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2013年10月

2013年10月21日 (月)

SSDへの換装(2)

 とはいえ、これではSSDの利点が活用できないので、HDDそのものをSDDに換装することにした。HDDは500Gであるが、SDDの同クラス(512G)は高いので、HDDのCドライブを小さくして、SDDの256Gのものに換装することにした。ところが、フリーソフトのパーティション・マスターで行っても、うまくいかない。しかたないのでWindows7のデスクの管理で行うが、これも理由があるのだろうが、半分までにしか小さくできない。最近のパソコンについては知識不足でCドライブ以外に起動に必要な別ドライブも含まれているので、256GのSDDではコピー可能か確信できなかった。結局は東芝製の512Gのドライブを使用したものを購入し、HDDをそのままコピーした。
 当然、その前にXPS14からドライブを取り出す必要があり、デルのマニュアルに基づいてバッテリーやスピーカーを外した上で、HDDを外した。ウルトラブックということもあり、薄型のHDDであった。複写後、マニュアルどおりに組み立て、さあ、電源投入である。そうしたところ、すぐに音が鳴ってそこから進まない。不安ながら、いったん電源を切って、再度電源を入れると、こんかいは起動したが、Windowsの画面で固まってしまう。そこでバイオスを確認すると、設定が初期設定に戻っており、「AHCI」に設定したがダメ。そこでSATAにすると問題なく起動した。その後「AHCI」にするとやはり起動しない。最新のSSDには「AHCI」モードがよい(起動も速くなる)とどこかに書いてあったが、仕方がない。
 やれやれと思ってインターネットを開くと、やたらめったらに「セキュリティエラー‥‥」の表示が出まくる。これもネットで検索すると「まずはPCの年月日が正しいかを確認せよ」とあったので、HDD換装の際に確認するとバッテリーを外したためか、2011年の日付となっていた。当然、日付を保持する電池はあるので不思議である。これまでもPCが固まった際には、バッテリーを外しているが、日付が初期設定のものに戻ったことはない。違いといえば、バッテリーは内蔵で簡単に外せるものではなかったが、不思議た。ということで、オークションの世界では自己責任があたり前で、それだから新品同様のものが安価に入手できる場合があるが、自分自身がPCそのものの知識が昔ほどでなくなっており、なかなかしんどい世界だと感じる。時間が無限にあれば、トラブルへの対処も楽しいが、限られた中では、ノートラブルで起動してくれないとショックである。 
  なお、XPS14はディスプレイポートがあり、FHD以上の高解像度の外付けモニターが利用できるとの期待で購入した。内蔵グラフィックとGT630の両方が組み込まれたモデルもあるが、これはインテルHD4000のみであり、どうかと思ったが、問題なく内蔵モニターとWQXGAのモニターが同時に利用できた。

SSDへの換装(1)

 これについては過去一度試みたことがあったが、その時購入したOCZの製品は地雷としかいうことのできないもので(それ以前に購入したUSBメモリーは何の問題もなくよかった)、ファームウェアのアップもしたが全く使い物にならなかった。
 正確に言えば、購入して何の問題もなくOSやソフトをインストールできたが、3ヶ月ほどして、パソコンが起動しなくなったのである。そこでネット上で情報収集をしたところ、同様の事例は数多くあり、対応を試みたが、逆にとんでもない目にあった。USBを介してSSDを外付けでPC(これも機種により認識しないものもあった)につなぎ、フォーマットしたり、ファームウェアのアップをしたが、一時的にはよくてもすぐに認識しない、起動しないという状況が繰り返され、あげくの果ては、外付けにつないでいたPCそのもののファイルが破壊され、起動不能となり、PCのフォーマットと再インストールを余儀なくされたのである。起動ドライブには無理でもデータ保存ドライブでもと考えたがだめであった。
 今回はオークションで4万半ばで入手した(OSなし)デルのXPS14をSDDに換装した。XPS15へのOSのインストールで苦戦したことについてはすでに述べたが、XPS14もまた勉強させられた。光学ドライブが内蔵されていないので、外付けドライブを使用した。DVDから起動してファイルが読み込まれるまではよかったが、新規インストール先を選んだところで、次に進むとドライバーが組み込まれていないため「ドライブ」が表示されない状況となった。再度やっても同じで、困った。そこで今度はUSBメモリーからのインストールを試したがやはり同じ。
 ということで、バイオスの設定で、500GのHDDと32GのSSDを組み合わせて起動を速くするレイドの初期設定からSATAの設定に変更したところ、なぜかUSBメモリ-からのインストールができた。次いで、もう一つのSATAのネイティブモードである「AHCI」に変更した。

科学的~事実への接近(2)

 話は野球に飛ぶが、ボール・ストライクの誤審が最も多いが、これこそ、ビデオレフリーで明白なものについては修正すべきであろう。ボールの切れなどもあり、ビデオでも100%は無理だが、時に明白な誤りがあるもの確かである。スタンド側からの映像で明白な誤りをただすことができる。
 それ以上に問題なのはハーフスイングの判定であろう。右バッターなら一塁塁審、左バッターは三塁塁審が判断するが、果たして可能なのだろうか。ルールを確認していないが、キャッチャーが確認を要求すると、主審が塁審の判断を求め、塁審の判断がが示されると、その場合は主審の判断より優先されるように思われる。
 手首やグリップがかえったかどうかが塁審にわかるのであろうか。それよりも現在の映像システムを駆使すれば、確認できる気がするが。また、主審が自ら判断できない場合に塁審の判断を求めるべきではないか。主審はボール・ストライクの判定に集中しているが、塁審はランナーがいる場合もあって、常に対応することは不可能である。それにもかかわらず、要求がでた場合はボール・ストライクのどちらかの判定をしなければならない。  可能といえば、ベース付近の映像によりセーフ・アウトの判定をすることとホームランかファールかの判定は可能であるが、導入されない。できるところから導入すれば、次第に試合のリズムを崩さない形に進化すると思う。いずれにせよ、いかなる方法でも100%の判定が可能となるわけではないが、できるだけそれに近づける努力は必要ではないか。ボクシング評論家のジョー小泉氏の言葉「ボクシングは(ファイトではなく)科学」をまつまでもなく、スポーツは科学であって気合いではないのだから。その意味でサッカーや野球の判定システムはなお非科学的段階にとどまっている。

科学的~事実への接近(1)

 ドイツ・ブンデスリーガでの誤審が話題となっている。ゴールを外れたシュートがサイド・ネットの穴から入り、選手本人も外したと頭を抱えたのにもかかわらず、主審がゴースを認め、それが決勝点となったというもの。ビデオでみれば明らかに外れており、過去の例からみて再試合となる可能性が高そうだ。
 最初に思ったのは、誤審であることを選手本人が知っていた場合の対処である。誤審が不利な場合は当然の如く抗議するが、逆に有利な場合、誤審であったことを明らかにする選手はこれまでみたことがない。
 選手本人にとって明白にわかるのは野球のデッドボールであろう。当たっていないのに、判定されたことに対して、選手自ら当たっていないことを認めるべきという意見は聞いたことがない。スポーツシップという言葉がありながら、なぜであろうか。実際は勝負の前にスポーツマンシップはひれ伏しているのだろう。サッカーの場合、ファールされていないのに演技をしすぎると反則となるが、野球にはない(大リーグでは当たっていないのにあたったと演技することは少ない気がするが)。
 とはいえ、問題は判定のシステムに欠陥があることであろう。これほど映像技術が進歩したのだから、それを駆使すれば、一部を除いて判定は可能であるのに、試合のスピード・テンポを重視するためか、そのようなことは行われていない。今回の場合は、審判6人制もコールラインテクノロジーも導入されていないというお粗末さ。
 サッカーとルーツの近いラグビーでは、トライについては、ビデオレフリーが導入されている。実際にはトライを防ごうとする側と支援する側の選手が重なりあって、トライしたことが確認できない場合もあるが、確認できないとしてノートライとする場合(5mスクラム)と、トライでないことを否定できないと判断してトライと判定する場合がある。
 主審とは別にビデオレフリーがおり、ビデオで判定してそれを主審に伝えるが、同時にその判断するビデオ映像そのものはもちろん、ビデオレフリーと主審の交信音声もリアルタイムで会場ならびにテレビで流されるため、観客がビデオレフリーに対してブーイングすることはほとんどない。

2013年10月13日 (日)

塩冶興久の乱の原因(3)

 興久の乱の原因についてはすでに述べたところだが、一次史料と軍記物の述べるところと、「島根三郡」・「原手三郡」の関係について検討する。
 すでに述べたように、享禄3年4月5日には塩冶興久が成相寺に対して、先年より代々置文の旨に任せて抱えてきたが、近年新儀の命令があったことは謂われがないので同意しないようにと命じている。このことと尼子氏による佐陀社支配の関係について述べたが、「島根三郡」と「原手三郡」という体制も、塩冶氏と佐陀神社、さらには佐陀神社と成相寺との関係を変更するものであった。後に松田氏が島根三郡奉行職、米原氏が原手三郡奉行職に補任されたように、尼子氏に近い立場の家臣が補任されたと思われる。軍記物では、興久が原手での所領を要求して、経久がこれを断ったことが乱の原因とされている。塩冶郷を拠点とする興久にとっては「原手三郡」という枠組みの設定と、尼子氏家臣による奉行職補任は、自らと佐陀神社・成相寺との関係を断ち切るもので、不満があったであろう。合戦の舞台となったのが、島根郡の佐陀と大原郡加茂(都治根元)というのも象徴的である。また、佐陀神社の御座替の範囲に島根三郡が含まれていたのは確実であり、近世はこれに意宇郡西部が出雲大社に対する佐陀神社の縄張りとされた。出雲国一宮に対して日御崎社と佐陀神社が独立姓を強めると評価されるが、尼子氏がそれぞれをどのように位置づけたかにはその独自姓についてもみていく必要がある。鰐淵寺と清水寺の関係の関係についても同様である。
 大永2年に尼子経久が初めて杵築での万部経読誦を行った際の中心寺院(天台宗・真言宗)は、鰐淵寺(原手三郡)・岩屋寺(仁多郡)・清水寺(能義郡)・弘法寺(原手三郡)であり、これに続くのが、「シマ根」成相寺(島根三郡)・小蔵寺(島根三郡)・イシリノミ祢寺(能義郡)・八幡ノ谷ノ寺(意宇郡)であった。対応する神社については不明だが、出雲大社(原手三郡)・日御崎社(原手三郡)・佐陀神社(島根三郡)と、近世で出雲大社・佐陀神社とは独立した神社とされた美保神社(島根三郡)・足高神社(島根三郡)・平浜八幡宮(意宇郡)、さらには天文24年に晴久が出雲大社・日御崎神社とともに所領を寄進した揖屋神社(意宇郡)と出雲大社との関係の深い神魂神社(意宇郡)であろうか。

宍道氏再々論(3)

 この変化の背景には前に述べた塩冶興久の乱が関わっていよう。軍記物の記載によらざるをえないが興久の重臣に「米原小平内」がいたことが知られる。永正5年の平内兵衛の関係者で、興久の乱の関わりでこれが没収され、宍道久俊に与えられたのであろう。そのため、久俊は興久の乱が決着した享禄5年にも再度安堵を行っている。
 宍道氏惣領は興久方に寝返ったとの推定を述べたが、経久方の宍道久俊の存在を考えると、宍道氏内部の対応が分かれたこと、ないしは経久方により切り崩しが行われたことがわかる。惣領経慶に対して、「久俊」はその名から庶子であったことになる。永正16年の出雲大社遷宮に多祢氏役を「宍道六郎」が勤めていたように、宍道氏も複数の家に分かれていた。一方、永正15年に宍道慶勝が本願であった佐支多神社は天文7年には「塩冶元里田山城守久勝子息新五左衛門」が本願としてみえ、三沢氏一族の里田氏から興久の乱後の塩冶氏に入った人物の支配するところとなっている。
 米原氏のその後は、大永7年の備後国の合戦で毛利方に討ち取られた人物に「米原山城守」がみえる。次いで天文8年には学頭諏訪神社造営の本願として「米原新五兵衛」と「池田治部尉」がみえる。この人物と天文9年竹生島奉加帳にみえる「米原左馬亮」の関係は不明であるが、奉加帳にはこの直前に任官した人物については注記があるため、一族内の別人であろう。永禄6年3月に「平内兵衛」以下の米原氏が毛利方になる中、尼子氏方にどどまった「米原右馬允」に平内兵衛領が与えられていることを勘案すると。平内兵衛(←新五兵衛)が惣領で、左馬亮が庶子ということになり、米原氏も複数の一族に分れていた。天文22年の同神社造営の檀那として「米原平内兵衛」がみえる。
 この米原氏惣領平内兵衛は毛利氏の出雲国攻めが始まると、毛利方に転じ、大宅常光の惨殺で尼子方に帰る国人が出た際にもその立場を変えなかったが、一旦尼子義久が降伏した後、永禄13年に新宮党の遺児勝久をかついでの尼子氏再興戦が始まると、立場を転じて尼子氏方となっている。その時、尼子勝久が米原氏に与えた所領に「宍道当知分」があり、以前、米原氏領であった中に宍道氏領となっていたものがあったことがわかる。それとともに注目されるのが、「原手三郡奉行職」である。原手三郡について井上寛司氏が『宍道町史』通史編で神門・楯縫・出東郡であるとされたがどうであろうか。というのは楯縫郡は同時期に松田氏が与えられた島根三郡奉行職の「島根三郡」に含まれるからである。それを踏まえれば、原手三郡とは神門・出東・大原郡となる。「原手」といえば、塩冶興久が所領を与えられることを要求し、経久と亀井氏がこれを拒否したため、興久の乱が起きたとされることでも有名である。

宍道氏再々論(2)

 宍道氏が尼子経久女子、さらには経久次男国久女子と結婚したとの系図の記載は、両者の密接な関係からして事実であったろう。国久女子と結婚した経慶の子が天文3年段階で8才(松千代)と6才(寅寿)であったことからすると、経慶が死亡したのは享禄元年(1528)以降のこととなり、享禄3~4年の塩冶興久の乱と関係する可能性は高い。『陰徳記』には経慶が詮久(晴久)の殺害を試みて失敗して殺されたことを記すが、詮久は享禄3年で17才であり、検討の余地がある。記事がなんらかの事実を反映しているとすれば、当初宍道経慶は経久・詮久方であったのに、途中で裏切ったという状況が想定される。いずれにせよ享禄3年に28才であるとすると、経慶は文亀3年(1503)年の生まれとなり、宍道氏と尼子経久女子との結婚は文亀2年以前のこととなる。
 こうした状況の中で永正15年(1518)に下庄原の佐支多神社の棟札に「源慶勝」が確認できたのである。慶勝は系図では久慶の子とするものと、父とするものがあるが、永正13年に中央で活動していた惣領「宍道兵部少輔」とは別人である。これを文亀3年生まれと推定した経慶に比定すると16才であり、慶勝は経慶の父にあたる人物に比定される。慶勝が経久女子と結婚し、後に名を久慶に変えたのであろう。次いで、経久女子と久慶との間に生まれた子は経慶と名乗り、経慶と国久女子の間に生まれた子(松千代)は、尼子下野守の子が「詮幸」であったように「詮慶」を名乗った可能性が高い。
 宍道氏と関わりを持つ富田衆に米原氏がいる、これまた残されている系図は断片的な情報しか教えてくれず、一次史料との間の懸隔が大きい。米原氏は15世紀半ばには出雲国西部の知井宮をその所領としていたことが確認できる。次いで、永正5年(1508)には、「米原平内兵衛」が楯縫郡多久郷久木庄主分之内八幡・天神両社二反の諸役免除、神主治部左衛門に行っている。このうち、久木八幡宮(現在の福富にある都牟自神社)は、富田八幡宮を尼子氏が勧請したもので、十月三日には多久城主多久弾正義敷と高瀬城主米原平内兵衛綱寛が尼子氏に替わって代参したとされている。米原氏による免除はそれを裏付けるものであるが、一方で、享禄3年と5年には宍道五郎久俊がこれを行っている。。

宍道氏再々論(1)

 宍道氏については過去に何度もブログで取り上げているが、なおしっくりこないので、再度整理したい。できればこれを現段階の決定版としたい。
 文書上の初見は、応仁2年に出雲国を支配する可能性があるとされた「宍道九郎」である。次いで文明5年には牛蔵寺領の内渡しを命ぜられた「宍道八郎」と文明13年から永正13年にかけて中央で活躍する「宍道兵部少輔」がいる。最初にこの三者の関係を整理したい。
 宍道氏は京極高氏の子八郎秀益が宍道郷を与えられ「宍道氏」を苗字としたのに始まる。同じく出雲国に所領を得た尼子氏が最後まで近江国尼子郷に由来する苗字を変えなかったのとは対照的である。早い段階から宍道郷に入部したのであろう。一方、永享2年(1430)には島根郡加賀庄内に所領を持つ国人の中に「宍道殿」と「遠江守」がみえる。宍道氏系図によれば秀益は「八郎左衛門尉・遠江守」とあり、宍道殿とともに遠江守(延福寺氏か)も宍道氏である可能性は高い。宍道殿が惣領で、遠江守が庶子であろう。惣領が中央で活動し秀藤らにみられる「兵部少輔」に任官したのに対して、出雲国内で活動する庶子が遠江守を継承したのではないか。
 応仁2年の「宍道九郎」は出雲国で活動する宍道氏庶子家の代表であろう。これに対して文明5年に幕府奉行人奉書の宛名にみえる「宍道八郎」は宍道氏惣領家の人物であろう。単純にこの人物が任官して文明13年には「宍道兵部少輔」となると思っていたが、秀藤の年齢を考えると問題がある。秀藤の兄の禅僧は1431年に生まれ、1492年に死没している。これに対して宍道氏系図一本には秀藤に相当する「秀慶」に関して1433年の生まれであると記しているが、矛盾のないものである。すると、文明5年段階で秀藤は41才となり、その段階で任官せずに「八郎」であった可能性は低い。文明5年段階で秀藤は任官して中央で活躍しており、その後継者が「八郎」であった可能性が高い。以前は秀藤を尼子経久と同世代であると述べたが、同世代なのは秀藤の子であった。
 秀藤は文明18年まで一次史料で確認できる(54才)が、問題は永正13年の「宍道兵部少輔」である。井上寛司氏は宍道町史通史編で、史料編でこれを秀藤(当時84才)に比定したのを改め、秀藤の子であるとされた(孫の可能性が大きい)が、妥当な見解であろう。そして秀藤以降の宍道氏惣領については、系図上の人物を比定することができない。それはすでに述べたように、尼子氏と結婚した宍道氏が本来は庶子家であったためである。宍道氏系図の秀慶(秀藤)の嫡子・嫡孫もともに「兵部少輔」に任官して中央で活動したが、系図は秀慶までしか記していない。

2013年10月 5日 (土)

経久と晴久のズレ(3)

 天文21年に比定できる(『出雲尼子史料集』では天文17年頃に比定されるが、花押と以下に述べる意味づけからして成り立たない)12月16日尼子晴久袖判三浦氏知行地書立には、尼子誠久と牛尾遠江守幸清が連署しているが、現地に駐在する責任者誠久とともに晴久の代理として一時的に派遣された牛尾幸清が同等に扱われており、国久・誠久父子の一族衆から富田衆化への変更が進められていると評価できる。国久と誠久に代わって富田に常駐していたのは誠久の弟敬久(左衛門大夫)であり、彼のみが連歌師宗養を迎えての連歌会に参加している。当然その位置づけも一族衆ではなく、富田衆に近いものであり、彼を登用することにより、誠久の尼子氏政権内部での位置づけを相対的に下げたのである。以下で登場する誠久の嫡子氏久が新宮党の後継者としての自己の立場をあやうくする人物とした「ほそき」が敬久でなく国久晩年の子とすれば、以上のような解釈にならざるを得ない。すなわち、「小四郎久尊」→「左衛門大夫敬久」としたのは国久の意向ではなく、晴久であったと。
 とはいえ、祖父経久の敷いた路線はなお有効であった。晴久の後継者は国久女子が産んだ義久であり、晴久には早世した兄しか男の兄弟はいなかった。一方、国久と誠久にはそれぞれ3名以上の男子が健在であり、義久の代には国久・誠久の影響力が増大するのは確実であった。晴久側からみても自らが推進する体制に国久・誠久が不満を持っているとの意識はあったであろうが、それ以上に不安を抱いていたのは晴久の寵臣達であった。西部に派遣されていた多胡辰敬にしても、「左衛門尉」のままであり、晴久寵臣達が次々と受領に任官していくのとは対照的な扱いであった。
 以上のような状況に、大内氏の滅亡と陶氏と毛利氏の対立がからんで、国久・誠久の関係者へのさまざまな働きかけが行われた。誠久の嫡子氏久の母は興久の乱の首謀者で、その子孫が大内氏のもとに身を寄せていた多賀美作守の娘であった。大内氏の出雲国攻の際は、多賀美作守から誠久への働きかけがなされ、誠久は神水を飲んで自らの立場を証明した上で、逆に大内氏方となった出雲国人への切り崩しを行ったとされる(この史料については、『戦国大名尼子氏の研究』で興久の乱後の多賀氏に関して言及され、昨年、長谷川氏氏による史料紹介がなされている)。今回、標的となったのは氏久であり、その結果、氏久は自らの祖父が毛利氏などと結ぶ可能性があると、晴久に申し出、国久・誠久の不満を理解していた晴久はそれを側近の佐世清宗に問い、晴久以上に将来への不安のあった清宗は、その不安を取り除く絶好のチャンスとしてイエスと答えたのではないか。それどころか、尼子氏滅亡後の毛利氏による佐世氏の処遇をみれば、長谷川氏は多胡辰敬が尼子氏の行く末を見限ったとし、その見識を評価されたが、見限ったのは佐世清宗だとのうがった見方すら可能である。

経久と晴久のズレ(2)

 天文12年の大内氏敗退後の新体制の奉行人として連署したのは6月28日付の晴久袖判鰐淵寺領書立の亀井藤左衛門尉国綱・多胡左衛門尉辰敬・立原次郎右衛門尉幸隆であった。この組み合わせは同年3月5日付鰐淵寺本堂造営掟でもみられたが、亀井国綱は経久の側近秀綱の子であり、立原幸隆はこれ以前に詮久の意向を伝える単独の書状を出している。多胡についてはこれまで登場していないので説明が必要であるが、多胡辰敬は経久時代に亀井秀綱とともに出雲大社や平浜八幡宮の造営に関わった多胡出羽守忠重の子で、尼子国久の妻は忠重女子であった。天文5年に「馬来出羽守」がみえるので、それ以前に忠重は引退ないしは死亡していたことがわかる。これを踏まえれば、この3人の組み合わせは富田衆の最有力者として当然の選出だったと評価できる。同年7月には亀井藤左衛門国綱に代えて屋葺幸保が連署した奉行人書状が出されている。亀井国綱がこれ以後みえないので、死亡したため交代した可能性があるが、その一方で、屋葺幸保の花押はこれ以後登場する晴久寵臣の花押のモデルとなるものであり、屋葺本人は経久というよりは詮久の家臣であった可能性が高い。
 ともあれ、有力富田衆が連署する体制が整い、これに唯一の一族衆となってしまった尼子国久とその嫡子誠久を加えれば、名実ともに晴久を補佐する体制となったであろう。ところが、その後天文16年頃から連署する奉行人のメンバーは屋葺幸保をモデルとする花押を使う晴久側近クループが中心となり、多様(拡散)化する。
 多胡辰敬はその天文末年まではその活動が確認できるが、西の守りを固めるため石見国東部に派遣され、尼子国久も出雲国西部の要衝塩冶に入部するのである。長谷川氏は西部を押さえるために尼子国久の力量が必要であったとされるが、その嫡子誠久も尼子氏の発給文書には関わっておらず、国久・誠久父子は尼子氏政権中枢から排除された形になっている。新宮党の横暴と評価される天文16年の佐木浦と宇道浦の境界争いについても、あくまでも国久は出雲国西部についてのみ、晴久の意向を伝える存在にすぎないという、晴久の強い意思を表すものと評価すべきである。国久の御意が示されたことについて、立原幸隆以下5名の奉行が疑問を持たず、それを佐木浦を支配する浄音寺と晴久に伝えたのに対して、晴久から異論が出されたのである。そして国久の嫡子誠久にしても、晴久よりやや年長であったと思われるが、天文20年以降は美作国に派遣され、従来から管轄していた宇山誠明(これも有力家臣であったが、中枢からは排除された形であると述べた)とともにその支配にあたるのである。

経久と晴久のズレ(1)

 尼子経久は孫である詮久(晴久)への権力の移行のため、様々な準備をしていた。詮久と国久女子の結婚と、国久の政治の表舞台への登場もその一つであるが、問題はそれが詮久に継承されたかである。すでに述べたように、詮久が当主となった段階で、経久と本願寺の取次は鳥屋七郎右衛門尉秀重であり、詮久の取次は河本左京進久信であった。ところが、この二人は河本(和泉守に任官)が天文9年の竹生島奉加帳にみえるのみで、その後の史料には登場しない。河本久信については天文11年4月21日に死亡したことが過去帳から確認できるが、その子ないしは関係者も、尼子氏末期までは奉行人としてみえない。
 経久が重視した一族・家臣とは天文5年から7年にかけての本願寺との通信や岩屋寺二王堂の勧進者としてみえる以下の人々であったろう。
 一族衆では次男国久とその子式部少輔誠久、三男興久の子彦四郎と経久の甥であろう尼子下野守の子次郎四郎である。宍道氏がみえないのはまだが年齢低かったためである。
 富田衆については以下の通り(順不同)。すでに述べた河本久信と鳥屋秀重、立原備中守と子の宗次郎(後の備後守秀綱)、中井助右衛門綱家と中井備後守家清、馬来出羽守とその子の宗三郎、亀井太郎左衛門安綱と亀井宗四郎(秀綱子で後の藤右衛門国綱)、疋田左衛門尉、宇山飛騨守久秀とその子大蔵丞久兼(作州郡代、後の飛騨守)、池田和泉守(この人物の死亡により河本が和泉守に任官か)、湯原次郎右衛門尉幸清(侍大将)、大石三郎右衛門尉綱秀(牛尾氏一族)、横道三郎左衛門尉久宗、屋葺七郎兵衛幸保。

富田衆宇山氏について(2)

 次いで、天文17年6月には富田庄内「宇波村之居住勝部氏之朝臣宇山飛騨守久秀等(ママ)法名心海永忠居士」が独力で黄金製の三光国師像を造り、宇賀庄内雲樹寺に寄進しているのは、その経済力を示すものである。布部については子の久兼に譲り、みずからは宇波に居住していたのだろう。
 天文20年9月1日に大内義隆が陶晴賢により殺害されると、翌10月に尼子氏は美作国に出兵しているが、尼子方として美作国内に駐留していたのが「宇山弥次郎」であった。このような体制は享禄5年以来のことであろう。この後は、新宮党の尼子誠久と宇山弥次郎が美作国支配を担ったが、新宮党は天文23年11月に晴久により討滅されてしまう。天文24年の伯耆国大山寺洞明院棟札には、神輿檀那として「宇山右京亮誠明」がみえるが、これが弥次郎が任官するとともに、「誠久」との関係で名乗ったものであろう。
 永禄9年2月、宇山飛騨守父子は逆心の企てにより尼子氏家臣により討果たされるが、その一族は富田城を逃れて毛利氏のもとへ落ちた。実際に毛利氏は永禄8年12月には、宇山父子が毛利方へ入魂することになり、その仲立ちをした足立氏に対して恩賞を与えることを約している。
 宇山氏は尼子勝久の一行が出雲国に乱入した際に、馬木・河本・湯原の旧富田衆の一族から尼子氏方に寝返るものが出たが、宇山氏は多賀氏や野村氏などとともに毛利氏方にとどまるとともに、尼子氏時代の旧領の回復を毛利氏に対して愁訴している。多賀氏が島根郡東長田郷と西郷・坂本の長田(現在の川津)とともに同郡の半島部加賀・大蘆と南浦を愁訴したのに対して、宇山氏も島根郡内の末長田と半島部の片口・七類、さらには秋鹿郡伊野・能義郡赤江領家分と伯耆国会見郡赤井手を愁訴しており、ここにみえる所領が尼子氏から富田衆に与えられていたことがわかる。
 以上、宇山氏について、情報を整理したが、本来、富田衆内での有力者であったはずの宇山氏であったが、美作国に派遣されたことにより、晴久奉行人として発給文書に連署することはなく、ある意味では新宮党とともに政権中枢から疎外された存在になったと評価できるのではないか。

富田衆宇山氏について(1)

 宇山氏は尼子氏の家臣として大変な財力を有しており、毛利氏による富田城攻めの際にも食料調達に貢献したが、毛利氏への内通を疑われ、飛騨守久兼とその子が殺害されたことが軍記物に記されている。久兼の父とされる人物が久秀である。
 久秀は大永3年9月には「宇山飛騨守勝部朝臣久秀」として日御崎十羅刹女に法華経を奉納している。この経典は享徳2年に播磨国金剛城寺に施入されたもので、それを入手した宇山氏が奉納した。これにより宇山氏が勝部(宿祢)姓の朝山氏の一族であることがわかる。宇山氏は「木次上村」の宇山を苗字の地とする一族で、鎌倉期以降は東国御家人のもとで生き延び、戦国期には大永3年の時点で「飛騨守」に任官しており、尼子氏直臣富田衆の中で有力な地位を占めていたと思われる。
 享禄5年7月には尼子経久から「宇山殿」に対して美作国内で所領を与えられており、以後尼子氏の美作国支配の中心となった。同じ勝部姓である佐陀神主家の出身であった朝山日乗も出家前は美作国内へ尼子氏家臣として兄とともに派遣されていた。
 天文5年の岩屋寺二王堂造営に際しては、宇山飛騨守が、池田和泉守と並んで富田衆としては最多の3貫文の勧進に応じている。天文7年8月には富田庄内布部の二所大明神本殿造営の大檀那として「宇山飛騨守藤原朝臣久秀」とみえる。勝部姓である朝山氏も室町幕府三代将軍義満の時代には奉公衆となって活動の拠点を京都周辺に移して後は「藤原姓」を使用しており、宇山氏も二つを使い分けていたのであろう。同7年11月段階で本願寺側は「宇山大蔵丞」へも連絡し、「備中事不可取次」との返事をもらっており、この段階で宇山は美作国を管轄していた可能性が高い。
 天文9年の竹生島奉加帳には富田衆として、「宇山大蔵丞」と「宇山弥次郎」がみえるが、この時点で子の大蔵丞久兼に当主の地位を譲っていたのであろう。天文14年頃に比定される柳原資定書状では、周防に滞在中の資定が尼子氏の菩提寺である洞光寺に対して尼子-大内間の和平について連絡しているが、その中で富田衆の湯原遠江守・宇山大蔵丞・立原次郎右衛門尉幸隆にも働きかけていることを述べており、宇山久兼が富田衆内で湯原・立原とともに有力な位置にあったことをうかがわせる。ただし、尼子氏奉行人として当主が袖判を加えた文書に連署することはなかった。

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