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2014年1月29日 (水)

因碩と左一郎(4)

 「左一郎と因碩の対局」の中で、「左一郎は11月中旬には周防国小郡で堀部弟策と対局している。(岡山での)因碩との一局が小郡の先か後かについては、不明である」と述べた。これに関連する史料に偶然出会ったので、補足をする。
 山口県文書館蔵「近藤芳樹日記」は長州藩の国学者の日記であるが、その一節に左一郎と因碩の対局に関する記述がある。近藤は1801年生まれ。長州藩の藩校明倫館の教官をへて、明治8年には宮内省文学御用掛となり、明治天皇の東国行幸・北陸行幸にも随行した。1880年に80才で死亡している。
 近藤の日記の弘化3年11月13日~15日条に左一郎と因碩の記事が記されている。13日条には、近藤が小郡に赴いたことを記す。石見の岸本の左一郎という5段位(5段格であった)の碁打がしばらく小郡に滞在し、現地の人々に碁を教えていたと記す。次いで、最近になって井上因碩という江戸の碁博士・8段が長崎へ下る途中、小郡に立ち寄ったとする。因碩の同伴者が堀部方策(この点は棋譜の読み「弟策」を訂正する)であった。小郡は以前から碁が盛んで、秋本・長井・品川らの強豪が集まって両者と対局していることを聞いて、めづらしいと思い、近藤も見に来たが、惜しいことに昨日で大国手(因碩のことか)と岸本の対局は終わったと言われた。ただ、せっかくのことなので、因碩と会い、その感想を記すとともに、歌を詠んでいる。「とをはたとかぞふるつらをぬけ出て、きみひとりこの道やきハめし」。短冊に書いて因碩に渡そうと思ったが、あまり歌には精通しているようにはみえなかったので、そのまま宿に帰ったとある。
 14日朝早く因碩は出発したが、方策は残り、近藤にみせるために左一郎と対局し、90手で打ちかけとした。翌15日朝から対局が再開され、午後2時前後には100手を越えたが、明日から萩へ帰ることになっており、夜が更ける前に、近藤は帰宅した。後日、因碩と左一郎の対局が見たかったが見れなかったのは残念であるが、方策も3段であるとして自らを慰めている、。この記事からすると、小郡から長崎へ向かった因碩が左一郎と対局したのは弘化3年11月中旬で、対局場所は、岡山ではなく小郡ではなかったか。

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