koewokiku(HPへ)

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月

2014年1月29日 (水)

因碩と左一郎(4)

 「左一郎と因碩の対局」の中で、「左一郎は11月中旬には周防国小郡で堀部弟策と対局している。(岡山での)因碩との一局が小郡の先か後かについては、不明である」と述べた。これに関連する史料に偶然出会ったので、補足をする。
 山口県文書館蔵「近藤芳樹日記」は長州藩の国学者の日記であるが、その一節に左一郎と因碩の対局に関する記述がある。近藤は1801年生まれ。長州藩の藩校明倫館の教官をへて、明治8年には宮内省文学御用掛となり、明治天皇の東国行幸・北陸行幸にも随行した。1880年に80才で死亡している。
 近藤の日記の弘化3年11月13日~15日条に左一郎と因碩の記事が記されている。13日条には、近藤が小郡に赴いたことを記す。石見の岸本の左一郎という5段位(5段格であった)の碁打がしばらく小郡に滞在し、現地の人々に碁を教えていたと記す。次いで、最近になって井上因碩という江戸の碁博士・8段が長崎へ下る途中、小郡に立ち寄ったとする。因碩の同伴者が堀部方策(この点は棋譜の読み「弟策」を訂正する)であった。小郡は以前から碁が盛んで、秋本・長井・品川らの強豪が集まって両者と対局していることを聞いて、めづらしいと思い、近藤も見に来たが、惜しいことに昨日で大国手(因碩のことか)と岸本の対局は終わったと言われた。ただ、せっかくのことなので、因碩と会い、その感想を記すとともに、歌を詠んでいる。「とをはたとかぞふるつらをぬけ出て、きみひとりこの道やきハめし」。短冊に書いて因碩に渡そうと思ったが、あまり歌には精通しているようにはみえなかったので、そのまま宿に帰ったとある。
 14日朝早く因碩は出発したが、方策は残り、近藤にみせるために左一郎と対局し、90手で打ちかけとした。翌15日朝から対局が再開され、午後2時前後には100手を越えたが、明日から萩へ帰ることになっており、夜が更ける前に、近藤は帰宅した。後日、因碩と左一郎の対局が見たかったが見れなかったのは残念であるが、方策も3段であるとして自らを慰めている、。この記事からすると、小郡から長崎へ向かった因碩が左一郎と対局したのは弘化3年11月中旬で、対局場所は、岡山ではなく小郡ではなかったか。

2014年1月28日 (火)

石見国豊田郷の分割相続3

 それに基づき嘉暦2年(一三二七)の和与状をみると、俣賀上村地頭内田彦三郎致俊が三郎致直の嫡子で、それが父の兄弟で俣賀下村地頭であった円戒の後家光阿による助中尾山への押妨を訴え、三問二答の訴陳の後に、範囲を定めた上で、山野は致俊分とし、田と在家は両者で半分ずつ分け合う形で和与が成立したのである。これにより、俣賀上村と下村の境界に助中尾が存在したことがわかる。助(介)中尾は、正和2年の和与で惣領空昭が庶子円戒に避渡した3ヶ所の狩倉の一つでもあった。これを地図で確認すると、本俣賀川が現在の山口線本俣賀駅東側で角井川に分岐しているが、その分岐地点南側の丘陵(2万5千分1の地図では「東上」と記す)上に助中尾があったことがわかる。北側には里があり、西側には梅月谷があるとする正和2年の和与状の記載と合致している。
 問題なのは、大山氏が内田致茂が嫡子致員分と庶子致義分の堺を示す中道が梅月谷を走っており、その下側(北西側)を致義分、上(南東側)を致員分とされたことである。俣賀の地域は致義に譲られ、その上村が致義の嫡子致直に、下村が庶子円戒に譲られたのである。大山氏が致義領「俣賀・横田中道下」を、「中道下」を横田のみならず俣賀にまでかかると解釈されたのは史料の誤読であった。そして誤読をしたがゆえに、俣賀下村地頭である円戒と父致義の所領「自中道下」を継承した致直を同一人物と誤ったのである。普通に史料をみれば、現在の俣賀家文書が、俣賀上村地頭と下村地頭という2つの家の文書が合わさったものであることを読み取るのはそう難しいことでは無かったはずであるが、「中道」により豊田郷を構成する俣賀・横田の両方が分割されたとの自説にとらわれてしまったため、さらなる誤読を生んでしまったのである。誰にでも起こりうることであり、自戒とすべきことである。

石見国豊田郷の分割相続2

 ちなみに弘安9年とは、弘安5年に致員(西仏)が嫡子生仏に譲っていた「石見国貞松名并長野庄内豊田郷惣領地頭職」を孫(致親=定願の子)朝員に譲り直した4年後である。大山氏は西仏が死亡した弘安8年に生仏が、文永8年(一二七一)4月3日の父致員譲状に任せて幕府から同所領を安堵されていることを、生仏の抵抗と評価される一方で、この時までに生仏が甥朝員を養子として惣領職の跡を継がせるという約束が成立していたとされた。
 ただし生仏に男子がなく、それをうけて致員が生仏一期の後は孫朝員に譲ったとすれば、「生仏の抵抗」という評価にはならない。生仏女子と朝員の婚姻も想定できる。すでに述べたように、朝員は祖父致員時代の遠江国守護大仏朝直との関係をうかがわせる名であり、文永末~弘安年間には朝直の嫡子朝房の可能性が高い「武蔵式部大夫」が石見国守護となっている。そうした中での朝員の石見国入部であり、惣領の権利を主張したのではないか。
 裁判自体は、庶子である致直の主張が文書で裏付けられたため、その訴えが認められ、庶子側には田畠を譲られた「自中道下」の山河の支配権が認められた。ところが、正和2年(一三一三)には「石見国長野庄豊田郷内俣賀地頭円戒与当郷惣領地頭空昭相論山河事」について和与が成立している。円戒側が訴え、使者に打渡しを命じた下知が下り、使者が入部せんとしたところで、両者の間に和与が成立し、惣領沙弥空昭(朝員)が、すでに死亡した円戒に代わって後家光阿に狩倉3ヶ所を堺を立てて打ち渡した。狩川については分割することなく、寄合すべきだとしている。
 この裁判を大山氏は徳治2年の裁許を実行するために使者が入部しようとしたところ、両者が子細を述べたので、徳治の裁許が実施不能となったと述べられる。何より、円戒とは致直の出家後の名前=両者は同一人物だとされるのである。ところが、徳治2年(一三〇七)の裁許と正和2年(一三一三)の和与状には6年のズレがあり、大山氏の解釈には疑問が生ずる。一方、嘉暦2年(一三二七)には「石見国豊田郷内俣賀上村地頭内田彦三郎致俊代良祐与同下村地頭内田兵衛五郎入道円戒後家尼光阿相論当村内助中尾村事」についての和与が成立していることに注目しなければならない。徳知2年の裁許状には「内田兵衛三郎致直」とあったのに対して、ここには「内田兵衛五郎入道円戒」と記されており、両者は別人である。ここから分かるのは、兵衛三郎致直と兵衛五郎円戒の父親は同一人物、すなわち両者は兄弟なのである。致直の父親が致員の致義(弥益丸)であることは明白であり、円戒もまた致義の子である。そして内田氏惣領が「三郎」を名乗ることからすると、兵衛三郎致直が致義の嫡子で、兵衛五郎円戒が庶子となる。

石見国豊田郷の分割相続1

 内田宗茂は嘉禎2年(一二三六)に死亡し、生前の譲状に基づき、遠江国内田庄と石見国貞松・豊田地頭職(惣領分)は嫡子致員と二男=舎弟致重・三男=弥益丸(致義)に譲られた。大山氏は豊田郷が嫡子致員と次男致重・三男致義の3人に譲られたとされながら、致重の所領には言及せず、豊田郷内の横田・俣賀の中道より下が致義に譲られたとされる。具体的には横田のうちの上野・家下・山本・大境の各集落、梅月の一部、本俣賀の大部分が致義以来俣賀氏のものとなり、それが「豊田郷内横田下村一方并俣賀村一方地頭職」と表記したとされた。豊田郷を構成する2つの所領横田と俣賀のそれぞれが「中道」を境に分割されたと理解されたのである。
 具体的には「明治の中西村字金地から高津川を渡って豊田村横田の地に入り、そこから横田の中心街を抜けて梅月谷へ出、さらに俣賀川に沿って下りながら本俣賀の集落の東をかすめて左ヶ山を横断し、吉田村を抜けて益田の中心部へ入っていく1本の道」であるとされた。これだと慥かに俣賀村の北部が庶子領となり、南部が内田惣領家領となる。
 ところが、俣賀氏初代の致義が譲られたのは「豊田郷内俣賀・横田自中道下田畠在家地頭職」であり、「豊田郷内横田下村一方并俣賀村一方地頭職」は致義の子三郎致直の所領である。また、内田氏惣領致員の豊田郷内の所領は、嫡子生仏(致直)分の「中豊田・道辺・一原・下角・篠原・大嶽」と、次男定願(致親)分の「堀内在家三宇一原土壇田畠」であり、俣賀についてはみられない。
 徳治2年(一三〇七)4月には「石見国長野庄豊田郷内俣賀・横田両村□□地頭内田兵衛三郎致直与当郷惣領地頭内田左衛門三郎朝員代教智相論山河畑事」について、六波羅探題が致直側の主張を認め、「自中道下之山河者、停止朝員濫妨、致直可令領知也」とした。すなわち、致直側の権利は田畠のみであり、山河については全て惣領分であるとの朝員側の主張を退けた。本来山河は堺を決めずに寄合することになっていたが、弘安9年(一二八六)になって朝員と亡父生仏が山河を押領したことにより致直が訴え、朝員側が正当性を主張したのに対し、田畠に対応する地域の山河に対する致直の権利を認めたのである。

2014年1月26日 (日)

遠江国内田庄相論5

 以上の解釈をすれば、両者の主張を自然に解釈できると思われる。大山氏も「給主」との表現から得宗領を連想されたのは正しいが、そこからさらに前に進めなかった原因が、成仏側が「平尾村」について主張しているという点を看過されたことであった。石見国内に入部した俣賀氏についても、大山氏は2つの家の文書が混在することを看過され、事実とは異なる説を述べられていたが、これも氏の問題というよりその後の議論がほとんど無かったのが問題であった。論者は大山氏が『日本通史』中世1で内田氏と俣賀氏を論じられたのと時を同じくして「中世史四題」という文の一テーマとして両氏を論じており、俣賀氏初代弥益丸の子の代に上俣賀氏と下俣賀氏に分かれ、その後、早くから益田氏との関係を強めた下俣賀氏(南北朝期は反幕府方であることが多かった)が上俣賀氏(幕府方であった)を吸収して、文書が一括されたことを確認しており、本ブロクの「中世石見国武士団15」でも簡単に大山氏説の問題点について触れている。今回、古文書学の大家と評価している上島有氏が花園大学の所蔵となった俣賀氏文書(飯島一郎氏所蔵分)について解説されているものをネット上で読んだが、そこでも大山氏の誤りが踏襲されていた。上島氏が古文書学研究に投稿された俣賀家文書に関する文については過去に読んでいたが、この解説は今回はじめて知った。論者も自分の論文と日本通史の理解が違うことを知った際には、一旦は動揺したことを今でも覚えている。大山氏の『日本中世農村史の研究』は所蔵しており、すぐれた成果であると思っていたので、動揺したのだが(いわゆる「劇場のイドラ」に囚われた)、何度史料を読み直しても、自説の問題点は確認できなかった。当然,論文にする際にもくりかえしくりかえし「これでほんとうによいのだろうか」と自問自答した後に発表している。ブログは論文の前提作業で、なお中間段階のものであるので、誤りに気づけば更新している。
 今回は内田氏と俣賀氏について久しぶりに見直しており、その中で「加徴米相論」がよくわからないし、根拠も無く「成仏」=「生仏」などの可能性もあるかなと思いつつ、情報を整理し、小一時間ほどにらめっこしたところ、だいたいわかったと思い、文を書いた。最初の時点では大仏氏との関係など予想だにしなかったのはいつものとおりで、今回も意外な事実に遭遇した。

遠江国内田庄相論4

 情報を整理すると、氏は内田庄下郷の加徴米をめぐる対立だと評価されたが、④で平尾村地頭がみえるように、平尾村の加徴米をめぐる対立であったと思われる。ところが、この平尾村について、大山氏は、「他人相論」と結びつけ、これを下郷の外にあったと評価している。ところが他人相論とは成仏が「寛元御下知」について言っているのである。寛元「御下知」と平尾村が含まれたという寛元還補の「御下文」は別なのに、これを混同しているのである。
 平尾村の跡地と思われる現在の東平尾と西平尾は「中内田」にある。そしてこれを挟むように「上内田」と「下内田」があるのである。下郷の加徴米をめぐって裁許が二転三転することは考えにくいが、平尾村の加徴米をめぐって、これが下郷か上郷かをめぐる対立ならば、可能性は高くなる。
 「給主」と呼ばれた忠元の存在を踏まえて史料を解釈すると以下のようにならざるを得ない。内田庄内の開発が進む中で新たに生まれた「平尾村」の帰属をめぐって、上郷と下郷が対立した。下郷側(定願)は致茂時代の貞応御下知を根拠に正当性を主張したが、上郷側(成仏)は貞応御下知は平民百姓をめぐる対立で不易のものではないとした。その後、上郷地頭(下郷の西仏・生仏との法名の共通性から上郷の成仏も内田氏であろう)は、地頭職を没収され、北条氏領となり、その跡に北条氏の代官である給主忠元が入ってきた。そして寛元年間に上郷給主忠元と下郷地頭致員との間で裁判となり、下郷側が勝利した。これを上郷の成仏は「他人相論」といっている。忠元は上郷給主ではあるが「不知案内」だったから敗訴したのであり、これまた不易ではないと主張した。
 その後間もなく、上郷地頭は還補し、上郷は給主分と上郷内田氏分となった。その還補分に平尾村が含まれたいたと成仏は④で主張したのである。この主張が正応5年には認められ、平尾村の加徴米徴収権が下郷地頭から上郷地頭に移動し、これに対して今回、定願が訴えたのである。前回に引き続き上郷側が勝利したかにみえたのであるが、下郷内田氏は守護大仏氏への接近により、裁許を覆したのである。上郷の一部は北条氏領で、寛元年間の給主忠元が徳治年間もまだ給主であった。また、結局、寛元還補の際に平尾村が上郷内田氏領となったとの成仏の主張は認められなかった。

遠江国内田庄相論3

 話を相論に戻すと、その内容を整理すると以下の通りとなる。
 定願は、①貞応御下知と②寛元御下知に基づき加徴米を糺返されんことを訴えた。これに対して成仏は、両方の御下知は両方の御下知は「他人相論御下知」で無関係なので、傍例に従えば不易と称すことはできないとした。その根拠として③植田有秀への御下知をあげた。その上に④寛元還補の際の御下文に成仏が平尾村地頭であることが記されているので、定願へ返す必要はないとした。この主張に基づき、2月4日に成仏勝訴の裁許が下された。
 しかし、これに対して定願の子朝員が不服・再審査を求めたので、重ねて沙汰したところ、③有秀への下知をこの事例の根拠とはできないとし、②寛元御成敗は現在の給主忠元へ下したものであるので、不易であることに異儀はないとして、沙汰を改めることには及ばないとした。よって、正応5年以後の加徴は定願に糺し返すことを命じた。
 正応5年にそれまでの加徴米が定願から成仏へ渡された。貞応御下知とは初代致茂の時代に、内田氏が権利を認められたものであろう。寛元御下知は当給主忠元(ただし成仏は掠給とする)に対して出されたものであるが、成仏側からすると「他人相論御下知」であったが、これを証拠とした定願側は当事者であったはずである。
 問題となるのは成仏の立場であるが、大山氏は「成仏もまた下郷地頭職の権利を何らかの形で主張していた」とされる。加徴米は地頭得分であることが明白だからである。ついで、④に登場する平尾村地頭が一旦成仏側が没収され、寛元年間に還補されていることと、領家側が訴訟で地頭権限に属する加徴米を要求し、一旦敗訴後越訴状を提出していることにも注目される。このことから、「下郷地頭内田氏の地位には何か重大な隠された事情があったとしなければならない」として、注では内田氏の属する工藤一族が鎌倉後期に得宗被官として現れることと、在地領主が北条氏に所領を寄進して地頭代職に補任された例などが考えあわされるとされた。失礼ながら、これが冒頭に述べた「氏の説明を読んでも事態は全く不明としかいいようがない」との評価である。

遠江国内田庄相論2

 その当否については不明だが、注目すべき点は内田致茂の子孫がその名に「致」を付ける中で、何故「朝員」なのかということである。「員」が致員によることは自明であろうが、「朝」と言えば、致員の時代の遠江守護大仏朝直がおり、この裁許を行った遠江国守護宣時はその子である。朝直の長子朝房は一旦父から義絶されたことがあったが、その後許され、蒙古襲来時の西国守護の更迭の中で新石見国守護「武蔵式部大夫殿」の候補者にもなっている(筧雅弘氏、熊谷隆之氏)。この後、朝員が内田庄下郷を父定願と嫡子致景に譲って石見国へ下向することと併せると、可能性は高いのではないか。とりあえず朝直が武蔵式部大夫であったことを確認できるのが『吾妻鏡』弘長3年(一二六三)条が最後であることが、疑問なしとしないとの意見の根拠であるが、その後の官職については、弘安7年の豊前国守護「前備前守」の第一候補が大仏朝房であり、武蔵式部大夫朝房が石見国守護を勤め、その後備前守をへて豊前国守護となることに不自然さはない。何より、朝房とその子「備前五郎」の時期の豊前国守護代として「内田中務入道道覚」・「内田新左衛門入道道証」がみえているのである(伊藤邦彦『鎌倉幕府守護の基礎的研究』)。弘安8年の豊後国図田帳に速見国広瀬六町六反大の領主として「遠江国御家人内田工藤三致清跡、三郎致時相続」とあるのも、大仏氏との関係で得たものであろう。大山氏はこれを内田庄下郷内田氏の一族であるとされ、そこまではよいが、さらに「内田致茂の子致重の子と孫だったのではなかろうか」については不明とせざるを得ない。
 以上、内田氏と大仏氏の関係の深さの一端を述べたが、朝員の覆勘状提出と逆転勝利の背景には、証拠の見直しではなく、遠江守護大仏氏の後押しが大きかったと思われる。

遠江国内田庄相論1

 これについては大山喬平氏の分析があるが、(大山喬平「遠州御家人内田氏の史的考察−内田家文書と俣賀家文書を中心に−」『高田大屋敷遺跡・第 8 次発掘調査報告書』一九九三)、氏の説明を読んでも事態は全く不明としかいいようがないので再検討する。氏も徳治2年6月4日遠江守護大仏宣時下知状のみで関連史料がなく、当該史料そのものも前欠で難解であると断った上で分析しているのだが‥‥。
 大山氏はこの訴訟が下郷の加徴米をめぐるもので、下郷地頭定願(内田致親)と下郷に関係する成仏が争ったと理解されたが、守護の裁定も二転三転している。すなわち、正応5年までは定願が加徴米を取っていたが、この年の下知でそれが否定され、成仏の権利となった。それに不満を持った定願が訴状を提出し、成仏が陳状で反論して、一旦は徳治2年2月4日に成仏勝訴の下知状が出された。これに対して、なぜか定願ではなくその嫡子朝員が覆勘状を提出し、重ねて沙汰したところ、今度は6月4日に定願勝訴の下知状が出されたのである。おそらく、2月4日の裁許まではかなりの時間を費やして問答がなされ、その裁許が出されたにもかかわらず、異論が出されて再審理となり、わずか4ヶ月(異論から再審理決定までの期間を考えると実質的審理の時間はもっと短い)で、逆転の裁定となった。それほど両者の主張の優劣が付けがたかったこともあろうが、理由はそれだけではないだろう。
 なぜか定願ではなく嫡子朝員が異論を述べたとしたが、朝員は定願(致親)の子であるが、祖父致員の譲り直し(悔い返し)により、嫡子致直(生仏)の所領まで譲られた人物である。致直側からすれば不満のあるところであったろうが、朝員を養子として、自らの所領を譲った。この結果、朝員は祖父致員が嫡子致直と致親に譲った所領をともに相続したのである。そこで問題となるのが、その理由である。大山氏は致直と致親の間の対立と祖父致員の朝員に対する偏愛があったとされる。朝員に一本化することで一族の内部分裂を回避したとされた。

2014年1月25日 (土)

ちあきなおみ3

 まるごと大全集を視聴した際の文から、1・2とあまりかぶらない部分を以下に載せる。この時点の方が情報も記憶も正確である。

 NHKのラジオでデスクジョッキー番組をやっていた友川かずきさんの作品は衝撃的であったが、それをちあきさんが歌った「夜へ急ぐ人」にはさらにびっくりした。とはいえ、「もうひとりの私」の中の「夜が笑っている」の世界だなと感じた。コロンビアの時期の歌唱としてはみんなの歌の「さとうきび畑」も忘れられない。森山良子さんの歌唱もよいが、この歌がひろく知られたのは、ウエットな森山さんではなく、「かわいた」(ドライではない)感じのちあきさんの歌唱によるものだろう。
 その後、ちあきさんがビクターへ移籍したこともあり、船村-石本コンビの作品は細川たかしさんが歌った。確か1975年デビューであったと思う。細川さんの船村-石本作品集のアルバムに「居酒屋津軽」も含まれていたが、ちあきさんのものは未だ聞いた事がない。
 1975・6年頃だと思うが、船村-吉田旺のコンビで男女の12ヶ月の愛をテーマにした舟木一夫さんのアルバムが出た。その当時は吉田旺さんとちあきさんの関係は認識していなかった。そうしているうちにビクターからちあきさんのフランス、アメリカの作品や日本の古典作品を取り上げたアルバム相次いで出た。なかでもポルトガルのファド(当時はこの言葉は知らず)は男女の愛のすざまじさを教えてくれた。「へえーこんな歌もあるのか」という感じを持ち、これなら車の同乗者にも聞かせることができるものと思った。なんせ船村メロディーはひとり静かに聴くのに限る。
  そしてテイチク移籍と活動の再開で、はじめてテープではなく、CDを購入した。船村さんの作品集と「伝わりますか」、さらには探しても見つからなかったが「石原裕次郎を歌う」であった。その後は田舎で生活したためか、ちあきさんの情報は入手しなかった。「男の友情」などは青木光一歌唱で好きな曲であったが、まさかちあきさんが歌っているとは夢にも思わなかった。そして、コロンビアのコレクションが出たころから、ちあきさんを再び聞くようになった。定番のHP「ちあきの部屋」からはいろいろな情報を得ることができた。

2014年1月18日 (土)

大内満弘と益田氏10

 この文書について、藤井氏は破却を命じられた要害とは康暦内戦中に義弘軍が庄内各地に築いた、永安氏の遠田城などの要害であるとし、「益田城衆御中」とは各地の要害に置かれていた在城衆の総称であるとする。そして益田城衆中には益田庄内に設定された在城料所が預け置かれていたする。となると、さきほどの、6年前の嘉慶2年11月に大内氏が永安氏に遠田城から出ることを命じたことと全く整合性が無くなってしまう。また、「益田城衆中」とは当然、大内氏の家臣が益田城に入城したことを示す。すなわち、益田氏は一旦本拠地を没収され、城も明け渡したのである。
 前にも述べたが、大内義弘の晩年の文書は、益田氏、さらには大内氏与党であった周布氏も破棄した可能性が高く、それゆえに明徳4年12月に至る背景はつかみにくいが、藤井氏の解釈によれば、康暦内戦の結果、益田氏は大変厳しい状況に置かれ、それが明徳4年まで続いたことになるが、それは全くありえないことである。それは永徳3年に益田兼見が幕府(義満)から所領を安堵されたのを契機に、永和4年に3人の子に分割して譲った所領について、再度作成し直した譲状の内容からもわかる。当時の兼見並びに益田氏が置かれた状況は藤井氏が想定されるものとは全く相容れない、安定した状況であった。
 では明徳4年末に至る背景は何かと言えば、史料を欠くので想像するしかないが、益田庄の荘園領主との関係ではなかったか。益田兼見は永和2年には益田庄に対する権利を確定するため、益田本郷御年貢并田数目録と益田本郷田数注文を作成している。前者は2冊に分けて作成しており、それまでの地頭方と領家方の区分を再編成し、地頭益田氏分と領家分の2冊を作成して、これを荘園領主に提示したものと考えられる。領家方としてもこの提案を受け容れざるを得なかったであろうが、問題はそれに基づく年貢がきちんと納められたかである。そうした事態を背景に、領家が益田氏の「押領」を訴え、それを解決するため、大内氏が益田庄地頭職を益田氏から没収し、家臣を庄内に入れ置いたのではないか。ところが、何らかの理由でその疑いが晴れた(益田氏側が年貢の納入を約束した)ため、元の如く、益田氏に返されたのではないか。益田氏が他の国人領主領を押領した可能性もあるが、その場合は益田庄の没収までは考えにくい。
 ということで、以上は想像の域を出ないところもあるが、益田氏が土地台帳を作成した理由については、成り立つ可能性が大きいと思う。いずれにせよ、今回の藤井氏の論文も松岡氏の年次比定が実は根拠を欠いているのに、それを検討せずに解釈したので、いずれも苦しい解釈に陥ってしまっている。是非とも、ブログを読まれた方は、関係文書の年次比定からスタートして、この時期の問題を考えていただきたい。
 藤井氏の論文の一部について、辛口なコメントとなったが、あくまでもこちらが史料を吟味した時期についてのみコメントしたものである。藤井氏の論文集は室町期の大内氏について関係史料を網羅して述べられており、少なくとも共通の議論を行うたたき台としては十分なものであると思うので、また、当ブログでもこれを参考に検討していきたい。

大内満弘と益田氏9

 藤井氏は6月9日の段階で入城を渋っていた永安左近将監が、時期は不明ながら結果的に遠田城に入城していたのに対して、康暦内戦終結後の嘉慶2年になって、今度は大内義弘から破却を命じられたことと、永安氏が命令に従わないので、難渋する場合は大内氏が破却することを伝えたとする。ただし、藤井氏が康暦内戦が終結したとする永徳元年(一三八一)から7年も経過した嘉慶2年になってもなお永安氏が遠田城に居たことに不自然さを感じるのか、永安氏の遠田入城は康暦内戦とは無関係で、永安氏と益田氏の対立が背景であったかもしれないとする。まさにそれは、6月9日の文書を康暦内戦と結びつけたところに無理があるのである。康暦内戦で大内義弘と益田兼見が対立し、戦闘に及んだことを示す史料は皆無なのである。
 本ブログでは、すでに述べたように至徳2年から満弘―益田氏と大内義弘の対立が生じ、それがピークとなったのが嘉慶2年(一三八八)で、6月9日の時点で大内氏は永安氏に益田氏との相論の場所であった遠田城に入城することを命じたが、その後11月19日の文書にみられるように、両者の間で妥協が成立し、逆に大内氏が永安氏に遠田城から出ることを命じたのである。
 次いで、藤井氏は松岡氏が2度目の対立を示す史料とした、明徳4年(一三九四)12月27日の大内氏と奉行人の文書を取り上げ、康暦内戦中の大内氏による益田庄攻撃がすべて失敗したともいえぬ史料であるとする。これは井上氏が大内氏による攻撃はすべて失敗したか、計画倒れになったとされたことに対する藤井氏の主張である。大内義弘が益田庄を一円益田次郎に返す文書を出し、奉行人がそれを石見国守護代右田伊豆守弘直に、所領の打ち渡しと、要害の破却を命じている。さらに奉行人は、益田城衆御中に対して、替所を与えるので、益田庄地頭職を一円に避け渡すように命じている。

大内満弘と益田氏8

 満弘をめぐる大内義弘氏と益田氏の対立について、松岡氏は康暦2年だけでなく、明徳4年以前にもあったとし、井上氏は康暦2年のみであるとした。これに対して本ブログでは、康暦2年に満弘と義弘の対立はあったが、それに益田氏は関わっていないことと、至徳2年から嘉慶2年にかけて、満弘をめぐって大内氏と益田氏の間に対立が生じ、松岡氏が康暦2年に大内氏が益田氏を攻撃したとされた史料は嘉慶2年のものであるとした。
 これについて、藤井氏は康暦2年には満弘(その背後には父弘世)を支持する益田氏を大内義弘が攻撃する事態となったが(康暦内戦)、永徳元年に満弘と義弘の間で和睦が成立し、満弘が石見国守護となったが、それは「名所職的な」ものにとどまったとする。次いで至徳2年(一三八五)には石見国守護に義弘が復帰し、守護代として右田弘直を派遣したが、これは満弘との対立が再燃したものではないとする。その論拠として応永5年(一三九八)以前に満弘が豊前国守護に起用され、同じ頃石見国守護にやはり兄弟の大内盛見が起用されていることを述べる。ただし、至徳2年の満弘の石見国守護辞任から豊前国守護起用まで最大13年が経過しており、この間に2度目の両者の対立があったとする松岡氏の説に対する有効な批判とはなっていない。
 そして義弘の石見国支配との関係で、益田氏と永安氏の対立をとりあげる。藤井氏は康暦2年の大内義弘による益田攻撃の際に、大内氏側が永安左近将監に益田庄内遠田に一城を構えることを提案したとする。この根拠となる史料が年未詳6月9日大内氏奉行人杉重連・森良智連署奉書である。本ブログでは、これを年次が明確な嘉慶2年11月19日杉智高・杉豊後守重連・森良智連署大内氏奉行人奉書の関連史料であり、嘉慶2年のものとし、且つ、大内氏が益田氏を攻撃したのは康暦2年ではなく嘉慶2年であるとした。6月9日と11月19日の連署者は共通しており、年次が明確な史料で杉重連が確認できる初見史料がこの11月19日の文書なのである。

大内満弘と益田氏7

 問題は、文書に登場する関係者であるが、右田弘直の文書で年次が確実なものは応永2年(一三九五)まで残されている。ただし、宝徳2年(一四五〇)2月13日興隆寺二月会脇頭・三頭役次第注文の署判者である弘直の花押も、同じタイプのものであり、史料編纂所・日本古文書ユニオンカタログでも「右田ヵ」としている。右田弘直の初見史料は至徳2年(一三八五)で65年はいくらなんでも離れすぎではあるが。ともあれ、右田弘直の没年は不明だが、藤井氏は『系図纂用』に弘直の叔父「下野守弘直」が和泉国堺で死亡したとの記載があるのを受け、伊豆守弘直が応永の乱で死亡したことと混乱していると推測している。ただ、これも叔父で官職も異なっており、やや強引な推定である。
 杉豊後入道(重連)については、すでに述べたように、松岡氏が康暦2年(一三八〇)に比定された文書を除けば、初見が嘉慶2年(一三八八)で、義弘時代の応永5年(一三九八)のものが終見となり、大内盛見が最終的に幕府から認められた応永9年以降の史料には一族の弾正忠重貞がみえる。弘直と重連のみをみれば、藤井氏の応永3年頃との推定も成り立ちそうだが、内藤肥後守盛貞となると、その初見史料は応永11年2月18日大内氏被官連署下文写となるので、そうもいかない。益田氏と周布氏についても述べたが、応永の乱で大内義弘が討伐された関係で、義弘晩年の発給文書は廃棄された例が多かったと思われる。また、義弘の滅亡により、盛見の代には奉行人の交替があった可能性も高い。永安氏との対立を含めて総合的に考えれば、2月25日右田弘直書状にみえる「故殿」とは弘世ではなく、義弘の可能性が高い。もっとも、藤井氏は、弘世が康暦2年の義弘と満弘の抗争の背後におり、満弘を支持して戦死したとの説を提示しているが、はっきりしていることは、康暦2年10月に弘世が死亡していることのみである。本ブログでは、両者の対立が、弘世の調停で一旦おさまったのではないかと述べていた。

大内満弘と益田氏6

 この問題に関して近年論じたものに、藤井崇氏『室町期大名権力論』所収の論文があることを知り、これについてコメントを加えたい。藤井氏も大半の関係史料を松岡久人氏の年代比定に依拠して論じている。唯一異なるのは、年未詳2月25日右田弘直書状(内藤肥後守、杉豊後入道宛、『益田家文書』三八)についてである。『益田家文書』でも「益田越中入道申」を益田兼見、「故殿」を大内弘世に比定していたのを、杉重連(藤井氏は従来通り「重運」と表記するが、『益田家文書』の編者久留島氏が残された文書では「重連」としか確認できないことを指摘した)が出家したのは応永2年以降であることから、「応永3年頃」のものとして、越中入道を兼見の子道兼であるとした。ただし、「故殿」については弘世のままである。
  藤井氏は永安氏からの訴えに対して大内氏奉行人が兼見に弁明を求め、兼見が答えた応安4年の文書が念頭にあるようだが、ここで問題となったのは弥富名下村半分であったが、今回は弥富上下村が問題となっている。また、これに対する裁定の文書は残っていない。これに対して上下村が問題となったのは明徳5年(一三九四)に益田次郎兼家が訴え、永安太郎が支申した際である。前年に益田庄が益田兼家に返された際に、永安太郎が抵抗したため、永安太郎に上洛して説明せよとの命令が出された。今回もその後の史料は残されていないが、基本的に益田庄が一円に兼家に返された際の問題であり、永安太郎は有効な証拠を提出できなかったのであろう。これに対して2月25日の書状をその2年後とするのは無理ではないか。明徳5年の訴えがなお継続しているとの解釈も不自然であり、明徳5年に一旦決着したことに対して、再度永安太郎が訴えたものである。永安氏が訴えた原因は大内義弘が応永の乱で滅亡し、守護が代わったことであろう。

2014年1月17日 (金)

出雲国は院分国?7

 話が最初に戻ってしまうが、佐々木泰清書状にみえた「本院分国」について、「本院」とは文永一二年二月一日石清水八幡宮神宝注文(石清水文書、『鎌倉遺文』一一八〇四)に、「本院」・「法皇」・「新院」と記すように、後嵯峨法皇の死と、自らの親政期をへて、後宇多天皇の即位により「新院」となった亀山上皇に対して、その兄後深草上皇を指していることがわかる(記録類をみると、文永8年12月までは「新院」と呼ばれることがあった)。ということを確認すると、泰清は、出雲国では後深草上皇の分国のもと、四条隆親が国務を請け取り、仮殿造営を始めたが、完了するまえに辞退し、次に吉田(藤原)経俊が国務を請け取り、沙汰をしたが、進まず半ばにして他界(死亡)してしまったと述べている。これをそのまま受け取ると、四条(藤原)隆親が知行国主であることが確認できる文永3年4月の時点ですでに、出雲国は後深草上皇の分国であったことになる。これに対して、すでに述べたように、出雲国が亀山上皇の分国となったのは弘安四年であろう。重ねて述べるが、出雲大社造営を目代とともに国造も行えとした問題の文永11年12月15日院宣は、治天の君である亀山上皇院宣である可能性と共に、分国主であった後深草上皇の院宣の可能性もないわけではない。院宣の発給者については不明確なものが多いが、その端裏書から文永10年に比定できる8月7日と8月9日の後深草上皇院宣案(東寺百合文書、『鎌倉遺文』一一三七九・一一三八二、亀山はなお天皇親政中)はいずれも兵部少輔定光が奉じて「被仰下候也、恐々謹言」と結んでいる。同じ上皇であっても奏者と結びの表現は必ずしも一定ではないが、後深草上皇が治天の君ではないがために、このような表現を使っている可能性が高い。ということで、やはり出雲大社造営を命じた院宣は、奏者・形式の面からして、亀山上皇院宣であり、時期は文永11年となる。迷走した感があったが、なんとかこれで決まりである。

2014年1月12日 (日)

出雲国は院分国?6

 次いで隆親の辞退にともない、亀山上皇院宣の奏者であった吉田経俊が出雲国知行国主となった。その時期は、文永12年正月日の領家藤原兼嗣下文が出される前であり、経俊のもとで12月15日院宣を承けた国司文書が出されたことにより、領家兼嗣が、出雲大社惣検校職を出雲実高から国造義孝に交替させたのである。ただし、経俊は建治2年10月18日に63才で死亡しており、その国主在任期間は短かった。
 以上、みてきたように、後嵯峨上皇の死から亀山上皇院政の開始までの間に、出雲大社造営を巡る方針は大きく変化し、それが国造義孝の惣検校復帰につながり、文永12年4月までには義孝により建長元年の遷宮至るまでの仮殿と正殿造営に関する史料が国衙側に提示された。
 後深草上皇の分国となった時期に多くのスペースを割いたが、次いで弘安年中に亀山院の分国となった時期を検討する。亀山上皇による長江郷の寄進が弘安5年に行われており、それ以前となる。一方、平時継が知行国主であることが確認できるのが弘安3年に比定される9月21日出雲国宣である。これに関連して、弘安4年3月日の国造義孝大社造営注進状写がある。康平5年の仮殿造営以来の記録を注進しているが、残された史料の誤写もあって存在しなかった永久2年7月6日の正殿遷宮を記している点、さらには12世紀後半の庄園成立以降生まれた「神主」を常に国造が兼任した点などは事実とは異なっている。この提出・注進の背景として、出雲国が亀山院の分国となって知行国主・国守が交替して新たな体制が生まれたことを受けて、造営と遷宮事業の伸展を求めたものであろう。

出雲国は院分国?5

 関係文書としては文永9年12月日の出雲国司庁宣で、院宣を承けて国造義孝之記録を守り目代氏定が大社造営を行えとの命令が出されており、実際の方針転換は隆親―顕家の末期になされている。ただし、なぜか院宣は残されていない。これと関連して、12月17日に国主隆親の袖判の無い国宣が目代に下されたが、そこでは院宣を承けるのみならず、「此上者義孝相共不日可致遂仮殿之造営・遷宮」と、目代が国造義孝とともに造営にあたるとの命令が付加されている。ただし、国宣には言及していないので、国宣の前に出されたのだろう。次いで翌年正月19日には隆親の袖判を付した正式の国宣が目代に下されたが、そこでは院宣と庁宣が下されたのを承けて、国造義孝之日記・文書を以て懈怠無く(義孝と)相共に不日沙汰せよと命じている。こうしてみると、文書の順番は、残されなかった院宣、次いで12月17日国宣、12月日国司庁宣、正月19日国宣の順番になる。
  いよいよ問題の年未詳12月15日の院宣であるが、以前の論文では文永11年12月15日の亀山上皇院宣であるとした。ただし、この時は国守顕家の交替時期や文永年間に出雲国が後深草上皇の分国になったなどは考慮していなかったと記憶している。という意味で不完全なものであったが、結果的にはやはり文永11年の亀山上皇院宣となる。奏者である吉田経俊については、持明院統・大覚寺統の両方と関係があるが、この時期は文永11年に比定される12月7日亀山上皇院宣(『鎌倉遺文』一一七七〇)や建治2年6月9日亀山上皇院宣(『鎌倉遺文』一二三五五)のように、治天の君として院政を行っている亀山上皇の側で行動している。後深草上皇の分国となったのは、後嵯峨上皇の死後間もない時期で、皇位を亀山の子後宇多が即位することに対して後深草側の不満を和らげるためであったであろう。そのため知行国主は藤原隆親のままであったと思われる。

出雲国は院分国?4

  話を最初に戻して、文永年中に出雲国が後深草院の分国となり、弘安年間に後亀山院の分国に変わったことについて、その年次を推定する。後嵯峨院の分国であったのが後深草院に替わったのは文永9年2月19日の後嵯峨院の死を契機とする。亀山天皇の親政期を経て、文永11年1月26日の後宇多天皇の即位と亀山院政のスタートとなったが、出雲国が後深草院の分国となった時期の明証はない。知行国主ならびに国守の交替をみると、前出の沙弥(佐々木泰清)書状では、知行国主四条兵部卿隆親が仮殿造営を開始したが、それが終わる以前に辞退し、吉田治部卿家経俊が造営を受け取ったとする。経俊が治部卿となったのは文永11年9月10日であり、知行国主の交替はこれ以降のこととなる。
 国守については、藤原顕家が文永4年2月1日から文永10年12月30日まで務めている。顕家の交替とともに知行国主も交替した可能性があるが、隆親の知行国主としての初見史料は文永3年4月日の出雲国司庁宣であり、必ずし顕家のスタートと一致しないので、顕家交替後も隆親が知行国主であることは問題がない。問題となるのは年未詳12月15日某院院宣の年次であるが、奏者が次の国主となる吉田経俊で、宛所が兵部卿=隆親である。
 文永12年正月日出雲大社領領家藤原兼嗣下文では、「前国司沙汰之時、以阿式社寸法可移造之由被下 院宣」であったが、「当国司可召出義孝所持之日記文書」と変わったたことが造営が進まなかった原因であるとする。文永7年正月に出雲大社が焼失した後に仮殿造営が始まったが、この時点では国主隆親―国守顕家であった。それが、文永12年正月以前に交替し、方針が変わったとするのである。
 実際には顕家の末期に新たな方針が出されているが、それまでの方針と異なっていたため、領家松殿(藤原)兼嗣は、造営開始時点の方針を述べ、後任の某から方針が変わったように記したのだろう。

2014年1月10日 (金)

熊谷郷について2

 話が予期せぬ方向に及んだが、上熊谷郷ならびに下熊谷郷は幕府関係者の所領であったが、どのような経過によりそうなったのかというのが本来のテーマである。明徳4年3月20日には出雲国守護京極政経が三刀屋菊松丸に給恩として下熊谷内の逸見弥六当知行分を与えている。その後の経過は不明であるが、最初の文書目録の記載により、上熊谷郷が「相模禅尼」並びにその後継者の所領であったことが確認できる。「相模禅尼」とはどのような立場の女性であろうか。
 「相模」といえば関東知行国で、執権北条氏が代々相模守を独占しており、その関係者が想定できるが、その意味で「金持」の項で紹介した北条貞時の側室で高時の母であった「覚海円成」が注目される。幕府滅亡後も足利直義の援助を受け、尼とその関係者は生きのびたのである。この尼は鎌倉の山内に居住したことから「山内禅尼」とも呼ばれており、さらには相模守であった夫・子との関係で「相模禅尼」と呼ばれる可能性は高い。
 冒頭の文書群は暦応元年に幕府関係者が相模禅尼跡に対して所領上熊谷郷を安堵したものから始まるのではないか。暦応2年4月5日付で足利直義によって元弘年間以来の戦乱の亡魂を弔うため,伊豆の円成寺(尼が建立)に北条五箇郷と併せて駿河国金持荘内の沢田郷が寄進されているが、これと連動したものであったであろう。当然、その支配は鎌倉時代のものを継承したものであった。それが時を経て幕府関係者の所領なり、次いで三刀屋氏に売却されたのである。ただ、それがどの程度の実効性を持つかは政治情勢による。
 以上、出雲国の得宗領として飯石郡上熊谷郷を加えることができたが、その検討過程で、尼子経久の復権と京極政経との関係も明らかになった。大永4年4月19日の日御崎神社の修造勧進簿に義尹(義稙)が署名(大永3年4月9日に死亡しているので署名はそれ以前、あるいは将軍を追われる大永元年以前に署判か) している。

熊谷郷について1

 三刀屋文書目録に以下の記録が記されている。
 一巻   紙数二十九枚
 暦応元年ヨリ明応九年迄尊氏公・鹿園院殿以来雲州上熊谷郷相模禅尼之跡安堵之御教  書、高武蔵守師直・細川武蔵守已後代々執権之書、
  明応9年12月29日に熊谷上下郷とその証文が矢島春松・同中務入道によって三刀屋刑部蒸忠扶に売却されている。一方関連文書には同年10月29日付の田中将監紀正と猪飼野五郎左衛門尉糺久が三刀屋方に売却したことを熊谷名主中に伝える文書が残されている。前者2名と後者2名の関係が今ひとつ不明であるが、幕府関係者で、熊谷郷の権利を三刀屋氏に売却したようだ。このことが尼子経久に伝えられており、経久の復権が実現している。同年8日には出雲国守護京極政経が福武村を広田相続に任せて給恩として某(宛名が切り取られたのか無い)に与えている。政経は前年9月27日にも神西越前守を神門郡奉行職に補任しており、畿内での敗北から出雲国に下り、経久との連携を図っていたと思われる。
  経久については、延徳2年に大徳寺の春甫宗熈が経久画像に賛を寄せているが、この年に京極政経は近江国守護に復帰しており、一旦対立した両者の関係が修復されたことで、この画像並びに賛が作成されたのではないか。これに加えて幕府との関係でも経久が復権したのである。これにより、永正2年の塩冶氏攻撃に佐波氏ならびに赤穴氏が参加する前提条件も整備されたのである。
☆幕府奉行人奉書は流れ公方義尹の関係者ではなく、明応の政変で擁立された将軍義維の関係者が出したものだと思われるので訂正した。

2014年1月 6日 (月)

出雲国守護について(補足)

 論文「鎌倉幕府の成立と出雲国」の中で、佐々木泰清の跡は嫡子二郎時清が隠岐国守護を、庶子三郎頼泰が出雲国守護を継承したとの通説に対して、当初は時清が出雲・隠岐両国守護を譲られ、出雲国は頼泰が、隠岐国は宗泰がそれぞれ守護名代となり、時清が評定衆になった弘安6年の時点で、弟二人が守護正員となったとの説を示した。これを再検討する。
 というのは、頼泰が守護となったことの根拠とした弘安7年9月7日頼泰の発給文書が直状ではなく奉書となっているのである。北条時輔とその子が経廻していることを記した8月20日関東御教書を鰐淵寺に伝達しているのであるが、守護正員であるならば直状で命じたはずである。弘安6年に時清が評定衆に就任した時点でも、なお守護正員は時清であった。そして、頼泰は兄時清(嘉元3年死亡)に先だって死亡している。すなわち、乾元2年4月11日に頼泰の嫡子貞清が鰐淵寺北院三重塔修理料田として生馬郷内一町を寄進しているが、そこに亡祖父信州禅門とともに、亡父金吾禅門の名が記されている。この時点ですでに貞清が出雲国守護となっていた可能性は大きいが、それが確実となるのは延慶元年12月10日関東御教書の中で貞清が出雲大社造営について申状を提出し、それが幕府から国造に伝えられていることである。父頼泰は三郎左衛門尉であったが、貞清は祖父泰清(次郎左衛門尉・隠岐守・信濃守)の後継者として「佐々木信濃孫次郎左衛門尉貞清」と名乗っているのである。
 貞清は塩冶氏初代となった頼泰と比べて知名度は低いが、彼の時代に守護領が拡大し、その娘(覚日)が国造義孝の子泰孝(「泰」は守護泰清の諱による)と結婚するなど、出雲国内の政治的・経済的基盤が拡大している。また、貞清の嫡子高貞の母については「二郎左衛門女」と記すのみであるが、「塩冶高貞の母」の記事で、これを時清女子であるとの説を提示した。 時清の子には宗清がおり、その子清高が幕府滅亡時の隠岐国守護となるが、宗清自身が出雲・隠岐両国の守護となったことを示す史料はない。父時清のように引付衆や評定衆に進んだことも確認できず、系図に「左衛門尉・隠岐守・豊前守」と記されるのみである。原因は不明だが、頼泰の嫡子貞清が時清の娘と結婚してバランスをとって、出雲国守護を継承したのだろう。一方の隠岐国守護は時清の代行を勤めていた弟宗泰が守護正員となったと思われる。宗泰は嘉暦元年7月26日に72才で死亡するが、その嫡子は早世しており、一族の佐々木(富田)義泰の子宗義を養子に迎えた。宗泰の娘が義泰の嫡子師泰と結婚していたのである。そのためか、あるいは、隠岐に流された後醍醐の監視のためか、隠岐国守護は宗泰養子宗義ではなく、時清の嫡孫清高が継承した。
 以上、以前に提示した説を一部修正した。出雲国守護についての最近の研究としては、伊藤邦彦氏の『鎌倉幕府守護の基礎的研究【国別考証編】』(2010年)がある。大変な力作ではあるが、こと出雲国については、個々の守護人の論証の詰め(根拠)が十分ではなく、守護の相承に関しては佐藤進一氏の説を前進させるまでには至っていないというのが現在の自分の評価である。

2014年1月 5日 (日)

出雲国は院分国?3

 執権・連署の場合は、①相模守・②武蔵守・③陸奥守・④駿河守・⑤遠江守・⑥上野守・⑦讃岐守であり、①~④に越後を加えた5国は幕府滅亡まで長期間にわたって関東知行国となっている。これに有力御家人の国守を加えると(これも『日本史総覧』所収「鎌倉幕府諸式表」・「守護一覧」による)、北条(備前守・尾張守・越前守・遠江守・駿河守・土佐守・伊予守・丹後守・美作守・丹波守・三河守・伯耆守・安芸守・周防守)大江(因幡守・甲斐守・備前守・伊予守)、中原(摂津守)、二階堂(信濃守・筑前守・加賀守・伊勢守・下総守・出羽守・山城守・美作守・和泉守・河内守・備中守・因幡守・摂津守・但馬守・伯耆守・安芸守・肥前守・薩摩守・対馬守)、清原(三河)、三浦(駿河守・若狭・能登守・安芸守・対馬守)、後藤(佐渡守・壱岐守)、武田(伊豆守)、佐々木(近江守・出雲守・隠岐守・信濃守・対馬守・能登守・出羽守・備中守・下総守・壱岐守)、足利(上総守)、島津(豊後守・大隅守・下野守)、小山(下野守)、三善(加賀守・備後守・美作守・信濃守・壱岐守・備後守・対馬守)、宇都宮(下野守・越中守・大和守)、安達(陸奥守・丹後守)、小田(伊賀守・筑後守)、長沼(淡路守)、宍戸(壱岐守)、千葉(陸奥守・上総守)、大内(相模守・美濃守・駿河守)・、武藤(大宰少弐・筑後守・豊前守)、大友(丹後守・出羽守・近江守)、安田義定(遠江守・下総守)、源義経(伊賀守・伊予守)、源範頼(三河守)、源義仲(伊予守)、平賀朝雅(伊賀守)、小鹿島公業(薩摩守)、天野政景(和泉守)、狩野為佐(肥後守)
 以上のように、志摩・安房・越中・石見・長門・阿波・日向の7カ国を除くすべての国で幕府関係者が期間の長短はあるが、国守を務めており、その期間を通じて在庁官人を初めとする国衙の掌握(それは公家の要望に応える一面もあった)が進んだであろう。
 話が横道にそれたが、出雲国は12世紀以降、佐々木義清など一部の例外を除き、院近臣が知行国主と国守を務めており、広義の意味では院分国といってさしつかえないのではないか。制度がファジーなので、明確さは十分ではないが、このように結論を変更した。一方、幕府・守護による支配は、承久の乱で有力在庁官人の大半が没落し、その再建の意味もあって守護佐々木義清が嘉禄元年に出雲守となり、これにより幕府・守護による国御家人の掌握と国衙への影響力は飛躍的に高まった。次いで、建長元年にいたる出雲大社造営・遷宮においても幕府・守護が税の賦課・徴収において重要な役割を果たした。これに対して、文永7年の焼失にともなう出雲大社造営の初期段階では、幕府がそこまでは関わっていないようにみえる。これが当時の出雲国が狭義の院分国であったためなのだろうか。一方ではこの時期の幕府はモンゴル襲来への対応に追われていた面もあろうが。

出雲国は院分国?2

 この問題についてはなお課題があるので、再び論じたい。きっかけは「国司一覧」(『日本史総覧』Ⅱ)をながめて感じたことである。知行国や院分国であることが明記してある時期をみると、①12世紀前半から、②12世紀後半から、③13世紀末からの3つに分類できる。①についてはそれ例の多くは摂関家の藤原忠通である。そして院分国のうち、治天の君=院の分国をみると、②以降で、いずれもその最初となったのは後白河院であるということである。これを機械的に当てはめれば、知行国制・院分国は一斉に設定されたのではなく、その確立は③の時期であるとなってしまう。ところが、このような結論は制度上きわめて不自然である。
 出雲国でも、史料上は院分国であると表記されながら、知行国主が存在することによってそれは院分国ではないと結論づけたが、最後になお院分国としか考えられない時期があることを述べた。『福井県史』をみると、院-知行国主-国守という体制が確認されている。また、遠藤基郎「鎌倉後期の知行国制」をみても、院分国にも狭義のものと広義のものがあるなど、制度そのものがファジーな性格を持つことがわかる。知行国主は税を政府に納入し、院分国は税は院の収入となったとされるが、院分国でも政府が課税している例があることも指摘されている。明確なのは院が決定権を持っていたことである。
 ただ、この体制は承久の乱後は、幕府が決定権を持つようになる。難しいのは、幕府の決定権が表面に出てくるのは、幕府の利害ないしは院や寺院(なぜか神社はない)、さらには院の近臣の利害がからんで、知行国主の決定がもつれた場合であるという点である。それも、皇統の分裂がからんで、幕府の決定権が表面化する場面は増加する。また、関東知行国と執権以下の幕府関係者が国守に任官するという問題もある。

2014年1月 4日 (土)

伯耆国日野氏について

 平安末期の史料としては一ノ谷合戦の伯耆国からの参加者として「小鴨介基康」・「村尾海六成盛」とともに「日野郡司義行」がみえるのみである。鎌倉時代に入ると東国御家人金持氏が伯耆国に入部してきた。日野氏については『吾妻鏡』寛元2年7月16日条に、日野六郎長用と同平五郎季長(法名妙蓮)が日野新印郷と同下村得分物をめぐって対立し、訴えた長用側が不当に6月20日御教書を掠め取ったとして、鎌倉への出仕を止められている。次いで建長2年の閑院内裏造営雑事目録に「自二条北油小路面廿本」の中に「一本 垣形一本 日野平五入道」がみえ、前出の重長ないしはその父であろうか。伯耆国の国御家人としては唯一名前がみえている。文永9年12月12日関東下知状案(備中平川家文書)によると、日野八郎重長が譲状を作成する以前に死亡したため、一族の田口為時法師が作成した配分状に任せて、刑部乙王丸が伯耆国日野郷東条内河井村下原口・田野原・小倉と出雲国津田郷内目津木谷3町と鍋方村松尾田畠の知行を認められている。前出の「平五郎重長」と「八郎重長」は別人と思われる。その後、弘安4年年月日未詳関東御教書案(備中平川家文書)によると、重長の遺領をめぐって日野七郎と同孫五郎長綱が争ったが両方の主張が相違し、訴陳に及んだが、長綱が伯耆国に在国しているとして、長綱に尋ねて事実を注進するよう六波羅探題北条時村に命じている。さらに、正和5年5月30日六波羅御教書案(備中平川家文書)によると、日野孫八郎清長が孫六による田畠の押領を訴え、六波羅が小鴨左衛門尉に孫六を催上ることを命じている。小鴨氏は日野氏と異なり任官していることが注目され、幕府ないしはその有力者との関係を背景に、勢力を保っていたのであろう。「孫六」については日野氏一族の可能性が高く、一族間での相続争いが続いていた可能性が高い。出雲国大野庄をめぐって大野氏一族の女性宮石女らと対立していた日野兵衛次郎入道善光とその子又次郎茂直も伯耆国日野氏の一族であろう。
 日野氏については,金持氏との関係が気になった。金持神社のある地域はまさに日野氏の本拠地であり、その地名を苗字とする金持氏が日野氏の一族ならわかるが、鎌倉期に入って急に登場するし、その支配を確認できる所領は日野郷のあり西伯ではなく、東伯なのである。特に新たな知見を示すことはできなかったが、建武3年に出雲国守護塩冶高貞が大社領を国造清孝に沙汰渡すとととも、異論を主張する者があば注進せよと、日野掃部左衛門入道と富田弥六入道に命じている建武三年七月二三日塩冶高貞書下(『史料』四一九)も気になるところである。富田弥六入道は富田氏初代の義泰の子頼秀であろろう。関係資料は以上である。この後の鎌倉幕府の滅亡時や戦国期の日野氏についてはまた機会があれば述べたい。
(補足)日野氏と出雲佐々木氏との関係については、建武元年11月27日に、若狭国守護富士名雅清の守護代右衛門尉信景とともに、遠敷市に乱入して太良庄百姓を搦め捕りるとともに銭貨以下の資財を奪い取った日野新兵衛尉の例があった。これも間違いなく伯耆国日野氏の一族であろう。

伯耆国金持氏について3

 次いで、永仁7年正月27日関東下知状によると、紀伊国三上庄薬師寺雑掌が、正応元年に紀伊国勢田郷半分地頭職を充給った金持三郎右衛門尉廣親による寺敷と勢田郷内免田4町9反半はの濫妨を訴えている。さらに、嘉暦2年3月25日には伯耆国立縫郷内津原村地頭金持新三郎廣顕と子息藤原松夜叉丸が願文を捧げている(紀伊熊野本宮文書)。これにより紀伊国内に所領を得た金持氏が伯耆国にも所領を持っていたことが確認できる。
 元弘3年5月22日、鎌倉幕府は滅ぼされたが、それと前後して後醍醐は伯耆国船上山から都への帰還を開始した。それに付き従った武士に「金持大和守」がみえる(『太平記』)。建武政権で金持氏は登用され、延元元年(1336)2月の窪所結番(『建武記』)には一番として名和義高と並んで金持広栄がみえる。また同年4月の武者所結番にも6番の中に「布志部(那)二郎源光清」・「伯耆守長年」と並んで「金持大和権守広栄」がみえる。金持広栄は名和長年とともに建武政権方となったのである。
 金持氏は後醍醐が足利尊氏討伐のために派遣した軍に参加し、新田義貞が北陸へ逃れた際にも同行し、義貞が暦応元年(1338)閏7月に越前国藤島の戦いで死亡した際に自害した武士に「金持太郎左衛門」がみえる(『太平記』)。一方、暦応2年(1339)12月9日足利直義下知状(東寺文書)によると、山城国久世上下庄雑掌光信が半済の停止を求めたのに対して、幕府は「金持三郎右衛門尉広信」に命じて、庄官への召文を出させたところ、地頭職分の半済の根拠が領家下文を根拠とするのは理が無いとして、半済の停止を求めている。この史料から金持氏一族の中にも幕府方のものがあったことがわかる。さらに幕府方の斯波高経と吉見頼隆らが越前国の南朝方を攻めた際の暦応3年(1340)9月日天野安芸三郎遠政代石河藤左衛門尉頼景軍忠状(天野文書、天野氏は能登国)によると、8月17日に黒丸城を攻撃した時に「金持三郎左衛門尉」が味方の疵の実見を行っている。また11月日得江頼員軍忠状(得江文書)によると「侍所金持三郎兵衛尉」が実見を行っている。これに対して興国元年(1340)8月25日には、南朝武者所が、金持大和権守広栄に兵粮料所として河内国坂田福正名(二条刑部卿跡)を与えている。
 幕府が分裂した観応の擾乱後の正平10年(1354)5月2日には、足利直冬が金持左近将監に対して摂津国神無山と京都での合戦の忠を賞すとともに、山名左京大夫から報告のあった南方供奉について神妙であるとして戦功をつくすべきことを伝えている(岡本烋氏書状文書)。一方、貞治3年には金持久弘(法名経円)が後の日蓮宗宝乗山直行寺を開いている(龍華年譜備考)。山城国にもその一族がいたことがわかる。次いで応安元年10月には朝廷が綸旨を出し、伯耆国宇多河庄に対する金持弾正の濫妨について梶井宮から訴えがあったとして、下地を雑掌に沙汰付けることを武家(幕府)に伝えるように、民部大輔 に命じている(柳原家記録)。ここからは、金持氏の一族が畿内で活動を続けるとともに、その一族にはなお伯耆国内にとどまっていたものがあったことがわかる。
  室町期に入って応永22年5月13日備中国生石庄報恩寺領相伝文書目録(野坂文書、生石庄報恩寺は羽柴秀吉方の加藤清正が高松城水攻めの際に陣をしいた所)には「金持殿支証(解読不明)覚渡状一通」とあり、備中国内で金持氏が守護のもとで打渡を行っていたことがわかる。この金持氏は山名氏との関係で伯耆国から派遣され、土着した可能性がある。
  以上、金持氏について史料をみてきたが、その一族の広がりからみても伯耆国の地元出身の御家人ではなく、北条氏と深い関係を持つ東国御家人の一族が西国の複数の国に所領を得て入部していった状況がわかる。伯耆国において鎌倉初期の守護を務めたのもそのためであった。この文を書き始めた段階では全く予想しない形となったが、史料からわかることをまとめると、こうならざるをえない。金持氏が伯耆国の武士であれば、承久の乱で後鳥羽方となったであろうが、北条氏との関係から幕府方に留まり、守護の地位を維持したのである・

伯耆国金持氏について2

 元久2年(1206)閏7月には、北条時政が後妻牧の方との間に生まれた娘の夫で源氏一族の平賀朝雅を、3代実朝に代わる将軍に擁立しようとしたのに対して、北条義時と姉政子は時政を幽閉し、牧の方とその一族を滅ぼし、京都の朝雅は在京人に殺害させた。この中に「金持と云武士」がおり(『玉葉』)、その人物を『吾妻鏡』は「金持六郎広親」とし、『愚管抄』は「伯耆国守護武士ニテカナモチト云者」と記す。次いで建保元年(1213)4月26日に後鳥羽上皇が法勝寺に行幸し九重塔の供養を行った際の守護した武士として「南面」の「西脇門」に「金持二郎広成」がみえる。そして承久の乱に関連して後鳥羽上皇が隠岐に流される際に、「途中ヨリ又伯耆国金持兵衛請取マイラス」(『慈光寺本承久記』)とある。これを根拠に佐藤進一氏が『鎌倉幕府守護制度の研究』で、金持氏を元久2年と承久3年時の伯耆国守護と評価し、これが定説となっている。
 宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦氏方として生け捕られて降参した人物として金持次郎左衛門尉がいるが(wikiによるとこれが廣綱とあるが根拠不明)、『大山寺縁起』によると、まもなく赦免されたという(降参したからであろうか)。次いで、建長「閑院内裏雑事目録」(『吾妻鏡』所収)によると、「金持兵衛入道跡」が「自押小路南自西院西十八本」のうち、二本を負担している。ちなみに石見国益田氏は「益田権介(兼時か)跡」が自二条北自西院面東の20本のうち、3本を負担している。出雲国では出雲国・隠岐国守護隠岐次郎左衛門尉(佐々木泰清)が「宮御方東屏中門并屏十四間」を負担し、佐々木六郎法橋(吉田厳秀)跡が西鰭5丈を、朝山右馬大夫跡(昌綱)が同10丈を負担している。
 ここまでみられた金持氏を整理すると、伯耆国守護とみえる「金持六郎広親」→「金持兵衛」と建長2年の「金持兵衛入道跡」の一流とこれとは別に、「金持二郎」=「金持二郎広成」や「金持右衛門尉」がいることがわかる。後の史料であるが暦応2年4月5日付で足利直義によって元弘年間以来の戦乱の亡魂を弔うため,伊豆の円成寺に北条五箇郷と併せて駿河国金持荘内の沢田郷が寄進されている(北条寺文書/大日料6-5)。円成寺は鎌倉幕府執権北条貞時の後室(安達氏の出身)の建立にかかる尼寺である。幕府滅亡後、生き残った一族と伊豆国北条郷に帰り、ここに寺院を建立した。北条五箇郷と駿河国金持庄は旧北条氏領が没収されて足利直義に与えられ、これを寄進したのだろう。以上の点を勘案すると、金持氏は伯耆国の武士=国御家人ではなく、駿河国金持庄を本拠とする北条氏と関係の深い東国御家人で、鎌倉初期に伯耆国に入部して守護となった一流と関東で活動していた一流があったと考える。
[補足]金持氏が駿河国金持庄の出身である可能性は『明月記研究』一〇(二〇〇五年)の本文解説の中でも述べられていた。牧氏の本拠地伊豆国大岡庄と金持庄は隣接しており、堺をめぐるトラブルが「宿意」ではなかったかとしている。

伯耆国金持氏について1

 今日は、鳥取県日野町金持神社へ初詣に出かけた。HPで確認していたが、殊の外こじんまりした神社で驚いた。その名前を活かした知名度アップで、そこそこの参詣者はあった。やはり絵馬に書かれた内容は「宝くじが当たりますように」といったお金儲けに関するものが大半で有り、神社の木には1年玉がたくさん埋め込まれていた。
 前置きはさておいて、伯耆国の中世史は史料が断片的にしか残っていないので、よくわからないのだが、国御家人の生き残り率が出雲国より高いように思われる。生き残り率の高い石見国の例をみると、出雲国が承久の乱の影響が大きすぎて独特と考えるべきなのかもしれない。ともあれ、平安末期には西伯の紀氏と東伯の小鴨氏の対立がよく知られている。結果的には源氏方であった紀氏が滅び、平家方から最終段階で源氏方に転じた小鴨氏が生き延びた。これに対して鎌倉期に史料が残っているのが、日野氏と金持氏なのである。日野郡司であったともいわれる日野氏と日野郡日野町金持神社と関係のありそうな(この表現を使った意味は後述)金持氏の関係はどうであろうか。
 日野氏は幕府御家人となり、金持氏に至っては仮に通説のように国御家人であるとすると、西国では例の少ない(伯耆国の)守護に一時的ではあれ補任されている。これ対して日野氏は、出雲国に入部した土屋氏と婚姻関係を結び、13世紀半ばには津田郷内目津木谷を支配し、大野庄の一部についても土屋氏や大野氏との関係を背景に領有を主張している。日野氏も早い段階から東国御家人と婚姻関係を結んでいたのである。書き始めの段階ではこの程度のことしか知らなかったが、もう少し関係資料を集めて論じてみたい。
  史料編纂所のデータベースで検索すると、建久6年3月に頼朝が石清水八幡宮から東大寺へ赴いた際に随った人々の中に「金持二郎」の名がみえる。『吾妻鏡』建仁元年(1201)9月9日条には、左金吾(将軍頼家)が蹴鞠をするとして、達者な御家人が集められているが、その中に「金持右衛門尉」の名がみえる。
☆当初のものに史料を追加し、文章の構成を修正した。

2014年1月 2日 (木)

出雲大社と揖屋神社3

 出雲大社と揖屋神社の関係について述べ、国造家が地頭職を獲得したとの説を示した。揖屋社は天養2年に崇徳天皇の御願寺成勝寺領として立券され、崇徳の近臣日野資憲が領家となったが、保元の乱で崇徳が破れ讃岐に配流されたことで、その支配体制は動揺した。建久10年には某家政所下文により、大宅資澄から嫡男宗澄への譲与に任せて別火並びに上官職が安堵されている。助安と助澄と別火は「助(資)」の字を付け領家資憲との関係がうかがわれたが、その子は「宗澄」となり、平安末期の国造宗孝との関係推定できる。また別火職のみならず出雲大社にみられる上官職が加わっていることが注目される。出雲大社ないしは惣社などとの関係を強めたのであろうか。
 これが承久の乱後の寛元元年4月29日には地頭安藤氏が父宗澄の例に任せて、為澄に対して揖屋庄杵築五社別火職を安堵している。荘園領主側から地頭に別火職の補任権が移動している。そしてすでに述べたように、元亨4年には国造出雲泰孝譲状の中に「大社領揖屋庄内平岡谷田伍町」がみえる。次いで暦応5年と正平10年には袖判下文により頼澄と綱澄に対して別火職が安堵され、再び別火職補任権が荘園領主に移動している。その後、出雲大社や日御崎神社と異なり、出雲国守護京極氏と戦国大名尼子氏による別火職への補任状は残されていないが、その一方で、永享6年12月9日に千家高国が揖屋之社供(僧)職を別火孝澄に安堵している。それが出雲国の支配者が尼子から毛利氏へ交代すると、元亀3年6月20日に、富田城を支配していた毛利元秋が祖父秀澄の譲状に任せて、別火七郎次郎に揖屋大明神別火職を安堵している。

ちあきなおみ2

 2枚のアルバムは大学在学中に家が改築された際に失われた。後に「もうひとりのわたし」がCDで復刻されたが、収録時間の関係で収録されなかったものがあった。その中の「汽笛のあなた」も印象的であった。現在購入できるバージョンには技術が進歩したのかその後のシングル「酒場川」とともに収録されている。「酒場川」も石本・船村コンビの作品で、大変しっとりとした良い曲だが、その内容があまりに暗いので、多くの支持を得ることは難しいのではないかとの音楽評論家伊藤強氏のコメントがあった。とはいえ、ちあきファンで演歌嫌いの面々も、時間はかかるが、いつしかこの曲の魅力にとりつかれているようだ。このB面が「矢切の渡し」で、どちらをA面にするかでは、議論があったという。
 「夜へ急ぐ人」の作詞・作曲者友川かずき氏は当時NHKのラジオ番組のDJをつとめていたと思う。調べてみると1977年4月から1978年3月まで「若いこまだ」という番組が続いている。その中で「夜へ急ぐ人」がリリースされた。「わかいこだま」の中ではB面の「海の近くで殺された夢」も流れたようだが、記憶には残っていない。ちあきなおみのシングルを購入したことがないことも要因か。次いで、友川かずきと河島英五の曲を収録したアルバム『あまぐも』が出されたが、その後しばらくはテレビでその姿をみることはなくなった。
 1980年の映画「象物語」の主題歌、1981年のアルバム『それぞれのテーブル』については知らず。再び知ったのは1985年の『港がみえる丘』。CDではなく、カセット・テープ版を購入。次いで、活動が本格化した1988年の「伝わりますか」・「紅トンボ」・「夜霧よ今夜もありがとう」は購入したが、その後の1989年から91年にかけての「三分劇」・「かげろう」・「すたんだーどなんばー」「百花繚乱」は知らず。当然、幻のアルバムと呼ばれる「男の友情 ちあきなおみ 船村徹を唄う」(ヤフーオークションで一度だけ、落札の直前までいったことがあったが‥)も発売になったことすら知らなかった。2000年に6枚組のCD-BOXが発売になり、インターネットで「ちあきの部屋」をみるようになってから、その世界の全貌を知るようになった。
 ちあきなおみと美空ひばりを含めたその他の歌手との最大の違いは、これが代表曲であると絞ることができない点であろうか。あれも、これもとばかりに、好きな曲は絞れても、代表曲は数限りなくあり、いろいろな曲を聴くたびに、これもいいなとなってしまうのである。自分の持ち歌とカバー曲の差もファンにとっては無いに等しい。美空ひばりも海外のスタンダードナンバーを含めてさまざま歌っているが、やはり代表曲は持ち歌から選ばれるだろう。
 なお、この文は、FMV-S8390で入力した。良いキーボードだが、久しぶりに打つとやや柔らかいかなと思えた。最近はトプレのU91を使うことがほとんどだが、年の初めに、いろいろなノートのキーボードで文章を入力しているのであしからず。思い出すとさまざまな記憶がよみがえる。

ちあきなおみ1

 ちあきなおみという歌手を認識したのはデビュー曲「雨に濡れた慕情」以来からであるが、初期の曲で最も印象に残ったのは「別れた後で」(1970.11、白鳥詞・鈴木曲)という曲だった。「朝がくるまで」、「4つのお願い」、「X+Y=LOVE]、「ワルツ」・「あいつと私」・「かなしみ模様」・「夜間飛行」・「女どうし」などどれをとっても印象的ではあったのだが。同じ時期に、ブルーコメッツ「さよならの後で」(1968.10、橋本淳詞、筒美京平曲なので、実際は少し前か)という曲があった気がする。1972年の「喝采」でレコード大賞を取った時とその後の紅白のシーンも印象的であった。クラシック音楽に詳しい友人が「声が良いとは思わないが、感じが良い」と言っていた。
 一方で、舟木一夫「夕笛」、春日八郎「別れの一本杉」、美空ひばり「波止場だよおとっつぁん」、島倉千代子「東京だよおっかさん」を通して作曲家船村徹氏の存在を知った。当時はNHKのビッグショーで歌手だけでなく、作曲家の特集もやっていた。「男の友情」をめぐる高野公男との関係は印象深かった。船村氏の著書だけでなく、新聞記事でも読んだような気もする。ビッグショーを調べてみると、1975年3月2日が「ちあきなおみ 女の詩」、同年9月28日が「船村徹 演歌‥ロマン、夢を‥」、さらには1976年8月8日「ちあきなおみ 私はおんな」、10月2日「船村徹 巷の唄に酔いしれて」、1977年10月16日「ちあきなおみ おんな・夜の中で・ひとり」となっていた。
  そして1975年7月に石本美由紀詞・船村徹曲の「さだめ川」がリリースされた。この二人のコンビの作品としては「柿の木坂の家」が有名。これ以前に1972年に船村作品のアルバム「もうひとりの私」がリリースされていたことは知らなかった。1976年にこの中の9曲と新たな7曲を加えて新たにリリースされたものを購入した。そこでは「女の宿」以上に「なみだの宿」(ともにオリジナルは大下八郎)が気になった。同時期には船村徹作曲家生活25周年記念リサイタルのライブ盤アルバムも購入した。そこでは「新宿情話」とともに美空ひばり「佐渡情話」を唄っていたのが印象的であった。それまでアルバムどころがシングルも購入したことはなかった。
  美空ひばりは1973年末の紅白歌合戦から実弟の不祥事により、出場を辞退しており、それは1977年4月10日放送のビッグショー「美空ひばり わが命燃えつきるとも」で復活するまで続いており、これがなければ船村徹25年記念リサイタルにも登場していたであろうが、偶然、代わってちあきなおみが唄ったのである。

2014年~オーウェルのあの年から30年2

 戦後にも1949年の下山事件・三鷹事件・松川事件は有名であるが、独立直後の1952年6月2日に大分県菅生村の駐在所で爆発が起き、一部が破損し、共産党員が逮捕される事件が起きている。ダイナマイトを仕掛けた警察側は事前に100人近くを現場近くに張り込ませ、小学校からの帰り道に駐在所前を通った共産党員を逮捕した。最終的には公安警察による自作自演であったことがばれて、全員が無罪となった。スパイとして共産党員に接近した公安警察官が事件当夜、共産党員を駐在所近くの小学校に呼び出し、解散したところで爆破が起ったという。駐在所の警官も爆破があることは当然知っていた。そしてこの事件を利用して破壊活動防止法が国会で成立した。
 スパイとされた警官は、ダイナマイトの運搬に関わった罪で起訴され、1審と2審で有罪となったが、「爆発物に関する情報を警察の上司に報告したことが自首にあたる」として刑を免除された。本人も警察官に復職し、その後も何もなかったように昇進した。警察のコメントも「上司の命令でやむを得ず関係した気の毒な立場を考慮した。今後も同じような犠牲者が出た場合を考えテストケースとしたい」ということで、これまたあきれてしまう。当然、黒幕の責任が追及されるべきであるが、それをしないための、本人への厚遇であった。なおこの事件については井出孫六『ルポルタージュ戦後史』で知り、今に至るまで認識している。
 戦前の日本もその時期、時期で評価は異なるが、一貫して言えることは弱い立場に置かれてしまった人々がどんどん不利になる方向に動いていたことは確実であり、その意味で戦前の日本には良い点もあったと述べる人がいることは不思議である。その良い点について具体的に論じることはよいが、だからといって日本そのものを肯定しては、社会の改善にはつながらない。例えはよくないかもしれないが、「今のあの国にもよいことはある」ということと同じである。「あの国の人々こそ、独裁者による最大の被害者である」と認識することは、大変重要であるが、これについては忘却されている。

2014年~オーウェルのあの年から30年1

 久しぶりにinspiron9200を起動してこの文章を入力している。ネット・ワープロ・表計算ならまだまだ十分使える。とはいえ、ほぼ同じ筐体のprecision6300Mの方が、ややキータッチはよいか。はじめてのWUXGAということで購入したが、しばらくはほとんど使わなかった気がする。今見てもやや文字が小さいか。ただ、慣れてしまえば、作業領域の広さは有利な点となる。
 1925年の治安維持法について、制定する側の若槻礼次郎内務大臣はあまり問題を感じていなかったとの朝日新聞(2ヶ月ほど前、家族の折り込み広告をみたいとの要請を受け、広告のほとんどない中国新聞から変えた。中国新聞は朝日の専売所が配達しており、3ヶ月前に朝日に変えないかとの勧誘があった時は断ったのだが。朝日新聞の購読は初めて。中国の前は毎日新聞であった。朝日のよいところは、書籍の広告が多いこと)の記事を見た。特定秘密保護法が成立した前後の記事であったと思う。日ソ基本条約が成立し、共産主義国ソ連の影響力が強まるという見通しによる法案であったが、それ以前にも同種の法案が提案され、廃案になっていた中での、成立だったと今頃知った。1928年の改正が緊急勅令によるものであることは認識していたが、それが田中内閣の改正案提出をうけた衆議院での議論で問題点が指摘され、世論の反対も強かったため審議未了となった直後の緊急勅令による改正が強行されたことは認識せず。当然、何度か近代史の本を読む中で知っていたはずであるが、記憶には残っていなかったことになる。
 その後、衆議院で事後承認のための審議で反対した山本宣治議員が、3月5日に右翼七生義団の37才の会員に刺し殺されたことは知っていたが、山本が41才であったことも認識していなかった。そして加害者が4月30日に保釈出所したとの事実にも、あきれてしまった。殺意はなかったとして刑を軽くしようとする動きもあったが、その後の裁判では懲役12年の刑を宣告され、実際には6年後出所した。本人の弁では成功報酬を約束されて犯行に及んだが、逮捕後は依頼者からは連絡がなくなり、依頼者そのものは戦後には国会議員となって大臣にまでなったとされる(明証は示されていないので、依頼者の個人名は省略)。この時期の日本社会は確実に悪い方向に動いていた。[朝日は初めてというのは記憶違いだった。以前、日本の歴史を発行していた際に購読していた]

2014年1月 1日 (水)

出雲国は院分国?

 『祇園社記』の後深草院の記事によると文永年中に四季天神供并常灯料所として、出雲国長江郷が祇園社に寄附された。ところが、弘安年中に出雲国が禅林寺殿(亀山院)に進められたため、長江郷の替として土佐国永武郷が寄附されている。弘安元年に亀山が子の御宇多に天皇位を譲り、院政を開始したため、出雲国が後深草院の分国から亀山院の分国に変わったとの解釈も可能である(これについては後述)。
  建治3年5月7日沙弥(佐々木泰清)書状(佐々木時清宛、千家文書)によると、出雲国は「本院御分国」として四条兵部卿隆親が国務を担当して、文永7年に焼失した杵築大社仮殿造営にあたったが、完成する前に辞退して、吉田治部卿経俊が国務を請取り造営の沙汰をしたが、半ばで他界(死亡)したとある。そのため、過去に知行国主であった平時継が去年10月頃国務を奉じたが、それ以来今日まで造営の沙汰はないと記されている。時継は過去に父有時と2代で20年かけて正殿造営を行い、宝治年中に完成して遷宮を遂げたとある。造営料が不足したので、材木の不足は地頭門田・給田に段別3升賦課したことと、国司得分から応輸田に段別1升を出したのみなのでこのように不足したかとも述べる。これに対して以前、正殿遷宮まで7年で完了したのは(これが建久元年の遷宮か)、造営を皆が一大事として協力したからだと、泰清は述べている。
  ここにみえる「本院御分国」の意味が問題となる。そのまま解釈すれば、出雲国は後深草院の分国となるが、実際には知行国主藤原隆親と国守藤原某がみえており、後深草方の公家が知行国主となることを示しているのだろう。それは最初に述べた「禅林寺院に進めた」も同様で、亀山院の分国というより、亀山院方が決定権を持っていたことを意味しよう。
正安3年には後二条天皇が即位したことにより、御宇多院の院政が始まったため、出雲国知行国主は他国と同様交替している。すなわち藤中納言(日野俊光)から帥(藤原為方)に交替している。次いで嘉元元年には、西園寺公衡が知行国主となっている。なおその後の知行国主としては元応元年(1319)閏7月9日関東御教書(千家文書)にみえる左大臣(洞院実泰)がいる。この前年の文保2年(1318)には文保の御和談の結果、後醍醐天皇が即位している。
 以上、鎌倉期の出雲国が院分国であったことを示す2つの史料があったなと思い、その年次の特定をするつもりでこの文を書き始めたがたが、そうではなく、知行国主を決定する権限が移動したことを示すものであることを確認する結果となった。ただし、今更ではあるが、もう一つ気になる史料がある。それは正元2年2月日と文永元年10月8日の出雲国司庁宣(千家文書)にみえる、惣社仁王講田と神魂社大般若経田に関する「承元院使検注文書無相違」との記述であり、承元年間に出雲国が後鳥羽院の院分国であるがゆえに、院使が派遣されて検注がなされたことを示す以外の考えが今のところ浮かばないのである。

寺社造営料と庄園・公領2

 22ヶ所のうち石見国分は安芸国分とともに10ヶ所を占め、且つ、安芸・美作と異なり10ヶ所すべてが公領=郷であった。10ヶ所は以下の通り。
 永久郷、小石見郷、津毛郷、匹見別符、福屋郷、久利郷、用田郷、大田南方、上出羽郷、 下出羽郷
貞和3年には、石見国3,安芸国4ヶ所が園城寺の造営料所として確認でき、一ヶ所を除けばこれと一致している。そして文和元年10月には石見4、安芸3、越前1の地頭職が園城寺造営料所として功を終えたことと、これに代わって石見3、安芸3,越前1、近江1ヶ所の地頭職が園城寺に寄進されている。断片的ではあるが、建武3年にみられた所領の地頭職が断続的に寺院の造営料所に充てられていたことがわかる。三刀屋郷の場合は、その年貢が惣社造営料にあてられたが、今回の場合は地頭得分であった。
 なぜこの10ヶ所かという問いに対する一つの回答として、当時、反幕府方の所領であったとの考え方があるが、問題点としては、それでは造営料所として機能しないことがある。それ以前の問題として、10ヶ所の地頭職が北条氏とその与党の所領として没収されたため、幕府を開いた尊氏の支配下に入っていたのだろう。10ヶ所のうち、小石見郷・津毛郷・匹見別符については、建武2年に後醍醐天皇から本領安堵として益田氏に返されており、北条氏とその与党の所領となっていたことが確認できる。その他の所領についても以下の通りである。
 貞和2年に造営料所久利郷について、一原孫二郎、逸見弥四郎入道らが乱暴(1452)
  文和元年10月に出羽郷は新守護荒川氏により君谷弾正忠に預けられる。
  同年12月に安芸国吉茂上庄池田村が安芸国守護武田氏から内藤氏に預けられる。
  文和2年4月5日に将軍義詮から上下出羽郷が君谷氏に与えられる。
  文和2年6月に将軍が美作国青柳庄地頭職を園城寺に寄進。文和3年4月には青柳庄が富田庄とともに反幕府方の富田秀貞跡であるとして守護佐々木道誉に与えられている。
 造営料所である間は、幕府方の国人を地頭職に補任することはできないが、代官など、なんらかの形でかかわらせたのではないか。そして、造営料所の功を終えた段階で、預けたり地頭に補任したのである。 観応3年8月30日の祇園社記録によると、祇園社造営料所として吉田厳覚が恩賞として得た岩坂郷が指定された。そのため、厳覚が造営中は年貢を進めることを約束したが、実際には無沙汰であったことが記されている。厳覚が得ていた岩坂郷地頭職が造営料として寄進されたのだろう。

寺社造営料と庄園・公領1

 文永3年(1266)4月、出雲国知行国主藤原隆親が三刀屋郷を惣社造営料として惣社に寄附し、地頭請所と国使入部を停止して、社家の沙汰として造営・遷宮を遂げるよう、留守所に命じている。三刀屋郷はこれ以前に雑掌による支配から地頭請所に変更されていたが、地頭請所の請負料ではなく正規の年貢を惣社造営料とするため、地頭請所を停止し、且つ国使の入部を停止して惣社社家(実質的には国造が支配)に年貢を納入することとしたのだろう。
  正安2年には、知行国主日野俊光が、一旦乃白郷を惣社社家に寄附していたが、造営がはかどらないとして、これを三刀屋郷に変更したことに伴い、地頭請所と国使入部を停止している。前回の造営が終了後、三刀屋郷は再び地頭請所となっていたことがわかる。乃白郷は惣社と国衙のある大草郷に隣接する地である一方、出雲国守護佐々木氏の一族である乃木氏が支配していた。何らかの理由で税の収納が十分できず、今回の変更となったのであろう。文永8年段階の田数は乃白郷が15町4反半、三刀屋郷が21町であるが、乃白郷は平野部の、三刀屋郷は山間地の所領であったため、実際の規模はもう少し差があったはずである。乃白郷の税では対応できないので、より大きな所領に替えたのであろうか。
  一方、建武3年11月24日、足利尊氏は石見国、安芸国、美作国の所領22ヶ所を寺院の造営料所として寄進した。文書に寄進先が記されていないが、山城国本圀寺文書として残されているので、日蓮宗本圀寺であろう。本圀寺は建武3年当時は鎌倉にあったが、後醍醐天皇の勅願所ともなり信仰を集めていた。その後貞和元年には北朝から寺地を与えられ、京都へ移転する。その当時の日静上人は足利氏の女性を母とし、尊氏の叔父にあたる人物でもあった。

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ