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2015年1月

2015年1月30日 (金)

養子による相続

 大伴氏系図には、実子がなく、養子に所領を譲ったとの記載がみられる。その中には女子の婿養子という事例もあったと思われるが、その点の記載はない。それと関連するが、女子・女系に関する記述もほとんどない。その内容から南北朝期には成立していた系図だと思われるが、後に写す段階で女系に関する情報は除かれた可能性もある。
 唯一の女系の情報が、承久の乱の時点での元宗流(その根本所領は佐世郷)の惣領であったと思われる朝山惟綱女子のものである。この女子は佐々木高綱の子光綱との間に高定を産んでいる。「四郎」と「高」の字からは、四郎高綱の後継者=光綱の嫡子であったことがうかがわれる。しかし、その環境は承久の乱により、惟綱が没落したことにより大きく変化した。光綱は叔父である佐々木義清の養子となりその女子との間にも子をなしている。問題は惟綱女子と義清女子のどちらとの結婚が先行したかである。義清女子との間に生まれた長子と思われる泰綱(ないしは泰高)は一二一一年の生まれである。これに対して同族の吉田厳秀は出雲国の人布部氏女子との間に泰秀が正治2年(一二〇〇)に誕生していることを勘案すると、惟綱女子との結婚が先行し、先に生まれたのが高定である可能性が高い。
 養子の記事を確認すると、没落した兄惟綱のみならず、勝部宿祢惣領助盛に代わって勝部宿祢全体の惣領となった元綱には実子朝山昌綱と内長綱がいたが、養子清綱に「勝部郡」を譲り、所帯を譲ったと記されている。この記載は独特で、元綱の弟と思われる石坂貞元の場合は、実子がなかったため舎弟光貞に譲ったと記されている。その他についても、惟綱の叔父多祢資元は実子がなかったため、舎弟頼元を子として譲り(多祢郷ヵ)、時元については、他人を養子となし(おそらくは資元女子の婿として)、勝部を譲ったとする。これを参考にすると清綱の場合も舎弟ではなく、他姓から養子に迎えた可能性が高くなる。なぜこのような事態が生じたかと言えば、元綱の場合は、兄惟綱のもとで支配していた所領が、勝部宿祢惣領となったことにより大きく変化したはずである。本来は元宗流の庶子であった。兄朝山惟綱は苗字の地朝山郷のみならず、元宗流の根本所領佐世郷も支配していたと思われる。それが京方となったため、惟綱領は元綱に継承されたものと没収された所領に分かれたと思われる。
 元綱は勝部宿祢惣領となり、その所領は嫡子である在国司昌綱が継承したが、元宗流の根本所領佐世郷は養子清綱が譲られたのであろう。問題となるのが、清綱が「湯左衛門」であることで、湯郷と隣接する拝志郷も譲られた可能性がある。ところが、ここで問題となるのが承元2年に内蔵孝元が国内で数ヶ所の地頭職を拝領し、その中に国富郷とともに湯郷が含まれていた可能性が大きいことである。そこで、清綱は根本所領である佐世郷は維持したが、湯郷・拝志郷については地頭代となったとの解釈を示したが、別に地頭代でなく、替りの所領を得た可能性もある。文永八年の佐世郷地頭が清綱の子である「湯左衛門四郎」であったのに対して湯郷と拝志郷の地頭が「大西二郎女子」と異なっていたのはそのためであろう。孝元は『忌部神社神宮寺根元録』に記されているように、何らかの厳原因で、追却され、湯郷と拝志郷の地頭職を没収されたのであろう。そしてそれが大西二郎女子領となった時点で、守護佐々木泰清の子七郎頼清が養子に入り、佐世郷と湯郷・拝志郷を相続する手はずが決定されていたのであろう。一見するとありえなそうな想定であるが、承元年間の朝廷と幕府の関係がそれを可能としたと思われる。同様のことは、孝元が幕府の後押しをうけて国富郷地頭に補任されたことにも当てはまる。特に出雲国では関係が緊密であり、実験的に行われたのではないか。その際に、国造孝綱も大庭・田尻保地頭となり、これ以外の国御家人の中にも、三処氏の様に、郷司から地頭へ変わるものがあったと思われる(理解が微妙に揺れ動いているのも事実である)。

2015年1月27日 (火)

宇賀郷地頭西郷氏

 三刀屋氏文書目録には、以下の様に宇賀郷地頭西郷氏の関係文書も含まれている。
①一巻 正和三年ヨリ文明十八年迄、雲州宇賀郷論訴ニ付、両六波羅并近江權守、縫殿頭載許之御下文等、後醍醐天皇隠岐御在国警固可奉勤仕旨、相模守平高時之御教書、天皇重祈之事、宇賀之郷安堵之綸旨、將軍義詮公已来之御教書并細川右馬頭頼之以下代々執権之遵行之書等
②一巻 宝治元年ヨリ明応五年マテ、雲州宇賀郷、同永吉浦并遠江国上西郷等之地頭職代々之讓狀
 ②は譲状で、承久の乱後に遠江国上西郷から出雲国に入部した可能性の高い西郷氏で、宝治元年に親から子への譲状が作成されたのであろう。相続したのが弘長3年8月5日の関東下知状(鰐淵寺文書)にみえる宇賀郷地頭頼益であろう。文永8年の地頭は「西郷弥三郎」である。その後、①のように正和三年には宇賀郷について裁判(相手は鰐淵寺ヵ)が行われ、六波羅探題と奉行人縫殿頭(長井貞重)・近江権守(富部氏?)が判決を下したのであろう。次いで、後醍醐天皇の隠岐配流にともない、北条高時から後醍醐の警固を行うように命じた御教書が出されている。その後、西郷氏は建武政権(後醍醐)から宇賀郷を安堵され、室町幕府下でも生き延び、明応5年の譲状までは残しているが、尼子氏の家臣団には西郷氏ないしは宇賀氏はみえない。文明18年には鰐淵寺大福坊頼顕が宇賀弥四郎に宇賀郷内の田地を売却している(鰐淵寺文書)。

2015年1月26日 (月)

三刀屋氏と来海庄

 忌部神社神宮寺根元禄には元弘二年段階で三刀屋扶重が来海庄地頭であったことが記されているが、どうであろうか。三刀屋文書目録には、現存しないが、来海に関する文書が
あったことが記されている。具体的には以下のような記載もある。
一巻       紙数四十二
承久三年ヨリ文亀元年迄、陸奥守義時、其以後之兩六波羅、雲州来海庄安堵之御教書、後醍醐天皇之安堵ノ綸旨、將軍尊氏公并代々將軍家雲州来海庄并武蔵国成田之庄之地頭職安堵之御下文等
 ここからわかるのは、鎌倉時代は来海庄、室町時代はこれに加えて武蔵国成田庄の安堵の文書があったことである。承久三年以降の安堵とは承久の乱で来海庄地頭職に補任された武蔵国御家人別符氏の文書であり、尊氏以降の安堵とは、別符氏に代わって来海庄を得た成田氏の文書である。ただし、武蔵国成田氏について確認すると、建武三年には成田郷内の欠所地が成田基員に与えられている。基員は安保行員と成田氏女子の間に生まれていたが、成田氏領を安堵されると成田氏を名乗るようになる。
 来海庄内の弘長寺には永享一一年二月二一日痰氏碧信宗外二名連署寄進状がある。痰氏と碧姓については確認ができないが、安保氏が多治比(丹比)氏であることから痰(丹)氏と称していると思われる。安保成田氏の来海庄進出にともない入部してきた関係者であると思われる。この成田氏の一族の中に、三刀屋氏の家臣となったものがおり、それで三刀屋氏が成田氏関係文書を入手したのではないか。成田氏の中には三沢氏の家臣となったものがあったことが確認できるが、戦国期には三沢氏一族で三刀屋氏に養子に入った人物もいた。また、15世紀後半の長田西郷には「成田分」が存在する。成田氏が長田西郷内に所領を得たことがあったあったのであろう。
 とりあえず、三刀屋文書目録から分かることとしては、武蔵国御家人で成田氏の一族であった別府氏が来海庄地頭となったのが承久の乱後(承久三年)であることである。

2015年1月22日 (木)

Windows10

 Windows10へのアップグレードが告知された。7以降なら10発売から1年間に限り、無償でアップグレードできるという。8.1へも無償でアップグレードできたが、8の問題点を十分克服できず、今回の発表となったのだろう。新製品にインストールする10で当座の利益は確保し、続いて10にアップグレードした人々が、やはり10の機能をフルに活用するなら、あるいは10を入れたが動作が重いとして、新たなPCに乗り換えることを意図しているのだろう。
 問題はアップグレードする側の環境である。現在8.1で問題がなければ、当座の10の使用に支障はないであろう。問題は7である。数多くのPCを所有し、イスラエルはハィファ産のペンティアムM以降なら、XPでの使用はOK(但しインターネットをしなければ)。7での使用もできないことはない。ところが、7ではOKでも8ではどうかと思われたPCがあったのもたしかであった。一応GM965系まではVISTAで止め、7は945?系以降としたが(一台のみペンティアムMあり)、8となると、Core2 duoでは動作が重い感じがした。一台はインストールしたが、すぐに7に戻した。もう1台は入れたままにしている。
 もう一つの問題が、当座は問題がなくても、10の更新ファイルが次々と出される中で、古いPCほど、問題が発生する可能性が高い。ということで、とりあえずは8.1で問題のないPCを10にアップグレードして、その次が、Core i系以降のPCであろうか。マック2台(Pro17とAir)については、ブートキャンプの関係もあって現在は7であるが、情報を集めて問題がなさそうなら、アップグレード。次いで、Core i系のWindow7のPCか。それでも、ここまですれば、PCの台数は二桁を越えそう。デュアルブートが容易にできれば、前のOSを残しつつ実験できるのでよいが、上書きのみだと、二の足を踏んでしまう。
 気づかないうちに、アクセスは13万台に乗ったようだが、前にも述べたように、プロバイダーを近々変えるため、HPとブログの引っ越しについても考えなければならない。手間暇をかけずにできればよいが。

鎌倉時代の佐世氏(1)

 佐世氏といえば尼子氏側近であった佐世清宗とその子で毛利氏の家臣となった元嘉が知られているが、承久の乱以降、出雲朝山氏(勝部宿祢)の惣領となった「元宗流」の中心所領が佐世であった。すなわち、元宗の子守安は「佐世庁事」であり、守安の子が朝山庁事惟元なのである。ただし、元宗には子が無かったと記されており、系図でその子となっている佐世庁事守安・多祢庁事資元・万田庁事明元・(法吉庁事)孝光は養子ということになる。建久2年と5年の出雲国在庁官人等解には、明元・孝光と守安の子朝山庁事惟元がみえる。ここからうかがえるのは、治承・寿永の乱を元宗の子たちが生き延びたことと、当時の在庁官人筆頭である助盛の名が大伴氏系図にみられないことを含め、元宗流以外の人物が勝部宿祢一族の惣領であったことである。本来、朝山郷(庁事)は元宗流以外の所領であったが、朝山氏が一ノ谷合戦に平家方として参戦し敗北したことにより、元宗流の惟元が朝山郷の郷司(本来は神門郡系勝部氏の所領か)と出雲国衙庁事の地位を得たのである。
 次に問題となるのが、承久の乱の影響である。守安の子には惟元以外に佐世次郎大夫守吉・弥太郎兵衛盛元・阿与三郎大夫守房・鰐淵寺別当法達房宗尊が記されている。本領の佐世郷を継承した守吉は有力在庁官人である庁事ではなく、万田郷・法吉郷の郷司であった資元(系図に多祢庁事とあるが、解状にはみえず。)・明元・孝光が庁事に次ぐ在庁となっていることからすると、これらの所領が元宗流の所領となったのも治承・寿永の乱後ということになる。解状に多祢庁事資元の名がみえないのは、資元が死亡し、その子(弟頼元が養子となって継承したが、庁事として見える明元・孝光より年少であったと考えられる)の世代となっていたからであろう。守安の場合も同様で、子の惟元の代となったため、朝山郷司ではあったが、在庁としては最末尾(叔父明元・孝光の下)となった。資元の場合は子がなく、頼元(弟)と時元(他人)を養子として、多祢郷と長田郷(ただし、これが資元の所領であったかは不明)を譲った形となっている。
 承久の乱で没落したことが確実なのは、勝部宿祢惣領であった助盛系と、塩冶郷司であった政光、さらには元宗系の惣領惟綱である。このため、惟綱の弟元綱が兄に替わって元宗流の惣領となるのみならず、勝部宿祢全体の惣領となった。その兄弟貞元も「石坂兵衛入道」とあり、一度は石坂郷司(一時石清水八幡宮石坂保とされた)となったが、承久の乱で没落した可能性が高い。同じく弟である長元についても、すでに述べたように建保四年の勝部四郎丸ではなく、一族の没落を承けて佐陀神主に補任されたと思われる。
 以上のように、承久の乱では元宗流(大原郡系)以外の、神門郡系・仁多郡系・飯石郡系だけでなく、元宗流内部でも所領を没収されるものが出、地域社会に大きな政治的変動が起きたのである。仁多郡系については、治承・寿永の乱で横田氏が没落し、その跡は同族の三処氏が継承し、承久の乱後にも生き延びている。ただし、その仁多郡系の惣領と思われる仁多氏については、生き延びてはいるが、地頭の地位は失っている。その没落時期は承久の乱の時点である可能性が高い。多祢郷は飯石郡系の所領であったと思われるが、多祢庁事(郷司)資元の存在からすると、治承・寿永の乱で没落し、その跡を資元が継承した可能性が高い。神門郡系はこれが勝部宿祢惣領であったと思われ、助盛・政光がその関係者であったろうが、承久の乱で没落した。元宗系以外で承久の乱後に生き延びたことが確認できるのは三処氏と、長田東郷地頭長田氏(長田西郷は資元養子時元)で、あと可能性があるのは、文永8年段階で在地名を苗字にしている地頭であろうか(続く)。

2015年1月17日 (土)

内蔵孝元と根元禄3

 根元禄の記述からは、文永8年9月までの湯庄地頭は中原(内蔵)孝元で、これが追却された後(冬)に、佐々木頼清が地頭となったと解釈できるが、文永8年11月の出雲大社頭役結番帳とは矛盾する点がある。これに整合性を持たせれば、文永8年冬に、頼清が大西二郎女子ないしはその娘と結婚して養子に入ったということであろうか。承久の乱までの朝山氏惣領は昌綱の父元綱の兄弟惟綱であったが、承久の乱で没落し、元綱流が新たな惣領となった。元綱は朝山郷は嫡子昌綱に譲ったが、本来自分が支配していた所領(佐世郷・湯郷・拝志郷か)は養子に迎えた清綱に譲ったのであろう。ところが、根元禄によると、湯庄地頭は承元2年から文永8年9月までは孝元であったことになる。
 これに整合性を持たした解釈は困難であるが、幕府と朝廷・国司との関係で、孝元が出雲大社権検校になるとともに、湯郷、そして恐らくは拝志郷の地頭に補任され、それまで郷司であった元宗系の人々は湯郷・拝志郷については、孝元の代官となったのではないか(この点についてはなお検討の余地有り)。そのこともあって、元綱は承久の乱で後鳥羽院方への関与が弱く、没落した兄惟綱に代わって朝山氏惣領となった。そして本来の所帯の内、元宗系の中心所領である佐世郷は養子清綱(系図では湯左衛門)に譲り、文永8年の「湯左衛門四郎」は清綱の子であろう。「大西二郎女子」については、これも朝山氏の一族で、湯左衛門四郎と結婚していた可能性が高い。これが文永8年9月の孝元の追放で、湯郷・拝志郷の代官から正員へ復活したのであろう。そして両者の娘と頼清が結婚し、後には頼清が佐世郷・湯郷・拝志郷3郷すべての地頭となったのである。
 佐世氏系図によると、頼清は建長3年(1251)の生まれで、その長子と思われる宗清が文永8年の生まれ、湯郷を相続する泰信が同10年の生まれとするが、嫡子で佐世郷を譲られた清信については未詳である。泰信が湯郷を譲られるのは、湯氏女子との間に生まれたからであろう。根元禄では、建治元年3月に林邑(拝志郷)地頭佐々木殿が頼清寺を建立したする。次いで同3年に頼清三男信清(三郎)が淀本庄地頭中沢信濃守女子と結婚し、忌部東郷の地頭となったと記す。頼清の嫡子は七郎清信であり、三男であることは正しいが、三郎ではない。頼清と中沢氏女子との間に清信が生まれたことを誤って記したのであろう。また忌部郷は土屋氏が支配していた。
 以上のように解釈すると、承元2年から文永8年まで孝元が湯郷(と拝志郷)の地頭であったとする根元禄の記載も成り立つことになる。泰清が書状で出雲国の地頭御家人の代表者として孝元をあげたことも理解できるのである。根元禄の利用については注意が必要であるが、その中には注目すべき点もあることに気づかされた。これまで、大西二郎女子について述べてきたことがあるが、それを見直す必要を迫られた。その意味でも根元禄は正しいが誤っているかではなく、どこが誤っていて、どこが利用できるかの作業を行う必要があることを痛感した。

内蔵孝元と根元禄2

  孝元が承元2年11月に出雲大社権検校に補任されるとともに、国内で数カ所の地頭に補任されたことは、すでに述べたとおりである。根元禄にはその承元2年11月の記事として、「杵築検校[祝]師御供所別当中原孝元が、頼朝の御教書により大社に参詣・在国するとともに、湯庄が都や近江を思わせるとして頼朝に願って、自らの所領としたことを記す(その後の箇所には湯庄中原地頭と記す)。頼朝は「実朝」の誤りであるが、孝元がそれまで都とその周辺にいたことを思わせる。父資忠の死後、国造孝綱が惣検校職に復帰しているが、それが承元2年だった可能性もある。資忠は幕府との関係を有しており、京都にも拠点を持ち、そこに子孝元がいたというのも、まったくありえない話ではない。ただし「中原」孝元ではなく「出雲」が正しい。国造側の記録でも意図的かどうか不明であるが、「中原孝元」と記されており、それを参照したため、誤ったのであろう。
 根元禄にはこれに続いて、建長4年3月に守護泰清が出雲国内を巡回して湯庄を訪れた際に、別当孝元(惣検校であったか、権検校かは不明)と忌部総鎮守権現検校院主智覚法印(神宮寺関係者であろう)を招いて社堂の由緒を尋ねた上で、来海庄種邑と淀庄山地邑、さらには熊野保菅野の所領を寄進したとする。3つの地とも守護領ではないので、これが事実であるかは確認できない。
 次に、年代をさかのぼり、安貞元年(1227)5月に北条泰時から、守護佐々木泰清と藤原昌綱に建久年間の前例にならい、出雲大社の修理が命ぜられたことを記す。藤原昌綱とは在国司朝山(勝部)昌綱をさすのであろうが、この時期の在国司はその父元綱であった可能性が高い。昌綱は仁治3年(1242)に杵築社功により右衛門尉に任官している(大社228)。
 次には一転、文永8年9月に佐々木泰清が家臣土屋六郎左衛門尉に命じて湯庄中原地頭の屋敷を焼き打ちして、孝元を伯耆国に追い、その功で六郎左衛門尉に忌部西邑地頭職を与えたことが記される。次いでその冬に泰清七男頼清が西意宇郡領(総地頭)に補任され、湯庄に居住したとする。西意宇郡総地頭の意味は不明だが、湯庄地頭にもなったと考えられる。ちなみに文永8年の忌部郷地頭は土屋四郎左衛門入道で、湯郷地頭は大西二郎女子である。大伴氏系図では昌綱の嫡子時綱が土屋四郎左衛門入道娘であるとし、根元禄の「四郎」は「六郎」の誤りであると考えられる。

内蔵孝元と根元禄1

 国造出雲氏と神主・惣検校の地位を争った内蔵氏については、関係史料の大半が、これを批判する国造側の史料で、その評価が難しい。とはいえ、可能な限りその実態にせまっていかなければならないので、以下で述べてみる(ここまで書いた時点では以下のことは予想できなかった)。
 建治3年(1277)に比定できる5月7日沙弥書状はその花押から佐々木泰清が子である隠岐前司清高に宛てたものである。従来は弘安元年(1278)に比定されていた。その根拠は出雲大社炎上後8年になるという記述であった。これによれば炎上は文永8年(1271)となる。北島家譜でも、文永8年正月としている。一方、応永19年までの遷宮を記した注文(大社622)には「文永7年正月2日に大社が焼失した」との記載があり、帝王編年記でも同様の記述がある(大社281)。ネット上では国文学研究資料館が撮影した大和文華館所蔵本で確認することができる。
 なによりの決め手は、泰清書状に吉田経俊(薗山庄領家でもあった)が知行国主となったが死亡し、去年10月頃に平時継に交替したと書かれている点である。彼の死亡は建治2年10月18日であり、ここからも書状が建治3年、出雲大社焼失が文永7年であることが確定する。
 この書状には、過去の出雲大社造営で、「国の力者においては、孝元の身を始めて地頭御家人等が貧国こそ罷過候へ、いかでか此の社の造営をおろかに思う様候うや」として、孝元の事が記されている。これまでも孝元をはじめとする地頭御家人が造営に協力したが、それにもかかわらず造営に時間がかかったことを述べているのである。佐々木泰清と孝元の関係を記した史料としては17世紀半ば成立の忌部神社古記録「忌部総社神宮寺根元禄」(以下では根元禄)がある。その内容には事実と反する点があり、そのまま利用はできないが、個々についてその真偽を検討する必要がある。その本格的検討は課題として、まもなく取り組むこととして、とりあえず、関係部分を引用してその是非を検討する。

2015年1月16日 (金)

将軍実朝と出雲国2

 紆余曲折はあったが、最終的には神主孝高と頼孝の沙汰で孝元は排除された。孝元が一転して関東下文により押領しようとしたためであった。この押領が、幕府に働きかけて権検校に補任されたことを意味するのが、実朝書状の後のことであるかは決めがたい。ただし、建保4年5月13日将軍家政所下文によると、孝元が国富郷地頭職を解任されたのは、去々年と去年分の年貢を抑留したためであるとされており、解任は建保3年末から4年の初めということになる。権検校職の問題も、この時点まで長引いた可能性がある。
 建暦3年2月3日には国衙関係者と思われる左衛門尉が、国富郷内で100町の経田を設定することになったのに、鰐淵寺側がこれを受け取らないのは勝手な行為であると批判している。国富郷は承元2年に孝元が地頭職に補任された所領の一つであるが、孝元は権検校職を解任された際に、国富郷等の地頭職も解任された可能性が高い。ただし、地頭職が停廃されることはなく、内蔵氏一族から後任が選ばれたと思われる。国富郷内の経田の設定も実朝―御鳥羽ラインの連携の中で進められたと思われる。
 同年8月21日には領家雅隆が、杵築神主に郷々浦々以下の所領を知行することを命じている。この神主は孝高であり、大社領の中で出西郷・同富・石墓村と稲岡郷は別納の地であるとして、年貢は直接納めるが、その外の所々と併せて知行するよう命じている。これに対して神主職を解任された孝綱は杵築大社領の本家である後鳥羽院の子土御門院に訴えた。出雲大社領が土御門院領の中の「庁分御領」となっていたことに期待したのである。
  建保3年7月には、左兵衛尉源なる人物が「神魂御領田尻・大庭」について、守護所使の乱入を停止し、殺害・刃傷・放火・人拘引については国造殿の沙汰として召し出すことを求めた下知状を出している。この文書について、佐藤進一氏が、内容、書体から検討を要する文書であるとされたが、近年の伊藤邦彦氏の守護制度の研究では、貞応3年の薗山庄の例を引いて、内容には問題があるとはいえないとされた。ただし、両者の共通点からは逆に薗山庄の例を参考に、建保3年の文書が作成された可能性を指摘できる。書状であるならば「国造殿」との表記もありうるだろうが、下知状には不適切である。また「入部」とあるべきところが「乱入」となっていることも、守護を批判する側ならともかく、守護側の文書としては大きな問題である。所領名も「神魂社領大庭・田尻(保)」とあるべきであろう。
 実朝時代に出雲国内の郷司・下司職が地頭職に切り替えられた可能性のあるものとしては、仁多郡横田荘ならびに三処郷、さらには秋鹿郡大野荘をあげることができる。前2つは同族である横田氏が治承・寿永の乱で平家方として没落した跡の継承を三処郷司三処氏が認められ、次いでこれが地頭職に切り替えられたものである。後者は『大野氏系図』では建久元年に大野季清が大野庄地頭職に補任されたとするが、薗山庄で下司職への復帰を求めた師兼と同様、下司職に復帰し、次いで実朝の時代に、地頭職に切り替えられた可能性がある。季清の父季康のと兄弟である右衛門尉康綱は、建保5年(1217)5月に将軍源実朝に、自らの勲功に対する新恩を求めた和歌を献上して備中国村社郷内の所領を安堵されている。具体的には八代相伝の地であるとして不輸権を認められた(『吾妻鏡』)。
 実朝と後鳥羽の関係を背景とする出雲国内の体制は、矛盾を多々抱えながら何とか維持されてはいたが、建保7年正月に実朝が甥の公暁に暗殺されると、あっけなく崩壊した。実朝の朝廷との融和的対応に、幕府御家人の不満が高まっていたのであろう。出雲国でも、同年3月に国造孝綱が国造職と惣検校職を父孝房の意向に従い、弟政孝に譲ったのも孝綱の路線の挫折を意味していた。

将軍実朝と出雲国1

 承元2年11月、内蔵孝元が杵築大社権検校に補任された。鎌倉幕府が領家藤原雅隆に申し入れ、これが受け入れられたものである。孝元はまた、出雲国内で数カ所の地頭職にも補任されたとする。後述の建保4年の文書をみても、孝元側が年貢を懈怠なく納入することを約束した請文をうけての地頭職補任であったことがわかる。これは没官領への補任ではなく、孝元が郷司職であった所領で、国司側の了解のもと、地頭への切り替えがなされたのである。この直前の9月6日には出雲孝綱が出雲国神魂社領大庭・田尻保の地頭職に補任されている。そして孝綱は同時に出雲大社神主に補任されたと思われる。実朝時代の幕府と後鳥羽院の朝廷との関係は、まさに権門体制そのものであると評価されるが、幕府・朝廷が一体となって新たな体制が出雲国内に作られたのである。ただし、この体制を実現したのは実朝と後鳥羽の関係であり、内蔵孝元と国造孝綱との間にはその父親同士以来の確執があり、領家藤原雅隆との関係を含めて同床異夢というべきものであった。
 その亀裂は早くも、恒例式目の御神供が欠如するという形であらわれ、領家雅隆がその訴えに対して対応を命じたにもかかわらず、これとは別の国司側の訴えで孝元に対して勅勘の宣旨が下され、恣意的な国司庁宣で孝元は解任された。次いで、解任を認める幕府下文を出すことを求めた要請も行われた。これは権検校の補任権を持つ領家を無視したもので、幕府が出した御下知は、子細を知らないためのものであろうかと、領家雅隆は述べている。神官の沙汰は先例に基づき行われなければならないのである。孝綱側の強引な措置に反発した雅隆は、孝綱の神主職を解任し、新たに中原孝高を神主に補任した。国司側の動きの背景に孝綱がいたのであろう。その一方では、神人秦大夫貞末が孝元と結んで、本来の神人のあり方に背いていることについて、神官に対して子細を言上することを求めている。
 まさにこうした雅隆からの抗議を承けて、承元5年に比定される2月14日付けの実朝書状は出された。杵築社の神主・氏人は神職である一方で将軍の家人でもあるとして、自らが尋沙汰するのは当然であるとしている。ただし、彼らに対する訴えがあった場合は、先ずは補任権のある(幕府が補任を要請した)領家に触れ申すと答え、領家の主張を認めいる。
 ただし、孝元解任に最初に動いたのは国司側であった。国司側は同年6月段階でも孝綱を神主と呼んで、大社毎旬御供料神田10町8反を引き募り勤めを致すよう命じている。この御供料田からの勤めを権検校孝元がサボタージュしたのではないか。

2015年1月 4日 (日)

平教盛と頼朝

 「角田文衞は、順徳天皇が反鎌倉の意識が強かったのは、平家の生き残りである祖母教子の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かった事に一因があるのではないかと見ている。」と紹介されているがどうであろうか。祖母教子とは兄通盛と教経と同様、平忠盛の子教盛と日野資憲女子の間に生まれている。
 日野資憲は何度も述べたように、崇徳院の側近であり、保元の乱の結果、日野氏の惣領は弟資長に譲って出家したが、その子基光以下は従四位までは進んでおり(孫基定は資長の養子とある)、家としては続いていた。14世紀初めの種範の代には公卿に復帰したが、その子俊基は後醍醐の倒幕に協力したことで、死罪に処せられた。もう一人処刑された資朝は資長の子孫(俊光の子)であるが、こちらの家はその後も繁栄し、足利将軍の妻を輩出していく。
 教盛とその男子は源氏との合戦で命を落としていったが、教子などの女子と出家した忠快の子孫は続いていく。女子の一人は後白河の近臣藤原成親の子成経と結婚していたが、成経も父成親と同様に鹿ヶ谷の陰謀に関与したとして逮捕された。その後、成親は備後国で殺されたが、成経は妻の父教盛の歎願もあって平康頼・僧俊寛らとともに薩摩国鬼界が島に流された。そして俊寛のみは許されず、一年後に康頼とともに、都に帰り、建久元年 に参議、建久5年に皇太后宮大夫(土御門)に任じられた。
 成親の兄弟は配流は免れたが、解官され所領を失ったと思われる。成親の弟盛頼に対しては、頼朝が元暦元年に平家没官領として与えられた肥前国晴気保地頭職を盛頼に与えている。一方、配流から帰った平康頼に対しては、文治二年閏七月に阿波国麻殖保保司職に補任している。父義朝の墓への援助へのお礼として。同地は平家家人領だったとするが、鹿ヶ谷の陰謀の首謀者で処刑された西光(成親の父家保の養子となる)が本来は阿波国の豪族・麻植為光の子だとされており、その跡が平家の関係者に与えられ、平家没官領となったのであろう。成経については援助の必要がなかったと評価されている(この段落については服部英雄氏の研究に依拠している)。
 教盛の男子で唯一生き残るのが、天台宗の僧侶となっていた忠快である。彼も壇ノ浦の合戦後捕虜となり伊豆国に配流されたが、頼朝とその家臣の帰依を受け、文治5年には京都への帰還が認められた。そして、父教盛の所有地であった三条小川高畠の地を返付され、同所に宝菩提院を営んだとされる。その後も幕府や朝廷の関係者の帰依を受け、天台宗の代表的僧侶として活躍した。この背景には帰依を受けたことともに、教盛(平忠盛の子)とその子(母は日野資憲の子)が崇徳の関係者でもあったことがあろう。
  忠盛は仁平三年(一一五三)正月に死亡しているが、永久五年(一一一七)には父正盛に続いて白河法皇の信頼をうけて待賢門院政所の別当になった。摂関家当主藤原忠実の弟家隆の女子(待賢門院女房)との間に教盛をもうけ、教盛は崇徳の近臣日野資憲女子との間に、通盛(一一五三年生)・教経(一一六〇年生)をもうけている。教子は藤原範季との間に寿永元年(一一八二)に重子を産んでおり、教経の妹になるか。この二人が平家の都落ち後、後鳥羽を育て、その関係から重子が順徳を産んだ。また、池禅尼の母方の祖父日野有信の孫が資憲で、禅尼は崇徳の子重仁親王の乳母であった。それがゆえに、伊豆配流中の頼朝にこの関係者が援助を行った可能性が大きい。
 以上、角田文衛氏の説とは異なる側面から、順徳天皇の祖母教子とその周辺についてみてきた。

2015年1月 2日 (金)

待賢門院・崇徳と頼朝(2)

 文治元年には源頼朝が没官領として獲得した備中国妹尾郷を崇徳院法華堂の経堂に寄進している。前年には備前国福岡荘(一遍上人絵伝に描かれた福岡市で知られる)を寄進していたが、それにもかかわらず牢籠したため、これに代えて尼(左兵衛佐局)に進めたとする。崇徳院は保元の乱の敗北で讃岐国へ配流され、寵愛を受けていた左兵衛佐局(重仁親王の母)など一部のお付きのものが従ったのみであった。崇徳は配流先の讃岐国で8年後に死亡し、左兵衛佐局は都に帰ったが、子の重仁親王もすでに亡くなっていた。尼は「院の御寵たり」とあり、頼朝の親類であったという。頼朝の母由良御前の実家である熱田神宮の大宮司家の関係者(父である法勝寺執行信縁、祖父藤原季実は無関係なので、母方か。季実女子は白河院との間に女子あり)であったとされている。
 頼朝と待賢門院の関係者についてみてきたが、最後に、崇徳と藤原光隆の父清隆に関する史料を紹介する。康治二年二月の鳥羽・崇徳両院の熊野御幸の前に、鳥羽が民部卿藤原顕頼の精進屋に、崇徳は参議藤原清隆の精進屋に入っている。ここから崇徳と清隆の関係がうかがわれる。
 出雲大社造営は保延七年(一一四一)から久安元年(一一四五)までのことであったが、清隆(一〇九一~)の子光隆が後白河院庁下文で院司としてみえるのは平治元年以降である。清隆の父隆時が白河院の近臣となり、清隆は嘉承元年(一一〇六)に一六才で蔵人となった。永久四年(一一一六)には院分国の紀伊守となり、同六年に藤原璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の中宮となった際に中宮権大進となった。保安二年には大進に進み、その一方で丹波守・讃岐守を務め、天治元年に待賢門院別当となった。その後も越後守、播磨守を務め、保延五年(一一三九)には体仁親王の春宮亮となるとともに、造成勝寺功で正四位上に進み、播磨守を重任している。近衛天皇が即位した永治元年一二月伊予守を辞して子の定隆を備中守とした。直後の永治二年(一一四二)正月に正三位、康治元年(一一四二)一二月には参議となり、久安五年(一一四九)三月に大宰大貳、八月には大宰権帥、一〇月に従二位となった。仁平二年(一一五二)に正二位まで進み、出家するのが久寿2年(一一五五)五月二四日で、応保二年(一一六二)四月一七日に七二才で死亡している。その三年後に出家した(以上は『公卿補任』による)。
 光隆の経歴についてはネット上で確認できる。前にも述べたが、『尊卑分脈』と『公卿補任』の内容が、反映されるようになったからである。光隆については、東大史料編纂所のデータベースで検索すれば、容易に大日本史料の該当画面が活字で表示される。ところが、父清隆については、光隆以上(正二位)の地位を得ているのに、ネット上には情報が無い。とはいえ、編纂所のデータベースで、大日本史料未刊行分については、手書きのデータが表示されるものと、検索はできても手書きのデータがないものがある。幸いに清隆については手書きのデータを見ることができたので、確認した。本来なら『公卿補任』の活字本で確認すべきであるが、清隆が公卿となったのも、これで初めて知った次第である。これを踏まえると、崇徳-清隆-内蔵忠光のラインで最初の立券がなされた可能性が大きい。

待賢門院・崇徳と頼朝(1)

 頼朝と待賢門院・崇徳院の関係については、保元三年に統子内親王が弟後白河の准母として立后した際に皇后宮権大夫に補任された徳大寺実定の事例が知られている。実定の祖父実能は待賢門院の同母兄で、その子公能は崇徳天皇の蔵人となり、公能娘幸子は藤原頼長の妻となっていた。建久二年閏一二月に実定が五三才で死亡したとの報告を梶原朝景(景時の兄)から受けると、頼朝は歎息した。実定は関東に由緒ある人物として日頃重んぜられ、朝景・景時の両人も実定の恩沢に浴していた。景時は文治元年一二月以前に、頼朝の推挙により実定の知行国である美作国の目代に起用されていた。
 文治二年三月には、藤原光能の後室比丘尼阿光が関東に使者を派遣し、家領丹波国栗林荘への武士の妨げを訴えた。これに対して頼朝は、武士の狼藉を停止するとともに、元の如く崇徳院御領たるべしとの院宣をうけて、年貢を備進し、領家の進止に従うよう下文を出している。藤原光能と言えば、京都神護寺に伝源頼朝・伝平重盛とともに伝藤原光能像が残されていることで知られている。現在は三枚の肖像画は南北朝期の足利尊氏・義詮父子と弟直義像とする説が有力であるが、ともあれ、頼朝と光能、さらには文覚との関係を物語るものである。光能は藤原忠成の子であるが、その姉妹は徳大寺公能や以仁王の室(妾)となっている。新古今和歌集の選者として知られる藤原定家はその従兄弟(父の弟が俊成)で、父の姉妹は徳大寺公能の室となり、前述の実定を産んでいる。また、武蔵国御家人足立遠元の娘が光能の妻としてみえる。遠元は平治の乱で義朝方として戦い、頼朝の挙兵に際しては東国武士で最初に武蔵国足立郷の本領安堵を受けた。また、頼朝の死後に成立した13人の合議制にも加わっている有力御家人であった。
 四至牓示を記した荘園絵図(神護寺蔵)で知られる紀州国桛田荘は久安三年以前に崇徳院領として立荘されたが、翌年に国衙領に戻され、その後、後白河院の御願寺蓮華王院領を経て、神護寺に寄進された。崇徳院に寄進された時の状況については不明であるが、『平家物語』には神護寺を再興した文覚が、配流地伊豆国から福原京へ赴き、前述の藤原光能に後白河院が平清盛追討の院宣を出すよう働きかけることを迫ったり、頼朝に父義朝の髑髏を示して決起を促したりした場面が描かれている。文覚は配流地伊豆で頼朝を面識を持ったとされるが、出家する前は、北面の武士として、鳥羽院の娘統子内親王(上西門院)に仕えていたとされるので、配流前から頼朝とは接点があった可能性が大きい。

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