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2015年2月

2015年2月28日 (土)

4Kモニター導入

 4Kモニターが予定通り2月24日に到着したので、早速、3770T機のRadeon7770のDisplayportと4Kモニターの同ポートを接続したところ、そのまま3840×2160(DP4K60)で表示された。これ以前に購入した人の例では、正しくセッティングする必要性が説かれていたが、まったく不要であった。
 23.8インチでは、いくらなんでも文字が小さすぎるとして、27インチのものを購入した。こちらでも文字は小さいが、なんとか見えないことはない。フォントの設定を小から中へと変更すればよいとの意見もあったが、そうすると同時に接続するFHD(1K)のモニターの文字が大きくなるので、小で利用することとした。但し、表示の文字が細くて見え難いので、ネット上の情報にならいMAC TYPEで表示することにした。これで自分自身がみるのはみやすくなった。また、とりあえず明るさとコントラストを標準の70から50に落として使っている。
  Radeon7770のDVIポートにWQHDモニターを接続すると同時に3台との接続が何の問題も無くできる。Radeon7770そのもののビデオメモリは1Gのみだが、PCのメモリーで代用しているのだろうか。①FHD=Sharp LC-26P、②WQHD=asus PB278Qにこの③DELL P2715Qの組み合わせであるが、画面の白さ=目への優しさでは、シャープアクオスであろう。購入して7年になるが、よく使うようになったのはここ3年なので、まったく快調である。ただし、消費電力は大きそうである。②と③は消費電力が少なく、③は拡大表示にしないと使えない(MAC TYPEにすれば100%でもOKなので、拡大はやめた)ので視認性でも互角というところか。とはいえ、3台を同時に使う必要性は低そうである。②はDisplayportを持つノートとつなぎ、④RDT21IHはDisplayportのないノートにつないで使用する。④にはHDMI端子がないが、DVI-HDMI変換プラグと、USB接続のビデオ表示アダプターを使えば、問題なく接続できる。とはいえ、①と③を接続すると、③が優先され①からは音がでなくなる。③にはスピーカーがないので、アナログ出力ポートとスピーカーをつながないと音はでない。あるブログではフリッカーフリーであるとあったが、DELLの簡単なマニュアルには表記無し。ただ、みやすいのは慥か。)

2015年2月19日 (木)

HPの引っ越し

 とりあえず、メガエッグへのHPの引っ越しが完了した。ただし、設定マニュアルは不親切で、とまどいながらやっていたら、いつのまにかできた感じで、仮に二度目にチャレンジしても同様に苦労しそうだ。ブログからHPへのリンクの張り方もよくわからず、いつのまにか2つ(歴史HPがメガエッグの新しいHPで、資料の声を聴くはニフティで3月からは利用できなくなる)になったが、どうやれば直せるのかもわからないでの放置しておく。それにしても疲れたというのが正直なところ。会社はもう少し利用者の立場に立たないといけない。よくよく考えて、操作をしないと、間違えて余計な料金がかかってしまうことになった。きちんと親切に書いてあればよいが、多くは気づいた時点では後の祭りとなっている。契約の変更が特定の月以外は解約金が発生したり、いつのまにか契約が更新され、料金が上がっている。長らく使っているものが不利となり、プロバイダーはひたすら新規の契約者の獲得に走っている。ということで、ブログ上にHPのリンクが2つとなったが、まもなく下の方は使えなくなるので、悪しからず。(2月28日にニフティのHPへのリンクは解除した)。

2015年2月14日 (土)

プロバイダーの変更

 予告していたように、2月14日からメガエッグに変更する関係で、ニフティでの記事の更新はこれが最後になる。閲覧は今月いっぱいは可能であろうが、来月以降は、新たな設定とアップロードの終了までは、閉鎖となる。メガエッグでのブログとHPはニフティほど便利ではないので、レンタルサーバーを確保して、そこで展開することになる。できるだけ早くしたいが、時間がかかる可能性もある。いずれにせよ、一挙に作業はできないので、少しずつ過去のものをアップロードすることになろうが、初めての経験でとまどっている。
 これまでならプロバイダーの変更は、勧誘があっても断ってきたが、ニフティもビッグローブと同様、富士通が他社への売却を検討しているとの報道を聞いて動揺してしまった。とりあえず、ブログ記事のバックアップは完了している。次の更新は3月以降となろう。
 これを機に4Kモニターも導入しようと思う。メイン機はCPUが3770T、ビデオカードがRadeon7770であり、4kに対応しているが、これまで8Gであったメモリーも16Gに増設した。あとは果報は寝てまてか。
 舌の根も乾いていないが、メガエッグの工事は完了した。メールとブログについては、ニフティの「@nifty基本料金(250円(税抜) / 月)」を選択すると継続できそうなので、残る問題はHPである。これもメガエッグの最小20Mで十分対応できそうなので、こちらに新たにアップしたい。ただし、少し時間が必要か。ただし、解除や契約内容の変更は、利用者にとっては不利なかたちとなっている。やはり、自分で考え、最も良い時期を選んで変更するのが一番良い。

2015年2月11日 (水)

承元年間の出雲国(補足)

 承元2年に出雲国では、国造孝綱が幕府から大庭・田尻保地頭職に補任されるとともに、杵築大社には惣検校(神主)職に加えて権検校職が設置され、幕府と関わりの深い内蔵孝元が補任されるとともに、国内で数ヶ所の地頭職にも補任されたことについては、これまで何度か述べてきた。その後、惣検校である孝綱が権検校孝元による神御供未進を訴え、これに国司と幕府が対応して、孝元の解任がなされたが、本来の権検校の補任権を持つ領家雅隆が反発し、孝綱に代えて在庁官人中原孝高を神主職に補任した。
 この経過からは当時の出雲国における権門体制的なあり方がうかがわれる。孝綱が国司や幕府に訴えたのは、当時の補任についても、領家の文書のみならず、それを安堵する国司庁宣や幕府下知状が出されていたからではないか。この前後には、国富郷を鰐淵寺の免田とすることや、佐陀社の荘官でもある佐陀神主に対して、神祇官下文(領家下文やその他の文書は残っていない)が出されているが、同様の背景があったのであろう。それは出雲国のみの現象ではないが、特に出雲国では顕著に進められたのではないか。そう考えると承元4年ないし5年のものと思われる源実朝書状の意味も明確になる。
  そこでは、杵築社の神主・氏人は神職であり、国衙や領家の支配下にあるが、その一方で将軍の家人でもあるとして、自らが尋沙汰するのは当然であるとしている。ただし、彼らに対する訴えがあった場合は、先ずは補任権のある(幕府が補任を要請した)領家に触れ申すと答え、領家の主張を認めているのである。そして、神主の補任に関して、本家土御門院がほとんど国造の主張を引用したのみという院庁下文を出したのも同様の背景による。

2015年2月 5日 (木)

但馬国山口家任について

吾妻鏡文治3年11月25日条には以下の記事がみえる。
「但馬国住人山口太郎家任と云う者有り。弓馬の達者勇敢の士なり。而るに木曽左    
馬頭に属き、近仕の随一たるなり。誅亡せらるるの後、豫州の家に在り。豫州逐電   
の刻、同じく所々に横行するの間、北條殿これを生虜らしめ、召し進せらるる所なり
仍って両人に仕う由緒尋ね問わるるの処、申して云く、家任譜代の源氏御家人なり。
就中父家脩は、六條廷尉禅室に仕え忠を輸し、数箇所を拝領す。平家天下を執るの時
悉く以て牢籠す。左典厩入洛の最初、寿永二年八月、適々安堵せしめをはんぬ。その
徳に酬いんが為、一旦門下に列すと雖も、関東に於いて異心を挿まず。また豫州に属
くの條は、人々の虚訴たるかてえり。六條殿の御下文今に帯せしむるや否や尋ね仰せ
らるるの間、これを備え進す。」
長村祥知「治承・寿永内乱期の在京武士」(立命館文学624号)でも、木曽義仲の入京と京武者の動きに関して引用・分析されているが、なぜか以下の部分は省略されている。
「二品両手を洗い、これを拝見せしめ給う。邦通読み申す。保元三年二月日の御下文なり。内舎人の筆跡たるなりと。この御下文に優じ、他事糺明の沙汰に及ばず。本職に安堵すべきの旨、直に仰せ含めらると。曩時を重んぜらるるの趣、諸事斯くの如しと。」
 但馬国住人山口家任の父家脩は、源為義禅室に仕えて、数ヶ所を拝領していた。それが平家の時代となり所領を失っていたが、為義の孫(義賢の子)義仲が寿永2年8月に入京したため、家任が申し出て義仲から安堵を受けたとする。その後、義経との関係を疑われたため、逮捕されたのに対して、義経との関係は否定し、義仲から安堵を受けたのも、父が源氏の家来であったことによるとしている。
 引用されなかった部分には、保元3年2月の六条殿(為義か、その妻で六条重俊女子か)の御下文を証拠として出し、それを頼朝が認めて、改めてその所領を安堵したというのである。保元3年2月にはすでに為義が保元の乱で敗北して処刑されているため、扱いに苦慮する面もあるが、これを為義妻の六条重俊女子の関係者からの安堵とすればよいのではなかろうか。基本的に頼朝もその文書には疑問を挟んでいないのである。
 六条重俊がどのような人物か不明であるが、為義も武士の関係者とだけでなく、公家との間にも婚姻関係を結んでいる。為義の娘が出雲国司であった藤原光隆の妻の一人にもみえている。また、重俊女子の子が木曽義仲の父義賢と出雲国とのかかわりをもった志太義広であり、義賢は兄義朝に対し、為義の嫡子であったとの評価もあり、重俊も公家の有力者であった可能性があるのではないか。為義は保元の乱で破れ、義賢もその前年に義朝の子義平によって討たれているが、保元の乱後に山口家脩が、為義の妻の関係者から所領を与えられ、それは頼朝の父義朝からみても否定すべきものではなかった。しかし、平治の乱で義朝が敗北したことにより、山口氏の所領は平家の支配するところとなった。それを頼朝が、家任の所領を安堵しているのである。明快とはいえないが、吾妻鏡から推測できるのは以上の点ではないか。

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