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2013年6月

2013年6月30日 (日)

良きキーボードを求めて

 久しく更新していないが、PCに関しての最近の状況を述べておく。キーボードをいくつか購入した。コンパクトタイプが中心で、①サンワサプライ、②エレコムのものと、③東プレrealforce91Uを購入した。①②ともネットの評価の高いものを選んだ。両者ともメンブレン方式で、①は普通のキートップ、②はノート用の薄型キートップを使っている。ともにそこそこ良いが、なれれば①の方がキーのストロークがあっていかにも打鍵しているという実感があってよい。②も軽く入力できて悪くはないのだが。③については、クーラーマスターの赤軸をジャストショップで購入したが、今ひとつしっくりこなかったため、マジェスティックかリアルフォースがで悩んだが、黒色のキートップがすべるような感じで違和感があったので、白いキートップが選べる後者にした。最初はやや違和感があったが慣れつつあるところである。思ったより軽い打鍵感だ。10年ほどまえにジャストショップで購入した東プレの④MD0200はノートタイプのキートップを使っているが、これとは感じが異なる。④はスタンドを立てると打鍵感が弱くなるが(スタンドなしが良好)、③はほとんど影響を感じない。
 ④はPS2タイプであり、ポートがあるAMD機で使用。③はUSBマウスとともに、切り替え機でAMD(フェノムⅡ955)機とインテル(3770T)機の両方で使っている。デスクトップ用として⑤ロジクールのK270も購入してみたが、値段の割によいキーボードである。富士通の一体型の無線式キーボードとマウスがいまいちなので、ロジクールの無線マウスとともに使うこととした。
  最近は家でノートキーボードを使う機会が減ったが、外付けモニターにつないで画面を広く使えばそれなりに便利なので、USBをHDMIに変換するアダプターを購入した。ドライバーのCDが行方不明であるが、ネット上で容易に入手できた。これもジャストショップで購入したのだが、今日、近くのPC工房でもっと安く販売しており、びっくりした。価格コムの価格よりジャストの方が安かったのだが。ちなみに約3000円で、VGA接続とDVI接続のタイプはそれより各1000円、2000円高かった。生産量の問題か。とはいえ、当方はとりあえずRDT21HのDVI端子に、変換端子を介して接続している。
 OSもいよいよwindows8.1が登場し、windows7からの代替わりが進むであろう。当方ではVISTAをインストールしていたノートPCをwindows7にアップグレード中である。比較的新しい4年ほど前までのものはwindows8にするが、それより古いタイプ(VISTAインストールモデル、GM965タイプ)はwindows7にとどめておいた方が無難か。windows8はマルチモニターで使用した際に、メインだけでなくサブモニターにも画面下の部分にアプリのアイコンがあるのが良い。

2013年6月 2日 (日)

尼子氏研究の課題(10)

 今回の論文集では、これまで松浦氏や長谷川氏により説かれた、吉田攻めが失敗した以降、尼子氏の体制整備が進んだという定説に関しては何も言及がない。とりわけ、天文10年代については佐伯氏の論考で一部触れられるのみで、吉田攻めの次は天文21年の晴久の8カ国守護、さらには従五位下と修理大夫任官へと議論は飛んでしまっている(このうち修理大夫任官が天文21年末ではなく24年初めであることは以前述べたとおりだが、誰も疑問を感じられていない)。長谷川氏は新たに天文20年から21年頃から大内氏、尼子氏とも衰退の時期に入るとされ、従来の新宮党追討滅が尼子氏の体制強化を意図して行われたとの説を実質的に撤回されているが、それならばなおさら天文10年代を含めた現段階の評価について述べるべきであった。今回のテーマからすれば本文中でなくて注で十分であったが。
 長谷川氏から新宮党滅亡に関して、「尼子氏破次第」の関連資料を紹介し解説した論考(『山口県史の窓』通史編中世)を恵贈いただき、興味深く読んだが、そこで注意すべき点があったことに気づかされた。それは尼子誠久の嫡子孫四郎氏久が、祖父国久領の継承をめぐり対立した「ほそき」についてである。米原氏がこれを国久の子与四郎に比定されたのに対して、小四郎敬久のことであろうとした。
 今回の資料(すでに『戦国大名尼子氏の研究』で紹介されていた)では「ほそき」ではなく明確に国久末子の「与四郎」と記されているのである。「与四郎」については系図と過去帳のいずれにも新宮党滅亡時に死亡したことが記されている。氏久については父誠久の所領の相続権もあり、なぜ祖父国久の所領なのかとも思うが、両方併せて新宮党の惣領なのだろうか。人間国久の心情を考えれば末子与四郎を寵愛することはよく理解できるのだが、逆にここに新宮前谷の国久館に対して、後谷に館(現在、新宮党館跡とされているのはこちら)を構えた敬久については何もふれていないのである。してみると、久尊(敬)を敬久と改名させ、左衛門大夫に任官させて、国久後の新宮党をツートップにしたのは、晴久の意向であったのだろうか。国久の嫡子誠久は美作国に派遣され、連歌師宗養を招いての連歌会にも登場しない。それに対して連歌会を催したのは、一部を除き、晴久の寵臣である。一部を除きとは、長谷川氏の論考で、毛利氏と結んでいたことは事実であろうと評価された多胡左衛門尉辰敬である。辰敬は国久妻の兄弟であり石見国に派遣されていた。今思えば「敬久」の「敬」は「辰敬」と共通だと思うが、その一方で、天文12年に鰐淵寺に出された文書では尼子氏直臣富田衆のトップの位置に署名していた辰敬も石見国に派遣され、晴久寵臣が次々と守に任官していくのに対して「左衛門尉」のままであった。今回紹介された資料を様々な面から検討する必要がある。そして長谷川氏が辰敬について、衰退する尼子氏から毛利氏へ転じるのは辰敬の先見性と評価されたことについては、想像を超えており虚を突かれた。尼子氏の衰退期との評価とともにこの問題についてもゆっくり考えたい。

尼子氏研究の課題(9)

 ①と③について述べたが、問題は尼子氏が安芸・備後方面に出兵し主導権を握った時期と、湯原・河副が派遣された時期であろう。長谷川氏は享禄4年には尼子詮久が備後山内氏の攻撃に出陣した可能性が高いとされるが、史料的には天文2年末に山内に出陣している。備後国の新見国経書状をみても、享禄4年5月段階では昨年から尼子氏の取相(興久の乱)が行われていることのみを記している。そして翌天文元年5月には尼子氏が美作国を攻撃した際に合力したことを述べる。次いで同2年12月には美作国の尼子氏への合力を続けていることと、尼子氏の山内への出陣と年内には陣を開いて帰陣する(当初の「戦闘が開始される」から訂正)ことを述べている。残らない史料もあるが、新見国経書状からすると、尼子氏の山内への出陣は天文2年末が最初であろう。そしてそれに対して毛利氏は福原氏を派遣して調整にあたったが、これがうまく行かず、尼子氏は福原を伴い一旦出雲国に引き上げたのであろう。これが毛利氏がいう備後高陣であり、天文3年前半の事件であったろう。
 塩冶興久の死については、これまで系図により天文3年のこととされていた。これに対して尼子氏過去帳には天文4年12月3日と記す。これを勘案すると、天文4年後半に尼子氏による山内氏への攻撃に追い詰められる形で興久が年末に自害したということではないか。その状況をみて吉川氏から天文5年2月に経久への働きかけがなされ、天文5年3月には詮久自身が湯原・河副を伴って出張したのではないか。
 さらに問題となるのは、尼子氏が毛利氏が支配していた旧高橋氏領などを奪取した時期である。長谷川氏は天文8年2月以前とされたが、根拠となる文書の年次比定が誤っていたことはすでに述べた通りである。また、天文5年の東部方面遠征がなかったことも確認した。湯原が天文6年6月までは西部方面に留まっており、この間=天文5年から6年前半までに山県郡を含む所領の奪取が行われたのだろう。そして天文8年には武田氏のもとに松田氏、赤穴氏が派遣され、吉川氏と姻戚関係にある小笠原氏も尼子氏方として行動するようになっていた。
 以上の年次比定は、2000年の論文で示したものと基本線はそう変わらないのだが、なぜか『尼子氏史料集』では採用されなかった。2000年段階では『史料集』が刊行されていない状況で、すでに述べたように年次比定を一部入れ替えた。

尼子氏研究の課題(8)

 これまで多々述べてきたが、問題となるのは尼子氏側(経久・詮久、湯原幸清・河副久盛ら)が吉川氏に送った文書の年代比定であった。吉田攻以降のものは天文13~14年で問題はない。ただし、これ以降残っていないのが、尼子氏の対吉川氏を含む西部方面の政策が失敗したことを示している。
  吉田攻め以前のものについて『尼子氏史料集』は、①享禄年間のもの、②天文2~3年のもの、③天文6年、④天文8年のものに分けられたが、すでに述べてきたことからわかるように矛盾が多々あるのである。これまで言及していない史料①③について触れて、まとめたい。
 ①は7月27日付の湯原・河副連署書状1通である。「享禄2~4年のもの」とされるが、ありうるのは4年のみであろう。「高橋牢人衆」が宇次井・曽田へ狼藉しているとの記載から、上下庄の高橋弘厚が滅亡した(長谷川氏は阿須那の高橋興光もすでに滅亡と考えられているが)直後の可能性を考えられたのであろう。ただ、尼子氏軍に吉川氏が参加していることからすると吉川氏が「備後国無為」を説いた②よりも後のものとなる。さらには、高橋牢人衆による吉川氏が権益を有する宇次井・曽田への狼藉が可能となるためには、高橋氏滅亡により毛利氏の勢力が強まったこの地域の状況が大きく変わらなければならない。以上により享禄年間との推定は成り立たない。
  ③は2月12日付の尼子経久書状である。興経が「次郎三郎」で側近の経世が「式部丞」なので、それぞれ「治部少輔」・「伊豆守」とみえる④よりも早い時期のものである。吉川氏から尼子氏に所領問題解決への協力が求められたのに対して、経久が了承している。ただし、関係する所領の本主が尼子氏方になる場合もあるので、その場合は替地を与えるとしている。さらに、吉川氏が尼子氏方に現形すれば、さらに所領の希望に対応するとしている。天文4年まで、吉川氏は大内氏方として活動しており、その枠では毛利氏の下に位置づけられており、所領への不満があったのであろう。それを解決するため吉川氏が
2月12日以前に姻戚関係にある尼子氏に訴えたのであろう。そしてこの段階では湯原・河副が登場していないことも注目される。「次郎三郎」からすると、享禄4年から天文6年の間に位置づけられるが、尼子氏が「出兵した」ないしは「出兵する」との情報に基づく行動であろう。

2013年6月 1日 (土)

尼子氏研究の課題(7)

 補足的に述べるが、川岡氏の論文で(天文9年)4月には「尼子事大内ト令参会、同時ニ可上洛申沙汰候、又及執相とも申候」と引用し、「両者が手を携えて上洛するか、それとも戦闘に突入するかという緊迫した状況に直面していたのである」と評価されていたのが気になった。「手を携えて」か「戦闘」かとの表現が自分にはイメージしにくかったのである。引用部分のみみると、「尼子氏が大内と参会し」としか理解できなかった。そこで史料を確認すると、その前が「従渋川以一札」とあり、納得した。わかりやすく書けば、備後国の渋川氏から本願寺に連絡があり、尼子の事について大内氏と会い、尼子氏とともに(幕府の命令に基づき)上洛すべきことを伝えたところ、大内氏からは執相(戦争)となるかもしれないという返答であったのである。そうしてみると、引用・説明としてはもう一工夫ほしいところである。
 それ以上に気になったのが、佐伯徳哉氏の論文の、杵築大社の柱立が終わった永正7年(1510)に尼子勢が安芸国鏡山山麓で合戦に及んでいるとの記述である。根拠とされた文書は『尼子氏史料集』では後世に作成されたものと評価されているが、佐伯氏からはなぜこれを正しい文書としたのかの理由が示されていない。文書をみると確かに尼子経久の感状としては形式上の問題があり、且つ当時の尼子氏の動きからみても安芸国に軍事行動を展開した可能性もゼロに近いので、編者である長谷川氏の見解に同意する。研究会でも報告されたはずであるが、異論が出なかったのだろうか。
 佐伯氏は基本的に『尼子氏史料集』と『大社町史』に収録された史料に基づき論を展開されているが、論者は出雲国の寺社に関する新たな棟札のデータを大量に確認し、そのデータは長谷川氏や井上氏とも共有し、井上氏編の島根県中世史料目録にも掲載されている。また、鰐淵寺と淸水寺の相論に関しては、東山御文庫所蔵延暦寺文書が活用されていない。この史料については論者は井上氏作成の目録でその存在を知り、益田氏系図の研究で史料編纂所に行った際に探してみたが、十分な基礎知識がなかったために見るに至らなかった。それが昨年6月に刊本が出されたことで、それを利用してブログの原稿を書いた。結論が変わったわけではないが、淸水寺を支持する側の史料も含まれており、理解は深まった。その意味で、現在の論文としては史料収集が不足していると言わざるを得ない。
 とはいえ、これは佐伯氏のみの問題ではないが、史料をきちんと読めば、従来言われていた鰐淵寺側が勝利したとの見解が成り立たないことと、関係史料で最も重要な情報が何かが分かると思うが、佐伯氏も全く気付かないまま論文が作成されている。尼子氏側から両寺に対して朝廷での裁判をうけるようにとの要請があった以上は、鰐淵寺が勝訴した場合、尼子氏側からそれを確認する文書が出されるはずである。それが残っていないことは、鰐淵寺が敗訴したということを端的に示している。何が最も重要な情報かについては、過去のブログをみていただければわかるので省略する。

尼子氏研究の課題(6)

  以下ではこれまで言及してきた天文8年に配列されていた文書(「写」などの表記は省略)を、年代順に並べてみたい。
1、天文6年
 ①3月8日 :尼子経久書状、尼子詮久書状
 ②3月10日:湯原幸清・河副久盛連署書状
 ③5月3日 :大内氏家臣連署書状(湯原・河副宛)
 ④5月25日:内田泰家書状
 ⑤5月26日:内田泰家・石橋信安連署書状
 ⑥6月17日:尼子詮久書状、湯原幸清・河副久盛連署書状、河副久盛書状
2、天文7年
 ⑦2月5日:尼子経久書状2通、尼子詮久書状、河副久盛書状2通、内田泰家書状3通
3、天文8年
 ⑧8月13日:松田経通書状、赤穴光清書状
 ⑨9月21日:松田経通書状
4、天文9年
 ⑩正月21日:松田経通書状
 これによれば、天文6年5月までは何とか対立が緩和されていたが、6月17日の段階では毛利氏と尼子氏与党の間で取相が開始され、山県郡の毛利氏と吉川氏の係争地については、天文7年2月には吉川氏側がこれを確保した。ただし、尼子氏与党である武田氏との所領問題が残っていた。天文8年には尼子氏方の強化策として松田氏と赤穴氏が派遣され、なお対立が激化していた。そしてさらなるてこ入れとして天文9年の半ばまでには尼子詮久の軍が吉田の毛利氏を攻撃することが決定されていた。尼子氏の天文6年~8年までの軍事活動の目的が上洛を目指したものかどうかであるが、少なくともこの段階では軍事活動を通して各地の与党を増やすことが目的ではなかったか。史料で確認できる範囲では安芸・吉田攻めを除いては、直臣である富田衆の動員のみで、国衆である出雲州衆については確認できない。以上、関係文書の年次比定を行った。以前の論文と比較すると、2月5日のものを天文6年から7年に移し(湯原の不在と内容)、6月17日のものを天文7年から6年に移したことになる。

尼子氏研究の課題(5)

 この当時尼子詮久は備中・播磨方面へ出張しており、天文8年11月25日付の本願寺証如書状では尼子詮久・国久と詮久の側近筆頭の河本久信に対し、合戦が理運に属し本意であることへの祝いが述べられている。実際に天文8年12月25日には湯原幸清が播磨国の寺に禁制を定めている。湯原が登場する文書と河副のみの文書があることを述べたが、ある段階で湯原は尼子詮久による東部への軍事活動に参加したのである。これが文書の年次比定の有力な材料となる。実際に湯原が東部への活動に参加したことが確認できるのは天文6年12月であり、同年に比定できる6月17日の書状までは西部に関わっていた。また、最初に記した正月21日付の松田経通書状では播州表が理運と成り、まもなく詮久が帰陣するであろうことが述べられており、これが天文8年ではなく9年のものであることがわかる。次いで、天文9年と推定できる6月25日付の武田氏家臣某和重書状には、6月9日に尼子氏と結ぶ武田光和が死亡し、後継者について出雲国の尼子氏のもとに連絡したことと、湯原がまもなく安芸国へ下ってくることが記されている。尼子詮久の安芸国出兵がこの時点までに決定していたのだろう。
 天文9年の尼子氏について、長谷川氏は天文10年初頭に至るまで播磨国内に尼子軍が在陣したと述べられたが、それを裏付ける史料はない。『戦国大名尼子氏の研究』では「播磨国方面での勢力は大きかった」とされていた。尼子氏の播磨国の軍事活動は、単独ではなく国内の反赤松勢力と連携して行われたと思われ、尼子氏が退却したからといって赤松氏の支配がすぐに回復する状況にはなかったと思われる。尼子氏本隊は天文9年初めには出雲国へ引き上げたとすべきである。
 尼子氏の軍事活動はその年の第3・第4四半期を中心に行われ、降雪を考えて年があけると兵を引いている。前回のブログで述べたように、天文5年の東部地区への軍事活動は存在せず、この年は西部への活動が中心であった。東部へは天文6年、7年、8年といずれも初秋から展開され、冬には退却している。天文9年には東部ではなく西部の吉田攻が行われ、これが十分な成果を挙げられなかったことと、大内氏の援軍が存在することを考えて天文10年正月には撤退している。毛利氏からみれば尼子氏が敗走したとなるが、ある意味では被害の拡大を防ぐための撤退であった。これまでは、毛利氏の主張と軍記物の記述にとらわれすぎていたのではないか。一旦、出雲国に帰国した後、同年4月から5月にかけては備前や美作に出兵している。とはいえ、遠征が失敗したことは、恩賞を与えることもできなかったわけで遠征に参加した国人の離反を招いた。

尼子氏研究の課題(4)

  続いて5月3日付の湯原・河副両人宛の大内氏家臣連署書状を挟んで、5月25日・26日付の内田・石橋連署状2通が続く。前者は尼子経久・詮久からの年頭の儀としての太刀と馬が大内氏に届けられたことに対する礼状であり、川岡氏が大内氏と尼子氏の関係がなお継続していた根拠とした史料である。天文8年2月以前に関係が悪化していたとするならば、天文7年以前のものとなるが、湯原がいることからすると天文6年以前のものとなる。後者にも各地の情勢が述べられているが、注目すべきは吉田(毛利氏)と宍戸氏から年頭の礼儀として使僧が訪れ、毛利氏からは山県郡の件について様々な申し入れがあったする点である。これによれば毛利氏と尼子氏の関係は完全には切れていないことになるが、尼子氏側は一切返事をしなかったとする。石見国の小石見で取相(岡本氏と福屋氏の対立)があったという点を重視すると、天文6年のものとなる。
 6月17日には尼子詮久の書状と湯原・河副連署状、河副単独の書状がある。詮久は武田氏と吉川氏が対立する上本地の件について武田氏に申し入れをしたが、変化がないことと、今後も申し入れるので安心するようにと述べている。上本地の問題は5月と2月の書状にもみえていた。連署書状では各地の情勢を述べるが、小石見表については近日は無事であると述べているので、5月の書状より後のものであることが分かる。以前の論考では翌年=天文7年のものとしたが、湯原がいることを勘案すると6年のものである。また、吉川氏が毛利表で取相をしていることを支持することも述べられており、この段階では尼子氏と毛利氏との関係も悪化している可能性が高く、これに続くのが2月5日の文書群である。
 8月13日には松田経通と赤穴光清がそれぞれ吉川氏に書状を出している。松田は「兵部大輔殿」=小笠原長徳の御意を得ているので安心させたしと述べ、赤穴は御両所の逗留が肝心だとしている。9月13日の小笠原長雄書状では、山県表で吉川氏が毛利氏に勝利したことが述べられ、次いで9月21日付の松田経通書状では、戸坂表を攻めたが失敗したことと、備中表が近日中に落居することとともに、山県郡での毛利氏との合戦での吉川氏の高名を備中に伝えることを述べている。毛利元就は同年10月5日の岡氏への感状で、9月17日の戸坂合戦で岡氏が松田氏被官近藤を討捕えたことを賞しており、これが天文8年のものであることが確認できる。

尼子氏研究の課題(3)

 川岡勉氏は、この時期の尼子氏の問題を中央政界との関係で解明する立場から述べているが、そこでは天文初年に尼子氏と大内氏の関係が緩和し、天文8年2月以前に悪化し始めたとする。緩和の契機は興久の乱とするが、悪化と判断したのは『出雲尼子史料集』で天文8年に比定された尼子氏側から吉川氏への文書群である。ところが、この年次比定には矛盾する点が多々あり、なぜ気付く人がいないのか不可思議である。
 最初に正月21日付の松田経通書状があるが、天文8年初と天文9年初の西部方面出兵の状況と照らし合わせれば、容易に天文9年のものとなる。尼子氏が間もなく出雲国に帰陣することを伝えている。それに続く2月5日の文書群が「天文8年2月以前」に悪化していたという判断の根拠となっている。そこでは、山県郡の知行が実現したことについて、吉川氏から太刀・馬が届けられたこととともに、各地での「取相」や「御動」について述べられている。この点について長谷川氏は天文4年3月以前に尼子氏と毛利氏の同盟関係が解消したことと、天文8年2月以前に尼子氏の軍勢が安芸・備後国へ侵攻して各地を攻略したとする。前者については川岡氏の見解と異なり、後者については共通している。
 ただ問題は「天文8年2月以前」というのが極めてあいまいな表現だということである。『史料集』では次いで3月8日付の尼子経久と詮久の安堵状とその副状である3月10日付の湯原幸清と河副久盛の連署書状を掲載する。ここで問題となるのは2月5日の文書群には河副単独の書状のみで湯原との連署書状が含まれず、これに代わって内田泰家と石橋信安の連署状が含まれるという点と、3月8日の安堵状をうけ、それが実現したがために吉川氏からの礼物と礼状が届き、それに対して2月5日の文書群があるというのが自然な解釈であることである。特に2月5日の河副久盛書状では、尼子氏の出張について、「吉川氏が立つならば直ぐに申し入れる」と述べている点が注目される。

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