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2014年9月

2014年9月28日 (日)

ウィンドウズアップデート

 このところパソコンに不具合(デスクトップ1台とノート1台)が続いたが、今になってようやくその原因が判明した。ウィンドウズ7~8.1用の更新プログラム「KB2993651」(8月27日)をインストールすると、PCによっては起動しなくなるのである。当初はセーフモードでは起動できたが、修復などしている間に、それもダメとなる。ネットで検索して、それが原因らしいとのサイトを見てはいたが、その他の要因も指摘されており、その対応として修復しようとしたが、結果としてはまずかった。
 毎日使用しているパソコンはまだよいが、久しぶりに起動して自動更新になっていると、大量のダウンロードが始まり、パソコンの動きも緩慢となるが、なによりいちいちファイルを確認できない。前にも、サービスパックを導入したのはよかったが、その前にインターネットエクスプローラーを最新版にアップグレードしていると不具合が発生し、3台もOSから再インストールするはめになったことがあった。結果としては、IEの最新版をもとのバージョンに戻してからサービスパックをインストールすればよかったのだが、そんなことは、マイクロソフトが示さない限り誰にも分らなかったことで、中途半端に知識のある人が、パソコンの再インストールを余儀なくされた。そうなるといつも面倒なのが認証である。今回は、2台のうち1台は1年前のHDDがありそれを丸ごとコピーしたうえで、8から8.1へアップグレードし、もう一台はかろうじてセーフモードでアドビのソフトの認証を解除できたのでよかったが、マイクロソフトはウィンドウズ、オフィスともそうはいかず、ウィンドウズ8では電話認証となった。オフィスもそうせざるをえないか。
 いずれにせよ、ウィンドウズ7以降のパソコンは、すべて自動更新の設定を、確認してからのダウンロードに変更した。問題の「KB2993651」は削除した上で、再度インストールしないように、「非表示」とした。こんなことができることも今回知った。この原稿は、再インストールしたノートパソコンで入力しているが、ATOKとタッチパッドドライバーを再インストールしていないので、極めて入力しにくかった。

2014年9月10日 (水)

佐陀庄の庄園領主3

 以前、二人の円雅について論じたが、その補足をする。円雅はともに美福門院の従兄弟藤原家成との関係を有している。花山院兼雅の父忠雅は幼少時に父忠宗が死亡したため、母方の叔父家成の家で養子として育てられ、家成女子との間に兼雅をなしたのである。これに対して、保立氏が注目された雅頼が家成女子との間になしたのが兼忠であった。雅頼の本家筋にあたる久我雅通もまた家成女子と結婚する一方で、美福門院女房との間に土御門通親をなし、通親は、花山院忠雅女子をその室としている。
 保立氏の説のうち、手鑑『湖山集』中の1通の書状の差出人円雅が雅頼の兄雅綱の孫の円雅である点は、雅頼と頼朝の家人となった中原親能との関係からして妥当であるが、安楽寿院領出雲国佐陀荘と大和国宇多荘の領家円雅が雅綱の孫かどうかは、なお検討の余地がある。雅頼の祖父源顕房の兄弟俊房の女子が藤原長実との間になしたのが美福門院であった。このように、二人の円雅は、美福門院の父方と母方の関係者であった。現在のとことは、円雅の祖父で家成の養子となった花山院忠雅が佐陀荘の領家となり、それが兼雅、円雅と継承されたと考えたい。
 佐陀社とともに安楽寿院領となった橘木社は上総国二宮でもあるが、保延六年(一一四〇)に信西が安楽寿院に寄進し、翌年に鳥羽院庁下文が出され、続いて四至堺を定めて示を打つはずであったが、上総国在庁が相論を申し立てたことにより坤角(南西)の示が打てず、巽角(南東)も隣接する藻原荘から相論が出され、牓示を打てなかった。院に寄進すれば問題解決というわけには行かなかったのである。信西は後白河の母である待賢門院に仕え、さらには鳥羽院の判官代となっていた。そして妻が後白河の乳母であった関係で、後白河の側近となったが、橘社を鳥羽院に寄進した段階では後のような権力を有していなかったため、国衙や他荘の干渉を防げなかったのであろう。橘社は鳥羽院の死後は美福門院領となり、信西の娘二位局(後の尼蓮西)を預所に補任したことを社司に伝える永暦元年二月一三日美福門院庁下文が出されている。そこに別当としてみえるのが四条親隆である。またその兄朝隆も美福門院令旨の奏者としてみえる。両者は顕頼の父顕隆とともに藤原為房の子であるが、顕隆やその兄為隆が摂津源氏源頼国(頼光の子)女子を母としたのに対して、二人の母は法成寺執行隆尊女子であった。この女性は「讃岐宣旨」と呼ばれ、藤原忠通の乳母となっていた。また、隆尊の子のうち法成寺執行となった増仁は、出雲国飯石社やを崇徳天皇の御願寺成勝寺に寄進し、もう一人の子行光は母が待賢門院の乳母であった旨が記されている。なお、隆尊の祖父は紫式部の夫として知られる藤原宣孝である。

2014年9月 7日 (日)

薗山荘の成立

 出雲国神門郡内の薗山荘は吉田家の所領であることと、承久の乱の宇治川の合戦で神西荘司太郎が討たれ、その跡に東国御家人が新恩地頭として入部したことが知られる。文永8年の地頭は、本荘が信濃国御家人海瀬又太郎、新荘が相模国御家人古荘四郎左衛門入道子であった。一般的に本荘と新荘では本荘の面積が少ない例が多いが、薗山荘は本荘50町に対して、新荘は83町7反と大きい。この面積は荘園が不入権を得た平安末期の数字だと思われ、この時期に薗山、とりわけ新荘がある西部では開発が進展していたことをうかがわせる。
 新荘地頭として入部したのは国通の父高道(孝通)であった。貞応2年11月には幕府から守護所使の新荘への入部を停止する関東下知状が出されている。一方、各所領に新たに東国御家人が入部したため、所領の堺をめぐり紛争も生じたのであろう。貞応2年には新荘地頭孝通が隣接する本荘地頭と成楽寺地頭が堺を越えて乱妨を働くことを守護所に訴えている。これに対して幕府は、絵図を注進し、在庁・古老・荘官の起請文を提出させて報告せよと命じている。そして、守護所より尋問したところ、本・新荘「前地頭」(これは今回の下知状が出された時点からみての「前」であり、承久の乱以前ではなかろう。)と新荘古老が起請文を提出し、本荘には海山が無いことが確認され、問題の解決が図られた。ところが、開発の進展(とくに新荘)もあって堺相論が再燃したことを受けて、新荘地頭国通が、元仁二年(嘉禄元年)に本荘地頭子息実政・経政と新荘百姓が提出した起請文を添えて再度幕府に訴え、延応元年8月に幕府が関東下知状を出している。
 この薗山荘の荘園領主が吉田氏であることはわかるが、その立場が領家であったのか、本家であったのかは確定できない。治承元年(一一八二)七月二〇日に、吉田経房が薗山荘に前馬允以親以下10人の使者を海路瀬戸内海を経由して派遣している。「以親」は現地に派遣され荘園の経営にあたる御使であろう。
 次いで、文治2年7月18日の『吾妻鏡』の記事となるが、薗山荘前司師兼が任憲大徳を通じて下司職を望んだのに対して源頼朝は、吉田経房に宛てて本の職に還補すべきことを述べた手紙を師兼に与えている。ただし、任憲が訪ねて頼朝がその存在を知ったのは文治四年一一月九日の事であり、どちらかの記事の年次が誤っている可能性が大きい。任憲は頼朝の母の舎弟祐範の子である。祐範は伊豆国に配流された頼朝に援助をしていた。
 頼朝の母は熱田大宮司藤原季範の娘で、その一族の女性は待賢門院やその子上西門院(統子内親王)に仕えていた。その関係でか、頼朝は統子内親王が保元三年(一一五六)に異母弟後白河天皇の准母として立后された際には皇后宮権少進となり、翌年の院号宣下の際には上西門院蔵人に補任されている。その際に、吉田経房は皇后宮権大進、上西門院判官代であり、このことが、挙兵後の頼朝との密接な関係につながったとされる。
 経房が薗山荘の支配権を得たもの、この上西門院との関係からであったと思われる。出雲国では島根郡長海荘が承久の乱後に作成された宣陽門院目録の中に「新御領」として上西門院から進められた所領としてみえている。宣陽門院は父後白河から長講堂領など多数の荘園を譲られているが、その中に上西門院も含まれていた。長講堂領はその後後深草天皇に譲与されたが、上西門院領は宣陽門院の養女となっていた鷹司院長子に譲られ、その後、後深草天皇の子伏見天皇に譲られた。
 上西門院は後鳥羽院と待賢門院の間に生まれているが、その所領の中心は母待賢門院領を相続したものであった。待賢門院は閑院流藤原氏の公実の子であるが、7歳で父を失い、白河法皇と祇園女御に育てられた。元永元年(1117)には鳥羽天皇に入内し、翌年には立后され、保安4年(1123)に子である顕仁が崇徳天皇として即位すると、翌年には院号を宣下され待賢門院と号した。そして大治3年(1128)にはその御願寺として円勝寺が建立されている。次いで同5年には法金剛院を再興し、晩年はここで過ごした。待賢門院領はこの前後の時期を通じて集積されたものであろう。その所領は後白河天皇より1歳年長の姉上西門院が譲られたのである。同じく「新御領」としてみえる筑前国怡土荘は法金剛院領最大の1450町の荘園で、法金剛院再興の時期に成立したとされている。
 出雲国における上西門院と関係の深い長海荘と薗山(神西)荘も12世紀半ばまでには立荘された可能性が大きい。その意味では、出雲国における王家領としては早い時期に成立したものとなる。

ラグビーW杯まで1年

 南半球4カ国による「ザ・ラグビーチャンピオンシップ」は各チームがホームとアウェイで6試合を戦うが、前半の3試合が終わった。オールブラックがワラビーズとのアウェイの初戦を引き分けたが、続くホームでのワラビーズとプーマスの試合には完勝して首位。2戦終了時は首位であったスプリングボクスが、アウェイのワラビーズ戦を最後に1点差で逆転され2勝1敗。ワラビーズが1勝1分1敗、プーマスは善戦しているが3敗である。残る試合はいずれも接戦が予想されるが、最終順位は変わらない可能性が高い。オールブラックスがスプリングボクスの2連敗する可能性と、ワラビーズがプーマスに2連敗する可能性は低いのではないか。ただし、スクラムの優劣があるので、後者の方が番狂わせの可能性は高い。プーマスは、さすがにサッカー大国アルゼンチンだけあって、キックはうまい。スクラムも強いでの、あとは経験を積めば、チャンピオンシップでの勝利も可能か。
 オールブラックスはW杯以降、世界ランキング1位を維持し、テストマッチの成績は47勝1敗3分であるが、メンバーの高齢化という課題があるように思われる。前回(2007)、前々回(2011)はヘンリーヘッドコーチ、今回(2015)はアシスタントコーチから昇格したハンセンヘッドコーチということもあって、メンバー交代が少ないのである。2003年の敗北を受けて、他国のナショナルチームのヘッドコーチを務めたものはオールブラックスのヘッドコーチにはなれないという規定を改めて、2004年からヘンリー体制がスタートしてから、大きな変化がないのである。マコー(34)とカーター(32)も本来は2007年の大会で優勝して代表を退くはずが、優勝できなかったがため、現役を続行して今に至っている。現在は負傷で代表から外れているプロップのウッドコック(33)と万能CTBスミス(33)もである。フッカーのメアラム(35)も先発こそ少なくなったが、なお代表で試合に出場しているし、2011年の優勝を機に代表を引退したカイノ(31)も代表に復帰するとすぐに先発(現在は怪我治療中)。ノヌー(32)もカイノ同様に日本に来たが、代表に復帰し、レギュラーを確保している。その分、該当するポストの後継者が育たない面がある。2011年大会でカーターが負傷し、期待されたスレイド(27)もまた負傷したため、クルーデン(25)がその穴を埋めた。当然、クルーデンがと思いきや、なお、カーターがレギュラーにとどまっている。
 第1回W杯に優勝したチームの場合は、その後のヘッドコーチ指名で波乱があり、最強のオークランドを率いるハートが落選し、No2のカンタベリーを率いるワイリーが就任したため、カーワンなどオークランドの選手との関係がしっくりせず、ワイリーも思い切った新メンバーの抜擢ができないまま第2回大会を迎え、準決勝でワラビーズに敗退した。その轍を踏まないためには、指導体制の一新しかなかったと思うが、現在に至っている。主力メンバーが1歳年をとって迎える大会はどうであろうか。また、指導者もそだっているのであろうか。スーパーラグビーで2012年・13年と連覇したチーフスにしてもヘッドコーチ・レイニー以上に、2000年・2001年のオールブラックスヘッドコーチで(カンタベリーを率い、最高の指導者とされたが、オールブラックスでは結果が出ないとして更迭)、ヘンリーのもとでハンセンとともにアシスタントコーチであったウェイン・スミス(現チーフスのアシスタントコーチ)の力を評価する声が大きい。

テニスとサーフェイス

 半年ぶりの更新となるが、テニスという競技は、芝・ハード・クレイという3つのサーフェイスで選手の力が変わってくるスポーツである(遊びを含めてテニスをやったことはない。グランドスラムを時に見る程度である)。その中で最多の17勝のフェデラーが史上最も優れたプレイヤーであることはいうまでもない。全仏の優勝が1回しかないのは、フェデラーが全英でグランドスラム初優勝をしたのが2003年、全仏を除く3大会を制したのが2004年で、残るは全仏のみとなった2005年に彗星の如く現れたナダルの存在が大きい。フェデラーは25歳でグランドスラム初制覇と決して早熟の天才ではなかった。ちなみに現在の錦織は24歳である。
 全仏は2005年は準決勝で、2006年から2008年はいずれも決勝でナダルに敗退している。2009年は足の故障からナダルが4回戦で敗退しため、唯一の優勝となっている。2010年は準々決勝でセーデリングに敗れ、連続準決勝以上進出が23回でとぎれた。2010年からは新たにジョコビッチが台頭して全仏を除く3大会で優勝した。2011年はそのジョコビッチを準決勝で下すが、決勝でナダルに敗れ、2012年は、準決勝でジョコビッチに敗退。2013年は地元フランスのツォンガに準々決勝で、2014年は4回戦ガルビスにフルセットの末敗退。全仏では5回決勝で敗れているが、仮にナダルの存在がなければ、2005~2009に五連覇したのではないか。
 文章を書きながら、4大大会初制覇が25歳と知り、驚いたのが正直なところだった。現役選手ではナダルが14勝でサンプラスと並んで2位タイ(うち9勝が全仏、サンプラスは全仏のみ未勝利)で、これにつぐのは7勝のジョコビッチ(全英2・全米1・全豪4)となる。
 現在はデータベースが充実しているので、錦織の決勝の相手チリッチの情報も参照できる。ニュースでは錦織の5勝2敗のみ報道しているが、問題は他の強豪との対戦を含めた成績である。チリッチも今大会ブレークしていることは間違いない。今季の対戦は2回あり、錦織が優勝したバルセロナは、クレイコートで、ストレートでの勝利であった。1月には全豪の前哨戦であるブリスベンで2対1で勝利している。チリッチが芝とハードのどちらが得意かは微妙だが、全英ではフルセットで、全仏では3回戦でいずれもジョコビッチに敗れている。ワウリンカにも2度敗退しているが、クレイがストレートであったのに対してハードでは1セット取っている。コーチがイワニセビッチであることを含めて、チリッチがビックサーバーであることは確かであるが、錦織ほどではないが、リターンも良いようだ。
 現時点の両者を比較すると、芝ではチリッチやや優勢、クレイでは錦織がかなり優勢、ハードでは錦織がやや優勢というところであろうか。あとは、当日のファーストサーブの成功率を含めた調子によるであろう。あと、ジョコビッチのサーブは200キロに届かないことが多い割にエースが多い。ただし、セカンドはそれほどでもなく、錦織も狙ってポイントを獲得していた。一方、錦織のセカンドサーブはスピードの割にはポイントを取っている。ただし、ジョコビッチが狙った時にはそれほど有効ではなかった。

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