koewokiku(HPへ)

« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »

2014年2月

2014年2月23日 (日)

金持氏について(補足)

 金持氏が西国御家人ではなく、東国御家人であることを述べた。そこで確認していなかった史料について補足する。それは承久の乱の際の戦功をまとめた記録についてである。  吾妻鏡には「疵を被り、官兵の為討ち取らるる者、彼是数多有り。関判官代・後藤左衛門尉・金持兵衛尉等これを尋ね究め、その交名を注し武州に送る。仍って勲功の賞に行われんが為遣わす所なり」と記した上でリストを掲載している。関判官代については未確認だが、下野国御家人結城氏の一族で、関氏も承久の乱では敵味方に分かれている。後藤左衛門尉とは後藤基綱である。その父基清は西行の兄弟佐藤仲清の子で、同じ畿内の武士である後藤実基の養子となった頼朝に仕え讃岐国守護や播磨国守護に補任されたこともがったが、後鳥羽との関係から承久の乱では後鳥羽方となったのに対して、その子基綱は幕府方として乱の記録をまとめ、その後は幕府評定衆にもなった。
  金持兵衛尉についても幕府の有力御家人であったと考えられる。実際にリストには「金持兵衛尉日記」によると記されている部分がみられる。兵衛尉本人も五人を討ち取っている。以上、補足する。
(補足の補足)
 金持氏の苗字の地駿河国金持庄については正中二年一一月二五日三千院門跡相承庄園等目録にも日吉社領として「駿河国金持庄 又新日吉社領」とみえている。(20180120)

2014年2月15日 (土)

建治元年六条八幡宮造営注文から

 建治元年六条八幡宮造営注文には、伯耆国で造営料を負担した御家人として「金持三郎左衛門尉跡 五貫」「同 兵衛太郎跡 三貫」、「長田右衛門入道 五貫」、「小鴨又二郎 五貫」がみえる。建長年間の閑院内裏造営注文には金持氏(守護、東国御家人)のみであったが、長田氏・小鴨氏と在地名を名乗る御家人が負担していることが注目される。倒幕に貢献した名和長年も長田氏の一族とされるが、この注文から長田氏が御家人であったことがわかる。
  伯耆国守護とみえる「金持六郎広親」→「金持兵衛」と建長2年の「金持兵衛入道跡」・建治元年の「金持兵衛太郎跡」の一流とこれとは別に、「金持二郎」=「金持二郎広成」や「金持右衛門尉」・「金持三郎左衛門尉跡」がいることがわかる。前者は兵衛入道の後継者兵衛太郎が、任官する以前に死亡した可能性が高い。それもあって後者の金持三郎左衛門尉跡の方が一族を代表する立場となり、負担でも兵衛太郎跡を上回っている。
  石見国は「石見左衛門尉(資能)跡 十五貫文」のみみえる。資能は鎮西奉行人藤原資頼(筑後前司入道)の子で、貞応元年8月13日には父に代わって奉行人に補任されている(『吾妻鏡』)。資能は筑前国・肥前国(~一二三〇~一二七三)、豊前国・対馬国(一二三〇)、壱岐国(一二七三)の守護であったことが確認できる。当時、西海道は二度目の蒙古襲来への対応から負担を免れていたと思われるが、石見国にもかなりの面積の所領を支配していたため、資能跡が15貫文を負担したと思われる。資能本人は弘安4年に死亡しているが、この時点ですでにその子経資ないし景資等に譲られていたのだろう。
 資能が石見国内の所領を獲得した時期と背景が問題となるのが、その手がかりとなるのが仁治2年(一二四一)にみえる「大江石見前司能行」(『吾妻鏡』)である。嘉禄3年には「兵衛尉能行」とみえるので、これ以降に石見守に補任されたのであろう。建久5年(一一九四)に「江兵衛尉義範」、建暦3年(一二一二)2月学問所結番に「江判官能範」がみえるが、同一人物で、能行の関係者であろう。能範は大江氏系図にみえるが、能行はみえない。能範は建仁三年(一二〇三)の阿野全成誅伐の際は使者として京都へ派遣されており、京下りの公家から幕臣となったのであろう。承久の乱では能範は京方で斬られているが、一方で「大江兵衛尉」と「同四郎」が戦功を挙げている。武藤資能の母については史料が無いが、大江能行女子が武藤資頼との間に生まれたのが資能で、資能は母方から石見国内の所領を継承したのではないか。能行は弘長3年に死亡している(『吾妻鏡』)。資能は「石見左衛門尉」と呼ばれているが、父資頼には石見国との関係はうかがわれず、母方の大江氏との関係でではないか。
 一方、資能の従兄弟で幕臣として活動した景頼は引付衆(一二四九~一二五九)から評定衆(一二五九~一二六七)に進んでいる。そして景頼の子頼泰(武藤二郎兵衛尉)は、建長7年には石見国御家人乙吉小太郎兼家が益田庄内乙吉・土田村の安堵を申請したことをうけ、北条時頼から子細を調べて報告することを求められている(益田家文書巻八二)。頼泰の立場としては石見国守護ないしは幕府で安堵を担当する部署の責任者などが考えられる。

2014年2月11日 (火)

内田致員について3

 ところが、翌年6月25日には直冬が内田致世の豊田郷での軍忠を賞しており、兼成との間で所領を巡る問題が発生した。12月27日には直冬の側近で石見国に派遣されていた仁科盛宗が、貞松村について内兼成が抵抗するという内田致世の訴えを受けて、参決を求めたが兼成が召文に違背するとして、致世への安堵の御教書を実行するよう、周布左近将監兼氏と三隅兼連に命じている。次いで翌正平9年5月20日には致世が求めた恩賞について、三隅兼連が直冬の奉行所に伝えている。こうして貞松名は内田氏に与えられ、兼成に対しては、替地を与えることになったと思われ、実効性を持ったかは疑問であるが、正平19年2月1日には直冬が内掃部助兼成に長門国弥富郷半分と井上郷等を与えている。
 その後貞松名については、応永8年(山名氏利)と同15年(沙弥)には石見国守護が内田氏惣領と思われる豊田肥前入道と豊田右馬助入道にそれそれ安堵しているが、その一方で、応永9年には足利義満御判御教書で、周布郷付貞松・末元・来原郷・白上郷新本内河上村に対する周布兼宗の当知行が安堵されている。河上村は至徳2年8月には大内満弘により長野庄白上郷内河上豊田帯刀左衛門尉跡が内田肥前入道に預けられており、ここでも周布氏と内田氏が対立していた。応永29年には周布観心兼宗が、当知行しているのに守護山名氏の被官人が押妨することを訴え、幕府が守護山名教清に調査を命じている。次いで応永34年には、豊田右馬介入道の妨げを停止し、観心に沙汰付けるよう命じている。白上郷新本内山津田・河上に関する周布氏の支配は大永3年まで譲状にみえるが、その後は益田氏との対立からこれ失ったと思われる。
 以上、内田致員の問題から南北朝期の石見国の政治史をみてきた。戦前の教育では内田致員と朝員嫡子致景が混同され、致景は南朝の忠臣として検証されてきた。それが人違いであることは過去に述べたことがあったが、今回、周布氏系図により致員と周布氏庶子内村氏の関係が明確となったので、それを併せて述べてみた。系図を付せばよりわかりやすくなるが、技術的問題もあり、それはHPないしは論文の中で示したい。この作業の中で感じたのは軍忠状の残り方にも、様々な背景があり、残された史料から判明することと実際の状況の間にズレがあることも踏まえて論じている必要があることである。「残っている史料から論じるしかない」が、残らなかった史料にも留意しなければならない。

内田致員について2

 単独相続から分割相続に変更された点に経貞が不満を持った可能性もあるが、それ以上に注目されるのは経兼の名前の変更である。永安氏は三隅氏の一族であり、良海の嫡子経貞が吉川氏一族の「経」の字を付けたのに対して、次男は「経」とともに三隅氏一族としての「兼」を付けていた。ところが、建武3年に石見国でも南北朝の動乱が開始されると良海は吉川氏一族と歩調を合わせて幕府方となり、南朝方の中心となった三隅氏とは対立する路線を選択した。そのため良海は次男の名前を「経兼」から「経明」と変更した。経明は幕府方として軍忠を重ね、恩賞として大家西郷津淵村(良海女子跡、反幕府方か)を獲得している。それが再び経明を本来の経兼に戻しており、方針を転換して三隅氏と結んだことを意味している。この時点ではまだ足利直冬と結ぶ動きは表面化しておらず、大内氏が直冬と結んだことが確認できるのも貞和6年10月以降であるが、当時の戦況を考える材料となる。また、貞和5年10月にはそれまで幕府方であった内田氏惣領致世(致景子)へも直冬から軍勢催促状が出されている。ただし、石見国内で幕府方から反幕府方へ転じる動きが確認できるのは翌年4月で、その中に益田氏惣領兼忠もおり、行動を共にした得屋郷惣領地頭岩田胤時は黒谷城に波多野義秀を攻め、次いで長門国内の合戦に参加している。また4月21日には直冬が田村孫四郎盛家(系図にはみえない)に白上郷を勲功の賞として与えている。本主が御方に参加した場合は替地を与えるとしており、幕府方への現形の働きかけがなされていたことがわかるが、田村盛泰の子遠盛はなお幕府方として活動しており、幕府方や一時的に尊氏が降伏した南朝方も働きかけを続けていた。
 正平7年3月、周布氏一族の内兼成が本領周布郷内内村と伯父内田工藤三郎致員跡貞松名を当知行だとして安堵の綸旨を求めている。周布氏系図によると、頭中将を奉者として同月に南朝の宣旨で安堵されている。内村は兄兼員跡が父兼茂から譲られ、貞松名は叔父内田致員跡だとしている。兼員は内兼茂の長子で内田致員女子を妻とし、致員から貞松名を譲られていた。致員は内兼次と内田氏惣領致直女子の間に生まれたこともあり、致直の養子として内田氏惣領として石見国に下向してきた朝員女子と結婚し、朝員から豊田郷内道野辺村と貞松名を譲られたことを主張した。兼員は叔父致員女子と結婚して貞松名を譲られ、さらにはその死により弟兼成が継承した。

内田致員について1

 南北朝動乱初期の石見国西部における戦闘の焦点となったのは高津城と黒谷城であったが、暦応2年10月には幕府方が豊田城(内田工藤三郎構)を攻撃している。その直前の9月に大将軍上野頼兼は俣賀致義に黒谷城の警固を命じており、幕府方が黒谷城を押さえていた。暦応3年7月には大将軍上野頼兼が長門国人をも動員して豊田郷内円嶽(丸竹)に向陣を取り、8月13日には豊田郷工藤三郎城を攻撃している。これに対して石見国の南朝方国人が救援のため後巻に出て来たため、これを撃退して逆に南朝方の拠点高津城を攻撃するなど、翌暦応4年2月まで幕府方の攻勢が続いている。7月になると戦線は石見国中央に遷り、幕府方は安芸国人も動員して那賀郡の福屋城を、次いで暦応5年2月には三隅城を攻撃している。
 この間、幕府方は内田三郎致員の所領豊田郷を闕所とし、土屋平三に与えたと思われる。これに対してそれまで遠江国で活動していた内田氏惣領致景が石見国に入部し、軍忠を重ねるとともに、所領の返還を求めている。下俣賀氏の熊若丸も覚融庵主に押領された須古村内の尼光阿(円戒妻)跡の打渡を求めて認められている。貞和元年12月13日には内田致景が豊田郷内道野辺村と貞松名が、内田致員跡ではないことを確認した上野頼兼から避渡を受けている。この間の戦闘の様子を伝えるのが貞和5年正月18日の上野頼兼軍忠注進状で、来原別符地頭田村盛泰の暦応4年以来の軍忠を奉行所に報告している。
 軍忠状からみると幕府方の一方的攻勢が続いているように思われるが、その一方では、幕府方が寄進した園城寺造営料所久利郷と東福寺領都野郷に対して、それぞれ一原氏(大家庄内市原地頭、久利氏の一族)・逸見氏と波祢氏が押領したとされており、実際には幕府方と反幕府方の間でなお激しい戦いが続いていた。それと関連するのが貞和5年8月15日永安別符一分地頭尼良海譲状である。良海は建武元年2月10日に一旦太郎経貞を嫡子として分かち譲ったが、それ以前に経貞に一円に与えた譲状と手継文書を返さないので、2回の譲状を悔い返して次男経兼に譲っている。

2014年2月10日 (月)

安芸・郡山合戦直前の合戦

 安芸・郡山合戦については、吉野健志氏による再評価があるが、合戦の大きさに比してそこに至る確実な関係史料があまり残されていないという難しさがある。とりわけ天文9年前半の情報が少ない。吉野氏の論文でも同年4月に沼田小早川氏が尼子氏方から大内氏方へ転じたことと、6月16日に賀茂郡造賀において毛利氏を主体とする大内軍と頭崎の平賀興貞が戦い、大内軍が勝利したという2点が挙げられているのみである。これに対して本ブロクでは『尼子氏史料集』で天文8年に比定された正月21日松田経通書状が天文9年のものであり、播磨表での尼子氏の軍事活動が成功し、まもなく帰陣することが、吉川氏に対して伝えられていることを指摘した。これに2次的史料であるが、天文9年2月16日に備後国太田庄庄内の政所寺院今高野が尼子氏により焼かれたことを付け加えたい(蔵橋純海夫「備後国太田荘政所寺院の興亡―今高野山の歴史・住侶・文化財―」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第45集、1992年)。『今高野山縁起』によるもので、『備州今高野山記』には尼子氏と毛利氏との合戦によると記す。そして弘治2年6月に再建がなされたことも記すが、弘治2年4月18日今高野山年行寺(ママ)福智院法印覚弁請取状にも、近年兵乱が打ち続き再建できなかったが、修理を加えるので、旦那からの金20両の寄進に対し請取状を出している。棟札は現存しないが、そこに天文9年2月16日の焼亡が記されていたのであろう。勝敗などについては不明であるが、沼田小早川氏の本拠高山城と山内氏の本拠甲山城のほぼ中間に位置する今高野城を舞台に大規模な合戦があり、それに隣接する今高野の伽藍と龍華寺・金剛寺が焼失したことが知られる。それが再建された弘治2年段階では、新宮党討滅事件もあり、尼子氏が今高野の地まで攻めてくることは不可能な状況となっていた。

2014年2月 8日 (土)

上俣賀氏と下俣賀氏2

 この掃部左衛門尉致義は暦応3年に黒谷城をめぐる豊田郷内白岩合戦で討ち死にしたため、上野頼兼は熊若丸にその所領を安堵した。その後、熊若丸は元服して貞和5年8月28日には「内田俣賀三郎」として中国探題であった足利直冬方軍勢催促を受け、その後の史料の大半では「内田左衛門三郎」と呼ばれている。すなわち、観応元年12月には幕府方として周防凶徒退治にあたり、高師泰から感状を与えられている。当時の石見国の国人の多くは益田氏惣領をはじめ反幕府方=足利直冬方になっていたにもかかわらず。それが、足利尊氏が南朝と結んだ時期には、南朝からも軍勢催促を受けている。そして、尊氏が南朝との関係を解消した後の観応3年8月には足利義詮から感状を得るとともに、長野庄内吉田郷内宮尾陣で、幕府方として反幕府方である式部七郎頼直、三隅次郎入道、益田助二郎・高津余次長幸らと戦っているが、その軍忠状では「俣賀左衛門三郎致治」と名乗っている。その後も幕府並びに吉見氏・守護荒河氏から文書を与えられ、貞治4年には幕府方守護使から所領を渡付けられている。その後、左衛門三郎の子と思われる「内田(俣賀)新三郎」への文書が至徳2年7月11日大内義弘安堵状までみえるが、その後は関係資料がみられない。
 応永28年12月20日には俣賀兵庫尉致貞法名景勝譲状で、豊田郷之内俣賀村之地頭職并横田之内田畠が嫡子掃部左衛門致家に譲られているが、これは致弘系=上俣賀氏であり、応永29年正月11日俣賀掃部左衛門尉致家譲状と応仁2年11月8日俣賀左近将監致尭譲状でも同じ所領が譲られている。こういった点から、下俣賀氏は上俣賀氏に併合され、以後残されている文書は上俣賀氏の関係資料であると判断した。以上、水野氏の熊若丸=致弘の比定は成り立たないこととともに、上俣賀氏と下俣賀氏について述べた。

上俣賀氏と下俣賀氏1

水野圭士氏「南北朝前期「大将軍」上野頼兼の 位置付け」(日本歴史2014年2月号)をみた。上野頼兼の位置づけについてはよいと感じたが、その中で俣賀熊若丸を致弘に比定してあった点が気になったので、以下で確認する。
 俣賀致弘とは、正平17年正月26日口宣案で兵庫允から兵庫助に進んでいるように、この時点では反幕府方であった。それが貞治4年8月10日には豊田郷内俣賀村地頭職と横田内田畠を嫡子道祖徳丸に譲っているように、大内氏とともに幕府方に復帰したことがわかる。一方、同年には俣賀村地頭職と横田下村内俣賀分領が、翌年には吉田郷内女子分が、守護使から内田左衛門三郎に渡されている。水野氏は致弘と内田左衛門三郎を同一人物と考えられたのであろうか。ともに俣賀村地頭職を有しているが、一方では兵庫助と三郎であって官職は異なっている。結論から言えばこの二人は同一人物ではありえず、致弘の俣賀村とは下俣賀村であり、左衛門三郎の俣賀村は上俣賀村のことである。何より致弘は大内氏とともに反幕府方であったのに対し、左衛門三郎は幕府方であった。この点を明確にするため、南北朝動乱の開始の時点から確認する。
 とはいえ、致弘に関する史料はほとんどなく、関係する可能性があるのは、①正平6年10月8日に常陸親王が俣賀兵庫允に対して与えた感状と、②文和2年正月10日に幕府方の吉見範直が俣賀兵庫助に対して軍忠を注進することを伝えた奉書のみである。②によりこの時点で俣賀兵庫助が幕府方であったと解釈できないこともないが、実質的には幕府方への軍勢催促状であろう。関連史料がない背景としては、致弘ないしはその一族が反幕府方であったため、幕府方に復帰するに際して、足利直冬や南朝から与えられた文書を廃棄したことが考えられる。いずれにせよ、致弘とその一族は反幕府方であった。
 これに対して、左衛門三郎に関する史料は数多く残されている。もっとも古いものが建武3年5月8日の着到状であり、まだ幼少であった熊若丸に代わって代官の致氏が提出している。次いで建武4年正月11日には石見国大将軍上野頼兼が将軍家御教書をうけて親父俣賀三郎致□跡を熊若丸に与えている。この父が上俣賀村を支配する三郎致義であり、建武政権下の石見国守護高津道性との深い関係から、南朝方として行動していたのである。その為、幕府は致義跡を闕所とし、これを熊若丸に預け、その一方で建武4年7月には掃部左衛門尉(おそらく南朝から官職に補任されたもの)致義に対して上野頼兼が軍勢催促を行っている。これにより建武4年9月には致義は幕府方に転じて、南朝方の高津長幸らを攻撃している。

石見国豊田郷の領域2

 ところが、元徳3年6月10日六波羅下知状では、豊田郷内の地頭代が角村地頭が大嶽村の押領を訴えている。文字に判読不能な箇所があるが、大嶽村・角村とも豊田郷内の地名であり、角村地頭が高津川対岸の大嶽村を押領したことを、内田氏惣領の地頭代が訴えたものであろう。内田氏惣領は致員の子の段階で嫡子生仏が豊田郷惣領分(ただし堀内在家三宇と一原土壇田畠は庶子致親分)と貞松名を譲られ、庶子致親が遠江国内田庄下郷(ただし、嫡子生仏と女子等の所領を除く)を譲られた。ここからわかるのは承久の乱で得た石見国の所領の方が重視されていることである。そのため嫡子生仏は石見国に入部し、その後継者となった養子朝員は実父致親から内田庄下郷も併せて譲られたが、これまた本人は石見国に入部し、内田庄下郷は嫡子致景にゆだねている。
 生仏・朝員は庶子家である俣賀氏2家(すでに上俣賀氏と下俣賀氏に分れていた)から所領を押領したと訴えられ、それぞれ徳治2年と正和2年には和与が成立しているが、元徳3年4月4日には、朝員=空昭が嫡子致景に豊田郷惣領分中豊田已下の村々と小俣賀田並びに貞松名地頭職を譲っている。この一方で、角村を支配する庶子家による押領が発生したのだろう。
 元徳4年(一三三二)には豊田郷一分地頭致貞代兼氏が俣賀又三郎・同家人鏡円・同孫三郎入道などが朝忠の語らいを得て致貞分領に苅麦狼藉をしたことを訴えている。「朝忠」は惣領朝員の関係者と思われ、これが俣賀上村地頭又三郎致義らと組んで、致貞との紛争を有利にしようとしていたのである。致貞こそ角村地頭であり、これに対して惣領側が俣賀郷南側を支配する俣賀氏惣領と組んで起こした行為であったであろう。
 致義はこの翌年4月には高津道性の軍勢催促に応じて長門探題攻撃に参加し、建武2年正月には石見国守護となっていた道性のもとで長門探題残党の反乱にも参加している。その一方で、同年4月には豊田郷俣賀・横田両村地頭妙戒の訴えを受けて、雑訴決断所が致義に対して事情の説明を求めている。妙戒は下俣賀を支配した円戒の関係者であろう。上俣賀氏と下俣賀氏の間でも嘉暦2年正月29日には所領をめぐる対立の和与が結ばれていたが、動乱をきっかけに、守護高津道性と結ぶ上俣賀氏側が攻勢に出たのであろう。
 貞和元年12月13日上野頼兼書下によると、内田氏惣領致景が父朝員から譲られた豊田郷内道野辺村と貞松名について、これは南朝方となって所領を没収された内田工藤致員跡ではないことを訴え、守護がそれを確認して下地を致景に避渡している。これまで述べてきた点を踏まえると、道野辺村は向横田の地で豊田郷内の中心所領であったと思われる。
以上、豊田郷の領域を確認したが、ほぼ明治期の安富を除く豊田村と高城村の地に相当するとみてよかろう。

石見国豊田郷の領域1

 大山喬平氏は豊田郷について、明治期の豊田村から安富を除いたものに相当するとされた。この点が、俣賀家文書の伝来を含め、氏の誤解につながったと思われるので、可能な範囲で確認したい。大山氏は豊田郷は俣賀と横田からなり、内田氏惣領家と俣賀氏の間で、それぞれが中道を境に分割されたと説かれたが、俣賀が基本的には庶子家領となったのは既に述べたとおりである。そうしてみると、庶子家領は横田の中道より下=横田下と俣賀となり、横田の中道より上=横田上のみの惣領家領より明らかに広くなってしまう。また、内田致茂譲状をうけて出された鎌倉幕府政所下文には、豊田郷については嫡子致員と舎弟致重・弥誉(益)丸=致義に3分割されていることが明記されているのに、これを大山氏は無視されている。
 豊田郷の領域を示すものとして、文永8年4月3日内田致員譲状があり、そこには中豊田・道辺・一原・下角・篠原・大嶽がみえる。このうち、大山氏が想定された明治期の豊田村内であるのは中豊田と一原で、現在の横田町である。これに対して、下角は高津川の支流匹見川の下流域=現在の隅町(白岩町・薄原町が上角か)、大嶽は現在の向横田町大滝で、道辺についてはこれを継承する地名は確認できない。以上により、大山氏の説とは異なり、豊田郷の範囲は明治期の豊田村だけでなく、高城村にも及んでいた。高城村を構成するのは、現在の向横田町・神田町・薄原町・隅町・白岩町である。向横田町は高津川の支流後益川沿いの地であり、その南端に位置する中谷が、至徳3年4月8日大内義弘書下に「豊田郷内菅谷・中谷」とみえ、内田氏惣領肥前入道に預置かれている。よって、向横田町が豊田郷内に含まれたことは確実である。隅町については既に述べた通りであるが、大山氏は本来は長野庄に隣接する吉賀郡野郷の地とされた。
 大山氏は豊田郷全体が吉賀郡内であるとされたが、地図をみれば、高津川西岸の向横田は美濃郡内であり、高津川支流の匹見川以南の地が吉賀郡内に属したことが推定される。中世の豊田郷が成立する段階で、郡をまたいで豊田郷が成立して、それが長野庄が立券される際に含められたため、庄園としては美濃郡内とされたのであろう。

2014年2月 3日 (月)

益田兼見の登場4

 文和2年の1月から2月にかけても幕府方は吉見範直や守護荒河詮頼を通じて西部の俣賀兵庫助・俣賀左衛門三郎、東部の武田伊豆乙に感状を発給したり、所領を預けたりしている。そうした中で2月18日には将軍義詮が荒河の注進に基づき「□田孫三郎」の忠節を賞している。系図には該当する人はみえないが、この人物が益田氏一族の可能性は大きいのではないか。また、2月30日には幕府方が直冬派であった内田致世の代官三和彦三郎の西黒谷城での軍忠を賞している。その一方で久利郷一分地頭赤波重房は、正月から3月にかけて、久利次郎左衛門尉・土屋備前守、並びに守護荒河氏の家臣である高山修理亮らとともに、仁万弥太郎・山名刑部少輔・佐波善四郎左衛門尉と戦っている。「山名刑部少輔」の存在は山名氏と直冬ならびに大内氏惣領との連携を示すのだろう。石見国における直冬派と幕府派の対立が強まっていることがわかる。この年の6月には南朝が山名氏と組んで京都を占領した時期にあたるが、9月には幕府によって奪回される。
 同年5月になると、直冬は南朝の年号「正平8年」を使うようになるが、石見国内では幕府との対立が続いていた。5月22日直冬感状は宛名が切り取られているが「白上合戦」での軍忠を賞している。一方で幕府方守護の活動は続き、文和2年5月25日には石見国守護荒河詮頼が井尻八郎太郎に対して大家庄内井尻地頭職を安堵し、その際の証人として従来から幕府方であった小笠原左近将監と並んで、福光又太郎の名がみえる。井尻氏と福光氏は共に御神本氏の一族であるが、その中に幕府方となるものがあったのである。次いで6月5日には4月5日に勲功之賞として君谷弾正忠実祐に出羽上下郷地頭職を与えた将軍義詮下文が、守護荒河により遵行されている。出羽上下郷は前年10月には永久・福屋・久利・用田に替えて園城寺造営料に寄進されている。
 文和2年6月1日には義詮は美作国青柳庄地頭職を園城寺に寄進している。青柳庄は観応3年8月の段階では幕府方の美作国守護であった富田秀貞領であった。秀貞が山名氏とともに反幕府方に転じたことにより、没収されたのだろう。翌年4月8日には富田庄・青柳庄をはじめとする秀貞領が出雲国守護京極導誉に勲功之賞として与えられている。
 話を石見国に戻すと、南朝と結んだ直冬は文和2年6月23日には義詮追討の綸旨を得たとして岩田彦三郎に軍勢催促を行っている。次いで25日には内田左衛門三郎致世に対して豊田郷での忠節を賞している。内田氏惣領致世に対しては幕府・反幕府の両側から働きかけがなされていた。9月25日には直冬は再度白上合戦の感状を出しているが、これまた宛名が切り取られている。年未詳9月18日仁科盛宗軍勢催促状をこの時期に比定したが、石見国西部でも幕府・反幕府派の対立が続いていた。そうした中で、北朝年号である文和2年10月5日付で益田本郷と深い関わりを持つ乙吉・土田村の内検目録が作成されているのである。
 12月27日には仁科盛宗奉書により、周布左近将監兼氏と三隅石見前司入道信性に、対立する周布氏一族内兼成を退け、内田致世に貞松村を沙汰付ることが命じられ、翌正平9年5月20日には豊田郷地頭内田致世の勲功に対し、恩賞が与えられたにもかかわらず、悉く相違ありとして致世が歎申したとして、三隅信性が直冬の奉行所に対して挙状を提出している。貞松をめぐる内氏との対立など未解決の問題はあるが、この時点で内田氏惣領致世は直冬方となっており、間もなく直冬の石見国からの上洛が開始されることが、山名師義と富田秀貞、さらには秀貞の一族でその代官を務めていた覚照により、三刀屋氏に伝えられている。この時点までには、益田惣領兼世と兼利が殺害され、益田氏内部の対立も解決していたであろう。以上、年未詳9月18日仁科盛宗軍勢催促状が正平8年のものであることについて、その裏付けを示した。

益田兼見の登場3

 益田兼見の登場時期について補足を行う。
 観応元年末から2年初めにかけて足利直義・直冬方が勝利したことで、石見国内には足利直冬の勢力が伸張し政治の安定がみられた。大宰府の直冬の下へ馳参じて所領の安堵を受けるものが増えた。出雲国でもそれまで幕府方であった三刀屋氏も庶子貞助を大宰府に派遣するとともに、山名氏との関係を強めた。ところが同年8月に直義が尊氏と義詮の挟撃をさけるため北陸へ逃れると、出雲国守護には京極氏が復活し、大宰府の直冬の立場も弱くなった。それでも観応3年8月までは、正平6年7月段階で南朝方の出雲国守護となっていた富田秀貞も幕府方の美作国守護の地位にあり、山名氏と結ぶ出雲国人と京極氏との関係も問題とはならなかった。
 これに対して石見国では、観応2年8月に尊氏が直冬派の国人の切り崩しを行い、これに対抗する直冬は凶徒退治のため吉見頼直を派遣した。観応3年閏2月10日の直冬側近仁科盛宗書状では、凶徒蜂起の際に御方に動揺があったが、吉川経兼が忠節を示して事なきを得たとし、三隅兼連に同心して三隅城の警固を行うことを求めている。観応3年6月20日足利直冬軍勢催促状では、長門国守護厚東武直以下の凶徒誅伐を命じたのに、内田致世が未だに発向していないことが述べられている。一方、8月12日には幕府方の吉見範直の注進に基づき、足利義詮が内田氏庶子俣賀左衛門三郎致治の忠節を賞している。そして、8月日俣賀左衛門三郎致治軍忠状によると、幕府方の俣賀致治は8月11日に敵(吉見ヵ)式部七郎頼直・三隅兼連・益田兼利・高津長幸らと宮尾陣で戦っている。
暦応4年7月日内田熊若丸代藤原兼家軍忠状では豊田城から吉田宮尾之城までで合戦をしたことを述べているように、長野庄内吉田郷内宮尾であろう。
 周防国では貞和6年10月には大内惣領家弘世(弘幸の子)や庶子の鷲頭弘員(長弘の子)が直冬方となり、周防国人内藤氏もその下で高師泰と戦った。それに対して観応3年8月の段階では、惣領家の弘世のみが直冬方で、鷲頭家の弘直(弘員の弟、周防国守護)と厚東氏(長門国守護)は幕府方となり、内藤氏も大内弘世と戦っている。この影響が石見国にも及び、直冬方から幕府方へ転じる国人が生じたのであろう。文和元年(一三五二)10月17日には沙弥某(石橋和義)が出羽上下郷を君谷弾正忠に預け置き、翌日には幕府が小笠原左近将監と土屋備前守に河合南村地頭職を安国寺に沙汰付けるよう命じている。そして11月25日に幕府は石見国守護荒河詮頼の派遣を周布左近将監に伝えるとともに、幕府方として忠節を尽くすことを求めている。直冬が九州から長門国豊田城に入城したのは12月末であった。

2014年2月 1日 (土)

益田兼見の登場2

 次に、書状を出した仁科盛宗についてであるが、信濃国の有力国人で、延元元年には建武政権の武者所の役人にも名を連ねていたが、その後幕府方へ転じて九州探題の役人となったのか、少弐氏が幕府方国人の軍忠を仁科盛宗に取り次いでいる。それが足利直冬が中国探題に補任された段階では、長門国守護でもある直冬の代官としての役割を担っている(長門国守護代記)。これで直冬との関係が生まれ、以後はその側近として活躍している。問題はいつ石見国へ派遣されたかであるが、直冬とともに観応3年12月末に九州から長門国豊田城に移ったと思われ、石見国での活動が確認できるのは正平9年(文和3)4月に河原太郎右衛門尉に角井村・松武名を恩賞として預け置く直冬の奉書を出したことと(益田家文書)、同年6月の吉川経兼軍忠状に証判を加えている(吉川家文書)ことのみである。 これにより盛宗書状は観応3年8月以降、文和3年4月以前となる。正平8年5月には直冬が南朝年号を使い、南朝勢力が京都を占領したが、9月には幕府方に奪回されている。次いで正平9年5月に足利直冬が石見国から兵を率いて上洛し、正平10年1月には都を占領したが、これもまたすぐに奪還されている。これらを併せると、仁科盛宗が石見国凶徒退治のため三隅郷に到着し、その後益田を攻撃したとすれば、正平8年のこととなる。南朝の京都占領が失敗する中で、石見国内の反幕府派の国人に動揺が起こり、それに対処するための攻撃で益田氏の惣領が交替し、後の憂いをなくした上で、正平9年の上洛が行われたこととなる。
 正平9年8月13日足利直冬御判御教書でも吉川経兼に対して「石見国西方凶徒退治事」について守護人が下向することが伝えられ、正平10年10月にも高津城付近で合戦が行われているので、なお緊張が続いていることがわかる。ただし、仁科盛宗の動きと、文和2年10月5日乙吉・土田村内検目録が「北朝年号」で記されているなど、この時期の益田氏惣領が幕府方に復帰しようとしたことを示しているのではないか。
   以上、これまで年次の比定が不十分であった点について、関係史料を検討すると、正平8年後半~9年初めの時点で益田攻撃がなされ、益田氏惣領が殺害され、新たに阿忍領の一部を譲られていた益田兼見が新たな惣領となったと思われる。それが史料的に確認できるのは正平14年5月2日の足利直冬書下(益田家文書)であり、益田越中守(兼見)に対して石見国本領の守護使入部停止が認められている。この時期は幕府により御方となれば本領を安堵するとの義詮の御判御教書が周布氏にも出されており(萩閥周布)、これに対抗する形で、守護使不入を認めたのであろう。

益田兼見の登場1

 益田兼見が惣領となったのは2度にわたる南朝による京都占領が失敗した時期であろうという点と、兼見の父兼方について、その父兼弘は祖母阿忍との対立で、一旦譲られた阿忍領伊甘郷を悔い返されたが、兼弘の子兼方は阿忍領の相続者から除かれず、それが兼見が永安氏と弥富名をめぐり対立した際に、自らの権利は阿忍が孫子に与えた所領を継承するものであると述べていたことを説いたが、もう少し詰めてみたい。
 益田兼弘の嫡子は次郎兼世であり、両者とも益田氏惣領であったことが確認できる。兼世の子には嫡子兼忠(直)と庶子兼行・兼利がいたが、益田氏惣領の地位は兼忠から弟の兼利に譲られ、系図ではこの両者が大谷城で寺戸某によって殺害されたことが記される。
 大谷城は益田本郷内にあり、寺戸氏は永享7年7月25日に益田兼理の死亡をうけて、一族・家臣が兼理の子息松寿を惣領・主人として忠節を尽くすことを誓っているが、その筆頭に「寺戸豊前入道禅幸」が署名し、且つ総勢105名の中で寺戸氏が最多の10名を占めていることから、益田氏家臣の筆頭の地位にあった家であることがわかる(益田家文書)。南北朝動乱の中での益田氏の選択において対立が生じ、家臣が主人を殺害することとなったのであろう。その中で庶家であった益田兼見も寺戸氏と同一歩調を取り、新たな惣領となったと考えられる。問題はその時期であるが、それに関係すると思われるのが、年未詳の9月18日仁科盛宗書状である。豊田郷地頭内田氏の一族である「内田三郎」に充てて、石見国凶徒退治のため、自らが三隅に派遣され、近日中に「誉田」に発向することを述べ、参陣を命じている(内田家文書)。写しであり、「誉田」は「益田」であると考えられ、三隅氏と益田氏の選択が異なり、足利直冬の側近である仁科が派遣され、三隅氏とともに益田氏を攻撃する事態となり、益田庄に隣接する長野庄豊田郷の内田氏に対して、益田氏攻撃に参加することを求めている。そしてこの攻撃の中で、有力家臣寺戸氏や益田兼見は仁科氏と三隅氏方となり、益田氏惣領兼世とその弟で後継者となった兼利が殺害されたのだろう。
 問題はその時期であるが、観応3年(1352)8月日俣賀左衛門三郎致治軍忠状(益田金吾家文書、久留島科研報告書)によると、反幕府方である(吉見ヵ)式部七郎頼直を大将として三隅次郎入道・益田助二郎・高津余次長幸らが8月11日に宮尾陣を攻撃してきたのに対して21日夜の合戦で忠節をあげたとして証判を求めている。直接の関連史料は残っていないが、当時の幕府方の中心は吉見三郎範直であった。ともあれ、この時点では三隅兼連と益田助二郎兼利は同一歩調をとっている。

観応の擾乱と石見国守護4

 高師泰は康永元年から貞和二年にかけては備後国守護であり、貞和三年一二月から五年八月まで和泉国守護であった。貞和五年一〇月には高氏の一族大平義尚が備後国守護であったが、翌六年(観応元年)閏六月に師泰が直冬追討のため下向を命じられた時点で、備後国守護と石見国守護は高師泰に代わっていた可能性が高い。同年一〇月一〇日には出雲国守護代吉田厳覚が三刀屋郷内一分地頭諏訪部貞助に石見国凶徒退治のため邑智郡院原宿へ着到することを命じられており、戦況は苦しいかった。一一月三日には三隅城を攻撃する高師泰陣に対し、それまでは幕府方であった益田氏惣領兼忠のもとで得屋郷惣領地頭岩田胤時が攻撃し、一二月六日には師泰が没落し、当時は幕府方となっていた河上城も攻撃されている(貞和七年正月日岩田胤時軍忠状、益田家文書、南一九四九)。そして貞和七年正月には攻勢に出た反幕府方が幕府方の土屋又次郎宣時の城を攻撃し、雲州から波祢庄に攻め込んできた幕府方の田儀地頭古荘二郎左衛門尉を退け、出雲国に発向した際には、田儀次郎左衛門尉(古荘と同一人物)も反幕府方に参加している。
 最後に高師泰の石見国守護代として観応元年一〇月一〇日に追落とされた乙面左近将監であるが、貞治二年八月二五日尾張国守護土岐頼康施行状案(東寺百合文書ホ一の二〇)で乙面左近将監入道に対して東寺領尾張国大成庄領家職の打ち渡しが命じられている(大日本史料六-二五)。両者は同一人物で、乙面氏自体は高氏とともに滅亡することは避けられたようである。
  建武3年―貞和5年~ 上野頼兼    貞和5年 某
  貞和5年―観応元年 大平義尚  観応元年―観応2年  高師泰
(補足) 高師泰失脚後、荒河詮頼が守護として確認できる文和元年11月25日以前の10月17日に君谷弾正忠に出羽郷を預け置いた沙弥は山口県史中世史料編の中で、石橋和義であったことが明らかにされている。

観応の擾乱と石見国守護3

 観応元年(一三五〇)四月一七日には、幕府が善四郎左衛門尉(佐波氏であろう。この直後に反幕府方に転じ、高師泰により攻撃される)と小笠原左近将監に雑掌源照の申請により押領を排除して寺領支配を全うさせるとともに、造営の成否の注進を命じている(南一八〇九)。なお金子氏による乱妨が続いていたことがわかる。その一方で、貞和六年四月二一日には足利直冬が田村孫四郎盛家に勲功の賞として金子五郎左衛門尉跡の白上郷を与えているが、本主金子氏が御方となった際には替地を与えるとしている。金子孫五郎入道と同五郎左衛門尉は親子であろうが、一方は守護大平氏による河合南村の安国寺への渡付に抵抗しているが、他方はこの時点では反直冬派=守護大平派であったことがわかる。同年四月二二日足利直冬感状(吉川家文書、南一八一二)では、吉川経兼が石見国凶徒が蜂起しようとしたところ忠節を存したことに感悦したことを述べている。そして六月一五日には幕府が直冬派討伐のため高越後守師泰を派遣したことを伝える軍勢催促状を出している(小早川家証文、南一八二一外)。
 これに対して、直冬方は師直・師泰兄弟らを誅伐する大将として桃井左京亮を派遣し、七月一七日には左京亮が三隅郷に下著したことを伝えるとともに、吉川経兼に参向するととを求めている。前年の貞和五年八月一五日に経兼の母尼良海が嫡子経貞への譲りを悔い返して経兼に譲ったことを示していよう。良海は永安氏の本家にあたる三隅氏と結び反幕府方を選択したが、嫡子経貞は吉川氏一族と歩調を合わせてこれに従わなかったために、このような措置をとったのだろう。

観応の擾乱と石見国守護2

 一方、暦応二年五月に東福寺に寄進された石見国都野郷についても、貞和四年五月一八日以前には波祢五郎左衛門尉時継が乱妨し、同年に推定できる守護上野頼兼書状では「当時御敵知行」のため打ち渡すことができないことを述べている。
 備後国守護は同五年三月一四日までは細川頼春であることが確認できるが、翌月一一日には足利直冬が長門探題に補任され、備後国を含む八ヶ国成敗権を得て備後国に駐留せよとの命令を受けて出京した。六月二三日に直冬は内田致景に対して津毛郷合戦の感状を与えている。次いで中央政界における直冬の義父直義と高師直の対立から直冬は同年九月には備後国から四国へ逃れているが、一〇月一日には石見国人内田左衛門三郎致世と丸毛彦三郎入道に厚東周防権守に同心するよう、軍勢催促を行っている(内田家文書写、安富家文書)。
 暦応四年三月一四日に喧嘩により高階成時を殺害した武家大平某は高師直の一族であった(師守記)。これと前述の一二月二二日幕府御教書を踏まえると、直冬の退去と時を同じくして高師直の一族である大平が備後国守護に補任されたと考えられる(佐藤進一『室町幕府守護制度の研究』下)。
 上野頼兼の石見国守護在職が確認できるのは貞和五年三月一一日までである。一方、安国寺雑掌源照からの訴えを受けて出された閏六月四日御奉書の旨に任せて、三吉三郎清実と淵名三郎右衛門尉重綱が、雑掌に渡付を行っている。三月一一日の命令を受けて、一旦は渡付がなされたが、それが金子氏などの妨害で問題が発生したため、再度の渡付が閏6月になされたのだろう。三吉氏は備後国三吉を本領とする国人で、淵名氏については不明だが、応永一九年一二月一九日に丹波国守護代細川遠江入道(守護は細川清氏)から命令を受けている「淵名次郎左衛門入道」(神護寺文書、大日本史料七の一七)と同族であろうか。名前は不明だが、石見国でも閏6月の時点で守護が交替したことにともない新たな渡付がなされたのだろう(細川頼春が守護か)。次いで、さらなる政界の急変をうけ、一二月までには高氏一族の大平出羽前司義尚が石見国守護に補任されたのであろう。

観応の擾乱と石見国守護1

 これについては佐藤進一氏の研究で、足利一門の上野頼兼から高師泰への守護の交替が明らかにされているが、頼兼の在任が確認される貞和五年一月から師泰が足利直冬方討伐のため中国地方に下向してくる観応元年(一三五〇)六月までの時期について検討する。佐藤氏は両者の交替を貞和5年9月から同年末にいたる時期とされたが、佐藤氏の検討されなかった史料を含めて検討したい。とはいえ、この検討も佐藤氏の成果と編纂所のデータベースに依存する所大である。
 佐藤氏の検討されなかった史料とは、石見国安国寺の史料であり、その写しが同寺蔵『国苑掌鑑』に残されているが、松岡久人氏編『南北朝遺文・中四国編』にも収録されなかったものがある。近年、斎藤夏来氏により「史料紹介 『石見安国寺誌・国苑掌鑑』」(岡山大学大学院教育学研究科研究集録一五四、二〇一三)紹介された。原本はすでに失われ、島根県立図書館の複写本が唯一残されている。
 石見国では建武三年に上野頼兼が守護として下向し、隣接する長門・周防国の国人も動員して南朝方との間で激しい戦闘が続いていたが、暦応四年(一三四一)六月には安芸国守護武田信武と国人も動員して、幕府方の大攻勢が開始された。そして翌五年五月までに三隅氏と三隅城を除く南朝方の国人の拠点を一旦は降伏に追い込んだ。ただし、三隅城が攻略できない中、康永元年末には再び周布・福屋・高津氏・都野氏らが抵抗し、幕府方は断続的に対応を迫られている。貞和四年(一三四八)八月二九日、幕府は石見国福園寺を安国寺とし、翌五年三月一一日には、河合南村地頭職を寄進し、石見国守護上野頼兼に沙汰付を命じている。同村は栗熊弥五郎跡(讃岐国に大報恩寺領栗熊庄があり、ここを苗字の地とする武士が讃岐国守護細川顕氏との関係で所領を獲得か。これ以前に金子孫五郎入道は南河合村を失っていたことになる)であったが、同年一二月二二日室町幕府御教書によると、金子孫五郎入道などが遵行の地河合南村に立ち帰り、下地を乱妨し殺害・刃傷に及んでいるとして、大平出羽前司に元の如く沙汰付、狼藉については糺明して起請の詞を注進するよう求めている。この大平出羽前司は、康永三年(一三四四)六月二六日和泉国守護細川顕氏書下で、同国久米多寺領へ押妨しているとされ、貞和五年一〇月には備後国守護として大炊寮領栗原保を押領していた大平出羽守(出羽権守)義尚と同一人物であろう。

« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ