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2014年3月28日 (金)

袴田事件の再審決定

 再審決定は、人権保障を定めた憲法の趣旨が活かされた喜ばしいことであるが、一方で、これまでの再審決定と同様、やりきれないものを感じる。えん罪で再審が決定されるのは氷山の一角であり、検察官・裁判官の問題を感じざるをえない。事実が明らかになればなるほど、再審決定の事例は、どこからみても無罪にしかならない事例なのであろう。検察側から開示された資料にはそれを物語るものがいくつもあったが、それが隠されたまま裁判が行われた。無罪の心証を持った裁判官がいたのも当然であったのに、彼に有罪判決を下させた同僚の裁判官は役割を放棄しているといわざるを得ない。この国の公人には、個人よりも全体を重視してしまう体質がしみこんでおり、その実例は現在も枚挙にいとまがないが、まさにそれが無責任体質であり、その背景には思考停止による真理の軽視がある。
  以前裁判所で裁判員裁判の模擬裁判を体験した際に感じた違和感を思い出させられた。被疑者に対する証言の信憑性について、裁判官は証言者がその他について発言している内容が信憑性が高ければ、被疑者に関する証言にも信憑性が高いという判断であった。当方の認識としては、それは必要十分条件としての要件を欠いていると思った。利害が関係しない問題と利害のある問題の発言では信憑性には違いが出てくる。その発言そのものを裏付けるものがなければ、信憑性が高いとは言えないと思う。それが「疑わしきは被告人の利益に」という言葉の意味であろう。
 裁判官と弁護士の立場の違いは少しあろうが、大半は人権を擁護する意味で共通である。何より真理に接近するという点では同じである、真理を明確にできない場合を含めて。それは検察官も同様であろう。それが、弁護士と一緒に模擬裁判をした際(こちらについては体験した人の話を聞いたのみ)と裁判官と一緒に模擬裁判をした際の印象があまりに違うというのは理解できない。個人と真理を重視する体質がしみこんでいる欧米との最大の違いがある。そしてこのことが、欧米では有り難い「思い込みで物事を進める指導者」を生む背景なのであろう。

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