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2013年12月

2013年12月31日 (火)

平安末期の出雲国と平氏

 源義憲(義広)について調べる中で、以外にも平氏との関係が浮かび上がってきた。出雲国守についてみる中で、出雲国と院との関係がより明確となった。平安末期の出雲国守はいずれも院の近臣であり、院自身ないしは院近臣の有力者が出雲国知行国主となっていたのである。
 この点を踏まえて、再度、一の谷合戦に参加したことが記される7名の出雲国武士についてみてみたい。7名とは塩屋大夫、多久七郎、朝山、木次、身白(が一党)、横田兵衛惟行、富田押領使である。前に述べたように出雲国衙の所在した意宇郡の武士はみられず、当時の出雲国衙在庁官人の筆頭で、且つ勝部宿祢一族の惣領は含まれていないのである。
出雲国衙そのものは院との関係が強く、平氏方となるか反平氏方となるがでは微妙な立場にあった。
 平氏との関係で重要なのは摂関家領である。いわゆる平氏による「摂関家領押領事件」については、近年は評価が変わり、平氏と対立するようになった後白河院の立場から批判的に述べたもので有り、摂関家の藤原基実流(基実が24才で死亡し、後継者基通も7才であった)と平氏が連携する中で、基実の妻となった盛子が相続し、その父平清盛が管理したとの評価が説かれる。なにより、この連携は弟基房に対する基実流の利害にもかなうものであった。
 いずれにせよ、平氏と摂関家嫡流との連携に伴い、平氏の家人が摂関家領の管理にあたったり、摂関家領の庄官が平氏の家人となるようになった。出雲国でこれに該当するのが、鎌倉期に九条家領となったものを除く摂関家領である。西の能義郡には、富田庄・宇賀庄・吉田庄があり、西部の出東郡には福頼庄と神門郡木津御島があった。この庄園が拠点となってさらに周辺の武士の組織化が進んだのではないか。西部の平氏方は楯縫郡の多久氏、楯縫郡から神門郡に所領を支配する朝山氏と塩冶氏、同族で大原郡内を支配する木次氏と三代氏、富田庄の富田押領使とその南部に位置する横田氏である。西田友広氏は斐伊川などの水系を単位とするまとまりを指摘されたが、それ以上に摂関家との関係が強かったと思われる。
 これとは別に石清水八幡宮の末社である八所八幡宮との関係を主張する意見もあるが、国衙に隣接する平浜八幡宮と備後・安芸国に近い赤穴八幡宮を除けば、対応している(ただし、大田別宮は飯石郡ではなく、神門郡内である)。

平安末期の出雲国司2

 藤原朝時
 仁安2年(1167)10月から同3年7月にかけて出雲守に現任していたことが確認できる(『兵範記』、『愚昧記』)。藤原式家合明の子から、院の近臣為隆・顕隆と兄弟である藤原朝隆を父とする藤原朝方の養子となっており、朝方が知行国主であった可能性が高い。朝時を出羽守と記す系図もあるが、年次を含めて確認できない。
 藤原朝定
 嘉応元年正月に出雲守に補任されたことのみ知られる。知行国主は父朝方で、養子朝時の在任(仁安2年)から『玉葉』で確認できる承安2年(1172)閏12月まで継続してその地位にあった可能性が高い。朝方は院の近臣として安元元年(1175)には公卿(参議)となったが、寿永3年11月には源義仲による院の幽閉に伴い解官された。義仲失脚後復活し、文治2年には陸奥出羽按察使となった。文治5年には義経とそれを庇護する奥州藤原氏との関係を疑われて、一旦子の出雲守朝経とともに解官されたが、後に復帰している。東国御家人で頼朝の推薦をうけて出雲国目代に起用され、且つ初代出雲国「守護」(惣追捕使)となった兵衛尉政綱が、頼朝の真の標的であった。
 藤原能盛
 白河院北面藤原盛重の子成景の養子。承安4年正月に出雲守に補任され、安元2年4月の時点で現任していたことが確認できる。後白河院の北面として仕え、近臣として台頭し院分国や院領筑前国怡土荘の支配に関わった。平家のクーデターで周防守を解官された。平家の家司として安芸守を務め、大宰府に派遣された藤原能盛とは別人である。能盛が出雲守であった時期は後白河の院分国であった可能性が高い。

平安末期の出雲国司1

 藤原経隆までは大日方氏の研究があるが、それ以降について、主に「国司一覧」(『日本歴史総覧』所収)と史料編纂所データベースに基づき、述べてみたい。
 源光保
 源光保については、二条天皇親政派の代表としてすでに述べたが、美濃源氏源光国の子で、娘土佐局が鳥羽法皇の寵愛を受けたため、側近として台頭したとされる。久安3年に比叡山と日吉祇園社が平忠盛・清盛父子の流罪を求めて強訴した際に、源為義などとともにこれを防ぐために動員されており(石清水文書)、京武者としての性格も持っていた。久寿元年(1154)正月の出雲守に補任され、保元元年7月の時点で現任であったことが確認できる。
 平基親
 保元3年4月に補任されたのが平親範の子基親である。平時忠・時子兄弟と同族の公家平氏である。この年8才であるが、知行国主は不明である(後白河天皇の分国か)。父親範は久安4年から保元元年まで伯耆守であり、本人も平治元年から仁安元年まで伯耆守をつとめている。母は高階泰重の娘で、泰重の父重仲は摂関家家司で、寛治3年~永長元年の出雲守であった。基親の従姉妹に宗尊親王の母棟子がいる。(以下はウィキペディアによる)基親は国司歴任後、高倉天皇と平徳子に仕えたが平氏のクーデターで一時解官、後に復帰して建久元年には従三位・兵部卿となり、建永元年に出家し法然に師事、『選択本願念仏集』の編集にも関与した。

平安末期の出雲国3

 同年(1153)には為義の子で独自に関東で勢力を扶植していた義朝が下野守に補任されており、これに対抗する形で、義憲の同母兄義賢(源義仲の父)も関東に下り、上野国多胡を支配するとともに、武蔵国大蔵を本拠とする秩父重隆に婿入りし勢力を強めつつあった。義朝=下野、義賢=武蔵・上野、義憲=常陸という形であったが、久寿2年(1155)8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた子の源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父・重隆とともに討たれた。
 話を義憲に戻すと、清和源氏である義憲が平頼盛に接近しているが、その背景には母池禅尼と美福門院の存在があった。久安3年(1146)から久寿元年(1154)まで、大治3年(1128)~大治5年に続き2度目の出雲守となった藤原経隆は藤原基隆の子で、父の兄弟には義親の乱時の出雲守家保と、美福門院女房で平親宗(時忠・時子異母兄弟)の母がおり、宗子(池禅尼)も同族である。これを踏まえれば、久木新大夫が義憲の方人となったことは十分あり得ることである。久木新大夫は国守経隆を介して美福門院、さらには池禅尼とその子頼盛をへて義憲と結んだのであろう。そして久木新大夫は義憲のみならず、平頼盛や平時子の夫清盛と結びつくことも可能となった。
 1156年に保元の乱が勃発し、後白河天皇と結んだ平清盛と源義朝が勝利し、義憲の動向は不明だが、その父為義は崇徳上皇方となり敗北した。次いで、平治の乱では義朝が院の近臣藤原信頼と結んでクーデタを企てたが、清盛並びに二条天皇派である源光保(藤原経隆の後任の出雲守、1154~1158、当初は信頼方であったが清盛方に寝返る。1160年に逮捕・配流されて殺害される)に破れ、東国へ逃れる途中で殺害された。
 以上を踏まえるならば、久木新大夫がその後選択しうるのは平清盛と結ぶことのみであった。平家との関わりの深い蓮華王院領として加賀庄が、また最勝光院領として大野庄が立券されたことの背景には、出雲国における親平家勢力の台頭があったのだろう。

平安末期の出雲国2

 成立年代は特定できないが、早い時期に成立した摂関家領としては、高陽院領福頼庄(1118~1121の期間に成立した『執政所抄』にみえる』、宍道湖東岸の出東郡の庄原から学頭にかけての地域で、楯縫郡久木に隣接)、冷泉宮領(11世紀後半までには成立)吉田庄(能義郡)もある。この内、冷泉宮領については、元木康雄氏によれば次のとおりである。すなわち、源頼義は小一条院の判官代をつとめ、冷泉宮領には河内源氏の有力な郎党の家が関係していた(三浦氏領相模国三崎庄も)。頼義は50をすぎて平直方女子と結婚して、義家以下の男子をもうけ、貞盛流嫡流の直方の勢力を取り込んだ、と。吉田庄の荘官となった武士と清和源氏嫡流との関係も想定でき、源義親の乱と出雲国の武士との関係も問題となって来る。
 出雲国と清和源氏の関係といえば、仁平3年に源三郎先生義憲(義広)方人久木新大夫と鰐淵寺唯乗房が万田庄をめぐって相論を行い、これが伊之谷合戦に発展し、久木氏方が鰐淵山を焼き払ったことが注目される(『鰐淵寺古記録』)。義憲の父は源為義(義親子)であるが、時あたかも関東に下向していた義憲が、仁平三年(1151年)12月、常陸国に志田庄を立荘する。この時の志田庄の本所は美福門院、領家は藤原宗子(後の池禅尼)であり、その立荘を斡旋したと思われる常陸介が宗子の息子の平頼盛で、久安5年に17歳で常陸介に任じられている。この時点において義広が平頼盛(忠盛と池禅尼の子)に接近していたことが窺える。
 それに先立つ久安6年(1150年)、宗子は崇徳上皇の第一皇子・重仁親王の乳母となり、忠盛は乳父になっている。重仁親王は次期皇位の最有力候補であり即位が実現すれば、忠盛は大きな権力を手にできるはずだった。しかし仁平3年(1153年)、忠盛は公卿昇進を目前に病死した。

平安末期の出雲国1

 12世紀は寄進地系荘園が各地で立券され、中央と地方との関係が格段に濃密になった時代である。その影響は武士団も及んでいるはずだが、関東に比べて西国の武士団の形成に関する史料は少なく、出雲国では嘉承2年(1107)から翌年にかけての源義親の乱ぐらいである。この時、出雲守藤原家保の目代を殺害した義親方に荷担した武士もあれば、追討のため因幡守に補任された平正盛のもとに動員された武士もいたであろう。『大山寺縁起』には正盛は因幡・伯耆・出雲国の勢を率したとある。
 義親追討の功により正盛は天仁元年(1108)正月に但馬守に補任されたが、出雲守も14才の藤原顕頼に交替し、その父顕隆ないしは祖父為隆が知行国主となっている。顕頼は天永元年7月までには出雲国に下向したが、時を同じくして因幡国(顕隆の弟長隆が国司)から出雲大社本殿造営用の大木がもたらされ、天永3年(1112)6月には出雲大社の遷宮が行われている。後にこの時の正殿造営は3ヶ年で完了したとしている。
 康治2年(1143)3月19日の官宣旨によると、出雲大社の造営は官宣旨により開始され、公領だけでなく荘園にも平均に材木を負担させることになっているが、近年は国内の衰微もあってなおさら荘園への負担が不可欠だとする。すなわち、近年になって新たな荘園の立券や従来の荘園の加納分が増加し、先例に従って負担を課すが、拒捍しがちであるとする出雲守藤原光隆の解状に任せて、官宣旨により往古の荘園の本免を除き、加納田畠・新立荘園・神社仏寺への賦課を命じている。遷宮が完了したのは久安元年(1145)閏10月のことで、今回も3年で正殿造営を終えている。
 12世紀中頃に立券されたことが確認できるのは、皇室領である安楽寿院(1137年創建、1143年までに整備が進む)領佐陀社と成勝寺(1139年創建)領揖屋社・飯石社で、次いで摂関家領富田庄(1160年初見)や八条院領来海庄・大原庄(1176年初見)がみえ、蓮華王院(後白河と清盛により1165年創建)領加賀庄、さらには最勝光院(後白河が女御である平滋子=清盛妻時子の姉妹と子の高倉天皇のため1173年創建)領大野庄がみえる。これとは別に石清水八幡宮領8社も保元3年までには勧請され、庄園となっている。この時期が大規模で四至の領域を持つ寄進地系荘園が多数成立したことは疑いない。

2013年12月23日 (月)

多久氏と米原氏

 出雲国は10郡に分かれているが、その内、出雲大社のある神門郡を出東郡・大原郡とともに原手三郡と呼び、佐陀神社のある秋鹿郡を島根郡・楯縫郡とともに島根三郡と呼んだ。尼子氏の出雲国支配において、この2つの地域が重要な位置を占めたからであろう。そうした中、楯縫郡でありながら出東郡と関係の深いのが多久郷内久木村であった。
 多久氏と尼子氏との関係は、文明8年の松田氏を中心とする国人一揆(能義郡土一揆)の発生時に確認できる。不意をつかれたこともあり、尼子清貞とともに一揆軍と戦ったのは福頼与五郎・立原十郎左衛門尉・室田・女塚仲兵衛・多久三郎左衛門尉と野伏であった。この内、室田氏については不明だが、富田庄近隣の武士が福頼・女塚氏であり、立原氏は尼子氏領近松庄内立原を苗字の地とする飯沼氏の一族であった。それに対して、多久氏はどのような存在であろうか。
 多久氏は鎌倉時代に東国から多久郷に地頭として入部した御家人の一族で、貞和7年(1351)には「多久中太郎太郎入道」が同じ楯縫郡内の小境氏とともに、足利直冬派として活動している。次いで、応仁の乱後の長享2年(1488)には、出雲大社領のうち山科家が支配する富・千家・鳥屋郷の代官として「多久大炊助」がみえる。それ以前の代官が年貢を未進したため、新たに多久大炊助が代官となっている。佐波氏など有力国人や奉公衆を代官としたのだろう。
 楯縫郡内久木の八幡宮(現在は都牟自神社内にある)は、尼子氏が富田八幡宮を勧請したもので、毎年10月15日には尼子家臣が代参していたという(天保11年10月久木八幡宮頭代社参殿合証拠連判状、勝部家文書)。具体的には楯縫郡多久郷城主多久弾正義敷と出東郡高瀬城主米原平内兵衛綱寛が社参したと記す。実質的には楯縫郡と出東郡に両属する形の久木村の八幡宮に両郡の尼子氏直臣富田衆が社参する形となっていた。そのうち、米原氏については竹生島奉加帳にも「米原左馬允」がみえるなど、よく知られていたが、多久氏は「毛利家文庫多胡家証文」によりその存在が明らかになった。苗字の地である久木を含む多久郷は宍道湖西北岸の要地で、これに対して西南岸の地が庄原を中心とする幕府御料所福頼庄であった。多久郷・福頼庄ともに尼子氏の直轄地に組み込まれ、多久氏と米原氏はともに富田衆に位置づけられた。尼子氏にとって出雲国西部と南部を掌握するために、久木の地が重要な位置を占めたのであろう。
 天文7年には立原の地頭は尼子国久の子新四郎久豊で、天文8年の加茂庄地頭は尼子経久(代官湯原幸清)であった。さらに加えれば、天文24年2月に尼子晴久が修理大夫に任官したことにより、出雲大社・日御崎社・揖屋神社に所領が寄進されているが、神門郡塩冶郷内薗村百貫、同高浜郷之内本家分百五十貫、意宇郡白石村五十貫、出東郡氷室之内百貫はいずれも直前に滅亡した新宮党領=尼子氏領である。塩冶郷が国久領であることは言うまでもないが、半済により守護領となった出雲大社領高浜郷内本家分、高瀬城(福頼庄と宇屋神庭との境界に位置)と久木に隣接し、『風土記』の神奈備山とされる仏経山のある氷室庄(多久郷にも神奈備山がある)、本来は尼子国久女子が嫁いでいた宍道氏の所領内であった白石が尼子氏領となっていたのである。
 以上のように、神門郡はいうまでもなく、楯縫郡から出東郡の地も尼子氏の西部支配において重要な意味を持ち、意図的に直轄化されていたのである。

意東庄2

 その後の史料は欠くが、意東庄は尼子氏の本拠地富田庄の西隣であることもあり、庄内の京羅木山は大内氏が尼子氏を責めた際に陣を構え、毛利氏の尼子氏攻めの際には意東・福楽小屋(城)をめぐって合戦が行われ、永禄7年5月には尼子義久が多久三郎左衛門尉清広が福楽山で討ち死にしたとして、子の多久千松に父の跡職を安堵している。清広は永禄6年8月16日には楯縫郡久木村内中州分50俵尻を道垣八幡宮(宮内神左衛門尉宛)に寄進しており、尼子氏直属の富田衆であったと思われる。この多久氏が警備にあたっていた福楽山のある意東庄は尼子氏の直轄領となり、安来庄と同様に尼子氏が代官となってその年貢を納入していたのであろう。次いで、永禄7年4月には尼子義久が、多久清広に与えていた中州分を立願により道垣八幡宮に永代寄進することを多久宮内三郎左衛門尉(清広)に伝えており、清広と神主は同族であったことがわかる。その直後に清広は討ち死にしたことになる。
 次いで永禄8年正月には熊野氏が毛利氏方となったことにより、福楽・十神をはじめとする尼子氏方の城を悉く攻略したと、元就が厳島神社棚守氏につたえており、残るは富田城のみという状態になり、4月には富田城の総攻撃が行われた。なんとか持ちこたえた富田城であったが、兵糧を搬入するルートを遮断され、食糧不足もあって城内からは毛利氏に投降するするものが相次ぎ、永禄9年11月に富田城は降伏して開城した。
 意東庄は毛利氏から三刀屋氏に与えられ、天正8年12月吉祥日の大森神社棟札によると、三刀屋久扶が大旦那となり、被官の佐方平三兵衛尉と同次郎四郎が本願として神社の造営が行われている。また、同11年の大日堂の棟札によると、被官佐方次郎右衛門尉昌綱が檀那としてみえる。庄内が三刀屋氏の代官に分割されて支配されていたことがわかる。

意東庄1

 文永8年関東下知状写に田数63町、地頭は武蔵七党の一つ村山党に属する「金子左衛門三郎女子」であった。女子が父である金子左衛門三郎から地頭職を譲られたのであろう。庄園としては南北朝期の年未詳賀茂御祖社(鴨社)社領目録に安来庄とともに「筑陽庄」とみえる。出雲国では文治元年正月に源頼朝が「安東郷」を鴨社冬季御神楽料所として寄付しており、これは「安来郷」を誤写したものと考えられる。
 武蔵金子氏については文治3年の段階で金子十郎家忠が播磨国法隆寺領鵤庄の地頭となっているが、その代官が領家の所勘に従わずに庄園を押領するとして訴えられ、幕府が妨の停止を命じている。また、弘安4年7月には幕府が金子頼廣に対して、亡父左衛門尉廣綱の遺状に基づき母尼妙覚が行った配分により、伊予国新居郷地頭職と武蔵国金子・阿住郷屋敷田畠等が安堵されている。
 意東・安来庄のどちらが先に成立したかについての明証は欠くが、すでに存在した鴨社領意東庄に近接する安来郷が平家没官領となったことを受けて、鴨社側が頼朝に要請した可能性が高い。すなわち、鎌倉幕府成立前には意東庄が鴨社領となっていたのであろう。安来庄は承久の乱後に相模国松田庄から松田有忠が新補地頭として入部したが、筑陽庄については地頭補任の時期は不明である。

2013年12月10日 (火)

周布氏と白上郷4

 観応の擾乱の直前のまで田村氏は幕府方であったが、足利直冬の勢力が石見国に浸透する中で、姻戚関係にある越生氏とともに反幕府方に転じたのであろう。そしてこのことが周布兼氏の子兼仲が田村盛泰女子と結婚することにつながった。兼氏は石見国の南朝方の中心三隅氏の一族兼覧女子と結婚し、その嫡子は「兼」を付けずに「氏連」と名乗った。また、兼氏女子はこれまた貞和5年に南朝方に転じた吉川経兼(その母は三隅氏庶子永安氏女子良海)と結婚し、その関係で至徳2年に周布氏庶子が与えられることになった市木郷が、吉川経兼に与えられている。
 このように反幕府方に転じた田村(来原)氏の中で、盛泰の庶子遠盛(新左衛門尉に任官)は、幕府方に留まり、前述のように盛家が直冬から与えられた白上郷を、足利尊氏から与えられている。その後貞治5年(1366)8月と応安元年(1371)9月に、遠盛はなお反幕府方であった福屋氏や出羽上下郷(反幕府方であった高橋氏が支配か)の攻撃に参加して軍忠状を提出している。前述の応安元年2月25日の譲状の中で、祥兼(盛泰入道)は新左衛門遠盛が妨げをなすなら、配分した所領を犬法師に与えると記している。こうした中で盛泰-犬法師がその後頼りにしたのが養子となっていた周布兼仲とその父兼氏であったろう。畧系の仲盛は犬法師の成人後の名であろうが、兼仲の「仲」の字を上に付け「盛」を下に付けているのが象徴的である。
 とはいえ、兼仲も兄氏連が応安5年(1375)に死亡してから2年後の永和3年(1377)に兼氏の後継者となっており(周布氏系図)、この頃に元服したのだろう。永徳3年(1383)には父兼氏から周布郷と白上郷を譲られるとともに、この頃、弾正少弼に任官したと考えられる。以上の点からすると、兼仲は応安年間に誕生した可能性が高い。そして至徳2年には仲盛が兼仲に相伝文書を渡し(周布氏系図)、それに基づき、周布兼氏が「如元」白上郷の支配を認められた。
 以上、周布氏と白上郷、さらには田村氏との関係についてまとめた。

周布氏と白上郷3

 有政が承久の乱の勲功により石見国宇豆郷を得たことにより、その子孫が石見国内に戻ってくる。そして有政の曽孫にあたる女子が鎌倉末の惣領周布兼宗と結婚したことで周布氏との関係が生まれる。越生氏女子を母として産まれたのが越生氏がその名に付ける「氏」を付けた周布兼氏である。その一方で女子の兄弟光氏は、正和元年には本領岡崎村を狩野貞親が恩賞として得た加志岐別符と交換して、これまた石見国に入って来た。
 話を田村氏に戻すと、嘉禄3年5月7日に幕府は弥四郎盛家に対して、亡父資盛の例を守って来原別符地頭職を沙汰せよと命じている。資盛が鎌倉初期に来原別符を与えられ、石見国に入部したのである。前述の盛泰譲状には「ししやく六代まてのあとを々うてたのさまたけなくちきやうす(へ)き也」とあり、畧系でも資盛から盛泰までが6代である。次いで文永2年9月28日には幕府が藤原泰盛に来原別符地頭職を安堵している。父盛家が譲状を作成する前に死亡したため、その遺命に基づき嫡子泰盛が配分したところ、母尼と舎弟等も同意したことが記されている。畧系が泰盛の兄弟については記していないのは、ある時期に写される際に、必要な情報のみを写したためであろう。
 泰盛の子が盛長(道円)で、その孫が盛泰であるが、問題は貞和6年に直冬から白上郷を与えられた孫四郎盛家である。これに対して、正平12年7月13日には小坂孫四郎跡の白上が反幕府方の修理大夫(萩閥では山名義理也とするが、義理は永和2年4月に修理権大夫であり別人である)から周布因幡守(兼氏)に兵粮料所として宛行われた。ここから田村孫四郎とは田村氏一族で小坂(現浜田市、中世は木束郷内)を支配していた一族=小坂氏であることがわかる。隣接する市原郷にも小坂方が存在したことが確認でき、小坂盛家が同時期に市原郷内も与えられていた可能性が大きい。その2年後には足利直冬により白上郷地頭職と領家職が兼氏に預け置かれ、さらに2年後には白上郷新本地頭職が直冬から兼氏に宛行なわれている。

周布氏と白上郷2

 貞和6年4月21日足利直冬下文(益田家文書)により田村孫四郎盛家に白上郷(金子五郎左衛門跡)が与えられている。これに対して、観応2年2月1日には足利尊氏袖判下文(萩閥・周布)により、来原四郎遠盛に白上郷地頭職が与えられており、一族内で幕府方と反幕府方に分裂していた。文書の一方が益田氏に残り、他方が周布氏に残ったことは、これ以降、白上に関して益田氏と周布氏の両方が権利を得たことを意味する。
 「藤原氏田村来原畧系」によれば、周布兼仲の妻の兄弟に遠盛と仲盛がみえるが、盛家はみえない。遠盛の父盛泰については貞和5年正月18日軍忠状が残っている。建武3年以来の軍功を箇条書きに記したものとして知られているが、それによれば、以下のとおりであった。
 建武3年初めから石見国でも南北朝の動乱が開始されるが、来原郷は南朝方に占領され、惣領盛泰とその一族は本領を離れて合戦で各地を転戦している。三隅氏・周布氏や河上氏(河上郷だけでなく、来原郷に隣接する久佐・佐野・長屋も支配)といった領主が南朝方であったためであろう。そこには一族として孫四郎貞盛・四郎太郎景盛・今田祖覚房・三郎四郎盛直、扶持舎弟又四郎盛俊・同二郎四郎盛資の名がみえる。畧系には盛泰の兄弟として盛俊・盛資がみえる。惣領家が「盛~」という名であるのに対して、一族は「~盛」と差別化が図られている。「扶持舎弟」との表現から、盛泰の段階では単独相続に移行していたことがわかる。これに対して田村孫四郎盛家は一族内の庶子であろう。
 応安元年2月25日には盛泰(祥兼、ただし畧系では祥心とする)が、子息犬法師丸に来原地頭職を一円に譲っているが、そこでは「たうえん」の譲りに任せて知行すべしと述べている。畧系によると盛泰の祖父盛長の法名が「道円」であり、盛泰自身も祖父から譲られたのであろう。田村氏は14世紀半ばの遠盛が「来原」を名乗っており、周布氏と同様国御家人であると思われていたが、田村資盛の子有政が武蔵国越生有平の女子と結婚して越生郷内岡崎村に移住していることからすると、東国御家人の可能性が高い。越生氏は武蔵七党児玉党の一族であったが、同じく七党の一つ西党の一族日奉氏に、平安末~鎌倉初期の人物として「田村盛忠」がみえる。日奉氏は藤原道長の兄道隆の孫宗頼を祖としており、田村氏が藤原姓であったこととも矛盾しない。

周布氏と白上郷1

 至徳2年の7月から8月にかけて①大内氏から周布兼氏とその子兼仲に対して大量の所領安堵が行われているが、②幕府による安堵は、至徳2年11月26日の義満袖判御教書により兼氏に対する周布郷の安堵のみ実現している。その後、嘉慶元年11月25日には来原別符と高津西方内田畠等について、幕府から相伝に任せて周布兼仲が安堵され、康応元年11月には白上庄本新地頭職と周布郷地頭職について兼仲が安堵されている。
 これに対して兼仲の嫡子兼宗(法名観心)が応永18年に幕府から安堵されたのは、周布郷(付末元・松竹)、来原郷、白上郷本新内山津田・河上等であった。以下に述べるように、白上郷=山津田、新白上郷=河上(川登)に相当しよう。
 ①については当知行安堵と新たな安堵、さらには預置に分かれる。貞治3年に守護荒川詮頼から周布と白上両郷地頭職の当知行安堵をうけているが、至徳2年の安堵に周布郷そのものは含まれず、末元別符・貞松名・松本村が周布郷内として安堵されている。一方三隅氏領小石見郷と境界をめぐる相論となっていた安田・福井・青・葛原については、周布郷内の所領としてだけでなく、独立した所領としても安堵されている。これに対して、長野庄内白上郷については元の如く知行せよとある。問題は「元」であるが、貞治4年2月に周布兼氏が幕府方となり周布・白上両郷地頭職を安堵されていることと、その後白上郷については何らかの理由で周布氏の支配を離れていたことによるのだろう。
 ここで白上郷とそれに隣接して関係の深い市原郷ついて14世紀半ばまでの状況をまとめておくと、鎌倉中期に国連なる人物が市原郷と白上本新郷の代官職を勤めていたことが確認でき、嘉元2年には領家から長野庄内飯田・市原政所に対して、源茂国を代官に補任し、庄務の執行と恒例・臨時の公事の沙汰をさせることが伝えられている。この内、飯田郷については承久の乱後の貞応2年に益田兼季の支配が認められ、その後子の兼時(惣領)、孫の兼久(当初は庶子であったが、兄兼長の死による惣領となる)までの支配は確認できる。ところが兼久の嫡子兼胤の代に益田本郷を没収されており、飯田郷についても失い、源茂国が地頭ではなく代官という地位についたと思われる。
 次いで建武4年には国連・茂国と同族であろう虫追四郎左衛門尉政国が一族を率いて幕府方として長門国内で戦っている。一方、同年には白上郷地頭職が幕府から安濃郡河合郷地頭金子清忠に与えられており、源氏一族の中に反幕府方の人物がいたことがわかる。康永3年8月には領家から政国に対して、飯田・市原・高津各郷と給分などが安堵されている。次いで応安7年には領家が某に対して亡父の代からの長野庄惣政所職と一族が支配する郷々への支配を認めている。これがその名に国を付ける源氏一族の最後の史料で、以後その所領は益田氏の支配するところとなる。

2013年12月 2日 (月)

周布兼氏から兼仲へ2

 松岡氏は5月14日に守護使不入を認められた祥兼がその後満弘派に転換したとされるが『花栄三代記』の記事には5月10日にはすでに長門国での合戦が起こっており、安芸国での合戦も5月28日条に記されてはいるが、それ以前のものである可能性が高い。また兄弟の父である弘世も同年10月13日までは生存しており、両派の調停がなされた可能性が高い。松岡氏の根拠は、氏が康暦2年に比定された無年号の文書群しかないので、それを除けば益田氏が満弘方であったことを示す史料(厳密には義弘方の国人が益田氏を攻撃しようとしていることが知られるのみ)は無く、議論が本末転倒となっている。
   康暦2年に比定された文書に「周布弾正少弼兼仲」がみえるが、彼が任官したのはいつなのであろうか。「周布氏系図」には応安5年に嫡子左近将監氏連が戦死したため、①永和3年2月5日に継嗣となり、②永徳2年6月1日に父兼氏から譲られ、③嘉慶元年に来原別符と高津西方に対する将軍義満の安堵を受け、④康応元年には周布郷と白上郷等の義満の安堵を受けたと記す。
 このうち、②③④については文書が残されており、③④の段階では弾正少弼に任官していたことは確認できる。問題は②の譲状で、6月1日付の周布郷地頭職の譲状は「子息次郎兼仲童名延命丸」となっており、自筆の譲状であるとして、他筆の状がこの前後にあるはずがないとまで記しているが、2日後の6月3日付の白上郷地頭職は「子息弾正少弼兼仲童名延命丸」と記し、自筆である旨も述べられていない。本領で代々受け継がれてきた周布郷と「郷内庶子分」であるとして兼氏(実際には庶子兼仲が田村氏に養子に入ったことで権利を主張)の代に得た白上郷内田村分との間には違いがあろうが、6月1日の自筆譲状の「次郎」が正しいか、あるいはこの時点で弾正少弼に任官したかであろう。いずれにせよ康暦2年の時点では兼仲は任官しておらず、繰り返しになるが松岡氏の比定には根拠が何もないのである。一方、嘉慶元年から2年に比定する説については、今のところ何の問題もないのである。
 話が横道にそれたが、①の永和3年についてはすでに述べたように、兼氏が荒川氏を通じて周布郷の本領安堵を求めたことが確認できるのみで、新出周布家文書には、士心(兼氏)代兼俊の3月日言上状が残されている。

周布兼氏から兼仲へ

 南北朝の動乱で周布兼氏は三隅氏との関係で反幕府方として行動していたが、貞治2年の大内氏の幕府への復帰を経て、同4年2月には周布兼氏も幕府方となり周布・白上両郷地頭職を安堵されている。益田兼見も貞治3年9月に幕府の奉書をうけて、三隅城攻撃に参加したとしている。恐らくは益田氏の中でいち早く幕府方となる中で、惣領の地位を勝ち得たのであろう。そして、貞治5年5月には三隅氏からの文書の受け取りを行っている。以前にも述べたが、益田兼見子と三隅氏女子との間に婚姻関係が結ばれ、その孫が後継者となることで両者の利害の調整が図られたのであろう。
 貞治5年後半には守護が山名義理から隣国周防・長門国の守護である大内弘世に交替し、弘世自身が石見国へ進発し、なおも反幕府方にとどまっていた福屋氏への攻撃が行われ、これに益田兼見も参加し、同年11月には大内氏の関係者が幕府に益田兼見領の安堵を幕府に求めている。
 応安4年5月には永安周防入道祥永が益田庄弥冨名下村半分地頭職を益田祥兼が押領していると幕府に訴え、翌6月には祥兼が正当性を主張している。次いで永和2年4月には益田氏と荘園領主で益田庄御年貢并田数目録の作成が行われていたが、南朝との関係を疑われた大内弘世が石見国守護を解任され、荒川入道が守護に返り咲いた。その後も大内氏方が石見国から退去しなかったため、幕府は石見国に「高房」を派遣し、邑智郡河本城や益田城、さらには江津に石見国人武田氏や俣賀氏が動員されている。同年8月には将軍義満が佐波実連に勲功の賞として出雲国赤穴庄と安芸国山県庄地頭職を与えている。従来、この戦いをもって石見国での南北朝動乱が終了したとされるが、文書から知られる内容をみてもその根拠は不明で、妥当な評価とは言いがたい。なお翌年3月21日には管領細川頼之が周布兼氏に忠節を賞する書状を送っている。
 周布兼氏は永和3年には守護荒川氏を通じて幕府による当知行の安堵を求めているが、実現していない。翌永和4年2月には益田祥兼が譲状を作成している。同年12月には守護荒川氏が井尻氏による井尻村一方地頭を本知行に任せて安堵し、翌5年2月には君谷祐忠に対して出羽上下郷地頭職を安堵しているが、4月の管領細川順之の失脚=康暦の政変により大内弘世が守護に復帰し、その死後は子の義弘が継承し、国人への所領安堵、紛争地の打渡とともに康暦2年5月14日には益田祥兼の所領への守護使入権を認めている。そうした中で、安芸国と長門国で義弘とその兄弟満弘の対立が発生し、国人が巻き込まれた。周布兼氏は義弘方として同年9月12日には周布郷への守護使不入を認められている。一方では庶子が惣領の催促に応じないという事態が発生している。

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