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2012年8月

2012年8月19日 (日)

紛失状案文中の外題安堵3

 次に、外題安堵の具体的時期を比定し、紛失状案文の中での位置づけを明確にしたい。従来から外題安堵は[十一]の兼季解状に対するものとされてきたが、それならなぜ[八]の末尾にもあるのかが問題となる。文の内容は兼経(兼高)の申請に対して、兼経は頼朝下文を与えられており、且つ知行に相違なしとして兼経の領知を安堵している。
 署判者のうち「左衛門尉平」は梶原景時の嫡子景季、民部丞藤原は二階堂行光、前大和守源朝臣は源光行に比定でき、この組み合わせが可能なのは梶原景季が父景時とともに正治二年(一二〇〇)一月に討伐されるているため、頼家が将軍となった建久一〇年と正治二年にしか比定できない。なお、[八]には三人とも「在判」とあるが、[十一]には左衛門尉平のみ「在判」がない。
 以上のように、「兼経」の名と署判者からすると、この外題安堵は二代将軍頼家の執政開始時期に益田兼経(高)に対して行われたもので、紛失状案文の中では独立した一文書として扱うべきものである。これに対して[十一]の解は、兼高の子兼季が三代将軍実朝の執政開始にあたり、当知行の安堵を求めたものである。以上の点に関係するのが、一四世紀後半に益田氏惣領となった兼見がその置文の冒頭で、「祥兼本領等者、先祖兼栄・兼高父子元暦以来、帯三代将軍家安堵御下文所領也」と述べていることである。

紛失状案文中の外題安堵2

 紛失状案文中の外題安堵については、福田氏により時期的な問題点が指摘され、文書そのものの信憑性が疑われた根拠となった。確かにそれまでの下知状による安堵が、文書への「外題安堵」に変わるのは一四世紀初めであるが、幕府成立時の文書を確認すると、義経・頼朝・北条時政が解状に対して「外題安堵」を行っていることが注目される。
<史料1>源義経外題安堵(高野山文書四一三)
如解状者、尤不便也、早停止無道狼藉、可令致沙汰也、若又有由緒、可言上子細之状如件
     (花押)
これは寿永三年(一八八四)三月日金剛峯山寺僧徒解に対する安堵である。これを鎌倉後期の外題安堵を比較すると、前者が「如解状者、件‥‥之状如件」(義経・頼朝の直状形式)ないしは「件‥‥之状、依鎌倉殿仰下知如件」(時政の下知状形式)とあるのが一般的であるのに対し、後者は「任此状‥‥依仰下知如件」と定型的で、且つ、前者は年月日なしに署判しているが、後者は年月日を記した上で日下別行に署判を加えるという形をとっている。
 このように外題安堵の形式は、鎌倉幕府成立期の外題安堵として決して異例のものではない。また、当時、外題を求める側は「‥‥解 申進 申文」と申請している。[十一]の外題に続く兼季解状は「石見国藤原兼季 申請申文事」と記しており、この時期に外題安堵を望む人々の解状と同様の形式となっている。外題安堵のうち一本末尾は、本文から改行して署判しており、鎌倉後期のそれから年月日をはずした形となっている。もう一本は『益田家文書』の翻刻では不明確となっているが、掲載された写真をみれば、「如件」と結んだその下から、改行することなく三名が署判をしている。また前者が頼朝を「故大将殿」と呼ぶのに対して後者が「故大将大殿」と記すのは独特である。福田氏が後期の外題安堵にのみ言及してこの文書群を要検討としたのは早計すぎたきらいがある。当時の文書が失われた中で復原しようとしたものである。

2012年8月 9日 (木)

良円再考3

 この対立の中で、兼定領である福光郷のみは聖阿弥陀仏の関心の外にあった。それは「周布氏系図」が記すように、福光郷が祖父兼高から相続したからであろうか。三隅兼信・福屋兼廣・周布兼定の所領が確定したのは先に述べたように嘉禄3年(1227)のことであった。この3人に惣領兼時を加えた4人は1190年代の生まれと推定される。これに対して、正応元年(1288)まで生きた兼正は10才以上年少であったはずである。いずれにせよ正治年間には三隅兼信、福屋兼廣、周布兼定は10才に満たない年齢であり、この時点で兼定のみが譲られるという可能性は少ないのではないか。
 この点と、周布氏領福光郷と福屋氏領日和郷・大家西郷が兼高・兼季領にみえないとの整合性を図ると、福光兼継の例と同じく、周布兼定と福屋兼廣が養子に入る形で福光郷と日和郷・大家西郷を継承することになっていたと考えられる。ところが、益田兼季の急死(貞応3年、この当時50才前か)により所領の配分がなされた結果、周布兼定と福屋兼廣は中心的所領である周布郷と阿刀郷に入り、それぞれ周布氏と福屋氏を名乗ったのではないか。「福屋氏略系」と「周布・御神本系図」が記す「日和郷福屋」はなお検討の余地がある。周布兼定と福屋兼廣が当初拠点とした所領はその養子先の所領ではなかったか。ここで再度、非益田氏系御神本氏の存在を想定することとなる。
 良円が相続した福屋くらみつ名岩地村と大家西郷津淵村は、それぞれ父(兼廣)と母から継承したものであった。そして2代目の福屋氏惣領兼仲は嫡子兼親に阿刀郷・大井原を譲り、大家西郷内の地を庶子(兼綱に福田・横道、兼保には井田を)に譲った。「福屋氏畧系」には兼保が大屋(大家)地頭となったのを嘉元2年(1304)とする。

良円再考2

 同様に、福光郷についても兼高・兼季領にはみえず、これを打開するため井上寛司氏は、承久の乱で獲得したとの仮説を示された。「周布氏系図」には、正治年間に祖父兼恒(高)が孫である兼定に譲ったことを記す。一方、貞応2年(1223)6月20日に幕府は兼定の福光郷支配を安堵しているが、恩賞として与えられたものではなく、当知行安堵である。翌貞応3年に父兼季が死亡すると、幕府は同年6月2日に惣領兼時以下の関係者の相続を安堵している。ただ、嘉禄3年(1227)12月20日に三隅兼信領が安堵されており(三隅氏畧系)、具体的配分が確定したのは嘉禄3年であった。同年10月、兼時は弟兼定に周布郷・安冨名・鳥居郷を譲り(新出周布家文書)、兼定が幕府から福光郷を含めた所領の安堵を得たのは安貞2年(1228)2月6日だった(萩閥周布)。
 正治年中には三隅兼信も三隅城へ入ったとの記載がある(三隅氏略系)が、福屋兼廣についてはそれに相当する記載がない。ただ、兼廣は当初日和郷福屋に居住し福屋氏を称したが、後に阿刀郷音明に遷ったと記す。この日和郷も兼高・兼季領にはみえない。そして、福屋兼廣は庶子兼統に日和郷を、兼世に阿部郷を譲っている(福屋氏略系)。従来知られていた「群書類従本」などでは、弟2人を某(藤次・藤五)と記すのみであったが、具体的情報が得られたことになる。
 周布兼定領の相続問題については、すでに述べたところだが、益田氏惣領兼時の母聖阿弥陀仏は男子のいない兼定の跡に兼時次子松房丸(後の兼久)を入れようとしたが、兼定の後添慶阿弥陀仏と弟で後継とされた兼定弟兼正(当初は兼明)の主張が認められ、兼定領の内、周布郷・福光郷・鳥居郷は兼正が、安富郷は慶阿弥陀仏の女子幸寿(兼定の子ではない)が相続することとなった。一族内の激しい対立を知らされたが、その背景には兼時と兼定が聖阿弥陀仏の子であったのに対して、その弟の丸毛兼忠と兼正は別の女性が母親であった。ただ「周布氏系図」によると幸寿と兼久が結婚するする形で、修復がはかられている。一族の融和を重視したのであろう

永安女房良円再考1

 石見益田(御神本)氏一族の女性としては、三隅兼信の娘阿忍の活動が知られるが、この良円についても重要な役割を果たしている。ところが、阿忍は三隅氏系図に記されているが、良円については福屋氏の出身とされながら、系図には明記されていない。現在残る系図からすれば良円のケースが普通で、阿忍が特別なのだが‥‥。
 この良円が福屋氏の出身である根拠としては、その孫で吉川氏を養子に迎えた良海の系統が、福屋氏領福屋くらみつ名内岩地村と大家西郷津淵村を相伝していることがあげられる。この良円については、石見吉川氏の研究をしている田村紘一氏の指摘により福屋兼仲の娘であるとされてきた。ところが、福屋兼仲の子で周布兼正女子の養子となった福光兼継と比べて年齢差が大きく、福屋氏初代兼廣の娘と考えたほうが整合性がある。
 兼継は永仁3年(1295)に福光郷地頭として登場する。「周布氏系図」によると延文4年(1359)に死亡しており、文永末から建治年間(1270年代後半)の生まれであろう。一方、良円は弘安5年(1282)段階で、孫(まごやさ)が誕生しており、仁治3年(1242)に父三隅兼信から所領を譲られた「乙法師」(良円の夫永安兼祐)とほぼ同時期の生まれであろう。
 この良円は福屋くらみつ名内岩地村と大家西郷内津淵を譲られていた。良円の兄弟である福屋兼仲の庶子に大家西郷内横道・福田を支配する兼綱と同井田を支配する兼保がいた。「福屋氏畧系」では兼保が嘉元2年(1304)に大屋(大家)地頭となったと記す。ここからわかるのは、福屋兼廣の子、孫が大家西郷内の所領を譲られていることである。ところが、問題なのは兼廣の父御神本兼高や兄益田兼季の所領には大家西郷はみえないのである。
 ブログ内で相互に内容が重複・矛盾するものもあり、これを手がかりに整理していきたい。
 
 

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