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2013年4月

2013年4月26日 (金)

益田氏系図の研究(補足)

 福田氏が紛失状中の文書には形式上の疑問があるとされた点については、原本の忠実な写しが残らない中、当時の系図に記載されていた内容に基づいて復元されたことを示した。以前は、福田氏と同様、形式と内容上の問題から、それまで正しいとされていた文書が偽文書であることを述べることが多かった(出雲大社や日御崎神社について)。ところが最近では、淸水寺文書のように、正確な情報を欠く中で復元された文書が、問題点はあるが、基本的には正しい文書を復元しようとしたものであることを述べるケースが出てきた。益田家文書もその例である。
 一つの例として益田氏が追討を命じられていた出雲国の「岐須木次郎兄弟」の問題があった。『平家物語』で出雲国から一ノ谷合戦に参加した武士に見えなかったのであるが、その古本をみることで、実は木次氏と隣接する三代氏が参加していたことを明らかにすることができた。また、外題安堵の問題についても、福田氏が後で作成された偽文書であることを示す最大の根拠とされたものであったが、鎌倉幕府成立期の外題安堵の申請に基づき与えられた事例と矛盾しないことが確認できた。というわけで、問題点はあるが、本来存在した正しい文書を復元しようとしたものであることが明らかになった。個々の点についての検討はしなければならないが、それは益田氏以外の石見国衙在庁官人系の武士を併せて検討する必要がある。

益田氏系図の研究(3)

 そこで改めて益田氏について再検討する必要性を感じ、建武2年に益田氏が後醍醐天皇の綸旨により益田本郷の支配を認められていることに注目しました。これまでは単に所領を安堵したものと解釈されていましたが、当時、実際に支配している所領を安堵される場合(当知行安堵)は雑訴決断所の文書が出されており、天皇による綸旨は本来の所領を回復する場合(本領安堵)に出されていたのです。ここから、益田氏はそれ以前に益田本郷を失い、この時点で回復したことになります。兼見の祖父兼弘が仙道に居たのは、その父の段階で益田本郷を没収されたためで、兼弘は当時の益田氏惣領であったことがわかりました(この点について、2011年に江津市出身で松江北高卒業の史料編纂所助教西田友広氏が「石見益田氏の系譜と地域社会」の中でも別の観点から述べています)。
 それについて、1992年に益田市で開催された「島根県中世史研究会」で報告しました。当時は益田氏舘跡である三宅御土居の保存問題が持ち上がり、御土居の中央を貫通する道路建設が進められようとしている最中での研究会ということもあり、福田栄次郎氏をはじめとして東京で益田家文書の研究を行っている研究者も参加しました。現在、『益田家文書』の刊行を担当する久留島典子氏(4月から女性初の東大史料編纂所長)も含まれていました。報告後、福田氏からは「自分としては言いたいこともあるが、若手の研究者はあなたの報告でよいと言っていた」とのコメントをいただきました。
 ということで、すぐに論文を成稿すべきでしたが、一部の内容に決めかねる点(この疑問は後に解決)があり、今回ようやく、論文をまとめた次第です。益田市から史料編纂所の2011年度の共同研究に応募してくれとの依頼を受け、1年間「益田氏系図」について検討しました。福田氏の研究の根拠に系図の記載の改変もあったからで、どのように系図の記載が変化するかについて今回、検討を加え、その成果を編纂所の紀要に応募しました。文書も編纂所が所蔵しており、研究成果を公開するには最適であろうということです。結果として20ページという制限があったため、系図についての検討の過程はほとんどカットし、1992年に報告した内容ともほとんど重ならないものとなりました。その点については、益田市で進められている益田氏史料集の中で、詳細に述べることにしています。年度末の3月には久留島氏と井上寛司島大名誉教授にその成果について報告し、8月には益田市で講演会という形で成果を報告しました。論文は、〆切直前の9月初めになんとか脱稿しましたが、3月時点の報告とも、とりあげた内容はかなり変化しています。

益田氏系図の研究(2)

  これにより、益田家文書を利用した鎌倉幕府成立に関する研究はなされなくなり、島根県西部の地域でも困惑が生じました。「三隅氏が惣領であるとは思えないが、かといって通説となった福田氏の研究があるのでどうにもならない」というものです。福田氏の研究については、前年の歴史研究の動向を総括する『史学雑誌・回顧と展望』の中で、石井進先生により、網野善彦氏の「中世における天皇支配権の一考察」 (『史学雑誌』81-8)とともに、1972年の中世史を代表する研究と位置づけられました。石井先生も研究論文の中で何度も益田家文書を引用されていましたので、その自戒を含めて。
 それに対して、浜田高校歴史部の生徒とともに益田氏とその遺跡について調べ、三隅氏出身で益田氏惣領兼長の妻となった阿忍(兼長は早くに亡くなる)の史料をみる中で福田氏の結論に疑問を持ちました。阿忍は伊甘郷内の所領をみずから開基した福園寺に寄進していますが、その所領は亡父兼長領を配分されたものであり、且つその所領は伊甘郷内の広範囲に分布しており、伊甘郷の主要部分が本来三隅氏領であったとは言えないというものです。一方、福田氏は兼見の前の惣領「兼世」は兼長の子孫であり、これに対して兼見は兼長の弟兼久の子孫で、兼長系から兼久系へ惣領が移動したと述べていました。福田氏は兼見の祖父にあたる「兼弘」を阿忍が「せんとうのまごたろうにゅうどう」と呼んでいることから、兼弘を益田郷内の仙道(旧美都町)を支配する益田氏庶子とみたわけです。ところが、長谷川徳四郎氏(当時は益田農林高校勤務)が、三隅氏系図(三隅・竜雲寺蔵)により、惣領「兼世」は兼見の叔父にあたり、兼久系の人であることを述べ、福田氏の研究に疑問が示されました。また島根大学の井上寛司氏も紛失状中の文書にみえる益田氏領について検討され、文書が偽文書であることは間違いないが、その内容はかなり事実を反映したものであることを主張されました。

益田氏系図の研究(1)

 3月末に表題の論文を掲載した『東京大学史料編纂所研究紀要』第23号が発刊されたので、その論文作成の経緯を述べたものを以下に掲載する。
 石見国で中世を生き抜いた益田氏については、国史学科に進学した3年時にその謄写本である「益田家什書」の一部を、「鰐淵寺文書」(こちらは形態を忠実に写した影写本で)とともに筆写したことがありました。そのきっかけは、中世史の石井進先生のゼミで、14世紀後半の惣領益田兼見が、文書を焼失したとして紛失状を作成して幕府から認められたことについての、福田栄次郎氏の研究が紹介されたことでした。その時には服部英雄氏の相良氏の研究も紹介され、服部氏からは抜き刷りをいただき読みました。
  この紛失状には源平争乱期の源頼朝の関係者(大江広元、源義経、源範頼)の文書が含まれ、鎌倉幕府成立期を論じる重要史料として活用されてきました。但し、原本は公開されておらず、近世に益田家(毛利藩家老)で作成された謄写本で研究されてきました。それに対して、益田家文書の原本が東大史料編纂所に寄託され(その後編纂所が購入)、それを活用したのが当時編纂所員であった福田栄次郎氏の研究(『歴史学研究』390、1972年)でした。
 そこでは、紛失状中の文書はいずれも幕府成立期のものとしては不自然な点が多く、これで鎌倉幕府の成立について論ずることはできないということが述べられ、研究者に衝撃を与えました。南北朝期にそれまでの惣領家が没落し、これに代わって庶子から惣領となった益田兼見が、あたかも自分の系統が当初から惣領であったように文書を改変して紛失状を作成するとともに、系図についても改変したというのです。また、益田氏を含む御神本氏の惣領も、本来は三隅氏であることも主張されました。その根拠として石見国衙(国府)のあった伊甘郷(浜田市下府)を三隅氏が支配していたことが指摘されました。

2013年4月21日 (日)

中世の前期と後期を論じる

 以前、「尼子殿」御代官との宛名について述べたが、どうもブログで示した解釈(古文書学的に言えばこれしかない)は、「非常識」のようである。「なぜそう解釈してしまうのか」と感じさせられる事例は枚挙にいとまがない。承久の乱の評価についてもしかりである。
 「尼子殿」御代官の問題については、『竹矢郷土誌』(1988)の中世の項でそれまでの解釈=三沢氏以下が尼子氏の代官という解釈が間違いであることを指摘し、正解を示している。またそこでは美保関が「料所」であるとされているのは幕府ではなく、守護領の意味であることも初めて指摘した。ところが、今頃になって気付いたのだが、長谷川氏の『戦国大名尼子氏の研究』をみても、「守護代尼子清貞の代官の外、三沢‥‥」と記されている。『佐々木家文書』は佐伯氏が主担当であるが、長谷川氏の指導・助言も受けているので、ある意味では当然の解釈であるが。
 以上の解釈が成り立たないことについてはすでに論証しているので、ここでは触れないが、承久の乱とその影響で決定的だったのは、出雲国知行国守が後鳥羽院側近源有雅であったことであり、動員された国内の守護や有力在庁官人などの御家人(「国御家人」も承久の乱までに多くが幕府御家人となっていた)のほとんどはその所領を没収され、出雲国衙も壊滅的打撃を受けたのであった。一方、出雲大社領は土御門院が本家であった関係で、その影響は最小限であった。結果として、出雲大社領(神魂神社は除く)には地頭が置かれず、幕府と結んだ国造家が荘園領主との訴訟に勝利した南北朝期以降は、国造家が実質的な地頭として、その権益を一族・神官に給与することとなった。荘園領主としては山科氏がいたが、実質的支配は在地に委ねざるを得なかった。
 この点を踏まえないで、出雲大社や中世後期の出雲国を論じることはできないが、現実にそれを踏まえて分析された研究はない。出雲大社に次ぐ神社であった佐陀神社についても、文永8年には「佐陀神主跡」が地頭ではあるが、神主そのものは承久の乱で交替を余儀なくされたと思われ、また地頭職であるが故に、出雲大社とは格段に強く、幕府の影響力を受けたのである。自身も約10年前までは中世前期しか論じたことはなかったが、後期を論じる場合も前期に関する理解は必要不可欠である。

2013年4月20日 (土)

尼子経久(補足2)

 「吉川文書の年次比定」の中で、「以前の論文では2月5日のものを天文6年に含めていたのを、天文7年に変更している」と述べたが今回の年次比定では逆に天文7年としていた6月17日の書状を天文6年に変更していた。6月17日書状には湯原と河副の両名が署名しているので、湯原が東部方面へ参加した天文6年末以前のものになる。
 尼子氏と大内氏の2大勢力に挟まれた石見国では、尼子氏による吉田攻めと大内氏による出雲国攻めが失敗する中で大家氏が滅亡し、その跡を小笠原氏が領有しているが、大家氏関係者は益田氏のもとに入り、その鎌倉中期の文書が益田家文書として残っている。それ以外にも、天文11年には河上氏が断絶し、天文14年3月には郷原氏当主が河上城落城時に戦死し、その後は都治隆行の子を養子に迎えている。問題は両氏が尼子氏・大内氏方のいずれであったかであるが、河上氏は天文11年という年次から尼子氏方が敗退する中で断絶したであろう。郷原氏についても後に毛利氏方であることが確認できる都治氏から養子を迎えていることからすると尼子氏方として戦死した可能性が高い。
 大内氏方の出雲国攻めが失敗した後の天文13年6月の時点で小笠原氏が郷要害を攻撃するのに対して吉川氏が加勢することに尼子氏側が賛成しており、この時点では尼子氏側が攻勢に出ていた。毛利氏との領土問題を有利にするため、尼子氏の安芸国への出兵を求める吉川氏に対し、尼子氏側も急度出張する覚悟と返答していた。それが翌天文14年6月の段階で、尼子氏側は出兵に消極的になっており、その理由は何かと思っていた。それが、天文14年3月段階で尼子氏方であった郷原氏の守る河上城が落城する状況があったとすれば、理解できる。郷原氏は伯耆国から南北朝期に石見国に入り、波積郷内に居住していたが、大永2年に尼子氏が石見国に出兵した際に守護代に補任されたとする。尼子氏の守護代については、出雲国を含めて不明であるが、郷原氏が尼子氏方となったことは事実であったろう。
 問題はなぜ尼子氏方にとって不利な状況が石見国で生まれたかであるが、以前述べたように深刻な飢饉により大規模な遠征が困難であったことが考えられる。元々大内氏方の国人が多い地域であり、尼子氏の支援がなければ、孤立化は避けられなかった。次いで、惣領が大内氏とともに山口に逃れざるを得なかった佐波氏でも、叔父の興連が天文16年までに復帰しており、尼子氏による赤穴氏を介しての佐波氏の支配は実現しなかった。また、尼子氏も東部方面への出兵に重点を置いていた感がある。以上、石見国について述べた。
 ここで併せて尼子氏の美作国支配についても確認する。長谷川氏により石見牧文書が紹介され、そこに含まれる尼子氏による三浦才五郎の家督相続と所領支配を認めた文書について、『作陽誌』所収三浦氏系図の記載に基づき天文17年頃のものとされた。系図の記載の当否については保留するが、この文書にみえる晴久の花押と、一族衆の尼子誠久が家臣の牛尾幸清と連署するという特異な形式からすると、この文書は晴久が美作国守護に補任された天文21年か22年にしか比定できない。

2013年4月14日 (日)

尼子経久(補)

 尼子経久が大内氏の擁立する足利義稙とともに上洛し、永正5年(1508)の船岡山の戦いに参加したかについては、軍記物の記載のみで従来から不明な点が多かった。この点について情報を整理して考えてみたい。
 尼子経久が政治的復権を果たしたのは明応9年(1500)で、その時点の将軍は、明応2年(1493)の10代将軍足利義稙(材)追放後に擁立された11代将軍足利義澄であった。義稙が大内氏の庇護に入るのが明応8年である。一方、出雲国守護京極政経は、明応元年に将軍義稙から家督を取り上げられ、義稙追放後の翌明応2年に家督に復帰している。この幕府の御料所朝山郷を押領したのが、塩冶氏であり、復権した経久は永正2年(1505)に塩冶を攻撃し、塩冶氏やこれを支持する古志氏ならびに千家・北島両国造家を屈服させた。
 次いで永正5年(1508)には京極政経が死亡しているが、この年の経久は大原郡高麻山に出張し、国人を制圧しようとしていた。また、政経と結んだ近江六角氏も義澄の子義晴の12代将軍擁立にかかわっており、反義稙派であった。
  何が言いたいかと言えば、義稙派であった大内義興に対して京極政経と尼子経久は反義稙派であったのである。その意味で、永正5年の大内氏による義稙を伴っての上洛と永正8年(1511)の船岡山合戦に尼子氏は参加しなかった可能性が大きい。その一方で国内領主層との関係構築を硬軟両方の手段で図っていたため、出雲国領主層もほとんど参加できなかったのではないか。      

2013年4月13日 (土)

尼子経久(16)

 それでも天文19年には三度目の正直で出雲大社遷宮を実現し、天文20年9月1日に大内義隆が陶氏のクーデターで死亡したのを契機に、美作国に出兵し、新宮国久の嫡子誠久と宇山氏を常駐させてこれを掌握した。その後天文21年4月2日には幕府から、実質的な守護と認められていた出雲・隠岐に加えて、因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の6カ国の守護に補任された。毛利氏の本拠安芸国に対しては、本願寺へ軍事活動への支援を求めたが、断られている。備後国にもたびたび出兵しているが、ことごとく退けられ、その度毎に与党が毛利氏により切り崩されている。
  そうした中、毛利氏と陶氏の対立が生じ、尼子氏としてはキャスティングボートを握る有利な立場になったが、お互いの調略・情報戦の中で、天文23年11月1日には、晴久自らの手で新宮党を討滅するミスを犯してしまった。享禄3年の塩冶興久の乱も石見国や備後国の支持勢力を失うことを招いたが、今回もまた尼子氏と結ぶ可能性のあった勢力の支持を失うことになった。石見国の福屋氏も吉田攻めの直前には尼子氏与党であったことがあり、尼子氏との連携を模索していたが、新宮党討滅により毛利氏と結ぶこととなった。
  石見国の小笠原氏も過去に尼子氏と連携したことがあったが、周辺の佐波氏や福屋氏の圧迫を受け、尼子氏と結ぶ選択をした。これを手がかりに弘治2年には毛利氏を忍原で破り、石見銀山を掌握することに成功したが、毛利氏が陶氏を滅ぼして、総力を結集して石見国に攻め込んだのに対して、永禄2年には2度目の小笠原氏救援の軍事行動を展開したが、今回は毛利氏方の厚い壁に阻まれ、小笠原氏は毛利氏の軍門に降り、その翌年の暮れに晴久は病没した。これにより石見国の国人で尼子氏と結ぶのは温泉氏と高橋氏の一族大宅氏のみとなり、石見銀山を守る大宅常光が毛利氏の懐柔により毛利方に転じると、石見国における支配の拠点を失った。その直後に尼子氏との関係を疑われた福屋氏が尼子氏家臣とともに毛利氏に叛旗を翻したが、その支配下の武士の離反により、滅亡に追い込まれた。
 尼子晴久の跡をついだ義久は、出雲国内の有力国人の所領を安堵してつなぎ止めにつとめたが、それまでの尼子氏の強引な支配に対する不満は強く、尼子氏と姻戚関係にある松田氏や富田衆の中にも毛利氏と結ぶものが続出した。大宅常光の粛正により一時的に尼子氏方に戻るものもあったが、多くの出雲国人は毛利氏方に残った。この後の経過についてはよく知られているので省略するが、塩冶興久の乱の原因となった尼子経久への不満を、晴久もまた最後まで克服できなかった。晴久をスモール経久と評価するのはそのためである。(尼子経久の項 完了)

尼子経久(15)

 尼子経久は大内氏の出雲国攻めの直前の、天文10年11月13日に死亡した。さすがにその後については尼子晴久が主役である。ただし晴久はスケールの小さい経久であると述べたように、その手法は経久にならった強引なもので、寺社や国人を帰服させるものではなかった。とりあえず表面上は従ったのみである。天文12年5月には佐波氏の家督を赤穴氏に与え、その所領も継承させた。このように大内氏方となった人々の処分から着手した。大内氏とともに退転した千家国造直勝の跡については、その子塩童が幼少であるとして、東彦十郎慶勝を塩童の母(国造高勝の娘)と結婚させて継承させた。北島国造については経久の娘御上に夫である国造雅孝の後継者決定権があることを再確認している。三沢氏については惣領左京亮を富田で殺害し、横田三沢氏の才童丸を三沢氏惣領にした上で、横田庄を没収して直轄領とし、富田衆ならびに多賀山氏を代官とした。塩冶興久の子で大内氏方となっった清久の跡は晴久の妻の父国久に与えた。同じく大内氏方となった国久の娘を母とする宍道八郎跡については、所領を削減した上で庶子に継承させたと思われる。佐陀神社についてもその所領(朝山分)が欠所とされている。出雲大社や佐陀神社に対しては所領を寄進したり、太刀を納め、鰐淵寺に対しても塩冶興久の乱時に欠所となった所領の一部を返すなどの融和政策も行っている。
  敗走する大内氏方を追って石見国に軍事活動を展開し、一時は石見銀山領を押さえたが、佐波氏領とともにその支配を維持することはできなかったと思われる。その理由は不明だが、天文13年から14年にかけては凶作が続き、軍事活動の展開に制約があった。安芸国に帰国した尼子氏方の吉川氏からはたびたび尼子氏による出張を求める要請があったが、結局はこれに応えることはできず、吉川氏や石見国の小笠原氏との関係は消滅してしまった。佐波氏領についても天文16年には天文5年に尼子氏により追放され山口に逃れていた一族の興連の佐波への復帰を容認せざるをえない状況であった。美作国や備中国ではその支配を復活することに成功したが、出雲国と隣接する石見国や伯耆国・因幡国・備後国でもその支配は点と線にとどまり、その他の地域でも十分な成果を上げてはいない。出雲国内でも出雲大社領の鷺浦と宇道の紛争の解決にも手間取り、北島国造雅孝の死亡にともなう後継者問題でも異論を主張する人物を宍道氏が支援するなど、その支配は安定しているとは言いがたい。

尼子経久(14)

 天文8年の出張については、安芸国に派遣されていた松田経通が、9月21日の書状で備中面は近日中に落居するであろうことを、吉川興経に伝えている。10月28日には、備中国で阿波衆が尼子氏から損害を与えられたことを記し、11月25日には本願寺側が本意(理運)に属したことを尼子国久と詮久の側近河本左京輔に伝えている。次いで12月15日には渋川氏からの書状により、本願寺は備中国が尼子氏の本意の如く落居したことを記している。また、今回の出兵については、天文6年以上に家臣の名前が記されているとともに、尼子国久の子刑部少輔誠久や尼子下野守の子次郎四郎、塩冶興久の遺児彦四郎も参陣している。12月25日には湯原幸清が播磨国の寺院に禁制を出している。正月21日の松田経通書状では、播州表が理運となり、まもなく帰陣することが吉川氏に伝えられている。尼子氏史料集ではなぜかこれを天文8年のものとするが、天文9年のものである。
 天文9年になると東部方面と並んで西部方面への活動が全面に出てくる。3月1日には細川晴元が陶隆房に尼子氏の動向について尋ねている。天文8年の段階で安芸国の武田氏・吉川氏、石見国の小笠原氏と連携する一方で松田氏と赤穴氏がいち早く安芸国に派遣されていた。天文9年6月25日の某和重書状には、6月9日に武田光和が死亡し、とりあえずその妻を家督として出雲国の了解を得たことと、まもなく湯原が安芸国に派遣されてくることが記されている。加えて、東部方面への軍事活動が一族衆と富田衆に限定されていたのに対して、安芸国攻めには出雲国の国人だけでなく、中国地方の各国から動員されている。竹生島神社奉加帳に出雲国の国人層が網羅されており、これと東部遠征の中で掌握した国人も動員されたのだろう。尼子氏の東部方面への軍事活動についてはその意図が不明であるとされるが、吉田攻めの軍事的動員を可能にするためのものではなかったか。三万とも言われるその動員の規模については合戦に関する毛利氏側の記録を除けば軍記物しか史料はないが、3万という数字そのものであったがは別として、東部方面への出兵より規模が遙かに大きかったと思われる。尼子氏のこれまでの合戦からすると、物量により年内には決着を付ける予定であったと思われる。同年10月2日には詮久による2度目の出雲大社造営の棟上げが行われ、12月27日には石州箸浦を日御崎神社へ寄付したが、その甲斐なく天文10年正月13日には出雲国への敗走が開始された。
 ここまで述べたところで、ようやく尼子氏史料集の年次比定が混乱した理由が理解できた。それは天文5年に詮久が東部方面へ軍事活動をしたと誤解してしまったことである。

尼子経久(13)

 この家臣団の中に、河副久盛とともに西部方面に派遣されていた湯原次郎右衛門尉幸清の名があり、「尼子内者」で「足軽大将」であると記されている。富田衆の中心であったのであろう。この頃、秋鹿郡成相寺は応永3年の置文を尼子経久に提出して、安堵の裏書きを得ている。詮久への代替わり時に合わせて、寺社支配の再編成がなされたのではないか。天文6年に清水寺が綸旨を得ていたのもそのためであった。
 次いで天文7年5月には詮久が富氏に対して富郷名田を無断で売却した場合は、闕所とするとして、富氏の権利を保護しており、この時点まで詮久は出雲国にいたことがわかる。次いで6月14日には本願寺が、詮久が進発すると聞いてこれを祝すとともに、昨年の下間兄弟の問題への協力を感謝している。そして同年7月21日までには、詮久が出張し、播州赤松氏が高砂から没落したことが記されている。尼子氏の播磨国での活動により、尼子氏の上洛が話題とされるようになった。一方、9月段階の幕府側の情報として尼子氏と大内氏の間で所縁が定まったとしており、妥協が行われる可能性もあった。11月27日書状で本願寺が尼子詮久に対して「其の面弥よ御本意に属す」として祝しているが、日記の11月18日条からそれが備中についてであったことがわかる。
11月27日には本願寺が「今度出張」が尼子氏の理運となったことを祝しているが、同じ日に赤松政村は播磨国三木要害への尼子氏の攻撃に際しての感状を飯尾源三に与えている。今回の出兵も、天文7年末までにはいったん出雲国に帰り、再度8年後半に出兵したものであろう。

尼子経久(12)

 経久から晴久へ代替わりするとともに、軍事活動が活発化した。東部方面への活動について、長谷川氏は天文5年からとする。その根拠とされたのは、12月26日亀井安綱書状と証如上人日記天文5年12月5日条である。前者の書状は近江国浅井氏に対するもので、詮久が備中・美作攻略が一段落したので出雲国に帰っていることと、翌年早くに播磨国へ出兵することを述べているが年未詳である。また、後者に登場する「九条殿」とは九条家当主稙通であろうか。この人物が但馬尼子に下ることが記されているが、その意味を知るには情報が少なく、これをもって尼子氏が但馬に出兵していたということは、想像の域を出ないのではないか。天文5年の詮久は山内氏の家督問題を処理し、吉川氏との関係を構築した後もしばらくは平賀氏の頭崎を含めて安芸・備後方面で軍事活動を展開し、毛利氏方の所領を制圧していたのである。
 同年12月17日条から本願寺側から尼子伊予守方(経久)に礼物を送っていることがわかる。本願寺の有力者でこの年に失脚した下間筑前守頼秀・頼盛兄弟からの働きかけを認めないよう尼子氏に依頼するものであった。これに対する返事が来たことが翌年4月30日条にみえる。次いで7月17日には本願寺が晴久に対しても礼物を送っている。そこでは備後国三原の渋川義陸がかかわっており、同日で本願寺は彼にも書状を送っている。尼子氏と本願寺の交流が本願寺側から始まったことがわかる。
 そして11月14日の書状で本願寺は晴久に対しては「御進発(出張)」について、経久には「戸部(詮久)御出張」を知って祝いの書状を送ると同時に仲介者の渋川氏にも連絡している。また同年11月20日には尼子氏奉行人が美作国ないしは備中国の国人と思われる杉氏に恩賞を与えている。本願寺の記録では天文7年正月10日に、本宗寺からの注進として、尼子氏が播磨面の陣を取退き、本国出雲で越年するといって退陣したことが記されている。これこそ、亀井安綱書状の内容と合致するものである。これによれば尼子氏の初の東部方面への出張は天文6年後半以降のことで、主な地域は播磨より西の備中・美作であった。亀井安綱書状は天文6年のものになる。重ねて述べるが、それがゆえに清水寺は同年10月に綸旨を得たのである。
 天文6年12月6日には、尼子経久・詮久と経久の奏者鳥屋七郎右衛門から去年の返礼として礼物が届いている。届けたのは備後国光照寺であった。光照寺は備後国内の渋川氏領にあった浄土真宗寺院である。一方で本願寺は12月9日には赤松氏に対して「雲州乱入」で心元ないが、やがて本意となるであろうと申し送っている。次いで翌10日には経久・詮久と渋川義陸ならびに尼子氏家臣に礼物への礼状を送っている。これにより当時の尼子氏家臣団の有力者の名前とその中での席次がわかり、本ブログでも活用してきた。ところが、長谷川氏はこの情報については言及されず、近年になってようやく戸谷穂高氏の論文で利用された。

2013年4月11日 (木)

史料の残り方

 このブログでは史料はどこまで活用できるかについて、具体例に基づき述べているつもりである。活用しすぎのもの、歴史分析の公式にとらわれ史料が本当に語ってくれる重要な声を聞き逃しているものについて見直しを提示している。
  出雲大社遷宮に関する記録も、特定の意図から史料の中から必要な部分が残された。それはわたしたちが、保存期限が来た文書群から将来必要なものを選んで残す場合と同じである。実際は、選別することもなく期限切れを廃棄することが多いのだが。
 「治暦・永久旧記」と呼ばれる遷宮の記録も、鎌倉初期の建久年間に、出雲大社国造がライバルである内蔵資忠に対して、過去の遷宮時の中心となっているのは、国造と国衙在庁官人であり、その中に内蔵氏はみえないことを主張するために、国衙に残されていた記録の必要と思われた部分を写したものである。それがためか?出雲大社の規模についての部分は収録されていない。そして、今でもよくある写し間違いが誤解を呼び、本来存在しなかった永久年間の正殿遷宮というものを作ってしまった。建久2年の訴状で国造側(国衙在庁官人の解状であるが、実際は国造側が作成し、在庁官人は署判を加えたのみ)は永久2年(ただし旧記によるならば3年とすべき)6月に正殿遷宮があったと述べているが、実際は天永3年6月の誤りで、その一部修理が永久3年になされただけであった。そのような誤りが生じたのは、国造側に遷宮の記録が保存されていなかったことを示している。
  それが、13世紀前半の仮殿遷宮から宝治元年の正殿遷宮がなされる中で、建物の規模を示した史料を国造側が所持していることが、国造が出雲大社領を支配する惣検校に補任される強みとなった。承久の乱以前は、国衙に遷宮の記録があり、国造は所持していなかったが、承久の乱後は逆に、国衙にない記録を国造が所持していたのである。それは、承久の乱で出雲国衙が壊滅的打撃を受けたため、国衙に残されていた史料の多くが失われたのに対して、国造側は建久2年に写した史料(そこには前年に行われた正殿遷宮の記録は含まれず)を保持していたのである。
 実際、出雲大社惣検校となった出雲真高やその子の実政、ならびに国衙側には末社を含めた造営に関する先例を記したものがないため、造営は遅々として進まなかった。それに対して、国造側には記録があったのである。ただし、現在公開されている史料には正殿や末社にかんする規模の詳細なものはない。わずかに、ブログで紹介した北島家譜に引用されるその一部により宝治2年の遷宮時の正殿の高さが8丈(24M)であることがわかる程度である。ところが、その事実に触れないまま、16丈どころか32丈の復元模型が出雲古代歴史博物館に展示されているのが現状である。本来なら文献資料でここまで(高さが8丈)は確認できることを示した上で、建築史の専門家がモデルを作るべきであったのに。

2013年4月 8日 (月)

尼子経久(11)

 天文7年正月には尼子氏が播磨方面の陣から出雲国に帰還したことが本願寺の情報からわかる。これに対して、吉川氏からは三須氏が富田城に派遣された。それに対して、2月5日に尼子氏が返書を出している。詮久と経久はそれぞれが太刀と馬を送られたことについて礼を述べるとともに、山県郡への吉川氏の先知行と軍事活動を支持することを伝えている。これが、現段階で知ることができる、両人が同日付で書状を出した最後の事例となり、今後は詮久のみが文書を発給するようになる。
 これに対して河副は、最初に山県郡のことを祝し、次いで吉川氏の南方への軍事活動について油断無きように求めている。武田氏との関係はさらに申し入れており、解決するとの見通しを示している。さらには平賀表についても問題は生じていないが、やはり油断無きことを求めている。次いで、大内氏の情報の提供を求めるとともに、志和地については間もなく落居するので、尼子・吉川方の勝利は確実であるとする。また、武田氏が毛利氏との堺目に軍事行動を行うことを伝え、尼子氏の安芸国出張についても提案するとする。実際に天文8年には松田経通が派遣されている。
 内田の方からは、これに加えて吉川七郎兵衛から申し入れのあった石井谷について、尼子経久から安堵の書状が出されたことを祝している。また、吉川氏側から河副に対して所領の給与がなされたことと、湯原に対しても礼物が送られたことがわかる。
 以上、述べてきたように尼子氏と吉川氏の間の無年号文書はきちんと内容を精査すればいずれも年次比定が可能で、天文5~7年初めに関する貴重な情報を提供してくれる。ところがその良き素材も扱いを間違えてしまえば、無益どころかマイナスを産んでしまう。そのことを研究者は肝に銘じる必要がある。「吉川文書の年次比定」で述べたように、以前の論文では2月5日のものを天文6年に含めていたのを、天文7年に変更している。以後は尼子詮久の時代となるが、それを印象付けるのが、東部方面への軍事活動と天文6年10月から始まった出雲大社造営であった。ところが本願道清の死亡と、吉田攻めの失敗により2度にわたって中断し、本格化するのは天文15年以降である。これが淸水寺が天文6年に尼子氏の法事で左座である綸旨を貰い、次いで天文19年に梶井宮令旨を得た背景であった。
 

尼子経久(10)

  そして毛利氏から山県郡について使僧が派遣されてきたが、尼子氏方にとっては関与しないことを述べる。また安芸国の上本地についても以前より別儀を存じないので、安心するよう述べている。これが翌26日の書状では、毛利氏からの使僧は尼子氏に対する年頭のもので、そこで山県郡について申し入れがあったことを記す。河本の小笠原氏家臣三原氏が訪れ、大内氏に関する情報をもたらし、福屋氏からは加勢を求めて家臣野坂氏が訪れている。内田・石橋が当時どこにいたのか明証はないが、石見国邑智郡内の矢上付近ではないか。そこに向けて河本と浜田から使者が訪れているのではないか。最後に尼子氏側は吉川氏に対して、厳島と福屋へ使者を派遣し、情報の提供を求めている。
 次いで天文6年6月17日には湯原・河副の書状と尼子詮久の書状が出されている。詮久は、5月の書状にみえた上本地について武田氏に申し入れを行ったが、現段階では良い回答はないことを述べる。ただ、今後も武田氏側には継続して働きかけるので心配には及ばないとする。湯原・河副書状でも最初にこの武田氏の問題に触れ、次いで毛利表の取相について吉川氏への支持を伝えている。そして小石見表については平穏であるので安心してほしいが、細かい点は吉川氏の方が知っているので述べないとする。石見吉川氏領の津淵村に関する要求については、邇摩郡を破ることがあれば、それ以外を含めて対応すると述べている。ここからすると、湯原と河副は一旦尼子詮久のもとへ帰っていたことがわかる。次いで、湯原は尼子氏の東部方面への軍事活動に参加し、河副は内田・石橋のもとに合流した。

尼子経久(9)

 これを受けて吉川氏も尼子氏と結ぶ方針を明確にした。7月24日の吉川氏からの書状に対し、7月27日には、「又四郎殿」の出陣について当然であるとして、尼子氏も協力することを伝えている。これは毛利氏との山県郡をめぐる対立に関するものであろう。次いで、尼子氏の出兵により高橋氏牢人衆が所領回復のため動いて吉川氏領へ影響している点については曲事を停止するように、高橋氏側に伝えている。
 吉川氏は尼子氏と結ぶことにより、毛利氏との間で対立が生じていた山県郡内の所領を獲得することとした。そして尼子詮久と吉川興経はそれぞれが民部少輔と治部少輔に任官している。次いで天文6年3月8日には富田城にいた経久と詮久の両人が吉川氏の山県郡内の先知行地を安堵するとともに、湯原・川副からはさらに経久・詮久に要求を申し伝えると吉川氏側に返事している。
  これが5月になると、湯原・河副氏と吉川氏を結ぶ存在として内田氏と石橋氏が登場する25日の書状には天文6年11月から始まった尼子詮久の東部方面への遠征に関することは述べられていない。これに参加する湯原幸清もなお西部に留まっている。ゆえに、5月3日の大内氏老臣連署書状案写(尼子340)は天文6年に比定できる。湯原と河副が大内氏との窓口もつとめていたのである。詮久は大内氏に対して太刀と馬を送ったのと同様、吉川氏にも送っている。そして天文6年に小石見郷で起きた福屋氏に対する反乱と大内氏が軍勢を派遣したことについて述べている。尼子氏には十分な情報がないので、吉川氏から福屋氏に「真実之儀」を伝えることを依頼している。併せて大内氏に関する情報を尼子氏にも提供することを述べている。

尼子経久(8)

 吉川氏が尼子氏に連絡したもう一つの理由は従来から尼子氏と結んでいた武田氏との間の調整を尼子氏に依頼するためであった。尼子氏からの返書に対して、吉川氏は再度書状を送り、尼子氏側は4月19日にそれを受け取り、23日付けで湯原・川副が再度の返書を送っている。吉川氏の意向については富田城の経久にも伝えられ、富田からの返書もなされたことが分かる。
 吉川氏側はなおも毛利氏との間の修復を提案したようで、尼子氏側はその点については説明済みであるが、なおも別紙で具体的に述べるとしている。備後国の和平などについては、2年前(天文3年)に済んだ問題なので二度と触れないようにとし、毛利氏家臣の福原氏が現在もなお富田に留まっている理由はご存じのはずと述べている。
 赤穴氏家臣と思われる漆谷氏が尼子氏との関係修復について述べたことに対して毛利方が、返書を送っている(尼子240)。毛利氏は尼子氏に対して表裏なく対処してきたことを理解してほしいとする。尼子氏が備後国髙御陣に出兵した際には合力として家臣の福原を派遣し、尼子氏方が勝利したので、福原を帰されるかと思ったが、尼子氏が出雲国に福原を連れ帰って現在も留めていることは前代未聞のことであるとして、尼子氏を批判している(その理由は塩冶興久の問題が解決しなかったからであろう)。そして毛利が尼子氏にしたように尼子氏が対処すれば、中国地方だけでなく、九州や全国が尼子氏に従うであろうと述べている。
 この頃、大内義隆も石見国の小笠原氏に書状を送り、備後国の問題について毛利氏に重ねて意見を伝え、毛利氏の考えを佐波氏を通じて富田(陶氏か)に伝えるなどして、尼子氏との間の和平が保たれることが重要であると述べている(尼子241)。これが天文3年4月10日に比定できる。ところが実際には尼子方は天文5年には備後国と安芸国に出兵し、毛利氏が大内氏から支配を認められていた各所領を奪取する事態となった(尼子373)。天文5年3月21日には尼子氏に攻略された山内氏遺跡について、山内氏女子の婿に定まっている多賀山通続(山内聟法士)による相続が尼子詮久と経久によって認められた。

尼子経久(7)

 塩冶興久の乱後、亀井能登守秀綱は表舞台から姿を消す。代わって、経久の側近とともに、後継者詮久の側近が登場することとなる。尼子氏の軍事活動は伯耆、美作といった東部方面における体制の再構築が中心となる。そしてそれが一段落した天文2年後半には、興久が逃れていった妻の実家山内氏への攻撃が開始される。この前後の尼子氏史料集の年代比定は正確さを欠いている。それは湯原幸清と川副久盛についてであり、彼らの活動が本格化するのは興久と山内氏の問題が解決に近づいた天文5年からである。それを尼子氏史料集は享禄2年から天文2年に比定しているので、前後関係が混乱してしまっている。
 天文5年3月には尼子詮久が備後国へ出張し各地の城を落としていたが、これに対して3月10日には、天文4年までは大内氏の陣営にあり、毛利元就と協調していた吉川興経の家臣が尼子氏家臣湯原・川副に書状を送ってきた。興経自身は詮久の出張以前にも所領問題で経久に書状を送り、経久が2月12日には吉川氏の所領問題については了解したが、競合する本主が尼子方となった場合には、吉川氏には替え地を与えるとした上で、吉川氏が尼子方に転じたならば、これ以外の所領についても対処することを伝えている。
 それを受けての3月10日の吉川氏からの書状であり、湯原・川副はそれを13日に受け取り、詮久に取り次いだ上で14日付けで返書を送っている(尼子235)。この時点で両人が詮久と同様備後国内にいたのは確実である。吉川氏側としては、尼子氏と結ぶとともに、いずれも姻戚関係にある尼子氏と毛利氏の間の調整を試みているが、尼子氏側は関係悪化の原因は毛利氏にあるのに、毛利氏が尼子氏側から敵対してきたと大内氏に報告していることを批判している。
 また、尼子氏は吉田の毛利氏との関係を重視しているのに、今回、山内と結ぶのでこのような出兵となったとし、5~6年の間尼子氏方は無沙汰をしていないと述べている。5~6年前には尼子詮久と毛利元就との間で義兄弟の契約が結ばれていたのである。

2013年4月 7日 (日)

尼子経久(6)

 長谷川博史氏は大永3年の尼子氏の軍事行動について、周防大内氏との本格的な対峙を宣言するもので、この時期の尼子氏と各国領主層との関係は反大内氏方として同じ陣営に入ったということで、尼子氏による領主掌握は極めて限定されていたと評価された。ただし、安芸国に比して石見国については具体的事実の確認がなされていない。前年の杵築での万部経読経と江川以東の石見国の掌握と併せて極めて意図的且つ計画的になされたものである。日御崎社修造勧進簿に石見国の東部3郡が含まれるのはその成果を示している。
 これに対して大永4年以降は、尼子氏と大内氏による相手方の切り崩し合いが開始され、尼子氏による一方的な攻勢ではなくなっている。杵築での2回目の万部経読経は大永6年に行われた可能性が大きいが、今回は大内氏側もあらかじめ予想し対処したのである。守護山名氏の働きかけをうけ、大永6年に多賀山氏が尼子氏から離反したのもその一例で、前年の毛利氏の離反に続いて、山内氏、そして石見国でも佐波氏が離反している。結果として大永6年~享禄2年の尼子氏出兵は失われたものを再び確保するためのものなった。佐波氏を攻撃して没落に追い込んだが、多賀山氏攻めが享禄2年に失敗したように十分目的を達したわけではない。またその一方で、毛利氏による高橋氏攻撃も始まっていた。
 そして享禄3年には3度めの杵築での万部経読経が行われたが、またもや尼子氏の機先を制する形で、塩冶興久の乱が起きたのである。当然、大内氏方からの働きかけと尼子氏内部の矛盾がその原因であった。その鍵を握ったのは多賀氏であったと思われる。多賀氏は島根郡川津、楯縫郡宇賀郷、飯石郡多祢郷などに所領を持ち、尼子氏だけでなく、備後国多賀山氏とも婚姻関係を結んでいた。多賀山通続によると、多賀山氏は庶子花栗氏が飯石郡花栗を支配し、三沢氏、多賀氏とも婚姻関係を結んでいた。このような関係を背景に、反尼子氏勢力結集において多賀氏が中心的役割を担ったと思われる。当然、大内氏から多賀氏への働きかけも行われたであろう。多賀氏は塩冶興久の乱が失敗すると一時的には播磨国へ逃れたが、後には大内氏の家臣となっている。
 尼子経久と興久の両方から支援要請が大内氏に来たことで意見を求められた毛利元就は、劣勢であるとされた経久方を支持すべきと返答し、大内氏もこれに賛成した。両者の共倒れを期待したためであるが、塩冶氏への働きかけをしながら、かけたはしごを外すといった意図で行われたもので、実際に尼子方と結ぶ高橋氏を孤立化させ、これを滅ぼすことを可能とした。

2013年4月 6日 (土)

尼子経久(5)

 一方で大内氏は尼子氏の動きに警戒を深め、尼子方の切り崩しを行った。具体的には石見国の佐波氏と安芸国の毛利氏である。安芸国佐々部氏は高橋氏の影響下にあったが、子である式部少輔が父兵部少輔を殺害して、尼子方となった。これにたいして祖父播磨守が孫の式部少輔を追放し、曾孫を後継者にしている。これが大永5年後半のことであったが、大永6年~7年に攻勢をかけた尼子氏は、佐波氏当主を没落させ、佐々部氏を影響下に置く高橋氏を退治して所領の一部を奪い圧力をかけた。そのため、その後高橋氏は尼子方に転じる。尼子氏と大内氏方は備後国三谷郡和智と三吉で対峙するが、最終的には尼子氏が退却した。
 翌享禄元年には尼子氏は備後国で山内氏の一族である多賀山氏を攻撃したが、これに対して山内氏が多賀山氏を助けて尼子氏と戦った。山内氏は塩冶興久の妻の実家であったが、多賀山氏とともに大内氏方に転じていた。この点について多賀山通続は、永正11年(1514)に叔父花栗氏が尼子氏と結んで父と兄を殺害したことを記す。9才の通続は伯母で掛合の多賀氏に嫁いでいた女性のもとへ逃れた。花栗氏の乱は翌年鎮圧され、10才の通続が家督を継承したが、尼子氏の勢力下に入った。それが21才の時=大永6年(1526)に山名但馬守の命により反尼子氏方に転じ、尼子氏との戦闘に参加した。享禄元年9月には尼子方が多賀山氏の城の攻撃を開始し、翌年7月には家臣から降伏するものが出て落城寸前となったが、その時に大風雨が襲い、尼子氏は退却した。
 毛利氏は高橋領を大内氏から与えられたことについて、上下庄と阿須那藤根城とに分けて述べている。上下庄の高橋弘厚攻めについては、享禄2年5月のことである。次いで阿須那の高橋興光攻めが始まった。これに対して高橋氏は塩冶氏の救援を求めたが、毛利氏の武略=塩冶興久の乱で尼子氏方を支持することにより塩冶氏の救援を不可能としたことにより、享禄3年には高橋氏を滅ぼすことに成功した。この点からも、高橋氏の滅亡は岸田氏が説かれた享禄2年ではなく翌3年でなければならない。

尼子経久(4)

 永正12年正月作成の尼子経久開板妙法蓮華経が残されている。これによりこれ以前から経久が法事を開いていたこともわかる。その後しばらくは国内の体制整備をはかりつつ、隣接する伯耆国西部と石見国東部への進出の機会を狙うというところであろうか。大社の遷宮のみならず、永正16年から17年にかけて山代郷の伊弉諾社の修理と神魂神社の仮殿遷宮も行われた。翌18年には大社の鳥居も完成した。次いで杵築での初の法華経の読経へと進んでいく。その一方で、杵築社での三月会の本格的復活のため、出雲国衙在国司の末裔である佐陀神主朝山安芸守に頭役の注文を提出させた。
 そして大永2年2月には初めて杵築での万部経読経が行われた。これまでの法事とは異なり出雲国の天台・真言・禅宗の有力寺院が一堂に会してのものであった。その中の中心寺院が鰐淵寺(天台)・岩屋寺(真言)・淸水寺(天台)・興法寺(真言)の4寺であった。中でも初日に導師を勤めたのは鰐淵寺の僧であった。
 この年の9月26日、尼子氏は石見国へ軍を進め、江川東岸の松山城を攻略し、籠城する都治氏を自害に追い込み、福屋氏のもとへ逃れた人々の自害を条件に10月初めに引き上げた。これは次の年のデモンストレーションであり、大永3年6月末には石見国の江川西岸へ攻め込み、福屋氏を退却させ、7月8日には浜田にまで到達した。それと平行して安芸国にも軍を進め、同盟関係にある平賀氏や毛利氏関係者に経久が感状を与えている。これに対して大内義興も同年8月6日には阿川弥七に対して石州賀戸塩田浜で父掃部允総康が討ち死にしたことを賞する感状を与えている。周布氏領内大麻山尊勝寺の記録によると、大永3年の戦闘で全山焼失したとする。天文6年の周布郷内村八幡宮の棟札によると、「去大永三癸未八月下旬頃、雲州尼子伊豫守経久之武士発向此国、當郷内神社仏寺不嫌霊地悉破却畢」とあり、この時の尼子氏と大内氏の戦闘が大規模に展開されたことがわかる。8月14日には尼子経久が日御崎神社に那賀郡波志浦を寄進している。11月末には三隅での戦闘が行われていたが、大内氏側の体制が強化されたこともあり、戦線は膠着化し、尼子氏方は和睦を結んで帰国の途についた。この石見国遠征により、江川東岸の石見国を確保し、江川西岸の小笠原氏も大永5年11月には伯耆国の合戦に動員されている。

2013年4月 4日 (木)

尼子氏側近の書状(2)

 永正15年11月には経久が鰐淵寺評定衆からの申し入れに対して二通の返書を送っている。一通では鰐淵寺領直江と国富内名主職で尼子氏被官が抱えている分について、税の納入が無いとの点について、堅く納入を命じたとして、なお無沙汰であれば催促して、堂の建立を実現するとしている。もう一通では評定衆の組織について申し入れをしている。無沙汰があれば惣山で下地について相計らい、堂舎興隆をするように伝えている。公物を失い、勤行を退転するなど自分勝手な行為をするものについては所領を認めないとしている。鰐淵寺の要請に応える一方で、組織について申し入れをしている。これは永正6年10月に経久が定めた鰐淵寺掟を再確認した形となっている。一方、永正15年1月には国人赤穴氏への相続安堵状で、初めて付け年号の書状が使われ、以後、国人への所領安堵や給与もこの形で行われる。
 出雲大社造営と遷宮は永正16年に完了した。その際、別火をめぐり千家・北島両国造の間で裁判が行われ、千家側の主張が認められ、別火は千家方のみの上官であるとの裁定が下されているが、それを千家側に伝える秀綱書状も「恐惶謹言」と結んでいる。
 大永6年(1526)に検校職相続の安堵がなされたことを秀綱が日御崎検校に伝えた際には「恐々謹言」に変化している。尼子経久の安堵状そのものも書状形式では無く、付年号ではあるが、直状形式に変化している。それに先立つ大永3年3月には北島雅孝から秋上大炊助への書状の中では神魂神社神主に関する宮畠氏と千家国造の謀計が「与州様御前之沙汰」で北島方の主張が認められたことを伝えている。ただ、同年8月には亀井秀綱が経久による石見国波志浦の寄進について日御崎社検校に伝えているが、ここではなお「恐惶謹言」となっている。
 翌大永4年には、北島雅孝が国造職を妻(経久の娘)である「いとう御上」への譲状を作成しているが、その袖に経久が證判を加えている(「詮久」の證判は後日加えられた可能性が高い)。そして日御崎社修造勧進簿が作成されている。こうして寺社に対しても、大永6年のように、経久が直状で日御崎社検校を安堵し、秀綱は「恐惶謹言」ではなく「恐々謹言」と記すようになったのではないか。
 永正11年の平浜八幡宮棟札には「守護 佐々木京極殿」に続いて「守護代伊予守殿」と記されたが、享禄2年の平浜八幡宮大鳥居には「大旦那伊予守源経久」としるされている。そして、塩冶興久の乱が勃発中である享禄3年(1530)10月の秋上氏への亀井秀綱書状も同様に「恐々謹言」としているのである。そして前に述べたように享禄2年5月には国造千家高勝が経久を「予州様」と呼び、9月には経久が高勝(千家新十郎)の相続を安堵している。この前後(これはこの前後ではなく天文5~6年)に湯原幸清・河副久盛が吉川氏への書状を「恐惶謹言」と結んでいるが、国内の寺社に対して尼子氏側近はやはり「恐々謹言」と結んだ書状を出している。

尼子氏側近の書状(1)

 尼子氏発給文書は直状よりも書状形式で付年号のものが多いが、その側近の文書はどうであろうか。経久時代の側近と云えば亀井能登守秀綱がいる。時期的には永正7年(1510)のものが古いが、日御崎検校に対して「恐惶謹言」と結んでおり、丁寧な形である。同時期の多賀経忠は経久と同じ「恐々謹言」である。また「直□」も書状を「恐惶謹言」と結んでいる。大社と御崎の境について、四至傍爾(榜示)が無いことを日御崎側が訴え、尼子氏が両国造側から意見を聞いた上で、4月16日までに境の松に制札を打った。その後、大社側が日御崎への通路を封鎖する事態が発生し、多賀経忠が、経久から秋上氏を通じて封鎖をやめるように命じたので安心するように伝えて、その翌日に「直□」が日御崎側に伝えている。
 この点について、享禄2年5月5日国造千家高勝覚書では、永正7年3月に日御崎側が「与州様」へ過去に反古とされた文書を出して制札を立てたが、その後両国造側からの證文をみて制札は取り除かれたとしている。ただし、それ以前の境目をめぐる相論を含めつねに国造側が最終的には勝利したとするが、現在残されている文書とは一致しない。
 書状の日付からわかる関係は「日御崎-直□-経忠-秀綱-経久」となっている。秀綱と経忠はいずれも経久を「民部少輔殿」と呼んでいるが、境を打ったことは「上意」と述べている。これが経久なのか赤穴氏が「御屋形」として対面した「治部少輔殿御れう人」なのかは不明であるが、実質的には経久の意向であろう。この直後に経久の嫡子政久が民部少輔に任官し、経久は伊予守となっている。永正11年10月には尼子氏が横田庄の三沢氏を攻撃しているが、岩屋寺快円は経久を「尼子伊予守経久」、「尼子殿」と呼んでいる。
 次いで、年次は明らかでないが、日御崎から連絡した「田儀へ番易」についての返書で、尼子氏側の船ではないとして、千家・北島両国造が5艘ずつ計10艘が役を免除されているが、それ以外の船が田儀に入ることがあれば、尼子氏側が命令するとしている。また、日御崎領へ賦課する役についても尼子氏側は知らないとして、何かあれば連絡してほしいと伝えている。田儀は検校の娘婿田儀又法師が検校の地位を継承したことがあり、日御崎社側が何らかの権益を持っていたが、そこに入った船への課税について、問い合わせたのであろう。ここでも秀綱書状の末尾は「恐惶謹言」と丁寧である。

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