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2013年3月

2013年3月30日 (土)

尼子経久(3)

 永正7年には出雲大社と日御崎神社との間で紛争が発生した。大社側の主張によると、3月に日御崎側が京極氏時代の裁判で反古とされた文書を持ち出して尼子氏に訴えたという。4月には尼子氏が大社側にも確認した上で制札を打っているが、大社側には不満があったようで、その後(これも永正7年とされるが、特定できる情報はない)、日御崎への通路を塞ぐという行為に出、再度日御崎側が尼子氏に訴えている。これについて記した5月25日多賀経忠書状によると、亀井秀綱が5月23日に伯耆国印賀から戻ったので経久に披露し、大社側の関係者である神魂神社権神主の秋上氏を召還して、通路をふさがないよう命じたとしている。問題は亀井が何のため伯耆に派遣されていたかである。
 というのは、経久の嫡子政久(京極政経の諱からか)は山名兵庫頭の娘と結婚し、その間に生まれたのが後の晴久であるからである。伯耆国との関係については、天文2年(1533)2月5日尼子経久寄進状が注目される。すなわち20数年前に伯耆国山名氏で内紛があり、経久は庶家山名澄之への合力のため自ら出兵し、澄之が本来の惣領尚之に勝利したという。澄之は大永元年(1521)までに伯耆国守護となっており、後で述べる出雲国南部平定後間もなく伯耆国へ出兵したと思われる。山名兵庫頭については人物比定の情報がないが、山名澄之の関係者とみるのが妥当であろう。そして婚姻関係が結ばれたのはそれよりも早い時期であろう。
 こうして出雲国西部と伯耆国に勢力を拡大した尼子経久はすでにみたように永正6年には出雲国南部へ兵を進めていた。その最中の永正10年、大原郡阿用を攻めている際に嫡子政久が討ち死にしてしまった。永正11年には平浜八幡宮を造営する一方で、横田三沢氏を攻撃し、永正12年2月までにはこれを降伏させ、馬来で佐波氏の代官として派遣された赤穴氏と交渉し、その後赤穴氏は平浜八幡宮に出かけて守護京極氏関係者(御寮人)と会い、その後は伯耆国西尾陣へ佐波氏とともに出陣している。

尼子経久(2)

 明応9年12月までには守護政経が出雲国に入国し、経久との間で和解が成立し、経久も反逆人ではなく、幕府からも守護代と認められている。そして文亀元年(1501)には臨済宗雲樹寺に対して先例に任せて諸役を申し付けるという内容の直状を出している。これは守護代としてのものではなく、雲樹寺と天台宗淸水寺のあった宇賀庄が経久に与えられていたことを示す。宍道氏との間で婚姻関係が結ばれたのもこの頃であるが、すでに述べたように娘と結婚した宍道氏庶家が惣領家となった。
 次いで、永正2年の塩冶攻撃が行われ、その直後に千家・北島両国造と経久の娘との結婚が行われ、興久が塩冶氏に養子に入った。興久の妻は塩冶氏女子ではなく備後国山内氏女子であり、これまた尼子氏主導で行われた。経久が法事を行い、その直後に出陣するというのはこの塩冶攻撃の際が初めてであったのではないか。その際に東部で最大の天台宗寺院で、自己の支配する宇賀庄内の淸水寺が左座を勤めたのは当然である。ただし、その場に鰐淵寺は参加してはいない。
 永正5年5月3日には平浜八幡宮の真言宗寺院宝光寺の当知行を安堵しているが、これも経久が竹矢郷とともに平浜八幡宮を支配していたことを示す。この年、経久は中郡高麻要害攻撃に赴いており、それが一段落したためか、出雲大社に対して造営について尋ね、大社側が使者を派遣している。同年10月25日には守護政経(宗済)が死亡し、経久が実質的な出雲国の支配者となり、翌年3月には出雲大社の造営のため亀井・多胡両人が派遣され、10月には経久が鰐淵寺に対して掟を定めている。

尼子経久(1)

 以前、尼子晴久について述べたことがあった。近年、晴久の再評価もなされているが、最近思うのは、晴久はスケールの小さい経久ではないかということである。丁度、今の政治家の二世議員によくみられるように。そこで、経久について論じてみることとし、その上で必要があれば晴久についても言及したい。
 経久は長禄2年(1458)に生まれ、文明6年(1474)から歴史の表舞台に登場する。すなわち、父清貞の代理として畿内の合戦に参加するため上洛し、守護京極政高から能義郡利弘保の当知行を安堵されている。これに対して父清貞は文明8年を最後にみられなくなる。
 文明11年には経久が再び政経から所領の当知行を安堵され、その一方で京都淸水寺の再興奉加帳にその名をみることができる。文明8年段階は「又四郎」であったが、11年には「民部少輔」とみえる。能義郡土(国)一揆を収拾するため、清貞の引退、子経久による継承と任官となったのだろう。
 次いで文明14年には守護政経とともに、幕府から出雲・隠岐両国の段銭免除を破棄するので、異議を申すものがあれば処罰するように命じられた。ところが2年後の文明16年(1484)3月17日以前には寺社本所領を押領し、御所修理段銭を難渋するとして、経久を退治せよとの命令が幕府から出され、守護政経は守護代から経久を解任するとともに、経久を成敗せよとの命に応じて出陣してきた国人に感状を出している。
 軍記物は、その2年後の文明18年(1486)には新守護代塩冶氏を滅ぼし、守護所のある富田城を奪回したと記す。そしてこの年に政経は出雲国を離れ、上洛している。これにより出雲国東部は経久と、経久と結ぶ松田氏ら国人連合が実質的支配権を握ったと思われる。延徳2年(1490)には経久の肖像画に対して大徳寺の春浦宗熈が賛を寄せている。一方、出雲国西部では塩冶氏惣領が出雲大社や古志氏との関係を結んで勢力を築いていた。
 経久は安芸国の有力国人吉川経基女子と結婚し、長享2年(1488)には嫡子政久が生まれているが、政久には後に宍道氏と結婚する姉があったと思われる。次いで4年後(1492)には国久が、9年後(1497)には興久が誕生している。

2013年3月24日 (日)

資料の声を聴く?8

 これにより鰐淵寺は尼子氏から左座を認められると思っていたが、さにあらず尼子氏は上洛して朝廷の裁定を仰ぐことを求めたのである。鰐淵寺に唯一欠けていたのは左座であったという事実であった。再度、淸水寺左座との綸旨が出されたのは、三問三答という事実を確認する形で裁判が行われたからである。鰐淵寺左座の綸旨は鰐淵寺のみの主張と支持勢力の圧力に基づくものであったが、三問三答後の淸水寺左座の綸旨は事実に基づくものであり、同じようで全く異なるものである。尼子氏にとっても淸水寺左座は事実に基づき裁定したものであったが、その根拠の一つであった綸旨が覆ったことはある程度尊重しなければならない。そうした中で、両寺が上洛して三問三答を行うことを求めたのであり、その結果、淸水寺が勝訴することは、事実を知るものにとっては予想されたことであった。
  佐伯氏のコラムでは、先ほどの引用(前のもの)に続いて「この後、これを不服とする淸水寺との間で禁中において都合三回にわたって相論がくりかえされた」とするが、その後の文では禁中での2回目、3回目の相論のみについて記されている。さらに2回目の禁中相論が室町幕府の御教書で決着したかに書かれるのも理解不能である(このあたりは誤植があるのかもしれない)。室町幕府は鰐淵寺側の依頼を受け、禁中に外野席から圧力をかけたものであり、裁許ではない。今回、禁中で行われた相論とは5月から6月にかけて三問三答により行われたもの1回で、佐伯氏の理解にも混乱が生じている。その事実に基づく裁定が幕府を含む外野席からの圧力により11月に覆され(佐伯氏は4年前の報告でその後の事態を示す可能性のある史料の存在に言及したが、今回はここまでしか述べていない)、さらには次年度の春に再度変更されたのである。
 こうみてくると、座次相論の史料はつくづく研究者によって誤解され続けてきたことがわかる。その理由は、一つには鰐淵寺による意図的な史料の残し方であるが、そのトリックに気付き、一方では個々の文書の年次を比定することはさほど難しいことでは無いのである。

資料の声を聴く?7

 今、入力しながら読むと、不可解なところもある。佐伯氏の解釈によるならば、敗北直後に一同が寺から離山することになるが、おそらくそんなことはなかったであろう。といいつつ、杉山氏の論文に目をやると、そこにも「淸水寺の主張が通るような事態になれば、離山して抗議の意を示す」と記してある。史料をよく読めば、天文14年の相論に関して主張した点が事実であることに関して起請文を作成しているのである。ところがそれはそれ以前に行われた尼子氏の裁定では事実とは認められなかった。淸水寺が提出した天文6年の綸旨と天文19年の梶井門跡令旨の前に、証拠を示せない鰐淵寺の主張が認められるはずはなかった。それ以前の問題として、尼子氏側も淸水寺側も、そして鰐淵寺側も事実がどうであったかは知っていたのである。ただし、すでに述べたように、塩冶興久の乱が起きずに、そして鰐淵寺が興久方にならなければ、万部経読経後の尼子氏の法事で鰐淵寺が左座を認められる可能性は高かったと思われる。尼子氏側に鰐淵寺を押さえて淸水寺を支持する意図があったとされるが、その当否はともかく、鰐淵寺が左座となったのは亀井能登守が事情を知らなかったからだとした点については、淸水寺の主張は誤っている。一方、大内氏の出雲国攻めで淸水寺側の文書が失われることがなければ、鰐淵寺が天文14年に異議を唱えることもなかったであろう。
 そこで鰐淵寺は延暦寺や朝廷に訴えることとし、その内容が事実であると主張するために起請文を作成したのであろう。鰐淵寺の作戦は功を奏し、天文6年に淸水寺左座の綸旨を出した後奈良天皇から、天文6年の綸旨を改め、鰐淵寺を左座とする綸旨を得たのである。こうなれば延暦寺三院執行代の支持を得ることも容易であった。この点について佐伯氏は「領国支配権力として下された尼子氏の裁定が、天台の総本山と天皇に名においてくつがえされた」と記した。さらにコラムの最後は「尼子領国内とはいえ顕密寺院秩序問題では、武家権力でかつ、新興の大名尼子氏は蚊帳の外に置かれ、究極的には天皇や本山とこれをとりまく中央の実力者に頼らなければ解決できなかったのである」と結ばれている。これについて杉山氏は、「こうして座次相論は、鰐淵寺の勝訴によって閉じるかにみえた」と述べたが、実際には終わらなかった。それは佐伯氏や杉山氏の評価が妥当ではなかったことを示している。鰐淵寺左座の綸旨が出た直後から淸水寺と結ぶ勢力の巻き返しが始まっているが、一旦下された綸旨を覆すのは尋常のことではない。

資料の声を聴く?6

 若干の補足を行う。鰐淵寺側は事実に基づく裁定には不安があったため、政治力を利用した。天文24年の綸旨を獲得する際と同様に、延暦寺三院執行代の連署状を獲得した。次いで弘治2年に三問三答が行われている際には、新たに幕府奉行人奉書を獲得することにも成功した。この点については杉山氏の論文に詳しいが、『戦国大名尼子氏の興亡』の図録の中では佐伯氏がコラムとして「鰐淵寺と淸水寺の座次相論から」として述べている。
 今回のテーマを考える発端となったのは4年前に、佐伯氏の報告(成文化はされていない)を受けて、関係文書の年次比定を行ったところ、これまでの年次比定には明らかな矛盾が多数みられることが分かった。そこで正しい年次比定に基づく分析結果をこのブログで述べた。
 これまでの通説では弘治2年11月の綸旨により相論は終結したとされていた。それが佐伯氏の報告では弘治3年比定される可能性のある文書が存在することが指摘されたが、実際に確認できたのである。その文書は、淸水寺が左座であるとの綸旨が出されたとの情報を得た鰐淵寺支持勢力が、朝廷の関係者に確認したところ、そのような事実はないと述べていたものであったが、なぜかその後の史料は残っていなかった。これを杉山氏は結局、淸水寺左座の女房奉書は出されたが、綸旨は出されず、鰐淵寺が勝利したと評価した。
 その後、この相論の中で述べられている情報の中には、尼子氏の寺社を中心とする支配体制の整備に関する重要なものが多数含まれていることがわかり、論文の作成を開始していた。これに対して図録のコラムで佐伯氏は、次のように述べている。天文24年2月に鰐淵寺が富田城における法事での左座を確認し、これを尼子晴久が認めなければ、一同が山(寺)から離山すると申し合わせた。ところが尼子氏のもとでは淸水寺勝訴の裁定が下された、と。

東山御文庫所蔵文書から(10)

 次に座次が問題となるのは、尼子氏による出雲大社造営が開始されたことであり、関連して読経がなされれば、当然出雲大社と関係が深い鰐淵寺が左座となることは十分に予想され、そこで淸水寺は天文19年には梶井門跡から令旨を得たのであろう。尼子晴久は天文21年には幕府から中国地方6カ国の守護の地位を認められた。とはいえ、そのすべての地域を掌握していたわけではなく、守護の地位を而子に周辺への軍事活動を行い、法事も行っていたであろう。ところが、その最中の天文23年11月に尼子氏の軍事力の中枢の一角を占める新宮党を討滅してしまったのである。とりわけ晴久の叔父国久は尼子氏による西部掌握の要であり、誤って討滅してしまった尼子氏の動揺は大きかった。それを天文24年初めに修理大夫に補任されたのを契機に、再度軍事活動を展開せんと、2月法事を開催したところ(2月28日には出雲大社、日御崎社、揖屋社に所領を寄進)、尼子氏側の動揺を見越した鰐淵寺が異論を述べたのである。鰐淵寺は、淸水寺が天文6年の綸旨を示したので、以後出仕しなかったとするが、三問三答とその関連史料により、尼子氏のもとで両者の裁判が行われ、尼子氏が淸水寺左座の裁定を下したのは事実である。尼子氏、淸水寺、鰐淵寺ともに過去の事実関係は十分承知しており、その裁定結果は鰐淵寺には予想できたものであり、すぐに延暦寺の支持勢力と結んで、比叡山三院の文書と天文6年の綸旨を改め、鰐淵寺を左座とする後奈良天皇の綸旨を得て、尼子氏に示したであろう。
 尼子氏にすれば、淸水寺を左座とした自己の裁定と異なり、鰐淵寺の一方的主張と政治的働きかけによって出された綸旨をそのまま認めることはできないし、かといって鰐淵寺が得た綸旨によりその効力を否定された天文6年綸旨を採用することはできない。いずれの判断をしても敗訴した側からの批判は尼子氏に集中する。尼子氏が展開する軍事活動のために比叡山の一方と敵対関係になることも避けたいとの判断から、両方が綸旨を帯することもあって三問三答による事実確認を踏まえた朝廷の裁定を求めたのであろう。その前提として延暦寺の裁定もあればよいが、必要十分条件ではなく、杉山氏が延暦寺の裁定を求められ、鰐淵寺が延暦寺三院と幕府の支持を取り付けたのに対抗して、淸水寺側が朝廷での三問三答に持ち込んだとされたのは誤りである。政治的思惑に基づく裁定は何の解決にもつながらず、かえって問題を複雑化するのみである。尼子氏が求めたのは反対勢力を黙らせることができ、且つ尼子氏へ批判が及ばない事実審理に基づく朝廷の裁定であった。
 この事例を以て「地方寺院の相論に過ぎない両寺の争いに対しても、明確な裁許を下すことができる政治的権力が存在しない」と評価するのは早計である。この相論の特殊性から、裁許を避けるのは合理的判断であった。結果として、鰐淵寺の新儀の主張は通らず、以後相論を起こすこともなかった。ただし、勝訴した淸水寺が再度の焼失により関係文書の大半を失ったことは、淸水寺にとっては不安なことであり、鰐淵寺側は自己にとって有利な史料のみを残し、結果として後世の人々に勝訴したとの誤解を生ませることに成功したのである。
 近世初頭の堀尾氏時代の寺領を比較すると、鰐淵寺が300石であったのに対して淸水寺は100石と、明らかに鰐淵寺の方が寺格では上である。それだからこそ、鰐淵寺が訴訟を起こしたのである。形の上では天文6年の綸旨を改めて鰐淵寺を左座とした綸旨が天文24年に出されているため、三問三答は淸水寺が問状をだし、それに鰐淵寺が答状で反論する形であるが、本質的には鰐淵寺がこれまでの状態を覆すために、チャンス到来であるとして、比叡山の支持勢力と結んだのである。チャンスとは新宮党討滅とともに、大内氏の出雲国攻めで淸水寺が焼失して関係史料が失われたことがあった。
 ここまで一気に述べたが、これを踏まえつつ、論文という形にまとめていきたい。いずれにせよこれまでの研究は三問三答史料に含まれる重要な情報に気付かず(何が事実という肝心な点が検討されず)、枝葉の史料にとらわれていた。その前提として、文書の年次の判定が不十分であったことと、鰐淵寺が勝利したとの先入観もあったであろう。最新の杉山氏の論文により文書の年次比定はほぼ完了し、久留島典子氏の研究で六角氏に関わる史料の存在が明確になった。 

東山御文庫所蔵文書から(9)

 以上、延暦寺文書の内容を踏まえ、三問三答について細かく言及しながら座次相論についてみてきた。事実としては、尼子経久が国内平定に着手する際に法事を催すようになったが、その際富田城との近さと由緒から淸水寺が左座とされた。出雲国西部をおさえて国内平定が一段落すると、国内最大の神社である出雲大社のお膝元である杵築で法事が行われ、西部への軍事行動が展開された。その際には鰐淵寺が左座とされた。三回目の万部経読経は、尼子経久による寺社を含む国内支配の総決算としての意味づけがあり、享禄2年には尼子経久は出雲大社に次ぐ国内第2位の佐陀神社にも社参し、前後して佐陀神社と密接な関係を持つ真言宗寺院成相寺に対しても、興久をして「新儀」と言わしめた申し入れを行っている。典拠となる史料が不明であるが、当時の佐陀神社も出雲大社と同様、仏教的施設が数多く見られたとされる。
 ところが、三回目の直後に塩冶興久の乱が起き、出雲大社や鰐淵寺関係者の中には興久方となったものも多く、興久の乱が鎮圧された後の法事では、鰐淵寺ではなく淸水寺が左座とされた。そうした中、淸水寺は天文6年に後奈良天皇から左座であるとの綸旨を獲得した。この背景として、この年から出雲大社の造営が始まったことがある。また、この当時経久から詮久(晴久)への権力の継承がなされるとともに(前に述べた成相寺は14世紀初めに由緒を述べた文書を経久に提出し證判をもらっている)、尼子氏による東西への軍事活動が活発に行われるようになったことがある。興久の乱で緊張した出雲大社や鰐淵寺と尼子氏との関係も再構築がなされており、淸水寺の左座が鰐淵寺との関係で問題となる可能性があったのではないか。綸旨の文言からは窺われないが、実際に裁判となった可能性も否定できないが、史料を欠くため、それ以上のことは言えない。尼子氏による軍事活動の仕上げが周辺国の国人をも動員した安芸国吉田の毛利氏攻めであり、この前にも、なお存命していた経久も参加し法事がなされたであろう。しかしこの遠征は失敗に終わり、ここでも出雲大社や鰐淵寺、さらには西部の国人の中には反尼子氏の立場となったものが少なからずいた。そのため、淸水寺が左座である地位は揺らがなかったが、時間が経てば、鰐淵寺との関係が再燃することはありえた。実際に、尼子氏が天文14年に国外遠征に先立ち行った法事で、鰐淵寺側から異論が出され、尼子氏は出陣が迫っていたこともあり、淸水寺が後座の左座、鰐淵寺が後座の右座とすることによって妥協を図った。

東山御文庫所蔵文書から(8)

 一方、三問三答の関係史料を毛利氏と尼子氏の合戦により焼失した淸水寺には、記憶にたよって作成した綸旨と梶井門跡関係文書が残されている。綸旨はいずれも後に「天文23年」と加筆され、形式上の不備はあるが、事実に基づき復元しようとしている。綸旨の一つは「三問三答訴陳の上は、天文六年之綸旨に任せ」て淸水寺を左座とするもので、弘治2年6月(24日とのみある)の綸旨を復元したものであろう。もう一つは「去年六月勅裁の旨に任せ」て淸水寺左座異論に及ばず候とあり、弘治3年5月以降に出された綸旨であろう。
 梶井門跡関係文書の一通目は、令旨で「国中法席左右相論」があるとして、淸水寺は精舎であり綸旨の筋目を守ることを伝えている。これが天文19年の令旨を復元したものであろう。二通目は、梶井門跡の消息と思われ、綸旨と令旨と異なり正確な内容を写している。座次相論で西塔横川の悪徒が列参したとして、張本人を成敗することについて、六角氏も同意していることを述べている。内容的に74号の梶井門跡消息に近く、弘治2年末のものであろう。残る一通は令旨で、すでにブログで紹介したが、梶井門跡が天台座主であった元亀元年までのものである。毛利氏と尼子氏の合戦で淸水寺は再び文書を失ったが、淸水寺が勝訴したことは隣国でも隠れなき事実であり、心配するには及ばないことと、鰐淵寺が青蓮院の末寺となったことにより、鰐淵寺が青蓮院の末寺としての由緒を主張した際には、梶井門跡の方が歴史が古く、淸水寺が左座である事も紛れがないので、はっきりと理を主張すればよいとしている。

東山御文庫所蔵文書から(7)

 延暦寺文書には、2通の梶井門跡消息が含まれる。杉山氏はともに淸水寺左座の綸旨の出た弘治2年6月頃のものとされるが、関連文書をみると、もう少し後の時期のものとすべきである。延暦寺文書74号は、その中で張本の処罰と西塔の路を止めることを述べているので、11月21日の延暦寺根本中堂集会と同時期のものであろう。これに対して67号では座次相論について梶井門跡側の要求が聞き届けられたことを感謝した上で、鰐淵寺への成敗と、元の如く淸水寺に綸旨を下されんことを申請している。これにより弘治3年に再び淸水寺を左座とする天皇の意向が伝えられた後のもので、5月の延暦寺大衆申状の少し前に出されたものであろう。この段階で鰐淵寺支持勢力に対する処分も行われており、梶井門跡側が比叡山の主導権を握ったのである。
 問題はここからである。5月段階で淸水寺を左座とする意向が示され、梶井門跡はそれを尼子氏を含む関係者に伝えた。これに驚いた鰐淵寺側が確認したところ、未だ綸旨は出されておらず、淸水寺を支持する側も、女房奉書に続いて綸旨が出されることを再度求めていた。杉山氏はこの後史料が残っていないので、綸旨は出されず、最終的に鰐淵寺の勝訴で終了したと評価した。ところが、問題として肝心の尼子氏から鰐淵寺への左座を確認する文書は残されていないのである。文書の残り方からすると、残らなかったのではなく、出されなかったことは確実である。以下に述べる淸水寺側の写しも含めて総合的に判断すると、弘治3年に淸水寺を左座とする綸旨が出され、訴訟は一旦終了したことになる。
 杉山氏は、その後史料が残っていないので鰐淵寺の勝訴で終了したと述べるとともに、毛利氏との問題への対応で、尼子氏に法会(法事)を開く余裕が無くなったことを述べられたが問題である。先に述べたように、弘治2年6月に法事を行うのは、石見国への大規模な出兵が計画されていたためであった。その出兵により尼子氏は石見銀山掌握の要である山吹城を毛利方から奪取し、一定の成果を上げた。次に焦点となったのは陶晴賢を滅ぼした毛利氏が本格的に石見国に出兵して来ることであり、永禄2年には石見国小笠原氏救援のため、晴久が大軍を率いて出兵している。この出兵前にも法事を行った可能性は大きい。ところが、弘治3年4月に杵築社領高浜郷と遙堪郷内にある鰐淵寺領について、杵築内経所経田であるとして三月会段銭以外のすべての税を免除するとする尼子晴久書下以後、毛利氏の出雲国進出が現実のものとなりつつあった永禄4年9月に出された鰐淵寺に寺領を安堵する尼子義久書下まで、鰐淵寺には尼子氏関係の文書は残されていない。

東山御文庫所蔵文書から(6)

 季遠の主張が、鰐淵寺の主張と同様まったく根拠に乏しい苦しまぎれのものであることは、明白であると思うが、いかがだろうか。それは後奈良天皇の周辺でも同様であり、女房奉書の内容に基づき、清水寺左座の綸旨が出された。清水寺側の史料がほとんど残っていないので不明な点が多いが、鰐淵寺が梶井門跡の末寺になろうとした点からして鰐淵寺側が状況を不利と思っていたのは間違いなかろう。清水寺側の主張に証拠がないとするが、鰐淵寺こそ、杵築社の事例以外、何ら具体的事実を示せず、頼るべきは由緒の古さと比叡山ならびに朝廷内部で鰐淵寺を支持するグループの政治力のみであった。綸旨は二転三転しているが、とりわけ問題なのは事実に基づかない綸旨であり、これが朝廷の権威を失墜させるものであることは明白であろう。
 最後に、弘治3年5月段階の状況について確認する。弘治2年11月に6月の清水寺左座の綸旨を改め、鰐淵寺左座の綸旨が出たことに対し、梶井門跡など清水寺側を支持する勢力が強く反発している状況が、延暦寺文書により窺われる。年月日を欠くものについても杉山氏が関係文書目録で年次を比定しているが、その見直しを含め確認する。
 弘治2年9月には清水寺を支持する人々が、三問三答に基づく綸旨の変更を求める訴えを聞き入れないよう、朝廷に求めている。これにたいして10月には鰐淵寺を支持する延暦寺列参衆が3ヶ条について証拠に基づく採決を求めている。
 次いで鰐淵寺左座の綸旨が出た後の11月21日には延暦寺根本中堂の集会が開かれ、梶井門跡の沙汰として朝廷に奏聞することを確認し、鰐淵寺を支持し庭中(越訴)を行った西塔への路次を止め、張本の僧を門徒から追放することを求めている。また12月には延暦寺本院大衆が、座次問題について上奏したがなお勅答がないとして、庭中に関わった関係者の成敗と改易を求めた申状を出している。その中で、尊勝院と横川検校、さらには幼少の青蓮院門跡を補佐する曼殊院門跡覚恕を批判している。
 そして弘治3年5月には延暦寺大衆が、去年、鰐淵寺与同の凶徒を円仁の門徒から放ち、誅罰の制札を立てたとし、鰐淵寺への処罰を求め神輿の動座を行おうとしたところ、勅書が出されたとして、女房奉書の旨に任せて清水寺へ綸旨を下されるはずであるが、それが遅れているとして、申状を提出している。
 これに関連して、5月15日には、清水寺を左座とする綸旨が出たことへの問い合わせを受けた柳原資定がそのような事実は無いことを伝え、19日には中山孝親と勧修寺尹豊が尼子晴久に対して、清水寺への綸旨が出るとの梶井門跡の令旨を見て驚いたが、朝廷ではそのような沙汰は聞いていないし、鰐淵寺支持の青蓮院などが擯出されることも虚言であるので、去年11月の鰐淵寺への綸旨に従い鰐淵寺に左座を申し付けることが肝要であると述べている。同日には青蓮院関係者である尊勝院慈承も尼子晴久に同様の事を伝えるとともに、伏見殿(青蓮院門主の出身家)女房奉書と竹門(青蓮院脇門跡、曼殊院門跡竹内覚恕)御書(ただしこれは残っていない)も尼子晴久に出されている。

東山御文庫所蔵文書から(5)

 この三問三答をへて出された結論は清水寺の勝訴であった。綸旨そのものは残っていないが、鰐淵寺を支持する四辻季遠に敗訴の理由を伝えた女房奉書と、四辻季遠の意見状が残っている。
 女房奉書では、最初に、鰐淵寺側の法事に遅参した際に左座が空けてあったとの主張と、清水寺側の常に左座であったとの主張を検討したが、証拠がないことから鰐淵寺側の主張する事実はないとしている。次いで、杵築社での法事で鰐淵寺が左座であったことについても、天文6年に綸旨が出される以前のことで、それについて天文6年に清水寺に綸旨を出している以上、現時点での証拠にはならないとする。さらに天文14年の相論以後、清水寺が左座の後に着いた事実は鰐淵寺も認めており、それを含めて清水寺の主張に根拠があると判断したことを伝えている。
 これに対して前年に出された鰐淵寺左座の綸旨発給に関わった四辻季遠の消息は、女房奉書と綸旨が出される以前に意見を求められた際のものであろう。鰐淵寺が初答で述べた法事に遅参した際の事について、二問で清水寺が否定したのに対し、鰐淵寺側が二答で証拠により反論しなかったことについて、この点については水掛け論で証明できないので、証拠により判断すべきと鰐淵寺は主張しており、清水寺の主張に承伏したとは言えないとする。また、杵築の件が天文6年の綸旨以前の事で証拠にならない点については、鰐淵寺初答で天文14年に清水寺が初めて違乱に及んだと述べ、清水寺も二問で認めたと述べているが、清水寺側は杵築社での読経を除けば清水寺が常に経久時代は左座であったと述べており、清水寺は鰐淵寺による新儀違乱があったと述べており、事実とは異なる意見でしかない。その上で、天文6年の綸旨に疑問を呈するとともに、天文24年に鰐淵寺左座の綸旨が出た以上は、天文6年の綸旨に基づき、その後清水寺が左座であろうと、それは証拠にはならないとする。そして左座の証拠となるのは第一の座についてであり、後座の左座は証拠にならないとする。いずれも説得力ゼロの意見でしかない。そして、清水寺が第一座でなくともとにかく左座につきたいと望んでいる中で、鰐淵寺も左座の後ろに着くと尼子晴久の下で対決した際に言えば、その場の誰もが笑うことなので、主張しなかったと述べる。清水寺の主張は開基年代が大同と言ったり推古朝といったりして異なっており、この点からしてすべて根拠なきことであるとして、これを納得した上で披露してほしいとする。

東山御文庫所蔵文書から(4)

 いよいよ清水寺三問状である。由緒を強調し、個々の事実関係に答えない鰐淵寺を批判するとともに、清水寺が先年の大内氏の出雲国攻めの際に焼失したが、本堂のみは残ったとして推古天皇の御願による由緒を主張する。次いで戦国大名尼子氏の法廷での判断を無視していいはずはないと述べる。逆に由緒を述べても左座の証拠にはならないと鰐淵寺を批判し、尼子氏のもとでは清水寺が勝利したことを強調する。
 次いで杵築での万部経読経は杵築社が執行したため、先例を無視した座次で行われたとし、その理由として奉行であった亀井能登守が事情を知らなかったためであると主張する。そして、その後も鰐淵寺が座次を乱すので天文6年に朝廷から綸旨で左座を認められたとする。そして杵築社での万部経の時に社僧と号して一旦行った不当な傍例により鰐淵寺が理運である主張する申状を言語道断とする。さらに重ねて三役者の行為は了解を得たものではなく、また、朝廷で三問三答が行われている最中に一方の主張に付く連署状があるのは問題で、この点についてはこれまでもたびたび申し入れてきたとする。最後に、鰐淵寺が去年以来梶井門跡の末寺になろうとしたことを批判する。
 これに対して鰐淵寺はやはり清水寺との由緒の違いを強調する。尼子氏の下での対論では大同年間の開基といいながら、三問では推古天皇の御願というが、証拠はあるのかとする。いずれにせよ山門根本の末寺ではないとして優位を主張する。そして、左座の証拠についても綸旨と令旨で「先規」とされたものを要求する。清水寺が焼失したことについても多少の証拠はあるはずとする。
 尼子氏での対座について、清水寺が左座を認められた点については、鰐淵寺が出仕しなかったからだとする。そこで何故か清水寺の問状にはない「証跡を帯して申し上げた」にもかかわらずという点を否定している。実際の対論で主張された事であろうか。三万部読経については、亀井能登守が案内無しとの清水寺の主張に対して、経久の下で大事小事の全てを存じていたのが亀井であったと批判し、それが3度も行われ、直近は27年前でしかないとし、杵築社の社僧であるとの主張に対しては、鰐淵寺の鎮守は蔵王権現であり、社僧ではないとする。仮に社僧であったとしても亀井により左座となったことに異議はないはずだとする。この点だけは鰐淵寺の主張に理がある。この後どうなるかが問題であった。
 役者の副状については、二答の主張の通りとし、最後に梶井門跡の末寺になろうとしたことについては、二つの門跡の末寺となる例は珍しくなく、問題はないとし、門跡の許可がなければ仕方が無いとして三答を終えている。

東山御文庫所蔵文書から(3)

 これに対して、鰐淵寺の二答状では、事実関係を一々反論するのではなく、最初に鰐淵寺の由緒の古さを主張し、それに対して新参の清水寺が梶井門跡との関係を背景に新儀を主張し、鰐淵寺より優位に立とうとするのは言語道断とする。その上で、尼子氏が寺院間の問題に立ち入るべきではないとして、当座の相論を静観して結論を待つことを求めている。法事の度に問題が起きても困るので、新たな綸旨と山門の副状を得たところ、天台座主である梶井門跡から前の綸旨が正統であるとの申し入れがあり、対処に苦慮した尼子氏の意見により上洛したが、なおも清水寺は勝手な意見を述べると批判している。
 その上で、鰐淵寺には由緒を証明する証拠が多数あるが、清水寺側は何を証拠とするのかと述べる。清水寺側が大内氏の出雲攻めの際に寺院の大半が焼失し、それとともに所持する文書を失ったことにつけ込んだ主張である。その点で、杉山氏が当時鰐淵寺が衰退しつつあるのを利用して清水寺が天文24年に新儀を主張したとする評価は誤っている。あくまでも鰐淵寺側が不利な状況を変えるために行動に出たのが今回の裁判の原因である。当然、そこには出雲国西部を押さえていた新宮国久とその一族が天文23年11月に晴久により討滅されたことも影響した。その直後に晴久は討滅の誤りに気付き、尼子氏側の動揺は大きかった。周到な計画に基づき行われたものではなく、毛利氏との情報戦に敗れる形で、討滅させられてしまったのである。鰐淵寺にとっても二重の意味でチャンスが到来したのである。
 次いで、清水寺の綸旨と梶井門跡の令旨の矛盾を指摘する。清水寺が本来上座(左座)であったのに鰐淵寺が新儀を主張したのなら、清水寺は鰐淵寺を罰するよう訴えるべきであるが、ただ申請して綸旨を得、年数が経ってから証拠として持ち出したことは理解できない。また、天文6年の綸旨と天文19年の令旨の間が離れすぎていると疑問を呈している。天文19年8月21日の令旨の「清水寺は当門跡御境内之精舎」との表記にケチをつけ、梶井門跡は比叡山より新しく、鰐淵寺の草創は比叡山より二百年古いとして、清水寺との由緒の違いを強調し、清水寺は証拠もなく訴えていると批判する。
 さらに、上洛して一途の糾決を求められた以上は、近年の経緯は除外して、古今の次第を証拠に基づき決めるべきであるとして、三万部経読経の際に左座であったことの証拠として尼子氏重臣立原備前守幸隆書状を例示する。そして最後に山門役者副状について、門跡の関係者である寺家は実情を知らないのであり、正当である証拠として北谷の状を提出し、清水寺側も三執行代へ連署状を求めたが、証拠がなかったため得られなかったとする。

東山御文庫所蔵文書から(2)

  清水寺の二問状をみていく。鰐淵寺が経久時代に常に左座であったとの主張に対し、清水寺は経久が最初に読経をした際には左座であったと批判する。論理的に考えればそれは杵築大社での三万部経の前となる。当然、鰐淵寺が遅参した際に左座が空けてあったとの主張も否定する。確かに、鰐淵寺側の主張には杵築での事例を除けば年次などの具体性が全くない。
 天文14年の法事では対座がなかったとする鰐淵寺の主張に対しては、清水寺が左座に出仕したのに対して、鰐淵寺が最終的に出仕をやめたためであり、根拠がないとする。本座ではないが、後座で左座が清水寺で右座が鰐淵寺であった事実は鰐淵寺も認めており、それは清水寺が優位に立っている証拠だとする。これは客観的にみて正しい主張である。天文24年2月の問題についても、新たな異論を出して引き上げてしまった鰐淵寺側の行為を批判している。法事は国外遠征を控えてのものであり、晴久が予定どおり出陣したのは当然で、結果として、法事は行われなかった。その後、清水寺が左座であった点は事実であろうが、その場に鰐淵寺が出仕していたかは不明である。であるので当然、鰐淵寺が左座であることは国中に周知されているとの主張も、清水寺は否定する。
 そうした中で天文24年5月に急に鰐淵寺が左座であるとの綸旨が出されたのに対し、清水寺は天台座主である梶井門跡を通じて説明を求め、これまた鰐淵寺を左座とした比叡山三院の判断についても関係先に問い合わせたが、そのような決定は知らないとのことで、東谷と南谷の学頭代から尼子晴久へも申し入れをしたところ、尼子氏は両寺に上洛し一途の糾決を得ることを求めたとする。そして最後に、杵築大社での読経で鰐淵寺が左座であったのは、鰐淵寺僧が杵築大社の社僧であると主張したためで、これは無道の謀訴であると批判する。

東山御文庫所蔵文書から(1)

 未見であった東山御文庫所蔵延暦寺文書は昨年6月に「史料纂集古文書編」の1冊として刊行されており、内容が確認できたので、簡単にコメントを加えたい。併せて、三問三答での両寺の主張について解説したい。これまでの研究では「鰐淵寺が勝訴した」として、特に清水寺の主張について、きちんと分析がなされていないのである。「延暦寺文書」とあるが、朝廷に残されていた延暦寺関係文書であり、その中に座次相論文書が含まれる。そのため、鰐淵寺支持勢力だけでなく梶井門跡など清水寺支持勢力の文書も含まれる。
 最も年次が早いのは天文6年10月28日の後奈良天皇綸旨案で、旧規に任せて清水寺を左座としている。なぜか、杉山氏はこの文書を目録には加えられなかった。天文14年から訴訟が始まったとの立場であるからであろうか。この綸旨案には別案が「孝親卿記」天文5年御教書案にみえることが、編者により記されている。年次が1年違うが、綸旨の奏者となった中山孝親の記録にも残っており、実際に出された綸旨であったことが、ここからもわかる。
 次いで、鰐淵寺には残されていなかった「鰐淵寺初答状」がある。その主張の概要は、これを批判した「清水寺二問状」により知ることが可能だったが、「清水寺初問状」への鰐淵寺からの批判を知ることが出来る。経久の時代から常に鰐淵寺が左座であったことを主張し、先年の読経の際に、2日ほど遅れて参加したが、その際も左座が鰐淵寺のために空けてあったことを述べる。ただし、この点について三問三答の中では事実であるとは認められなかった。
  次いで晴久の代には、天文14年になって初めて清水寺から異論が出されたが、結論は出されず、法事における対座もなくなったとする。また、清水寺が以後、自らが左の後座、鰐淵寺が右の後座であり、このことからも清水寺が左座であったことは明らかであるとするのに対して、後座の左右は本座ではないので本座で清水寺が左座であった証拠にはならないとする。
 前年の天文24年2月の対立についても、晴久のもとで対決し勝利したという清水寺の主張に対して、淸水寺側が証拠として天文6年の後奈良天皇綸旨を持ち出してきたので、勅裁に背くのは難しいとして、裁判に出なかったとする。そして、天文6年の綸旨を無効にするため、上洛して新たに鰐淵寺を左座とする後奈良天皇綸旨を獲得したのである。 さらに、清水寺が左座であることは出雲国では定着しているとの主張への反論として、杵築大社での三万部経の時は鰐淵寺が左座であったことを述べ、ともに正しい判断がなされれば、自らが勝利するとして、その主張を結んでいる。
  鰐淵寺が天文6年の綸旨を否定する綸旨を得たのに対し、淸水寺側も天文6年の綸旨に加えて当時の天台座主である梶井門跡の令旨と支持があり、尼子氏は自ら決定するのではなく、両寺が上洛して朝廷での三問三答を行って決着を付けることを求めた。この点について、杉山氏は「山門の裁定を仰ぐ」ことを求めたとされるが、両方が所持するのが綸旨であり、且つ、ともに一方の働きかけに対して出されたものであるので、今回は三問三答で明確な決着を付けることを求めたのである。これを尼子氏が自らの結論を回避したとする評価があるが、尼子氏がどのような結論を出しても、敗訴となった側からの反発が予想され、問題が複雑化するため、明確な決着を求めたのである。

2013年3月11日 (月)

資料の声を聴く?5

 杉山巌氏の「戦国期の山門社会-鰐淵寺・清水寺の座次相論を素材に-」を読んだ。これまで関係史料の年次比定が混乱していたが、これでほぼ整理されたことになる。とはいえ、そこで示された裁判の開始と終了に関する記述には、検討の余地が多い。
 杉山氏は弘治3年5月をもって鰐淵寺勝訴で裁判は終結したとされる。3月7日段階では前年11月の再逆転綸旨の実行を尼子氏に伝えていた鰐淵寺支持勢力が、5月に入り、清水寺勝訴の新たな綸旨が出されたとの情報を得て、そのような事実はないと尼子氏に伝えている。これまでの状況から、これで一件落着とは思われないが、これ以降の史料は残されていない。丁度、応仁・文明の乱の時、第2ラウンドが開始され、その初戦の状況を報じた史料までしか残っていないのと同様に。これについては、弘治3年5月の延暦寺大衆申状を未見であるが、唐突である。判決には直接触れていないが、弘治3年9月29日の玄穎書下では、鰐淵寺が頼っていた安居院が不義があったとして御門徒から召し放たれ、鰐淵寺を青蓮院直参とすることが伝えられており、裁判に勝訴した雰囲気もみられない。
 以上のように終了に関しては若干の留保が必要だが、杉山氏の開始についての記述は、これまでの研究史を踏まえられていないこともあるが、大きな問題がある。井上寛司氏は出雲大社とともに国内の寺院のトップにあった鰐淵寺に対し、尼子氏が清水寺を登用しようとしたがために、この訴訟が起こったとされた。朝廷での訴訟は尼子氏の裁定に不満を持つ鰐淵寺側が提起したとされたのである。これに対して、杉山氏は、尼子晴久が天文24年2月に興行した二月経に際し、清水寺が左座であることを主張したことが原因とされる。その前段としては、天文14年に清水寺が初めて左座を主張したが、序列の明確化はなされなかったとする。天文14年が尼子経久の時代とするのは単純なミスであろうが、鰐淵寺側の主張をそのまま事実として述べている。それでは、この間二転三転する朝廷の判断で、唯一事実を確認して出された弘治2年6月の清水寺勝訴の裁定はありえないのである。
 弘治3年5月以降裁判が鎮静化した理由として、これ以後毛利氏やそれに与同する国人領主との戦いが激しくなる中、尼子氏には一国より僧侶を招いて法会を行う余力は、もはやなかったものと考えられるとされた点も疑問である。杵築大社での万部経読経にみられるように、尼子氏の行う戦闘と読経とは密接な関係を有していたのである。
 天文14年の訴訟についても当然文書のやりとりがあったはずであるが、鰐淵寺側には関係史料が残されていないことにも注意が必要である。清水寺側は尼子氏と毛利氏の合戦で、綸旨など関係史料の大半を失ったが、鰐淵寺側は違うのである。杉山氏の論考から学ぶ点もあったが、訴訟の背景について十分に理解されていないのが問題である。具体的な点は論文を完成する形で述べたい。

2013年3月10日 (日)

3度目の正直

 初期不良で2度も返送したRadeon7770だが、ようやく本日到着した。今回は修理ではなく交換ということだったが、届いたものをみれば今回もボード交換の報告書が添付してある。2度の初期不良でこりたので、販売業者で動作確認後送ってもらったが、一抹の不安も。当初のPhenomⅡ×4はメモリ2GのGtx640で快調なので、新規に自作した3770TにRadeonをセットした。電源を入れても、HDDの動く音のみ。6ピンの補助電源の供給を忘れていたのが原因で、これを修正すれば何事もなく起動した。
 ただし、砂嵐のトラブル時に確認していたが、HDMIではフルHDどまり。Gtx640とは違っていた。ということで、miniDPポートとDVDーIの組み合わせで使うこととする。ただし、そうするとMacBookProを利用するには、ケーブルの変更が必要。おいおい3770Tに作業の中心を移していくことになるか。また、長らくノートPCの中心であったデルのプレシジョン6300Mも出番が減りそう。こちらを使うとMacBookProの出番が少なくなる。
 3770T機も光学ドライブがIDEであったので、かなり前のABIT製のアダプターを利用してみたが、認識せず。次いで、ノートPCの薄型ドライブも試したが、なぜか調子が悪いので、光学ドライブは必要な時にUSBで外付けすれば省電力か。東プレのPS/2キーボードもUSBに変換するアダプターを新規に購入して2台のデスクトップで使えるようにした。ただし、不思議なことにPhenomⅡでは「v」キーを押しても何も反応がない。変換アダプターの問題かと思ったが、3770Tでは普通に入力できるので不思議である。とりあえず、東プレのキーボードも復活。

2013年3月 9日 (土)

因幡国一宮領服部庄(2)

 出雲大社領との比較であるが、宇倍社領服部庄との表現から、宇倍社が左衛門督局とともに領家であったとの説が出されたここともあったが、出雲大社領と同じく、宇倍社の経営のために荘園=宇倍社領が集積されたものであり、一宮である宇倍社の経営に荘園年貢の一部が宛てられる以上の意味は無い。また服部庄は別納の地であった。出雲大社領にも全体を管理する社家のトップに惣検校(神主)がいたが、その支配から独立している別納の地があった。出雲大社領は国司からの寄進地とともに有力在庁官人の開発地が寄進された所領があり、後者が別納の地であった。服部庄は正応3年の東二条院令旨で別納の地とされていたがために、社家の妨げはあってはならなかったが、その一方で「熊乃上分」以下の社用を沙汰することを義務づけられていた。
 ところが正応4年9月には、本家により服部庄が社領に返し付けられたため、替わりに高狩別符を相伝知行することとなった。この東二条院令旨との整合性が問題となるのが
、永仁6年の伏見院宣である。そこでは、東二条院に対して、宇倍宮領服部庄を返すので、社家を管領するようにと伝えられている。錦織氏は「社家が管領すべき」と解釈したために、整合性のある解釈を見いだせなかったが、史料の誤読である。本家東二条院は宇倍社領全体を支配していたが、領家は複数存在し、そのうちの一つ服部庄についてのみ左衛門督局が領家であった。その服部庄が宇倍社の造営のためであろうか、本家東二条院の管轄から一次的に除かれたのである。そのため、東二条院は左衛門督局に自己の管轄にある高狩別符の支配を認めた。その服部庄が造営事業が終わったためか、東二条院の支配下に復帰したため、東二条院が左衛門督にもとの如く服部庄の領家の立場を安堵した。錦織氏のような苦しい解釈をする必要は無いのである。
 徳治2年6月の遊義門院令旨により左衛門督局の支配が安堵されたが、同年7月に遊義門院は急死し、本家は広義門院に替わった。翌3年2月には法性寺前中納言が奉じて左衛門督局への再度の安堵状が院宣で出されている。これを錦織氏は後宇多上皇院宣と理解しているが、雅藤は永仁6年10月には伏見院宣を奉じており、これもまた伏見上皇院宣とすべきである。なお、雅藤もまた嘉元4年の昭慶門院所領目録には播磨国吉河庄竹原村の領家であった。そして吉河上庄と竹原村の前任の領家はともに恵慎上人(出自不明)であった。
 その後、元徳2年3月に左衛門督局が楊梅親盛親に譲り、翌3年3月に本家広義門院がこれを安堵している。この譲与が左衛門督局と楊梅親盛の血縁関係によるものか、本家広義門院の意向によるものかについては不明である。これ以降の歴史については、従来説かれているとおりなので、ここで措筆する。
 

因幡国一宮領服部庄(1)

 出雲大社と同じく一宮である因幡国宇倍社に関する錦織勤氏「因幡国服部庄の伝領に関する基礎的考察」を読んだ。錦織氏の提示された結論についてはほぼ問題がないと感じるが、出雲大社領の問題と併せて考えることにより若干の補足をしたい。
 正応2年(1289)に宇倍宮領服部庄が、順徳院姫宮(永安門院穠子)の死(1279)により領家職が左衛門督局に与えられた。これを認めた後深草院宣が、本家としてのものでなく、朝廷の立場から出されたものとの錦織氏の評価も妥当である。本家は、これをうけて令旨を出した東二条院である。院は西園寺の出身で後深草天皇の中宮となった公子であり、正元元年(1259)の後深草の退位後、東二条院となった。永仁元年(1293)に出家し、嘉元二年(1304)に73才で死亡している。
  その死後、服部庄を含む宇倍社領は東二条院の子遊義門院(姈子内親王、後宇多天皇妃)に譲られ、遊義門院が徳治2年(1307)7月24日に死亡した後は後伏見上皇の女御広義門院(西園寺寧子)が継承した。東二条院と同じく西園寺家出身であったためであろうか。広義門院は光厳天皇と光明天皇を産み、観応3年には北朝の全上皇と皇位継承者が拉致される中、治天の君として後光厳天皇の即位を行い、延文元年(1357)に没している。
  一方、本家東二条院のもとで領家となった左衛門督局は元徳2年(1330)には前大蔵卿楊梅盛親に領家職を譲っている。左衛門督について錦織氏は、従来の説を否定し不明とするしかないとするが、これも編纂所のデータベースで検索すると、ある程度の情報を追加することができる。
 正応6年には国名が不明であるが薦坂庄の領家でもあった(勘仲記)。正安6年の八条院領目録には美濃国鵜沼庄の領家として左衛門督局がみえ、嘉元4年の昭慶門院領目録にも播磨国吉河上庄の領家としてもみえる。このように複数の庄園の領家であったのは、左衛門督局が女院ないしは天皇に仕える女房であったためであろう。
 一方、後醍醐天皇の皇女に「同(今林)尼衆、母遊義門院左衛門督局、為忠女」と記されている。左衛門督局が遊義門院につかえる女房であるならば東二条院のもとで領家となったことは理解できるが、後醍醐天皇の間に子をなすことについては、後醍醐の生まれたのが正応元年であることからすると問題があり、服部庄領家の左衛門督局とは別人であろう。また為忠とは御子左為忠のことと思われるが、これも南北朝期の人物で、適合しない。

2013年3月 5日 (火)

佐陀庄の荘園領主(2)

 この円雅について、保立道久氏「頼朝の上洛計画と大姫問題」(『黎明館調査研究報告』20号)では、後に頼朝側近となる中原親能がその家人であった源雅頼とその一族に注目された(氏のHP参照)。村上源氏に属する雅頼は寿永3年には頼朝と九条兼実との間の連絡を行っている。また、八条院とも密接な関係を持ち、雅頼は八条院領相模国前取社を支配し、その子兼忠は八条院から御給を受けている。そして保立氏は手鑑『湖山集』中の2通の書状を八条院関係文書として紹介し、そのうちの1通の差出人「円雅」を雅頼の兄雅綱の孫で比叡山の僧侶になっている円雅であると推定し、さらにこれが安楽寿院領出雲国佐陀庄と大和国宇多庄を支配する「律師円雅」ではないかとされた。
 花山院兼雅の子と源雅頼の甥、いずれも魅力的な説で、それなりの根拠があるが、どちらの可能性が高いであろうか。そこで編纂所データベースに伺いを立てると、「大日本史料総合データベース」で「円雅」が13件ヒットした。先に述べた「狛僧正」もそうだが、このデータベースには綱文・書目・索引・本文の4種類があり、索引以外は「0」回答であり、最初に表示される綱文がゼロでも、よくよく注意が必要。古記録・鎌倉遺文・中世記録人名索引などでも検索してヒットしたものも、この13件に含まれ、具体的情報がわかるのは興福寺僧円雅、園城寺関係者円雅(肥前守藤原為実子)の2名である。
 元久元年12月14日に九条良経(兼実二男)が八条院御所に渡住み、太政大臣に補任された大饗を行い、続いて23日に氏寺興福寺に参賀した際の記録に「興福寺僧名」の中に「権律師円雅」がみえる。保立氏のいう比叡山関係者ではなく、興福寺僧の円雅がその後昇進して「律師円雅」となった可能性が高い。花山院家と源氏の両者とも九条家との関係が深いが、実際に兼雅妻(清盛女子)が八条院領を支配している点と兼雅女子が九条兼実の嫡子で22才で早世した良通の妻である点から、現時点では佐陀庄領家「律師円雅」は石井説である花山院兼雅の子である可能性が高い。安楽寿院領は大規模庄園として知られる八条院領を構成する中核的庄園であったが、出雲国では来海庄も八条院領の中の歓喜光院領に含まれていた。鳥羽院の皇后美福門院が永治元年(1141)に建立した御願寺である。
 最近は更新もままならないが、「調べてみれば見るほど‥‥」と久しぶりに感じた。本日のところでアクセス数が8万を越えそうであるが、今後も更新したい。

佐陀庄の荘園領主(1)

 佐陀社については、康治2年の太政官符により上総国橘木社とともに、「領知之輩等」が後代の妨げを断ち当時の煩いを省略するため安楽寿院に寄進したことが記されている。 佐陀社は文永8年の史料に280町とされる出雲国最大の庄園で、秋鹿郡と島根郡にまたがる地域を四至として囲い込んだものであった。安楽寿院領は後の八条院領の中核をなすもので、鳥羽院の御願寺としての安楽寿院が完成した保延3年から15年間に10ヶ所以上の庄園が新たに立庄されたが、その中に佐陀社も含まれていた。同時に成立した上総国橘木社に注目すると、藤原通憲(信西入道)の子孫が領家として支配を継承している。信西といえば後白河との関係がよく知られているが、早くから鳥羽天皇の中宮藤原璋子(待賢門院)に仕え、その後、鳥羽院の判官代にもなっている。佐陀社は実質的に鳥羽院領として立庄されたのである。こうした点については石井進氏「源平争乱期の八条院周辺」に詳しい。
 鎌倉初期に佐陀社領家として確認できる「律師円雅」は花山院(藤原)兼雅の子である。兼雅は平清盛女子を妻としているが、信西の子成範もまた清盛女子を妻としていることが注目される。兼雅は平氏政権下で昇進を重ね、寿永2年には源(木曽)義仲により一旦官職を追われるが、文治3年には後白河院の信頼により復帰し、死亡した正治2年には左大臣の地位にあった。そして兼雅妻(清盛女子)も八条院領讃岐国多度庄と但馬国水谷庄を支配していた。

2013年3月 4日 (月)

益田庄の庄園領主2

 一方、益田庄は元亨4年(1324)12月に、円満院宮令旨を施行した領家中納言上座御房御教書により年貢については先例に任せ沙汰すべしとの命令が、小弥冨沙汰人百姓等中に出されている。同年4月には、益田庄雑掌頼秀が小弥冨地頭が年貢を納めないことを幕府に再度訴えたことに対して、六波羅探題が地頭(永安)弥次郎に対して先の下知状に任せ、早急に年貢を弁済することを命じている。前回の幕府の命令に小彌冨地頭は応じていなかったが、再度の命令とともに沙汰人に伝えられたのであろう。
 問題は九条家領から円満院宮領となった経緯であるが、それを考える材料として、久留島氏により紹介された文永6年4月12日法橋範政書状(益田金吾家文書)がある。この書状は益田本郷津料・浮口という権益でも注目されるが、「長盛」という人物からの権益の主張に対して、範政が益田本郷は狛僧正の所領であったが、狛僧正が最近入滅(死亡)したため、長盛に所領を進めたことを確認し、長盛の主張は正統なので、宛所を欠くが、幕府に対してであろうか、急ぎ御尋有り左右を申さるべしと伝えている。
 文書の性格についてわかりにくい点があるが、益田庄が狛僧正から長盛へと継承されたことがわかる。長盛については不明だが、俗人ではなく僧侶であろうか。狛僧正については、史料編纂所の大日本史料データベースで検索すると、なんとかそれらしい人物がヒットする。それは仁治2年に園城寺長吏となった狛僧正道智である。道智もまた九条道家の子であるが、その前任者がその師であった道誉である。治承4年(1180)に皇嘉門院は兼実弟高野兼房に益田庄を譲っているが、道誉は兼房の子で、益田庄を譲られ、次いで弟子である道智(狛僧正)がこれを継承していた。その後園城寺長吏は皇室関係者が続くが、7世後の長吏が後嵯峨天皇同母兄である円満院宮仁助法親王である。円満院は天台宗寺門派園城寺の三門跡の一つで、摂関家や皇族の関係者がその地位を継承しており、元亨4年段階の円満院宮とは皇族関係者である伏見院の子尊悟法親王ないしは、後二条院の子尊済法親王であろう。両者ともに園城寺長吏に就任している。狛僧正道智は師道誉と同じ「禅林寺」とともに「常喜院」を号しているが、尊済法親王もまた「常喜院宮」とも呼ばれている。こうした点を勘案すると、益田庄は九条家出身の道智をへて後嵯峨院関係者の円満院宮に受け継がれ、その後は大覚寺統系の円満院宮(亀山子性覚-後二条子尊済)が支配したが支配したとの想定もできる。といいつつ矛盾するが、正慶元年6月16日の円満院宮入道尊悟親王令旨(正伝寺文書)を奉じている法眼某の花押と、元亨4年の領家某の花押には類似性がみられ、あるいは同一人物であろうか。これまた花押カードデータベースのなせる技である。

益田庄の庄園領主1

 益田庄については、大家庄と同様、摂関家領として成立し、後に藤原忠通の娘で崇徳天皇中宮となった聖子(皇嘉門院)の所領となった。皇嘉門院は、保元の乱による崇徳の讃岐国への配流と父忠通の死後は、猶子としていた異母弟九条兼実の後見を受け、父忠通から譲られた所領を、兼実の嫡子良通を猶子として譲った。
 その中に益田庄と大家庄も含まれていたが、大家庄の場合は、安元2年(1176)に領家職が兼実との間に良平を生んだ女性の父藤原頼輔(皇嘉門院と兼実に仕える)に与えられている。本家職は良通が文治4年(1188)に急死したこともあり、兼実の意向により元久元年(1204)には、娘で後鳥羽の中宮となった宜秋門院に一期分として譲られ、その後は良経(良通の弟。兄の死で惣領)の嫡子(兼実嫡孫)九条道家が領有することとした。暦仁元年(1238)に宜秋門院が亡くなると、兼実と頼輔娘の間に生まれた良平により、大家庄を含む荘園と本尊・聖教・文書が、兼実の遺戒に基づき九条家の祈願寺で良平が建立した成恩院に寄進された。成恩院の持つ権利については領家職であるとの説があるが、九条家惣領道家の惣処分帳にはみえず、本家成恩院のもとで、その関係者が領家となったのではないか。
 成恩院については、 良平の子良禅と最源(77世天台座主)が管領し、次いで九条道家の子で幕府将軍となった頼経の子源恵(97世天台座主)、二条師忠孫道潤(101世天台座主)、一条実家の子澄助(110世天台座主)、後醍醐天皇孫良恵(小川宮僧正)をへて、再び天台座主となった一条経通の子慈済(140世、14世紀末)に譲られている。良恵と一条経通は母親が姉妹であった(門葉記)。良恵を除けば、九条兼実の子孫で天台座主となった人物が継承している。そのもとで関係者が領家となったのであろう。
追記:初出では領家を難波頼輔としていたが、別人であり訂正した。題名も「荘園」から「庄園」に修正。

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