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2014年10月

2014年10月25日 (土)

国造宗孝と在庁官人孝盛

 国造家の歴史の中で、宗孝が転換点となることはすでに述べた通りである。ところが、すでに①建久2年と②5年の在庁官人解の段階で、宗孝に関する情報には矛盾がみられるのである。すなわち、①では国造兼忠を宗孝の子孝房の伯父とする。ところが②では父宗孝を兼忠の嫡子としている。これをなんとか解釈すると、宗孝は兼忠の年の離れた姉妹と結婚し、兼忠の養子として後継者となったぐらいしか思いつかない。ただし、兼忠の弟が兼成、子が顕兼と、いずれも「兼」を付けるのに対して、宗孝は「孝」を付け、これがその後の国造のアイデンティティを示すものとなっていく。12世紀前半の仮殿と正殿の遷宮に関わった在庁官人と国造家の関係者をみても、「孝」を付けるのは、在庁官人筆頭の(勝部)孝盛のみである。孝盛と宗孝との間には何らかの関係が想定できる。
 ②では兼忠が死亡した際に宗孝が嫡子として国造と神主を継承したが、後に国造のみを自らの私議により一族の兼経に譲ったとする。兼経は兼忠の父兼宗の前の国造であった兄宗房の孫にあたる人物であると推定される。本来は宗房が頼兼の嫡子として国造となったが、わずか一年で死亡し、その子兼家が幼少であったため、宗房の弟兼宗が国造となった。当然、兼家が成長した段階で、国造の地位を得たはずであるが、実際には兼宗の子兼忠が相続し、ようやく兼家の子兼経の代に国造に就任した。ところが兼経もまた若死にし、その子石王冠者が幼少であったため、そこで初めて宗孝が国造となり、次いで宗孝の嫡子孝房が継承したと考えられる。 そのため石王冠者側は成人した段階で国造となることを望み、孝房との裁判となったのであろう。
 出雲大社領の中の出西郷は建武3年段階の国造孝時の先祖が開発したものとされ、建久5年の孝房譲状(後に作成されたもので、その利用には配慮が必要 )には宗孝が国造の時に神領に申し寄せたとする。出西郷は国司が寄進した所領とは区別される別相伝の地に含まれている。
 以上、宗孝について述べてきたが、宗孝の父(氏名不詳)は国造ではなく、宗孝は国造兼経の死に際し、兼忠との関係や在庁官人筆頭である孝盛との関係を背景に、新たに国造となったのではないか。宗孝の経済力の背景となったのが出西郷であった。安元2年の国司庁宣でも②に準じた内容が述べられているが、これも後に⑤とともに作成されたものである。

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