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2013年5月

2013年5月31日 (金)

尼子氏研究の課題(2)

 なぜそのような無理が生じたかと言えば、尼子氏家臣の湯原幸清と河副久盛が吉川氏重臣への書状の中で、5~6年間、尼子氏方としては無沙汰をしていないと述べていることとの関連である。長谷川氏はこの文書を天文2年~3年(1533~4)のものとされるので、そこから5~6年を差し引いて、享禄2年との年次を導き出されたのであろう。ところが、享禄2年はとても停戦が成り立つ状況には無く、且つ停戦のきっかけとなったのは翌年の興久の乱であり、様々な点で長谷川氏の想定は成り立たない。
 尼子-毛利氏間の契約といえば、享禄4年7月10日の尼子詮久契約状が想起される。現存するものは写しであるが、日付が入っている点からして、毛利氏から「兄弟」としての契約を結ぶ提案がなされたのをうけて、詮久側が同意したものであろう。長谷川氏は享禄3年9月段階でも大内・毛利氏側が態度を決めていなかったことが川岡氏が提示した文書で確認されたことも述べられている。享禄4年4月に興久側が本拠地塩冶を放棄して山内氏の下へ逃れた。その意味では興久側が想定していた支援を得ることが出来なかったために敗退した。次いで、支援を求める尼子経久側とその内容について詰めの作業が開始されたのであろう。尼子氏は備後国山内氏へ興久の引き渡しを求め、これが受け入れられなかったため、攻撃を開始するが、問題となるのは備後国の情勢への影響である。経久側への支援を決めた大内・毛利氏側では、山内氏攻撃については了解済みであるが、戦争が開始されれば、それにとどまらないのである。そのため、7月までに調整が行われ、尼子氏はあくまで興久引き渡しのための山内氏攻撃に限定することと、山内氏が興久引き渡しに応じるよう、毛利氏側も協力することが定められたのであろう。
  本ブログではきわめて単純に、享禄4年7月に部分的停戦が成立したと考える。そうなると、5~6年前に停戦が成立したと述べる湯原・河副書状は天文5~6年のものとなる。この点については「尼子氏の石見国進出をめぐって」の中で示した年代比定(天文5年)と一致する。

尼子氏研究の課題(1)

 この点については前稿「応仁・文明の乱と尼子氏」で実証的で裏付けのある研究の積み重ねが必要であることを述べた。これに対して尼子氏展の基礎となった共同研究『尼子氏の特質と興亡史にに関わる比較研究』が発刊された。研究は考古学の立場からのものを含め多岐にわたるが、テーマに直接関係する論文については、関係文書の年次比定について明確な課題があるのに、それを克服しないまま論が進められていると感じた。それを含めて、一定の研究視角から尼子氏の問題に切り込んでいくことは大変良いが、最後のところでその視角の成果とともに課題(限界)についても総括しなければ、石井進氏がよくいわれていた「本当の論文」にはならないのである。石井氏の趣旨は新たな提起をするとともにそれが成り立つ根拠を明確に示せたものこそ論文だというものである。
  今回は、長谷川氏が新たに示された享禄2年~天文4年における、尼子氏と毛利氏の停戦について検討したい。この前後に尼子氏と毛利氏(あるいは大内氏)の間に一定の合意があったことについては確認できるが、問題はその時期である。
 合意成立のきっかけは享禄3年に起こった尼子氏内部の分裂=塩冶興久の乱である。それなのに、あえて享禄2年からとされる根拠が提示されていない。正確には、享禄2年に尼子氏が備後国多賀山氏を攻撃し、これを攻略したにも関わらず、多賀山領が大内氏方の山内氏に引き渡されていることが述べられている。享禄2年の状況については7月26日までに決着したことは大内義隆書状から確かである。この点について後に当事者である多賀山通続は、7月20日に落城寸前となったが大風雨により尼子氏方が退却したことを述べており、尼子氏は攻略に失敗したのである。その後多大な被害を蒙った多賀山氏の支援のため、親戚関係にある山内氏方に渡されたのである。
 享禄2年の高橋氏への攻撃についても考慮しなければならない。長谷川氏は同年7月末までに高橋氏は滅亡したという岸田氏の説を採用されているが、本ブログでは最終的に阿須那の高橋氏が滅亡したのは翌3年であるとの説を示した。これを含めて享禄2年は尼子氏方と大内氏方が激しく対立して攻防を繰り広げており、この年に停戦が成立したとの長谷川氏の説には無理がある。

2013年5月19日 (日)

鎌倉中期までの出雲大社遷宮(5)

 嘉禄2年7月に領家が政孝を神主に補任したことにより仮殿造営が実現したが、その後は再び国造以外の実高・孝元が神主となったが、正殿造営が本格化する中、嘉禎2年9月には再び政孝が神主に返り咲いた。「申状」が記す嘉禎元年11月の顛倒については、嘉禄の書き間違いとの意見があるが、仮殿遷宮後の正殿造営が進まない中、正殿が顛倒し、それが政孝復活を後押しした可能性が高い。
 以上、整理を試みたが、これまで関係史料に史料批判を加えて相互に検討する作業が行われないまま誤った説が放置されてきたのは不可思議この上ない。巻末の年表(コラムとは担当者は別)もまた国造義孝の「申状」を無批判に採用しており問題である。天仁2年と承安2年の顛倒については事実ではない可能性が高い。嘉禎元年の顛倒についても、嘉禄元年の誤りであるとの解釈もあるが、仮殿遷宮後、正殿造営が進まない中で発生し、これが契機となって神主が交替し、造営が進む契機となったのではないか。顛倒については、造営・遷宮事業にともなう意図的なものであるとする山岸常人氏の見解が出され、これに井上寬司氏が、仮殿造営が間に合わずに顛倒したケースもあったとされた。今回検討した中では、顛倒の事実の有無が問題であるということと、仮殿造営が間に合わずではなく、仮殿造営後、とりあえず御神体が神殿から移動したこともあって、正殿造営が遅れる中で起こったケースがあったのではないか。「顛倒」はやはり造営事業に伴うものではなく「顛倒」でしかないが、造営を進める契機となることがあったというのが今回確認できた。
 2004年の段階では「注進」を含めて批判的に検討するところまでいかなかったので、事実を確認しつつまとめてみた。なお、本文を作成するにあたり、HP「こよみのページ」の「和暦・西暦対応表表示」を利用して、「旧記」の記事が何年の記事かを確認できたのは大きかった。作成者に感謝したい。

鎌倉中期までの出雲大社遷宮(4)

 また、「申状」では安元元年には出雲宗孝が国造兼神主であったとするが、安元2年(1176)10月の出雲国司庁宣によると、平治年間に宗孝が庁宣により国造となったが、一旦、留守所に連絡して一族の兼経に国造職を譲り、安元2年10月に国造職に復帰している。となると、安元元年段階の国造は宗孝ではない。『図録』のコラムは「申状」の主張そのままに記すが、問題点が多いことは以上のとおりである。
 国造職をめぐり出雲氏内部で激しい対立があり、最終的に勝ち残ったのが宗孝流で、安元2年の国司庁宣も後に、譲状などとともに作成されたものであろうが、いずれにせよ国造義孝が「申状」で述べた承安2年の顛倒と安元元年の仮殿遷宮を裏付ける史料はないことが確認できた。一方、「注進」の記述についても検討の余地があることがわかったが、これ以降の「申状」の記載については関係文書から検討する。
 「申状」は嘉禄3年(1227)6月24日に仮殿遷宮が行われ、嘉禎元年(1235)11月2日に神殿が顛倒し、宝治2年に正殿遷宮がなされたとする。承久2年(1220)に「注進」が作成されたのは、建久元年の正殿遷宮から31年が経過してそろそろ遷宮に取り組むべきとの訴訟をうけてのものであった。
 嘉禄元年(1225)には出雲大社領の本家承明門院が、訴えを受けて、神殿造営により相伝の職である神主職に国造政孝を補任し、土木の功に励むよう命じている。これからすると、顛倒の有無とは無関係に、すでにこの時点で造営が重要な課題となっていたのであろう。一方では権検校実高について国造政孝が批判したことに対して領家は政孝の濫妨を停止するように命じており、本家による補任は実効性を持っていなかった。次いで嘉禄2年4月段階でも「出雲大社遅怠」と目代のことが問題となり、同年7月に領家が国造政孝を神主に補任している。その後、神主は政孝から出雲実高・内蔵孝元と交替したが、文暦2年(1235)閏6月には領家藤原家隆が神主に対して過去の造営文書を見て年内に棟上を行うよう命じているが、不可能であるとして、9月にはこれに代えて国造政孝を神主に補任し、造営沙汰をすることを命じている。この時点までの神主は出雲実高であったと思われる。それは、建治2年2月の領家下文では、実高は造営遷宮之旧記を持たず、先例も知らないため国造義孝を神主に還補するとともに、旧記は国造家以外の他氏は持っていないことを下文に載せて政孝を補任したとしている。

鎌倉中期までの出雲大社遷宮(3)

 次いで保延7年(1141)6月7日に神殿が顛倒したのは「旧記」と「申状」の一致するところである。これに対して「注進」は2年前の保延5年(1139)11月に仮殿遷宮があったとする。天永3年から28年経っているとの数字は正しいが、実際には康治元年(1142)11月3日に仮殿を建て、同月21日に遷宮が行われ、「旧記」にはその際の詳細な記述がある。「申状」は遷宮の日として11月3日と21日の両日を記している。
 正殿遷宮は久安元年(1145)11月23日に予定されたが、火災が発生したために延期され、2日後の25日に行われた。「注進」は同年11月とのみ記し、「申状」は25日とするが、「解状」ではなぜか11月24日という1日前の日付を記している。
 続いて問題なのが次の仮殿遷宮で、「旧記」は久安元年11月26日に遷宮が完了したことを報告した在庁解状が提出された記事で終わっている。「申状」は承安2年(1172)10月10日に神殿が顛倒し、安元元年(1175)11月19日に仮殿遷宮が行われ、建久元年(1191)6月29日に正殿遷宮が行われたことを記す。これに対して「注進」では仮殿遷宮を承安元年11月19日、正殿遷宮を建久元年10月18日とするのである。仮殿遷宮は年が違い、正殿遷宮は月日が異なる。また「注進」は仮殿遷宮を前回の正殿遷宮から34年目としており、そちらをとると治承2年(1178)となる。承安と治承を書き誤った可能性が高いが、そうなると「申状」の記す顛倒が問題となる。治承4年には出雲国司藤原朝定の任期がきたが、重任の宣旨が出され(吉記)、文治5年(1189)には朝定の父で出雲国知行国司であった藤原朝方と朝定の弟で出雲国司であった朝経が、源義経との関係を疑われて、解任されている。ところが、頼朝の狙いは東国御家人で出雲国目代を務めていた兵衛尉政綱であり、朝方・朝経父子は出雲大社遷宮を控え解任は気の毒であったとして復帰が認められている。正殿造営が進んでいたのであろう。

鎌倉中期までの出雲大社遷宮(2)

 「申状」が問題なのは次の記事であり、天仁2年(1109)3月5日に神殿が顛倒し、同年11月15日に仮殿遷宮があったとする点である。「旧記」にあるように前年の天仁元年11月9日に仮殿遷宮が行われた。それは神殿の破損が進んでおり、以前から造営を求めていたのがようやく認められたためであり、これに先立ち顛倒があったことは確認できない。「注進」でもなぜか仮殿遷宮を天仁2年6月と誤って記している。天仁3年7月には因幡国から造営に使われる大木がもたらされ、天永2年までに正殿の造営が進み、年末の12月24日には国司藤原顕頼の重任宣旨が出された。そして天永3年(1112)6月18日に正殿遷宮が行われた。ところが2年後の永久2年(1114)6月には国司から修理の必要が生じたとして、政府に仮殿遷宮の日を決めてほしいとの申し出があった(中右記)。「旧記」には御託宣があったとして神殿を直すこととし、同年7月から修理が始まり、10月26日に御神体が正殿に戻ったことを記す(『図録』コラムはこれを遷宮とするが、あくまでも修理にすぎず、造営に伴う正規の遷宮は天永3年である)。「注進」が永久2年7月6日に仮殿遷宮があったとするのはそのためである。ただ「旧記」は「天永二年」10月26日とすべき覆勘宣旨を誤って「永久二年」と写してしまい、その後の「同三年」も永久3年(1115)の記事となり、国造義孝も混乱したため「申状」では永久2年7月6日に正殿遷宮があったが、傾いていたため、翌3年6月18日に再度正殿遷宮があったと解釈した。これに対して、「旧記」を写して、それに基づき作成された建久2年(1191)の在庁官人等解(以下では「解状」)では、さらに誤りを重ねて「永久2年」6月18日に正殿遷宮があり、その際に所領が寄進されたとした(永久3年には国司藤原顕頼が三河国司に転じているためか?)が、所領が寄進されるとすれば本来の正殿遷宮が行われた天永3年である。

鎌倉中期までの出雲大社遷宮(1)

 この点についても『図録』をみると混乱しているので、整理してみたい。混乱の原因は、公安4年(1281)に国造義孝が大社造営の次第を注進した史料にある。これも2004年に指摘するまでその性格についてきちんと理解されていなかった。大社町史には237号と314号に分かれて掲載され、前者を「大社遷宮・顛倒次第旧記」、後者を「国造出雲義孝注進状写」と呼んでいた。この史料は大社造営は国造・神主兼帯で行われなければならないことを、過去の例に基づき主張し、その中で顛倒と仮殿遷宮、正殿遷宮について記している。末尾が「注進・言上如件」と結ばれているように、「義孝言上状」ないしは「申状」(以下では「申状」)とすべきものである。
 注意すべきことは、この史料は出雲真高・実政父子との神主職をめぐる対立の中で作成、提出された政治的な文書であるということと、その作成時点で鎌倉期以前の遷宮に関する記録は、現在残る「旧記」と国衙の命令で作成された承久2年の注進状(「勘例案」、以下では「注進」)しかなかったことである。すなわち、義孝申状をそのまま事実として記すのではなく、確実な史料による検討が必要である。
  「杵築社」の顛倒の初見は長元4年(1031)8月の記事であったが、これは後に国司が造営を行うため虚偽の報告をしたことが判明した。背景には実際に神殿の破損が進んでいたことがあり、修造の必要があったのであろう。実際に長元元年(1040)までには仮殿をへて正殿の修造が行われ、その功により出雲守藤原登任は従五位下に進んでいる。
 康平4年(1061)11月29日に「杵築社顛倒」の記事がみえ、この事を公卿が審議した記事には初めて「出雲大社」とみえる。「旧記」には康平5年4月13日から記す。後の例からするとこの日に仮殿立柱が開始され、17日に神体を仮殿に移している(仮殿遷宮)。同じ日に正殿の材木採りが始まり、治暦3年(1067)2月1日に正殿遷宮が行われ、6日には国司が藤原章俊から藤原宗美に交替している。「申状」は仮殿遷宮関係行事が終了した康平4月22日に仮殿遷宮とする(『図録』コラムも)が、他の記載を勘案すれば(正殿遷宮は開始の日としている)4月17日とすべきである。

2013年5月12日 (日)

出雲大社展の図録(2)

 図録の問題点としては、巻末の年表で治暦と久安の間にあった正殿造営が抜け落ちてしまっていることがある。鎌倉初期に国造側が神主職をめぐる相論で、現神主であった内蔵氏を批判するために国衙に保存されていた過去の遷宮史料を写して論を展開したが、ここで史料を写し誤り、存在しなかった「永久2年」の正殿造営を創造してしまったのである。それは単純な誤りであったが、それについて「中世前期出雲大社史の再検討-文書の声を聴く」(2004)で指摘するまで、誰も気付かなかったのである。正しくは国衙側史料に基づき記された天永3年であった(図録にも36-2として収録されている)。
  なぜ抜け落ちたかといえば、コラムでは相も変わらず永久2年の造営が記されているからである。永久2年と年表に記せば嘘になってしまい、かといってコラムと異なる天永3年を明記するわけにもいかなかったのであろうが、この点についてはすでに井上氏の著書でも当方の指摘をうけて、山岸氏が「顛倒」の新たな解釈をした論文で記した永久2年の造営(それまでの通説に基づくものであった)は天永3年の誤りであると述べられている。永久2年と天永3年の2説があるというわけではなく、100%論証されているのにもかかわらず、組織内の調整ができずに現在の図録を10年以上も前の見解に基づき記すのは怠慢である。なにより早急に館内の展示を訂正すべきであったのに、それをしないからこういうことになる。
 それは、復元模型についても同様で、さらには前回の尼子氏展が15年程前の見解に基づきなされたのも、現在の課題に応えられない組織の致命的欠陥を示すものとしか言いようがない。個々の研究員がどれほど「有意義」な成果を上げているか全くチェックがなされない体制がこの根幹にある。大正年間の『島根県史』はあの時代としては画期的な成果であったが、その後、人的資源が枯渇してしまっている。歴史は今を考えるため客観的事実で確定可能なものは確定した上で活用すべきものである。

出雲大社展の図録(1)

 出雲大社神宮寺の位置については「出雲大社と三光国師」の中で、千家和比古氏の論文で紹介された、千家国造の日記、宝暦年間の記録『深秘録』収録の図などにより、神宮寺が大社の東側に隣接する現在の北島国造館の地にあったことを述べた。ただし、これは千家・北島両国造家に残る17世紀前半の杵築の絵図に記された情報に、具体名を比定したものであった。これに対して、今年になって北島国造家から「出雲大社只今之宮立之図」が発見されたことが報じられた。この図が現在開催中の「出雲大社展」の図録に掲載されており、これを見ることができるが、建物配置が杵築の絵図と異なる点もあり、この点の整合性を高める必要がある。
 相違点の一つ目は、三光国師に関わる三光殿(聖宮、とはいえこの建物が三光殿とするのも比定である)が絵図では本殿西側に記されているが、これが今回の図では東側に描かれていることである。二つ目は、北から大日堂・本願屋敷・神宮寺の順に並んでいたとした(『深秘録』の図による)が、図では神宮寺の南側に「大日」と記し、本願屋敷については記されていない。これに対して三重塔・鐘楼についてはほぼ同じ場所に描かれ、三重塔の北側に「御供所」とする施設が描かれている。
 図録にはあいかわらず建築の専門家による妄想の結果の模型について解説し、それは「三本束の柱が建築史上のセオリーを無視した特異な規模と構造」を持つ結果であると述べられている。それは当初三本束の柱が古代の遺構であるとの思い込みと、13世紀半ばの宝治の造営の高さは8丈であったとの情報を確認していなかったためのものである。建築の専門家にきちんと情報を提示して模型が作成されたなら、あのような妄想の結果とはならなかったであろうが、専門家も『大社町史』資料編(1996年刊)241号をみれば8丈であったことは確認できたはずである。

2013年5月 6日 (月)

偶々想い出し考える(3)

  蛇足であるが、NHKでボクサー・パッキャオを取り上げたドキュメンタリーを放送していた。この日はメイウェザーVSゲレロ戦もあった。メイウェザーはそのスピードと完璧なディフェンスから全階級を通じて最高のボクサーと言われる。前述のパッキャオとの対戦も期待されていたが、のびのびとなっている間にパッキャオは王座を失った。ただ、36歳になり試合間隔があいていることと、ゲレロも試合を重ねる度にスピード・テクニックが進歩していることが、番狂わせもとの期待の背景であった。直前にゲレロが重病の妻の看病をするために王座を返上し、その後再び王座を獲得したとの映像も放映されていた。
 試合は緊迫したものであったが、スピード・テクニックで一枚上であるメイウェザーがポイントを重ね、明白な判定勝ちとなった。全世界注目の一戦であったが、なぜか日本ではマイナーなのである。自分の贔屓の選手やチームの試合を観戦するのもよいが、やはり質の高い試合をみないと、頭が考える習慣を失ってしまう。このあたりは日本のスポーツ中継の問題か。本日防衛戦を行う内山高志選手もメイザウェーより2歳若いだけであるが、今もなかなかのレベルの選手である。大リーグもだが、近年は名選手ほど選手寿命が長い。そのブログをみると、4月にあったリゴンドーVSドネア戦について「レベル高すぎ!!、緊張感、半端ない」と述べていた。この試合は見逃してしまったが、関連記事をみると、向かうことろ敵なしを思われたドネアをリゴンドーがそのテクニックで封じてしまったようだ。まさに「レベル・緊張感が高すぎる」スポーツを時々は観戦したい。また若いときには複数のスポーツを体験するとともに、いろいろなスポーツを観戦したい。
 政治家も偽物でなく本物を育成するシステムが必要である。以前の自民党には問題点はあるが、偽物の政治家が淘汰され本物のみが残るシステムはあった。それが今は無いまま、偽物が横行し、これでは遠からず観客も劣化してしまう(きちんと根拠を持って考える人が少ないのは、本ブログで歴史を題材に述べている通り)。それで困るのは政治による正当な支援を必要とする人々。本来受けるべき支援が受けられなくなってしまう。落ちるところまで落ちないと本当の反省が生まれないというのも事実ではあるが。 

偶々想い出し考える(2)

 今回の国民栄誉賞についても、客観的な裏付けを欠くものである。松井氏についてはイチロー(彼は現時点では辞退しているが、それならなおさら時期尚早)をあげればよいだろうが、長島氏についてもそれ以上の人はいるのである。問題なのは挙げられた候補者をきちんと審査する組織がないということである。これも現在の致命的問題であり、首相がいうことが最悪の内容であってもそれが実現してしまう状況がある。これについては、小出五郎氏(科学評論家、元NHK解説委員)の以下の評価に同意する。
 (安倍氏)の言動はしばしばリアリティーがない、つまり観念優先で現実を直視せず影響や結果をあまり考慮しないところがありますが、どうして「安全な原子力技術」と言い切れるのか頭の中の論理構造が不思議です。
  安倍氏はその考え方が「古い」という点と思考の明晰さと緻密さが決定的に不足している点が問題であり、「無免許運転の人」ということができる。近年とみに国際化がさけばれる日本のプロ野球の指導者も資格がなく、経営者の独断と偏見で選ばれているが、それとも同様の問題がある。前首相野田氏にも安倍氏ほどではないが同様の欠点があった。それに比べれば、鳩山・菅氏は、それぞれなりの欠点はあってもはるかにましである。ところが、ユーザーがそれを正しく評価できないという致命的な問題がある。
 アップルのジョブズ氏についても、近年はよい面が強調される。欠点を補ってあまりある才能があったということであろう。初のCD付マックを使ったこともあり、ジョブズ氏がペプシコーラのスカリー氏を説得して招き、スカリー氏によりアップルを追放されたことは知っていた。それは両者の権力闘争でスカリー氏が勝利した側面もあるが、結局は経営委員会のメンバーが判断してスカリー氏の方に軍配を上げたのである。それに対して日本は経営者の独走を客観的に判断する組織がないということを、この事例から感じたのである。その問題がなおも改善されていないのが、繰り返しになるが致命的である。

偶々想い出し考える(1)

 今日のスポーツ欄(野球)をみていて、二つのデータに目が行った。一つは各球団の打率であり、パリーグ首位の西武が0.277でダントツである。多くは0.250~0.260前後。極端に低いのがヤクルトで0.228。巨人はとみれば0.260で、今シーズンの好成績の理由は投手陣か。ここまで7勝1敗1分の広島戦でみると、広島の打率0.203、防御率3.30に対してそれぞれ0.255、1.63である。広島投手陣も平均以上に巨人打線を抑えているが、如何せんである。ただし、ホームランが広島の1本に対して9本であり、実はここが最大の違いなのだろう。この日値千金のホームランをうったロペス選手も強力な助っ人。巨人の強さについて、原監督の下で若手が育っているとの声もよく聞くが、本質的には豊富な資金量を背景とするトレードが最大の強みか。投手でも杉内・ホールトンの存在を考えればわかろう。
 二つめは、歴代監督の勝利数で楽天星野監督がV9の川上氏と並ぶ歴代10位の1066勝目をあげたというもの。中村選手2000本も、日米通算2000本の時と比べようのないほど緊張したというのが、名球会との関係であろうか。それも歴代監督のデータの前にはかすんでしまう。どこに注目したかというと、V9の川上監督の勝率(0.591)よりも、最多勝の鶴岡監督の勝率(0.609)が高かったことである。V9時代の巨人はこれも豊富な資金力を背景に有力選手を集めており、それでもV9は偉大であるが、それを上回っている。23年でリーグ優勝11回、日本一2回で、V9の前ではかすみがちであるが、客観的にみれば鶴岡氏が最高の監督といってよいであろう。V9はすごいが、「トヨタのコロナにマツダのエンブレムを付ければどれだけ売れたか?」と同様の趣旨から判断している。誤解をしてほしくないのは、これが言われた当時のマツダ・カペラは西ドイツでは日本車として最高の評価を受けており、車そのものとしてカペラがコロナより優れており、問題はユーザーの方にあった。それが今もなお日本における最大且つ致命的な問題である。話がそれたが、鶴岡氏については、監督としてよりも解説者時代の印象が強いが、29歳でプレイング・マネージャーとして監督としての経歴をスタートしたことも、今回調べて知った。

2013年5月 4日 (土)

問題のある文書の扱い(3)

 ③と④は吉岡雲十郎宛であり、③も④と同様天文6年に尼子氏当主が経久から詮久に交替することにともない、この年の御座替に前後する形で吉岡雲十郎に出されたものであろう。⑤は「晴久」と署判しており、吉田攻が失敗した直後の天文11年にに体制を立て直すために出されたものであろう。ここでは御座替について四郡が勤めることを晴久が認めている。御座替が島根三郡で勤仕される点については、秋鹿郡高宮神社もその神事の記録で自社の御座替について述べており、問題は残りの一郡=意宇郡であろう。
  ⑤は「四郡」以外にも書き止めが直状形式でありながら年号を欠くという問題点があるが、天文11年12月13日尼子晴久書下(赤穴孫五郎に赤穴庄を安堵)と同形式で、復元する際に付年号が欠落したものであろう。このような形式はこの時期には少ないながらも存在している。細かな内容には検討が必要だが、実際に出された文書に基づくものであろう。⑥についても尼子氏当主の袖判を付し、奉行人が「執達如件」と結ぶのはこの前後の時期としては天文6年3月6日奉行人奉書ぐらいであるが、正しいものである。
 以上、佐陀神社に関する文書についてみてきたが、④⑥以外を偽文書として退ける判断は不適当であるとの見解に達した。御座替を勤める郡の範囲についても、慶長4年に比定できる神田元忠・二宮就辰連署書状の中で、近年、意宇郡と楯縫郡の社家が御座替神事に参加していないとの佐陀社側の主張を受けて、佐陀社が二郡に命令することを認め、不参加の社家については注進することを命じている。少なくとも三郡までは事実であったと認められ、江戸時代には意宇郡西部が佐陀社の支配下であると認められている。西部の湯・拝志郷などは鎌倉期には佐陀神主と同族の勝部宿祢が地頭であり、そうした点を背景に意宇郡についても主張したのであろう。また、享禄2年、天文6年、天文11年が尼子氏の支配体制を考える上で重要な年号であることが確認できた。

問題のある文書の扱い(2)

 この状況に対して、勝部宿祢一族領が神門郡から島根郡・意宇郡(能義郡を除く9郡)中、秋鹿郡と島根郡が出雲国西部と深い繋がりを持ってきたことを背景として、塩冶興久は成相寺と佐陀神社に対してこれを安堵する立場にあったのであろう。また、佐陀神社社地が島根郡内とされたことは、佐陀神社の奥院とされた成相寺との関係を変えるものでもあった。この点に関して、『八束郡誌』が述べるのみだが、享禄2年までに杵築大社と同様、それまであった神宮寺を中心に仏教的施設の拡充がなされた可能性が強い。これに関連するのが「成相寺条敷」に述べられた佐陀社における社僧の取り分であろう。そこには享禄2年6月28日に経久が佐陀社に社参したことも記されている。
 これに対して、佐陀社関係文書でこの点に関わるものを年代順に以下に記す。
 ①7月20日尼子経久書状(安堵状、吉岡宗左衛門尉宛)。②7月20日吉岡宗左衛門尉通照書状(朝山殿宛)。③8月30日佐陀八人社家中契約状(吉岡雲十郎宛)。④天文6年8月25日佐陀幡垣主目契約状(吉岡雲十郎宛)。⑤8月22日尼子晴久書下(吉岡雲兵衛宛)。⑥天文11年9月3日尼子晴久袖判福頼勘兵衛奉書(島根郡佐陀権神主宛)。このうち、④と⑥は正しい文書とされ、それ以外は偽文書とされている。
  ①では経久が吉岡宗左衛門に秋鹿・島根両郡頭領であることを承知したとして、佐陀明神の祭礼を勤めることを命じている。②は同じ日に吉岡宗左衛門が佐陀社神主朝山氏に対して、8月25日の御座替神事は国内の10郡が勤仕すべきであるが、近年は島根郡の社家しか勤めておらず、今度予州(経久)から10郡に勤仕せよとの命令が出されたことを伝えている。御座替を勤めるのが10郡であるかについては検討の余地があるが、①②ともに実際に存在した文書を復元しようとしたものであろう。時期としては経久が社参した享禄2年に比定できる。

問題のある文書の扱い(1)

 淸水寺と同様、佐陀神社の関係文書も、戦乱で焼失して、残っているのは一部である。そうした中、文書を復元する作業がなされているが、年次や形式に問題があり、これまでは偽文書として処理されてきた。この文書を尼子氏の寺社対策との関係で再評価したい。
 享禄3年4月5日、父経久への反逆を表明した塩冶興久は、秋鹿郡成相寺に対して、先年以来、代々置文の旨に任せて抱えるべきであるが、近年新儀が命ぜられたことに対し、謂われないことだとして、受け入れることはできないことを伝えている。置文とは天文6年12月に尼子経久から裏書で安堵されている応永3年2月9日置文であろう。
 問題は新儀の内容であるが、第一には古代と近世には秋鹿郡に属した佐陀神社の社地が、戦国期には島根郡内に含まれることが注目される(天文11年、12年)。島根郡と秋鹿郡にまたがる形で存在した佐陀庄も、戦国期には島根分と秋鹿分に分かれており、以前、中世の郡について述べ、尼子氏は京極氏ほどには郡を重視しなかったと述べたが、訂正しなければならない。
 なぜ社地をあえて島根郡内としたかについては不明であるが、関連して、尼子氏と姻戚関係にあった松田誠保が所領とともに有した権益に「島根三郡奉行」があったことが注目される。同様に富田衆の有力者米原平内兵衛尉は「原手三郡奉行」であった。中世の出雲国は10郡からなるが、それが3ないし4(あるいは富田城のある能義郡とその他の3郡か)に分けられ、尼子氏と近い立場の国人が3郡程度を支配したと考えられる。問題は「島根三郡」と「原手三郡」の範囲である。島根三郡については松田氏領があった島根・秋鹿・楯縫郡であると思われる。「原手三郡」については軍記物の中で興久が経久から原手郷内に所領を求めたことが有名である。出雲郡と大原郡に神門郡が加わるのであろう。そして島根三郡というからには、三郡の中心は島根郡であり、その為に社地を秋鹿郡から島根郡内にしたのであろう。同様のことは原手三郡についても行われ、出雲大社領がすべて神門郡に属すようにされたのであろう。

2013年5月 3日 (金)

液晶の違い

 久しぶりに、アクオスLC-26P(1920×1080)を自分の部屋で使用することにした。他の外付け液晶と印象を比較してみる。対象となるのはPB278QHD(2560×1440)とRDT21H(1200×1600)である。なんといっても26Pの画面の白さが目立つ。ちなみに、3つとも明るさは最小にしている。21Hは中古として購入したもので、やや黄色がかっている。ただ、ビデオカードの差もあり、GTX640 よりもRadeon7770の方が黄色の度合いが小さく、白く感じられる。解像度の違いもあるが、26Pが粒状感がなく、疲れにくい気がする(PB278も良い)。ある程度使ってみないとわからないが、さすがはアクオスというところか。購入して5年以上となるが、使用頻度はさほど高くなかかったこともあるか。リモコンが壊れ、代替のものを購入したが、使える機能が限定されたので、オークションで専用リモコンを入手した。やはり便利。
 とはいえ、278の高解像度は便利である。インターネットなどで細かすぎる場合は拡大して表示すればよい。21Hはといえば、回転して縦表示である。278でも可能だがやや縦長すぎるので、重宝している。
 ということで、ビデオカードの修理が完了した7770を組み込んだAMD機では、26Pをメインにして、278をサブとし、3770機では、278をメインにして、21Hをサブにしている。ノートで参考としたマックブックPro17インチ(2011年製のノングレア)は、白さという点では26Pと遜色ない。視野角でも外付けのものと遜色がなく、IPSと言われれば信じてしまいそうである。あとは使いやすいキーボードが手に入ればと思うが、テンキーが不要なことが選択の幅を狭めている。それまでノートの主力であった6300Mは健在であるが、これも年数によるのか、やや黄色味がかっている。

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