同心候て無相違候者悦入候、委細之旨定自彼方被申候乎、恐々謹言、
    六月七日    義弘判
        周布入道殿
I度々進状候、定参着候哉、抑此方式為申候、平子新左衛門尉進候、定委細可申候哉、
一諸事三隅殿方へ令申候、可有御談合候、万事可入御意候之由承候、真実悦存候、於向後弥憑存候、諸方御籌策事、可然候様可有御談合候、
一三郎越福屋申候由承候、其間子細面々可有御談合候、可奉候、尚々憑存候、諸事期後信候、恐々謹言、
    六月廿四日     義弘判
     周布入道殿
H・Iについてはこれまでも康暦2年に比定されていた。6月7日以前に義弘が参着すべき事を伝え、三隅氏と談合すべきことを述べている。一方、周布氏からは三郎満弘が福屋へ赴いたことを伝えていた。周布兼氏の妻は三隅兼覧女子であり、その嫡子兼仲は両者の間に生まれていた。
これに対してJは、義弘と満弘の和解が進みつつある康暦3年(永徳元年)3月に比定されてきた。
J先日進状之処、委細御返事承悦候、抑美作守方可遣一勢候、彼乗船等一両日中に可出津候、先為急事等申候、遣政平候、兼又福屋事令申候処、森掃部入道仁可有御談合候由承無相違候、懐御籌策候者喜入候、其間子細自政平并森大和入道方、巨細可令申候乎、返々於大小事憑存候、諸事連々可申候、恐々謹言、
    三月十六日   義弘判
        周布入道殿
問題は、「美作守」と「森大和入道」である。美作守は『花営三代記』で5月28日以前に満弘方として討たれた内美作守であろう。美作守が一勢を派遣する、ないしは美作守へ一勢を派遣するとの二通りの解釈ができるが、義弘方と満弘方の戦闘が迫っていたことを示すものである。福屋氏については周布氏から森掃部入道と談合すると述べた事に対して、より良い方策があればと述べ、この間の子細は、義弘が派遣した政平から森大和入道に申していることを伝え、周布氏を頼りにしていることを述べて結んでいる。
 Jについて藤井氏は、義弘方が美作守方に軍勢を派遣した結果、美作守は降伏し、その後も生存したとする。また、最初に述べたAとBの関係については松岡説に同意しながら、その後、美作権守は満弘方として離反し、Cは義弘方に対抗して、満弘方として美作権守が出したものとし、井上説に同意している。しかし、C・Fは周布氏からの申請に対して出されるものであり、申請を受けてもいない満弘方がこのような文書を出すことはありえないことである。周布氏庶子には惣領と対立する満弘方のものがあったため、周布氏が申請したのである。
 森大和入道良智については、康暦2年2月27日の時点までは「森大和守」であることが確認できるが、永徳2年閏1月29日には沙弥良智として平井道助に益田祥兼が申請した本領安堵について、幕府への働きかけを求めている。ということで、Jを康暦2年3月に比定することは可能である。
 康暦2年に比定されてきたKについて、論者はその根拠が確認できずにいたが、見落としがあり、康暦2年のものである。
K喜便宜申候、
  抑下山城今月五日落居候、目出候、三十余人腹切候、相残候者三十余人降参候、如此候之間此勢共直に阿武郡へ打入候、是も一両日中益田辺へ可打入候、其時以面此間之式申承候ぬと喜入候、
一今度最前より被致忠候之由、依注進申候、被成下御感候、目出候、とくより可進之処、依路次難儀遅々候也、
一椙原伯耆守御使に下向候、三郎同心国人々并芸州者共可注進申候由被仰下候、返々目出 候、此便宜にも 巨細注進候、御心安可被思食候、 恐々謹言、
        十月八日                    義弘 判
          周布入道殿
それは「今度最前より被致忠候之由、依注進申候、被成下御感候」の部分であり、この感状がGの幕府御教書であった。5月の時点で満弘方の攻撃を受けた長門国下山(栄山)城を義弘方が落城させ、下山城攻撃の軍勢は石見国と境を接する阿武郡に入り、義弘も一両日注に益田辺へ入るので、その時に周布氏とこの間の経過を確認できることを喜んでいる。
「三郎同心国人々并芸州者共可注進申候由被仰下候」の部分から幕府が義弘方を支持していることがわかる。ただし、この文書から、松岡・井上・藤井氏が説かれるように、義弘方が益田氏を攻撃しようとしていることは確認できないことに注意が必要である。益田氏が満弘方であるならIの義弘書状で福屋氏とともに言及されるはずである。また、松岡氏はJの関連資料として、Lの3月17日大内義弘書状写をあげられる。
L以土肥申子細、愈行候様御方便候者恐悦候、其国事一向憑存候也、連々示合可申候、尚々深頼存計無他事候、近日益田罷向候へく候、早々寄合申候へと憑入候、毎事期後信候、恐々謹言、
        三月十七日                   義弘 判
    「須布殿           義弘」
「近日益田罷向」ことが記されているが、包み紙に記されている宛名が「須布」であること、義弘の使者が「土肥」であることなど、一日違いにしてはJとLには共通する点がない。Lについては年次比定は保留したい。以下では、康暦2年に比定されてきたが、同年ではないことが確認できる文書をみていく。

大内義弘と満弘の対立と益田氏3

 康暦2年における義弘と満弘の対立については、『花営三代記』同年5月28日条の記録がある。実際の日付は不明であるが、大内義弘から芸州内郡での満弘方との合戦の注進があり、敵200人以上を討ち取り、その中に石見国に関係するものとして、石見国守護代内美作守と陶山佐渡守の名がみえている。それとともに5月10日の長門国栄山合戦についても注進があった。
 陶山佐渡守は康暦2年2月27日には奉行人の一人として吉川経見に対して市木因幡守領の打ち渡しを行っている。市木氏庶子益成氏から惣領の所領と区別するようにとの訴えはあったが、結果的にはすべてが打渡された。すでに述べたように、市木因幡守は福屋氏の一族であり、この措置に対して福屋氏は反発していたと思われる。その福屋氏が大内満弘と結びついたのはこのためであった。一方、経見は周布因幡入道兼氏女子を妻としていた関係で市木郷を得た。周布氏は義弘方であった。
 一方、4月2日には石見国守護代美作権守某が、自己の所領が守護使不入であったとの益田祥兼の申請を、大内氏奉行人陶山佐渡守に披露し、5月14日には大内義弘が守護使不入と臨時課役免除を益田越中入道に認め、守護代にも命じたことを伝えている。
A石見国益田越中入道祥兼所領守護使不入之事被申候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
 康暦二年卯月2日美作権守□(裏花押)
進上 陶山佐渡守殿
B益田越中入道祥兼所領等守護使不入并臨時課役不可催促申之旨、任先例可存知之由、申付守護代候了、仍状如件、
 康暦二年五月十四日左京権大夫(花押)
  益田越中入道殿
 松岡氏はA・Bともに義弘方が発給した文書であり、5月までは義弘と益田氏(満弘ではない)との間には対立が生じていないとしたが、井上氏は満弘もまた石見国守護であり、その守護代が美作権守であるとした。内美作守=美作権守と理解し、藤井崇氏もそれに同意している(後述)。ところが美作権守はその後も8月10日には周布郷内一分地頭が惣領の催促に従わないことに対して、所帯を没収することを奉書で周布氏惣領に伝え、8月22日には久利氏庶子赤波氏に知行の安堵を行っており、内美作守とは別人であり、且つ義弘方である。
C石見国周布郷内一分地頭等事、不応惣地頭催促、無沙汰軍役以下御公事等云々、太無謂、於如然族者没収所帯、任先例可被付惣地頭之状、仍執達如件、
 康暦二年八月十日   美作権守判
      周布因幡入道殿
D石見国久利赤波本知行分事、為本領上者、不可有子細者也、守先例可有領掌之状如件、
  康暦二年八月廿二日   美作権守(花押)
 久利赤波殿
Dが奉書ではなく直状である点は注意が必要であるが、その時々で奉書・直状、さらにはE・Fのように義弘の書状が出されており、問題とはならない。
E石見国周布郷守護使不入事、任先例可止彼使之由、申付代官方候了、恐々謹言、
    康暦貳年          大内也
        九月十二日   義弘判
         周布因幡入道殿
F庶子達軍役・諸公事不応催促之由事、無謂候、於向後者不可有難渋之由、固可有御催促候哉、恐々謹言、
      九月十二日    義弘判
       周布因幡入道殿
義弘は味方である周布氏に対して守護使不入を認めるとともに、惣領周布因幡入道兼氏が庶子達に軍役・諸公事を催促する権限があることを認めている。C・Fともに、兼氏からの訴えを承けて出されたものである。兼氏が義弘方であったことは、Gにより確認できる。
G於石州致忠節之由、大内左京権大夫義弘所注申也、尤以神妙者、依仰執達如件、
                          斯波義將也
    康暦二年七月十九日    左衛門佐判
      周布入道殿
当然、これ以前(六月頃)には義弘が注進し、それを承けて出されたものである。次には無年号文書の中で、何が康暦2年に比定できるかについてみる。

2015年4月11日 (土)

大内義弘と満弘の対立と益田氏2

 永徳元年6月頃に成立したとされる義弘と満弘の和睦について、松岡氏は、満弘は義弘が大内氏家督であることを認め、義弘は満弘が石見国守護であることを認めるというものであったとした。これに対して藤井氏は違いが不明確であるが、満弘の石見国守護職就任は限定的且つ名目的であったとする。そして、至徳2年に大内新介が一時的に派遣され、守護職を接収し、再び義弘が守護となり、守護代としては右田伊豆守弘直が就任したとした。義弘による満弘解任は平和的に行われ、満弘は応永の乱直前の応永5年には豊前国守護ないしはそれ以上の存在であったとする。
 松岡氏が指摘した明徳4年以前の義弘と満弘・益田氏の対抗関係状態については、井上氏が義弘と益田氏の間の和解は成立したが、益田氏と周布・三隅・永安氏など御神本氏一族の対立から、関係修復の作業がスムーズに進展しなかっただけだとした。これに対して藤井氏はこれまた不明確な見解であるが、康暦内戦後の益田氏は義弘の完全な附庸勢力となったわけではないが、義弘から圧迫を受けていたとし、具体的には益田庄内に、益田城衆に預けられた在城料所が相当多数存在していたとした。
 以上を整理すると、松岡氏が義弘と満弘・益田氏の対立が2度あったとしたのに対して、井上氏は康暦2年から永徳元年までの1度のみであるとし、藤井氏も松岡説に立てば、「義弘は2度反抗した満弘を2度許した許したことになる」として、少々釈然としないとして、対立は1度だけで、至徳2年以降は対立はなかったが、益田氏が圧迫を受けていたとする。ただし、満弘については言及がない。当然、対立には背景があるわけで、それに言及せずに2度許したのは釈然としないとは、学問的表現とは言いがたいのではないか。とりわけ大内義弘が至徳2年7月11日に俣賀氏に俣賀庄地頭職を返付け、新介が7月22日に周布氏に所領を返したり、安堵したり、預けたりした後の、8月9日の時点でも、満弘が内田肥前入道に豊田左衛門尉跡長野庄河上を預けている事実(この点は松岡氏も指摘)と矛盾しているのである。以下、現段階(個々の文書の年次比定は微妙であるが、大枠を変えることなない)での見解を述べていく。

大内義弘と満弘の対立と益田氏1

  最初にこの問題に関する松岡久人氏の最も新しい見解を、氏の編纂された南北朝遺文5・6巻の解説からまとめると、以下のようになる。
 永和2年4月に石見国守護職を取り上げられた大内弘世であったが、康暦元年8月には復帰が認められ、11月には子義弘が石見国守護に就任した。しかし同2年5月のころ、弘世の家督をめぐって義弘・満弘兄弟の継嗣争いが起こり、戦いは安芸国内郡、長門国下山城、石見国益田領など領国の諸方面で展開したが、永徳元年6月ころには石見福屋氏を頼っていた満弘と義弘の和解が成立し、満弘陣営にあった益田氏と義弘との和解の成立はそれより遅れて永徳2年閏正月ころと推定される。
 しかし両者の対立は直ちに解消したわけではなかった。詳細はなお明らかではないが、永徳2年8月の時点で大内満弘の石見国守護権限行使が認められるのと並んで、至徳2年7月より10月にかけてのころ義弘与党の大内弘茂の守護行使が認められ、満弘と弘茂との間に一定の対抗状態の存在をうかがわせる。こうした義弘に対する満弘=益田氏の対抗状態は、明徳4年12月27日の大内義弘の益田氏に対する益田庄地頭職の一円返付を命ずる書下と同日付を以てその打渡しと同庄内の要害破却を守護代右田伊豆守に伝える大内氏奉行人奉書によってようやく消滅したものと推測される。
 大内義弘と満弘の兄弟の対立が、康暦2年5月頃から永徳元年6月までと、至徳2年7月から明徳4年12月まで存在したとしている。この見解に対して最初に再検討されたのは井上寛司氏『史料集 益田兼見とその時代』(1994)であった。松岡氏がその著書『日本の武将・大内氏』(1966)の中で、康暦2年の対立が発生した段階でもなお石見国守護は荒川詮頼であるとの前提で述べられたのに対して、康暦元年のいわゆる康暦政変により石見国守護は大内氏に交替しており、満弘が守護であったとされた。松岡氏は論文「南北朝室町期石見国と大内氏」(1973)では康暦元年に大内義弘がすでに守護となったとの理解に修正されていたが、井上氏は両者が併存していたとの考えを示され、その背景には義弘と満弘との間に幕府との関係を含めて意見の違いがあったことを指摘した。そしてその対立が軍事的衝突に発展したのが康暦2年だとした。
 これに対して、この対立を分析した藤井崇氏「康暦の内戦に関する諸問題」(2013)は、康暦2年の石見国守護は義弘であるとした。ところが、その関係者であった守護代美作守と側近陶山佐渡守弘高が満弘方として離反して内戦が開始したとした。また、『花営三代記』で安芸国の合戦で討死したとされた両者の内、美作守はその後も生存し、義弘と満弘の間で和解が成立する永徳元年6月までに義弘に降伏し、弘高についても本人は討死したが、その子は降伏し、帰服を認められたとする。

2015年4月10日 (金)

福屋氏と周布氏3

 貞治4年(1365)2月17日、石見国守護荒川詮頼は周布因幡守に対して、周布・白上両郷地頭職を安堵している。前年以来、反幕府方の石見国人に対して将軍と守護により本領や当知行地の安堵を条件に軍勢催促がなされていた。貞治元年9月に大内弘世が幕府方に転じて以降、石見国人の中にも足利直冬方から幕府方に転じるものがみられるようになった。益田兼見は貞治2年7月25日に置文を作成し、3人に所領を譲ったことを述べている。次いで貞治3年9月の奉書を承け、兼見は三隅城攻撃に参加している。この時点の守護は荒川詮頼であったが、貞治5年9月の軍忠状では「参防州以降於国致忠節」と述べているように、周防国大内氏と結んでいた。そして、同年に石見国守護となった大内弘世のもとで、7月13日に青龍寺城に発向して合戦に参加し、16日には手分けして乙焼(明)に陣取り有福城を追落とし、22日には福屋大石城、25日には久佐金木城の凶徒退治に郎従を派遣し、兼見自身は同日夜に大石城を攻め、翌26日には落城させている。 青龍寺城については、三隅川流域の城とされるが(史料集・益田兼見とその時代)、福屋氏攻めの拠点となっており、福屋氏の勢力圏にあったのではないか。久利太郎左衛門尉長阿は同年8月の軍忠状で、青龍寺御陣に馳参じ、福屋大石城の山手合戦に参加し、敵が退いた後は、警固にあたっていると述べている。同年5月には兼見は「しやうゑんの御房」を通じて三隅氏から文書13通を受け取っている。この時点では三隅氏も幕府方に転じていたと思われる。所領安堵には証拠書類が必要との京都(幕府)からの指示を受けてのものであった。
 また、大内氏による石見国攻めには来原新左衛門尉遠盛も参加し、7月25日に金岐(木)城を攻め落城させたとして軍忠状を提出している。周布氏が周布郷とともに安堵された白上郷は、貞和6年4月に足利直冬が金子清忠跡を勲功の賞として田村孫四郎盛家に与えているが、一方、同族の遠盛は観応2年2月に幕府から勲功の賞として与えられている。盛家は延文4年8月に幕府方守護荒川から本知行安堵の軍勢催促状を得ている田村孫四郎入道と同一人物である。これに対して、周布兼氏は正平12年7月に小坂孫四郎跡の白上を与えられ、同14年3月には足利直冬から白上郷地頭職と領家職を得ている。小坂孫四郎=孫四郎盛家であろうが、盛泰-遠盛父子との関係は不明である。そして、盛泰女子が周布兼仲と結婚した関係で、盛泰-遠盛の文書は周布家に、孫四郎盛家の文書は益田家に残った。まさにこれ以後、白上郷をめぐり、周布氏と益田氏が対立していくことになる。
 話を戻すと、福屋氏は貞治5年段階でも反幕府派であり、それがゆえに大内氏と石見国人により攻撃を受けた。間もなく幕府方に復帰したであろうが、その所領が無傷であるはずはなく、一部を没収された上で、安堵を受けたと思われ、旧福屋氏領を与えられた国人との間で対立が生じたであろう。ちなみに、周布・福屋両氏と関係の深い井尻氏は貞治3年12月に本知行安堵を条件に守護荒川の軍勢催促を受け、翌年5月には安堵されており、福屋氏が石見吉川氏とともに最後まで幕府に抵抗を続けた石見国人であった。 

2015年4月 9日 (木)

福屋氏と周布氏2

 竜雲寺三隅氏系図には、福光兼継について「福光上村」を支配し、その子には「兼秀」とともに、市木・仁摩を記す。鈴木真年氏蔵諸氏家牒本「石州益田氏系図 柿本朝臣」では、福屋兼親(兼仲嫡子)の子として兼秀を記し、兼親の曾孫兼香の兄弟として因幡守兼宗を記している。兼秀は福光兼継女子と結婚し福光郷上村を継承したのである。さらには、周布氏系図に収められている福屋氏略系(萩博物館蔵)には福屋兼香の兄弟として上村兼資と弘兼を記し、兼資の子上村兼信が仁万郷地頭で、弘兼が市木郷地頭であったと記している。上村とは福光上村のことであろう。記載の違いの背景は不明であるが、14世紀後半に福屋兼香の関係者で福光上村と市木郷並びに仁万郷を支配していた人物がいたことは事実であろう。
 以上の事から、至徳2年に吉川氏に預けられた市木郷と仁万郷は福屋氏関係者の所領が没収されたものであった。周布因幡入道兼氏は至徳2年には井尻村についても、相伝の証拠に基づき、安堵されているが、この井尻氏もまた福屋氏の関係者であった。周布氏系図では周布兼政の子として井尻兼家を記すが、井尻は周布兼政領ではない。兼家の子兼有は福屋兼親女子と結婚し、その子兼基が井尻氏の惣領となっている。この井尻氏もまた、周布氏、福屋氏の両方と関係を持つ一族で、結果的に井尻は周布氏領となった。市木郷と同様の背景がみられるのである。そして、2回にわたる大内満弘と義弘の対立で、福屋氏と周布氏は対立する立場にあった。何度も言うが、康暦内戦で益田氏が満弘方であったことを示す史料は確認されず、対立したことが確実なのは福屋氏なのである。さらに、至徳2年には周布氏に対して来原別府とともに長野庄白上郷の知行が認められている。これは周布弾正少弼兼仲が来原・白上郷を支配していた田村盛泰女子と結婚したことを背景とするものであった。至徳2年には益田本郷に隣接する得屋郷領家職と地頭方四分が得屋入道に預けられているが、白上郷と得屋郷や後にはいずれも益田氏領となっている。至徳2年に安堵されたり、預けられた所領には益田氏領に隣接するものが多くみられる。

福屋氏と周布氏1

 論者は、大内満弘と義弘の対立は2回あり、康暦年間と至徳年間に起きたとする立場であるが、このうち益田氏が深く関わったのは後者である。それに対して、表題の2氏は2回とも関わり、福屋氏は満弘方、周布氏は義弘方であった。その背景をさぐってみたい。
 康暦元年8月23日、大内氏奉行人が市木因幡入道知行分を吉川駿河守経見に預ける事を問田・曽原両氏に命じ、29日には打ち渡されている。ところが、12月18日には益成重義から市木庶子分と惣領分は別であるとの訴えがあり、庶子分の麦尾・宇生賀の年貢を返すよう、奉行人が吉川経見に伝えた。ところが翌年2月27日には奉行人が、市木庶子分益成氏の給分を惣領分と併せて知行すべきことが、経見に伝えられている。市木が吉川氏に預けられることで、トラブルが発生し、結局は吉川氏の要求が認められている。
 市木郷地頭職については至徳2年9月6日にも、大内新介により、周布因幡入道庶子等に預けることが伝えられたが、10月19日には仁万石川分とともに、先度京兆御下知状に任せて吉川経見に預けられ、10月19日には石見国守護代右田伊豆守弘直により、経見に打ち渡されている。一見、周布氏と吉川氏の間で対立が生じているようにも見えるが、周布因幡入道兼氏女子が経見と結婚しており、因幡入道庶子等とは経見の妻を意味していた。
 ここで問題となるのは、市木因幡入道である。彼の所領が大内氏により没収されたことは確実なのである。市木氏については周布氏と福屋氏の関係系図で、異同があるところであるが、両者と関係の深い福光氏の一族である。14世紀前半の福光兼継は福屋兼仲の子が、福光郷を譲られた周布兼政女子と結婚して養子に入ったものである。そのため、兼継は福屋氏と周布氏の両方の系図に記され、どちらが正しいかということが問題となった。この市木因幡入道についても、福屋氏の一族ないしは福光氏の一族であり、そして、市木郷とともに仁万石川分もその関係者の所領であった。

2015年4月 7日 (火)

何度目かの見直し

 大内氏による益田攻撃の時期について何度か検討してきたが、嘉慶元年~2年との説に対して、至徳2年の可能性も否定できないことに気づき、現在、さらに見直し、現段階では至徳2年の方が有力となってきた。嘉慶年間の根拠は元年の周布氏への安堵と2年の永安氏に遠田城から退去することを求めた文書の存在であるが、何と言っても至徳2年~3年にかけては大内氏が多くの石見国人に所領を安堵したり、元の所領を与えたり、新たな所領を預けたりしている。これに対して、嘉慶年間はその他の関連史料がない。まもなく、訂正した文章をアップする予定である。それ以前の記事については、現在の考えと異なるが、途中経過を示すものとして、ブログでは残しておく。ただし、現在の意見は違っていることを理解していただきたい。HPには途中経過の見解は掲載せず(一部その内容は採り入れるが)、最終的なもののみ掲載する。

2015年4月 6日 (月)

至徳2年の石見国1

 康暦の内戦と益田氏の関係は自明のこととされるが、永徳元年7月25日名和慈冬書状にも、「大内大夫合戦ニかち候て、三郎ハ石見のふくやと申候物おたのミて候也」とあるのように、満弘方であったことが明確なのは福屋氏である。康暦年間に続いて至徳年間の義弘と満弘の対立についてみていく。
③依無指事候細不申承候、非本意候、抑当国事、□□候之間、面々可憑申候、御同心候者悦存候、其間事以大炊助被申候、無相違候、悦入候、恐々謹言、
    五月廿八日         義弘判
   豊田入道殿
③は大内義弘が豊田入道に宛てて、しばらく音信がなかったが、本意では無いとしつつ、石見国人を頼りにしており、豊田入道の同心を期待したものである。その内容、表現から①②との共通性がみられ、康暦2年に比定できる。この豊田入道を内田氏惣領致世(内田肥前入道)と同一人物とすることが多いが、別人とすべきである。豊田入道との連絡役を務めた「大炊助」については明証を欠くが、応安7年の氷上山妙見上宮上棟神馬寄進注文には「土肥又二郎」・「豊田三郎左衛門尉」と並んで「益田大炊助」がみえる。
 一方、③の関連史料として④がある。
④石見国長野庄河上豊田帯刀左衛門尉跡事、所奉預也、任先例可有知行之状如件、
  至徳二年八月九日         満弘
                                          判
 内田肥前入道殿
これは至徳2年に、石見国を任されていた満弘と義弘の対立が表面化したことを示すものである。満弘は康暦2年10月にも内田肥前入道とその子内田肥前三郎長門国阿武郡内で料所を宛行っていたように、両者の関係は深かった。そうした中、内田氏の一族豊田帯刀左衛門尉の所領であった長野荘内河上を没収し、内田致世に預けている。豊田氏が義弘方であったためであろう。
⑤阿武郡小河郷内領家方光宣名・安宗名・末正名等事、進候、任先例可有御知行候、恐々謹言、
    十一月三日       祥兼(花押影)
   内田肥前五郎殿
 ⑤も年未詳であるが、致世の庶子五郎(嫡子は三郎)に対して、益田祥兼(兼見)が長門国阿武郡内で所領を与えている。後述するように、義弘から周布氏に対して至徳2年に大量の所領の安堵と給与の文書が出されているのに対して、益田家文書には1通も残されていない。これにより間接的に、至徳年間の義弘と満弘の対立において、祥兼が満弘方であったことがわかる。祥兼が内田氏に働きかけるとすれば、この至徳2年の可能性が大きいのではないか。
満弘は祥兼女子と結婚し馬場殿と呼ばれているが、それは康暦内戦の和解が成立した後であった可能性が高い。祥兼は康暦内戦で義弘方ないしは中立の立場にあったが、両者の婚姻により和解を円滑にする意図があったのではないか。

2015年4月 5日 (日)

康暦2年の石見国

 康暦元年7月には大内弘世の子義弘が石見国守護となり、大内氏による国人に対する所領安堵が開始された。少なくとも康暦2年4月末までは順調かにみえたが、同年5月10日には義弘の兄弟満弘が安芸国内藤氏に対して所領の預置を行っており、これが花営三代記が記す5月28日の義弘と満弘の間の合戦につながっていったのであろう。
 ただし康暦2年に比定できる3月16日の義弘書状(周布入道宛)では、美作守方へ一勢を派遣し、その船は一両日中に出津すること、急事であるので政平(苗字不明)を遣わし福屋の事を話合ったところ、森掃部入道と談合すべきとの意見は承知したので、さらによい意見をいただければと述べ、今後は政平と森大和入道良智から伝えるとしている。義弘方もある程度満弘の動きをつかんでいたようである。
 その後、石見国では5月14日に、4月2日の守護代美作権守の挙状を承けて、義弘が益田祥兼に対して、所領への守護使不入と臨時課役の催促禁止を守護代に瞑したことを伝えている。これが6月になると、①義弘が周布入道に対して、周布氏を憑みにしているので、三隅氏と同心してもらいたいこと伝えている。これに対して、大内満弘は6月8日には越生掃部助に対して当知行安堵を行っている。越生氏は周布因幡入道兼氏の母の実家であった。次いで13日には長門国小野氏にも所領を預けている。
①先日進状了、参着候哉、当国事者面々憑申候、三隅殿御同心候て無相違候者悦入候、委細之旨定自彼方被申候乎、恐々謹言、
    六月七日    義弘判
        周布入道殿
②度々進状候、定参着候哉、抑此方式為申候、平子新左衛門尉進候、定委細可申候哉、
一諸事三隅殿方へ令申候、可有御談合候、万事可入御意候之由承候、真実悦存候、於向後弥憑存候、諸方御籌策事、可然候様可有御談合候、
一三郎越福屋申候由承候、其間子細面々可有御談合候、可奉候、尚々憑存候、諸事期後信候、恐々謹言、
    六月廿四日     義弘判
     周布入道殿
①によって福屋氏が満弘方であることがわかるが、益田氏に関する情報は無い。そして7月19日には義弘の注進に基づき、幕府から御教書が出されているが、その一方ではすでに述べたように、周布郷内の一分地頭が惣領の催促に応じていないことがわかる。8月22日には義弘の守護代美作権守が久利赤波氏に対して当知行安堵を行うとともに、8月10日の守護代の奉書を承ける形で、庶子が催促に応じない事に対して、固催促有るべしと、守護代奉書よりは穏やかな表現で周布因幡入道に伝えるとともに、周布郷への守護使不入を代官に伝えたことも述べている。
 これに対して10月には満弘が石見国人内田肥前入道と肥前三郎に長門国内で料所を預けており、対立は続いていた。ところが、10月(ないしは11)には両者の父弘世が没しており、その後は対立に関する史料がないことから、弘世の死により停戦状態となり、そのまま妥協が成立したのではないか。また、この対立に益田氏が関与したことを示す史料は、現在のところ存在しない。

嘉慶元年から2年の石見国5

⑧以土肥申子細、愈行候様御方便候者、恐悦候、其国事一向憑存候也、連々示合可申候、尚々深頼存無他事候、近日益田罷向候へく候、早々寄合申候へと憑入候、毎事期後信候、恐々謹言、          大内ノ     三月十七日    義弘 判
     (ウハ書)       「須布殿      義弘」
大内義弘が近日中に益田へ発向するので、周布氏にも早く寄合ことを依頼している。これがさらに具体化したのが⑦であった。
⑨其境事其後如何様候哉、不審連々可承候、此方勢既益田辺取寄候上者、それよりも早々可被差寄候哉、右田罷越候へハ諸事可有御指南候、巨細使者可申候、恐々謹言、      
           八月廿七日                   義弘 判
             周布入道殿
 益田攻撃は迫っているが、一方では妥協の途も探られており、周布氏からすれば不透明なこともあった。これに対して、大内軍は益田周辺に取寄ているので、周布氏も早く差寄せることを求めている。周布氏は何らかの理由でまだ参陣していないことがわかる。義弘は後に守護代となる右田を派遣したので、意見をいただきたいとも述べている。
⑩其境之事、委承候了、自是も以森兵庫助諸事申候了、 抑京都注進事承候、此御使進之候、委細御僧ニ申候、将又益田之境辺可罷出之由、右田方より申候、定面々申談候哉、可然之様可有御指南候、猶々今度陣取事、就惣別御奔走候者、可悦入候、恐々謹言、
    九月二日          義弘 判
     周布入道殿   御返事
⑨に続いて出されたのは⑩(新出周布家文書)で、大内氏は右田からも益田との境まで出てくるように周布氏に伝えたが、事態は変化していない。義弘はなお意見をいただきたいと述べるとともに、京都への注進についても了解したとしている。周布氏などから益田攻撃を避けるよう要請があったことも考えられる。
⑪喜便宜申候、   抑下山城今月五日落居候、目出候、三十余人腹切候、相残候者三十余人降参候、如此候之間此勢共直に阿武郡へ打入候、是も一両日中益田辺へ可打入候、其時以面此間之式申承候ぬと喜入候、
一今度最前より被致忠候之由、依注進申候、被成下御感候、目出候、とくより可進之処、依路次難儀遅々候也、 一椙原伯耆守御使に下向候、三郎同心国人々并芸州者共可注進申候由被仰下候、返々目出候、此便宜にも 巨細注進候、御心安可被思食候、 恐々謹言、
          十月八日                    義弘 判
            周布入道殿
その後、長門国下山城における満弘方との戦闘で相手が降伏したことを伝え、義弘方の軍勢が阿武郡へ打ち入り、続いて一両日中に援軍として到着することを伝えている。その際に周布氏と直接会って、この間の事情を周布氏から聞くことができることは喜ばしいことと述べている。義弘が戦況を幕府に注進したことに対して、幕府から感状が届いたので、周布氏にも進めるとしている。椙原伯耆守は幕府の使者であろうか、満弘に同心している国人について、安芸国のものも併せて注進するようにとの幕府の命が出されたことを目出度いことだとしている。
 このように、大内義弘方が幕府の支援を受け、他国で優位に立ち、益田氏攻撃の準備は整ったのであるが、周布氏などの動きは緩慢であった。そのため、実際の戦闘は回避された可能性が高い。以下次には康暦2年の対立と嘉慶年間の対立が始まった至徳2年の史料をみる。

嘉慶元年から2年の石見国4

 続いて、翌嘉慶2年の文書をみていく。
⑥遠田城可被弛之由被仰候処、於今被誘持候之由其聞候、事実候哉、無勿体候、然者、早々当城可被弛候、更不可有無沙汰、猶以難渋候者、以上使可被致沙汰之由候也、仍執達如件、
      嘉慶二年十一月十九日   沙弥(花押)
                   豊後守(花押)
                                沙弥(花押)
      永安左近将監殿
大内氏による益田攻撃が終了した後の状況を示している。妥協が成立し、大内氏側も一旦は永安氏に認めた遠田城占拠を撤回し、早くやめて益田氏側に返還することとし、永安氏が難渋するなら上使を派遣して沙汰することを伝えている。この前の状況を示すのが⑦である。
⑦先日進状候之処、委細御返事承候了、就其益田発向事、今月中色々可打入候、今度者差寄七尾城、三計可被取候、仍一城事者、遠田内ニ可被執候之間、彼城者可有御持之由被申候之処、遠田少所候間、為一力不可叶之由承候、其段則令披露候之処、左様少所候者、長野庄安富入道一城可持候、是も料所最少所候之間、一城為一力難持候、彼仁と御寄合候て、半城可被持之由被申候、可為如何様候哉、益田・同遠田辺、不残城々被成料所候、誠不被持候者、随望可被計之候、可有御持候者、無是非候、陣取以前御左右可承候、為後日如此令申候、雖少所候、遠田事ハ御由緒之由承候へは、御持候者可然候、宜為御意候、恐々謹言、
          六月九日   良智(花押)
                        重連(花押)
    永安左近将監殿
嘉慶元年末までは、益田攻撃は具体化の一歩手前の状態であったが、翌年6月には「今月中」に打入ことが決定されている。大内氏側は、今回は七尾城を攻撃し、3ヶ所を占領する予定なので、永安氏に参陣の恩賞として遠田城を提示したが、永安氏は遠田は少所であると難色を示した。これをうけて大内氏奉行人が、長野庄(安富の)安富入道にも一城を与えることになっているが、これも料所としては最少所であるため、一城で一力を持ちがたい。(別の城を)安富入道と半分ずつ持つのはどうかと打診している。最後に遠田は永安氏の由緒の地であるとして、永安氏が持つべきであることを述べている。
 ⑦については松岡氏は明徳3~4年頃と推定されたが、南北朝遺文では⑥の関連史料として、月日は⑦より早いが⑦の次に配置された。井上氏は年未詳3月17日大内義弘書状に続く、永徳元年の大内・益田氏の和解直前のものとされたが、両方とも矛盾があり成り立たないことは明らかであろう。
 以上の史料から、嘉慶2年6月には益田攻撃は目前に迫っており、その後実行に移されたが、11月19日までには妥協が成立したことがわかる。続いて嘉慶2年のその他の関係史料をみる。

嘉慶元年から2年の石見国3

 話を最初の①②の安堵状獲得に戻すと、この関連文書が以下の③④⑤である。
③道助方へ状事承候、書進候、抑益田事対治不可幾候哉、就之御息出陣、殊御奔走之由承候、悦入候、其境事憑存候、兼又蝋燭七十挺給了、難得時分令悦喜候、諸事連々可申候、 恐々謹言、
        八月十五日                   義弘 判
          周布入道殿  
          御返事

④御出陣事悦入候、諸事三隅方有談合、被入御心候者可然候、御辛労察申候、兼又道助方状事承候、書進候、猶々陣取以下事、定自兵部少輔・豊後方可申談候歟、恐々謹言
    八月十五日    義弘 判
        周布弾正少輔殿
               申給へ
⑤ 去十月廿五日・十一月二日御札委細令拝見候了、
 一西方事、市原城退治之間、益田辺事不可有幾候歟、目出候、
 一御安堵間事、京兆注進到来之間、内々奉行方申談候了、仍則落居候、千万目出喜存候、御意又奉察候、
 一料足弐拾結・漆二盃拝領候了、貴方様御事、自元一切不存等閑候之上者、於向後候ても可御心安候之処、如此御沙汰於身者本意候、雖被申子細候、吉井殿再往承旨候間随仰候、御意且恥入存候、雖然御芳志之至恐悦無極候、尚々不知所謝畏存候、事々期後信候、恐々謹言、
         十二月十四日              沙弥道助 判
     謹上  周布殿 御報
③では、義弘が幕府への安堵を求める周布入道から沙弥道助への書状については、道助に進めたことを述べる一方で、益田周辺への攻撃についても、そう後の事ではないと述べ、入道子息弾正少弼兼仲の義弘方への出陣への悦びを伝えている。④は兼仲宛に同様の内容を述べているが、兼仲が三隅氏と話し合うことを希望しており、三隅氏が義弘方であったことがわかる。
 ⑤はその後、10月25日と11月2日付の周布氏から書状を読んだ道助からの返書であり、①の後に市原城への攻撃が行われ、さらに益田周辺への攻撃が近づいたことと、安堵について義弘の注進を受け取り、幕府奉行人と内々の話を行い、希望が実現したことの祝いを述べている。実際に周布氏が獲得したのが②であった。
 以上のように、無年号文書である③から⑤が嘉慶元年のものであることは論証が可能であり、これまで、なぜこれが康暦2年のものに比定されていたのだろうか、というのが偽らざる気持ちである。重ねていうが、萩閥の刊行や松岡久人氏の研究の時点ではいたしかたないことであったが、その後、南北朝遺文も刊行され、研究環境が格段に整備されたにもかかわらずである(続)。

嘉慶元年から2年の石見国2

 永徳3年の譲状をみると、なお分割相続であり、兄弟に譲った所領に兼仲が違乱をなすことと、兄弟が兼仲領に違乱をなすことを禁じ、後者の場合は兄弟領を惣領兼仲が知行すべしと述べている。周布氏系図によると、吉川経兼と結婚した兼氏女子が市木郷を譲られ、市木郷は吉川経兼に打ち渡された。その他に男子2名が記されるが、法名と没年しか記されていない。
 康暦2年8月10日には大内義弘の石見国守護代美作権守から兼氏に宛てて、周布郷内一分地頭が惣領の催促に従わず、軍役や公事を納めないとの兼氏の訴えに対して、従わない族は所帯を没収し、惣地頭に付けるべしとの命令が出されている。これは一般的状況下で出されたものではなく、当時、石見国をめぐり、義弘と満弘の対立があり、義弘方の惣領に対して、満弘と結ぶものがいたのであろう。兼氏は父兼宗が三隅氏女子を母とした関係か、三隅兼覧女子を妻とし、妻は三隅氏領小石見郷内安田・福井村等を譲られていた。安田・福井村等は、小石見郷の前身である吉高名内か、周布郷の前身である吉光名内かで対立があり、それを婚姻により解決しようとしたのであろう。
 兼氏はそのこともあって三隅氏と同じく反幕府方に属していた。これに対して兼宗が嫡子としたの別腹兼長は、幕府方として活動していた。結果的には兼長が20才で死亡したことにより、兼氏が惣領となったが、一族内の関係は複雑であったと思われる。兼仲も当初は田村盛泰女子と結婚し、田村氏領を相続するはずであったが、兄氏連の死により惣領となったが、氏連の死亡時にはなお幼少であり、正式には11年経ってようやく嫡子とされた。そのこともあって一族との関係はやはり複雑であったと思われる。②で安堵された兼仲領はいずれも田村氏が支配していたものであり、これまた田村氏内部の対立を制する中、安堵を獲得したのである。
 兼仲が田村氏女子と結婚した背景には、父兼氏の母が越生経氏女子であることがあった。経氏の祖父有政は、田村資盛の三男から越生有平女子と結婚して養子となり武蔵国越生郷内岡崎村を譲られていたが、承久の乱の勲功により、石見国那賀郡宇津郷を獲得し、石見国に入部した新恩地頭であった。田村四郎盛泰は幕府方に属して軍忠を積んでいたが、観応の擾乱で対応が分かれ、盛泰の嫡子と思われる四郎遠盛は幕府方であったが、応安元年2月には盛泰が来原郷を幼少の「いぬほうしまる」に譲り、遠盛による妨げを禁止するとともに、遠盛へ配分した所領も「いぬほうし」の所領とすることを述べている。この嫡子「いぬほうし」は後に「仲盛」と名乗ったように、姉と結婚した周布兼仲の支配下に入り、兼仲が来原郷と高津西方(こちらと周布氏の関係は史料が残されていない)の支配を認められたのである。

嘉慶元年から2年の石見国1

 この点については「大内満弘と周布・益田氏」で述べたが、若干の見直しを、史料の原文をみながら、述べていく。康暦2年の大内義弘と満弘の対立は存在したが、その関係史料とされたものの大半が康暦2年ではなく、嘉慶元~2年のものであることを明らかにした。
 まずは、嘉慶元年の史料をみる。
①周布弾正少弼兼仲申、石見国来原別符事、相伝証状等如件候。安堵事申御沙汰候者可然候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
      至徳四年五月廿八日  左京権大夫義弘 判
      進上 御奉行所
②   御判
 石見国来原別符并高津西方内田畠等事、任相伝、周布弾正少弼兼仲可令領掌之状如件
    嘉慶元年十一月廿五日
①では大内義弘が周布兼仲領来原別符の安堵について、支証を添えて幕府奉行所に挙状を提出している。それが認められて②が出された。①では高津西方に言及していないが、別にもう一通の挙状が提出されたのであろう。ただし、そちらは残されてはいない。
  萩博物館蔵周布氏系図によると、兼仲は父兼氏と母三隅兼覧女子との間に生まれた。同母兄氏連がいたが、応安5年(1372)に筑前国の合戦で死亡し、その後継者となった。文書は残っていないが、永和3年(1377)2月5日に兼氏の継嗣とされた。関連資料として、新出周布家文書の永和3年3月日周布郷惣領地頭因幡入道士新代兼俊申状(久留島科研)がある。応安5年の合戦については、同年3月1日室町幕府御教書があり、管領細川頼之名で周布因幡入道に対して、2月10日築前国多良倉・鷹見嶽両城での忠節について、今川了俊の注進に基づき賞せられている。次いで6月27日付けで了俊の感状が残っているが、宛名を欠いており(切り取られたか、写されなかったのか不明)、本来は周布氏以外の文書であった可能性が高い。そして9月には因幡入道士心が軍忠状を提出し、了俊の承判を得ている。
  それによると応安4年12月19日に渡海して九州に渡り、豊前国門司・赤坂陣に参陣している。次いで5年2月10日の合戦で、先駆と子息左近将監氏連・舎弟修理亮兼義・若党等が負傷した。3月15日には大宰府に発向し、同月22日には再び豊前国での攻撃に参加している。益田氏等他の国人も参陣したのであろうが、史料を残していない。
 永和3年の兼氏譲状も残って居らず、永徳3年(1383)6月1日に次郎兼仲を嫡子として周布郷等を譲ったことが確認できる。萩閥巻末の系図には、氏連が早世したため、一族田村盛泰の三男を養子にしたと記すが、周布氏系図の記載が正しい。田村氏は本来周布の一族ではなく、姻戚関係で結びついたものであるが、一族とすることで、田村氏関係文書をあたかも周布氏の文書とするためのものであった。

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