koewokiku(HPへ)

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2013年2月

2013年2月18日 (月)

出雲大社の本家と領家(5)

 問題はその時期であるが、正応5年(1292)に幕府は国造泰孝が神主職と造営に関して神主実政を訴えたことについて、泰孝を神主に補任するよう領家廊御方へ申し入れるように、六波羅探題に命じている。弘安4年3月には国造義孝が過去の造営の経緯を記して国造兼神主でなければ造営・遷宮を遂げることはできないとの注進状を提出しているので、この時点で再び惣検校職をめぐる対立が生じたのではないか。ついで弘安8年に新領家から所領を与えられたことは前述の通りであり、この時点では惣検校職を得ていたと思われる。ところが、正応5年以前に再び実政が神主となり、国造泰孝がこれを幕府に訴える事態となったである。
 これにより泰孝が神主となったことに対して実政は越訴をしたが、永仁5年には退けられている。これが「実政」であったことが確認できる最後の史料である。②がそれ以後の史料であることは確実である。①も②に関連するもので、そう離れた時期とは考えられず、これも永仁5年以後のものであろう。すなわち、神主職の裁判で敗れた実政は、今度は領家中納言僧都の祗候人となり、預所(雑掌)の地位を得て、国造に対抗したのであろう。延慶2年(1308)には雑掌孝助による社領押領を国造孝時が訴えているが、この孝助も実高の余類とあり、②の実孝の跡を受けたのが孝助であろう。そのため、②は延慶2年以前のものとなる。
 以上のように永仁5年の裁判で敗れた実政が領家雑掌(預所)となって国造に対抗した
(①)のに対して、国造が雑掌による社領押領を訴え、今度は神主職と社領に関する裁判が開始されたのである。神主職については正和3年に国造側の主張が認められたが、所領については訴訟が建武の新政を挟んで続けられていた。

出雲大社の本家と領家(4)

 ところが文永7年に出雲大社本殿が焼失した後、その再建が課題となる中、事態は変化してくる。文永12年正月に領家が惣検校に再度義孝を補任した際の下文によると、造営が遅々として進まなかったため、泰孝父義孝の復帰となっている。また、文永9年には国衙目代と在国司(朝山昌綱の死により長田西郷地頭でもある昌元が継承)の狼藉を国造義孝が訴えている。さらに建治2年に義孝を惣検校に補任した領家下文によると、子泰孝の神主職補任後、以前惣検校となったことのある実(真)高の子実政からの働きかけをうけて、一旦、実政が泰孝に替わって惣検校(神主)となり、国衙目代らとともに造営にあたったが、領家への不忠があり実政は解任された。これにたいして父実高が起請文を提出して惣検校職を継承したが、造営遷宮旧記を所持しないため、造営は進まなかった。それに対して泰孝父義孝が、幕府の後押しを受けて目代・在国司と実高を訴え、惣検校職に返り咲くとともに、国衙に対して国造とともに造営にあたるように命じた院宣も獲得した。
 これで国造が再度惣検校を確保し、弘安8年には本家の交替とともに領家となった「御房」から阿語・太田郷の知行を認められたが、実政側が反撃に出たようである。
 ①年未詳5月25日の領家中納言僧都奉書では、細引・桑原田沙汰人に対して御代始の検注米の代用途を納めるように命じているが、実政が奉者をつとめている。関連してやはり②年未詳10月28日沙弥法願書状では、幕府からの問い合わせに答えたのであろうか、この5月25日状の正文を提出している。その中で、実政は元の名前で当時は実孝と改名しているが、実政が中納言僧都の祗候人となり、預所職となって沙汰人中に命令を遣わしたことが説明されている。この2つの史料は『大社町史』に、前者が「建治元年カ」とされ、後者が、その関連文書として続けて収録されている。

出雲大社の本家と領家(3)

 神主実政とは、出雲実(真)高の子で、実高は貞応3年以前に権検校として登場する。承元2年に惣検校の権限を分割して権検校が新設され内蔵孝元が補任されたが、国造政孝は承久の乱の影響であろうが、これに替わった実高に不満を抱いており圧力をかけた。これを権限の逸脱とみた領家は国造政孝を惣検校から解任し、天福元年以前に実高を惣検校に補任している。ところがこの実高が刃傷狼藉に及んだとして、貞応3年6月には領家が内蔵孝元を惣検校に補任している。
 これに対して政孝の子義孝は、出雲大社の造営・遷宮を契機に巻き返し、旧記を持たない実高では無理であるとして文暦2年(1235)には惣検校に返り咲いている。そしてその2年後に領家藤原家隆が亡くなったこともあり、国造が惣検校を安定的に確保することが可能となった。弘長2年12月に義孝が泰孝に国造職と惣検校職を譲っているが、これが現在残る国造譲状で正しき文書と確認できる最初のものである。これ以前の譲状は記された年紀より後に作成されたもので、その内容は要検討である。
 一方、康元元年には領家が派遣した惣検注使証恵と国造義孝により出雲大社領の注進が行われており、その契機としては新たな領家松殿兼嗣の本格的支配が開始されたことであったろう。文永2年3月には、惣検校職について義孝が相伝に任せ関東御下文を申請することを、領家が認め、8月には幕府が父義孝譲状に任せ子泰孝の神魂社領大庭・田尻保地頭職を安堵している。次いで文永5年正月には領家兼嗣が泰孝を神主職に補任しており、国造による惣検校職の確保を領家が認めた形となっている。

2013年2月14日 (木)

出雲大社領の本家と領家(2)

 本ブログでは久々の「中世史」であるが、そのきっかけは嘉元4年と翌徳治2年に「信照」なる人物が出雲大社領千家村を「五辻殿」へ一期分として譲り、その後は「大姫宮」へ進め、さらには大姫宮の後は惣領へ返すことを述べている(歴博所蔵田中家旧蔵文書、これについて画像を歴博のHPでみることができる)。井上氏による中世出雲国関係史料目録にもリストアップされておらず、新出史料である。問題は「信照」であるが、その花押は松殿兼嗣のものと一致し、出家後の兼嗣の法名であることがわかる。これにより、この時点で兼嗣が出雲大社領家の地位に復帰していることがわかる。
 兼嗣は弘安6年まで領家の座にあったことが確認できるが、弘安8年には「御房」が阿語大田郷の知行を国造に認めており、領家が交替したことがわかる。出雲大社惣検校の地位をめぐって領家兼嗣と国造義孝が対立する中、幕府と結ぶ国造は本家に働きかけたと思われるが、領家が交替した背景には本家の交替があったのではないか。
 出雲大社領の本家は土御門院の死後母承明門院が継承していたが、院も正嘉元年(1257)に死亡している。問題はその後継者で、土御門の子後嵯峨天皇がいるが、弘安6年~8年の時期に本家が交替したと仮定すると、後高倉院領(その中心は八条院領)と同様に、後高倉の子安嘉門院が継承したのではないか。この安嘉門院が弘安6年9月4日に死亡しているのである。そして後高倉院領とともに、出雲大社領は大覚寺統の亀山院の支配下に入り、それにともない「御房」や「廊御方」のように大覚寺統系の領家に替わったと考えられる。その後の本家職は亀山の後継者後宇多院をへて後醍醐天皇と継承された。昭慶門院(亀山女子)領にはみえないのである。これに対して兼嗣側は出雲大社領領家は自らの相伝の職であり、本家が交替しても継続されるべきと主張し、領家(出雲大社領の半分か全部か)に返り咲いたのであろう。
 これに対して前述のように、後嵯峨の子宗尊親王(承明門院の養子となったことがあった)の女子である永嘉門院が権利を主張し、元亨3年に後醍醐側がこれを認めたのである。この間、領家は「御房」(これについては後で詳述)の次の領家として「廊御方」が登場する。「廊御方」とは花山院通雅養女で、亀山院皇子兼良親王の母で、亀山院の知行国讃岐国の山田郷と太田郷の領家でもあった。ところが、永仁3年には前領家松殿宰相中将殿が廊御方を訴え、幕府で相論が展開している。また、正応5年には出雲国造泰孝が大社神主実政を神主職と造営について訴え、幕府は廊御方に泰孝を神主職に補任するよう、六波羅探題に命じている。

出雲大社領の本家と領家(1)

 この問題については、出雲大社領本家が室町院ではなく、大覚寺統系の人々であり、それが元亨3年に承明門院跡を継承した永嘉門院の支配が認められたことを明らかにした。
また、従来「本家」として領家松殿兼嗣と対立したとされていた「廊御方」が兼嗣に替えて補任された領家であることを明らかにするとともに、井上氏が示された12世紀半ば過ぎに領家が先行して成立し、同世紀末に領家藤原光隆が後白河院に寄進することで本家が成立するとの2段階の説が成り立たず、領家が成立した段階で本家も成立したとの説を主張した。井上氏は鎌倉幕府成立に伴い幕府が出雲大社惣検校を国造出雲孝房から幕府と関係の深い内蔵資忠に交替させたこと(介入)に対抗するため、領家藤原光隆から後白河院への寄進がなされたとされたが、内蔵氏も出雲氏の一族であり、その惣検校補任は幕府からの要請を受けた領家が行ったもので、幕府と領家の関係を対立と捉えることはできないとした。
 ところがその後発表された井上寛司氏の研究では、論者が指摘した点を認められながらも、それを踏まえて本家職がどのように成立・継承され、領家職とどうかかわったかについては再検討がなされなかった。また佐伯徳哉氏の近年の論文では、文治年間に後白河院領荘園化がなされたとして井上氏の旧説が踏襲されているが、論拠は示されない。また、正応5年に幕府は領家である「廊御方」に対して、出雲大社神主実政を退けて国造泰孝を神主とするよう六波羅探題に命じ、次いで永仁5年には六波羅探題が神主に関する実政の越訴を退けたことを国造に伝えているが、佐伯氏はこれにより国造と出雲大社との関係を脅かす者は姿を消すとされたと評価される。ところが南北朝初期まで領家雑掌となった実政の後継者孝助との訴訟や対立が続いていることとの関係が捉えられていない。実政について佐伯氏はこれも井上氏の旧説と同様に「中原実政」とされるが、その父真(実)高については領家の補任状で明確に「出雲真高」と記されている。
 さらに正和3年に松殿宰相入道兼嗣が出雲大社の下にあった日御崎社検校を補任しており、兼嗣に替わって領家となった廊御方との関係も問われなければならない。以上を踏まえ、荘園としての成立と本家と領家の問題について、その後の知見を踏まえて再検討したい。

2013年2月10日 (日)

選択の自由

 PCの更新どころではなかったはずだが、radeon7770の活用ということで、HDDとケースは過去のものを流用するとして、組み立てた。マザーボードとCPUの外観を含めて、あまりにも変わっており、とまどいながらの作業だった。一番の心配はまたしても初期不良にぶちあたればどうしょうという思いであった。なんせ、最近のPCの知識が決定的に不足しており、行き詰まるとネットで検索して行った。
 性能がほどほどなら、2万5千円+OSで可能であったが、3770Tを選んだがために、5万円弱となった。通常版が77Wであるのに対して45Wで、省電力である。ただし、バルクのみでCPUクーラーが必要で、且つ設定に自由度の高いマザーボードを選んだ。CPUクーラーはファンが縦置きのものとした。通販で値段は安いがおすすめとなっていたが、到着してその大きさに驚いた。AMDのフェノムⅡは95W版であるが、そのクーラーより遙かに大きい。その分、CPUの温度は20度台と低い。OSはウインドウス7から8へのアップグレードとしたが、実質的にクリーンインストールである。その上に、とりあえず一太郎2012(2013についてはパスの予定)とマイクロソフトオフィス2013をインストールした。その他については思案中。
 表題は、今日の中国新聞の読書欄で紹介されていたもの(ケント・ウィンフィールド著)。権利と義務についてあらためて考えさせられる。選択の自由といっても、十分な情報がないままに選択させられている。両方とも形式的ではなく実質的平等が実現されなければならないはず。すなわち、弱者の権利と強者の義務が優先されなければならないが、実際には強者の権利と弱者の義務が優先されかねない状況が、今の日本だ。権利を享受するといってもデジタル・デバイドを含め、情報を独占する強者が権利を主張・実現している。これに対して弱者には権利を利用できるチャンスは少ない。義務はまさに宗教の世界の喜捨と同様、その能力に応じて求められるのに、現在の強者は形式的平等を主張する。
 オフィスについては、2010はすでに購入していたが、無償アップグレードのため、買い足して、インストールと認証をし、無償アップグレードの手続きをしていたので、マイクロソフトから発売日にメールが届いた。ウィンドウズ8については、予告されていたとはいえ、アップグレード版の値段は実質3倍近くとなった(最も安価なダウンロードはなくなったので、DVDを購入するしかない)。ところがその一方で、DSP版は値下がりをしており、現時点ではDSP版(7からならアプリを残してアップグレード可能だという)を購入したほうがよい。マイクロソフトとしては、新規にPCを購入させたいのだろうが、あまりに値段の差が大きすぎる。アップグレード版には32ビット・64ビット版の両方が梱包されているが、当然、一方(アップグレードの場合は前のOSに準じる)のみの利用である。結論としては、アップグレード版の値段を下げるべきである。
 現在は3770Tのグラフィックを利用しているが、なぜかドライバーを更新してもウィンドウズ8のエクスペリエンスのグラフィックの値が低い。マザーボードにディスプレイポートのあるものを選んだが、HDMIではHDまで、DVIではWSXGA+までであり、DPでのみWQHDが利用できる。その意味ではradeon7770が必要なのはマルチモニターかon cpuではさすがにマルチは不可であった。

2013年2月 3日 (日)

やっとでもなかった。

 ボードを交換して帰ってきたradeon7770の利用について考えて無駄な時間をすごしたが、とりあえず動作確認ということでGTX640と交換したら、またしてもということでビデオのシステムエラーを示すビープ―音がむなしく鳴り響くだけで、起動さえしない。自作を長くやっていれば、このような体験は珍しくないのだろうが、新たな自作を考えていたのはいっぺんで吹き飛んだ。 まあ、WQHDはこのAMD機だけでなく、マックブックプロでも可能なのだから、自作は当分お預けか。
 次なる自作を想いあれこれ調べていたが、とりあえずAMD機のHDDのバックアップはしておこう。4年以上使用しており、HDDの故障もありうるので。ということで、7770については、返金になると良いが、業者からはどのような返事がくるだろうか。7770に在庫があれば交換であったが、無いので修理対応となった。ただし、業者のチェックで問題がなければ、故障したままで返送とのことであったあった。今は無きABITのマザーボードは、メモリスロットが1つしか認識されなくなり、当時の松江のPC工房でも確認の上、台湾へ旅立ったが、ABITでは問題なしとしてそのまま帰ってきた。
 今回も業者で故障が確認されたのでサポート(ask)の方でボード交換し返送されてきた。大変無駄な時間をとられてしまったが、最近のPCの情報を得ることができたのも確かである。

2013年2月 2日 (土)

やっと

 正月にビデオカードの増設でPCが起動しなくなり、マザーボードを交換して復旧したことを述べた。ビデオカードはやはり初期不良であり、今夜には販売店から代品が到着する予定である。ただ、消費電力からGTX640に替えることにした。radeon7700より省電力であり、補助電源もいらない。また、DDR3ではあるが,メモリも2Gであり、ビジネス的に複数台のモニタを使うには、好都合と考えた。さらに言うと、radeonでも可能かもしれないが、PB278Qとの組み合わせで、HDMI接続でもWQHDが可能なようであったから。
 とりあえず取り付けると、最初はマザーボードの「オーバークロックが失敗した」という表示でとまってしまう。キーボードもきかないので、とりあえずは以前使っていたトプレのキーボード(MD0200)がシリアル接続なので、これに替えると、キーボードを受け付け、正常に起動できた。このマザーボードはオーバークロック機能を備えておらず、なぜUSBキーボードを受け付けないかも不明だが、結果オーライとする。最初こそWindows8のスタート画面が最小のモードで表示されたが、すぐにフルHDに変わった。そして画面設定に入ると、WQHDまで設定ができ、まよわずこれを選択した。まさに、このためにディスプレイとビデオカードを更新したのだったが、一転して初期不良の泥沼にはまっていたのだった。WQHDそのものはMacBook-proのMiniDP接続で経験済みであった。この場合は時にPC本体の画面が不要な時もあり、これも設定すればオフにできた。
  問題は7700をどうするかであるが、いずれもせよphenomⅡ×4搭載のデスクトップ
も主役の座を明け渡す時期が来ているということであり、新たなPCをオンボード仕様で購入し、それに組み込みたい。と思っていたら、同時にUSB3.0のボードを組み込んだが、4ピンの電源を差し込むことを忘れていた。これは初体験であるが、スピードが出る分電力を消費するのであろうか。あと、やはりクールマスターのゲーム用よりもトプレの方がキーボードが手になじむ。両方ともジャストシステムから購入したものであるが、最近ではトプレのフルキーボードと91キーボードは扱っているが、MD0200はないようである。

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ