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2013年11月

2013年11月28日 (木)

文書の声を聴く

 とりあえず、アクセスが10万を越えたが、最近の状況はネタが乏しい。パソコンについても、東プレのキ-ボードになれつつあり、ノートパソコンとはすっかりご無沙汰である。
 11月22日に周布公民館で周布氏について話をした。準備を含めて冷や汗ものであったが、直前になってあの有名な朝鮮貿易の担い手についても正しい理解がなされていないことを知って驚いた。自分自身も30数年前に高校生とともに周布家文書を読んで以降、まとまって読んだことがなく、朝鮮貿易についても論文は読んでいてもほとんど自分のものにはなっていなかったのだが。一方、16日の中世史研究会での報告もあまりにも話が多岐にわたり、2時間以上かかる内容を端折って45分で話したので、聞く側は大変であったようだ。
 とはいえ、ブログの題名である「資料(本来なら文書としたかったが)の声を聴く」必要性はますます高まっていると感じる。中国地方の中世史は広島中心に展開してきたが、その広島にしても柱となった松岡氏、岸田氏の研究に対してそれを深める研究がないまま、本来なら旧説となるものがそのまま「通説化」してしまっている。両氏の研究はパイオニア的もので、史料収集も十分でない状況下で大変な苦労があったであろう。とはいえ、今思うのは、史料集の刊行など研究の条件は格段に整備されたのに、その後の二の矢、三の矢で深められないまま通説となっているので、その研究としての精度には課題がある。
 今回は、松岡氏の論文と『南北朝遺文』を俎上にあげて述べたが、多くの関係文書を康暦2年に比定されていたことについては、とにかく根拠を全くといって確認できず、それに対して、その多くは嘉慶元年から2年にかけてのものであると、ほぼ論証できたと思う(その過程では二転三転したのだが)。繰り返しになるが、松岡氏の問題ではなく、その後を追う研究がないままに通説化したことが問題なのである。基本的な点の検証をすれば、その問題点を明かにすることはそう難しくはなかったにもかかわらず。
 とはいえ、史料の残り方も大きく影響する。益田家文書と周布家文書ともに、肝心な時期の文書が残っていないのである。もう一つ感じるのは、萩博の周布氏系図は、このようなものが作成されていたのかという点とその記述の正確さ(一部に課題はある)で注目されるものでありながら、これまでほとんど活用されていない。現在の研究が一次史料に偏重している問題がここに現れている。一次だ、二次だ、三次史料だと思考停止をした議論をしても無意味である。問題なのは個々の史料が活用ができるかということである。慥かに、戦国期については軍記物が存在し、一面においてその影響を受けた叙述があったことは慥かであるが、それだからといって、一次史料のみで論じていては真理への接近は不可能である。おまけにその一次史料のみが意図的に残されたことについては無頓着である研究が多い。この点については、大学時代に中世史の世界に導いていただいた山室京子氏がその論文「太閤記は史学に益あり」で明確にし、故石井進氏もそんな硬直化した研究ではだめだということはその論文で範を示されていたと思う。
 中世史研究会の報告も、基本的には尼子氏について論じるなら、事実として確認できる点とできない点を明確にした上で、事実に基づき評価すべきなのにこれまでの研究はその作業を欠いていた(事実の確定なしに評価できるのが論者としては不思議でしょうがない)ということもあったが、それ以上に、本来存在していた文書が失われ、それを復元しようとして作成された文書が、形式面から偽文書とされまったく活用されていない勿体ない現状に対し、それを踏まえて真理に接近しようとしたものであった。以前は論者ももっぱら偽文書の指摘に重点を置いて通説の再検討を行っていたが、最近は少しは進歩したかなと思いつつ、現状はなお少数意見にとどまっていると感じる。

文書の空白、益田氏と周布氏

 益田氏と大内義弘、さらには幕府との関係を示す文書は、永徳3年の安堵から明徳4年末の益田庄返し付けまで空白となっており、この間益田氏と大内氏・幕府の関係が対立状態にあったことは疑いない。それが明徳4年末に大内氏との関係が復活し、大内義弘が討伐された応永の乱後には幕府との関係も復活している。
 一方、康応元年の文書から、応永9年9月の将軍義満による周布次郎兼宗(兼仲嫡子)への所領安堵まで、周布氏と大内氏・幕府との関係に空白がみられるのである。そしてその空白が歴史の解明に困難をもたらし、18世紀初めの萩閥時には、朝鮮との通交を開始した「観心」を兼仲として解釈し、兼宗の時代がきわめて希薄となったのである。久留島氏科研報告書で紹介された「新出周布家文書」と萩博物館所蔵周布氏系図、さらには周布郷内大麻山尊勝寺記録により、兼仲の法名が道賢で応永9年2月に死亡したことと、観心がその子兼宗の法名であることが確認できるのである。そして応永9年の将軍と管領の文書で安堵された兼宗の所領は、周布郷(末元・貞松を含む)・来原郷・白上郷本新内河上村のみと、明らかに少ない。兼仲から兼宗への譲状も残っていないが、考えられるのは譲状を作成する前に死亡し、関係者での配分が行われたこと、周布氏が深い関わりも持ってきた大内義弘が応永の乱で討伐されたことが影響していることぐらいである。
 ところが、あれほど詳細な萩博周布系図も兼仲の子については兼宗のみを記し、姉妹すらみえないのである。この問題については別の機会で述べることとして、大内義弘討伐が周布氏に影響を与えたのは慥かであろう。
 新出周布家文書には応永6年11月1日の三隅道満(信世)・益田道兼(兼世)・周布道賢(兼仲)・福屋兼宗(兼光)連署契約状が含まれているが、応永の乱直前に一族の団結を確認している。次いで乱による混乱が落ち着いた応永12年には益田兼家・三隅氏世・周布兼宗・福屋氏兼に吉見頼弘が加わって契約状を結んでいる。

大内満弘と益田氏(5)

 嘉慶2年11月段階で、益田攻めの一定の決着(妥協)が図られ、当初永安氏に約束していた遠田城を与えることができなくなったのだろうか。この結果を受け、康応元年11月には大内氏を通じて周布氏に将軍家の安堵状が与えられた。この状況と明徳4年12月以前の状況の間にはかなりの懸隔があるように思われるが、それ以上の点については史料がない。義弘と満弘の関係を含めて流動的ではなかったか。
 明徳4年12月に益田次郎(兼家)に益田庄地頭職が一円返され、守護代右田氏に打ち渡しと要害の破却が命ぜられ、翌5年正月には実行に移されている。大内満弘が復権し、益田氏の当主が兼世から兼家に交替する形で事態の収拾が図られたのだろう。そして兼家は益田庄内大草村について依然押置いているとして、これも打ち渡すことを認められている。併せて益田庄内弥富名上下村についても、永安太郎が抵抗していることを訴え、これも沙汰渡し、永安が異儀に及ぶなら参洛させて事情を説明させることが守護代右田に命じられている。
 ちなみにこれに関連するのが年未詳2月25日右田弘直書状であり、益田越中入道道兼(兼世)が益田庄内弥富上下村について、先年故殿(大内義弘)の時に永安(太郎)が訴えたが無理として捨沙汰になり、自身が当知行していたところ、永安太郎が重訴訟を申したことについては承知したので、永安の主張は心得難いことを大内氏奉行人内藤肥後守と杉豊後入道に伝えている。この史料については『大日本古文書』を含めこれまでの史料集では、越中入道を祥兼、故殿を弘世と解釈してきたが、これまで述べてきた経過をみればそれが誤りで、応永の乱以降の文書であることは明白である。

大内満弘と益田氏(4)

 以下では嘉慶1年~2年にかけての文書を時間の順番にみている。文書名(宛名、萩閥周布ないしは益田家文書の番号)[南北朝遺文の比定]で表記。
(1)嘉暦元年ヵ9月2日大内義弘書状(周布入道宛、周70)[康暦2]
 京都への注進については承知したとして、益田境辺へ罷出ることを右田が申したとする。
(2)嘉慶元年ヵ10月8日大内義弘書状(周布入道宛、周78)[康暦2]
 長門下山城が5日に落居したのをうけて、一両日中に益田辺へ打入こと、三郎(満弘)に同心する国の人々と芸州者共の注進が命ぜられたことを記す。
(3)嘉慶元年ヵ12月14日平井道助書状(周布殿宛、周113)[康暦2]
 西方の事について市原城を退治したので、間もなく益田辺へ行くことと、周布氏への安堵について大内義弘の挙状が到来したので、幕府奉行方と話して落居したことをえる。
12月の日付であるが、平井は京都におり、10月25日と11月2日付の周布氏からの手紙をみて述べており、(2)の内容に近く、益田攻撃には至っていない。
(4)嘉慶2年ヵ3月17日大内義弘書状(須布殿宛、周61)[永徳元年]
「近日益田罷向候へく候」と伝え、周布氏も寄合ようつたえる。
(5)嘉慶2年ヵ6月9日大内氏奉行人奉書(永安左近将監宛、益82-37)[嘉慶2]
 益田へ発向し、今月中に七尾城へさし寄せることを述べ、永安氏には遠田城と不足なら長野庄内安富入道の城の半分を与えることと、益田・同遠田辺を残らず料所(直轄領)にする予定だということを伝えている。
(6)嘉慶2年ヵ8月15日大内義弘書状(周布入道、周布弾正少弼宛、周66)[康暦2]
 道助方への状の事は承知したとして「益田事対治不可幾候哉」と述べて兼仲の出陣を求めている。
(7)嘉慶2年ヵ8月27日大内義弘書状(周布入道宛、周61)[康暦2]
 境の状況を聞くとともに、自軍はすでに益田辺に取り寄せているので、周布氏も差寄をと求める
(8)嘉慶2年11月19日大内奉行人奉書(永安左近将監宛、益83-1)
 遠田城を弛くことを命じたが、今も誘持っていることを聞いたとして早く弛くことを求めている。

大内満弘と益田氏(3)

 はっきりしているのは周布氏庶子が惣領に対して独立性が強かったことであり、その背景として周布氏惣領の相続問題(南北朝の動乱を背景に兼氏は本来の惣領兼長に代わって惣領となる)と大内氏内部の対立があったことである。康暦2年の満弘方の守護代内美作守が周布氏一族の内氏である可能性が高いことも、庶子の独立性の高さを示していよう。 康暦2年と至徳2年には大内氏内部(義弘と満弘)の対立が確認でき、康応元年時点でもそれが継続しており、それが故に周布氏庶子が惣領に随わなかったのであり、公田の低減化は、義弘方である惣領兼仲への支援であり、前2回と変わるものではなかった。公田の低減化とともに、康応元年の状況をみて判断しなければ虚像を描いてしまう。
 この時点の大内氏と益田氏の対立の状況を示すのが、12月14日平井道助書状である。『南北朝遺文』では康暦2年に比定している(井上氏については不明)。最初に10月25日と11月2日付けの周布氏からの書状を拝見したとのべ、ついで「西方事市原御退治之間、益田辺不可有幾候歟、目出度候」と述べ、次いで御安堵間事として京兆(大内義弘)の注進が到来し、これをうけて幕府奉行方が申し談じて落居したと述べる。この安堵とは前にも述べたように、①至徳2年11月26日足利義満御判御教書(周布郷、兼氏)、②嘉慶元年11月25日足利義満御判御教書(来原別符并高津西方内田畠、兼仲)、③康応元年11月19日足利義満御判御教書(周布郷と白上本新地頭職分、兼仲)のいずれかを指すと思われる。以前は③に比定したが、周布兼氏の死亡が康応元年8月であることが判明したため、見直した結果、②に関するものでなければならない。ちなみに①に関係する文書としては、8月15日大内義弘書状(平井備前入道宛、周布266)がある。すなわち、周布因幡入道本領安堵について、注進を出したので、定めて公方が扶持を加えられるであろうと述べているおり、実際に①で安堵された。これに対して、②については至徳5年5月28日大内義弘挙状があり、③については康応元年8月13日大内義弘挙状がある。

大内満弘と益田氏(2)

 変化が見られるのは、至徳2年7月である。11日に大内義弘が俣賀氏に所領を返し、22日以降には「大内新介」が周布因幡入道(兼氏)に対して所領の安堵や預置をしている。この人物についてはこれまで萩閥の記載から大内弘茂に比定されていたが、松岡氏の論文集では編者が別の人物であろうと推定している。明確なことは同年10月19日に「新介」が「先度任京兆(義弘)御下知状旨」て吉川駿河守に石見国市木郷等を預置き、同日に大内義弘の石見国守護代右田弘直が打渡しているように、新介が義弘方の人物であることである。市木郷については9月6日に新介が周布氏庶子等御中に預け置くので配分せよとあったのが、なぜ吉川氏にとの疑問があったが、因幡入道(兼氏)女子が吉川経兼と結婚しており、その子が駿河守経見であった。
 この一方で、同年8月9日には満弘が内田肥前守に石見国長野庄内豊田左衛門尉跡を預置いており、義弘-新介-右田弘直ラインと満弘との間に競合が生じていることが確認できる。周布氏が与えられた所領には後に益田氏によって押領されてしまう長野庄内白上も含まれていた。これに対して、益田氏に関する安堵状や預置状は残されていない。消極的ではあるが、益田氏が満弘方であったと推定できる。
 次いで周布氏は康応元年にも大内義弘の挙状により幕府から所領の安堵と洪水を理由とする公田数の低減を認められているが、これは永徳3年6月の兼氏から兼仲への譲与に関するのもであり、康応元年8月に兼氏は死亡したことが確認できる。その一方で、大内義弘からは庶子が惣領の催促に応じないとの兼仲からの訴えを受けて、所帯を没収して惣領に付けるとの命令が出されている。この命令は康暦2年と至徳2年にも出されているが、岸田裕之氏が公田の低減化の後であり、これまでとは異なり実効性(強制力)のある恫喝であると評価された。30年ほど前に周布氏関係文書を初めて読んだ際に、関係文書のどこをみてもそれを裏付けるものはみられず疑問を感じ、ブログでも先入観からくる典型的解釈と評価した。

大内満弘と益田氏(1)

 この問題については松岡久人氏の研究があるが、無年号文書の多さから十分解明されてはおらず、松岡氏自身の評価も「南北朝室町期石見国と大内氏」と『南北朝遺文』の時点では変化がみられる。これに対して井上寛司氏が『益田兼見とその時代』で新たな見解を示されたが、それ以外に再検討はなされていない。松岡氏の論文集『大内氏の研究』では当該論文について編者岸田裕之氏のコメントが付され、人物比定の誤り(あるいは異なる見解)が指摘されている。本ブログでも何度か言及したことがあるが、どこまで確認できるのかについて、再度まとめてみたい。
  関係史料の多くは『萩閥』に収録され人物比定がなされている。松岡氏の論文に先立つものであるが、萩閥の見解と松岡氏の関係については現時点では確認できていない。
 本ブログでは康暦2年の石見国における戦闘を確認できる史料はないことを述べた。『花栄三代記』の同年5月28日の記事も、安芸国での大内義弘と満弘の間の合戦について述べている。ただ、そこで石見国守護代内美作守父子が満弘方として討ち死にしている。松岡氏と萩閥が同年に比定する10月8日大内義弘書状(周布入道宛)についても、長門国下山城での合戦の落居に続いて「一両日中益田辺へ可打入候」と述べているが、これを康暦2年に比定する理由としてはさきほどの安芸国での合戦と結びつけて考える以外はなさそうである。周布入道を周布兼氏とすれば、彼は康応元年8月に死亡しているので、嘉慶2年以前のものとなる。
 康暦2年にのみ大内氏と益田氏の激しい対立があったとする井上氏の見解についても内美作守と、益田氏に石見国守護代として文書を発給している「美作権守」が別人で、且つこの人物が義弘の守護代であることを明らかにしたように成り立ちがたい。益田兼見女子の一人に満弘(馬場殿)の妻がいたことは系図で確認でき、両者の間に緊密な関係があったことは事実と思われるるが、どの時点での婚姻かも不明である。
 前に述べたように康暦2年段階では福屋氏が満弘派で、三隅氏と周布氏が義弘派であった以上のことは不明で、石見国内での合戦にても確認できない。確実な史料に登場しない益田氏はいずれの派にも属さなかった可能性もある。

2013年11月10日 (日)

周布氏の成立(2)

 それ以外の所領とは、兼恒の妻(名称不明)の所領である。鎌倉期には女子が所領を譲られることも珍しくなく、それは益田氏一族でも同様であったが、これまでほとんど意識せずに、最終的な系図の記載に基づき、男系のみで考えられてきた。兼定領福光郷と福屋兼廣領日和郷・大家庄内大家西郷は父兼恒ではなく、その母(妻)方の所領ではなかったか。

 周布氏初代兼定には男子がなく、延応元年7月30日に舎弟兼明を養子として周布郷・鳥居郷・安富郷・福光村を譲ったが、一方で安富郷については、兼定後家慶阿弥陀仏女子(兼定継娘)にも譲っている。これに対して、益田兼時と周布兼定の母である益田兼季後家聖阿弥陀仏が、兼時から兼定に配分された所領を取り戻そうとして相続に介入し、兼時庶子松房を兼定の養子とし、これに周布郷と安富郷を譲る形で和与を成立させた。兼定の後継者となった兼明(後には兼政)が異母弟であり、兼定後家女子幸寿が兼定の実子ではなかったためであろう。

 これに対して、兼政・慶阿弥陀仏側は聖阿弥陀仏による介入は不当だとして幕府に訴え、幕府は兼政と慶阿弥陀仏による兼定遺領等の知行を認めた。ただし、一族内の妥協策として、松房(後の兼久)と安富郷を譲られた幸寿の間で婚姻関係が結ばれた。

 以上、一旦福光村を譲られていた兼定が父兼季の死による遺領の再配分(すでに嫡子兼時に譲られていた所領を含む)により、新たに周布郷・鳥居郷・安富郷を譲られ、4カ所中最大で、中央に位置する周布郷に本拠を移した段階で、周布氏が成立した。

周布氏の成立(1)

 周布氏初代兼定は益田兼季の子で、承久の乱後、益田兼季の弟である三隅兼信・福屋兼廣とともに独立。その背景には益田氏惣領兼季の死があった。すなわち、貞応2年5月に益田兼季は掃部介仲廣と対立していた飯田郷の支配を幕府から認められたが、翌3年2月10日に死亡し、嘉禄3年にはその遺領の配分が行われている。問題となるのは、貞応2年6月20日に周布兼定に大宅(大家)庄内福光村地頭職を安堵した関東下知状である。これには譲与行為や譲位者の死亡といった記載なく、「本知行無相違之由所注申也」とあるのみである。承久の乱後の体制を確立するため、当知行者の確認がなされたものと考えられる。問題は兼定が誰から福光郷(村)を譲られたかである。系図では祖父兼高(恒)から正治年間に譲られたとする。ところが紛失状案文(焼亡8通文書)にみえる兼栄・兼高父子領には福光郷は含まれていない。同様に、三隅氏略系には益田兼恒が兼信を益田庄納田郷内三隅城に居住させたことが、福屋氏略系には時期や誰からかの相続かを記さず、兼廣が日和郷福屋に居住して福屋氏を称したとする。このうち日和郷についても兼栄・兼高領には含まれないのである。これと関連して、周布兼定の死亡と2代兼政(正)の相続の問題がある。

 仁治3年4月25日関東下知状(新出周布)によると、兼定は嘉禄3年10月に兄益田兼時から周布郷(吉高名)・鳥居郷・安富名(本名別符)を譲られ、翌安貞2年2月に福光郷を加えた4郷等が幕府から安堵されている。これに対して、三隅兼信は嘉禄3年12月に幕府から安堵されている。福屋兼廣については記載がない。兼定と兼信が安堵された時期がずれているのは、三隅兼信が相続・配分された所領が父兼恒と兄兼季領であった(末元別符はみえないが、後には周布郷内に含まれている)のに対して、兼定領にはそれ以外の所領=福光郷が含まれていたためではないか。福屋氏領についても同様の可能性が高い。

2013年11月 9日 (土)

office mac 導入

 これまでMacBook Pro17を利用していたが、すべてはテンキーのないWUXGAであるためであった。ウィンドウズ・ノートは15インチでもほとんどテンキー付きのキーボードである。とはいえ、ウインドウズの使用がメインで、マックで起動することはほとんどなかった。インターネット・メ−ルならよいが、その他のビジネスソフトは持ってもいなかった。
 それが、マックOSがアップデートしたのを機に、オフィスソフトを導入して、atok2012(これは以前から利用)とともに使うこととした。フリーの互換ソフトも検討したが、やはりマック初心者(20年前に一度使ったことはあるが)には敷居が高いと思い、オフィス・マックにした。すぐに使えるということで、アマゾンからダウンロード版を購入した。たまたま、11月末まで割引をしていたこともあった。
 ところが、ダウンロードがうまくいかない。マック標準のサファリが原因なのであろうか。Windows上のIEでは普通にできるのに。業者への連絡も考えたが、とりあえず、アップルから試用版をダウンロードすることができたので、それにアマゾンから購入したプロダクトキーを入力してようやく使えるようになった。
 気分転換ぐらいにしかならないが、この文もマックのサファリ上で書いている。一時は、ダウンロード版を購入したことを後悔したが、なんとかなったということである。試用版からのインストールについてはネット上の情報で確認した。本流である歴史の原稿は最近は種切れで休止中であるが、これも再開したい。来週の中世史研究会での「尼子政権の諸段階」の報告と、再来週の浜田市周布公民館での講演の準備がともに十分でなく、とにかくやるしかない。
 付記:初めてサファリ上でブログを表示したところ、ココログのページと実際のブログのアクセス数が一致していたので驚いた。インターネットエクスプローラでは、ブログ上の数字の方が少なかったので、なぜ一致しないと思っていたのだか。

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