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2013年9月

2013年9月30日 (月)

尼子経久・詮久安堵状

 尼子氏では権力の移行期に当主の連署の安堵状ではなく、同日同内容の経久と詮久の安堵状が出されることについては、すでに述べたとおりである。その初見が天文5年3月21日のものである。山内方遺跡について、断絶すべきであったが、山内聟法師(隆通)からの提案を受けて、(話し合い)決定したので、(今後とも)忠節が大切であると、両者が述べている。問題は同日付であるが、経久と詮久が同じ場所にいたのか、そうではないかということで、そのポイントとなるのが、詮久書状のみにある「今度致出張落居之上者」という表現の解釈である。
 以前は、詮久のみが出張して備後国におり、経久は富田城にいたはずなのに、同日付の書状が出ている点について、最終的に日付を合わせたと考えていたが、課題を残していた。日付を合わせる必要はないからである。また、山内聟法師はどこから尼子氏に連絡したのかという問題もある。以前は山内氏(直通)のもとに居たと思っていたが、「御宿所」とあり、多賀山氏や山内氏の城にいたわけではなさそうである。そして「御現形」ではなく「御忠節」とある以上、この時点で聟法師は尼子氏方であったことになる。
 以上の点を踏まえて、再度この書状について考えると、富田城にいた尼子経久・詮久のもとへ、山内聟法師から、自らが山内氏跡を継承することについての提案がなされ、尼子氏がこれを了承したことになる。当然、提案した段階で聟法師はすでに尼子氏方であり、であればこそ、尼子氏も認めたのである。すなわち、3月21日段階で尼子氏による山内氏攻撃は続いていたが、その時点で詮久はなお富田城にいた。聟法師も尼子氏方として攻撃に参加しており、山内氏のダメージがこれ以上大きくならない(断絶しない)ように、提案をしたのである。
 山内氏攻めの理由であった塩冶興久については天文4年末の段階で自害していたが、尼子氏はそれで一件落着とはせずに、山内氏を攻めていたのである。これには山内氏攻撃に協力すると言いつつ、山内氏と結びかねない毛利氏への不信感もあり、完全決着を図ったのであろう。そのあたりは同年3月14日と4月23日付で湯原幸清・河副久盛が吉川氏に送った返書に書かれている。3月21日の書状は決着後のものではなく、決着の直前のものであった。

2013年9月18日 (水)

古代ヨリ聴書(4)

 享禄四年七月四日には尼子経久が横田庄の攻撃を開始し、またもや岩屋寺が全焼するほどのものであった。同年八月六日三沢為国宛行状は「今度就籠城仕」と述べているが、同四月九日に塩冶興久が塩冶を退出し、妻の実家である山内家へ逃れ、尼子氏が攻勢に転じたことを受けてのものであったろう。尼子経久は赤穴光淸に対して四月十二日には備後国森山・山中・河縁の城を切り取ったなら、それを与えることを約束している(これに次ぐのが前述の十一月の書状であった)。
 次いで、六月十一日には尼子経久が横田要害の事として、森脇治部が調法を行い、三沢氏を分断することに成功したことを述べた上で、勝利した際には三刀屋対馬守に横田庄内の所領を与えることを約束している。ただ、なお予期できぬ事態も想定できるため、対馬守が牢人せざるを得なくなった際も等閑にはしないことを伝えている。そして同年七月十日付の尼子詮久契約状写しも横田攻めを成功させるための布石であった。そして同年十一月二十三日の尼子経久書状は、この時点までに三沢為国が降伏していたことを示している。年未詳の十一月四日付で尼子経久は朝山郷内稗原三ヵ村を三沢紀伊守に討ち渡し、同月十三日には三刀屋新四郎に対して、三刀屋・熊谷御被官衆が三刀屋氏惣領下知に従わないことに対して、厳しく成敗することを求めているが、これも三沢城攻撃が一段落した段階(享禄四年)に出されたものであろう。

古代ヨリ聴書(3)

 大永七年の尼子氏の備後国攻撃についても、これまでは毛利氏側の感状により述べられていたが、出雲国人だけでなく伯耆国人をも動員した大がかりのものであった。大永三年の石見国侵攻で成果をあげた尼子氏は、同五年の伯耆国の合戦に石見国小笠原氏を動員している。佐波氏とその一族赤穴氏も同様に動員されている。次いで、今度は伯耆国人をも動員して備後国北部を攻めている。その目的は山内氏であり、大内氏方からは陶氏をはじめとして毛利・宍戸・恵(江)田・和知氏が参陣している。尼子氏方も一族である塩冶氏・宍道氏だけでなく、亀井氏などの富田衆と三沢氏など出雲国人、さらには伯耆国勢(法勝寺の佐藤、幸松=行松氏、日野ノ守護津ノ守=日野氏か。伯州ノ守護大輔=山名氏か)と備後国三吉氏を動員している。
 毛利氏方の史料のみをみれば、「尼子方は撃退された」との評価も可能だが、翌享禄元年以降は尼子氏による多賀山氏攻撃が行われている。また、享禄四年十一月に尼子氏が赤穴氏に対して、備後国森山・山中・河淵らは先年高橋を退治したことにより尼子氏が支配していたが、享禄三年以来(塩冶興久の乱と高橋氏の滅亡)不知行となったが、只今手に入ったと述べている。高橋氏の退治はこの大永六~七年にかけてのものであったと思われる。これに関連して、後の尼子氏奉行人である湯原幸清・河副久盛の連署書状では、毛利氏と尼子氏の間で森山・山中・河淵の東隣りである布野の扱いを巡り交渉がなされたことがわかるが、これが享禄四年七月の尼子詮久と毛利元就の兄弟契約にともなうものであったろう。

古代ヨリ聴書(2)

 聴書には馬木上野守氏綱についての記述がある。「上野ハ山名ヵ侍」との表現が馬木氏が山名氏の一族であることを示すがどうかは問題であるが、山名氏が横田庄を支配した14世紀後半に、山名氏とともに入部した国人が後の馬木氏につながることは問題なかろう。
 大永二年の本堂の柱山取に関連して、「三所・八代・佐白ハ為国ノ知行」とあり、為国が三所(処)郷内の三所・八代・佐白も支配していたことがわかる。三沢郷や亀嵩などを支配する三沢氏惣領に匹敵する所領を支配していたことになるが、一方では三沢氏惣領も横田庄内の所領を支配していた可能性が高い。その後大永四年五月に岩屋寺本堂の柱立が行われている。
 「大永四年大内右京大輔殿ト当国守護佐々木尼子殿ト石州於福屋辺ニ、三年取相、終ニハ尼子切勝」との記事は尼子氏が大永二年以降石見国へ出兵したことに関する記事である。大永二年から四年までの三年間との解釈が可能である。一方、大永六年に尼子氏は大内氏と結ぶ佐波氏を攻撃し、佐波氏惣領を没落に追い込んだことが確認できる。前には毛利氏が大内氏方に転じ、大永6年には守護山名氏の意向をうけて備後国人の中にも尼子氏方を離れるものがあった。長谷川氏は主に安芸方面について、この時期の尼子氏は大内氏に圧倒されていたと評価したが、どうであろうか。
 大永七年の岩屋寺本堂上葺の際の勧進について、「快円日記」では「三沢ノ名代ハ三郎左衛門尉為幸也、三沢御家来ヨリ拾五貫文也」と記した後に、「三沢信濃守殿御勧進籾参拾俵・鳥目弐拾貫文御入候」とあるが、これを「聴書」では「三沢ノ名代三郎左衛門為幸何モ勧ニ御入、三沢信濃守為国殿モ御入也」とあり、ここでも横田庄地頭三沢氏と三沢氏惣領が区別されている。この時の勧進については、「聴書」をみると塩冶興久とその被官も応じていることがわかる。また、備後国の合戦には法勝寺など伯耆国の国人も動員されている。

古代ヨり聴書(1)

 糸原家に残るこの記録については、近世部分のみで、中世部分については内容を十分確認していなかった。長谷川氏の『戦国大名尼子氏の研究』では「岩屋寺快円日記」の内容を補充する形でのみ使用されているが、両者の記述を比較すると、「聴書」の岩屋寺の歴史に関する部分は、十七世紀末から十八世紀前半に快円日記に基づいて書かれたものをまとめたものであることがわかり、写し間違いはあるが原則としては信憑性の高いものである。一方「聴書」には「三沢氏由来」も含まれているが、こちらは多くの三沢氏系図同様玉石混淆で、横田三沢氏が三沢氏の惣領であるとの立場から記載されているなど問題が多い。
 一次史料などの信憑性の高い史料を基本とするのは当然であるが、問題はその先にある。二次史料や系図類についてもその信憑性を評価して、利用できるものは利用すべきである。その際には根拠を示すことが必要である。ちなみに、永正十一年の尼子経久による横田庄・岩屋寺攻撃について、岩屋寺の歴史の部分では尼子氏の陣所とともにその攻撃で岩屋寺が全焼したことを記すが、三沢氏由来では陣所に次いで「城強シテ尼子帰陣ス」との記述がある。おそらくこれが「尼子氏を撃退」の根拠なのだろうが、その後の客観的状況からするとこの記述は原史料にはなく要検討であろう。横田三沢氏惣領の為国が富田に連れ帰られた享禄四年の状況とは異なるが、三沢氏が所領を献上することを条件に尼子氏が引き上げたのだろう。

2013年9月15日 (日)

尼子氏と塩冶氏・三沢氏(3)

 次に三沢氏についてみるが、長谷川氏や『横田町誌』を執筆した高橋一郎氏は、永正一一年の尼子氏による横田庄や岩屋寺への攻撃を三沢氏が撃退したとされるが、根拠は明示されていない(「古代ヨリノ聴書」所収の「三沢氏由来」には尼子氏方が引き上げたとあるが、由来そのものの記述は要検討。ただし、岩屋寺の記録から引用した部分の信憑性は高い)。大永二年に杵築で行われた万部経読誦に岩屋寺の僧侶が動員されていること、大永七年の備後国和知攻めに三沢三郎左衛門尉為幸が惣領三沢氏の名代として動員されていることから、永正一一年に尼子氏は三沢氏を屈服させ、翌年には馬来での尼子経久と赤穴氏の会見が実現したのである。さらには大永七年(一五二七)段階で横田庄内竹崎の一部を亀井秀綱が支配していることもその裏付けとなる。
  名代として為幸が派遣された背景としては、三沢氏惣領が幼少であったことが考えられる。為忠の嫡子は為永(彦四郎・左京亮)であるが、その兄弟為理が永正七年(一五一〇)の三成八幡宮棟札と翌八年の三沢大森神社棟札にみえるのである。その背景としては為永の死亡とその後継者が幼少であったことが考えられる。天文九年の竹生島奉加帳にみえる「三郎四郎」が為永の後継者であったと考えられ、その後まもなく三沢氏惣領の称号となる左京亮に進むが、天文一一年から一二年の大内氏の出雲国攻めに与同したため殺害されている(法名覚俊)。
 三沢氏掌握の第一段階は永正一一年で、第二段階は塩冶興久の乱の際に横田三沢氏である為国を攻撃して降伏させ、富田に幽閉したのである。そしてそれまで尾原等の地頭であった三郎左衞門尉為幸が横田庄請之地を知行した。天文五年に幽閉していた為国を殺害した背景として反尼子氏への三沢氏の荷担の動きがあったことも想定できる。第三段階が大内氏敗退後に惣領左京亮を殺害し、為幸の子才童子丸(天文九年には父為幸の戦死によりその跡を継承)を三沢氏惣領とし、横田庄は尼子氏の直轄とし、尼子氏直属の富田衆と備後国多賀山通続がその支配を分担している。
 長谷川氏はこの第三段階をもって尼子氏による出雲国内領主層統制はそれまでと比較にならないほど進展し、尼子氏権力が最も強大化した時期は尼子氏が横田庄を直轄領とした天文一二年以降のことと考えられるとした。表面的にはそのように考えることも可能だが、直轄化は三沢氏の謀反に対する結果として行われたもので、その意味では積極的対応ではなく消極的対応であった。当初の所領の一部を献上させそこに尼子氏家臣が入部するという体制が尼子氏の支配体制であったが、それがうまく機能しなかった結果であった。そして実際に横田庄を直轄化はしたものの、尼子氏が三沢氏とその所領を掌握するためにそれが有効に機能したとは考えられず、毛利氏の出雲国攻めが始まると三沢氏はいち早く毛利方に参加しており、長谷川氏の評価は妥当ではないと思われる。氏の最新の論文では天文二〇年以降、尼子氏は衰退の局面に入るとされたが、これも明確な根拠は示されていない。
 論者の現時点の評価としては尼子氏の支配体制は塩冶興久の乱の直前までに一定の完成をみたが、乱の勃発は尼子氏への支配への不満の大きさを示しており、その後、経久の後継者となった晴久の代にその修復がはかられたが、これもうまくはいかなかった。晴久の施策には有効に機能したものもあったが、その一方で富田衆を優遇して出雲州衆を圧迫したため、出雲州衆の不満を解消するには至らず、これが尼子氏の滅亡につながったというものである。

尼子氏と塩冶氏・三沢氏(2)

  「火継旧記」によると、国造北島雅孝から経久女子との結婚を申し入れたとする。その際には間に立った亀井能登守秀綱は、縁は定まらない面もあり夫婦の不和ということもあるので、経久女子の地位についての保証を求めている。これに対して北島家から経久女子=御上を主人としてあがめることについて、家中親類衆・被官衆からの連判状が提出され、これをうけて経久が結婚に同意した形になっている。
 北島雅孝と御上の間には男子が誕生したが、相続も可能となった一七才で死亡したと記されている。大永四年三月(一五二四)には国造雅孝から御上への国造職などの譲り状が作成されているが、これが後継者となるはずの男子が死亡したことを受けてのものであったろう。となると、雅孝と御上との結婚は永正四年(一五〇七)までには成立したことになり、先に述べた興久の塩冶入りの時期とも符合している。
 塩冶興久の乱後の処置として長谷川氏は経久の次男国久の塩冶入りがなされたとするが、これも時期を明示されない。すでに述べたように国久の塩冶入りは大内氏の出雲国攻撃が失敗した後の処置としてなされたものであり、長谷川氏の説は成り立たない。興久の遺児「彦四郎清久」が塩冶氏の継承を認められたが、旧塩冶氏所領の一部は尼子氏により没収され、その跡に尼子氏家臣が所領を得て入部した可能性が高い。
 上記の点の参考となるのが、塩冶氏・国造家と協力関係にあった古志氏の状況である。古志氏領であった芦渡郷には天文二四年段階で、亀井孫五郎、大西越中守、赤穴弥五郎が入部していたことが確認できる。その時期についても、尼子氏による塩冶氏掌握、興久の乱鎮圧時、大内氏の出雲国攻め後などが考えられるが、古志氏が尼子氏の支配下に入った時点で所領の一部を没収し、尼子氏家臣が入部したと思われる。また、古志氏の場合一族の六郎左衛門尉が富田衆に組み込まれていることも確認できる。
 さらに傍証となるのが神西氏の場合であり、その所領の一部が経久の側近亀井氏に与えられている。具体的には常楽寺山王社の大永二年一一月六日の棟札と三部八幡宮の永正一六年一一月の棟札にはともに地頭として亀井上総守重綱がみえている。重綱は秀綱の弟で塩冶興久の塩冶入りに付き従ったものであろう。神西氏が服属した段階で所領の一部を尼子氏に献上したものである。このように尼子氏に服属した場合は、その支配する所領の一部を献上することを要求された。

尼子氏と塩冶氏・三沢氏(1)

 戦国大名尼子氏の成立について、長谷川氏は塩冶氏と三沢氏の掌握が重要な意味を持ったとされた。ただ、すでに述べたように、個々の事象の具体的時期については長谷川氏の見解は明確さを欠いているので以下で確認したい。
 塩冶氏掌握について長谷川氏は、第一段階を永正一五年以前とされ、次いで第二段階が享禄末年から天文初年の塩冶興久の乱の鎮圧、第三段階を天文二三年一一月の新宮党の党滅による直接支配であるとした。第一段階の興久の塩冶入りについての氏の見解に含まれる矛盾点についてはすでに述べたとおりであり、永正二年(一五〇五)に尼子氏による塩冶攻撃が行われ、塩冶氏は尼子氏の支配下に入ったと思われる。
 守護京極宗済が死亡した永正五年(一五〇八)には、塩冶氏惣領貞清とその父貞綱の兄弟である政通が死亡している。遅くともこの直後には尼子経久の三男興久(当時一二才)の塩冶入りは実現したであろう。そしてその後、備後国山内氏女子との結婚による尼子氏政権の強化がなされたと思われる。塩冶氏女子との結婚でない点が、尼子氏優位のもとに興久の塩冶入りがおこなれたことを示している。
 興久の塩冶入りの時期を考える上で参考になるのは、永正二年による攻撃で同じく打撃を与えた国造家との関係である。千家との関係については経久女子の一人が嫁いだという系図の表記以上のことは不明であるが、北島国造との関係については、具体的事実がわかるのである。

2013年9月 5日 (木)

尼子氏と横田庄

  天文五年には岩屋寺仁王堂が造進されたが、尼子詮久とその家臣が勧進に応じている。詮久が「民部少輔」に任官していることが確認できる初見史料であるが、詮久とその局(国久女子とは別人)とともに、立原備中守とその息子宗次郎(後の幸隆か)、馬来出羽守とその息子宗三郎、さらには亀井宗四郎、疋田左衛門尉、宇山飛騨守、池田和泉守である。ここに登場する家臣は横田庄ないしはその隣接する地域に所領を得ていた人々であろう。
  岩屋寺については天文八年前後に大がかりな造営がなされている(快円日記)。三沢氏一族では横田庄地頭となった三沢三郎左衛門尉と七郎兵衛殿が中心となり、これに家臣である石原伊賀守義扶、商人とされる溝尻清兵衛などが関わっている。亀井太郎左衛門尉安綱は亀井秀綱の後継者であり、塩冶兵庫助泰敏は塩冶氏一族の上郷氏で、三沢氏殿間に婚姻関係を結んでおり、尼子氏滅亡後は毛利氏のもとで塩冶郷の支配を認められるとともに、三沢氏の家臣として活動している。
 天文五年にみえた人々を竹生島奉加帳で確認すると、立原氏は備中守とその息子次郎右衛門尉がみえ、宗次郎が任官したことがわかる。亀井宗四郎もまた任官して亀井藤左衛門尉(国綱、安綱の弟か)と、疋田左衛門尉はそのままの名でみえる。一方で、宇山飛騨守と池田和泉守はみえない。勧進帳には詮久側近の筆頭であった河本左京進が和泉守に任官したことが記されており、最初に記された時点とは変化(任官)があったのだろう。池田和泉守が死亡ないし引退し、河本左京進が代わって任官したのであろう。宇山飛騨守(宇山氏は勝部宿祢一族で大原郡木次の宇山を苗字とした)についても同様のことが考えられる。
 竹生島奉加帳をみると、尼子氏直臣富田衆はほとんどが任官している。そうでない場合は、松浦助次郎を除けば、一族で複数の名前がみえる場合である。この前後にも詮久が後継者となるとともに、家臣団の再編がなされたと思われる。横田庄への支配もこの前後に強められ、そのことが大内氏の出雲攻めの際の三沢氏の行動につながったのであろう。天文一二年八月に尼子氏は横田庄を直接支配下に組み込んでいるが、その前段の状況がすでにみられたのである。

三沢為幸について(2)

 次いで、塩冶興久の乱で、横田三沢氏の為国が興久方であったことは確実である。この時は為国は降伏し、富田城内に幽閉され、天文五年には尼子氏により殺害されている。天文九年の竹生島奉加帳には三沢氏惣領である「三沢三郎四郎」と「三沢三郎左衛門尉」がみえ、後者には「但横田庄請之地知行」と注記されている。実際に棟札をみると、横田庄内八川の尾園八幡宮の天文四年の棟札にも「地頭三沢三良左衛門源為幸、当村代官為幸弟為隆」とある。尾園八幡宮の享禄三年一二月の棟札には「地頭三沢信濃守為国・丁亥歳、当村代官舎弟為隆息百千代」と、天文八年七月の棟札には「地頭三沢三良左衛門源為幸息」とみえる。興久の乱までは横田三沢氏の為国が八川村を支配していたが、為国跡が没収されて為幸が与えられた。ただし、代官の為隆はその地位を保持していた。次いで為幸の息子が八川村を継承していることがわかる。天文七年一二月の岩屋寺大師堂并御影堂の棟札には「当地頭三沢三郎左衛門為幸」とみえ、為国の幽閉後は為幸が横田庄全体の地頭でもあった。とはいえその一部が尼子氏の支配下に入っていた可能性は大きい。
 永正六年に惣領為忠が幼少の為国を伴い隠居領の横田庄に移ったのに対し、為幸は三沢氏惣領方にとどまったのであろう。仁多郡尾原の岩壺神社の天文三年九月の棟札にも「大旦那三沢源朝臣飯島為幸」とみえる。それが、興久の乱の結果、横田三沢氏の為国は幽閉され、その跡は為幸に与えられた。こうした点からしても三沢氏惣領は興久の乱で経久方であり、その勢力を保持したと思われる。

三沢為幸について(1)

 三沢為幸は、永禄五年以降の毛利氏による尼子氏攻めで毛利方となった為清の父で、天文九年の尼子氏による吉田・毛利氏攻めの際に討ち死にしている。この為幸について情報を整理する。
 初見史料は『岩屋寺快円日記』の大永七年の記事に尼子氏が備後国和知を攻撃した際の「三沢ノ名代」として「三郎左衛門尉殿為幸也」とみえる。従来、横田三沢氏を三沢氏惣領としていたが、そうではなく、横田庄は惣領為忠が引退した後の隠居領として支配したもので、後継惣領は別に三沢郷にいたのである。そうしてみると為幸は、同日記にみえる「当(横田)庄地頭三沢信濃守為国・息次郎法師丸」の名代ではなく、三沢氏惣領の名代として和知の陣に参加していたことになる。為忠の子であった為幸は、横田三沢氏ではなく惣領方に属していたのである。
 当時岩屋寺の本堂の上葺が三沢為国を中心に行われており、快円と本願である杵築ノ道清は勧進のため和知の陣を訪れ、亀井能登守秀綱から二〇貫文を得ている。それは秀綱が横田庄内「竹崎ノカナカウ」を支配していたためだった。亀井が竹崎内の所領を得たのは永正一一年の尼子氏による横田庄攻めの結果であったろう。長谷川氏は尼子氏の攻撃を三沢氏が撃退したとされたが、そうではなく、三沢氏は尼子氏に服属し、竹崎内に秀綱領が設定された。ただし、三沢氏惣領がこの時どのように対処したかは不明である。

2013年9月 3日 (火)

三沢氏関係史料から(3)

  三沢為信の史料とされるものに、A寛正二年一一月二九日為信証状(小野家文書)とB応仁元年一一月一〇日為信渡状(日御崎神社文書)がある。二つの花押は同一人物のものといえないことはない。前者は日御崎社の七日御頭饗膳を女性の一神子が勤めることについて、日御崎社検校に伝えている。C年未詳九月二八日京極持清書状(三沢信濃入道宛)では、一御(神)子が上洛して届けた書状を一見したとして神社造営について奉書を遣わしたので、談合して早く注進するよう命じている。京極持清が出家するのは寛正元年(一四六〇)六月二四日のことなので、Cは長禄三年以前のものとなる。三沢氏が京極氏の命で日御崎社に関わる立場にあったことがわかる。康正二年には守護代尼子清貞が三沢対馬守(為信)に守護の命を実行するするように命じていた。そうするとAの為信が三沢対馬守為信であることは問題なかろう。Bもその点はよいが、史料の解釈に課題がある。
 Bは大社町史では「寄進状」と、長谷川氏は「書下」とされ、氏は神門郡稲頼庄安原二分内御崎神田を先例に任せて渡している為信が稲頼庄内に所領を獲得していたことをうかがわせると評価した。ところが、これまでの三沢氏の役割と「寄進」ではなく「渡申」とあることを考えると、京極氏の命を実行して神田を打渡したものとすべきである。ここから為信の所領について論じることはできないのである。この翌年に、三沢対馬守為信は、松田氏とともに山名氏と結んで、反京極氏として挙兵したが、結果的には没落することとなった。史料の性格について一〇〇%確定することは難しいが、できるだけ正確に文書の声を聴く努力が必要である。

三沢氏関係史料から(2)

 話を戻すと、この当時の備後国では宗全の子是豊が東軍方となったため、南部の国人の中には東軍方となった国人も多かった。備後国では西軍優勢のまま応仁・文明の乱が終結したが、宗全の子で新守護となった政豊が、乱以前の状況に戻す方針を出すと、西軍に属して優勢の状況を実現した国人の中には山名氏から離れていくものもあったという。
  三沢氏は出雲国内での乱では伯耆国山名氏と結んで、安来庄松田氏とともに西軍方に属した可能性が高い。出雲国守護京極持清は松田氏の十神山城とならんで三沢城のことが肝要であると守護代尼子清貞に伝えている。この戦いは京極氏側=東軍有利となり、松田備前守は所領を没収された。ところが文明2年以前には三沢対馬守を中心とする反京極氏の一揆が起き、京極氏は三沢対馬守ら一揆の張本人となった国人を処罰(沙汰)した。ところがなおも、それに不満を持つ国人が連署で京極氏の成敗に反対したことが記されている。これに対して持清は関係者の知行を差し押さえるというより強力な措置を守護代尼子清貞に命じている。
 松田備前守は京極氏のもとで段銭の徴収にあたったこともあり、三沢対馬守も京極氏と尼子氏の命令に基づき出雲大社と日御崎社の対立の解決にあたっている。それに対し、両氏の惣領であった三沢信濃守為清(対馬守は為清の父信濃入道の後に三沢氏惣領となり、その死で為清が惣領になった可能性が高い)と松田三河守の立場は微妙であり、結果的には没落することなく、その地位を維持している。松田三河守は文明五年には法吉郷を京極氏から料所として与えられ、三沢為清は文明七年には京極氏の動員に応じて上洛し、同年一一月の近江国での合戦で死亡している。
 松田三河守はその後、尼子清貞が代官となった美保関と自らの支配する美保郷の境界をめぐり尼子清貞と対立し、文明八年には松田氏が中心となって能義郡土一揆が発生して富田城を襲撃している。なんとか最初の攻撃を防いだ京極・尼子方であったが、その後の史料は残されず、尼子清貞は歴史の表舞台から姿を消し、嫡子で後継した経久が京極政経から与えられた所領は、合戦に約束したものの一部であった。このことから、松田氏を中心とする土一揆側が優勢のまま、両者の和解が図られたと思われる。この時点の三沢為忠は京極氏側であり、為清が討ち死にした勲功に対して為忠は塩冶郷内荻原の牛尾田(それまでは京極氏が牛尾氏に与えていた)を得ている。

三沢氏関係史料から(1)

 文明七年六月二五日に、山名政豊は三沢信濃守跡である備後国信敷東西之増分を給分として某(宛名なし)に与えている。山内首藤家文書として残っている点と文明一五年九月二六日山内豊通譲状(本領・給分地)に「同所(信敷)増分」がみえるので、三沢氏跡を与えられたのは、山内豊通であろう。問題はなぜ、三沢氏惣領である信濃守為清は所領を没収されたのか、という点である。
 山内氏と信敷庄の関係は南北朝初期からみられ、康応2年には備後国守護山名時煕から山内氏一族で信敷庄東方を給分として支配することを認められている。ただ、本領と違い、給分は他の人物に与えられることもあり、応仁元年には山名氏一族の宮田教言が山内豊成に信敷東西代官職を預けている。次いで翌応仁二年一二月三〇日には、山名宗全が山内豊成に信敷東分半分を給分として与えている。三沢為清が信敷増分を与えられたのもこの時期であったろう。この時点で三沢為清が山名宗全=西軍方であったことがわかる。
 文明二年五月一二日には、仁多郡の馬来郷を支配していた馬来満綱が、山名氏から与えられた信敷西方内の給分について、年貢の収納を依頼する契約を、同庄内の大半を支配する山内氏と結んでいる。馬来郷は鎌倉時代には多胡氏(惟宗姓)が地頭であったが、天文9年の竹生島奉加帳に出雲州衆として「三沢三郎四郎殿」と「広田太郎五郎殿」の間にみえる「馬来左衛門大夫」はその配列から源姓であることが確実で、多胡氏ではない。山名氏の一族であるとされるが、その可能性は排除されない。とはいえ出雲国の馬来郷を支配したから馬来氏を名乗っており、山名一族の馬来氏が出雲国に入ったとの説は成り立たない。尼子氏直属の家臣である橘姓馬来氏はこれとは別であるが、源姓馬来氏が尼子氏の支配下に入る際に馬来郷の一部が尼子氏領となり、そこに入部した一族が馬来氏を称したのであろう。尼子経久の母は馬来(真木)氏の出身であるが、橘姓ではありえず、源姓馬来氏であろう。さらに付け加えるならば、馬来満綱の「綱」は多胡氏が入部するまでこの地域を支配していた勝部宿祢一族を連想させるもので有り、多胡氏の没落後馬来郷に入部した源姓馬来氏が勝部宿祢一族との間に婚姻関係結んだのではないか。守護代尼子清貞が馬来氏女子と結婚したのは馬来氏の由緒と隣接する三沢氏を牽制するという二つの意図が想定できる。

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