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2012年12月

2012年12月16日 (日)

2012年12月16日

 投票率ダウンの中間状況が伝えられている。確かに「どこの政党・候補者に入れたらよいかわからない」・「どこに入れても変わらない」との声があるだろうが、後者については、投票に行くかどうかで結果が変わる可能性がある。とりあえずは、候補者一人ひとりで判断するしかない。政党についても消去法で選ぶしかない。
 自分自身もまだ投票に行っていないが、小選挙区と比例代表で投票先の政党が異なることは確実である。最高裁判官の国民審査については、違いがあまりわからなかったというのが実感。「行列のできる法律相談所」で明らかとなったように、考え方によって判決・判断が異なってくると思うのが、これまた司法の危機なのだろうか。
  前回の衆議院選挙では「有権者は寝ていて」と発言した政党が大敗した。1960年に「声なき声」という大嘘を言った政治家もいた。実際の政治は「大きな声」が反映され、「小さな声」は無視されてきたが、どんな小さな声であろうと、それが集まれば力とはなる。とはいえ、投票に際しては情報を集めることは絶対必要である。そうしないと、自己の投票の責任が不明確になる。とりあえずは投票に行き、自分が選んだ理由をしっかり憶えておくことこと。これが次回につながる。このブログの趣旨についてはHPの中で述べている。「声なき声」の英訳では「多数の声」とあったが、それを「真実なのに少数の声」を聴くとした。
 小選挙区制が現在の日本人?に合わない制度であることは確かだが、その理由についてテレビで日本人は黒か白かはっきりさせることが苦手であると述べていた人がいた。それならば、ここ2回のような一方的結果にはならないと思う。趣旨は中選挙区で同じ政党から複数の候補が立てばよいとのことであろうが、実際に複数候補を擁立できる政党は限られている。前々回と前回に大勝した政党に投票した人はその判断根拠の検証が求められる。一方、固定票としていつも同じ政党に入れている人も考えなければならない。となるとやはり日本に住む人のほとんどは考え方を根底から変える必要がある。現在は、それほどの危機的状況なのである。

2012年12月 9日 (日)

尼子氏の全盛期は晴久の時代?

 この点については以前「尼子氏の支配と新宮党富田衆」という題で話した際に、肯定的に述べたことがあるが、現時点では問題を感じないわけでもない。天文9年~10年にかけての安芸・吉田攻めが失敗して、翌年には大内氏による出雲攻めがなされたが、その際に出雲国の西部を中心とする勢力の大半が大内氏方となった。その理由は、尼子氏による圧迫に対する不満であった。塩冶興久の乱とその失敗も大きいが、そもそも興久の乱も同様の不満から起こっていた。
 享禄3年の3度目の万部経読経で完成されるはずであった経久の支配に対する反発が興久の乱という形をとった。その後、尼子氏はしばらくは宥和策をとるが、経久から詮久に代替わりをする時点で、再度の体制強化と国外遠征が行われた。国外遠征は主に尼子直属の富田衆により行われたようであるが、それは国内の所領や国人にも有形無形の負担となった。そしてそれに続いて、国人を総動員する形で安芸・吉田攻めが行われたのである。これに対して大内氏の出雲攻めが開始されるまでにはある程度の時間があり、尼子氏側も体制を整える余裕があったにもかかわらず、多くの国人や寺社が離反した。
 大内氏が敗退した後、尼子氏は荷担した国人・寺社に対する制裁を含めて体制を立て直していくが、それは力づくのものであり、国人・寺社の不満は解消しなかった。そのことを示すのが、天文18年に北島家国造雅孝が死亡した際の混乱である。
 永正2年の尼子氏による塩冶氏攻撃により、塩冶氏と結んだ国造家や古志氏も打撃を受けた。両国造家は尼子経久の娘との婚姻関係を結ばざるを得なかった。千家国造家では尼子経久の孫(男子)は誕生しなかったが、北島国造家では後継者となる男子が生まれた。ただし、継承する直前に17才で死亡したとする。大永4年に国造雅孝が国造を妻である御上に譲ったのは、その直後のことであったと考えられる。その後、雅孝は後継者として娘聟である高浜秀孝を指名していたが、雅孝が死ぬと、雅孝の甥である稲岡弥三郎と北島小太郎が反秀孝連合を結んでこれに対立し、宍道氏もこれに荷担している。
 宍道氏も尼子氏娘と結婚し、その子は大内氏に荷担して出雲国を離れて山口へ逃れていた。この不満が宍道氏の反尼子氏の行動と関係していよう。これを尼子氏の支配体制の不安定さと解釈できる。

2012年12月 2日 (日)

人間の壁

 それにしても安倍氏、石破氏といった政治家の発言のなんと軽いことか。もっと勉強してほしい。仮に頭脳明晰であったにしても人間には限界がある。それを知るには囲碁を打ってみればわかる。ところが両人の発言にはそれがみじんも感じられない。もうマイナスの評価が下ってしまった人しか候補者がいないというのは深刻な問題である。
 大学時代のクラス担任であった、近代ドイツ思想史の専門家の某氏はどうされているかと、久しぶりに検索してみる。こちらが卒業して以後、日本の大学2校を経て、最後の10年はドイツの研究機関に勤務し、退職後日本に帰って生活していらっしゃるようだ。原発全廃をきめたドイツの実態を踏まえて発言している。たまたまがじっただけで、無責任な発言(理解していないからこと発言できるというのは、小泉氏と同様、真理であろう)をしている前出の2氏とは大違いである。ただ、写真からみる限り、年を重ねられたことが分かる。
 氏は東日本大震災時の菅首相について評価している。他の人、たとえば何も情報も理解のない前出の2人なら大変だったことは間違いない。ところが、日本はマスコミを通じて誤った情報が垂れ流されたまま、訂正もされない。安倍氏もガセネタに飛びついてでたらめを言ったことへの反省は全くなく、まさに過去の人である。職場の同僚も菅氏については、評価が低いが、さきほどいった事故発生当時の対応は、他の誰が首相であった場合より、良かったと評価すべきである。
 とはいえ菅氏が小沢氏をだしにして内閣支持率を上げようとした点は全く評価できない。本当の意味での政界再編がなければ、この国の存在意義は失われてしまう。野田・前原氏なども分類すれば保守的領域の人であり、それとリベラルの2つの軸が必要である。国の規模や気候条件などの環境からすると、教育立国がこの国の特色を生かしつつ世界で役割を果たしていく唯一の道で、原発から新たな体制への移行でも先導的役割を果たせると思うが、現在の「子どもの貧困」を放置するのは愚の骨頂である。 

宝治元年出雲大社神官解(6)

 宝治元年出雲大社神官解状は、その内容だけでなく、署判者とその序列を知らせてくれる。これに同年出雲大社遷宮注進状からわかる人々の役割と序列を合わせると、その内容はさらに豊かになる。さらに、出雲大社には康治元年から久安元年までの仮殿と正殿遷宮の記録も残っており、宝治2年と比較すれば、鰐淵寺の役割の有無、承久の乱が出雲国在庁官人に与えた影響の深さなどさまさまな変化を知ることができる。
 歴史を一つの視角からみることによって、これまで見えなかったものがみえてくることは当然であるが、逆にそれでかくれてしまうものも見ないと虚像を描いてしまう。分析には視角が必要であるが、それを踏まえて最後は総合的にみる。石井進氏やその先達であった佐藤進一氏などは、そこまでして初めて論文を成稿されたと思う。
 そのことによって作業としては完結する。一つの視角からの論文を否定はしないが、それは中間報告にすぎないことを忘れては進歩がない。それをふまえて、多方面の分析や関連資料の意味をつかんではじめて、論文は完成するのである。ただ、その論文にしても、残された課題の認識がなければならない。
 とりあえずブログとしては800本目の記事となった。最近は仕事に追われ、学校以外の仕事は後回しとなっているが、新たな何とか課題を見つけていきたい。そのためにも、歴史以外のことをもっと勉強しないと。
 

 

宝治元年出雲大社神官解(5)

 論者は1981年の「鎌倉期出雲国の地頭に関する一考察」の中で、甲斐三郎左衛門尉が藤原為佐の子為成であることを明らかにしており、この論文の中でも出典としてあげられている。なぜ、このような評価となったのか不可思議である。地頭為佐が解任されるはずもなく、その地位は子に継承されている。当初の事実誤認とは以上のようであった。それが、再度関連史料を読むと、鰐淵寺は地頭為佐のことなど問題にしていないことが明白である。問題なのは地頭代孝綱である。なぜ、鰐淵寺側は孝綱に激しい敵意を抱いたのであろう。
 国富郷は鎌倉初期に国衙により鰐淵寺領とされたが、その際、鰐淵寺側は国富郷に対して前向きでなく、国司関係者は、なぜ一円ではなくあえて散在を望むのかと批判をしている。この点については、井上氏の論文で述べられた点である。ここからが論者の考えであるが、鰐淵寺側は散在の地を望んだのでもなければ、一円を拒否したわけでもない。ひとえに国富郷を望まなかったのである。なぜなら、国富郷を支配していたのは出雲大社惣検校にもなった内蔵孝元(あるいはその父資忠も)であった。孝元は権検校となった際にも、年貢の抑留が問題となり、すぐに解任されている。国富郷地頭の地位も同様に、建保4年(1216)には鰐淵寺の訴えにより、同族の孝幸に交代させられている。
 鰐淵寺側からすれば、内蔵氏による年貢抑留や預所所従への濫妨行為は予期できたことであり、それだからこそ国富郷以外の地を望んだのである。宝治元年の地頭代孝綱もその名からみて、内蔵氏であろう。鰐淵寺は内蔵氏そのものの交代を実現するために、三月会の問題を利用しようとしたのである。承元2年には国内数カ所の地頭となった内蔵孝元とその一族は、承久の乱の結果、地頭の地位を失った。ところが新たに入部した東国御家人のもとで地頭代の地位を確保したのである。同様の例は、石清水八幡宮から年貢抑留を訴えられた三処氏が、地頭職を六波羅探題北条時輔に寄進し、地頭代となったことがある。
 内蔵氏はなぜ地頭の地位を失いながらも、地頭代となりえたかが問題であるが、宝治元年の出雲国衙の庁事勝部広政の場合も、本領である平田保地頭の地位は東国御家人多胡氏に奪われている。法吉郷についても同様である。内蔵氏領の場合も東国御家人が地頭となったが、その一方で地頭代などの地位を維持しつつ、内蔵孝元は天福元年(1233)には杵築神主出雲真高解任後に神主・惣検校に一時的にではあるが返り咲いているのである。
 出雲国では鎌倉初期に地頭が設置されながら、代官の非法で地頭不設置となった加茂庄の例はあるが、一般的に地頭そのものの交代という例は少なかったと思われる。鰐淵寺の求めた地頭代孝綱の交代ならありえたであろうが、新たな地頭代が非法をしないという例もほとんどなかったであろう(とはいえ、三月会をだしに代官の解任を求められたのでは困るという事情もある)。ということで、強引に論を進めていくのでは、真理から離れる一方であり、「資料(文書)の声を聴く」ことの重要性を再度確認したい。

宝治元年出雲大社神官解(4)

 なかなか本論に入れないが、宝治元年解状について、「出雲国支配秩序の構成」を明らかにする立場で分析した論文での事実誤認が、最初に読んだ時点から気になっていたが、最近読み直すとその誤読の程度は当初よりも深いことに気づかされた。黒田俊雄氏による権門体制・顕密体制を出雲国で検証しようとしたのであろうが、先入観が強すぎて正しい理解を不可能にしたのであろう。黒田氏の提唱はそれまでの通説を再検討するための重要且つ有力な視角ではあるが、それそのものが解答ではないのである。
 ところがそのように誤解している人が関西には近世史家を含めて多い。石井進氏はひとこと黒田氏の説は「難しくてわからない」とされた。あの人ですらである。石井氏は論文では中世前期に黒田氏の説かれるような明確な枠組みがあったのかどうかを問題とされたが、それが正解である。一つの見方ではあってもそれ以上ではない。井上寛司氏も黒田説を継承する中で、地域支配にこそ権門体制があてはまるとされたが、それはある意味「当たり前のこと」で、強いて云うほどのことでもないというのが、論者の見解である。従来の領主制論、在地領主のみを歴史の中心的担い手と考える立場への批判としては有効であるが、それ以上ではない。
 事実誤認を確認すると、宝治元年に鰐淵寺が来年の出雲大社三月会の頭役が国富郷の負担である中で、国富郷地頭大宰大弐為佐の地頭代孝綱のこれまでの非法を問題とし、これでは三月会で鰐淵寺が行う役割は勤められないと主張し、それを受けて杵築大社側が鎌倉幕府に訴えたのである。その後の結末は不明ながら、文永8年の国富郷地頭が「甲斐三郎(「左衛門尉」が欠落)」とみえており、「この間に同郷地頭が改補されたことを示唆している」と述べて、権門間の調整をへて地頭の交代に至ったと評価したいでのあろうが、最低限、大宰大弐為佐と甲斐三郎左衛門尉の関係は確認が必要である。

宝治元年出雲大社神官解(3)

 解状に戻ると、署判者にみえる「三前検校日置正安」こそが当時の日御崎社検校であり、日御崎社が出雲大社の支配下にあり、幕府から直接地頭に補任される立場になかったことを明らかにしたのである。併せて、日御崎社検校を出雲大社領家藤原兼嗣が補任した文書についても、花押の一致から明らかにした。
 問題は署名順であり、最後に惣検校出雲義孝が署名しているように、末尾の署判者ほど地位が高い。その意味では三前検校日置正安は12人中10番目に位置したことがわかる。上位7人中6人が出雲氏である中で、惣検校と権検校の次に署判を加えている藤原政泰が注目される。宝治元年の出雲大社遷宮の記録には、なぜかみえず、代わって「右兵衛尉藤原盛康」がみえるが「やす」の共通性から同族であろう。藤原氏は12世紀末の時点で、出雲国在庁官人の中では勝部氏と中原氏に次ぐ地位を占めていた。有力在庁官人の多くが没落した承久の乱後(建長元年)においても、中原氏は没落したが、勝部氏と新たに登場した平氏に次いでやはり3番目の地位を占めており、出雲大社神官藤原氏もその一族である可能性が高い。そして出雲大社神官で藤原姓を名乗るのは神魂(伊弉冉)神社の秋上氏である。
 秋上氏についても正確な系図は残されておらず、且つ15世紀後半にそれまでの惣領家が北島氏から解任され、同族で清水を名乗る一族があらたな惣領となっている。また、系図では、北島家への貢献により浄音寺が建立され、その子孫が北島氏から出雲大社領と大庭・田尻保で権益を得た権次郎の一族(庶子とされる)は15世紀半ばに断絶し、その権益を惣領秋上氏が継承したとするが、権次郎の一族こそが本来の惣領家であった可能性も否定できない。

宝治元年出雲大社神官解(2)

 そこで文書の写真版を確認したところ、本来、松田有基を安来庄名田地頭に補任した文書の関係部分の文字を削って書き換えたものだることが確認できた。そこで、他の人がこの点にこれまで疑問を持たなかった点も不思議に感じた。そして、井上氏の説かれる点についても、こちらは正しい文書に、承元2年に国造が地頭となったことに任せて補任すると記されているのに、そのような事実はなかったと否定される点の理解が困難であった。井上氏が承元2年段階で国造と幕府は対立していたとの理解から主張されているのはわかるが、当時の史料をみると、幕府の支援を得て権検校となった内蔵孝元の解任を国造が幕府に働きかけており、単純に「対立」しているのみではないと感じていた。
 この点については2003年の初め頃から、鎌倉前期の出雲大社文書には後に作成された文書がかなりあり、その一方で、年次と発給者の比定が不十分なまま、これまでの分析がなされてきたことに気づいた。具体的には承元4年に比定される将軍源実朝書状(千家文書)が残されていたが、井上氏は、国造の御家人化は建長元年以降であるとの考えに基づき、実朝(官職名と花押のみ)書状を13世紀後半の発給者未詳の文書とされていた。これが実朝書状と最初に気づいたのは『花押かがみ』担当者であり、当時運用が開始されていた史料編纂所の「花押カードデータベース」で知った。
 そこで当時の関係史料を見直し、承元2年に国造が大庭・田尻保地頭に補任されたのは事実であると確信した(本来は、事実でないことを主張するためにこそ十分な論拠が必要)。同年にはライバルである内蔵孝元が国内数カ所の地頭となっているが、孝元と国造の地頭補任は連動したもので、この二人以外にも、将軍実朝と後鳥羽院との協力関係のもと、出雲国国御家人が地頭となったと思った(例としては、横田兵衛尉の没落後、その一族として横田庄庄官から地頭になった三処氏がいる。この点については「横田庄と女性」で述べた)。実朝書状は宛所を欠くが、残されている実朝書状はいずれも、相手からの訴えを受けて、宛所に相当するものを文頭に記しており、宛所がない。この書状も出雲大社神主・氏人等からの訴えに対して出されたもので、当時出雲大社の関係者は幕府御家人となっていたのである。

宝治元年出雲大社神官解について(1)

 この史料との出会いは、大学3年時に島根県関係の史料だということで、益田家什書とともに、中世前期分を史料編纂所で筆写したことである。益田家文書については、石井進氏がゼミ(『中世社会思想』上の一揆契状・置文を読んでいた)の中で福田栄次郎氏が益田氏の惣領の交代を主張された論文を紹介された。助手の服部英雄氏が相良氏についても惣領家の交代があったことについて論文を発表された直後でもあり、この点にも言及され、興味深かった。
 その後、石井氏が1972年の学界回顧(史学雑誌)で、福田氏論文を、網野善彦氏の天皇制支配権の一考察とともに今年度の中世史を代表するものと評価されていたことを知った。鰐淵寺文書については、永原慶二氏が鰐淵寺のある宇賀郷地頭との関係について『日本封建社会論』で言及されていた。
 話を史料に戻すと、次にこの史料に注目したのは日御崎神社について検討していた時であった。それまで、日御崎社検校小野(日置姓)氏は鎌倉幕府御家人として大野庄名田地頭となっていたとされていたが、西国の国御家人ではあまり例がないことであり、それはなぜだろうかと考えていた。とくに藤原姓で安来庄地頭松田氏の文書と関連がありそうだが、1通のみが大野庄で日置有基宛てとなっていた点が不可思議であった。丁度その頃、井上寛司氏が出雲大社国造が鎌倉幕府御家人となるのは建長年間(13世紀半ば)であることを主張されており、その点とも矛盾していたのである。

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