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2014年12月

2014年12月30日 (火)

偽文書作成の時期(3)

 正和3年に神主問題は解決し、所領問題のみが残っていたが、今度は元亨3年に本家が大覚寺統の後醍醐天皇から宗尊親王の遺児永嘉門院に交替した。永嘉門院と柳原家の関係についてはすでに述べたので省略するが、元弘3年の後醍醐による一宮の本所の停止や南北朝の動乱の開始もあって、国造が有利な状況になったと思われる。
 これに対して、実政の子孫である孝助(孝覚)が、建武政権の崩壊を受けて、領家側として再度裁判=越訴を開始した。鎌倉幕府が滅亡したことにより、再度、神主職と大社領の支配権が問題となった。この領家も兼嗣方ではなかろう。その後の関連事項としては、国造家の分立後の貞和2年に大社領12郷で本所雑掌と千家孝宗が合戦に及んだことが知られる。本所=領家であろうが、本家側を含めてその実力は低下する一方であった。
 そうならないためには室町幕府の支持を得るしかないが、そこで登場していたのが、領家兼嗣の権益を、藤原光隆にさかのぼって継承することを主張し認められた山科家であった。兼嗣の子孫は子の通輔、孫の忠嗣、曽孫の冬輔までは公卿の地位を維持しているが、出雲大社領家職そのものが動乱と幕府による半済令のもとで有名無実化していたのだろう。  山科家は教高が義満の子義嗣とともに失脚した時点で、本家の後継者である柳原家から批判されるが、そこでは、永徳年間に、山科教繁が元亨3年以降60年に及ぶ不知行の地を当知行と称して、所領を掠め取ったと述べられている。山科家は教繁から教高まで、朝廷のみならず将軍にも接近していたのであった。これについては、以前に述べたことがあるので、ここでは省略する。①~⑥の偽文書の作成時期について述べた。おそらくはこれが中世史としては2014年度最後の記事になると思われる(了)。

偽文書作成の時期(2)

 出雲大社の支配権をめぐっては、当初は大社領を管理する惣検校(神主)について、国造家とそれ以外(出雲氏、中原氏)が争ったが、承久の乱で国造家がさほど影響を受けなかったのに対して、ライバルは地頭職を失うなど大きな打撃を受けた。その上に、惣検校を決定する領家が当主不在で主導権を発揮できない間に、出雲大社造営文書を所持し、経済力でも上回る国造家が優位に立った。
 これに対して、13世紀半ばになって領家藤原兼嗣が主導権を回復し、これで国造家のライバルも復活したが、ここでも文永7年に焼失した本殿の造営問題が影響した。当時の国衙の実力低下により造営は大変困難で、且つ長期に及び、領家が補任する国造家以外の惣検校ではほとんど不可能であった。こうした中、国造家は幕府と結び、幕府も領家に圧力をかけ続けた。領家の対応も二転三転する中、今度は弘安年間に本家が交替したことに伴い、新たな領家が登場し、一旦藤原兼嗣はその立場を失う。兼嗣方や出雲大社領政所の関係文書も新たな領家方が入手した可能性が高い。
 国造家にとって最後のライバルとなったのは出雲真高・実政父子であった。真高は当初権検校として登場するが、権検校を国造家が掌握して空洞化する中で、今度は惣検校職を国造家と争った。そのよりどころが領家兼嗣であったが、兼嗣が一時失脚すると、実政は新たな領家廊御方と結ぶのである。正応5年(一二九二)には幕府が廊御方に対して、神主実政を退け国造泰孝を神主にせよと、六波羅探題に命じ、永仁5年(一二九五)には実政の越訴も退けられた。このことは廊御方が実政を神主に補任したことを意味する。
 これと並行して領家をめぐり、兼嗣と廊御方の間でも裁判が続き、嘉元4年(一三〇六)までには兼嗣(正応3年に出家し法名信照)が領家に返り咲いたことが確認できる。兼嗣は正和3年(一三一四)7月には御崎神社検校を補任している。ただし、幕府の裁定で領家については、半分に分割され、千家村を含む一方が兼嗣に返された可能性が高い。すべてが兼嗣分となった場合、過去に兼嗣への不忠で神主職を解任された実政には出番がないが、実政はすでにみたように廊御方と結び、越訴が退けられると、今度は廊御方側の領家雑掌(預所)となり、神主職と出雲大社領をめぐって国造との裁判を始めたのである。この開始時期は延慶2年(一三〇九)で、神主職については正和3年8月に国造側の主張を認めた幕府の裁許がなされた。神主は領家が成敗権を持つとの主張が退けられ、国造が幕府御家人として代々幕府の安堵を受けきたことが認められたのである。事実は領家が主張したとおりであったが、国造が幕府と結び、その協力のもとに偽文書を作成したのである。この裁判に関連して①~⑥が作成された。正応5年と永仁5年の判決では、出雲大社造営問題などもからめて、幕府が国造を神主に補任すべしと領家廊御方に命じたのに対して、今度は領家の神主補任権と出雲大社領の支配権という全く次元の異なる裁判となったため、新たな証拠が必要となった。現在残されている文書にはこの裁判を契機に、国造側が一方の領家である兼嗣側と結び、証拠として獲得した可能性が高いものが含まれている。

偽文書作成の時期(1)

 鎌倉期の出雲大社関係文書にはかなりの偽文書が含まれる。出雲国一宮出雲大社の下にあった御崎神社(日御崎神社となるのは室町期)についても同様である。今回は、出雲大社関係文書の作成時期を絞り込む。
 出雲大社の本家と領家について、5回に分けてブログにアップしてからまもなく2年になる。領家藤原兼嗣のその後を示す史料をみたことで、従来の説を考え直してたものであった。とはいえ、再検討しても結論が出ないことが普通で、出た場合のみ、アップしている。話は横道にそれるが、広島県の住本雄次氏から塩冶興久の乱と高橋氏の滅亡の関係を論じた論文を恵贈いただいて半年以上が経過したが、結論が出てないのでアップしていない。この問題については、高橋氏について論じた岸田裕之氏の論文があるが、住本氏の説は岸田説の問題点をさらに明確にしたことは確実である。その先について、まだ決めかねているのである。
 ここでは、①安元元年に出雲宗孝を国造に補任した国司庁宣、②元暦元年に出雲大社神主・神官等に乱妨の停止と社務を致すことを命じた源頼朝下文と③それを施行した平某下文、④文治2年に出雲孝房を神主に補任した平某下文と、⑤鎌倉殿下文と土肥殿下文を施行した平某下文、⑥元暦2年の出雲宗孝譲状、⑦建久5年の出雲孝房譲状の作成時期について検討する。
 不思議なのは、④が鎌倉殿御下文を施行する形をとりながら、鎌倉殿下文が残っていないことである。いかにもそれらしく作るなら、②のように作成する必要があるにもかかわらず。ただし、②についても作成には苦労したようで、必要な言葉の記載もれもあれば、形式上の不備も多々ある。なにより、「右人、彼の職として旁乱妨を停止すべき」ことを命ずるならば、下文の対象は出雲大社神主・神官等ではなく、平朝臣ないしは国造孝房でなければならない。唯一頼朝が出した形となっている⑤のみが「杵築大社」で、③④⑥が「杵築社」と表記するのもおかしいが、偽文書の欠点をいちいち述べても詮ないことである(⑤が後で作成された可能性あり)。
 これに関連して、⑦承久元年に北条義時が出雲孝綱を大庭社・美談新庄・乃白郷・田尻保地頭職に本知行の如く安堵している文書は、国造家内部の対立に関して作成されたもので、⑧嘉禎2年に、孝綱子息経孝に神主職を安堵した幕府御教書も同様であろう。当初、孝房の跡は孝綱が継承したが、その路線が挫折すると、弟政孝に譲り、以後は政孝系が国造職を独占するが、それに対する不満もあったのである。

2014年12月28日 (日)

内蔵資忠と出雲大社領(3)

  父忠光以降、チャンスをうかがっていた資忠にとっては、待賢門院の娘上西門院とのつながりの深い源頼朝の登場は好都合であった。薗山荘前司であった師兼もまた、頼朝の甥にあたる仁憲大徳に仕えていたことから、仁憲を通じて頼朝に働きかけ、頼朝が薗山荘領家吉田定房に下司復帰の働きかけをしている。定房もまた頼朝とともに上西門院に仕えていたのである。内蔵資忠も頼朝を通じて出雲大社領家光隆に働きかけ、国造孝房に代わって出雲大社惣検校に復活したのである。建久元年の出雲大社遷宮時こそ、孝房が一時的に復活したが、遷宮が終わると、資忠が再任されたと思われる。
 ここからが本題なのだが、建久2年7月の出雲国在庁官人等解である。国造が作成し、在庁官人は花押を加えたのみであろうと指摘したが、この解状は正しい文書ではあるが、その内容は無前提に採用してはならないものである。最初に国造孝房の名が記されていることから、孝房が訴えたものと考えられる。遷宮を理由に復活はしたものの、領家が遷宮の終了により資忠を再度補任したことを受け、これを覆すのはなみ大抵のことでは不可能ということで、在庁官人等解を作成したのである。忠光が逃亡する際に放火したため、神殿が焼失したことのように、にわかに信じがたい点が含まれている。8月の解状も同様(あきらかな誤りがあった)である。
 この訴訟は、建久3年7月に内蔵資忠が惣検校職に補任されたことで決着した。建武年間の領家と国造の裁判で、領家方が提出した建久3年7月23日と25日の下文がその際の文書である。この史料は国造側が偽文書であると裁判で主張し、井上寛司氏もそれに同意されていたものであるが、正しいものであることを、10年前の論文で初めて主張し、現在では大方の同意を得ている。ただし、2通の下文の関係がよくわからず、「右大将家」の表現に引きずられ、7月23日付けが政所下文で、25日付けが袖判下文かなともおもったが、当時の発給状況と合致せず、「政所下文か袖判下文か不明」と記したのである。 現在みれば、なぜ気づかなかったのかと思うのだが、23日の下文は相伝の職だとして資忠を惣検校職に補任している。一方、25日の下文は資忠が重代相伝であるとして、領家が補任したことを安堵しており、23日付が領家下文で、25日付が頼朝袖判下文であった。2つの文書の日付が近いので、両方とも頼朝下文と考え、2通の違いがわからなかったのである。日付の近さは領家光隆と頼朝の間でどう対処するのかの協議がなされ、それを踏まえて出されたためであろう。
 論文では頼朝や幕府が出雲大社惣検校を補任する権限をもたないことを述べながら、なぜ気づかなかったかわからないが、自らの不明を恥じるしかない。ということで、この点を述べるために文章を書き始めたが、その途中で、遅ればせながらやっとさまざまな点に気づかされたというのが正直なところである。その後、資忠の死により、国造が惣検校職に補任されたようであるが、少なくとも頼朝と光隆の健在である間は、国造側には厳しい状況であった。頼朝が元治元(一一九九)年に死亡したのに続いて、光隆も建仁元年(一二〇一)に死亡した。後継者である頼家と雅隆と内蔵氏ないしはその背景にあった待賢門院系の人々との関係は弱いのである。とくに、雅隆の母は、弟の家隆の母が待賢門院の実家の関係者であったのに対して、近衛天皇・美福門院との関係が深い藤原基隆の娘であった。とはいえ、雅隆も後には自らの主導権を発揮して、国造以外からの惣検校職への競望に応じるようになるのだが(了)。

内蔵資忠と出雲大社領(2)

 出雲大社領が内蔵忠光-藤原光隆(ないしは父清隆。光隆は永暦元年に公卿に、清隆は永治2年に公卿)-崇徳院のルートで当初立券されたとした。光隆ではなく日野資憲かとも思ったが、それであるならば、揖屋社・飯石社と同様、成勝寺領となったであろうから、光隆(または清隆)である可能性が高いと思った。揖屋社と出雲大社との関係もあり、資憲説も捨てがたいが、なにより忠光は光隆の一字をその名にしている。ただし、資忠が資憲の一字を付けているように、忠光と資憲の関係があったことも確実である。「資」の一字を名乗る価値は保元の乱で低下したとも思えるが、その一方で、揖屋社別火はなお立券時の助宗(資宗)に続いて、承安2年(一一七二、この前年には出雲大社の仮殿遷宮)に子の助澄が補任されている。
 また、保元の乱で崇徳が失脚したことで、国造兼忠が訴え、忠光に代わって惣検校に補任されたと考えたこともあったが、崇徳はともかく光隆(清隆)はその二股性で後白河・美福門院との関係を保持しており、その光隆が平治の乱で失脚したことで、出雲大社領がリセットされて国衙領に戻されたと考えた(有名な紀伊国桛田荘は保元の乱以前に崇徳院領から国衙領に戻されている)。
 平治の乱前後の出雲国司は乱の直前まで二条天皇派の源光保で、これが平治元年閏5月に平基親が補任されている。基親の母は出雲国司高階重仲の孫娘である。重仲女子は一人が日野資憲の母で、一人が信西の妻である。重仲は摂関家家司でありその曾孫泰宗流は九条家の寺東福寺内の最勝金剛院と法成寺の執行を代々務めていくが、待賢門院との関係も深かったのである。さらに付け加えるならば、基親女子は待賢門院領として成立した薗山荘の領家吉田経房の子定経と結婚し、薗山荘領家である資経を産んでいる。資経と藤原親綱女子との間に生まれたのが、後深草院の分国であった建治年間に出雲国知行国主となった吉田経俊である。経俊も薗山荘領家であった可能性は高い。親綱の子家時は建久9年(一一九八)には出雲国司となっているが、その時点での知行国主は父の姉妹の結婚相手である藤原朝方であった。朝方の子で鎌倉幕府の成立の前後にかけて出雲国司であった朝経は家時の従兄弟になる。親綱の母の姉妹には、12世紀初めの出雲国司藤原顕頼室もいた。
 話を戻すと、一気に国造が惣検校となるのではなく、崇徳院宣と不当に号して行われた立券に問題ありとして、一旦公領に戻すことなら、国衙の理解も得やすいのではないか。それもこれも領家光隆が失脚したから可能となった。そして、光隆の復活を受けて、新たに兼忠-光隆-後白河ラインで、立券がなされた可能性が高いとした。後白河とて待賢門院の子である。日野資憲の弟資長は兄に代わって惣領となり、後白河の近臣となる。さらにその子兼光は後白河の側近藤原業房の女子(母は不明)を妻としたが、業房の妻高階栄子が丹後局と呼ばれ、後白河の寵愛を受けたこともあって、出世を遂げた。また、兼光の妻は出雲国司藤原家時女子であった。網の目のように閨閥関係がはりめぐらされていた。

2014年12月27日 (土)

内蔵資忠と出雲大社領(1)

 内蔵資忠は頼朝への大功により、頼朝の推薦を受けて、国造孝房に代わって出雲大社惣検校職に補任された。その「大功」とは何であったろうか。出雲国ないしは隠岐国に勢力を有した内蔵資忠がなぜ頼朝と、という素朴な疑問もあるであろう。ただし、因幡国の長田兵衛尉実経は平家方として捕らえられ所領を没収されるべきところを、頼朝が伊豆国に流された際に因幡国の有力在庁官人であった父長田資経が一族の資家を同行させた恩に報いるとして、頼朝から本領を安堵された。また、頼朝の雑色の長として幕府と朝廷の連絡にあたっている時澤も出雲国の出身であった。
 資忠の大功の背景としては、藤原光隆並びに日野資憲とその主人である崇徳院を通じての待賢門院(1101~1145)-上西門院(1127~1189)との関係があげられる。すでにみたように、頼朝は待賢門院の子上西門院に仕えていたのである。日野資憲の母は高階重仲女子であったが、その養子となって、重仲女子を妻としていたのが藤原通憲(信西入道)であった。信西もまた、待賢門院に蔵人として仕えていたが、待賢門院に仕えていた藤原朝子を二人目の妻とした。その関係で朝子は待賢門院の子雅仁親王(後白河)の乳母となった。信西はその後、たぐいまれな学識を武器に鳥羽院の政治顧問となり、1155年に美福門院の子二条天皇が死亡すると、美福門院の養子となっていた2人のうち、崇徳の子重仁親王を抑えて、守仁親王の父後白河の即位を実現し、1156年の保元の乱で後白河方の勝利に貢献し、1158年には美福門院とともに後白河の退位と二条天皇の即位を取り仕切った。歴史に「たら、れば」は不要であるが、この時点で待賢門院が健在であれば歴史はどうなったであろうか。
 平氏に捕らえられた頼朝の除名を嘆願した池禅尼(藤原宗子)は平忠盛の正室で、頼盛の母で、清盛の義理の母であったが、その一方では崇徳天皇の子重仁の乳母であり、従兄弟(父宗兼の姉妹の子)家成が鳥羽院の寵臣であったことから、美福門院ともつながりがあった。
 1155年の近衛天皇の死と後白河天皇の即位までは、鳥羽と崇徳の関係は良好であったので、同じ人物が待賢門院の子崇徳と、鳥羽並びに美福門院の両方と深く結びついていても何の不思議はなかったのである。因幡国の長田氏と同様、出雲国の内蔵氏が、待賢門院と上西門院を介してつながる頼朝の配流に対して物心両面の援助を行い、雑色の長時澤も内蔵氏が派遣した存在であった可能性もある。
(補足)題名と内容がずれてきたので、当初の国造宗孝(3)ではなく内蔵資忠(1)に変えた。

2014年12月26日 (金)

国造宗孝と出雲大社領(2)

 ここまで述べたことで、①②が内容的にも偽文書であることは明らかであろう。そして、兼経から宗孝へ国造職が交代した安元2年に何があったかが問題となる。兼経が死亡したことは事実で、その子が「若小」であったことで、宗孝が補任されたのであろう。当然、兼経の子が成長した時点や、宗孝が死亡した時点で後継者問題が表面化したであろう。宗孝は安元2年以降10年間国造を務め、その死に際して嫡子孝房に譲ったとする。これに関連して元暦2年の宗孝譲状と建久5年の孝房譲状が残されているが、これも形式を含め問題があり、①②とともに後世に作成されたものである。国造の譲状で確実なものは弘長2年(1264)の義孝譲状以降のものである。
 宗孝については確実な史料である建久2年の在庁官人等解で孝房が兼忠を伯父とよんでいることから、宗孝が兼忠の弟か、あるいは宗孝の妻=孝房の母が兼忠の妹ということになる。康治元年の仮殿遷宮の史料には兼忠の弟「兼成」と子「顕兼」がみえることからすると、宗孝が兼忠の弟である可能性は低いのではないか。一旦、他家に養子に入り、それで「宗孝」と名乗った可能性までは否定できないが、宗孝は兼忠の妹を妻とした人物として、兼経死亡後の国造の相続争いに参加し、最終的に勝利を収めたのであろう。勝利の背景には宗孝が出西郷司であったことがことがあろう。しかしその後も、兼経系から国造職の相続要求が出されたのである。
 以上をまとめると、平治の頃宗孝が兼忠から国造職を相続したという事実はなかったことになる。なによりその時点で、兼忠はまだ健在であったのである。前回述べた、平治の乱後、藤原光隆が失脚した一瞬の隙をついて、兼忠が出雲大社領の惣検校であった内蔵忠光を訴え、その結果、崇徳院-光隆-内蔵忠光ラインで立券された出雲大社領は公領に戻された。そして永暦元年4月3日に光隆が治部卿に復帰した時点で、今度は後白河院を本家、光隆を領家として出雲大社領の再立券がなされ、国造兼忠が惣検校に補任されたのであろう。光隆は出雲大社正殿遷宮を行った経歴を有し、光隆と美福門院との密接な関係をもってすれば十分可能なことであった。出雲大社領の成立について、ようやく成案を得たというのが正直なところである。繰り返しになるが①②や国造の譲り状の利用については慎重さが求められる。
 最後に承安2年の仮殿遷宮と久安元年から34年目の治承2年の関係であるが、仮殿遷宮から正殿造営へスムーズには進まず、宗孝が国造となり、体制が安定した段階で、ようやく正殿造営が開始され、建久元年に遷宮が完了したのであろう。ただし、宗孝の子孝房が惣検校を安定的に確保したわけではなく、文治元年には内蔵忠光の子資忠が、幕府から領家光隆への推薦を受け、父以来の惣検校に返り咲いたのである。

国造宗孝と出雲大社領(1)

 国造宗孝は、彼以降の国造が千家宗孝・北島貞孝に至るまで、その名に「孝」の字を付けているように、大変重要な人物である。そして、両国造家の分立後は、北島側が「孝」を付け続けるのに対して千家側は一切これを付けていない。
 ただし、「孝」を付けた国造としては、長保4年に太政官符で国造職に補任された「孝忠」がおり、宗孝が初めてではない。ところが、この孝忠は現在残されている国造の系譜には見えない。同時期の国造は「吉忠」であったとされる。それは、建久2年の在庁官人文書紛失状の段階でそうなっているのである。この段階ですでに国造職が太政官符で補任されたことが忘れさられていたのであろうか。弘仁4年以降の国造を補任した国司庁宣(実際には存在しなかった)が火事で焼亡したとして紛失状を提出しているのである。
 話を宗孝に移すと、以前の論文で、安元2年に宗孝を国造職に補任した①国司庁宣と建久5年の②在庁官人解状はいずれも後世に作成された偽文書であることを述べた。問題はそこに書かれた内容の真偽であるが、これが正しければ、偽文書を作成する必要はないので、多くの問題点を含むものである。
 そこでも主張したが、国司が補任する国造職を宗孝の私儀で留守所に触れて、兼経に申し付けることなど不可能である。北島家譜で国造の継承年代をみると、頼兼の後、宗房が1年間国造を務めたが、すぐに兼宗に交代し、33年間務めたとする。この原因について②では宗房が1年で死亡し、その嫡子兼家が幼少であったため、弟兼宗が継承したとする。ここには特に疑問は生じないが、兼宗が33年間務め、次にその嫡子兼忠が国造職を継承した点について、兼家系の人々に不満があったことは確かであろう。問題は次である。②では宗孝が兼忠の嫡子として大社神主職を継承し、神主職に付属する国造職を兼経に申し付けたとする点である。神主職は荘園領主が補任し、国造職は国司が補任する全く別の職であり、相続するとか、私儀で他の人物に譲ることなどできない。そして①ではその時期を平治の頃と曖昧に記すのみである。後年の裁判資料では領家の成立は平治年間ではなく次の永暦年間である。これに対して北島家譜では、兼忠から兼経に国造が交代した年を仁安3年(1168)としている。兼忠は天承元年から38年間国造職にあったとしているので、計算上の問題はない。
 家譜では兼経は8年間国造職を務め、その間、承安2年(1172)には仮殿遷宮を執行したとする。承久2年の杵築大社遷宮年限注進状では、これを承安元年とする。ただし、久安元年(1145)の正殿遷宮から34年としており、そうすると治承2年(1178)となり計算が合わない。一方、後に国造義孝の注進状では、安元元年(1175)に宗孝が仮殿遷宮を行ったと記している。安元元年とは①で宗孝が国造職に復帰する1年前で、久安元年から34年後とも合致しない。北島家譜では遷宮と宗孝の国造補任を安元2年としている。②では兼経が神慮に叶わず若小死亡と記すが、8年間の在職と矛盾している。

2014年12月25日 (木)

IPS液晶ノート

 行きがかり上で、Dell Latitude7440を入手した。OS、キーボードとも英語版である。今のところ、リターンキーの形状の違いにとまどっており、ミスタッチも多い。特徴としてはビジネス機でありながらUltrabookであることか。光学ドライブがなく、重量は1.6kgと軽い。以前、Windows7のファミリーパッケージのUS版を入手し日本語化したが、この時とは勝手が違う。OSのインストールから行うか、すでにインストールしてあるのを日本語化するかの違いだが、Pro以下のバージョンだと日本語化には課題があるようだ。とりあえず、ネットで調べて9割方日本語化が実現できた(その後完全に日本語化)。
 液晶は14インチだが、FHDでIPS液晶である。視野角は広い。ただ、英語キーボードであるだけでなく、薄さを追求したため、キーのストロークが小さく物足りない。力を入れずに入力できるのは良いが、やや物足りない。これ以上に薄いマックブックエアーの方が良いか。もう少しなれれば印象もかなり良くなると思われるが、現時点ではLatitude6320や6230の方がよい印象。まだ分解はしていないが、Ultrabookでありながらバッテリーの交換ができるのは好都合である。
 オークションで4万円台前半で入手できたのはラッキーであったが、すべては使ってなんぼの世界である。同じオークションでは、14インチのLatitude5440もあり、こちらは3万円台後半で落札されていた。光学ドライブの有無と液晶の違い(HDとIPSでFHD)、さらには筐体の薄さが一番の違いか。メモリー8GとSSD搭載も違うが、CPUは同一で、どれぐらいの価格差が適切かは不明である。液晶のコストも近年ではかなり下がっている。
 これもいきがかり上だが、インターネットを業者に言われるままに、メガエッグに変えることにした。これに伴い、ブログとHPの変更の準備をしなければならない。現在のニフティはメールの継続ぐらいはできそうだが、プロバイダーとしては選択できなさそうだが、どうであろうか。ニフティはHPとブログが別料金なしにできるという点で好都合だったのだがと、今は後悔しているが、何か考えなければならない。

出雲大社領立券をめぐる人々

 出雲大社領の立券をめぐっては様々人々が関わりをもった。保元の乱をめぐって対立した崇徳上皇と後白河上皇、立券の主導権をめぐって争った内蔵忠光と国造兼忠がその代表であるが、出雲国司であった藤原光隆とともに、隠岐国司であった藤原資憲も注目される。内蔵忠光の子資忠は出雲大社惣検校であるとともに、一方では隠岐国の有力在庁官人でもあった。さらに、隠岐国在庁資忠が批判されている時期には平行して藤原重頼による隠岐国所領の押領も問題となっていた。
 最初に出雲国司として出雲国の人々と中央の権力者を結びつける役割を果たした藤原光隆についてみていく。以前の研究では光隆は後白河院と国造との関係が指摘されていたが、話はそう単純ではない。なにより光隆の「光」の字を付けているのは国造と対立した内蔵忠光なのである。
 光隆の父清隆は、崇徳の母待賢門院と深い関わりを持っていた。すなわち、清隆は待賢門院の政所別当で、待賢門院女房小因幡がその妾の一人であった。また、両者の間に生まれた男子時房(定能)は待賢門院の兄実能の子公能の養子となっており、女子は内大臣公教(実能の兄実行の子)と二条天皇の側近大炊御門経宗の妻となっていた。
  その一方で、妻家子が美福門院が生んだ体仁皇子(二条天皇)の乳母となったように、清隆は美福門院への接近もはかっている。その二股性は光隆も継承しており、その嫡子雅隆の母は近衛天皇の乳母となっていた藤原基隆の孫娘であったが、弟家隆の母は待賢門院の兄弟実兼の娘であった。
 以上の点を踏まえると、光隆が待賢門院の子崇徳とも関係を持つことは十分あり得ることで、崇徳との関係を持った忠光が光隆と結ぶこともおかしいことではない。近年の研究では崇徳と鳥羽の対立は保元の乱の直前に生まれたとされ、それ以前の両者の関係はいわれてきたほど悪くはなかったという。最初の出雲大社領の立券は崇徳-藤原光隆-内蔵忠光のラインで行われたのであろう。その一方で、内蔵氏は忠光の子が資忠であったように、崇徳の側近日野資憲(鳥羽院庁下文にも署判)との関係を持っていた。この崇徳に飯石荘外を寄進した法成寺執行隆尊の子増仁の弟行光の母は待賢門院乳母であり、姉妹の讃岐宣旨は藤原忠通の乳母でその子朝隆・親隆は後白河並びに美福門院と深い関係を有していた。また日野資憲の母は一一世紀末の出雲国司藤原重仲の女子であった。
 崇徳・光隆ラインで立券された出雲大社領は、保元の乱で崇徳が没落したのに続いて、平治の乱では光隆が藤原信頼に連座して、治部卿と越中守の地位を失っている。国造兼忠が上洛して内蔵忠光を排除したのはこの時点ではないか。崇徳が没落したといっても、光隆は後白河や美福門院との関係を有していた。その光隆が一時的にとはいえ、没落したのである。
 最後に隠岐国の所領を押領したと批判された藤原重頼であるが、その母は藤原清隆女子で、光隆の姉妹であった。妻二条院讃岐は源頼政の女子であるが、頼政の嫡子仲綱も仁安二年(一一六七)一二月には中原宗家と入れ替わる形で伊豆守から隠岐守に遷任されている。そして安元二年(一一七六)正月に隠岐守に補任されたのが重頼の従兄弟の惟頼であった。

2014年12月14日 (日)

中世後期の出雲大社領(5)

 出雲大社領については、建武政権下で一宮の本所号の停止がなされた。これに先立つ元亨3年に年に出雲大社領は永嘉門院領となり、本所一円知行が認められ、領家の権利は否定された。本所号の停止より本家や領家と対立していた国造の立場は強化された。とはいえ、建武政権の崩壊により、建武3年には国造と領家の間で裁判が行われている。その後は南北朝の動乱に入る中で、領家の支配は困難となったであろう。こうした中、貞和2年8月には本所雑掌と千家孝宗が出雲大社領一二郷内で合戦に及んだという。この本所とは本家(当時は後述の康仁親王=木寺宮家か)であろう。この時期にも荘園領主と社家=国造との間で、支配権をめぐる争いがあったが、その後は本家の後継者難もあって、後述のように、山科家がその権益を獲得する。貞和七年には足利直冬の関係者である左近大夫将監義継が、一二郷内四ヶ所として千家村・北島村・稲岡郷・伊志見郷を寄進しているが、これは本所分であったと思われ、半済令が出る前にその既成事実化が見られたのである。ただし、足利直冬の没落により、この寄進の実効性は限られたものとなった。
 文書としては問題があるが、至徳元年八月一〇日後円融院院宣(出雲大社文書)では、一二郷について混乱の社家を退け、一円本所柳原宮家雑掌に付けることが命じられており、明徳元年と二年にも関連した文書が残されている。後の応永年間の訴訟の際に提出されたものであろう。
 本所永嘉門院は元徳元年(一三二九)に死亡し、その後継者であった後二条天皇の子邦良親王はそれに先立つ正中元年に死亡しており、幼少である康仁親王とその弟で柳原宮家の初代となる邦世親王が残されているのみであった。康仁は光厳天皇の皇太子となったが建武の新政下で後醍醐により廃太子とされた。このため、南北朝の動乱では康仁は北朝側の立場をとり、木寺宮家として存続していく。康仁が文和四年(一三五五)に死亡した後は、子・孫ともに早世し親王宣下も受けていない。
 こうした状況下で幕府の応安の半済令が出され、本所の権益は半分に削られ、残り半分は守護と幕府の支配するところとなったと思われる。この間の事情については前に述べた。そして本所の権益も本家側が後継者も不明確な時期に、幕府との関係を強めた山科家が領家の権益を継承したと称してその支配を認められた。これに対して康仁の死後、その弟邦良親王の子孫である柳原家が権益の後継を主張したが認められなかった。一方、柳原宮家は鎌倉末期には昭慶門院領であった来海荘の一部の権益を認められ存続していた。明応五年九月一五日弘長寺文書目録に「至徳二年三月二七日土御門之御奉行在判」とあることから、事実であると考えられる。柳原宮は、鎌倉幕府将軍宗尊親王の遺児永嘉門院(土御門姫君)を経て土御門万里小路殿を相伝していたことにより、土御門宮とも称した。
 以上、中世後期の出雲大社領について、過去に述べた点を補強した。そのきっかけは、赤坂恒明「柳原宮考―大覚寺統の土御門宮家―」(日本史史料研究会報「無為 無為」第二七号、二〇一四)という論考に触れたことであった。

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