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2014年3月

2014年3月29日 (土)

鎌倉前期の出雲国司4

  源義清
 『明月記』嘉禄元年正月28日条に、前日に出雲国守護源義清が出雲守に補任されたことが記されている。次いで『明月記』安貞元年3月10日条には隠岐国守護佐々木義清が隠岐守に補任されたことが記されている。守護義清の国司補任は出雲・隠岐両国衙を守護の関与で再建するという意図があったのであろう。
  平有時
 民経記断簡安貞元年(一二二七)10日4日条に、左中弁に補任された平有親が出雲国の知行国主に、平有時が出雲守になったことが記されている。明証は欠くが有時は有親の子などの縁者であろう。有親は寛喜元年10月段階でも知行国主であることを確認できる。天福元年6月17日には出雲国知行国主として新宰相(有親)がみえる(民経記)。
 平時継  承応元(1222)~永仁二(1294)年7月10日
 父は参議平有親。二位尼時子・権大納言時忠らを出した家の出身である。蔵人・弁官を経て建長七(1255)年に参議。以後なんと十五年間参議を務めて文永六(1269)年に権中納言。『官職秘抄』に「中納言 有五道、(四道省略)参議労十五年以上輩也」とある規定通りに昇進したのだろうか。同年のうちに官を辞す。不遇であった後深草上皇に仕え、第一の側近となった。弘安十(1287)年に後深草院政が始まると重く用いられ、院執権、伝奏、評定衆となった。正応二(1289)年には権大納言に進み、翌年辞退して出家した。 
藤原時通(左中将、正四下、母俊成卿女)
 寛喜3年5月13日(秀仁親王御百日儀に出雲・時通、民経記)と9月8日にその地位にあったことがわかる。六角の地に住んだ藤原家通の子。家通は忠基の子であったが、重通の養子となる。家通は承安2年正月には出雲権守となり、同10月には稲荷・祇園行幸行事の賞として正三位に進んでいる。文治3年、権中納言兼左衛門督を退き、11月1日死去したが、その時点で子の時通を少将に補任することを述べたが、幼少であるとして、次回の除目で任ずべしとされた。

鎌倉前期の出雲国司3

  源敦賢
 院の近臣源有雅の子で、建仁3年正月に出雲守となる。知行国主は父有雅。建暦元年の出雲守源某も敦賢の可能性が高い。父有雅は建保3年6月に出雲国知行国主であることが確認できるが、建仁3年以来のことと思われる。
建暦元年6月源、建暦2年2月前出雲守藤原朝臣(経賢?)
  藤原長定
 この人物を知っている人はほとんどないだろうが、以下に述べるように、承久の乱以前の朝廷(後鳥羽)と幕府(実朝)の関係を象徴的に示す人物である。彼が『吾妻鏡』に初めて登場するのは、建保元年(1213)5月3日の和田義盛の乱に関する以下の記事である。
 「また出雲守定長折節祇候するの間、武勇の家に非ずと雖も、殊に防戦の忠を尽くす。これ刑部卿頼経朝臣の孫、左衛門佐経長が男なり。(中略5日)また出雲守長定同じく賞を蒙る。 」
長定は義盛の乱鎮圧に参加し勲功を得ている。そして彼の祖父が藤原刑部卿頼経で、父がその子経長であることが記されている。
 文治5年(1189)2月、源義経に与同したとして、出雲国知行国主藤原朝方、その子の出雲守朝経、出雲国目代兵衛尉政綱らが解任された。その中に、頼経とその子宗長の名もみえている。頼経は豊後国知行国主として九州における反平家方の中心的役割を果たした人物であり、その中で義経と結びついた。その姉妹(頼輔女子)が九条兼実との間に良平を産んでいる。そして経長の兄弟である宗長(難波氏)と弟雅経(飛鳥井氏)は関東に下向し蹴鞠を伝えて幕府に仕えている。
 このような長定が出雲守である一方で将軍実朝の家臣して活動し、恩賞を受けているのである。そしてその年に将軍が大江広元邸などを訪れた際には、「殿上人 出雲守長定」として随兵しているのである。このような事態は、長定の家と幕府の関係もあろうが、後鳥羽と実朝の緊密な関係なくしては考えられないのである。

鎌倉前期の出雲国司2

 藤原顕俊(為房流)
 建仁元年(1201)3月に出雲守。院の近臣堀河光雅の子(はじめ光成)、兄光親は承久の乱の首謀者として斬られる。妻は同族(為房流)の能頼女子。顕俊母は重方女子であった。同年12月には皇后宮権大進に転じる。後鳥羽院庁下文の署判者としてみえる。後にひ孫顕家が出雲守となる。
  藤原宗行(為房流)
  建仁元年12月に顕俊に替わって出雲守。承久の乱の首謀者として斬られる。建仁2年10月に伊予守に遷任。後鳥羽院庁下文や後鳥羽院宣の署判者としてみえる。父は院の近臣の左大弁藤原行隆、母は典薬助藤原行兼の娘で、美福門院・八条院に仕えた女房越前。初名行光。一門の権大納言葉室宗頼(葉室光親の叔父)の養子となり、宗行と改名。宗頼と宗頼の妻頼子(のち離別)はともに八条院に仕えていたので、宗行は母の縁故で宗頼に迎えられたのだろう。建保二(1214)年に参議、同六(1218)年に権中納言。中御門中納言と称した。養父宗頼は後鳥羽上皇に接近し、正治元(1199)年ごろには上皇の乳母卿二品兼子と結婚した。これに伴い宗行も重用されるようになり、一門の葉室光親(顕俊兄弟)と同じく、実務官として活躍した。上皇に『貞観政要』を講じたという著名な挿話(1)もこのころのことであろう。承久の乱にも深く関与し、乱後幕府に捕えられる。鎌倉に送られる途中駿河国で斬られた。
  藤原光実
  院の近臣範光の子。範光は後鳥羽院庁下文の署判者としてみえる。建仁2年10月29日に範光が大弐を辞して、子の光実が出雲守に補任されている。範光の従兄弟範茂は承久の乱の首謀者として自害。光実の姉妹がこれも首謀者として処刑された源有雅の妻。建仁3年正月には有雅の子敦賢が出雲守の補任されている。

鎌倉前期の出雲国司1

 藤原朝定(為房流)
 養和元年(1118)3月に出雲守に重任しているが、寿永2年(1183)閏10月に死亡している。尊卑分脈には石見守であったとも記すが確認できない。藤原朝方の子で母は宮内卿で鎮守府将軍・陸奥守藤原師綱の子。水無瀬流の藤原親信女子を妻とするが、同母弟の朝経も親信女子を妻としている。父朝方が知行国主であった。
 藤原朝経(為房流)
 兄朝定の死により出雲守となるが、寿永2年11月に源義仲のクーデターで一旦、解官された。文治元年11月には現任が確認でき、義仲の滅亡後、出雲守に復帰したと思われる。文治5年4月には義経との関係から再び解官されるが、閏4月には還任した。父朝方が知行国主であったが、建仁元年2月に出家後、死亡している。建仁元年11月23日には「前出雲守家時」がみえるので、この時点では出雲守も交替したと思われる。
 藤原清長 ふじわらの-きよなが(吉田系)
 藤原定長の子。清長室は朝方従兄弟の朝雅女。その姉妹は寛喜年間の出雲守時通の妻。父定長の兄弟に園山庄領家の吉田経房がいる。系図の記載のみで、一次史料では出雲守であったことは確認できないため、時期の特定に難がある。
 藤原家時(為房流)
 宮内大輔藤原親綱の子。親綱の姉妹が朝定の母である。また、家時の姉妹は吉田資経室で、出雲守経俊の母である。建久9年(1198)9月8日に出雲守に補任され、建仁元年3月には知行国主朝方が死亡したためか、藤原顕俊に交替している。越前守などを務め、安貞2年には正三位となる。

2014年3月28日 (金)

袴田事件の再審決定

 再審決定は、人権保障を定めた憲法の趣旨が活かされた喜ばしいことであるが、一方で、これまでの再審決定と同様、やりきれないものを感じる。えん罪で再審が決定されるのは氷山の一角であり、検察官・裁判官の問題を感じざるをえない。事実が明らかになればなるほど、再審決定の事例は、どこからみても無罪にしかならない事例なのであろう。検察側から開示された資料にはそれを物語るものがいくつもあったが、それが隠されたまま裁判が行われた。無罪の心証を持った裁判官がいたのも当然であったのに、彼に有罪判決を下させた同僚の裁判官は役割を放棄しているといわざるを得ない。この国の公人には、個人よりも全体を重視してしまう体質がしみこんでおり、その実例は現在も枚挙にいとまがないが、まさにそれが無責任体質であり、その背景には思考停止による真理の軽視がある。
  以前裁判所で裁判員裁判の模擬裁判を体験した際に感じた違和感を思い出させられた。被疑者に対する証言の信憑性について、裁判官は証言者がその他について発言している内容が信憑性が高ければ、被疑者に関する証言にも信憑性が高いという判断であった。当方の認識としては、それは必要十分条件としての要件を欠いていると思った。利害が関係しない問題と利害のある問題の発言では信憑性には違いが出てくる。その発言そのものを裏付けるものがなければ、信憑性が高いとは言えないと思う。それが「疑わしきは被告人の利益に」という言葉の意味であろう。
 裁判官と弁護士の立場の違いは少しあろうが、大半は人権を擁護する意味で共通である。何より真理に接近するという点では同じである、真理を明確にできない場合を含めて。それは検察官も同様であろう。それが、弁護士と一緒に模擬裁判をした際(こちらについては体験した人の話を聞いたのみ)と裁判官と一緒に模擬裁判をした際の印象があまりに違うというのは理解できない。個人と真理を重視する体質がしみこんでいる欧米との最大の違いがある。そしてこのことが、欧米では有り難い「思い込みで物事を進める指導者」を生む背景なのであろう。

承元年間の出雲国3

 これに関連するのが、承元4年に比定できる源実朝書状であり、国造孝綱側が幕府に働きかけたのに対し、孝元も幕府を背景に立場にとどまろうとしたことに関するものであろう。ところがこの孝元の例を引いて、新たに神主となった政孝が、権検校職そのものを否定しようとしたのに対して、領家が政孝の濫妨の停止を命じたのである。嘉禄2年7月には、領家が、政孝の請文をうけて政孝を神主職に補任するとともに、これも競望の輩はあったが、真高を頼孝以後の文書を帯しているとして、権検校職に補任している。
 真高は寛喜元年にも権検校職に補任されているが、天福3年には神主として史料に登場している。すなわち、神主真高が刃傷狼藉に及んだとの守護佐々木政義の注進をうけて、幕府が真高の召し進めを命じ、最終的には真高は神主職を解任され、内蔵孝元が神主職に補任されたのである。補任者は領家であるが、幕府の要請をうけてのものであったことは確実である。そして、これに国造側が反発したことも予想できる。孝元自身も承久の乱の直前は地頭としての立場を所持していた可能性があるが、乱後は失っており、その経済力は低下していたはずである。
 話が横道にそれたが、承元年間の後鳥羽を頂点とする朝廷と、将軍実朝が主導する幕府との関係が問題となる。国御家人が幕府からの働きかけをうけて地頭職に補任されているが、これも朝廷と幕府の融和抜きにはありえないことである。史料で確認できるのは国造孝綱の大庭・田尻保への地頭職補任と内蔵孝元の地頭職や権検校職への補任であるが、それにとどまらなかったであろう。その一方では院分国であった出雲国で院の使者が派遣され、公領の検注が行われたのである。そして朝廷と幕府の融和を背景とする内蔵孝元への地頭職や権検校職への補任は、孝元による年貢・役の抑留・未進により、崩れたのである。その背景には、分配の問題があった。融和の実現には困難があった。

2014年3月27日 (木)

承元年間の出雲国2

 そうした中で、貞応3年6月11日には、権検校真高の訴えをうけて、出雲大社領の領家藤原雅隆が国司側にも申し入れることを神主に伝えている。次いで嘉禄元年4月21日には、神主職に対する国造政孝の訴えをうけて、政孝をこれに補任する本家承明門院の令旨が出されている。これに対して翌5月には領家家隆が出雲真高を元の如く権検校職に補任している。その際に、神主と権検校は独立した職であることを強調し、7月19日には、権検校孝元の例に基づき、真高を補任すべきではないとする神主政孝の訴えに対し、領家が政孝の濫妨を停止することを預所に命じている。
 ここからわかることは、国造政孝が神主になるとともに、権検校真高を圧迫したのに対して、領家がその停止を求めていることである。政孝は本家にも訴え、一旦は真高の排除に成功したかのようであったが、補任権を持つ領家が真高の訴えをうけて、権検校職への復帰を認めるとともに、神主政孝による濫妨停止を命じている。
 政孝が問題とした孝元の例とは、承元2年11月1日に、幕府の要請をうけて領家雅孝が内蔵孝元を権検校以下の職に補任したことをさす。孝元の父資忠が頼朝の時代に大功があったことによるものであり、その一方で孝元は国内数カ所の地頭職を拝領している。謀反人跡への地頭職補任ではなく、孝元が支配権を持つ所領について、幕府が朝廷などに働きかけて、その地位を地頭とすることに成功したのであろう。その一つが鰐淵寺領とされた国富郷であった。ところが、建保4年には過去2年分の年貢を抑留し、預所所従を追補・殺害したとして、地頭職は孝元から同族の内蔵孝幸に交替させている。
 出雲大社権検校についても、承元4年までに孝元が御神供の多くを欠如させたとの神主孝綱の訴えをうけた国司が庁宣により孝元を解任し、幕府に対しても裁許を求める事態となった。これに対して補任権を持つ領家雅隆は、先例に基づき行うべきだとして、孝元の解任は認めたが、その一方で領家の補任権を侵害した神主孝綱も解任し、その後任に在庁官人中原頼辰と国造女子との間に生まれた中原孝高を神主職とした。これに対して孝元は幕府を背景に抵抗したが、最終的には領家が神主孝高と権検校出雲頼孝に命じて孝元の追放に成功した。真高は頼孝の跡をうけて権検校に補任されたのである。

承元年間の出雲国1

 正元2年2月日出雲国司庁宣(千家文書)では、大草郷内の惣社仁王講の経田について、顛倒すべしとした方針に対して、往古経田であるとの意見が出され、「承元院使検注文書」と勘合したところ相違なしとして、課税を免除するよう命じている。顛倒すべしとした方針と、従来通り課税を免除すべしとの意見の対立は何を背景にしたものであろうか。また、先例となった「承元院使検注文書」とはどのようなものであったろうか。
 それを明確にしてくれるのが、文永元年10月8日出雲国司庁宣である。ここでは、惣社仁王講経田に加えて、神魂社大般若経田についてもやはり「承元院使検注文書」と照合して再確認されている。ここで明かとなるのは、経田の再確認を求めたのが国造義孝であり、これを妨げようとした(=顛倒)のが留守所であったことである。建長年間に国造義孝は、惣社・伊弉諾社(真名井社)・伊弉冉社(神魂社)の料田について、それまでの本主に問題ありとして、これを在庁等の訴訟を背景に府中から追い出し、自らの支配下に置いた。この時点では義孝と在庁の利害は対立していない。承久の乱により、東国御家人が大量に入部したことは、関係神社の料田を維持していくことを困難とし、その結果、建長元年に、幕府から大庭・田尻保地頭職に補任された義孝に期待が集まったのである。
 この幕府による補任は「承元2年9月6日孝綱給御下文」と義孝による当知行を根拠とするのであった。ここでは「承元年間」が根拠とされているのである。また、孝綱以降、国造職は弟政孝の系統に移り、政孝の嫡子が義孝であった。承久2年には、出雲大社造営について、建久元年の遷宮から31年経過したこともあり、在庁と社頭での訴訟が相次ぎ、国衙に対して先例を確認されたことを受けて、大社側が報告をしている。これにより造営・遷宮への動きがスタートせんとしたところへ承久の乱が起こり、知行国主が後鳥羽上皇の側近源有雅(あるいはその上に分国主として後鳥羽がいたか)であった出雲国衙は有力在庁官人の多くが没落し、その跡の多くに東国御家人が新恩地頭として入部するという事態を招いたのである。

2014年3月19日 (水)

平浜別宮と竹矢郷

  出雲国衙に隣接する平浜別宮と竹矢郷は、鎌倉時代には水運に直結することもあり、出雲府中の所領の中で、最も重要な位置を占めたであろう。文永8年の地頭は、前者が出雲国守護佐々木泰清で、後者は得宗北条時宗である。このような体制がいつまでさかのぼるのかという問に対する無難な解答は、承久の乱による本主の没落であろうが、現在残されている史料が正しいとすると、この説が成り立つ余地は無くなる。
 平浜別宮については建永元年(1206)段階で「下司秀信」の存在が確認でき、鎌倉幕府の成立とともに地頭が設置されたわけではないことがわかる。隣国伯耆国山田別宮の場合も、下司については本所石清水八幡宮が進止権を持っており、鎌倉時代を通じて地頭の補任はなされなかったと思われる。
 一方、竹矢郷についても、正嘉2年10月15日郷司左衛門尉某下文が問題となる。すなわち、左衛門尉某が庁宣に任せて、惣検校散位を平浜八幡宮代官職に補任し、所当の収納と祭礼の勤仕を命じたことを、百姓に伝えている。惣検校散位の実名を欠くなど問題点があり、原本ではなかろう。問題点を残しながらも、これを前提とすると、郷司某は竹矢郷司の可能性が高く、この時点でなお平浜別宮・竹矢郷ともに、地頭が補任されていなかったことになる。
 建長元年6月日杵築大社遷宮注進状には前年の遷宮と神事の状況が記されているが、その中の流鏑馬15番をみると、1番在国司朝山昌綱、2番佐々木泰清あり、3番以降は出雲国内の公領が記されている。1番・2番も朝山昌綱領と佐々木泰清領(ただし荘園は除く)が負担したのであろう。3番の大東庄南北・同飯田遠所は大東庄内の個々の所領が公領として扱われ負担をしている。竹矢郷は5番に、平田保・出雲郷・馬来郷とととにみえる。竹矢郷以外は文永8年の地頭は多胡氏である。一方、竹矢郷とともに北条時宗領として見える須佐郷は15番として、多祢上郷・恒松保とともにみえる。この点もこの時点で竹矢郷が北条氏領ではなかった可能性を示唆するように思える。8番のようにすべて能義郡内、11番のように、郡は飯石・大原両郡にまたがるが、地域的まとまりを考慮したものもみられる。9番(意宇郡と大原郡)、12番(出東郡と意宇郡)、13番(島根郡と意宇郡)も同様である。
 このうち9番は「湯・拝志両郷、合佐世郷」とあるが、後には佐々木泰清の子頼清とその子孫が支配している。大伴氏系図によると、湯郷は朝山氏の一族湯氏が支配していたが、頼清を養子に迎えている。そして佐世郷の文永8年の地頭は湯左衛門四郎とあり、湯・拝志郷は大西二郎女子である。3箇所とも、本来朝山氏の湯氏が支配していた可能性が高い。同様に、宝治2年の遷宮時点ではなく、それ以前の領主が流鏑馬15番を編成する根拠となっていた=以前の伝統を継承して編成されていた可能性は高いのではないか。
 話を平浜別宮と竹矢郷に戻すと、13世紀半ば以降に、守護佐々木泰清と北条氏の所領になったのではないか。出雲国衙にとって重要な所領である点(泰清の父義清は出雲守となったこともあった)と、モンゴル襲来という状況が背景としては考えられるが、具体的史料を欠いている。

2014年3月14日 (金)

気候と歴史2

 尼子晴久(18)で以下のように述べ、尼子氏にとって天候が不利に作用したことを述べた。
 尼子氏の吉田攻めから天文13年の間は天候不順による不作の年が多かったのではないか。少なくとも、出雲国の山間部では天文12年秋が大変深刻な不作であったことは間違いない。それは隣接する備後国・安芸国北部でも同様であったろう。このことは尼子氏が軍事的行動を展開するのに大きな制約となった。なによりアウェーでの兵粮の調達は困難であった。このことは尼子氏にとってはアンラッキーであり、毛利氏にとっては体制を立て直す時間が与えられたことになる
  『厳助大僧正記』(醍醐寺理性院の厳助の明応三年から永禄六年までの日記)によると、天文8年は「閏6月、8月15日16日大洪水、当年世上不熟、虫損、平常に過ぐ」とあり、天文9年は「此年、春世上大飢饉、非人数十万人餓死、その数を知らず。又天下大疫。都鄙死去幾千万人を知らず、七百余歳以来、かくの如きの例なし、春夏秋中諸人煩う」と記されている。特に天文9年の飢饉は深刻であった。まさにこの年に尼子氏による安芸・吉田の毛利氏攻めが行われた。そして天文13年にも「7月19日大洪水、陸地舟を行るが如し。前代未聞なり」(皇年代略記)、「京中人馬数多流出(中略)凡そ前代未聞の珍事なり」(厳助大僧正記)。
 天候は東日本と西日本で異なる場合もあるが、『妙法寺記』では「此年の春は餓死する人多く、人馬とも死すること限りなし、百年の内にも御座無しと人々申し来たり候、千死一生と申し候」(天文10年)、「此秋世の中一向悪く、すべてこの三ヶ年餓死続く」(同11年)、「此年夏秋、餓死者多し、皆人干し葉にて身命を繋ぐ」(同13年)、「(7月)15日の夜大風吹き作毛悉く損ず、この間世間餓死致すこと言語に及ばず」(同17年)、「7月8月大風吹き、世間餓死すること限り無し」(同19年)、「此年春中より人の餓死すること限りなし、2月より5月まで蕨を掘る、世の中悉く悪く御座候」(同20年)という状況で、東西を問わず飢饉が頻発していたことがわかる。ついで、「7月、旱3年続き、河口湖干る」(同23年)とあり、富士五湖の一つ河口湖の水位が決定的に低下したのである。
 「3月より8月に至る旱魃」(興福寺略年代記、天文14年)以降しばらく西日本のデータは無いが、同様に悪い状況が続いていたと思われる。この状況の中、天文20年には陶晴賢による大内義隆へのクーデタが発生し、天文23年11月には尼子晴久による新宮党討滅が行われた。言い忘れたが、大内氏が出雲国尼子氏を攻めた天文11年~12年にかけても飢饉であった可能性が大きい。これに対して、毛利氏が尼子氏を攻めた時期にはそれほど飢饉に関する記録はみられない。尼子氏が降伏した永禄9年の「6月8日霜降り大飢饉、天下三分の一死す(享禄以来年代記)」という記事が目立つぐらいである。

気候と歴史1

 2014年2月15日に甲府市で114㎝の積雪が記録された。1894年の観測開始以来最多で、これまでの49㎝を大幅に上回っているという。今回は、事前に大雪特別警報が出されなかったことが問題とされた。
 気象台による近代的観測が始まる前の記録をみると、永正14年12月15日(1518年2月5日)以降の積雪で、「甲斐深雪4尺5寸、鳥獣食物無く餓死す、四方の道路不通」(妙法寺記)とある。4尺5寸=135㎝なので、今回以上の積雪がみられたのである。たまたま河口湖周辺(今回は143cmの積雪を記録)のお寺の記録が残っていることで確認ができた。そうそうはない記録であろうが、その前後の記録をみると、永正12年10月12日(1515年11月27日)以降の雪と大雨で「大地殊の外凍り、芋も掘り得ず、菜なども一本も取り得ず、地下の歎き申すばかり無し、耕作田畑栗稗すべて悪く、寒さ厳しく飢饉となる」とあり、永正17年11月12日(1520年12月31日)にも「甲斐国大雪、積雪4尺」(同)とある。甲府市の標高は最低245mから最高2599m(平均300m)であり、平地より積雪が多いが、普段はそれほど積もることはなかったという。甲府といえば戦国大名武田氏の存在が知られるが、積雪という点では平地の戦国大名と比較すればハンデとなろう。史料については池田正一郎『日本災変通史』に依拠し、太陽太陰暦から太陽暦の変換には「旧暦-西暦の相互変換」というサイトのお世話になった。

2014年3月 5日 (水)

ウィンドウズ8.1へのアップグレード2

 XPS14へのインストールを試みた。外付けDVDからも時間をおけば、起動できインストールが可能であった。ところが、「7」とは別ドライブにインストールされたのは「8pro」ではなくノーマルの「8」であった。ネットで調べると、同じような事例が報告されていたが、解決法として紹介されているのは英語でやや理解できないところがある。
 インストール用USBを作成したが、こちらでも「8」と認識され、プロダクトキーが違うとしてインストールができない。それではと、既にインストールしてある「7」からアップグレードをしようとするが、やはり「8pro」ではなく「8」である。一旦は自分のPCの知識のなさと納得して断念したが、とりあえず、確認しておこうということで、英語のサイトで述べられていた「PID.txt」で検索すると、情報が日本語でヒットし、なんとか理解できた。
 xps14が「8」のインストールモデルであったため、その情報に基づきプロダクトキーなしで「8」がインストールされたが、当然インストール後にライセンス認証が必要となる。ところが「8」なので「8pro」のキーは使えない。それが、USBのデレクトリに「EI.cfg」と「PID.txt」を入れておけば、「PID.txt」に記載したプロダクトキーに基づき「8pro」のインストールが完了した。とりあえず「8pro」で認証を済ませ、「8.1Pro」へのアップグレードに進もうとするが、特定のファイルが更新されていないと、ストアに行ってもアップグレードが表示されない。
 作業は完了し、8.1への移行は完了したが、残るは無線とタッチパッドのドライバーのインストールである。
 

2014年3月 2日 (日)

ウインドウズ8.1へのアップグレード

 これについても、以前試みたがウインドウズ7をインストールした際にシステム領域が100MBとなっており、この領域の不足が原因で、ウィンドウズ8までよいが、8.1へのアップグレードは失敗した。ネット上ではシステム領域を広げる方法が紹介されていたが、デスク管理とフリーソフトを使っても、領域を広げることはできなかった。XPS14は7で使っていたので、そこで同様の作業をしてもやはりできなかった。自作機2台とノート2台では8.1を使用しているが、XPSは未だしであった。「8」の際は「スタートメニュー」というフリーソフトの定番を使ったが、やや動作が不安定であったので、「8.1」では「クラシックシェル」というフリーソフトに変えた。こちらは快調である。
 そこで、XPS15に「7」ではなく、「8」をクリーンインストールし、それを8.1にアップグレードしたところ、何の問題もなくできた。とはいえ、「タッチパッドドライバー」は問題なかったが、無線ドライバーのインストールでは苦労した。
 XPS14の方もSDDの領域を二つに分けているので、「7」とは別の領域に「8」を入れようとしたが、このPCは外付けの光学ドライブから起動してのインストールが前回もそうだったがうまくいかないので、とりあえずはそのままとした。USBにプログラムを格納できていれば、そこから起動してのインストールは可能であろうが、手元にとりあえず無いし、「7」での使用にも問題がないので。
 XPS15とXPS14はいずれも「8」に対応した2013年モデルであったが、オークションで本来の半額以下(2台で11万円弱)で入手したもので、OSはなく、15にはドライバーディスクが付属していたが、14にはそれもないというもので、すでに述べたように、XPS14は外付け光学ドライブから起動してのインストールができなかったので、とりあえず「7」の入ったUSBを準備してそこからインストールを行った。ハードの動作は保証されていてもソフトウェアーとドライバーのインストールはすべて自己責任であり、一部の作業では苦労した。
 XPS14のHDDをSDDに交換したが、そうすると起動を早めるためのインテルラピッドテクノロジーは使えなくなった(SDDなので支障はないが)。XPS14から取り外した薄型HDD500GをXPS15のものと交換し、これにクリーンインストールを行った。うまくいかない可能性もあったので、もとの1000Gで普通の厚さのHDDは保管している。また、別の場で活用できるであろう。

続タッピング無効

 以前書いた「タッピング無効」が本ブログのアクセスの上位にあるので、最近のことを述べたい。
 タッピング無効で苦労したLIFEBOOK S8390は大学1年生の子どもが使っていたが、映画の英文が表示される「超字幕」をインストールしたところ動かなくなった。ソースネクストのサポートに問い合わせたところ、ライセンス認証のファイルが入っているフォルダを削除して、再度、インストールするようにメールが届いたという。そのまま、やってもwindowsは起動しても、インストールもインターネットの接続もできない状況となった。その時点で相談を受けたので、家に帰る際にPCを持ち帰らせたところ、オフィスのライセンス認証もすべて無効となっていることがわかった。いかに杜撰なサポートであることがわかる。
 ということで、S8390には富士通のウィンドウズ7プロの32ビット版が入っていたが、これを機に、ホームプレミアムの64ビット版に入れ替えることした。オフィスの認証も終わり、他のソフトもインストールしたが、そこで再び登場したのが「タッピング無効」の問題だった。ドライバーディスクはあっても32ビット版しかないので、64ビット版ドライバーを入手してインストールしなければならない。
 そこで、シナプティクスの汎用ドライバーの64ビット版をインストールしたが、うまくいかない。次いで、S8390版は無いが、それ以降のFMV版ならネット上で入手できたので、それを解凍して、セットアッププログラムで組み込む。デバイスドライバーには確かに表示されるが、肝心のタッチパッドの(タップを無効にする)セルが見当たらない。一度ドライバーを削除しも状況は変わりが無い。ということで、またまたどうしたものかとなってしまった。原因は不明であるが、とりあえず、セットアップのプログラムそのものをアンインストールして、PS2マウスに戻した上で、ドライバーの更新を行い、ドライバーを解凍したフォルダーを指定すると、再起動を求められた。再起動したところでは、マウスは機能していなかったが、まもなくドライバーのインストールが始まり、ようやくタッチパッドを設定するセルがみられるようになり、無事、タッピング無効の設定が完了した。前回ほどではないが、なぜできないのか、最後まで理解できなかった。セットアップのプログラムでなぜ正しく組み込まれなかったのだろうか。とりあえず、事実としては今後の参考になるかもしれない。
 「超字幕」については、ビスタをインストールした別のパソコン(ラチチュードD630)にインストールしたら、問題なく使えたので、子どものPCと交換し、S8390を当方で使用することにした。S8390はCPUを低電圧版のL9600に交換しており、持ち歩くにはD630より軽くて良いが、とりあえず使えているとのこと。あと、大学1年生はiPhoneを使っているが、容量の最小のものを選んだため、データがいっぱいになってしまったということだったので、無線で通信してマイクロSDカードにデータを保存するものを購入した。アンドロイド機なら付属するマイクロSDスロットがないためである。無線機にはバッテリーも付属しておりそれ充電して、ケーブルでiPhoneを充電することもできる。とはいえ、すべてを充電すると無線機としての機能が使えなくなるので、当座をしのぐ補助電源としてなら使えそう。

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