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2012年11月

2012年11月30日 (金)

出雲大社領の成立と国造(3)

 父孝房に代わって国造となった嫡子孝綱の前に死亡した内蔵資忠に代わってライバルとして登場したのは、資忠の子内蔵孝元と国衙在庁官人中原頼辰の子孝高であった。中原氏は秋鹿郡秋鹿郷と伊野郷の郷司をつとめ、国造家と婚姻関係を結んでいた。孝高が「孝」の字を付けているのはその母が国造家出身であるためだろう。内蔵孝元は承元2年には幕府の働きかけにより惣検校の権限を分割して新設された権検校に就くとともに、国内数カ所の地頭に補任されている。国造孝綱もまた幕府に接近し、同年には大庭・田尻保の地頭に補任されるとともに、惣検校となった。この背景には朝廷の後鳥羽上皇と将軍実朝の親密な関係があったが、この体制は孝元による年貢押領によりまもなく崩れ、国造は幕府と国司に訴え、孝元の解任を実現した。ところがこの行為は、惣検校と権検校の補任権を持つ領家に対する越権行為であり、領家は孝綱の惣検校の地位をも解任し、中原孝高を惣検校に補任した。国造孝綱は建保4年(1216)には本家土御門院に出雲氏以外の惣検校・神主職補任を認めないように訴え、認められているが、これが実効性をもったかは不明である。建保7年(1219)1月27日に将軍実朝が暗殺されて間もない3月11日、国造孝綱はその地位を自らの子ではなく、弟政孝に譲り、以後は政孝系が国造の地位を独占していく。
 以上の状況を大きく変えたのは承久の乱であった。後鳥羽上皇による倒幕が失敗したものであるが、出雲国知行国主は後鳥羽側近で乱後処刑された源有雅で、出雲国守護某も上皇方であり、出雲国衙ならびに在庁官人は大きなダメージを受けた。すなわち、乱の前には在庁官人中原氏が郷司であった秋鹿・伊野両郷と内蔵氏が地頭であった国富庄にはいずれも東国御家人が地頭に補任されている。すべて交代させては国衙の運営は困難で有り、一族で乱への関与が弱い人物に交代した例もあったが、それは少数派であった。これに対して後鳥羽の長子土御門院は乱には関わっておらず、出雲大社領ならびに大社、さらには国造家への影響は小さかった。
 乱後も、出雲氏一族の真高や内蔵孝元が惣検校となったことはあったが、一時的であった。そして国造は出雲大社遷宮に関する資料を保持することを強みとして、遷宮を契機に惣検校職を獲得した。従来、出雲国衙に遷宮関係資料は保持されてきたが、承久の乱で有力在庁官人のほとんどが没落したこともあって、資料は失われた。これに対し、国造家は、建久2年に内蔵資忠を訴える際に写した治暦3年から建久元年直前までの遷宮資料を保持していたのである。
 国造にとってさらに追い風となったのは領家藤原家隆(光隆弟)が嘉禎3年(1237)に死亡し、その後継者兼継が延応元年(1239)生まれであったように、領家の実質的不在により、これまでのように惣検校職の頻繁な交代を避け、安定的確保が可能となった。そして、宝治の造営に深く関与した出雲国守護佐々木泰清を通じて幕府に接近することに成功した。

出雲大社領の成立と国造(2)

 この兼忠の時期に、出雲大社領が院領として寄進され、庄園支配と祭祀を担う惣検校職が成立したであろう。しかし、それは惣検校職の上に領家と本家が成立し、領家が惣検校職の補任権を持ったことを意味する。領家は遷宮時の出雲国司藤原光隆である。そのもとで惣検校職に補任されたのは国造兼忠ではなく、建久2年の在庁官人解で批判されている内蔵忠光であった。内蔵氏も出雲氏一族であるが隠岐国衙在庁官人としての側面を有し、崇徳上皇の側近で、崇徳御願寺成勝寺領揖屋社領家と隠岐国司になった日野資憲と関係を持っていた。忠光の名は光隆との関係をうかがわせるが、その子資忠の名からは日野資憲との関係がうかがわれる。
 このように出雲大社領の成立は、出雲大社支配をめぐる競合者が登場するという点で国造家にとって危機をもたらした。しかし、内蔵氏の保護者崇徳上皇は保元の乱で敗北し、讃岐国に配流された。これをチャンスとみた国造兼忠側は内蔵忠光に代わって惣検校職を獲得した。その時点で、一族の協力を得たためであろうか、惣検校職は兼忠弟(建久5年の解では嫡子とするが、これは後に作成されたもの)で治暦3年の国造国経の孫である宗孝が補任されたが、国造職は兼家の子兼経に譲った。
 その後まもなく国造兼経が死亡し、その子石王冠者は幼少であったため、国造職は宗孝のもとに帰ったが、宗孝の後継問題が生じたところで、成長した石王冠者から国造職の要求が出され、国造家内での対立が生じたのであろう。この対立は宗孝嫡子孝房側が勝利したが、その後も再燃し、そのため、建久5年の解状と国司による補任状(国司庁宣)ならびに譲状が作成されたのであろう。
 しかしこれ問題が解決したわけではなく、新たに成立した鎌倉幕府との関係(頼朝への大功)を背景に、内蔵忠光の子資忠が領家から惣検校職に補任された。孝房は建久元年の遷宮時に一旦は惣検校職に復帰したが、翌年にはその地位を失った。建久2年の在庁官人解が作成されたのはそのためであったが、なおも惣検校職は内蔵資忠が保持した。

出雲大社領の成立と国造(1)

 国造出雲氏にとって、12世紀後半の宗孝が転換点となったことを述べた。それまでの「兼」系の人々が現在の斐伊川西岸を寄進したのに対し、斐伊川東岸の出西郷は「孝」系の人々の先祖開発の地であった。この問題について、建久2年と5年(こちらは、国造譲状とともに後に作成されたもの)の在庁官人解から考えてみたい。
 建久2年の2通の在庁官人解によると、治暦3年(1067)の遷宮で、国造国経が御神体を奉懐し、国司から初めて遥堪社が寄進されたことと、国経が国造に補任されたのは永承2年(1047)であった。遷宮後間もない延久4年(1072)には国造は頼兼に交代している。鎌倉初期の国造孝房が、国経を曾祖父と、頼兼の子兼宗を祖父と呼んでいることからすると、兼宗と国経女子との間に生まれたのが宗孝となる。頼兼跡の国造職は嫡子宗房が継承したが、1年で死亡し、且つ、宗房嫡子兼家が幼少であったため、宗房舎弟兼宗が継承した。兼宗の継承を可能とした要因の一つが国経女子を妻としていたことであったのだろう。兼宗は天永3年(1112)の遷宮で御神体を奉懐し、遥堪河手郷を国司から寄進された。前回の遥堪社に対して南部の斐伊川沿いが寄進され、両者を合わせた遥堪郷が成立したのだろう。河手を「阿吾」とする従来の解釈には無理があるので、以上のように解釈する。兼宗跡の国造職は宗房嫡子兼家ではなく、兼宗嫡子の兼忠が継承したが、これには兼家側の不満は大きかったであろう。兼忠は久安元年(1145)の遷宮の際にやはり御神体を奉懐し、鳥屋・武志村を国司から寄進された。この時点までに、遥堪郷と鳥屋・武志村の間に位置する高浜郷は出雲氏の「兼」系の人々が大社に寄進していたのであろう。

2012年11月25日 (日)

片山・横路氏連署状再考

 今日大内氏の支配体制に関する研究発表を聴いたが、以前とりあげた点について考え直してみた。
 広島の横路(よころ)氏から、「横路氏は大家西郷内横道氏の一族ではないか」という点について、横路氏と横道氏は別の国人ではないかとの指摘をいただいた。調べてみると中世石見国府のあった伊甘郷(現浜田市下府)内に「横路」・「片山」の両地名があることに気付かされた。山根家由緒書では両氏を温泉氏の家臣としているが、温泉隆長と両氏の連署状の内容には違いがあり、両氏の連署状は温泉氏の家臣としてではなく、大内氏の邇摩郡支配の担い手の立場から出されたものであると確信した。
  天文10年10月23日片山土佐守繁幸、横路帯刀左衛門吉路連署書状(萩閥周布)はまさに、大内義隆と邇摩郡代問田氏の文書をうけて出されていた。天文20年4月の連署状は、同時に出された温泉隆長書下が、山根氏から申し出のあった温泉津での鋳物商売頭領の地位を認めているのに対して、連署状は真継氏からの石見国鋳物師頭領補任をうけて、邇摩郡補任を邇摩郡鋳物師の事を存分に任せるとしている。天文12年12月の定永書下と連署状の関係も同様であろう。書下をうけて連署状が出されたものではなかろう。
すなわち、連署状が大内氏の邇摩郡代のもとにあるものの立場から出されているのに対し、温泉氏はその当時の邇摩郡内の最有力者として出したものであろう。大内氏の邇摩郡支配に、国府が所在した伊甘郷内の武士が関与しているのは、大内氏が石見国守護であった際に生まれたものであろう。 

2012年11月24日 (土)

絵に描いた餅

 衆議院選挙に向けての動きが加速しているが、日本の政党政治の問題点は?政党らしい政党がないことであろう。一部の政党(この政党にも別の大きな問題がある)を除けば、すべてが野合である。柔軟性があるともいえるが、現在の政治・経済環境では欠点のみが目立っている。
 戦前の日本は二大政党制であったが、両党に明確な対立軸がないという点が欧米と根本的に異なっていた。尾崎行雄と犬養毅という二人の政治家もその時々で政友会と非政友会の両方に属した(非政友会が中心だが)。戦後は対立軸があるといいながら、自民党の最大の特徴は政権与党という点にあった。党員には右からリベラルまで多様な人がいた。当然、自民党綱領の憲法改正・自主憲法の制定に反対の人も。与党で政権を担当したいという人材が自民党に集まった。一方、野党にはリベラルから左の人材が集まった。リベラルは中道で、それはどこでもみられたという意見があろうが、リベラルと右の違いは明確だが、リベラルと左にはかなりの重なりがみられる。右は自民党で明確だが、リベラルは政治家に限っては与党が多数であったが、野党に行った人と非政治家でそれほど考えが異なるわけではない。
  現在の日本の政治に必要なものは、政権与党(当選)の呪縛から解放されることであろう。政治家の多くが目前の選挙での当選を第一に考え、自らの思想信条を確認する作業はおざなりになっている。それを変えるとすれば、投票する側が候補者に政党公約では無く自分の公約の提示(自分の言葉で語ること)を求め、それができない候補者には投票しないことであろう。今回の民主・自民両党の公約は、それぞれの党首の個人的見解(それも信念と選挙目当てが混在している)でしかないものが党の公約となっており、信頼性が低い。本当なら、両党首こそ党を出て新党を結成すべきである。
 いくら投票してもそれが当選・多数派にならないと無意味であると思うことは思考停止でる。政治家を変え、真の政界再編を実現するのはきちんとした投票行動の積み重ねしかない。その意味で残念なのはマスメディアによる情報提供が極めて不十分なことであるが、それを言っては何も始まらない。日本経済の活性化は当面困難であることを知りながら、そしてこの点について民主・自民の違いはあまりないのに、雇用・生活が争点であるとアンケートに回答することも不思議である。大切な問題だが、争点ではない。今、問題なのは原発をどうかんがえるかで、ここで誤るととりかえしのつかないこととなる。どちらを選択したほうが良いかについての明確な答えはないが、自分なりの価値観と論拠で選ぶしかない。それが違っていた場合はきちんと総括して反省するしかない。「安全性の確保を前提として再稼働を認める」との意見があるが、その人が「安全性の確保」に自分なりの見通しがないのにそう発言したとしたら思考停止、あるいは「絵に描いた餅」に外ならない。まずは「安全性の確保」が可能かについて考え、論拠(実証ではない)を示した上で主張すべきである。「絵に描いた餅」を食べさせられる側の身になるべきである。 
 ここまで書いて思ったのは、本ブログは歴史を題材に「絵に描いた餅」(当初は「思考停止」との題の予定)はやめましょうと訴えているのだということを自覚したことである。

2012年11月17日 (土)

資料の声を聴く?4

 関係史料を失った清水寺側の史料として、年未詳(永禄~天正年間)の梶井宮令旨(県立図書館謄写本)がある。清水寺側が三問三答に勝利したが、「今度再乱」で証文を失ったことに不安を述べたのに対して梶井宮がすでに決着したことで問題にならないと述べている。「先皇様御代」「再乱」との表現から、後奈良天皇の後継者となった正親町天皇の時代の文書で、「再乱」とは尼子勝久による再興戦を示していよう(毛利氏による尼子氏攻めの可能性あり)。
 これ(清水寺勝訴)を裏付ける状況として、尼子氏と鰐淵寺の関係があげられる。尼子氏から鰐淵寺への発給文書が、訴訟が継続していた弘治3年(1557)4月23日付けの尼子氏奉行人奉書を最後に、しばらくみられなくなることである。これに続くのは永禄4年(1561)9月10日付けの尼子氏奉行人奉書である。出雲大社、日御崎神社、神魂神社などには尼子氏から所領寄進などの文書が発給されているが、尼子氏と鰐淵寺の関係は疎遠となっている。
 
 
 
 
 朝廷の評価についても問題がある。尼子氏の裁定に不満を持って朝廷に訴えたのは確かだが、朝廷が清水寺に軍配をあげると、鰐淵寺とそれを支持する勢力は、朝廷の判断を無視して、自ら述べる根拠に基づき、鰐淵寺を左座にせよと述べており、朝廷の権威などだれも認めていないのである。(補足)尼子氏側も自らの法廷と同様の事実審理がなされれば、清水寺側が勝訴することは予想していたであろう。尼子氏側が清水寺を支持して従来の大社と鰐淵寺を中心とする体制を変えようとしていたかについては、なお不明である。

資料の声を聴く?3

H:天文24年 2月の法事で、再び鰐淵寺が抗議するが、尼子氏は清水寺の左座を認める。これに対して鰐淵寺は朝廷に訴えて鰐淵寺左座の綸旨を得る。
I:弘治2年  4月に尼子氏は、両者とも綸旨を有するので、再度三問三答による裁判を朝廷で行うことを求め、両者が上洛して5月~6月にかけて裁判が行われる。6月末に清水寺左座の綸旨が出されたが、鰐淵寺側は支援勢力を総動員して、朝廷に働きかけるとともに、尼子氏に対しても誤った綸旨に従わず、鰐淵寺左座で法事を行うことを求める。朝廷は11月になって、6月の裁許を覆し、鰐淵寺左座の綸旨を出す。
J:弘治3年 春(3月?)に、再々度裁許は覆り、清水寺左座の綸旨が出される。5月になりその情報を得た鰐淵寺支持勢力は、史料を取り寄せた上で、関係者に聴いたところ、その綸旨については関知していないとの回答を得、鰐淵寺に伝えるとともに、尼子氏に昨年11月の綸旨に基づき法事を行うことを求める。
  (中略) これまで両寺の座次相論は弘治2年11年に鰐淵寺の勝利で終わったとされるが、佐伯氏は相論が弘治3年にも再提起された可能性があるとされた。実際には可能性どころが、弘治2年11月に出された鰐淵寺左座の逆転の綸旨が弘治3年春には再度否定され、清水寺左座の綸旨が出された。5月の時点でそれに気付いた中央の鰐淵寺支持勢力は、清水寺を支援する梶井宮(当時の天台座主であった)側の史料を取り寄せ確認している。それに対するコメントは、綸旨発給の関係者に確認したが、このような綸旨が出たことは承知していないというものであった。
 これと同様なコメントは、天文24年5月の鰐淵寺左座の綸旨に対して、清水寺側も述べていた。すなわち、綸旨をうけて比叡山の三谷の連署状が出たことについて確認したところ、三谷の総意として連署状を出したことはないとのことであった。朝廷ならびに比叡山関係者も鰐淵寺支持者と清水寺支持者で分裂していたのである。

弘治3年春に清水寺へ綸旨(史料の上では女房奉書が出されたところまで)が出されたことが確認できるが、この後に鰐淵寺側が再逆転したならば綸旨が残されているはずである。それがないことは、出されなかったことを意味する。

資料の声を聴く?2

 最初に、この訴訟に関する状況について各論者の事実認定がまちまちであるので、事実と考えられるものを以下にまとめる。
A:永正5年 尼子経久が出雲(杵築)大社造営を行うことを宣言。
B:永正6年 尼子経久が鰐淵寺に対して掟を定める。
C:大永2年 尼子経久が杵築で国内の僧1100人を動員して、三万部経読経を行う(1回目)。
D:享禄3年 尼子経久が杵築で3度目の三万部経読経を行うが、直後に経久の子興久を中心とする反経久の反乱が起こる。
E:天文6年 清水寺が尼子氏の主催する読経で左座であるとの綸旨が出される。
F:天文14年 尼子氏主催の読経で、清水寺の左座に対して鰐淵寺が抗議。尼子氏は出陣が迫っており、読経そのものは、緊急の措置として、清水寺が後座の左座、鰐淵寺が後座の右座という非公式な形で行われる。
G:天文19年 清水寺に対して比叡山三門跡の一つ梶井宮からその由緒を認める令旨がだされる。

 ここまでが今回の相論の前史であるが、井上氏と佐伯氏は天文6年に清水寺が得た綸旨は偽文書であるとしてその事実を認められない。ところが、今回の三問三答では天文6年の綸旨は正しいものとして認められ、それ以前の大社での読経で鰐淵寺が左座であったにしても、より新しい綸旨の方が優先するとされている。確かに現在残る清水寺への綸旨は形式・内容ともに問題があるが、一方では史料が焼失したために作成されたことが明らかであり、これのみの理由で否定するのは合理性に欠けるものである。実際に、最近井上氏のもとに、研究者から天文6年に清水寺への綸旨を出したことを記した史料を発見したとの連絡が入ったということで、天文6年の綸旨が正しいものであることは確定的である。

資料の声を聴く?1

 前のブログの続編(といってもまだ頭の中でも完成しておらず、考えながら書く予定)を述べる予定であったが、鰐淵寺と清水寺の問題についての論文の最初の部分を掲載したい。この論文は勤務する高校の研究紀要に「続歴史の実像と虚像-近隣の例から」の中の一部として掲載するため執筆していたが、年度末の時間的制約と紙幅の問題から、割愛したものである。今想えば、やや無理しても完成して掲載しておいた方がよかったか。後日、正式な形で公開したいが、掲載を断念した段階でストップしており、なお未完成な部分があり、手直しをする可能性がある。
  今日、出雲古代歴史博物館で開催中の「戦国大名尼子氏の興亡」の図録を購入し、読む機会があった。関係史料の写真が多数掲載されており、その意味では購入する価値は十二分にあるが、その記載内容の内、鰐淵寺と清水寺に関する一文をとり上げる。具体的内容については論文を掲載しつつ述べる。

        鰐淵寺と清水寺の座次相論から何を読み取るか。

 弘治2年(1556)5月から6月にかけて出雲国の有力天台宗寺院(比叡山延暦寺末寺)である鰐淵寺と清水寺の間で、朝廷を舞台に裁判が行われた。出雲国の戦国大名尼子氏の主催する読経において、いずれが左座を占めるかが問われたのである。これについては、①『島根県史』(野津左馬之助氏)、②『鰐淵寺文書の研究』(曽根研三氏)、③『浮浪山鰐淵寺』(井上寛司氏)などで分析がされ、近年では④佐伯徳哉氏の報告があるが、いずれも鰐淵寺が勝利(左座)したと評価されてきた。従来の研究は、清水寺側の残された史料の少なさと、記憶に基づき復元された史料の形式上の疑わしさにとらわれ、数多い無年号文書の年次比定が不十分なままに結論を出しているように思われる。結果論ではあるが先入観を以て文書を読んでしまったことになる。

2012年11月15日 (木)

寺社名を付した所領1

 出雲国風土記に多くの神社名が記されていることはよく知られている。その多さが出雲国の特徴であるとする。とはいえ、郡による差があるのも確かで、単純に云えば意宇郡57(38・19)、島根郡49(14・35)、秋鹿郡26(11・15)、楯縫郡28(9・19)、出雲郡122(58・64)、神門郡37(25・12)、飯石郡21(5・16)、仁多郡10(2・8)、大原郡30(13・17)となる。各郡の前の数字が神祇官から認められたもの、後者はそれ以外である。これに面積を勘案すれば、出雲郡がダントツで多く、山間部や出雲国府と離れた地域には少ない。風土記に記された神社が政府から認められた神社であることも影響していよう。
 これに対して寺院はこれを建立した個人名が記されており、神社との性格の違いが明確で、意宇郡4、島根郡0、秋鹿郡0、楯縫郡1、出雲郡1、神門郡2、飯石郡0、仁多郡0、大原郡3となる。建立者は郡司ならびにその関係者である。これに聖武天皇により8世紀半ばに建立された国分寺・国分尼寺が加わることになる。全体を無理矢理まとめると、宗教、とりわけ神社勢力の中心である西部と世俗的・政治的権力の中心である東部となろうか。
 本題に入ると、文永8年の出雲国内の所領の中に寺社名を記すものがある。能義郡の静雲寺、意宇郡の日吉末社・平浜別宮、島根郡の法吉社・春日末社・北野末社・、島根・秋鹿両郡の佐陀社、秋鹿郡の成相寺、大原郡の大竹寺・白上八幡宮・仁和寺、仁多郡の布勢社・比知新宮、飯石郡の日倉別宮、楯縫郡の玖潭社、出雲郡の阿吾者・神立社・宇屋新宮、神門郡の新松八幡、知伊社、常楽寺・大田別宮である。基本的には庄園として扱われている。意宇郡の揖屋荘も「揖屋社」と呼ばれ、飯石郡の飯石郷も「飯石社」と呼ばれたことがあった。後者の場合は公領に戻されたのであろう。佐陀社を除けば、小規模なものが多い。神社・寺社周辺の地が在庁官人等によって寄進されたのであろう。

2012年11月14日 (水)

偶然か必然か2

 そして唯一定期購読(といってもあまり熱心な読者とはいえない)している雑誌の12月号で堀川恵子さんの「封印された鑑定記録が問いかけたこと」に接した。堀川さんは10月に放送されたETV特集「永山則夫 100時間の告白」の製作者だった。永山事件については関心があったが、最近読書もせず世間の情報に疎い自分は雑誌で初めて知った。再放送もすでに終わっていたが、その番組を視聴でき、多数の視聴者がネット上に感想をアップしていた。途中では何度か「視聴しなければ‥‥」とも思ったが、なんとか最後まで視た。
 『汝を』は近年の光市における事件の被告と対比される被告を養子にした牧師さんを描いた本であるが、ネット上のある感想では、これを読んでも「死刑廃止論」へ共鳴することはできなかったと記されていた。被告は何度か窃盗と刑務所への入所を繰り返していたが、その一つに奈良少年刑務所があり、そこで寮さんのような人に出会っていればと思った。1997年の発刊でなお在庫があったが、最近ではめずらしく一気に読了した。すると、牧師さん自身による『死刑囚の母となって-この病は死に至らず-』が2009年に刊行されていたことを知った。次はこの本を読んでみようと思い、念のため県立図書館で検索してみるがヒットせず、注文した。

偶然か必然か1

 ながらくブロクの更新をできていないが、「偶然と必然」という言葉を思い起こした。 奈良少年刑務所で「社会性涵養プログラム」の講師つとめている寮美千子さんの講演を聴いた。寮さんは講演の中で死刑廃止についても述べられていた。2007年からこの取り組みを行う中でうまれた主張のようだ。
 一方、以前読んだノンフィクション作家松下竜一さん(2004年没)について記憶をだどっていたら『汝を子に迎えん-人を殺めし汝なれど-』という本にたどりついた。この本については松下さんの作品として知ってはいたが、これまで読む機会がなかった。何年か前、『松下竜一 その仕事』が刊行された際に(1998~2002、全30巻、2008~2009年には『未刊行著作集』全5巻)、再度まとめて読んでみたいとおもいながら時間は過ぎていった。松下さんを(正確にはその作品を)知ったのはテレビドラマ『豆腐屋の四季』(1969)であった。緒形拳と作家の父と女優の母を持つ川口晶が主役であった。とりあえず、寮さんの『空が青いから白をえらんだのです-奈良少年刑務所詩集-』とともに『汝を』を注文し、入手した。

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