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2014年11月

2014年11月 3日 (月)

東福寺領法吉荘

 松江市北部の旧島根郡内には、九条家が支配権を持つ東福寺領末次保と法吉荘があった。末次保については、現在の松江城南側の末次や西側の黒田・中原の地域に相当することが史料的に確認できるが、問題は法吉荘である。文永8年の出雲大社三月会結番帳には、法吉郷(13町7段120歩)・法吉社(23町)・比津村(11町6段60歩)と春日末社(13町)がみえる。このうち、比津村は建長元年には公領である「法吉比津村」とみえる。
 鎌倉初期には勝部宿祢一族の勝部孝光が出雲国衙の庁事であるとともに、法吉郷司であった。「大伴氏系図」には孝光の子として「平田庁事」明広・「法吉太郎」盛孝・「法吉七郎兵衛」光元・(肩書無し)政孝を記すが、明広のみ父の一字をその名に含んでいない。明広は孝光の兄明元女子と結婚してその養子に入った可能性が高い。 
 明元は万田庁事で、その子は「多久太郎」明政・「万田七郎」元光・「八郎入道」元弘と、平田保のある楯縫郡内がその拠点であった。現在でこそ旧楯縫郡の中心は平田であるが、戦国期以前の楯縫郡の中心は「多久郷」と鎌倉期には神門郡を本拠とする朝山氏が支配した楯縫東郷・西郷並びに、出雲大社神主の地位を国造と争った内蔵氏が支配した郡内最大の面積を有する国富郷であった。一ノ谷合戦には楯縫郡からは多久七郎が平家方として参加している。
 話を法吉周辺の4つの所領に戻すと、法吉郷・法吉社・比津村・春日末社がそれぞれ近世の東奥谷村・法吉村・比津村・春日村に発展していくと思われる。春日神社から勧請された神社(末社)は春日村田原谷にあったが、戦国期の戦火と松江城築城により、奥谷村(中世は末次郷内)に移されて現在に至っている。中世の東福寺領法吉荘は荘内御内村惣領地頭として「惣領地頭如願」と一分地頭「尼浄阿・覚春・幸成」と「奈子五郎宗重」などがみえ、文永8年に「奈胡四郎太郎」が地頭であった春日末社の別名であると考えられる。法吉荘は末次保と境を接しており、そのため、13世紀後半には同一人物=教泉が預所を務めている。

 

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