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2015年3月

2015年3月23日 (月)

出雲大社三月会結番帳2

 地頭が同一人物である場合は、前述の佐陀神主跡を除けば、すべて同じ番に編成されているが、同じ一族の場合はこの限りではない。例えば北条時宗領3カ所が14番であるのに対して、その庶兄で六波羅探題であった北条時輔領横田荘は12番である。そして横田荘の場合、隣接する三処郷地頭三処左衛門後家が文永初年に時輔に地頭職を寄進したものであるが、横田荘と三処郷は同じ12番に編成されている。また、守護佐々木氏に次いで地頭である所領が多い土屋氏の場合、2番に秋鹿郷、12番に末次保、17番に大東荘南北と忌部保・千酌郷、18番に加賀荘が編成されているが、地頭が同一人物である忌部保と千酌郷は同じ番となっている。
 荘園領主については、本家と領家のレベルがあるが、九条家から東福寺に寄進された末次保が12番であるのに対して、同様の春日末社は8番である。これに同じ蓮華王院領である加賀荘と本来は加賀荘に含まれた持田荘がそれぞれ、18番と7番に分かれていることからすると、編成上、それほど考慮されていないことがわかる。ちなみ加賀荘と持田荘と同様、末次保と春日末社の地頭は異なっている。
 正和3年の時点で、2番の鴨社領加茂荘と8番の徳大寺領長海新荘は、本所一円地であったため、地頭名が記されていない。そして加茂荘は2番の左相撲頭に編成されているが、正和3年時点では頭役を免除されている。これに対して、長海新荘は勤仕している。加茂荘が本所一円地となったのは鎌倉初期のことであったが、注文にある以上、文永8年時点では勤仕するはずであった。長海新荘の場合、徳大寺領にはなったが、その背景に幕府との関係があったため、勤仕したのではないか。上西門院領長海本荘の地頭は将軍側近の持明院基盛であり、新荘を支配した徳大寺氏は源頼朝と,、上西門院とその母待賢門院を介してつながっていた。徳大寺家は待賢門院の兄弟実能を祖とし、建久2年に徳大寺実定が死亡したとの報告を受けた際に、頼朝が歎息したことが『吾妻鏡』に記されている。実定は幕府に由緒ある人物として日頃重んぜられ、梶原景時が実定が知行国主であった美作国の目代に補任されたこともあった。室町院領と出雲国守護(5)・(6)も参照の事。
 以上、おおまかな編成上の特色をみたが、原則として各番の左右の相撲頭(約90町)と一つの舞頭(約80町)ごとに編成しているとしか言えず、佐伯氏のグルーピングの作業は的を得た分析にはなっていない。編成に特別な意図があるのではなく、その前提となる地頭の配置に意味があるのである。

出雲大社三月会結番帳1

 この問題について、過去に1度触れているが、補足する。
 文永8年11月に、出雲大社頭役結番帳が作成された。出雲国の大田文は残っていないが、その一部を代替するもので、当時の荘園・公領の田数と地頭を知ることができる。地頭名が記されているが、実際に負担は荘園領主にもかかってくるため、中央の有力神社の中には、負担の免除を求める声が根強くあった。後に地頭職が廃止されたり本所に寄進されて本所一円領となった鴨社領安来荘と石清水八幡宮領横田荘は負担が免除された。そして横田荘が免除されたことで、20番編成を改め、19番にしたとされる。実際、加茂荘が属した2番や横田荘が属した12番が勤仕する年になれば、その勤仕に大きな支障が出ることが想定できるのである。
 文永8年には出雲国の荘園と公領がほぼ均等な面積に20番に編成され、各所領は20年に一度三月会の相撲・舞役を負担することになった。実際の編成作業は、幕府から守護佐々木泰清と在国司朝山昌綱に命じられ、2名の案を幕府が承認した上で、文永8年に佐々木泰清と朝山時綱(昌綱は文永4年に死亡)に、この注文に基づき沙汰することが命令されている。昌綱が死亡する文永4年以前から作業が開始されていたことになる。
 この史料を活用したものとして、1~20番の人的・地域的編成の特色を述べた佐伯徳也氏の作業(グルーピング)があるが、その前提(制約)となった荘園領主(本家・領家)と地頭配置の特色を分析する作業が欠落している。20番を編成する際に、地頭ないしは荘園領主が同じ所領を同じ番にすることや、近隣の所領をまとめることが想定される。ただし、面積をほぼ均等(左右相撲頭90町×2+舞頭80町=260町)にするという制約があるため、別の番になることもある。
 一つの荘園で地頭も一人であるが田数が260町を超える佐陀荘や、グループで超える守護佐々木泰清領=13番や出雲大社領=20番があるが、この場合は分割することなく、すべてを同じ番にしている。ただし、国屋郷は佐陀荘と地頭が同一であるが、田数を超過するので別の番となっている。これに対して、同じ番であれば、同一所領を分割して配置している。すなわち、246町4反余の宇賀荘は16番の3つの頭に分割し、舞の不足分を同じ能義郡の赤江郷で補っている。同様に2分割されているのが、2番の来海荘、10番の福頼荘、8番の出雲郷、11番の国富郷、15番の安田荘・安来荘17番の大東荘、19番の吉田荘である。本来は2分割の対象となる加賀荘については、持田村が独立して持田荘となり地頭も別々となっているためか、加賀荘は18番の左相撲頭、持田荘は6番の舞頭に位置づけられた。注文には本来同一の荘園であったのが分かれた例として、能義郡の富田荘と富田新荘比田、大原郡の淀本荘と淀新荘、楯縫郡の万田本荘と万田新荘、神門郡の神西本荘と神西新荘があるが、富田荘と淀荘は別々の番であり、万田荘と神西荘の場合は同じ番に編成されている。

2015年3月22日 (日)

デスクトップPCの近況

 最近はデスクトップPCがメインとなっている。やはりモニター・キーボードを選べることが大きい。6年間使用しているAMD機(K9A2GMーFIH)がそう長くは使えないだろうとのことで、OPTIPLEX9020の導入であったが、AMD機も、FHDとUXGA(縦)なら、今でも快適に使用できることを確認し、少し早まった気がしている。4Kモニターが使える3770Tの出番が減ってしまった。これまでは、WQXGAとUXGAの組み合わせで使っていたことが、AMD機の使いにくさの原因であったのだろう。高精細モニターは便利であるが、使いこなすには難しさがあると、改めて感じているところである。4Kモニターも便利ではあるが、使い方次第である。
 AMD機は当初は2コアCPUで使用していたが、BIOSを更新すれば4コアにも対応しており、4コア(955の95W版)に変更した。メモリーもDDR2と3が使え、現在でもDDR2の4Mで使用している。ビデオカードでトラブり、同じマザーボードを中古で購入して復活したのが2年前であった。
 最近の小さなトラブルを紹介すると、エレコムのキーボードTK-FCP004WHを接続したところ、英語キーボードと認識され、一部の記号が正しく入力できずストレスとなった。ネットで調べたドライバーの更新という方法で一旦は解決したが、再発し、今度はドライバーを更新してもだめであった。そこで高価ながらベンチを温めていた東プレのキーボードに登場してもらったが、状況は変わらなかった。再度ネットで調べ、PS/2の日本語キーボードに変更し(ただしエラーとなり、キーボードは使えなくなる)、再起動後、WINDOWS8.1のソフトウェアキーボードで立ち上げ、マウスのみを使って、デバイスを表示して、キーボードドライバーをHIDキーボードに戻すと、日本語キーボードとして使えるようになった。ただし、今日ふたたび英語キーボードになったので、再度同じ作業を行い、試しに再起動したが、問題なく使えている。マイクロソフトのサイトに紹介されたレジストリの変更でもだめな場合はこの方法を試してみるしかない。ただし、ソフトウェアキーボードの機能がないOSでは一次的に外付けのPS/2キーボードを接続する必要があるか。

尼子氏奉行人書状について2

 以上のように、様々な訴えが尼子氏のもとに届けられたであろうが、奉行人は状況に応じて晴久まで上げるか、自らの判断で対処するかを分けていたのであろう。このようなシステムが戦国大名の問題処理システムとして良いかどうかはわからないが、奉行人と国久はそれを可としていた。そして今回の事例では、奉行人が国久の処置(宇道に逃散をやめて帰るよう命じた)を問題なしとしたのに対して、晴久の意向は異なったのである。
  ちなみに、晴久の時代には略式の連署書状はほとんどない(苗字のみ記す⑥のタイプが若干ある)が、晴久が死亡して義久へ代替わりした後の永禄5年3月に日御崎社と本願(寿賛)に対して出された文書4通が②の略式である。これは義久の意向を踏まえたものであるが、途中経過であるからであろうか。5月23日に宇竜浦を新寄進するという義久の寄進状が出されるとともに奉行人連署の副状が出された(ただし尼子氏史料集では年次を誤って永禄6年にしている)が、そこでは正式な肩書を記している。ここからわかるのは正式なものとそうでないものが区別されていたことである。その意味では②⑥にも当てはまっている。
 この問題に関しては、戸谷穂高氏「奉書形式からみた尼子氏の出雲国統治」(『戦国・織豊期の西国社会』所収)があるが、以上の点については言及されていない。大変重要な点であると思い述べてみた。

尼子氏奉行人書状について1

 ここで問題とするのは、晴久の家臣が書状形式で発給している文書である。晴久の袖判があるものにも直状形式と書状形式のものがあるが、これは書状形式であっても下知状とすべきであろう。ここでは袖判のない書状についてみていく。
 佐木浦と宇道浦の紛争に関して奉行人ないしは側近が関わった文書は以下の通りである(尼子氏史料集とは一部文書名を変更)。
 ①天文16年2月2日尼子氏奉行人5名連署書状
 ②天文16年2月16日尼子氏奉行人5名連署書状
 ③天文16年2月20日下笠重秀書状
 ④天文16年閏7月11日尼子氏上使2名連署下知状
  ⑤天文16年8月9日尼子氏奉行人3名連署下知状
 ⑥天文17年ヵ2月26日尼子氏奉行人4名連署書状
 ⑦天文20年3月9日尼子氏奉行人2名連署書状
④⑤は袖判があるので書状形式の⑤を含めて下知状とした。③の下笠氏はこれ以外に尼子氏発給文書には関わっていないので、異例のものである。様々観点から分類できるが、ここでは奉行人・家臣の肩書きの表記に注目したい。②⑥以外は肩書きを正確に記すのに対して、②と⑥は略称である。②は「本田四郎右衛門尉」を「本四」と⑥は「本田」と記している。どこが違うかといえば、①は晴久に両種を披露し、それをうけて「応て御尋があるべし」と伝えているが、②は国久からの報告を受けて出されたもので、晴久への確認はなされていないという違いがあるのである。そのため、正式な肩書ではなく略称で記した=略式の文書であった。③は当然、晴久の意向を伝えるものである。②が国久の報告を晴久に披露した上で出されていれば、それを否定する③の文書が出されるという不細工な事態は避けられたであろう。ここからわかるのは5名は晴久側近の中心であり、案件により晴久の意向を受けて出す場合と晴久に披露することなく、奉行人の判断で出す場合があったことである。それが②が事後的に晴久に伝わり、その激怒を招いて急遽出されたのが③であった。そして正式な文書として④⑤の下知状が出されたのである。
  これに対して⑥も晴久への披露をへて出された文書ではない。佐木浦側である浄音寺より宇道が佐木山に入って薪を切ったとの訴えを受けた側近は、あわてて国久へ連絡し、その意見を踏まえて宇道地下中に命じ、今回は松尾からのとりなしがあったので穏便にすまそうとしているが、今後もするつもりなら晴久に申し上げると恫喝をかけているのである。
⑦は、宇道から正式に訴えがあり、これに対して佐木浦の主張を支持するという公的な意向が示されたものである。

2015年3月21日 (土)

尼子国久の権限4

 この点について、米原氏の想像はさらにたくましい。宇道の地下人の背後に国久がおり、その権威を背景に晴久の採決を破ったとし、国久が晴久の権限内に立ち入り、尼子中枢の権力に介入しつつあったことは明らかであるとされる。宇道と関係があるのは国久ではなく、尼子氏家臣と思われる松尾氏なのであり、少しも明らかではないにもかかわらず。これも米原氏による史料の誤読である。天文20年3月にも奉行人連署書状が出されており、そこには重ねて宇道衆から自らの正当性が主張されたが、前の御判形に相違ないと晴久が仰せられたので、今後、違犯者があれば、絡め取り注進することになったと、浄音寺に伝えている。ここからわかるのは、尼子氏の裁定があまり強制力を持っていないことである。同様のことは他にもあり、天文16年2月には、赤穴氏を佐波氏の惣領とせんとした企てが破綻しており、大内氏への荷担により一旦国外に追放した佐波興連が石見国に帰還することを阻止できなかった。また天文18年8月に北島雅孝が死亡した際の混乱にもみてとれる。尼子氏を背景とする雅孝妻御上が後継者を指名したにもかかわらず、異論が出され、それを杵築家来之者と宍道安房守が支持する事態となっている。
 長谷川氏の『戦国大名尼子氏の研究』の中でも米原氏に近い評価がなされているが、最大の問題点は国久の副状の扱いである。長谷川氏はそれに加えて、天文21年の北島氏上官佐草氏と井田氏の相論における国久の役割を強調されるが、天文23年に杵築で発生した問題には国久は関わっていないことと併せて、その役割と権威を評価すべきである。それまでの国久の関与が「国久が塩冶氏から継承した塩冶郷とその周辺地域における政治的・経済的実力」を背景としていたら、なぜ関わらなかったのであろうか。この点に関する論者の意見は、それは国久が出雲国西部における晴久の代官としての地位を解かれていたからである。国久には誠久・敬久の2人の男子が成長し、尼子政権内で地位を得ていたが、誠久は湯原(当時は養子に入った牛尾氏の当主となっていた)幸清とともに、美作国へ派遣され、晴久発給文書では奉行人と同様の扱い(ただし、奉行人としては1位)を受けており、敬久が国久の地位を継承した形跡もない。敬久は、国久の意向というよりも、新宮党と尼子政権下における誠久の地位を相対的に低めるため、晴久により登用された可能性が大きい。
 たら・ればの話であるが、晴久と国久女子との間に生まれた義久の代になれば、尼子政権下における外戚としての新宮党の地位は飛躍的に高まったはずである。晴久の父政久が晴久の生まれる直前に死亡したこともあって、晴久には一定期間生存した男の兄弟はいなかったためである。そうした政治的変動を最も避けたいと思ったのは、経久の描いた脚本をご破算にして晴久が身の回りに集めた近臣層であり、その代表が佐世伊豆守清宗であった。彼が、晴久からの新宮党の謀反に関する問いに、「その通り」と答えたのである。以上、尼子国久の権限について述べたが、論者は国久が無能であったと述べているのでは無く、あくまでも晴久の体質が問題であった。

尼子国久の権限3

 米原氏が研究されていた段階では国久が塩冶に入った事は明らかにされてはいなかったので、やむおえない面はある。それは長谷川氏の研究で初めて明らかにされたが、問題はその入部の時期であり、史料に基づかないで、且つ時期をあいまいにしたまま、塩冶興久の乱の後までさかのぼらせたのである。軍記物などの二次・三次史料ではなく一次史料で尼子氏を論じるとの立場はよいが、それと矛盾する(仮説はよいがそれを最後に検証しなかった)のではないか。
 そして天文16年の国久書状については、「国久が晴久の権限内に立ち入り、その権限を横取りしていることがうかがわれよう」と米原氏は評価された。この解釈は晴久のみがとった解釈と同じで、晴久奉行人と論者の解釈とはあまりにもかけ離れたものである。
その後、閏7月11日には晴久の袖判を添えた奉行人下知状が下された。宇道と佐木の両者を呼んで尋ねたところ、佐木浦の言い分がもっともであり、孝久証文に任せて安堵したのである。ここで注目されるのが署判を加えている森脇久貞と雑賀久清の名前の肩に「上使」と記され、且つ書状形式ではなく直状形式で結ばれていることである。これがすでに述べた「上から袖判をそえて上意として命令」したものである。それまでの「屋形」に対して、「上意」との表現が遣われたことから、晴久が自らの立場の絶対化を図っていることがわかる。その上で、最終的には8月9日に袖判をそえた3名連署の奉行人書状が出されている。なお上使関する文書は、その後も天文20年(秋上家文書)と天文24年(佐陀神社文書)に各1通残されている。
 尼子氏の意図は以上のようであるが、宇道地下中はそれをものともしていない。天文17年に比定できる2月26日の奉行人4名連署書状によると、以上2通の晴久御判を遣わしたにもかかわらず、その後、宇道が佐木山に入り薪以下を切ったのである。この件について奉行人が国久へ連絡したところ、国久も2通の御一行筋を守るべきとの意向であったことを述べた上で、今後もこのような行為があれば晴久様に申しあげると宇道地下中に伝えている。今回については浄音寺から訴えがあったが、奉行人と国久レベルでとどめ晴久には申し上げなかったが、それは松尾方からとりなしの依頼があったので、遠慮したとも述べている。軍記物で切れやすいため、負けるのもよくないが、勝ちすぎてもいけないと国久に心配させたことが描かれた晴久の怒りの矛先は、宇道地下中のみならず、奉行人、さらには国久にも及ぶと思ったのであろう。

尼子国久の権限2

 そうした中、天文16年の初めに、佐木地下中と宇道との対立について、浄音寺から申し入れがあり、2月2日に晴久奉行人が、まもなく晴久から両者に事実確認がなされることを、伝えている。そうした中、塩冶の国久から、宇道地下人が他出(逃散か)したことに対して、帰るよう命じたとの報告があり、晴久奉行人は2月16日付でこちらからも帰ることを命じたので、安心するよう浄音寺に伝えた。別に国久は裁定を下したわけではなく、奉行人からみても、国久の行為は当然のことと思われたのである。ところが、晴久から異論が出され、20日付で、このような問題は上(晴久)から袖判を添えて上意として命令・処理すべきもので、国久が口を出すべき事ではないことが、浄音寺に伝えられた。
 ここからが問題である。前出の天文12年7月の国久書状に初めて注目された米原正義氏は、普通なら晴久と奉行人の文書で手続きは足りるはずであるが、国久までが書状を送って、自己を強く打ち出していると評価され、「国久は晴久の行動に対して容喙しているように思われるが、なお晴久と立てている」と述べられたのである(同氏『出雲尼子一族』)。
氏はこの説を、1976年10月発行の『歴史手帳』掲載の論文で述べられ、1978年8月21日に島根県立図書館で講演し、その原稿を補足して、著書の増補版に収録された。
なぜこんな事を書くのかというと、当時大学3年で国史学科に進学していた論者は、その講演会に参加していたのである。もちろん当時は尼子氏については『読売新聞』島根版に連載されていた記事程度しか知らない自分であり、何もわからなかったのであるが、今、読み返すと、なんでこんな根拠のない解釈(想像)をされたのかというのが実感である。故人には失礼ながら、これを発展させて長谷川氏の解釈が誕生したからである。
 「応仁・文明の乱と尼子氏」でも、米原氏が尼子経久が守護領美保関の押領を始めたと解釈された史料について、米原氏の誤読を指摘した。米原氏の業績そのものは当時の研究上の制約を考えると大いに評価されるべきものであるが、個々の点には大変な問題があった。それは最初に研究した人の宿命で避けられないことで、米原氏の責任ではなく、その業績を発展させるべきものの責任が大なのである。

ronbun 尼子国久の権限1

 国久への過大評価が不可思議と述べた点について補足する。国久が塩冶へ入ったことに関連する文書が、天文12年6月26日の書状である。国造千家直勝が退却する大内勢とともに杵築を退転した後処理として、東彦十郎(後の千家慶勝)を直勝の妻であった百御料人(高勝女子)と結婚させて社役を務めさせた。直勝と百御料人の間に生まれた塩童が幼少であるため国造職を継承できないための措置であった。同日の晴久書状を受ける形で国久、さらには国久の嫡子誠久が書状を出している。
 6月29日には前日の晴久書状を受ける形で、鰐淵寺に直江・国富名主職を返す(寄進する)ことを伝えている(晴久・国久書状ともに恐惶謹言と丁寧に結んでいる)。これが、国久の役割となったのである。7月4日には晴久が御崎検校に宇料浦を寄進したことを受け、翌5日に尼子氏奉行人連署書状(恐惶謹言)と国久書状(恐々謹言)が出されている。その意味で、国久の位置は奉行人とほぼ同じと言える。同年に比定できる阿式神主職を安堵する国久書状も、晴久書状は残っていないが、「民部少輔一行」を受けてのものであった。
 これに対して天文13年11月13日の国久書状は、神門次郎左衛門(北島方大工)に対して、塩冶之内大工給室を安堵しているが、これは晴久書状を受けたものではなく、塩冶郷が国久領となったことで発給したものである。それに先立ち、6月10日には、2日の吉川興経からの出兵要請の書状を受けて、近日中に出張することを述べている。これは、国久の母が吉川氏の出身である事から、返事を出したものである。翌11日には晴久も興経書状を7日に拝見したとして、同様の趣旨の返事を出している。晴久の父政久の母は国久と同じであった。10日には誠久も書状を出しているが、正式には晴久から申し入れがあるので詳細を述べることはできないが、粗略にはしないと述べている。国久とともに誠久も塩冶にいたと思われる。
 これに対して、6月11日付けの国久と誠久の書状がある。日付は近いが、内容の違いから天文14年に比定できる。今回は吉川興経が毛利氏から懇望することについて相談しているが、前年とは異なり両人(湯原幸清と河副久盛)から返事するとしている。両人書状では上口は思うとおりに合戦が展開していることを述べているが、前年とは異なり安芸国への出兵には言及していない。この年の2月に晴久が法事を計画したのは、国外出兵のためであった。鰐淵寺から座次に関する異論が出され、当座の処置(清水寺が左座の後座、鰐淵寺が右座の後座)をして、晴久は遠征に出かけたが、出兵先は安芸国ではなく上口(東方)であった。はかばかしい返事ができないこともあって、晴久は返事の書状を出していない。同年12月には晴久が横田在番について条数13箇条を定めており、この時点までには出兵から帰国していることがわかる。

2015年3月14日 (土)

再び資料の声を聴く?4

 上嶋氏は尼子氏の法廷での審理と朝廷での審理の違いを述べられるが、尼子氏と両寺にとって事実関係もその理由も自明であった。最後は尼子氏がどう判断するかであった。それと同様に、朝廷での裁許が出ても、尼子氏側がそれに従わなければ、何の意味もないのである。ただし、「究」(三問三答)の結果については、尼子氏側がそれを両寺に求めており、尼子氏もそれを無視することは難しかった。唯一の事実審理に基づく裁許は弘治2年6月の清水寺側勝訴の綸旨で、それ以前と以後のものは、一方のみが働きかけて出されたものにすぎなかった。結局うやむやになったとの意見もあるが、尼子氏にとって、なにより清水寺優位をくつがえす鰐淵寺側にとっては、それではこれまでの苦労は水の泡ときするのである。鰐淵寺側の綸旨阻止は失敗し、弘治3年の綸旨は出され、その結果は尼子氏から両寺に伝えられたはずである。そのため、鰐淵寺は5月の史料までしか残さなかったのである。当時の延暦寺内の状況も梶井宮側が優位に立っており、鰐淵寺も青蓮院から梶井宮の末寺に変わろうとしたぐらいであった。そして尼子氏と鰐淵寺との関係は冷たい関係となり、しばらくの間、鰐淵寺には尼子氏発給文書が残されていないのである。
 最後に上嶋氏が、本ブログの記事も参照され、引用もされており、その一つとして、延暦寺関係の裁許、室町幕府の裁許、三好氏や六角氏の関与など様々な意向が示されているが、あくまでも朝廷での三問三答を尼子氏は求めており、その他は朝廷の判断に対する圧力でしかないと述べた点がある。尼子氏は自らの判断を明確に示しており、決して回避していないが、鰐淵寺側が綸旨を得た以上は、「究」(三問三答)が最善の選択と考えたのである。これは尼子氏の弱さを示すものではない。尼子氏も鰐淵寺側の要求の背景はよくわかるのであるが、様々な経緯から法事では清水寺を左座としてきた。事実関係に基づけば清水寺が勝訴するとの見通しはあったと思われるが、仮に鰐淵寺が勝訴した場合は、尼子氏の判断を変え、その際の清水寺側の不満を抑えることができるのである。
 上嶋氏は4月3日に尼子氏が両寺に上洛しての裁許を求めたのに対して、裁判の開始が5月中旬となったことから、尼子氏が求めたのは必ずしも朝廷での三問三答ではなく、比叡山の判断で敗北した段階で清水寺側が朝廷に訴えたと述べられる.。上嶋氏の指摘にあるように「山門の批判」とは延暦寺の判決であるが、出されたものは「仰究」られたものではない。文書をみればわかるように、比叡山の判断は両者の主張を聞いた上で示されたものではない。また、山門から尼子晴久への5月11日付書状では、去年当山に訴えたとしており、当然これは鰐淵寺による訴えである。本来なら、両寺からの訴えを受けての判決となるはずであるが、極めて異例のものである。それがゆえに、山門からの要請は尼子氏を動かすことはなかった。
 政治的な裁判ならすぐに結論はでるが、「究」となれば、相応の準備が必要である。特に、事実関係を知っている尼子氏の法廷とはことなり、山門や朝廷での審理は両者が提出した証拠に基づくものであり、清水寺側の初問状は裁判の行方を決めるものであった。一方、尼子氏の示したタイムリミットの中で、5月中旬に提出されたのである。繰り返しになるが、尼子氏にとっても一方の訴えに基づく政治的な判断を示されてもこの問題の解決にはつながらず、「究」しかないのである。清水寺文書が失われているため残っていないが、弘治2年6月の裁判結果は尼子氏に伝えられ、尼子氏が両寺に確認したはずである。ただし、当時の尼子晴久は石見東部に出兵しており、このことが、鰐淵寺支持勢力をして今のうちに裁許を変える余地があると思わせたのであろう。とりあえず今回は、ここで終わりとしたい。(なお、ニフティのHPは今月中は閲覧できるが、来月からはできなくなる。今月から最小料金に変更することができず、来月からになったことによる。また、最後の部分を一部修正した)。

再び資料の声を聴く?3

 上嶋氏の論文の評価については、今後作成する論文で述べるが、他の作業との関係で、すぐというわけにはいかないので、2つの点についてのみ以下に述べる。
 本ブログでは、清水寺に残る綸旨・令旨はその形式・表現に問題はあるが、本来得ていたものが失われた中で、それを復元しようとしたものであると述べた。上嶋氏もこれまでの研究で偽文書とされていた評価は改めなければならないとするが、弘治3年に出された最終の後奈良天皇綸旨についてのみ、偽文書とされる。問題はその根拠が示されず、恣意的なことである(上嶋氏は弘治2年6月の綸旨の写しとみられるものについては、綸旨が出されたことが確認されるから、正しいとされる。また、後の正親町天皇の時代の史料で発給者にふれずに「相論に文書を近年紛失したものの、相論はすでに決着がつき、淸水寺が勝訴したことは明らかであり、異論におよぶことはない」と述べた文書を引用しているにもかかわらず。ちなみにこの文書を上嶋氏は「内々覚」とされるが、梶井宮家からの文書である)。上嶋氏は梶井宮側が偽作し、清水寺側に下したものの写しであるとするが、両寺とも基本的事実は知っている中で、偽文書を作成して下しても何の意味もないのである。そんなことですめば、今回の相論は起こらなかった。5月の時点で、清水寺勝訴の女房奉書が作成されたことが確認でき、問題はそれを受けた綸旨が出されるか(本来なら出されるが)であった。実際に清水寺支持勢力が5月の時点で早く出されることを求めている。上嶋氏は5月の時点で鰐淵寺支持勢力が綸旨はまだ出ていないと述べた書状を根拠に事態は沈静化していったとされるが、そんなことで清水寺側の圧力に対抗はできないことはそれまでの経過が示していよう。あくまでも「まだ綸旨は出されていなかった」ことしか書状からはわからないのである。延暦寺にその後の文書が残されていないのも、清水寺支持勢力の訴えを受けて、綸旨が出され、それに対抗する鰐淵寺側の動きがなかったためである。綸旨は二転三転しているが、唯一「究」であったのが弘治2年6月の三問三答に基づく綸旨であった。
 上嶋氏は、その後の史料が残されていないのは、毛利氏による石見国東部への対応に尼子氏が追われ、両寺がかかわる法会を開催する余裕がなくなったためだと述べる。この見解は杉山氏が述べられたものでもあるが、尼子氏と出雲国の政治史を踏まえられていない推測である。弘治2年の法事が、毛利氏から石見銀山を含む石見国東部を奪回するための大規模な軍事行動に際してものであったことはすでに述べた。だから6月までに裁許を得ることを尼子氏は求めたのである。実際に忍原の合戦で尼子方が勝利し、石見銀山を毛利方から奪うとともに、毛利氏方に包囲されていた小笠原氏のピンチを救った。次いで、永禄2年にも晴久が再度大規模な石見国への出兵を行ったが、今回は江川と毛利氏の厚い壁に阻まれ、所期の目的を達成せずに退却し、その直後に小笠原氏は毛利氏に降伏した。このような軍事行動の前にこそ法事は行われるのである。

再び資料の声を聴く?2

 座次相論の背景は、勢力・由緒ともに鰐淵寺が清水寺を上回っていたのに、尼子氏主催の法事では清水寺が左座であったことであった。それは清水寺が尼子氏の本拠能義郡にあったこともあるが、それ以上に塩冶興久の乱や大内氏の出雲国攻めで鰐淵寺が反尼子方になったことであった。以前の記事の繰り返しとなるが、実際、3度の杵築での万部読誦では鰐淵寺が左座であった。鰐淵寺が興久の乱で反経久方とならなければその地位は継続されたはずである。
 万部経読経の具体的状況がわかるのは、大永2年と享禄3年の2度である。その間にもう一度あって計3回であったことは鰐淵寺の三答状に述べてあるが、これも不思議なことに佐伯氏は享禄3年が2度目だとする。そして享禄3年は「出雲国西部における反乱への不穏な動きに対応して仏事興業が行われた可能性を指摘しておきたい」と述べているが、実際に反乱は起きており、この評価も不可解である。佐伯氏は経久時代の領国規模の主要な造営・仏事とその政治的背景として11の事例を挙げるが、その選定の基準も示されない。何より第一回目の万部経読経については「出雲国内の全仏教勢力を結集した仏事であった」とするのみで、なぜ大永2年なのかについては触れられない。
 一方、清水寺はどういう場合に尼子氏の法事が行われるかを知っており(鰐淵寺側もこの点は心得ていた)、座次が問題になりそうとみるや先手を打って、綸旨や梶井宮令旨などを獲得し左座を維持したのである。尼子氏のもとで両寺のいずれが左座であったかは、当然、尼子氏当主もその重臣たちも、そして両寺もよく知っていた。問題なのは記憶はあってもそれを証明する清水寺文書が大内・毛利氏と尼子氏の合戦で失われたことであった。
 尼子氏のもとにはあったのではないかという意見があろうが、裁許を出した尼子氏の側にはそれを残す必要性は少なく、敗れた鰐淵寺の側も同様であった。残すのはそれで利益を得る清水寺側のみである(弘治2年の相論史料はそれが朝廷で行われた。そして延暦寺など関係諸勢力を巻き込んだ大がかりなものであったことと、そしてその裁許に不満を持っていた鰐淵寺が他日を期そうと思っていたこと、さらには廃棄する前に毛利氏の出雲国攻めにより清水寺文書が失われたことから、結果的に残された。当然、自らにとって不利な清水寺への綸旨の写しなどは残さない)。ところが、天文11年から12年にかけての大内氏の出雲国攻めの際に、清水寺側の文書は失われたのである。そして、これも過去の記事で述べたが、天文14年には尼子氏が大規模な軍事行動を起こすこととなり、その前に法事をすることとなった。そこで、鰐淵寺側(なんといっても万部経読経では自らが左座であり、その勢力と由緒からすればその前例こと踏まえられるべきであった)が異論を出したが、軍事行動を急いでいた尼子氏は当座の措置をとって出陣した。この時点では安芸国吉川氏からも、毛利氏から圧力を受けており、尼子氏の出兵を繰り返し求めていたが、尼子氏の軍事行動の展開先は別の場所となり、翌年、吉川氏重臣は当主興経を廃して、毛利元就の次男元春を養子に迎えた。

再び資料の声を聴く?1

 しばらく歴史の記事をアップしていないが、上嶋康裕氏「戦国期の中央-地方の法秩序-鰐淵寺・清水寺座次相論を中心に」(年報中世史研究38号)を読んだので、再びこの相論に触れてみたい。この論文の存在は佐伯徳哉氏「戦国大名尼子氏の領国支配と地域自社勢力」で知った。ただし、初出の島根県古代文化センター『尼子氏の特質と興亡史に関わる比較研究』所収の論文(以下ではA論文)から、杉山巌氏と上嶋康裕氏の論文に基づき加筆・修正を加えたもの(以下では論文B)が、氏の論文集『中世出雲と国家的支配』に収録されている。
 A論文については本ブログでも、明白な偽文書に基づき、永正七年の安芸国鏡山合戦について述べている点と、活字化された延暦寺文書に触れずに鰐淵寺と清水寺の相論について述べている点、さらには論者が発見し井上寛司氏・長谷川博史氏と情報を共有した多数の戦国期の棟札新出史料が活用されていないという問題点を指摘したが、B論文では、鏡山合戦の部分は削除され、上嶋氏の論文をうけて延暦寺文書を史料に加えたものに修正されている。ただし、棟札の新出史料についてはいぜんとして活用されていない。
 本ブログで座次相論を採り上げたのは、2009年5月24日の記事が初めてで、そこで述べたように、そのきっかけは佐伯氏の報告(未活字)による関係文書の年次比定の変更であった。すなわち、弘治2年11月に鰐淵寺の勝利で終了したとされていた座次相論が、翌3年春の段階でも終わっていなかったという指摘であった。その報告で相論のきっかけとして新宮党討滅があったとの佐伯氏の指摘に対して、意味づけは異なるが、長谷川氏による新宮党の意図的討滅との評価の問題点を指摘した。意図的討滅で尼子氏の体制が強化されたならば、この訴訟の提起は不可能で、毛利氏との情報戦(欺し合い)に敗れて討滅をさせられた尼子氏の動揺を見透かして、鰐淵寺が動いたことを述べた。佐伯氏の評価は異なり、新宮党という支えを失った鰐淵寺による政治的攻勢である可能性を指摘している。氏の評価を単純化すれば、尼子氏による出雲国西部の支配強化への反発としての提訴であろうか。ただ、なぜ新宮党が鰐淵寺にとっての支えなのかについての説明は全くない。
 大内・毛利氏と尼子氏との違いは、その発給文書から新宮党(国久と誠久)が排除されている点である。経久段階では国久はそれなりに尊重されており、一族融和のために、詮久と国久女子との結婚がとり行われたが、経久の死後、国久は出雲国西部(興久の子清久が大内氏に与して尼子氏に敵対したため、大内氏の敗北後、その所領は没収された)に配置され、出雲国西部についてのみ、晴久の命を単に施行する立場に追いやられたのである。ところが、この国久が晴久が無視できない大きな権力を持っていたとの評価があるのは不可思議である。出雲大社領佐木浦と宇道浦の相論に国久が関わったことは、尼子氏奉行人からすると当然のことと思われたが、これに晴久が激怒し、出過ぎたことをするなと牽制している。ということで、「国久が鰐淵寺の支え」との評価の意味も不明である。

2015年3月 7日 (土)

Optiplex9020

 たまに無理だろうと思いながら入札していたら、そのまま落札することがある。今回で3回目であるが、Dellのビジネス・デスクトップ9020でCPUはi7-4790である。同時並行的にi7-3770の機種もオークションが進んでおり、こちらが安く手に入ればとは思っていた。前者は現役、後者は2年前の機種である。ただ、後者はメモリーが8MでHDDが1Gと前者の倍の容量。あとGT705と思われるビデオカードが付属している。性能はきわめて低い(内蔵のHD4600にも負ける?)が、用途に合えば無駄ではない。前者は現在、Dellで購入すると13万円ほどする。それが5万円そこそこで落札となり、後者は5万円後半の落札となった(当然こちらは終了が1日後だったので、入札はその時点でやめた)。
 前者はCPUもだが、なにより新しいので、4Kモニターにも対応している。モニターとは2つのDPで接続し、他のポートはない。そこで4KとWQXGAの2台と接続した。今回もまた、4Kでの調整は不要であった。ただし、こころなしかRadeon7770の方が表示がよい気がする。当初はAMD機のGT640を使ってマルチ(3台)モニター化を考えたが、この2台で十分である。
 この予期せぬ来客の関係でノートパソコンのHDDとSDDの入れ替えを行ったが、現在の自分の知識では、このようなことはあまりしないほうがよいと痛感させられた。とくに、容量が大きなものから小さいものへの切り替えはできないことはないが、大変である。これにノートによっては小容量のSSDを使って立ち上がりを早くするシステムを採用しているものもあり、ここでつまづき、最終的には元に戻すこととなった。リカバリーデスクがあれば、そう困難ではないのだろうが、オークションで得たものであり、それもない。
 ということで今回も疲れたというのが実感であるが、とりあえずこれでしばらくはPCの事は忘れて、歴史の仕事に専念できることとPCに関する教訓を得たといって、なぐさめるしかない。

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