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2013年8月

2013年8月24日 (土)

出雲大社と揖屋社との関係2

   その後も国造関係者の譲状に揖屋社内の所領がみえ、嘉吉3年には藤原(秋上)秀尊が、北島幸孝・高孝の命をうけて、秋上助六(栄国)に秋上末国跡の揖屋・大庭御代官職などを打ち渡している。注目されるのは享徳元年11月に出雲国守護京極持清が国造に杵築社領揖屋庄地頭分侍所職段銭を寄進していることである。これによれば、国造は揖屋社(庄)の地頭分を支配していたことになる。鎌倉後期のある時点で、背景は不明だが揖屋社地頭職が出雲大社に寄進されたのであろう。
 これに関して注目されるのは、元徳元年10月の幕府関係者の連署奉書である。同様の文書は元徳2年8月にも残されている。いずれも沽却地に関する訴えを受けて、関係者や当事者に説明を求めているが、前者では崎田孫三郎に,、訴えた大岡雲平次入道了一が鎌倉初期の国造孝綱のひ孫かどうかについて報告を求めている。「崎田」は揖屋社内の地名で有り、大岡了一が訴えたのも揖屋社内の所領についてであったであろう。了一は孝綱が美談新庄・乃白郷・田尻保等の地頭職に補任された下文を持っていたとされるが、これは現在は北島家文書に残っているが、「美談新庄」など確認できない所領名が記されるなど後に作られた文書である。
 以上により、出雲大社の揖屋社への支配権は地頭分という所領支配に関するもので、別火への支配権を含むものではなかったことがわかる。

出雲大社と揖屋社の関係1

 天文24年2月、尼子経久は出雲大社・日御崎社とともに揖屋社に所領(出東郡氷室庄100貫)を寄進している。天文12年3月には当時尼子氏を攻撃していた大内義隆が太刀と馬を揖屋社に寄進しており、この時点における揖屋社の重要性がわかる。11世紀末には出雲守藤原兼平が重任を認められ、熊野社・水訳社とともに揖屋社を造営しており、この時点における重要性も確認できる。また出雲大社国造が鎌倉末期には揖屋社領内に所領を得ていたことが確認される。その一方では揖屋社には別火が存在し、14世紀後半までは領家がこれを補任していることが確認できる。伊弉冉社(神魂神社)の場合は、国造北島氏が神主として、そのもとに別火がおり、揖屋社も国造が神主であったとの想定も可能だが、その支配を示す情報は所領関係のみである。ということで、両社の関係を再確認する。
 揖屋社は古代の筑陽郷が揖屋社と意東郷に分かれ、前者が崇徳天皇の勅願寺である成勝寺に寄進されたのに対して、後者は下賀茂社(鴨社)に寄進されて筑陽庄とも呼ばれるようになった。文永8年の地頭は揖屋社が安東宮内左衛門尉(景光)、意東庄が 金子左衛門三郎女子であった。出雲大社領が承久の乱に関与しなかった土御門院領であったため、地頭が置かれなかったのとは対照的である。出雲国安来庄も鴨社領で、承久の乱の結果、鴨社の関係者と思われる兵衛尉資朝跡が没収され、相模国松田氏が地頭となっている。
 揖屋社と国造の関係を知ることができるのは徳治2年の国造泰孝譲状で、五郎貞孝と福徳に譲った所領の中にそれぞれ揖屋庄田5町・屋敷1垣がみえる。次いで文保2年の国造孝時が「国造三郎」に去渡した所領には出雲大社・伊弉諾社・伊弉冉社・惣社・と山の社・みさき社とならんで「ゆやの社」の神経田がみえ、これによれば揖屋社を国造が支配していたと考えることが可能だが、これは後に作られた文書であり、事実ではなかったと思われる。

2013年8月16日 (金)

PCトラブル

 新たなPCのセットアップをして、再起動したところ、パスワードが違うといわれた。同じものを2度入れて設定するのでありえないはずだが、実際に起こってしまった。記憶違いかと他の可能性の高いものを入れても駄目。OSをインストールして次にドライバーを入れていた途中で、スロットイン式の内蔵光学ドライブにはドライバーディスクが入ったまま。ネットでみると裏技としてDOS窓で起動設定を変更してアドミニストレータで立ち上げてパスワードを変更し、その後起動設定を変更する方法も紹介されていたが、途中で入力を間違えてうまくいかなかった。
 あとは再インストールしかないかと思い、しようとするが一度目にインストールした領域にはインストールできないとの表示?理由は不明だが、そこでその領域をフォーマトしたり、領域を削除後再確保してみたが、やはりインストールできない。そうしているうちに、外付けドライブ(内蔵にはDVDが入っているが、スロットイン式なので取り出せない。セットアップ後キーを割り当てれば可能だが、まだしていない)からの起動もできなくなる。分解してHDDを取り出そうとしても、T5のドライバーが必要とのことで、とりあえずは裏蓋をあけることもできないと、袋小路に入ってしまった。BIOSで起動の設定も変更してみたがうまくいかないという状況。
 結局はなんとか外付けから起動でき、インストールした領域とは別にある領域も削除して再インストールできたのだが、精神衛生上大変よくない時間を過ごした。PCそのものは、xps15(テンキーがないのが選択理由のすべて)でmacbook proのウィンドウズ版で黒筐体という感じで、筐体がしっかりしているのでキーボードのたわみもなく快適ではある。個人からオークションで新品同様のものを半額以下の値段で入手したが、自己責任の世界が大きい。同様に業者?から入手したものにはリファビッシュPCとのシールが貼ってあったが、これにはなく、OSも手持ちのWindows8をイントールした。解決したのでよかったが、少し疲れた。

2013年8月14日 (水)

正応元年11月21日将軍家政所下文

 これについては以前、古志氏関係者が在京奉公の労として所領を与えられたものであるとの推定をしたが、文書の影写本のコピーと以前原本の写真を見た際のメモを併せて考えると、問題がありそうなので、再度みてみたい。
 まずは与えられた人名であるが「小野又次郎」については、「小」は問題がなく、「野」が異筆であるとメモしている。影写本でみても「野」の字がその位置も不自然で、筆使いも細くて異なっている。次に「日置政吉」の部分だが、同日で出された小早川氏宛の文書でも「美作四郎」と「法師領知」の間が空白となっており、この文書でも「又次郎」と「領知」との間は空白であった可能性が高い。そこに「日置政吉」を加筆したものではないか。特に元有った字を消したような痕跡は写真からはうかがわれなかった。
 次に「神門郡薗内外」の部分だが、「神門郡」の部分は元有った字を修正したようにみえるし、やや右側に偏っている。当寺の文書をみても、郡を記すことはない。さらに「同蘆渡郷」の部分は、書き換えた痕跡は確認できなかったが、「蘆渡」の二字の位置が右により、字も細くなっている。ここも修正したとみるべきであろうか。これ以外については元のままであると思われる。
 「小」が生きるとなると「小山」あたりであろうか。文永8年段階では漆治郷地頭が下野入道女子であり、他氏の男性と結婚しているのだろうが、この所領は父小山下野入道から譲られたのであろう。「神門郡」の部分がどのように書かれていたかは、成案がない.最後の「若槻□□郎蔵人入道法師跡」については直前の門田三町・屋敷壱所にのみかかるのであろう。若槻氏は一四世紀後半には出雲郡漆治郷内津々志村に所領を有していたことが確認できる。とりあえずは「小山氏」と「漆治郷」がキーワードであろうか。前回の古志氏関係者との説は撤回する。

2013年8月11日 (日)

出雲大社三月会頭役負担の再編

 康永元年11月に出雲国横田庄雑掌良円が提出した請文に以下のように記されている。当国平均杵築社頭役、元者雖被定廿番、就被進 公家一円、被盛替十九番、被除当庄畢
横田庄は石清水八幡宮から度々年貢抑留で訴えられた地頭三処(所)氏(三処左衛門後家)が、地頭職を六波羅探題北条時輔に寄進し、自らは代官としての地位を保持したのだった。ところが、文永9年の二月騒動で時輔は殺害され、その後は時輔の母尼妙音が地頭となった。訴えた石清水側は、時輔時代の未進分について、他人であってもだが、妙音が身内であるからには納めるべきだと主張するとともに、下地中分を求めていた。その結果、横田庄では石清水(領家)方と地頭方に下地中分がなされた。そうした中、三処氏は責任を問われる形で代官を解任されただけでなく、三処郷も失ってしまった。その点は妙音が「岩屋堂禅尼」と呼ばれる一方で、弘安4年の横田八幡宮棟札には「平氏三所比丘尼妙音」と署名していることからわかる。この記載から妙音が三処氏の出身だとの説が出されたが、「三所」は苗字ではなく、彼女が弘安4年の時点で三処郷内に居住していたことによる。また、三処氏の没落は棟札の関係者に名前がないことからわかる。
 何より、「横田庄と女性」で述べたように、三処氏は在庁官人勝部宿祢の一族である。その三処氏が北条時輔に接近した背景には、後家尼が東国御家人の家の出身であったことが考えられる。承久の乱後、大原郡久野郷地頭職を獲得した中郡重経は早くから出雲国に入部し、その男子は東国御家人と国御家人との間に婚姻関係を結んでいることが確認できる。その中の一人道意は建治4年に55歳で死亡しているが、勝部宿祢一族の仁多重房女子と、秋鹿郷地頭土屋五郎忠泰女子と結婚している。その子の中に早世した弥松丸がおり、そこには母が「土屋五郎女」であり、「清(三)所郷地頭」であると記されている。重経の父経元の子孫は久野郷とともに「三所郷及万田庄一分地頭也」と記されているので、土屋五郎女が三処郷一分地頭であったことになる。可能な解釈としては、三処左衛門後家が土屋氏の出身で、その関係から土屋五郎女が三処郷の一部を譲られたということであろう。尼妙音は「平氏」であることが明らかであり、三浦氏の可能性が大きいとしたが、土屋氏も三浦氏同様相模国出身の平氏である。
 話が横道にそれたが、これまで杵築大社三月会の負担をしていた横田庄が、地頭職が内裏供御料所となったことで、「公家一円」となり負担から外れ、その結果、文永8年の20番編成が文保元年には19番編成に修正されたとこがわかる。正和元年7月7日の六波羅下知状写(集古文書)でわかるように、2番に属する大原郡の福田(加茂)庄も地頭が廃止されたため、頭役を負担していなかった。横田庄は12番であったが、すでに矛盾があったわけである。そのため、2番と12番を中心に微調整がなされ、新たに19番編成に組み替えられたのだろう。
 岩屋寺文書そのものは『南北朝遺文』にも収録されている知られた史料だが、いままでこの点に言及した報告はないと思うので、確認した。なおも20番であるとの前提から、順番が守られていないとの指摘もみられるためである。また、頭役負担の前提となる田数についても、赤穴氏からこれを減らしてほしいとの要望が出て減らした例もある(中川四郎氏所蔵文書)。

2013年8月 8日 (木)

治承・寿永の乱と出雲国3

 隣接する秋鹿郡についても大野庄の庄官である大野氏は引き続き勢力を保ったと考えられ、国衙在庁官人のNo2と3をしめる中原氏が建久2年に郷司であった秋鹿・伊野両郷も同様であったと思われる。その勢力を背景に中原頼辰と国造家女子との間に産まれた中原孝高が出雲大社惣検校となっているほどである。内蔵資忠の子孝元もまた鎌倉幕府の推薦により、最初は新設された権検校となり、一旦解任されたが、その後には惣検校となっている。孝元は幕府の支持をうけ楯縫郡内の国富郷の地頭にも補任されている。これに加えて、楯縫郡は勝部宿禰一族が承久の乱後も勢力を維持しており、ここもまた地頭の入部は限られたと思われる。出雲郡と飯石郡も同様である。出雲郡は在庁官人No4の藤原孝政が漆治郷司として勢力を保ち、飯石郡内の赤穴別宮の下司紀氏もその勢力を維持している。仁多郡の横田兵衛尉惟澄の跡も、東国御家人ではなく同族=勝部宿禰である三所郷司が継承を認められている。神門郡の塩冶・朝山についても、一の谷合戦に参加した本人は没落したにしても、一族の人物が郷司の地位を保っている。勝部宿禰の信頼の置ける系図によると、その一族は、神門郡・大原郡・仁多郡・飯石郡に分布していた。これに対して大原郡の場合は、土肥実平の弟土屋遠平が加茂庄地頭となり、地頭代が入部したが、余りに乱暴を働いたため、上賀茂神社の要請を受けて、頼朝が地頭職を廃止している。また、系図によると承久の乱後の勝部宿禰一族の惣領となった朝山氏は12世紀半ばの勝部宿禰一族(庶子)である元宗の系統であるが、元宗の子で大原郡佐世庁事となった守安の子でその後に続いていくのが惟元系のみであることからすると、大原郡の勝部宿禰一族の中には、木次・三代氏のように没落してその跡に東国御家人が地頭となるケースは加茂庄以外にもかなりあったと思われる。
 以上、治承・寿永の乱の中で、出雲国内には平家方として没落するものも少なからずいたが、在庁官人筆頭の孝盛系のようにその勢力を維持したものもあり、郡ごと一族ごとに状況は異なっていた。そうした中、実際に東国御家人が地頭として入部したのは3分1に満たない状況であった。この点は4分3以上に東国御家人が地頭として入部している承久の乱後とは明らかに異なっている

治承・寿永の乱と出雲国2

 出雲国西端の能義郡は早くから大規模な摂関家領庄園(富田・吉田・宇賀庄)が成立するなど、中央との結びつきがみられた。その代表が富田押領使であるが、それ以外にも平家没官領・謀反人跡であったことが確認できるのが、吉田庄・飯生庄と安来郷である。安来郷は、下賀茂神社の要望を受けて、頼朝が寄進してしまい、地頭は補任されなかったと思われるが、面積は110町と105町の出雲郷をしのぐ、国内最大の公領であった。勝部宿禰一族が有力在庁官人である一方で、石清水八幡宮を勧請していたように、富田押領使の一族が安来郷司であった可能性も十分ある。安田別宮については、承久の乱で武蔵国御家人江戸氏が入部するまでは地頭未設置であったと思われる。
 一方、国衙の所在した意宇郡については、平浜別宮は勧請されたが、一の谷合戦への参加者はみられない。個別の所領をみると、佐々木高綱の子光綱が地頭として入部した乃木保・乃白郷、惣社神官と地頭代の対立がみられた大草郷(出雲国衙の所在地)のように、地頭が設置された例はみられるが、平浜別宮も承久の乱以前は下司の存在が確認できるように、能義郡ほど地頭の設置率(具体的数字を示すのは難しいが)は高くなかったと思われる。なによりも、建久2年(1191)の国衙在庁官人の筆頭は助(資)盛であり、孝盛と「盛」の一字を共有している。少なくとも、孝盛の一族の勢力が大きく失われる状況にはなかったと思われる。幕府からの推薦により国造孝房に替わって出雲大社惣検校となった内蔵資元とも「資」の字を共有している。
 島根郡については、平家との関わりの深い蓮華王院領加賀庄・持田庄については、平家の勢力が及び、没官領となった可能性が高いが、最大の庄園である八条院領(安楽寿院領)佐陀社と頼朝の母が使えた上西門院領長海庄などは、源氏方となったと思われる。全体として地頭の入部は意宇郡以上に限定されたのではないか。

治承・寿永の乱と出雲国1

 治承・寿永の乱の出雲国への影響はどうであったか。以前は、藤岡大拙氏が述べられた説が定説であった。すなわち、①一の谷合戦への参加にみられるように、出雲国武士団の大半は平家方となって没落し、その跡に東国御家人が地頭として入部してきたと。これに対して20数年前に、鎌倉初期の関係史料を検討して、②東国御家人が地頭として入部したケースは少ないことと、東国御家人が大量に入部するのは承久の乱後であることを明らかにした。その後、一の谷合戦への参加者が5名というのは多かったが、それが古本によれば7名であることを明らかにして、②で考えたよりも、地頭の入部は多かったことと、国御家人が幕府と朝廷との友好関係を背景に地頭となるケースがあったことと、国御家人が生き残っている場合も、平家方となった当事者は没落し、関係の少ない一族に交替していること=③を述べた。これを踏まえつつ、三たび検討したい。
  ①でも、西部の能義郡や中部の大原郡には地頭の入部がみられたが、その他の郡では少なかったというように、地域差があったことを指摘した。一の谷合戦に参加した7名も、能義郡1(富田押領使)、仁多郡1(横田兵衛尉惟澄)、大原郡2(木次・三代)、楯縫郡1(多久七郎)、神門郡2(塩冶大夫、朝山)で、意宇郡・島根郡・秋鹿郡・出雲郡・飯石郡はみえない。一方、12世紀初めに成立した石清水八幡宮領=別宮の分布状況は、能義郡1(安田)、意宇郡1(平浜)、仁多郡1(横田)、大原郡1(白上)、神門郡2(新松・大田)、飯石郡2(日蔵・赤穴)で、島根・秋鹿・楯縫・出雲郡にはみられない。このうち、従来飯石郡に比定されていた大田別宮は、残された棟札の記録と、これまでの比定では大田と日蔵があまりに接近していることから、塩冶郷内にあったことを指摘した。また、横田・白上・新松・大田・日蔵については、出雲国衙の最有力在庁官人である勝部宿禰の所領であり、平浜別宮についても、隣接する出雲郷、竹矢郷が勝部宿禰惣領惣領(12世紀半ばは孝盛)との関係がうかがわれる。一方、島根・秋鹿・出雲の3郡は一の谷合戦への参加者も石清水の別宮もみられない。という点を踏まえて、郡毎の状況をみていきたい。

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